[358]浄闇(じょうあん)の森、白鹿の夢
タイトル:浄闇(じょうあん)の森、白鹿の夢
掲載日:2025/05/25
シリーズ名:うりずんシリーズ
シリーズ番号:14
著者:海道 遠
あらすじ:
京の公家の娘、美甘(みかん)ちゃんは、婆やと一緒にかき氷にかける、みかんを混ぜた甘いアマヅラ煎(せん)を作った。親戚すじの鴇姫(ときひめ)という年長の姫さまにも召し上がってもらいたいと思い、届けたが、鴇姫は暑気あたりで床についていた。最近、白鹿が森の中で待っている夢ばかり見るという。白い鹿から礼儀正しく正座する気にさせる神聖さを感じるらしい。
本文
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第一章 みかん入りアマヅラ煎
夏至を迎え、京の都は暑くなってきた。
美甘(みかん)ちゃんは、婆やと一緒にかき氷にかける、みかんの果肉入りの甘いアマヅラ煎(せん)を作った。氷は祖父上の住まう紀伊の国の氷室から送ってもらったもの、みかんも氷室に入れてもらっていたので、外側の氷を落とすと新鮮なものが食べられる。
「せっかく作ったのだから、三条の鴇姫(ときひめ)お姉さまにも分けてさしあげたいわ」
三条の鴇姫お姉さまというのは、美甘ちゃんの親戚の姫君のことだ。美甘ちゃんより二歳ほど年上である。
「それはいい考えですね。最近は蒸し暑いので、皆様、辟易(へきえき)しておられるでしょうね」
「せっかくマグシ姫さまにもお分けしようとしたのに、正座教室で作った分がたくさんあるそうよ。みかん入りの方が美味しいと思うんだけどなぁ」
「それは、またの折になさればよろしいでしょう」
婆やになだめられて、美甘ちゃんは牛車に乗った。
幼い頃から慕っている三条の鴇姫お姉さまに、久しぶりに会えるので美甘ちゃんの心は弾んでいた。
牛車の車窓の御簾をチラリと上げて外を覗くと、初夏の光で真っ白い道は暑くてかなり埃っぽい。その中を商人や農民が、汗を流して重そうな荷物を持って一生懸命歩いている。
(あの方々にも、冷たいアマヅラ煎をかけた氷を食べていただきたいのだけれど……)
しばらく牛車に揺られて、三条の鴇姫お姉さまのお屋敷に到着した。
車寄せから玄関に回ると、侍女のナツメが美甘ちゃんと婆やを待っていた。鴇姫が少女の頃からなじみの侍女である。
「おいでなさいませ。どうぞ、鴇姫さまのお部屋へご案内いたします」
部屋へ通されて、ふたりは驚く。三条の鴇姫お姉さまは床についているではないか。
「ど、どうなさったの、お姉さま」
鴇姫は、褥(しとね)から上半身を起こしたが、顔色が良くない。
「ちょっとした暑気あたりでしょう。大したことはないのよ、美甘ちゃん」
「でも、いつも桃色のお肌でお元気そうなお姉さまが、こんなにお元気がないなんて……」
美甘ちゃんは、改めて顔を上げ、
「今日は氷室(ひむろ)の氷と、みかん入りのアマヅラ煎をお持ちいたしました。召し上がれば、きっとご気分がよくおなりになりますよ」
「まあ……アマヅラ煎を。お手間がかかったでしょうに。婆やさんも、ありがとう」
裏庭では、さっそく氷が溶けないうちに男衆が二人がかりで、のこぎりで氷を切りはじめた。屋敷の柱ほどもある氷に驚いている。
「なんて大きな氷の柱だ! お屋敷の柱みたいだ!」
「それでもかなり溶けてしまったのですよ。ささ、姫さま方とご一緒にお屋敷の皆さまも召し上がれ」
婆やが勧めて、鴇姫のところにもカナマリという銀色の器に入れた氷が運ばれてきた。
「これに、みかん入りのアマヅラ煎をかければ――、ほうら、涼しそうよ。どうぞ、お姉さま」
小さなレンゲを添えて、美甘ちゃんが鴇姫に渡した。
細かく削られた氷に黄色いみかんの実が混じった蜜がかけられ、美味しそうだ。
「ありがとう、では、いただきます」
鴇姫は一口、小さな口の中に入れ、
「なんと冷やっこいこと! 甘酸っぱくて美味な……。夏にみかんが食べられるなんて生き返るようやわ、美甘ちゃん」
「そうでしょ。良かったわ」
侍女のナツメたちや男衆らも味わい、涼んでいた。
「おお~、これは汗が引っ込んで生き返るなあ」
「まったくだ!」
そこへ裏口から野蛮な男の声が聞こえてきた。
第二章 白い鹿
「買うか買わないか、どっちかにせんか! はっきりしないと……」
聞いたこともない恐ろしい男の野太い声に、侍女たちは震えあがっている。
「あの者は?」
婆やがナツメに尋ねる。
「山で仕留めた動物の毛皮を売りつけに来る、困った輩(やから)なんですよ。最近は冬に仕留めた白いキツネや白い鹿の毛皮まで……」
ナツメが洩らした言葉に、美甘ちゃんはハッとした。
「今、白い鹿って言った? 普通の鹿も、ましてや白い鹿は神さまのお使いなのに毛皮を売りに来るなんて!」
鴇姫がいっそう青ざめた。
「そうよね。美甘ちゃん。白い鹿は神さまのお使いよね」
「うん。昨年の12月、私、春日大社の『御巫(みかんこ)修行体験講座』に参加したの。白い鹿は、ご祭神のひと柱、武甕槌命(タケカメヅチのミコト=雷の神)が鹿島神宮から乗って来られた神聖な鹿で、後に若宮さまも乗って来られたのよ。そんな鹿を捕らえるなんて考えられないわ!」
※正座小説「美甘ちゃんの御巫(みかんこ)体験」参照
「まあ。遠く常陸(ひたち)の国の鹿島神宮から。確か勇猛な神様ですね」
婆やが感心してもらす。
鴇姫が小さな声で、遠慮げに言った。
「美甘ちゃん、ごめんなさい。少し横になるわね」
気がつくと、鴇姫は額を押さえて冷や汗をかいている。
「鴇姫お姉さま、早く横になってください」
鴇姫は言われる通りにした。
やがて、裏口に来ていた猟師の輩はとりあえず、引き上げたらしい。静かになった。
第三章 白い鹿の夢
「美甘ちゃん……、私の話を聞いてくれる?」
布団に入ってから鴇姫は白い腕を伸ばして、美甘ちゃんの手を握った。
「鴇姫お姉さま。ご無理なさらないで」
「ううん、滅多に会えないもの。聞いてほしいの」
「……はい」
「最近、私ね、夢を」
「夢?」
「夢ばかり見るの。薄暗くて気味が悪い闇が包む森の中へ入っていくと、立派な角を持った白い鹿が待っていて話しかけようとするのだけど、言葉が分からないの。それがもどかしくて。でも、鹿はとても美しく神聖で、思わず正座して接しようという気になるのよ」
「まあ……」
「そんな夢ばかり、毎夜のように見るの。もしかすると鹿の神さまが伝えたいことがあるのではないかしら」
「毎夜のように? それはお苦しいことでしょう」
美甘ちゃんは、簀の子へ出て天燈鬼の名を呼んだ。
天燈鬼と竜燈鬼は、元は毘沙門天さまの眷属(けんぞく)だったが独立した後、やや自由になり、警護のためにいつも美甘ちゃんの側にいてくれる。
「どうかなさったんですかい?」
美甘ちゃんは、鴇姫が毎夜のように見る白鹿の夢について話した。
「それは心配ですな。鹿といえば、さっき屋敷の裏口で毛皮の束を持っている猟師を見かけましたが」
「そうなの。そのことも気がかりよ。奈良では、鹿は神様の使いなんですもの」
天燈鬼はひたいの三つ目の眼から、ひすい色のひょろひょろのか細い鬼を呼び出した。翠鬼という。
翠鬼は天燈鬼と美甘ちゃんの前に正座する。
「うりずんさまをお呼びしてきてくれへんか、翠鬼」
「わかりました。しばらくお待ちを」
翠鬼は、ぴょんと飛び上がり、そのまま夜空へ消えていった。
夜が更けて昼間からずっと眠りについていた鴇姫は、真夜中になってうりずんが到着した時に、ちょうど目を覚ませた。
美甘ちゃんが紹介する。
「鴇姫お姉さま。こちらは琉球の季節の神様で、うりずんさん。いろいろとお世話になっているの」
「季節の、か、神様?」
紅鬱金(べにうこん)色の波打つ長い髪を背中に垂らした青年神が、枕元に座っている。
鴇姫は慌てて白い絹の寝間着の前をかきよせ、髪にも手をやった。侍女のナツメが素早くやってきて、髪を整え肩から打ち掛けを着せかけた。
「鴇姫さま。初めまして。うりずんと申す季節の神です。美甘ちゃんから、お話は少しお伺いしました。どうぞ固くならず、お身体にさわってはいけませぬゆえ」
鴇姫はうりずんの紅鬱金色の巻き毛に見入った。
「なんとお美しい神様……」
「白い鹿の夢をご覧になるそうですね」
「はい。小昏い森があり、奥へ入っていくと目の覚めるような純白の鹿が私を待っているのです。黒いつぶらな瞳で私を見つめ、何か訴えるのですが、無論、言葉が話せませんので……」
「今夜、私が鴇姫さまの夢の中へ入ってみましょう」
うりずんは、サラリと簡単そうに言った。
「そんなことができるのですか!」
「できます」
「うりずんさん、まさか」
美甘ちゃんが、うりずんを睨んだ。
「鴇姫お姉さまと添い寝するとか、言い出すのではないでしょうねっ!」
「何を言う、美甘ちゃん。そんなことをしなくても、神通力で入り込めるのだ。隣の部屋に控えているよ」
「信用できませんわ! 今夜、私が鴇姫お姉さまと添い寝します。うりずんさんは、お隣の部屋で宿直(とのい)をお願いいたします」
「やれやれ、分かりましたよ」
第四章 朝になって
それから鴇姫は温かい湯を飲み、朝まで眠った。
その間にいつもの夢を見た。が、昨夜、うりずんが言ったように、夢の中に彼の気配は感じなかった。隣の部屋で静かに正座したまま控えていた。
美甘ちゃんが目を覚まし、鴇姫も上半身を起こした。ナツメが用意した美しい蒔絵で飾られた角盥(つのだらい)で顔を洗う。
「朝餉を召し上がられますか」
「もう少し後でいいわ。うりずんさんは、もう起きておられるでしょうか?」
「そのようですよ。お庭におられましたから」
ナツメは答えた。
「美甘ちゃん。いつもの白鹿の夢を見たわ。うりずんさんをお呼びしてもいいかしら?」
「ええ。少し待ってくださいね」
美甘ちゃんは簀の子へ出てうりずんの姿を見つけ、呼びかけた。
「おはようございます、うりずんさん」
「やあ、おはよう。美甘ちゃん。よく眠れたかい? 鴇姫さまも」
「あの夢をご覧になったということです」
うりずんは、鴇姫の部屋へやってきた。
「いかがでしたか?」
「私はいつも通りの夢で白い鹿と話すことはできませんでした。薄昏い森の闇が怖くて怖くて……」
「薄昏い森なら心配は要りませんよ。あの昏さ(くらさ)は、浄闇(じょうやみ)と言って闇の邪悪なものも庶民も、温かく包み込む闇ですから。神社の明け方や夕暮れのご神事の仄暗さ(ほのくらさ)も、同じく神聖な浄闇というのです。森の中は、ほっこりする雰囲気でしょう?」
「まあ。そうでしたか」
「それより、鴇姫さまと鹿の背後から近づこうとする男を、私は見ました。彼の方が怪しい存在でした」
「怪しい男がいたのですか?」
「はい。貴族の装束を着てはいましたが、心の中に闇を感じたのです。昨日、こちらへ来ていたという輩と同じ気配がしました」
「え? 毛皮を売りつけに来る方々のことですか?」
「そうです」
「では、白い鹿に危険が迫っていて……?」
「そこまで詳しくはわかりません。鴇姫さま。もう一晩、隣の部屋で休ませていただけますか?」
うりずんは願い出た。
「うりずんさん!」
美甘ちゃんが口をはさんだ。
「もう一晩? じゃあ、私ももう一晩、鴇姫お姉さまと添い寝しなくちゃ! 何せ、うりずんさんは油断なりませんからね」
「人聞きが悪いなあ、美甘ちゃん。全然、信用ないのだな、私は」
「だって、天燈鬼たちの話だと湖国に想い人がいらっしゃるのでしょう? その上、奈良でお知り合いになった女君と接近したとか」
うりずんは、グッと詰まった。
「天燈鬼のやつめ。口が軽いのだから……」
第五章 鴇姫の縁談
侍女のナツメが、そっと美甘ちゃんに耳打ちした。
「鴇姫さまには、実はご縁談がおありになるのです。これ以上、よその男性がお屋敷に泊まられたなんてウワサが広まるのは避けたいのですが」
「鴇姫お姉さまに、ご縁談が?」
「はい。それも荘園をたくさんお持ちのお方でして」
「では、通って来られるのではないのね」
「はい。あちらから姫さまのウワサを聞かれて、是非にと。ですから、鴇姫さまはお相手にお会いになったことはありません」
「ナツメどの」
いきなり現れたうりずんに、美甘ちゃんもナツメも飛び上がった。
「ぶしつけではあるが、そのご縁談のお相手はどなたなのだ。教えていただけぬか」
「はい。犬倉さまとおっしゃる地主のお家のご嫡男さまです。貴族ではなくお武家の方ですが、かなり広い土地をお持ちです」
ナツメは胸を張って言った。
「犬倉さま……? 聞いたことがあるような?」
「お犬さま神社の総代さまでもあられます。あのお家の正室さまになら鴇姫さまにお相応しいでしょう」
「お犬さま神社……狼信仰の神社のことだな」
「そうです。よくご存知ですね」
うりずんは首を傾げた。
「狼信仰の神社は、ほとんどが関東より北にあるが」
「犬倉さまが総代を務めておられる神社は、都の北の丹後地方にあるのです」
ナツメが出て行ってから、うりずんは、天燈鬼を呼んで確かめた。
「おう。そういえば、狼信仰の神社がありますで」
天燈鬼は、ふところから古い地図を出して畳の上に広げた。丹後地方一帯の地図だ。
「西日本には珍しいな」
「大きな神社は関東ですが、丹後の国と奈良の明日香に……。大口真神(おおくちまかみ)を信仰しています」
「大口真神とは、ヤマイヌ(狼)のことだったな」
「はい。真の神はお犬さまという教えかと。お犬さまは、人間にとって農作物を荒らす鹿やイノシシ害獣を食べてくれる益獣ですからね」
「鹿もイノシシも、年によって食べる餌が少ない時は、人間の田畑に踏み込んでしまうだろうからな。どちらも生きるのに必死なのだ」
うりずんの瞳が切なさそうに伏せられた。
「うりずんさん。その神社の総代の犬倉という旧家の嫡男は、真加魅(まさかみ)というお名前らしいです」
「まさかみ―――真神も『まさかみ』と読めるな」
「もしや、大口真神と深い繋がりがあるのではありまへんか?」
「うむ。調べてみる価値はありそうだな。天燈鬼、しばらく鴇姫さまのご警護を頼むぞ」
うりずんは天燈鬼の広げた地図を睨んで、しばらく考えこんだ。
第六章 ご懐妊
美甘ちゃんは、鴇姫の縁談のことは何も知らない。
「まだまだ暑い夏はこれからですから、また氷室の氷とアマヅラ煎を持ってきますからね!」
体調のことだけを心配しながら、帰路についた。
文月(七月)に入って二度、鴇姫さまをお訪ねしたが、だんだん顔色が良くなってくるようなので、美甘ちゃんは安心していた。
葉月(八月)と長月(九月)は伺えず、十月の半ばに入って、ようやく訪問した。
まず、鴇姫さまのお元気そうなご様子に驚いた。
「いきいきした表情」とは、このお顔を言うのだというほどのお元気さ。そして、お腹のふくらみを見てびっくりした。
「鴇姫お姉さま、もしや、そのお腹は……」
「え、ええ。そうなの。やはり気づいたのね」
答えを待たず、美甘ちゃんは天燈鬼を呼んだ。
「天燈鬼さん! うりずんさんを呼んでくれる? 一刻も早くよ! 一刻の10分の1でも早く!」
「わ、わかりましたよ、美甘姫さま」
天燈鬼が消えてまもなく、うりずんがお屋敷の玄関にやってきた。
「まだ寝ぐせがそのままで髪の毛が決まらないのに、何を急いでるんだ?」
紅鬱金色の巻き髪を触りながら、うりずんが現れた。
「あなたのクセッ毛は、巻き毛と区別つかないから大丈夫よ! それより、あれほど言っておいたのに~~~!」
「何のことだ?」
「ばっくれてもダメよ! 鴇姫お姉さまには、あれほど手を出さないでって言っておいたのに、まったくあなたって人は!」
美甘ちゃんは思い切り怖い目をして、うりずんを睨んだ。
「なんだって、やかんが湯気を吹くほど赤くなって怒ってるんだ?」
「鴇姫お姉さまのことよ! お腹に赤さまがおられること、ご存知よね?」
「ええっ?」
うりずんは、慌てて案内なしに鴇姫の部屋を訪れ、呆然とした。
「美甘ちゃん! 私が父親だとでも言いたいのかい?」
「そうなんでしょう。違うとは言わせませんよ!」
「違うよ! 神様……季節の神様に誓って!」
「ご自分に誓ってどうなさるのよ。――証拠は?」
ふたりが言い合いをしていると、侍女のナツメが背後で微笑んだ。
「美甘姫さま。残念ながら赤さまのお父上さまは、うりずんさまではありません。先日、お話したご縁談のお相手、狼信仰の神社の総代さまのご嫡男、真加魅さまです」
「まあ!」
鴇姫さまが真っ赤になった。ナツメが、
「真加魅さまが縁談のまとまるまでお待ちになれずに、お越しになったのですよ。その情熱に鴇姫さまは負けてしまわれ……。三日夜の餅(みかよのもちい)の儀式もとうに済まされたので、両家のご両親さまも認められたご夫婦です」
「……!」
「美甘ちゃんには、報告が遅れてごめんなさいね」
扇で顔を隠しながら、鴇姫は小さな声で告げた。
「鴇姫お姉さま……」
かなりショックを受けて、美甘ちゃんが廊下へ出ると、うりずんが待ち構えていた。
第七章 浄闇の記憶
「美甘ちゃん。これで私の潔白が証明されただろう。いくら美しいからって、人を、いや神を『光源氏』のように誰でも彼でもっていう男と同じに見るのは間違いだよ」
「そうかしらね~え?」
ナツメが部屋から顔を出した。
「美甘姫さま、鴇姫様がおふたりでお話がなさりたいそうです」
鴇姫の部屋に、美甘ちゃんはふたりになった。
「美甘ちゃん。皆さまはおめでとうとおっしゃってくださるけど、私は不思議な気分なの」
「不思議な気分?」
「犬倉真加魅さまと結ばれてから、白鹿の夢はぱったりと見なくなったわ。なんだかそれが物足りないような……」
「では、お姉さまは白鹿を愛してらしたということかしら」
「真加魅さまはご立派なお方だし、尊敬しているしお慕いしているわ。でも、夢の中での『浄闇』の心地よさ、ふかふかの苔の上に座っていた白い鹿の気高さが忘れがたいの」
「鴇姫お姉さまは、お犬さまと白い鹿の板挟みになっておられるのかもしれないわね。鹿と狼(お犬さま)は宿敵ですもの」
廊下で誰かが立ち聞きしている気配を感じて、美甘ちゃんは唇にひとさし指をあてて、御簾を素早くめくった。
ナツメが驚いた顔をして立っていた。
「ナツメ。あなた、知っていることがあれば言ってほしいわ」
ナツメはいきなり、その場に正座して深く頭を下げた。
「お許しください。犬倉家の命に従い、真加魅さまを手引きしたのは私でございます」
「まあ」
美甘ちゃんと鴇姫お姉さまは、絶句した。
「私はお犬さま信仰の家に生まれた者なのです。犬倉の殿が希望されていると知り、鴇姫さまと結ばれるよう手筈を調えました。でも、鴇姫さまのお心には白鹿がいて、お悩みさせているのですね」
「ナツメ、頭を上げてこちらへおいでなさい」
鴇姫が冷静に言った。
「誰もあなたを責めやしません。私は自分の意志で犬倉家の嫡男、真加魅さまを夫と決めたのですもの。ただ……、夢に出てきた白鹿とお犬さま信仰のお家とは敵同士。私たちの見えない世界で争っているのかもしれないわね」
切なそうな顔をしてうつむく鴇姫に、美甘ちゃんはかける言葉を失った。
第八章 夢での再会
その夜、鴇姫は久々に浄闇の森へ誘われて、白鹿に再会した。白鹿は純白の直衣(のうし)を身にまとった貴公子の姿をしていた。鴇姫の初めて見る姿だ。
濃い鬱蒼と茂る緑色に囲まれて、なんと眩しい姿だろう。
「鴇姫さま……。会いたかった……」
白鹿の貴公子は、礼儀ただしく苔の絨毯の上で膝を着き、衣をお尻の下に敷いてかかとの上に座った。神々しい正座だ。
鴇姫もまた向かい合って正座した。姫の白い手を取り、貴公子は頬ずりした。
「私はずっと貴女にお知らせしたかったのですよ。鴇姫。お犬さま信仰の者が近づいて、貴女を一族の一員にしようとしていることを察知しましたので。侍女ナツメのことや、毛皮商人のことも」
「そうでしたか……」
白鹿の手を引き寄せようとしたが、彼は動かなかった。
「しかし、私に貴女を引き留める権利はない。貴女が犬倉家の御曹子と心を結ばれたならば、喜んでお祝いを申し上げなければならないと気づいたのです」
「白鹿の君……」
鴇姫の眼から温かい涙が流れた。
「お別れを言うことができて、心がすっきりいたしました。しかし、またすぐにお会いできるでしょうから涙を拭いて」
「え?」
白鹿の貴公子は、鴇姫のふくらんだお腹を衣の上から撫でた。
「ここに息づいている子は、私の生まれ変わりです。血は犬倉のものを継いでいても魂は私です。それほど鴇姫さまを愛しております」
「この子が……」
鴇姫の心は乱れた。夫は犬神信仰の家の嫡男だ。しかし、産まれてくる子は、お犬さまと敵対する白鹿の生まれ変わりだという。どう受け止めればいいのだろう。
「もし、深く悩まれることがあれば、うりずんと申す季節神にお頼りなさいませ」
「うりずんさまに?」
「頼りになる季節の神さまです」
夜明けに目を覚ました鴇姫は、部屋に純白の立派な角が飾られて遺されているのに気づいた。そっと手を伸ばして触れてみると森の中の苔のようにふんわりとしていた。
第九章 神秘的な恋人
しばらくして、猟師が数人、検非違使(けびいし)に捕まった。白鹿といわず狼といわず、毛皮のために決められた数より多く仕留めていた者たちだ。
話によると犬倉家当主の調べで身元が明らかになったらしい。うりずんや、その仲間が手を貸したとか貸さなかったとかは、謎のままだが――。
「考えてみると、鹿の敵も、狼たち肉食の獣の敵も、人間なのかもしれないな」
美甘ちゃんの屋敷に来たうりずんが、しみじみ言った。
「信仰されている方々にとっては鹿も狼も神聖な存在ですものね。というより、人間の方が彼らの生きる世界のじゃま者と言えるかもしれませんね」
「――ところで、鴇姫さまはお元気かな」
「ええ。先日、可愛いおのこをお産みになられたのよ。夢の通りだとその子が白い鹿の生まれ変わりってことになるわ」
「神秘的な話だな。それに、男にとっては夢のような話だ。最愛の女性に母として育てられるとは――」
「私も、神秘的なお方から愛されないかしら……」
美甘ちゃんがため息をつくと、
「そんなにじゃじゃ馬では、それは高望みかもしれないな」
「な、なんですって、うりずんさん!」
「最近、都ではマグシ姫と美甘姫は、『じゃじゃ馬姫ふたり組』とか言って有名らしいよ」
うりずんは大笑いした。
美甘姫の顔がたちまち怒りで赤くふくれた。
「二度といらっしゃらないで! いくら暑い夏が来ても、あなたにだけは、みかんのアマヅラ煎かけのかき氷はさしあげませんからね!」
言葉の勢いに蹴飛ばされて、うりずんは庭に逃げ出した。
庭の木の上では、天燈鬼と翠鬼がふたりを見て手をたたいて笑っていた。
「案外、うりずんさんと美甘姫さまが結ばれたりしてな」
天燈鬼の言葉を聞いたうりずんは、髪をくしゃくしゃ掻き、
「絶対、ぜ~~ったい、あり得ない! あんな子ども姫と。私は八坂神社のスサノオさまのように少女趣味ではない!」
「いやいや、わからんのが男女の仲というものじゃぞ」
天燈鬼と翠鬼はもう一度、笑った。