[302]花嫁正座介添え人、美座(みくら)
タイトル:花嫁正座介添え人、美座(みくら)
掲載日:2024/07/25
著者:海道 遠
内容:
花嫁正座介添え人を務める美座(みくら)は、依頼された合掌造りの郷へやってきた。一人娘の愛織(まおり)が結婚することになり、白無垢の花嫁衣裳で正座して、紅差しの儀、筥迫(はこせこ)の儀、懐剣の儀、末広の儀を挙式寸前にすることになっていたのだ。儀をこなすのは亡き母親代わりの祖母の予定だったが、美座は、愛織の父親がまだ結婚に反対であることを知る。
本文
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第一章 合掌造りの村
新緑の緑が輝いている。
田植え真っ最中の水田は大忙しの農民で賑わっている。彼方に視線を投げれば、盆地を囲む山々も青緑したたる季節だ。
花嫁正座介添え人の仕事をしている美座は、運転してきた車から、着付けのスタッフふたりと共に訪問着姿で降り立った。
初めて訪れる合掌造りの郷の壮観さに目を奪われながら、一軒の家の前にやってきた。
「ここだわ。花嫁の郷田(ごうだ)さんのお宅は」
玄関の重々しい引き戸を開けた。
「ごめんください! 正座介添え人の美座と申します」
ひんやりと薄暗い土間に立っていると、若い女性が晴れやかな顔で奥から現れた。
「初めまして、美座さん! 郷田愛織(ごうだまおり)と申します。遠いところ、ようこそおいでくださいました」
二十代半ばの愛らしい女性だ。この方なら素直に稽古をつけられそうだ、と愛織は感じた。
正座して「紅差し」の儀、筥迫(はこせこ)の儀、懐剣の儀、末広の儀など教えなくてはならないのだ。
土間に入ると、まず囲炉裏(いろり)の間があった。
黒光りする床は三十畳ほどもあるだろうか。真ん中にテレビでよく見る囲炉裏があり、天井から鍋が鉤(かぎ)吊るしされている。
斜め横の中二階にあたるらしい天窓からは、午前中の清らかな陽の光が射しこみ、燻された(いぶされた)梁(はり)を照らしている。
(なんて勇壮で美しい……。黒光りする部屋に差し込む光……。まるで雲間からの天使の梯子(はしご)のようだわ。こんな伝統的なお家で育ったお嬢さんのお嫁入りのお手伝いをさせていただけるのね)
美座の胸は熱くなった。
隣の座敷に通され、花婿の四方木一途(よもぎかずと)とも挨拶を交わした。愛織にお似合いの好青年だ。
もうひとり、お座敷には愛織の祖母も待っていた。すっかり白髪になっているが元気そうだ。
「初めまして。愛織の祖母でございます」
「正座介添え人の美座と申します。至らないことが多々あると思いますが、花嫁の『紅差しの儀』は、亡くなられたお母様に代わり、お祖母様がされるとのことで宜しくお願いします」
「私に務まりますかねえ」
祖母は少し不安そうだ。
「大丈夫ですよ。私こそ、正座の介添え人ですが、『花嫁介添え人』ではありません。でも、プロの方に色々とご協力をお願いして、正座を含めた『花嫁介添え人』を努めさせていただくことにいたしました」
「あの子の母親は、ずいぶん昔に雪の事故で亡くなって、私が代わりに育ててまいりました。どうぞ宜しくお願いします」
祖母がきちんと正座して深々と頭を下げたので、美座は恐縮してしまった。
「私も精一杯ご介添えさせていただきますので宜しくお願いいたします」
祖母は言い足して、
「愛織には兄がひとりおりますが、アーティストだとか名乗って世界中を飛び回っていまして、妹の結婚式のことが報告できておりませんの」
「アーティストって、音楽系の?」
「さあ、私にはさっぱり?」
「お兄さんは多分、美術か何かの分野だと思いますよ」
花婿の四方木一途が、補足した。
「さあ、花嫁、花婿さんとお祖母さまも揃われたことですし、正座の所作を見ていただきますね」
「あ、お義父さんが、まだ外の仕事に」
四方木が言ったが、愛織が、
「父さんがいると話もお稽古も進まなくなるから、後にしてもらいましょう」
「よろしいのですか?」
「はい。美座先生。所作を宜しくお願いします」
美座はうなずき、立ち上がった。
「背すじを真っ直ぐに立ちます。視線も真正面に。次に床に膝をつき着物はお尻の下に敷き、かかとの上に静かに座ります。両手は膝の上に静かに置きます」
愛織たちは、美座の美しい正座の所作に見入った。
「さすが先生。素晴らしい所作と正座の姿ですわ!」
「今日は普通の訪問着を着ていますが、花嫁さんは当日、綿入れの打ち掛けを着ておられますから、さぞ所作にご不自由されるかと思います。自分の時もそうでしたから」
「あら、美座先生、独身でいらっしゃるのでは?」
美座は笑い、
「いえいえ、二歳の子がおりますのよ」
「そうでしたか。とてもお母さまには見えませんわね」
花婿になる四方木は、美座の正座姿から愛織の姿を想像してポヤンとしていた。
第二章 駄々こね父親
裏庭からガサゴソ音がして、作業服姿で、ごま塩頭の中年男性が長靴を脱いで囲炉裏の間に上がってきた。
「お、お義父さん?」
四方木が飛び上がった。
「お義父さん」と呼ばれた男は、お座敷に娘や母親と見慣れない客が並んでいることに気がついて、露骨に顔を曇らせた。
愛織が駆け寄り、
「父さん、こちらはお式でお世話になる、花嫁正座介添え人の美座先生ですよ。今夜、お泊りいただきます」
「ああ? 式って何のことだ? 誰がいつ、そんな許可をした?」
眉尻を片方上げて、一同を見回す。
(あちゃ~~、これは……)
美座は思わず額に手を当てた。
(「花嫁の父、駄々こね星人になるの巻」か……)
「愛織の大切なお客様だよ。肇(はじめ)。あんたも正座を教えてもらいなさい」
祖母が声をかけたが、父親はやかんの茶を一杯飲み干すと、出ていってしまった。
「頑固親父、なかなか素直にならん」
祖母は美座に向き直り、
「愛織の父親です。未だに結婚に反対なのです」
「……」
「愛織を婿さんに取られる気がしてしまうのでしょう。四方木さんがサラリーマンであること、長男であること、東京出身であること、果ては趣味のサーフィンや左利きなこと、洋服の趣味や、食べ物の好み、お箸の持ち方まで、すべて気に障るようです」
祖母は肩を落とした。
美座はしばし絶句したが、顔を上げた。
「そういう駄々こねお父様こそ、陥落すると良い理解者になるケースが多いですよ!」
かなりぎりぎりではあるが、その日のうちに愛織に色打ち掛けをきてもらい、前撮りを行うことになっている。
着付けのスタッフが、ふたりがかりで桃色の地に赤い牡丹柄の艶やかな引き振袖の着付けを行った。
髪は洋髪に結い、赤い大輪の牡丹の華を飾った。
花婿の四方木には紋付袴羽織の着付けをし、合掌造りの自宅の前に緋色の毛氈を敷き、撮影する。
「周りが緑の中で、背景が立派な合掌造り。花嫁さんの赤が基調の引き振袖がとても映えますわ!」
(引き振袖=裾を長く引く着付けの振袖)
美座は思わず叫んだ。
毛氈の上で正座ショットの時は、美座がカメラマンと相談しながら、愛織の正座ポーズや振袖の広がり方を確認した。
カメラマンが撮影を終え、
「はい、立ち姿、正座ショット、両方オッケーです。次、囲炉裏の間に移動しましょう」
一同で家の中へ移動しようとした時、合掌造りの陰から土地の方と思えない茶髪にサングラスの若い男が見つめていることに、美座は気づいた。
(ご近所の方? それとも観光客の方かしら?)
くらいに思って、皆が家屋の中へ入る。
すると――、流し台の側にうずくまっている祖母の姿に、愛織が気づいた。
「お祖母ちゃん?」
祖母の額には冷や汗が浮かび、脇腹の辺りを押さえている。
「どうしたの? 痛むの?」
「大丈夫、いつもの持病の発作だから」
「病院へ行った方がいいわ。大事を控えてもいることだし」
「愛織ちゃん、車を廻してくるよ!」
四方木が裏口から飛び出していった。
主治医の薦めで、祖母はしばらく入院することになった。
一同は沈痛な面持ちで自宅に帰ってきた。
「お祖母ちゃん、お式まで後、半月だけど退院できるかな? 退院できたとしても急には無理してもらえないし……」
そこへ、父親が帰ってきた。
「お袋が入院したんだって? 愛織の支度に無理するからだ」
いっそう苦虫を嚙みつぶしたような顔をしている。
「とにかく、お祖母さまにはゆっくり養生していただきましょう」
美座が改めて父親のかたわらに正座した。
「いかがでしょう? お父様。挙式当日の儀式、『紅差しの儀』の役目をしていただけませんでしょうか?」
「え、紅差しって、口紅を塗ってやるってことか?」
「そうです。今、お道具をお見せいたします」
美座が風呂敷包みから、丁寧に包まれた一式を広げた。
上品な紅色の風呂敷が解かれた。包まれていた品は、貝に入った古風な口紅と紅筆。そして筥迫(はこせこ)、末広(扇)、それと懐剣である。どれも真紅の房が付けられ、華やかなしつらえだ。
「花嫁衣裳の仕上げに身につけていただく品々です」
「なんて華やかで優美なお品でしょう。私には勿体ないような……」
「愛織さんなら、きっと見事に着こなされますわ」
美座が励ました。
「まさか、俺のふっとい指で口紅を?」
父親の声が震えている。
「こちらの紅筆を使っていただきます。基本は美容師がお化粧しますから、唇の端っこに紅を足す仕草だけでいいのですよ」
「こんな細いもん、俺はさわったこともない! ちゃんと握れるかどうかも分からないぞ!」
「ですからお父様。筆をちゃんとぶれないで持ち、口紅を塗れるように、姿勢をしっかりなさることが大切ですので正座をマスターしていただきますねっ」
「せ、正座までやんのか?」
「お祖母さまのピンチヒッターですもの」
愛織は、父親の手のひらに紅が入った古風な梅の絵が描かれた二枚貝を乗せた。
「これだけは式場の美容室のものではありません。お父様、見覚えがあるのではありませんか?
「え?」
父親は二枚貝をひっくり返したり見つめたりしたが、
「初めて見るぞ、こんな雅(みやび)なもん、触ったこともない!」
美座はクスリと笑い、
「それならそれで結構ですよ。貝から紅を取って、愛織さんに差すお稽古をなさってみてくださいな」
「だから、俺はこんなほっそいもんを握ったことないってば」
美座は父親の手に、自分の手を添えて細い筆を持たせた。愛織も神妙に座って待つ。
父親の手がガクガク震えて、紅を乗せた筆が畳の上に落ちてしまった。
「ええい、面倒だなっ」
とっさに父親はごつい人差し指を貝に突っこみ、紅を乗せた。
「あ、父さんたら!」
次の瞬間、愛織の頬には、派手に斜めにはみ出た紅が塗られてしまった。
「もう~~、父さんの太い人差し指で塗れるわけがないじゃないの!」
愛織はお冠(かんむり)だ。
「愛織さん、いきなりお願いした私がいけなかったのです。叱らないであげてください」
美座は丁寧に頭を下げて、その場はおさまった。
第三章 父の稽古
翌日、美座は愛織の祖母が入院している病院へ、父親の車に同乗してお見舞いにうかがった。
祖母の様子は、想像していたより元気そうだ。顔色よくベッドに上半身を起こして迎えた。
「せっかく美座先生に、郷土料理でおもてなしする予定でしたのに、申し訳ございません」
祖母はうなだれた。
「お祖母さま。それでしたら、愛織さんと四方木さんに腕をふるってもらってご馳走になりましたからご心配なく」
「まあ、あの子たち。ちゃんと作れましたかね」
「ご心配なさらず。お式までにおうちに帰れますように」
「そうですわね。孫娘が私の白無垢を着てくれるのですから、元気にならなければね」
祖母の言葉に、美座は驚いた。
「お祖母さまの白無垢を?」
初めて聞くことだった。祖母から孫娘に花嫁衣裳を引き継ぐとは、素晴らしいことだ。
「では、お祖母さまは白無垢での正座のご経験がおありなんですね! これは頑張って、愛織さんにもご一同にも正座をマスターしていただかないと! 特にお父様に念入りにお稽古していただいて……」
「父親の肇も根は優しい子です。周りや子供たちが都会へ出ていく中、頑張って地元に残ってくれて農業をし、真冬の積雪の中で生活してくれています。きっと内心は愛織の結婚を喜んでいると思うのです」
「そうでしょうとも。天塩にかけた娘さんだからこそ、つい駄々こね星人になってらっしゃるだけですわ」
「駄々こね?」
「あ、いえ、なんでもありませんの」
美座は笑ってごまかした。
祖母はベッドの上に、美座が止めるのもきかず、正座して頭を下げた。
決意を新たにして、愛織の家に戻ると、一同に集まってもらって正座の稽古をしてもらうことにした。
裏口からそっと抜け出そうとしていた父親を、美座は目ざとく見つけて呼び止めた。
「お父様、正座のお稽古をしますから、いらしてください」
父親はしぶしぶ座敷へやってきた。
「先日の説明通り、背すじを真っ直ぐに伸ばして立ち床に膝をつき、女性はスカートや着物をお尻の下に敷き、かかとの上に静かに座ります」
父親がやってみると、太い腿(もも)を曲げきれず、ズデンと後ろへ倒れた。
「お父様!」
「へへへ、ふだんはあぐらばかりだから、慣れないな」
照れ臭そうに頭をかきながら起き上がる。
「補助具を用意しますから大丈夫です。お父様には、お祖母さまのご退院が間に合わなければ、しっかり『紅差し』の役目もしていただかなければ」
美座は言い渡し、愛織が父親に見本を見せた。
「父さんは真っ直ぐ背すじを伸ばせて立てているから、注意するのは、かかとの上に座る時ね。とにかく焦らず、ゆったりとした気持ちでね」
娘の流れるような正座の所作を、父親は遠い目をして眺めた。
「愛織。母さんの若い頃にそっくりになってきたなあ」
「そ、そう? 母さんもきっと天国から見守ってくれてるに違いないわね」
父親は作業服の肘で、ぐしゃっと目元をぬぐった。
それから、ひとりで何度も正座の所作を繰り返していた。
第四章 挙式当日
いよいよ、挙式当日である。
祖母には三日前に退院許可が出て、出席することができそうだ。
二週間ぶりに美座が、着付けのスタッフと共に前日から訪れて準備にとりかかっていた。
挙式は村の氏神神社で、花嫁の支度はすべて自宅で行われる。花婿の四方木は神社で待つ段取りになっている。
美座は、座敷でスタッフとともに白無垢の着つけに臨んだ。
祖母が着てきたという白無垢は、鶴亀の地模様が織り込まれた豪華な打掛である。
一部始終を眺めている祖母は嬉し涙が止まらず、父親は、土間を行ったり来たりして落ち着かない。花嫁の愛織と視線が合うのを避けている。
着付けが出来上がり、綿帽子を被った花嫁は、ずいぶん固くなっていた。
「愛織さん、そう固くおなりにならずと言ってもご無理かもしれませんが、お気持ちをお楽にね」
美座が声をかけたが、愛織はカチンコチンになっていた。鏡台の前に置いてある化粧道具を見つめている。その中には、先日、美座が見せた紅の入った二枚貝も並んでいる。
愛織が「花嫁の挨拶」をしようと思ったが、父親の姿が見当たらない。
「あら? さっきまでいらしたはずですが」
祖母が嬉し涙をぬぐいながら、
「一人娘の晴れの日ですが、巣立ちの日でもあります。父親としては複雑な気持ちなのがよく分かります。そっとしておいてやってください」
美座は祖母の肩を抱き、背中をさすった。
花嫁の迎えのハイヤーがやってきて、愛織はお仲人に手を貸されて高い草履を履き、玄関から乗りこんだ。
見物に来ていたご近所の方や、新郎新婦の友人たちが、一斉に注目する。
「なんてお綺麗な花嫁さんでしょう」
「愛織ちゃん、白無垢がとてもよくお似合いよ」
花嫁の美しさに大きなため息がもれた。
カメラやスマホも、パシャパシャとシャッター音がする。
挙式する神社でも、すっかり支度が整っていた。
ハイヤーから下りる愛織の姿を、奥の控室から新郎の四方木が、そっと覗いてドギマギしていた。
新婦の愛織も控室に入り、両家の顔合わせも滞りなく行われた。愛織の父親がいつの間にか戻ってきていて、親戚の顔合わせでは、無事に正座して親族を紹介した。
(父さんたら、いつの間に到着したのかしら)
呆れながらも、そっと胸を撫で下ろす愛織だった。
お式が行われるまでの間に、控えの間で「紅差しの儀」が行われる。
祖母が緊張しながら紅の入った二枚貝を、愛織から受け取ろうとすると、スタッフが騒ぎ始めた。
「あらっ! 紅の入った貝が見当たらないわ!」
「そんなはずはないでしょう、おうちから、しっかり運んできましたから」
スタッフや巫女さんたちまで、控室ばかりか神社の中をすべて探し回り、実家まで連絡して探したが見当たらない。
「用意していた紅が見当たらない? どうしたのかしら」
控室に待っていた愛織にも騒ぎが届いた。
「父さんの姿も見当たらないわね」
「愛織さん、ご安心ください。ほら」
美座が取り出してきた貝に、口紅がある。
「これが、昔、お父様がお母様にプレゼントされた口紅です。お父様は、先日、忘れたふりをしておられたようですが」
「え? どういうことですの?」
「あのね」
美座はクスッと笑いながら、
「どうやら、お父様の心の中の『駄々こね星人』は消えていないようで、おうちを出発する時に、二枚貝の紅を持っていかれたのを、私、見ておりましたの」
「ええ?」
「でも、中身は普段の口紅です。『紅差しの儀』にお使いになりたいのは、お母様の形見の口紅でしょう。こちらの鶴と亀が描かれた貝の方が本物です」
「では、美座先生は、父の行動を見越して口紅をすり替えてくださったのですか」
「ええ。お父様は結婚式の儀式のひとつ『紅差しの儀』をどうにか阻止したいと思ってらしたようですので」
「もう、父さんたら!」
「肇ったらイイトシして、ここまで聞かん坊になるとは!」
愛織と祖母は呆れ返った。
「では、『紅差しの儀』させていただいてよろしいですか?」
巫女さんのひとりが声をかけて、愛織と祖母は向かい合って正座した。
愛織は、かなり長い裾の白無垢の打ち掛けを上手にさばき、スタッフの手を借りて正座する位置に立った。
神社のスタッフが打ち掛けの裾を、形よく広がるように何度もやり直し、カメラマンもオーケーを出す正座することができた。
向かいに座った祖母の手には、本物の口紅と紅筆が握られている。
(おふたりとも見事な正座の所作ですわ。特に愛織さんは、打ち掛けの重さを感じさせない正座だわ)
愛織が見守っていると、隣の控室から新郎の四方木が、襖の隙間からそっと美座を呼んだ。
「私ですか? 何でしょう」
「実は、お父さんが神社を出て行こうとするのを見つけて、友人に頼んで引き止めてあるのですが」
「まあ、四方木さん、お手柄ですわ」
美座は、「紅差しの儀」を待ってもらって、父親の手を引いて連れてきた。
「お祖母さま。愛織さんのお父様をお連れしました。おふたりで『紅差しの儀』をお願いできますか?」
「おや、肇が! よろしいですとも」
父親が情けなさそうに、そっと愛織の前に正座した。
「やっと観念したわね、お父さん」
第五章 兄、帰る
「うう、捕まってしまった!」
父親は床にこぶしを打ちつけたいくらいの悔しそうな顔をしている。
「父さんてば、なんて言葉遣いなの、晴れの日に!」
「愛織、なんつ―か、あの、あのなんとかって挨拶だけはやめてくれよ。俺はあれが一番苦手だ!」
「なんとかって挨拶……?」
「長い間、お世話になりましたってヤツだよ」
「ああ、はいはい。分かりましたよ。父さんがイヤなら挨拶なしで」
祖母が貝から紅筆に紅を乗せ、愛織の唇に近づいた。緊張で手が震えてなかなか止まらない。
「お袋、俺が先にやってやるよ!」
父親が筆を取り上げた。
「行くぞ、愛織」
いよいよ紅筆が、愛織の口紅に接近した時――、いきなり、父親の手から口紅の入った貝と紅筆が消えた。
「?」
父親が呆気に取られていると、背後の頭上から大きな声がした。
「よぉ、愛織。綺麗だぜ、綿帽子の白無垢姿、キマってるぜ!」
「お、お兄ちゃん!」
花嫁の前に上背のある茶髪の男が立って、両手に貝と紅筆を持っていた。銀色のタキシード姿はまるで新郎だ。
新郎の四方木一途が立ち上がった。
「あなたは! 世界的メイクアップアーティストのマシュー・ゴウダじゃないですか?」
「ええ? お兄ちゃんが世界的メイクアップアーティスト?」
タキシード姿の男に一同の視線が集まった。
「何年も家とは音沙汰無しにしていたけどな、可愛い妹の結婚式だって聞きつけて、超、超、多忙な中、ニューヨークから舞い戻ってきたのさ!」
白い歯を見せて芸能人なみの華やかさでにっこり笑った。
「マシュー・ゴウダですって?」
「イケメンで腕も超一流なメイクアップアーティスト!」
神社の巫女さんたちが、声を押さえて騒ぎながら覗きにやってきた。
「麻秀(ましゅう)! お前、家出してから何年もどこをほっつき歩いて……」
父親が思わず立ち上がった。
「ま、ま、親父。お説教なら後でちゃんと聞くから。今日は愛織のめでたい日だろう」
「ううう~~」
「とりあえず、愛織の大事な『紅差しの儀』は、プロの俺が親父の次にやらせてもらうよ!」
「なんだと~~?」
父親の脳天が噴火しかかっている。
「めったに戻らないお兄ちゃんが急に帰ってきて、何なの? どうせ、紅差しの様子をネットにアップして『妹の紅差しやりました!』ってアピールするつもりなんでしょう!」
愛織も目を吊り上げた。
「そんなこと考えてないさ! お前の結婚を心から喜んでいる。正座の稽古だってしたぞ、ほら」
所作が無茶苦茶だったが、兄は正座してみせた。
「妹の『紅差しの儀』を、レトロブームに乗っかってやるだけじゃなく、『村の澄んだ空気と雪解け水が育む(はぐくむ)肌』をアピールして、花嫁の育った家の囲炉裏端を使って『メイクアップ&正座教室』をしてはどうかと考えているんだ!」
「『正座教室』ですって?」
美座もさすがに驚いた。
「ま、その話は後で。とりあえず『紅差しの儀』だ」
マシューは紅筆を持って笑顔満面だ。
第六章 兄の正座特訓
『紅差しの儀』は、父親がいかつい指を緊張で震えさせて、なんとか済ませた。次は兄である。
兄のマシューは正座せず、プロポーズの時のような片膝をついたキザな座り方をして妹の愛織に、
「ちょっとだけ、アゴを上向きに」
などと指導して無事に済ませた。
筥迫、末広、懐剣の儀は祖母にしてもらい、愛織は胸がいっぱいになったようだ。
その後、神社でのお式は滞りなく済ませることができ、集合写真の時も、美座が愛織の白無垢の裾を確認して正座の指導をし、問題なく撮影できた。
花嫁は桃色の地に、紅の牡丹が咲く華やかな色打ち掛けにお色直しし、隣の棟の料亭で披露宴が行われる。
新郎新婦、お仲人夫妻、出席者一同が正座しなければならない。
マシューがひとりだけ、正座が苦手らしく、最初から「あぐら」をかき始めたので、美座は急いで別室に呼び出した。
「正座を教えようって人が、初歩の所作も知らないなんて、とんでもありませんわ。お稽古つけてさしあげます」
やや厳しく、美座はマシューに正座を稽古させる。
「う~~ん、真っ直ぐにお座りになろうとしても、どうしても上体がゆらゆらしてしまいますねえ」
マシューもさすがに困った顔をしている。
「メイクアップがご専門のあなたが、どうしてまた、正座教室を始めようと思われたの?」
「亡くなった母が、美しい正座姿をしていたんですよ。それで、ああいう正座を世の中の女性にと思って……」
「まあ、そうでしたの!」
美座が顔を輝かせた。
「それなら私も大賛成です。身体が揺れてしまう方のための揺れ防止エクササイズを、テスト段階ですがご指導します」
美座の指導に熱がこもった。
「特にかかとに座る時に、静かにどっしりと腰を沈める感じで」
稽古を受けている間に、マシューの美座を見つめる視線がだんだん熱を帯びてきた。
半時間ほどの稽古を終えて、どうにかゆらゆらがマシになったマシューは、披露宴席に戻ろうとしたが、部屋へ一歩入ったところで美座の手を取ったまま部屋へ入ろうとしない。
「正座を教えてくれた君の手を放したくない!」
「な、なんですって?」
披露宴の一同が、美座とマシューに視線を集めた。
「美座先生、僕と一緒に合掌造りの実家で正座教室してください!」
聞いていた愛織が仰天した。
「何を言い出すのよ、お兄ちゃん!」
「愛織。お前がお嫁に行ったら、あの家は寂しくなる。入れ替わりに僕が帰って美座さんと正座教室をやれば、親父もお祖母ちゃんも寂しくないだろ」
「ニューヨークの仕事はどうすんのよ」
「行ったり来たりするから大丈夫。オンラインもあるから」
そこへ、可愛い声が突き抜けた。
「ハハ――!」
男性に抱っこされた小さな男の子が入ってきた。ちゃんとスーツを着て、蝶ネクタイをつけている。
「久遊里(くゆり)くん!」
「ハハ! 会いたかった!」
男の子は、美座を目ざとく見つけて胸に飛びこんだ。
抱っこしてきたスーツ姿の男性が、
「美座、ごめんごめん。神社の控室で待っていたんだが、久遊里がガマンできなくなったんだ」
「そっか――、久遊里、ハハに会いたくなったか!」
美座は小さな息子を思いきり抱きしめた。
「あ、お嫁しゃんだ!」
男の子は美座の膝から下りて、花嫁の前に立った。そして小さな膝小僧を床について、お行儀よく正座した。
「おめれとうごじゃいましゅ」
「まあ、なんて立派な正座とご挨拶でしょう、さすが、美座先生のご子息ですわね」
愛織は感激して頭を下げた。
「ありがとうございます、坊ちゃん。いらっしゃい。子どもさん用のお膳をご用意させていただきます」
背後で一部始終を見ていたマシューは言葉を失くした。
(ハハ……? さすが美座先生のご子息?)
頭の中で、美座がすでに人様の母親、つまり人妻だったという現実だけが渦巻いた。とっさによろよろとして、襖を廊下に押して倒してしまった。
第七章 駄々こね星人
マシューは、傍目(はため)にも可哀想なほどしょぼくれて、料亭の縁側にあぐらで座りこんでしまった。
庭の植木にぼんやり目を当てていると、コンコンと肩を叩かれて振り向くと、父親が徳利と盃(さかずき)を持ってきた。
「お前、家を出てから好きなことをやって、成功を収めたようだが、世の中には思うようにならんことが山ほどある。わしのような駄々こね星人になってはいかんぞ」
盃に酒をなみなみと注ぐ。
「今日は愛織のめでたい日だ。飲め、飲め」
「親父……」
「今の地位に登れたのは、沢山の方々の力添えがあったからこそだ。感謝を忘れちゃならんぞ。わしもわがまま言うのは堪えて、愛織の結婚を祝ってやることにした」
父親は庭に視線を向けたまま、何かを思いきるように、ぐっと盃を空けた。
「親父……」
「ああら、父さん、それ、母さんがよく言ってたわよね? 沢山の方々への感謝を忘れちゃいけませんって。受け売り?」
縁側に顔を出した愛織が、父親に酒を注ぎ(つぎ)ながら、照れ臭そうに言った。
「そうだ。母さんが、しゃっきり正座できるのも、今まで支えてくれた親や、義理の両親、恩師、友人たち、沢山の人たちのおかげさまって常々言っては、いっそう胸を張って正座していただろう。愛織の正座姿と重なって見えたんだ。正座介添え人とやらの先生のおかげでな」
父娘は頷きあった。
「そ、その正座介添え人の美座さんが~~。美座さんにはダーリンとジュニアが……」
ついに、マシューは縁側に突っ伏して泣き始めた。
「あ、お兄ちゃんにお酒飲ませたの、誰よ? すごい泣き上戸なのに」
美座も久遊里を連れて座敷から顔を出した。
「あ~~あ、駄々こね星人と同じくらい始末に負えないわね」
「俺も、大声で泣きてえよ!」
父親がヤケになって叫んだので、
「やっぱりケジメはつけないとね」
愛織が父親の前に、ピシリと正座した。美座が急いで裾を整えに駆け寄り、父親が逃げ出さないよう袴の裾を握りしめた。
「父さん、長い間お世話になりました。母さんの分まで育ててくださって……、ありがとう」
言葉が涙に濡れ、美座ももらい泣きした。
愛織の正座した花嫁姿は、披露宴の出席者にくっきり残ったことだろう。
それから三か月。
ススキが黄金に映える合掌造りの郷へ、美座は車から降り立った。何列も連なる干し柿の鮮やかな色が軒先に吊るされ、美しい。
重い引き戸を開けると、囲炉裏の間の奥から愛織が跳ねるように駆けてきた。
「美座先生、ようこそ、お上がりください」
「どうですか、正座教室は?」
「はい。兄が海外にいる間は、私が生徒さんにお稽古をつけさせてもらっています」
座敷には、数人の女性が並んで座っている。
「まあ、正座のカリスマ、美座先生だわ!」
「今日お見えになるなんてラッキーですわ」
祖母が、生徒さんたちに甲斐甲斐しくお茶を淹れ(いれ)ている。愛織がにっこりして、
「この通り、順調です。兄は、明日、こちらへ来る予定です」
「東京のお宅は、四方木さんおひとり?」
「週に二回ですから大丈夫ですよ。それより、お稽古が必要なのは兄ですわ」
「まだ、ゆらゆらするクセが直らずに?」
「そうなんです。言い出しっぺのクセにね」
「分かりました。私が本気を出してお兄さまを特訓しましょう! 恥ずかしくない正座ができるように!」
美座は胸をどんと叩いた。