[359]犬神信仰、鏡色(かがみいろ)の狼


タイトル:犬神信仰、鏡色(かがみいろ)の狼
掲載日:2025/05/31

シリーズ名:うりずんシリーズ
シリーズ番号:15

著者:海道 遠

あらすじ:
 鴇姫(ときひめ)は、お犬さま信仰の神社の総代、犬倉家の嫡男、真加魅(まさかみ)を婿に迎えて、赤ん坊の鏡丸も生まれて平穏な日々のはずだが、心の奥では毎夜、夢に見ていた白鹿の面影を忘れられないでいた。
 鏡丸の成長は著しく早い。鹿のように。
 半年後、幼児の正座教室で美甘姫と再会したうりずんは、裳着の儀式を済ませた彼女をとても美しく感じ、屋敷に忍び込んだ。一晩じゅう正座して眠る彼女を見守る。婆やは早々と三日夜餅(みかよのもちい)の用意を始める。


本文

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第一章 月夜の庭で

 御簾(みす)の隙間から入ってくる月光が真昼のように明るい。あまりに明るくて誘われているような気がして、つい裸足のまま庭に下りた。空には初秋の十三夜の月が煌々(こうこう)と耀いている。まるで月読の君が宴を開いているようだ。
 庭の地面に自分の影が映るほどの月光だ。髪を縛っている紐までしっかり苔の上に映っている。
 鴇姫(ときひめ)は小川のせせらぎをたどり、池の面に自らの姿を映してみた。
 純白の牝鹿の細く美しい姿が映った。ドキリとして後じさる。
(まるで、自分が鹿になった姿じゃないの。あの方に相応しい女鹿の姿だわ!)
 肩をいきなり、大きな手のひらにつかまれてビクンとした。夫の真加魅(まさかみ)だった。
 もう一度、池の面に目を落とすと、戸惑う自分の顔と背後から肩に手を置いている夫だ。
「どうかしたか? 裸足で下りるとは。身体が冷えるぞ」
 夫に促されて褥(しとね)に戻った。

 次に意識が戻ったのは夜明け前だった。背中に夫の温もりと逞しい体臭を感じる。例えるなら、肉食獣の―――。
 初めての時から感づいていた。夫からは狼のような逞しい体臭がする。お犬さま(狼)信仰の神社の総代を務める家の嫡男だからなのか。
 心は狼に近いのだろうか。
 武家の家来に対しては猛々しいが、妻には優しく接する。愛されていることは強く感じる。毎夜、鴇姫の親元の屋敷へ誠実に帰ってくる。
 感謝はしているが、鴇姫の心から白鹿の面影が消えない。先ほども池に白鹿の姿が見えたので、どきりとした。
(私は、夫か白鹿の君か、どちらを愛しているのだろう……。夫との間には可愛い赤ん坊、鏡丸(かがみまる)まで生まれているというのに……分からなくなる時がある)
「鴇姫。不安なことでもあるのか? 私がずっと側にいる。夜が開け切るまで、後少し眠るがいい」
 夫、真加魅(まさかみ)が抱きしめる。狼が真神(真の神)と言われているのも納得がいくほど力強い。まるで喉笛を咬みちぎられるかのような荒々しさだが、心地よくも感じられる。
(狼の神か、鹿の神か、私はどちらを愛しているのだろう……)
 鴇姫は目を閉じて、庭の池に映っていた白鹿の姿を思い出す。
(あの姿は、真加魅さまの妻になる前に、夢で何度も会った白鹿の君? それとも、あの方に相応しい自分の姿を知らず知らず思い浮かべたのかしら)
 最近、夫の家、お犬さま信仰神社の総代、犬倉家には不穏な雰囲気が漂っている。鏡丸の顔見せにしか訪れたことがないが、たくさんの武具が用意されており馬が控えていて、猛々しいことこの上なく、公家の屋敷の雰囲気とはまるで異なっている。
 近々、何かが起きるような気がしてならない。犬倉家の勢力が昂まり(たかまり)つつあるのを感じる。
 敵とは――白鹿の勢力だ。
 鴇姫は隣の褥(しとね)で眠っている1歳の我が息子、鏡丸(かがみまる)の寝顔を見た。すやすやと眠っている。最近ますます白鹿の君に似てきた。
(白鹿の君が予言した通り、彼の生まれ変わりなのだろうか。夫、犬倉真加魅の血を引いているというのに)

第二章 美甘姫

 見上げると、空が高い季節になった。
「鴇姫お姉さま~~~!」
「あのお声は……」
 侍女のナツメがくすりと笑った。
「相変わらず、お元気のよい姫さまですね。美甘姫さまですよ。先ほど、お使いの者が来ました」
「まあ、美甘ちゃんね。鏡丸が生まれてお祝いに来てくださってから、数か月――それ以来かしら? 早くお通ししてちょうだい」
 しぼんでいた花が開いたように、鴇姫は笑顔になった。
 明るい美甘姫と会えば、物憂い気持ちなど吹き飛ばしてくれるだろう。
「鴇姫お姉さま、お久しゅうございます! お元気ですか?」
 侍女のナツメが鏡丸を着替えさせていた。
「まあ、鏡丸さま。大きくなられて。先日は、まだ首が座られていなかったのに」
 鏡丸は着替えがすむと、几帳につかまり立ちしようとしたので、ナツメが慌てて支えた。美甘ちゃんはよけいびっくりした。
「まあ、もうつかまり立ちがおできになるのね」
「そうなのよ。この子はとても成長が早いらしくて。ひとりで何歩か歩けるのよ」
「まだ1歳におなりになっていないのに? 早いわね。さあ、鏡丸さま、美甘のお膝へいらっしゃい」
 庭から、薫丸(くゆりまる)の声が聞こえてきた。
「美甘ちゃ〜ん、『やや桃』さんに会わせてくれよ〜~」
「あの声は?」
 ナツメと鴇姫は顔を見合わせた。
「あ、薫丸くんが待ってるのを忘れてた! 私の家のお隣の幼なじみです」
 美甘ちゃんは玄関へ駆けていった。しばらくして御簾の向こうに少年の影が立った。
「どうぞ、お入りになって」
 恐る恐る、薫丸が御簾の隙間からすべりこんだ。
 そして、鴇姫の前に背筋を真っ直ぐして立ち、その場に膝を着き、水干の下の衣をお尻に敷いて、かかとの上に座った。

第三章 貴公子、薫丸

「あら、正座の所作がよくできる若君ね」
「ちゃんとしないと美甘ちゃんに叱られますからね」
 鴇姫の言葉に、薫丸はやや照れた。
「あら、薫丸くん。さっきの所作、体幹がイマイチだったような気がするけど……」
 美甘ちゃんが批評した。
「そうかな? かかとに座ってからもグラグラしなかったよ」
「ええ。きれいに正座できてたわよ。それより……」
「それより?」
「そんな立派な正座ができるのだから、そろそろ髪をひとつに結ばれてはいかが?」
 薫丸は急に部屋を見回して、
「あっ、やや桃さん、見っけ〜〜!」
 話をはぐらかして、部屋中をハイハイしている鏡丸に歩み寄った。
「鏡丸くんも、もう少し髪が伸びたら、みずら髪が結えるねえ」
 鏡丸は、ヨダレがいっぱいついた可愛い手で、薫丸の下がりみずらをつかんだ。
「いたたた……おいっ、痛いじゃないか!」
「だあ!」
「これ、いけませんよ、鏡丸。貴公子さまのおぐしがゆがんでしまうわ」
「貴公子さまって……」
「すでに立派な貴公子さまですよ。では、こうしてはいかが? 鏡丸がみずら髪を結えるようになったら、薫丸さまは入れ替わりにみずらをご卒業なされば?」
「それじゃ、まだまだ先だな」
「それがそうでもありませんの。ねえ、ナツメ? この子、何故か成長が早いのです。数日後には庭を駆けっこしているかもしれません」
「ええっ?」
「お野菜の離乳食に進むのも早かったですし、正座だってもう少しでできそうですのよ」
 鴇姫の心の裡(うち)で「鹿は生まれ落ちたら、すぐに歩き出す」との話を思い出した。
(やはり、この子は白鹿の君の生まれ変わり?)
 薫丸は、鏡丸のまだ薄い髪の毛をさわりながら、
「きれいな銀色の髪だね。この色は珍しい」
「銀色のことを鏡色(かがみいろ)ともいうそうです。だから、父上が『鏡丸』と命名なさったのですよ」
(そのことを考えると、この子はやはり、お犬さま信仰の犬倉家の血が濃いのだろうか)
 美甘ちゃんたちや我が子と過ごしている時も、鴇姫の心配ごとは胸から去らない。

第四章 美甘のお相手

「そうそう、髪の毛の色というと、紅鬱金(べにうこん)色の美しいおぐしの、うりずんさまはお元気になさっていて?」
 鴇姫が尋ねた。
「最近はあまりお会いしていないのですが、お元気でしょう」
「あら、素気ないのね。美甘ちゃん。彼のことが気にならないの? 琉球にひとりでお住まいなのでしょう?」
「あの方は、大和国全国をしょっちゅう飛び回っておいでですから、心配などしていないのです」
「でも、美甘ちゃんのお側には、こんなに立派な薫丸さまがおいででしょう。ご縁談があっても変ではないのではなくて? うりずんさまは何とも思われないのかしら?」
「はあ? 私が薫丸くんの妻に?」
 美甘ちゃんは、粉熟(ふずく)のお菓子を頬ばっていたが、吹き出しかけた。
「まさかあ! 薫丸くんは元服の儀を嫌がっている幼い人なんですよ。それも、初めて下がりみずらを結ってくださったお母上のことを大切に思ってらっしゃるからなのよ。そんなマザコン、こちらからお断りですよ」
「美甘ちゃん、それはお優しい証拠ですよ。それに、うりずんさんがもし求婚なされば、薫丸さまも猛然とライバル心を燃やされて、対決されるかもしれませんよ」
「薫丸くんとうりずんさんが?」
 美甘ちゃんは、どちらも将来の相手にとは考えられない。
 薫丸がみずら髪を解いて、成人姿になるのも想像できないし、うりずんが飛び回るのをやめて、律儀な夫になることも。
「美甘ちゃん。大切なことを忘れてやしない? 殿方は、2、3人妻を持つことも貴族なら常識なことを」
「そ、それは分かっていますけれど……」
 美甘ちゃんは誰かの二番目になることが論外なのだ。
 薫丸が、不意に口出しする。
「何にせよ、美甘ちゃんの縁談よりは、鏡丸さまが『正座教室幼児コース』に加わる方が先だろう!」
「正座教室の幼児コース?」
 鴇姫とナツメ、そして美甘ちゃんまで目をくるりとした。
「そうだよ! 万古老師匠は『幼児コース』を設けるつもりだよ」
「まあ、知らなかったわ!」
「お方さま、こうなれば……」
 ナツメが口をはさんだ。
「鏡丸さまが美しい正座の所作ができるようになるよう、ご指導申し上げなければなりませんね」

第五章 一晩中、正座

 それから、半年――。
 平和な時が過ぎていった。
 京の正座教室の外で「うりずん拳法」の稽古を子どもたちにつけていたうりずんが、万古老正座教室の「幼児進路教室」を訪ねた。鴇姫の子息が教室で一番年少にて、お稽古を始めると聞いたからだ。
 教室では、1歳半くらいの男の子が鴇姫に抱かれて万古老師匠に挨拶しているところだった。
 美甘ちゃんも付き添っている。母親と同じくらい鏡丸さまの扱いに慣れて、とても女らしく見えた。
 以前と印象が違う。裳着の儀(平安時代の女子の成人式)を済ませたので、髪を頬の線で切りそろえているせいなのか。
「久しぶりだね、美甘ちゃん」
 振り返った美甘ちゃんは、よけい大人びて見えた。
「本当ですね。ご無沙汰申しておりました、うりずんさん」
(思春期のおなごというものは、こんなにも短い間に大人に変貌を遂げるものなのか―――)
 鏡丸さまに話しかけたり口元を拭いたり、甲斐甲斐しい世話をする手つきが、とても母親予備軍らしく感じられる。
(今まで子どもにしか見えなかったのに―――)
 心なしか、胸が熱くなった。

 鏡丸さまの第一回めの正座のお稽古はうまくできた。ちょこんと膝を曲げて座り、小さな足を揃えて座る様子は微笑ましいことこの上ない。
 しかし、うりずんの視線は鏡丸さまより美甘ちゃんに流れていってしまう。

 その夜――、
 美甘ちゃんはふと夜中に目を覚ました。紙燭(しそく)だけが燃えている薄暗い部屋の中に座っている人影があるではないか。
 目をこすって見直すと、うりずんだ。背筋を伸ばして布団の傍らに一糸乱れず、正座をして見つめているではないか。
「だ、誰っ? ……うりずんさん……!」
「私の真の名前を忘れたのか」
「え〜〜っと……」
「梵(そよぎ)だ。これからは、そよぎと呼ぶがよい」
「いつからそこに座ってらしたの……?」
 美甘は起き上がろうとして、うりずんの逞しい腕で褥(しとね)にポンと倒された。そのままかぶさって黒髪をつかまれる。榛(はしばみ)色の瞳が間近に迫った。
「急に美しくなるからいけないのだ。闇に飛び交う魔が忍びこんでやしないか、眠っている間にもっと成長しやしないか、一瞬も見落としたくないから見張っていたのだ」
 真摯な言葉だ――。それでいて熱い想いの告白ではないか。
「どうかなさったの……?」
「自分の思いに気づいたのだ」
「こ……こんなの無礼よ、狼藉よ。乙女の部屋に忍びこむなんて……」
 花びらのような唇を、うりずんの唇がふさいだ。
(むぐぐ! ……息ができない……)
「私の真の名前を忘れていたお仕置きだ。いいか、庭に警護の者を増やせ。部屋の中にも侍女を数人置け。危なっかしすぎる。お前はこんなに黒髪が輝いて首筋は白く伸びやかで、私をうずかせる。―――自分では全然、分かっていないだろうが」
 美甘は、うりずんの胸を押しやって起き上がった。肩で息をしていた。
「部屋じゅう、うっとりとする浄闇(じょうあん)に満ちているな。お前の香り……のせいだ」
「浄闇……?」
「清らかな闇のことだ。安らかに癒やしてくれる森の香りをまとった温かい闇だ」
 御簾の外が仄か(ほのか)に明るくなってきた。
「じきに、婆やさんが来るだろう」
 うりずんは立ち上がった。
 美甘は、胸のワクランが止まらない。

(え〜〜っと、こんなのが3日続くと三日夜の餅(みかよのもち)の儀式になるの? うりずんさんが美甘に、チューするなんて! さっき確かにチューしたわよね? これで結ばれたってこと? 誰かが、チューの味って甘いとか言ってたけど苦しいだけだったわ……)
 衣を整えて簀の子へ出ていこうとしたうりずんは、振り向いて、もう一度膝をつき、ぎゅ〜〜っと、思い切り強く強く美甘の身体を抱きしめた。
「去りがたい。離れたくない。――美甘よ。私のものになるか」
「えっ……」
 声が出ない。
(さっき、チューしたじゃないよっ)
「正妻になるか、と聞いているのだ、お転婆娘」
(奥方になる……? まさか……正妻を持つおつもりがあっただなんて……。うりずんは神さまなのよ。手の届かない気高い方なのよ)
 もじもじしていると、
「また来る」
 御簾の間に身体をすべりこませ、薄むらさきの庭に下りていった。

第六章 後朝(きぬぎぬ)

 婆やが来る時間が迫ってきた。
 御簾の隙間から美甘ちゃんは、うりずんの後ろ姿を見送ったが、その時、柴垣の戸を開けて入ってくる薫丸くんの姿を見かけて、ドキリとした。
(薫丸くん、こんなに朝早くから何のご用かしら。うりずんさんが出ていくところを見たかな?)
(何も後ろめたくないわよ! こんなの後朝(きぬぎぬ=初めて過ごした翌朝)じゃないってば!)
 婆やが蒔絵の施された美しい角盥(つのだらい)を持って入ってきた。美甘ちゃんは毎朝のように顔を洗って口をすすいだ。
「姫さま、お香が?」
 残り香が漂っていたのを、婆やは感づいた。
「これは確か、うりずんさまのご愛用のお香……。姫さま!」
 婆やはひざまずいて、いきなり泣き出した。
「ど、どうしたの、婆や」
「婆やは嬉しゅうございます。ど、どんなに嬉しいことか。いつまでもネンネの姫さまに、いつになったらお婿さまがいらっしゃることかと心を揉んできました。そこへ、あんなにご立派な神さまがおいでくださるとは」
 袖を顔にあてて泣きじゃくっていたが、
「そうだわ! 早く母屋のご両親さまにご報告して、三日夜の餅(みかよのもちい)を用意しなければ!」
「婆や、それは早すぎるわ。まだ一夜目よ。それに、昨夜は何も……」
「いいえ、殿方はいつ心変わりされるか、ご立派なうりずんさんを奪っていかれる女君がおられるかも、分かったものではございません。一日も早くお披露目いたしましょう!」
 急いでハナをち~~んとかむと、婆やは出ていこうとする。
 その時、侍女がやってきた。
「お隣の薫丸さまが玄関にお越しです」
「いつまでもマザコンのみずら髪のおのこを、姫さまに近づけてはいけません!」
 婆やがきつく侍女に言い渡す。
「でも、急がれておいでで……」
 美甘ちゃんはイヤな予感がした。身支度もそこそこに玄関に飛んで行った。
「薫丸くん、どうしたの?」
「これを渡しに来た」
 犬(狼)の描かれたお札(ふだ)を数枚、侍女に手渡した。
「お犬様信仰の神社のお札替えだ。それと、鴇姫さまの殿からすぐに来るようとご命令だから、おいらはしばらく留守にする」
「何か起こったのかしら?」
「武士を引き連れて森へ行くとのことだ」
「それって出撃命令じゃないの! どなたかと戦うの?」
「まだ分からない。じゃあな!」
 みずら髪をポンポン跳ねさせて、駆けていった。
(そりゃあ、あのみずら髪では婿に迎えようなんて誰も思わないでしょうねえ)
(もし、このまま、うりずんさん――そよぎの妻になれば、今までみたいに気安く話ができなくなるかな? 他の皆ともきっと、今までみたいに気軽に旅に出たりできなくなるわね)
 牛車の用意をするよう侍女に言って、美甘ちゃんも急いで出かける支度をした。

第七章 白鹿狩り

 到着した先は、鴇姫お姉さまのお屋敷である。
 案の定、鴇姫は鏡丸を抱きしめて震えていた。
「鴇姫お姉さま! もう大丈夫よ。美甘が来ましたから。殿さまがご出陣の間、一緒におりますからねっ」
 鏡丸を抱き取って、
「若君さま、美甘と遊びましょうね」
 などと明るく振舞ってみたが、鴇姫お姉さまの顔色が冴えない。
「どうしましょう……。殿は家来をたくさん連れて浄闇の森へご出陣になった……」
「犬倉家の殿さまは、どなたと戦われるのですか?」
「森へ鹿狩り(ししがり)に行かれたのよ」
「え? 戦いじゃなくて鹿狩りなのですか?」
 肩透かしを食らったようだ。しかし、鴇姫の表情は悲痛だ。
「鹿狩りに行かれたなら、夜にはお戻りでしょう。そんなお顔を、なさって一体……」
「美甘ちゃん……森の白鹿は――私の愛するお方なのです。そして鏡丸は白鹿の魂を受け継いだ子なの」
「はあ?」
 すぐには訳が分からなかった。
「鏡丸は、犬倉真加魅(まさかみ)さまを父に持っていますが、魂は白鹿の貴公子から受け継いだものなの」
「え? もう一度お聞きしてもいいかな」
「私は犬倉真加魅の妻です。でも、心は白鹿の君のものなの。以前、白鹿に会う同じ夢を見るとお話したでしょう? あの時の白鹿を愛してしまったのです」
 美甘ちゃんは呆然とするしかない。
(これって、うりずんさんと薫丸くんの間で心が揺れている私と、少し似ているのかな?)
「殿は白鹿の貴公子を討ちに出撃されたわ。どうしたらいいの? 夫が愛する方を討ちにいくなんて」
「でも、表面上は鹿狩りなのでしょう?」
「夫はお犬さま信仰の神社の総代ですもの。鹿狩りは民の農作物のための行事。行わなければなりません。でも――、殿は薄々、私の心を見通しておられるような気がするの……。今日の狩りは、殿が白鹿の君と勝負をつけるためのものだと思います」

第八章 そよぎを呼ぶ

 美甘は胸を押さえてよく考えてみた。
(鴇姫の殿が恋敵を討ちに行ったのなら、白鹿の君の命が危ない。何せ、犬倉家の嫡男は勇猛で知られ、お犬さま信仰の神社に守られているのだもの。白鹿の素晴らしい営利な角をもってしてもどうにもならないでしょう)
(こんな時、頼れるのは、ただの人間ではなく――)
 うりずんの面影が胸によみがえった。
(うりずん――いえ、そよぎなら、なんとかしてくれるかもしれない!)
 美甘は庭に出て、天燈鬼と竜燈鬼を呼んだ。
「邪鬼さんたち~~~、いつも申し訳ないけど、そよぎはどこにおられるかしら?」
 天燈鬼と竜燈鬼が、都の辻の向こうから駆けてきた。
「呼ばれましたか? 美甘姫さま」
「(梵)そよぎを呼んでほしいの」
「そよぎ? ああ、うりずんさんのことか」
「そよぎって呼びなさいって言われたの」
「うりずんさんは本当に心を許した方にしか、そよぎと呼ばせませんよ」
「あら、そうだった?」
「天帝から下賜(かし)された貴いお名前ですからね。それを美甘姫にお許しになったってことは……」
 天燈鬼と竜燈鬼が顔を見合わせて「うひひ」と笑った。
「なあに、その笑い方……やあねえ」
「つまり、後朝の朝を迎えられたのでしょう? でなければ、うりずんさんは、大切なお名前を呼ばせませんよ」
「一回、チューしただけのことを後朝と呼ぶならね!」
 天燈鬼と竜燈鬼は、また顔を見合わせて地面に伏せそうなほど、がっくりした。

 ほどなく、うりずんが騎馬で駆けつけた。
「いかがした、美甘?」
「私も後ろに乗せて!」
 美甘ちゃんが素早く、袴の裾をヒモで縛って馬に乗った。
「犬倉の殿が白鹿狩りに出かけられたの。鴇姫お姉さまは白鹿の君を愛しておられるから、助けなければならないの」
「つまり、犬倉家の殿に逆らって鹿を救えというのか?」
「そうよ、そよぎ」
 鞍にまたがり、うりずんの背中に捕まった。
「出しゃばっているな、美甘。おしとやかにせよ」
「おしとやかにしていては、不可能なことがいっぱいあるわ!」
「ふむ。なら、許すが、危険を冒すことはならぬぞ!」

第九章 狼VS白鹿

 浄闇の森が点々とある原野に、緑のまぶしい草原が広がっている。
 鹿が群れとなって駆けている。その先頭にひと力強く跳躍しているのは、体格の立派な白鹿だ。
「わあ~~、美しい! なんて勇ましいのかしら!」
 手綱を持つうりずんの背から、様子を見た美甘ちゃんが嬉しそうに背伸びする。
「こら、危ない!」
「はぁい」
 うりずんの注意にも今日はおとなしく聞く。
 やがて後方から法螺貝(ほらがい)の音が追ってきた。犬倉家の武士どもが追いついてきたらしい。
 勇ましい狼の群れさながらだ。
「鹿の群れを崖のある土地に追い込んでいるな」
 うりずんが洩らした。
 茶色い鹿が一頭、また一頭と、矢に射抜かれて倒れていく。
「我が家の鹿狩りは、他の家とは比べものになるまい」
 先頭の黒い馬に乗った逞しい武者が叫んだ。犬倉真加魅らしい。弓の冴えを見せている。
「どうやって救うの? ねえ、どうするつもり? うりずん」
「考えている」
「私が鴇姫なら、愛する人を失うなんて絶対にいやよ。ねえ、そよぎ、聞いてるの?」
「少し静かに。美甘」
 先ほどまで秋晴れの空だったのに、黒い雲が西から湧き出してきた。
「一雨来そうよ、そよぎ!」
 風が強くなってきた。

 行き止まりの崖が前方に見えてきた。
 鹿の群れは跳躍を止めて行先を変える。しかし、そうはさせじと鹿狩りの武士どもが行く手をはばむ。
 白鹿だけが、ついに崖っぷちに追い詰められた。
「白鹿の君、危ない――」
 一歩先は絶壁の谷だ。
 鹿狩りの集団が迫り、犬倉の殿が馬上から矢を構えた。
「白鹿よ、真の神はこの犬倉真加魅じゃ。教えてくれよう!」
 強弓(ごうきゅう)から矢が放たれた。
 しかし、一陣の強風が矢を逸らせた。
 風に流れて谷底へ落ちていった。一瞬の機会を白鹿は逃さなかった。谷の底めがけてジグザグの岩を跳んで下っていった。
「おのれ、逃したか!」
 犬倉の殿は歯がみした。
「い、今のはどうなったの? どうしたの?」
 うりずんの背中で美甘ちゃんがわめいた。
 薫丸が武装したまま、うりずんの馬に駆け寄った。
「確かに確認しました。白鹿の君は無事に谷に下り立ちました!」
「薫丸くん、様子を見てきてくれたのね! ありがとう!」
「いやなに」
 薫丸はまた、犬倉の一軍に戻っていった。犬倉家の一団は撤退を始めた。
「ねえ、どうしたの、何かした? そよぎってば」

第十章 稲妻の夜

 戻ってきた美甘ちゃんは、鴇姫お姉さまに白鹿の君の無事を報告した。
 鴇姫は鏡丸を抱きしめ、嬉し涙にまみれながら、美しく正座して美甘ちゃんに頭を下げた。
「白鹿の君は無事――! 良かった――!」
「うりずんの神通力によると、犬倉の殿は最初から白鹿を仕留めるつもりはなかったと考えていたとか。可愛い鏡丸さまの父親を討つわけにはいくまいと――」
「ありがとう、美甘ちゃん。これで安心して眠れるわ」
 鴇姫は美甘の手を握りしめた。

 その夜は昏い雲が広く広がり、秋の大嵐となった。
 雨風が美甘の屋敷にも激しく吹きつけ、ごうごうと唸りをたてた。女房たちは夕暮れには木戸をすべて閉め切った。それでも地響きのように雨風が続く。
「これじゃ、そよぎは来れないわねえ」
「天の神さま、どうか雨を止ませてくださいまし。今夜は姫さまの大切な二日目の夜なのです」
 懸命に手を合わせて祈っていた婆やも、ついに諦めて母屋へ戻った。
 百篝(ももかがり=稲妻)の神は、大暴れを止めない。
 美甘が几帳の内側に入ると、先に横になっている人影がある。うりずんが打ち掛けを広げて待っているではないか。
「そよぎ! 来てくれたのね」
 稲光が寝室に閃光を放ち、うりずんの紅鬱金色の髪を輝かせた。
 うずらの雛のように、美甘は愛する人のふところに潜りこんだ。不思議にも少しも雨に濡れていない。
「来るさ。まだ二日目の夜だもの」
「後朝の文は?」
「あ、鹿狩りにまぎれて忘れていた」
「じゃあ、今から書いて!」
「仕方ないなあ」
 起き上がり文机に向かった。が、なかなか戻ってこない。
 やがて筆と紙を放り出して、畳の上に寝転んだ。
「勘弁してくれ。実は人間の詠む歌っての、詠めないんだ」
「神さまなのに? 歌が詠めないのお?」
 美甘ちゃんは吹き出して大笑いした。どうにもこうにも可笑しくて笑いが止まらない。
「そんなに笑うことないだろ」
「だって、だって、神さまのくせに……歌が詠めない? 可笑しいったら! あ~~~はっはっは!」
「歌なんて詠まなくても」
 うりずんは美甘の身体を組み伏せて唇といわず、おでこといわず、鼻のてっぺんといわず、あごの先といわず、チューを浴びせた。
「こんなにお前のことが愛おしいのだ」


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