[336]お江戸正座20
タイトル:お江戸正座20
掲載日:2025/02/03
著者:虹海 美野
あらすじ:
おきぬは、江戸の札差で奉公するため郷から出て来た。郷でお母ちゃんから所作や正座をしつけられて育った。
札差の屋敷や膳が嬉しいおきぬだが、真面目な仕事ぶりと所作や正座から、先輩女中に褒められ、旦那さまやご新造さんに可愛がられる。
そうして、今度嫁いで来る高級料亭の娘、おつた付きの女中になるようご新造さんから仰せつかる。
ある日おきぬはおつたの外出にお供し、菓子屋の座敷に一緒に上がるよう言われ戸惑うが……。
本文
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1
おきぬは、口入屋の紹介で、江戸の札差の元で女中奉公が決まった。おきぬという名は、江戸からそう遠くはない郷の産物からであるが、たまに大店の娘でもないのに絹とは、と言われることもある。
とにもかくにも、おきぬは札差の元への奉公が決まった。
手習いを終え、今年で十三になる年である。
ちょうど、この札差の家に勤めていた女中が一人、ご新造さんが世話した縁談がまとまり、嫁ぐことが決まったのだと言う。おきぬはその後釜というわけだが、つい最近まで手習いに家の手伝いをしていた身である。お裁縫ができること、手習いで簡単な読み書き、算術ができることも今回の奉公の決め手になった。
口入屋では、札差のご新造さんは大切に育てられ、そこから家族、奉公人に常に目を配る役割を担っているお人だから、旦那さまはもちろん、ご新造さんの前でも礼儀正しくし、気を抜かぬようにと言い遣った。
口入屋はおきぬが膝を揃えて座っている様子を見て、「行儀はよさそうな子だね」と言った。
江戸にご奉公に出る、というのは、おきぬの周囲では男の子も女の子も、それほど珍しいことではなかったこともあってか、おきぬのお母ちゃんは、おきぬが小さな頃より箸の上げ下ろしから、しゃがむ時に着物の裾と袖を気遣うことなんかを教えてくれた。
木綿の古着であるから、お嬢様のように長い裾やひらりとした袖はないのに、と時折揶揄する者もいたが、お母ちゃんは所作は早いうちから身に着けて悪いことはないから、といつも言った。
そうして、正座もきちんとするようにしつけてくれた。
背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、着物は尻の下に敷き、脇は締めるか軽く開く程度、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士向が向かい合うように、足の親指同士が離れぬように。
言われればわかることだが、これを気を抜かずにやるのは、一日、二日ではなかなかに難しかった。
おきぬの家は畑の広がる地域だったから、家はお江戸の長屋よりは広かった。
しかし、札差の家というのは、やはり造りが豪華である。
おきぬの家にはない床の間、違い棚、明り取りの窓、きれいに手入れされた庭。
襖の絵も美しい。
お店の方はぴしり、とした緊張感が漂い、帳場の番頭さんなんかは、郷の怖いおじさんのような威勢は感じられぬが、周囲に張り巡らす『気』のようなものがあって、言われるまでもなく近づいてはいけないと感じた。
手代のお仕着せの羽織も何やら立派で、着ているものだけでなく、やはり立ち振る舞いもそれに伴っている。お客が来れば、さっと出て来て、膝を揃える。
背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、着物は尻の下に敷き、笑顔で「御用でしょうか」と尋ねる。
おきぬが連れて行かれたのは、女中部屋で、そこではおきぬのお仕着せの着物に布団が用意されており、先輩の女中とともに、そこで寝起きする。
次に向かったのが炊事場である。
まず、おきぬの仕事は朝の水汲みからである。
料理については、おいおい、ほかの女中から教わるようにと、女中頭に言われた。間違っても、勝手にお菜の味付けなどしないこと、ちゃんとこうした家には受け継がれた味がある。ご新造さんが来て、味を確かめるからね、と言う。
はい、精進いたします、よろしくお願いします、と店を案内してくれた女中頭にお辞儀をすると、ちょいとおきぬを見つめ、それから「ここからは働きぶりで示しな」と言われた。その通りだと思ったので、再度精進いたしますと答えた。
2
翌朝、ふっとおきぬは目が覚めた。
おきぬは自分の生まれ育った家でしか寝起きしたことがなく、江戸に出るまでの道中も宿が必要なほど遠い道のりでもなかったから、昨日目を覚ましたのは自分の家で、翌日が奉公先の札差の家である。来る前はきちんとご奉公先で寝起きできるかと心配だったが、やはり札差のお屋敷というのは建付けがよろしいのか、隙間風も入らぬし、布団も一人で一重ね使わせてもらえる。郷では小さなきょうだいと一緒だったから、寝相が悪くて夜目が覚めることがあった。
ぐっすりと眠れた女中の部屋で、おきぬはそっと使った布団を畳んで、昨日渡されたお仕着せに袖を通すと、台所を出て、井戸へ水を汲みに行った。
そうして桶を提げて戻って来ると、ややおきぬの父よりも年配で、きれいに結った髷に銀が混ざった男の人が庭に出ていた。
「おや、お前さんは……」
もしや、旦那さま?
おきぬは桶を置き、「こちらに勤めさせていただきます、きぬと申します。精いっぱいご奉公いたします」と頭を下げた。急だったので、襷がけを解く暇はなかったが、おきぬなりに心を込めた。
「おきぬか……。まあ、そう肩に力を入れず、気楽にやりなさいな」
「はい」と頭を下げたまま言うと、「最近花の手入れが楽しくてね。以前はうちの娘がここで竹刀を振っていたから、おちおち庭をうろつけなかったんだが。おきぬはどんな花が好きかね。桜や菊、牡丹」
「私は、桜や菊、牡丹も美しいと思いますが、一番は菫でしょうか……。小さいですが色鮮やかで、茎がとても強い花です。郷ではよく咲いているのを見ました」
「そうか……」と旦那さまは言い、「菫の咲く時期になったら、摘んでらっしゃい。うちにはよい花器があるから、飾りましょう」と言い、母屋に入って行った。
菫の時期まで、まだ遠い……。
ずいぶんと先のことをおっしゃる、とおきぬは思った。
おきぬの気立てを見込み、長くここで面倒みようという旦那の意図まで察するにはおきぬは幼かった。
「おや、もう起きたのかい。昨日、いびきをかいて寝ていたから、こりゃ、明日は叩き起こしても寝てるだろうと思っていたのに」と、女中頭がやって来た。
そうして、水汲みを始めていたことを褒めてくれ、そこから再度水汲みに行くように言い、それが済むと、朝餉の支度だ。
ご新造さんが来てあいさつし、汁物の味を見てもらう様子を、おきぬは手を動かしながら見ていた。
朝餉をいただくのは、主人家族とは別の板の間であるが、箱膳で白米の粥、香のもの、味噌汁が出た。江戸では白いごはんというのは知っていたが、やはり嬉しい。
背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度、着物は尻の下に敷き、脇は締めるか軽く開くくらい、足の親指同士が離れぬようにする。
いただきます、と手を合わせ、箸を取る。
飯のおいしさに夢中になり、ああ、これをきょうだいにも、家族にも、と胸がいっぱいになる。まだ一日目だけれど、藪入りになったら郷へ帰って話したいことがたくさんだ。
「きぬ、と言ったね」と頭の上から声がする。
はっとすると、ご新造さんである。
先ほどは慌ただしく、ご新造さんは味の確認をするとすぐに台所を出たので、呼び止めてあいさつするのも失礼だと、控えた。
箸を置き、膝を揃えてご新造さんに向き直り、手をついて「お世話になります。きぬと申します。精いっぱいご奉公いたします」とあいさつした。
「まあ、礼儀正しい……。郷のお母さんがよくしつけてくれたのねえ」
「ありがとうございます」
板の目を見つめたまま、おきぬは言った。
すると、その視線の先で、淡い藤色の反物の裾と袖に手を添え、膝が揃えられる。
そうして、おきぬの頭を優しく撫でた。
「かわいらしい。郷のお母さんも手放すのが辛かったでしょう」
その言葉に、ふいに喉元が熱くなる。
「こら、そんな郷が恋しくなることを……」
向こうから旦那さまの声がする。
「すまんな。きぬ。うちの娘が嫁いで、まだ寂しくてな」
「あら、あんたがこの子がおりつに少し似ててかわいいと、朝言いなさったんでしょう」
おきぬは手をついたまま、いえ、そんな恐れ多いですと首を横に振った。
「さあさ、たくさんおあがりね」
ご新造さんはそう言うと立ち上がり、板の間を出て行った。
まだ緊張はほぐれぬが、すぐに仕事が始まる。
おきぬは再び膳を前に箸を取ると、朝餉を平らげた。
3
江戸に来て数日が経ち、だんだんと主の家の様子がわかってきた。
大抵教えてくれるのは、先輩の女中で、たまに手代なんかもそれに加わる。
主一家は、旦那さんにご新造さん、それに長男の良太さん、次男の良次さん、そうして末子のおりつさんという娘さんだが、おりつさんは札差の元へ嫁いだのだそうだ。おりつさんは、良太さん、良次さんよりも相撲や剣術がお好きな方で、大層家は賑やかだったという。そのおりつさんが嫁いだもんだから、やはり旦那さんもご新造さんも寂しいのだろう、と皆口を揃える。
そうですか、と雑巾がけをしながら頷くと、だけど、じきに賑やかになるよ、と先輩の女中が言う。
良太さんの祝言がもうすぐだ、と手代が引き継ぐ。
お相手は大きな料亭の娘さんだそうだ。
この江戸に生まれて、しかも大きな料亭のお嬢さんに生まれなさったとは、よほど前世でよい行いをされたのだろうか……。
そう言うと、二人はまあ、確かにねと顔を見合わせて笑う。
あんな大きな店の娘で、きれいな着物を着られて、お稽古通い、ここらの大店の旦那や洒落者なんかをうならせる料理が毎日の膳に出る暮らしなんて、極楽だろうね。
あんた、そんなこと言ってると、じゃあ、そうしたらようござんしょって、この店から放り出されるよ。
それは困るな、いや、この店にご奉公できたのは、本当に運がいいよ。
旦那さまも、ご新造さんもいい人だし、へんに吝嗇(りんしょく)じゃないから、私ら奉公人も毎日笑って仕事ができるって話でさ。
ここでこんなこと言っても、番頭も旦那さまも聞いちゃいないよ。
そうか。
そうして話を戻し、あんたあの料亭を知らないかい? と店について尋ねられても、おきぬは江戸に来てまだ数日である。
首を傾げると、あんたここへ来る時に、橋を渡ってちょっと歩いたところに大きな料亭を見なかったかい? と重ねて訊かれる。
そういえば、とおきぬは思い出す。
何やら立派な構えのお店があった。口入屋のおかみさんが「ここは金持ち御用達の料亭だよ。一代で小さな貸店舗からここまで大きな店にしたんだから、大したもんだね」と言っていた。
それを伝えると、「なんだ、よくわかっているじゃあないか」と二人は言った。
まあ、私らがあそこの客になることはないだろうが……、と続ける。
その料亭のお嬢さんのおつたさんが、この店の若旦那、良太さんと一緒になるのだそうだ。間もなく、良太さんは店を継ぎ、おつたさん、というお嬢さんが、ここの新たなご新造さんになる。
「それは、楽しみですねえ」とおきぬが二人を見上げた。
すると、二人は顔を見合わせ、暫し黙る。
「あんたねえ、一人で江戸に出て来てご奉公始めたばっかりだってえのに、呑気というか、めでたいというか……」
「まあ、おきぬはもともとの気立てがいいし、仕事もよくやっている。旦那さまにもご新造さんにもかわいがられているからなあ」
頷き合う二人は、「おきぬは、そのままでいるのがいいさ」と訳知り顔で言い、それぞれの仕事に戻った。
4
おきぬは知らなかったが、札差の若旦那と一緒になるご新造さんというのは、お互いの親が前もって決めておくことが多いらしい。幼い頃より決まっている場合もあって、大概は、札差の家同士の縁談だと言う。
なんでも、ここの次男の良次さんの縁談も決まったのだが、やはりお相手は、事前に両家で話し合いが持たれた後、当人にはそう伝えず、札差の旦那の集まる茶の湯の席で顔を合わせたのだとか。だから、良次さんは、そのお相手、札差の一人娘のおかやさんの元へじきに婿入りするのだそうだ。
一方の若旦那の良太さんはと言うと、これが互いに想い合ってのご縁だとか。
まあ、おきぬの家の方でも、親同士が決めた縁談は多い。
それが、こんな大きな札差のお家ともなれば、当人たちだけで一緒になるのは難しいのかも知れない。
だが、お相手があの大きな料亭のお嬢さん。
品あり教育も行き届いているし、家同士のつり合いも取れているときたから、縁談はあっさりまとまったと聞く。
え、じゃあ、良次さんは自身の意に沿わない方と一緒になられるのですか、と先輩の女中に訊いてみると、それがお互いに特別に思うところがあって、お相手のおちかさんは見合いのことを知らずに良次さんに引かれたらしいんだよ、と教えてくれた。
「そんなことがあるんですかね」と、おきぬは首を傾げる。
「どうだろうね」と年上の女中はやはり首を傾げる。
「ここで真面目にご奉公すれば、のちのち、ご新造さんが見合いの世話をしてくださるんだよ。奉公人を預かるお店のご新造さんていうのは、ただ着飾っているだけじゃあなくて、お店のことを支えるから、結構大役だよね。私は言われた通り、掃除をしたり、お茶を出したりしている方が性に合っているよ」
「私もです」とおきぬは頷いた。
それにしても、とおきぬは思う。
ここでずっとご奉公するつもりだが、もしも、ご新造さんがおきぬの縁談の面倒を見てくれたとして、相手は一体どんな人になるのやら。
そこそこにお金持ちの旦那さん?
否、それはないだろう。
今、こうしてご奉公できているのだから、お金持ちかどうかは、あまり重きを置いていない。できれば素敵な人がいい、と思った。
そこへ、「おきぬ」と女中頭に呼ばれた。
「お茶をお出しして」と言う。
「大事なお客さんだから、くれぐれも粗相がないようにって」
「はい」と頷いたものの、だったら、もっと慣れた女中がいいのでは、と思ったが、意見の言える立場ではない。
茶は女中頭が淹れてくれた。
湯呑は四客。
盆を持ち、庭に面した廊下を進む。
茶を持って行くように言われた部屋は、お商売用の帳場の隣にある部屋ではなく、庭に面した母屋の方の部屋であった。
廊下でおきぬは背筋を伸ばし、正座する。
膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
「お茶をお持ちしました」
「お入り」と中からご新造さんの声がする。
「失礼します」と、おきぬは障子を開け、そこで手を揃え、頭を下げる。
そうして盆を持ち、室内に入ると、再度正座をし、障子を閉め、袖と裾を気遣い、茶をそれぞれの前に置いた。
部屋にいたのは、旦那さまにご新造さん、若旦那の良太さん、そうしてその隣にまるで雛人形のようにきれいなお嬢さんがいた。
つい、見惚れてしまいそうになる。
盆を手に、部屋を出ようとすると、「おつたさん、こちら、きぬと言います。少し前に来たばかりなんですけど、よくやってくれています。これから、おつたさんの身の回りのお世話やお供をこのきぬに任せようと思うのだけれど、どうかしら。礼儀正しいし、仕事も真面目。お台所の仕事なんかはこれから仕込むから、お供をするのは、追い追いになりますけど……。とてもいい子で、かわいいでしょう」と、ご新造さんが言う。
思わずおきぬは顔を上げた。
「お心遣い、ありがとうございます。本当にかわいらしい。よろしくね、きぬ」
きれいなおつたさんに微笑まれ、おきぬは真っ赤になり、「ありがとうございます」と手をついて何度も言い、部屋を出た。
正座と障子の開け閉めはきちんとしたと思うが、記憶があやふやになるほど、心が高揚していた。
5
おつたお嬢さんにお茶をお出しした後、おきぬの仕事は朝の水汲みに台所の手伝い、そうしてその後は、運び込まれるおつたお嬢さんの嫁入り道具の荷ほどきである。
色鮮やかな何枚もの着物、少しの書物、お琴にお三味線、ほかにお化粧道具や櫛に簪と、立派なお道具が揃っている。
部屋に風を入れ、書物は虫干しする。
そうして、祝言の日がやってきた。
おつたお嬢さんの家は料亭だから、朝から台所におつたお嬢さんのご実家の料理人が入り、祝い膳の用意に取りかかる。
おつたお嬢さんの家は兄上が二人おり、どちらも料理人だというが、今日の祝言には身内として出席するので、祝い膳は店の料理人に任せるのだそうだ。
佐久造という、やや強面の料理人が、贅沢な食材を躊躇いなく、大層手際よく捌いていく。
つい、その様子を見ていたおきぬに、佐久造は「何か用か」と、目を上げずに尋ねた。
ここ最近聞くことのなかった、やや粗暴な言い方に、びくり、とし、「水は足りますか。何か必要なものはないか訊いて来るように言われました」と、おきぬは身をすくませながら言った。
佐久造はそこで、「特にないよ。必要なら言う。……ああ、済まねえな。お前さん、驚いたかい? だいぶ直したんだが、気を張っていると、つい粗暴な言い方になる。気になさんな。ありがとう」と、おきぬを見て言った。
「いえ……」
僅かな沈黙があった。
「厚かましいのを承知で言うが、聞いてくれるかい」と、佐久造が言う。
なんだろう、と考える余裕なく、おきぬは「はい」と返事した。
「おつたお嬢さんは、私が子どもの頃に生まれた。私は旦那さん夫婦にそれはそれはよくしてもらってね。……おつたお嬢さんが思った人と添えて私も嬉しいよ。だけど、札差のお店っていうのは、なかなかに外の人間には大変だと思う。料亭の娘が料亭に嫁ぐのとは勝手が違うこともあるだろう。どうか、おつたお嬢さんをよろしく頼むよ」
佐久造は大きな身体を折り、おきぬに向けて頭を下げる。
ああ、おつたお嬢さんは幸せな方だ、とおきぬは思った。
おきぬのことも、郷の家族はもちろん、近所の人たちも、江戸へご奉公に行くと言った時にはずいぶんとそれぞれに気にかけてくれた。普段手に入りにくい高価な菓子や卵を持って来て、門出祝いをしてくれた。
この佐久造さんという板前にとって、この祝い膳がお嬢さんへの贐(はなむけ)であり、おきぬに託した言葉は、思いやりであろう。
本当は、若旦那の良太さんや旦那さま、ご新造さん、番頭や女中頭なんかに伝えたいのだろうが、この佐久造という人も料亭の板前で、そこは控えているのだろう。だから言う相手がおきぬになった。
心もとなさもあるだろうに……。
お前に言っても仕方ない、とは言わず、頭を下げる人だ。
「承知いたしました」とおきぬは深く頭を下げた。
6
おつたお嬢さんが店でのご新造さんになった。良太さんの母は、お内儀さまと呼ばれるようになった。
朝、いつものようにおきぬは水汲みをする。
そのうちにかまどに火をつけ、湯を沸かし、ほかの女中が入って来るまでにできることをするようになった。
毎朝お内儀さまとともに、ご新造さんも台所に来るので、どこか皆、そわそわと落ち着かぬ。
ご新造さんが料亭のお嬢さんで、舌が肥えているのは承知の上だが、ここは、この家のお内儀さまの仕切りである。味付けに於いても、それは変わらぬ。
お内儀さまとともに、ご新造さんも汁物の味付けを確認するのが、ここ最近の日課であった。
そうして、ご新造さんがでかける日、おきぬが呼ばれ、お供をするよう言い遣った。
どこかのお店で化粧品でも買うのかと思っていたが、ご新造さんが向かったのは神社へのお参りであった。そうして、帰りに家族への土産に菓子を選ぶ。
「きぬ、お義父さん、お義母さんは、どんなお菓子がお好きかしら」
おきぬはそう訊かれ、先日お内儀さまの姉君が買って来た菓子を皆が大層喜んでいたことを思い出した。お内儀さまが、ああ、ここのお菓子は久しぶり、嬉しい、と言っておられたので、菓子店の名も覚えていた。
ご新造さんがその店を知っているか、おきぬは心配になったが、江戸生まれ、そうしてお嬢様育ちのご新造さんはすぐにわかったようで、「少し遠回りになるけれど、寄って行きましょう」と微笑んだ。
飾り物のように可愛らしい絵の描かれた小さな菓子の詰め合わせをご新造さんは頼む。
上がり框で茶を勧められたご新造さんは、店の土間に立つおきぬに手招きする。
「いけません」とおきぬは首を横に振った。
「お義母さんが、私のお供をするように言ったのだから、隣にいなくては」とご新造さんは言うと、さっき注文した菓子の詰め合わせのほかに、ここで食べていける饅頭を頼んだ。
そうして再度、おきぬを呼ぶ。
「ほら、お店の人も困るから」と言われ、おきぬは上がり框で下駄を揃え、ご新造さんから少し離れたところに座した。
着物を尻の下に敷き、背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向き合うように揃える。
「きぬは本当にお行儀がいい」とご新造さんは言い、茶と饅頭をおきぬに勧める。
本当にいいのだろうか。
これに手をつけたことがわかったら、お暇を出されたりはしないだろうか……。
躊躇うおきぬに、「お茶が冷めてしまうから。美味しくいただくのに時というのは大切よ」とご新造さんは、半ば諫めるように言った。
「……いただきます」
美味しい茶であった。
郷では、そもそも茶を飲む機会もあまりなかった。
水か湯を飲むことが多かった。
だから、何がどう美味しいかはわからぬ。
だが、美味しい。
「どう?」とご新造さんが訊く。
「……美味しいです。とても。お茶をあまり飲んだことがないのですが、美味しくて驚きました。郷の湧き水を思い出します。舌や喉、鼻のどこも逆らわないで、すうっと流れてきます」
言ってから、こんなことを大きな料亭のお嬢さんであったご新造さんに言うべきでなかった、と後悔したが、「きぬはよくわかっている」とご新造さんは言った。
「このお茶、多分、以前私が行儀見習いの先生のお宅でいただいたのと同じ茶葉よ」
……さすが、舌の肥えているご新造さんは違う。
噂には聞いていたが、江戸のお嬢さんは行儀見習いにも通うのか……。
「そうでございますか」と、おきぬはわからぬままに相槌を打つ。
ご新造さんは嬉しそうに頷き、饅頭もおきぬに勧めた。
饅頭も、それほど甘くはないが、ほんのりとした甘さは舌に馴染み、身体に入る。いくらでも食べられそうな味だ。
そうして、我に返る。
手代やほかのお女中が心にかかる。
「どうしたの、きぬ?」
「いえ、私だけ、こんな贅沢をしてよいのでしょうか」
「……きぬ、よく聞いて」
ご新造さんが静かに切り出す。
「はい」と、おきぬは姿勢を正す。
「確かに、お店のほかの人の仕事に、茶屋で饅頭を食べる時間は含まれていないかも知れない。だけどね、私が嫁ぐまで、あの部屋を整えたのはきぬでしょう。ほかの人がしゃべったり、一休みしている時も、きぬには仕事があったと思うの。ありがとう」
「いえ、あんなに素敵なお道具を見るのは初めてで楽しゅうございました。それに郷にいたころは、もっといろいろ手伝いをしておりました」
「うん」とご新造さんは頷いた。
「お義母さんがきぬをお供に選んでくださった理由がよくわかる。きぬは真面目でずるいところがない」
「そうでございましょうか……」
ご新造さんは、つと、おきぬを見た。
厳しさを感じさせる、もう、『お嬢さん』と呼ばれる目ではなく、『ご新造さん』の目をしていた。
「きぬは、その礼儀正しさや、清廉な心持で、お義母さんに選ばれた。だけど、それに引け目を感じては駄目。きぬの郷のご家族が、きぬにくださったものだから、その値打ちをしっかりと覚えておきなさい」
おきぬも、いつしかご新造さんをしかと見つめていた。
それは、郷から出て来た頼りない娘ではもうなく、札差のご新造さん付きのお女中であった。
7
ご新造さんのお供から帰り、夕餉の準備をしに台所に入る。
そこへお内儀さまが顔を出し、おきぬに部屋まで来るように言った。
おきぬはかけていた襷を外し、簡単に身なりを整えて、お内儀さまと大旦那さまの使っている部屋へ行く。
廊下で正座する。
背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、着物を尻の下に敷き、親指同士が離れぬようにする。
そうして、茶は持って来なくてよかったのだろうか、とふと思ったが、茶は頼まれていない。深呼吸し、「失礼します。きぬです」と声をかけた。
「ああ、お入り」
中からお内儀さまが呼ぶ。
膝を揃え、障子を開け、座礼する。
「きぬ、こっちへ」と中へ促され、座敷に上がり、再び正座し、障子を閉める。
「今日は、おつたさんと出かけたけれど、どうだった?」
「はい。神社にお参りして、お内儀さまの好きなお菓子を訊かれ、そのお店でお菓子を買いました。そこで、お茶とお菓子をご馳走になりました」
正直に言っていいのか迷ったが、ご新造さんに口止めされているわけでもない。
「ああ、それはよかった」とお内儀さまは言った。
「少しこのあたりのことをきぬに教えてやってほしいと思っていたけど、さすがおつたさん、よくわかっているわ」
「……よくしていただきました」
お内儀さまの笑顔に安堵し、おきぬは頷いた。
「おつたさんにとっては、うちの味に慣れてもらうのも、少し難儀かも知れないとも思うけれど、これは先代も先々代もしてきたことで、私の一存では決められないしね」
おきぬはお内儀さまをじっと見つめた。
お内儀さまは、「きぬが来てくれてよかった」と言い、「そうそう、わざわざ呼んだのはね、近々、良次の婿入りで祝言を挙げることになって、あちらの家と相談して、うちの祝言の時のように、あちらの家での祝い膳をおつたさんのご実家の店に頼みたいということになってね、文を書くので、その文を申し訳ないけれど、おつたさんに持って行ってもらいたいの。もちろん、きぬもお供でね」と言った。
つまり、そうした大義名分を作り、ご新造さんを実家に顔見せに行かせてくださる、ということだ。そうして、多分、店の味を覚えてもらうことに対し、ご新造さんを慮っていること。その二つを、お内儀さまはおきぬに伝えてくれと言っているのだろう。万が一間違っても、口止めされたわけでもなし、大丈夫であろう。
「それは、おめでとうございます。祝い膳の件、お伝えして参ります」
おきぬは手をつき、また正座をして障子を開け閉めし、廊下に出た。
これを聞いたら、ご新造さんはどんな顔をなさるだろう……。
郷の家族以外に、何かを伝えたくてこんなにも心が躍るのは、おきぬが江戸へ来て初めてのことであった。