[343]赤さまはどこから?


タイトル:赤さまはどこから?
掲載日:2025/03/14

シリーズ名:うりずんシリーズ
シリーズ番号:9

著者:海道 遠

あらすじ:
 季節神うりずんの住む琉球に一時、預かってもらっていたマグシ姫と美甘ちゃんは京の都へ帰ってきた。幼なじみの薫丸(くゆりまる)は、美甘ちゃんに久しぶりに会うと知って大慌て。侍女のひじきはお産が迫っていた。
 一方、マグシ姫は、美甘ちゃんが「玉兎の訪い」を経験したと知って、焦っていた。「玉兎の訪い」は、赤ちゃんを産むための身体の準備だと聞いたからだ。
 お腹の大きくなったひじきは、万古老師匠から妊婦のための正座を助言してもらい、師匠はそれをきっかけに「妊婦のための正座教室」を開くことにした。



本文

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第一章 傀儡子(くぐつし)大好き

「若君さま、またお外へ?」
 乳兄弟の侍女、ひじきの声と乳母の声が二重奏となって甲高く響いた。
「決まってるじゃないか。傀儡子一座は今、絶好調なんだぜ、毎日、見に行かなくちゃ!」
「ご勉学と武道の鍛錬は、いつなさるんですっ?」
「ま、ま、空き時間にちょいちょいやるから! あ、ひじき! 下がりみずらの髪が、ちょっとゆがんだから直してよ!」
 薫丸(くゆりまる)はドスン! と鏡と侍女の間に正座した。
「抜け目なく正座しましたね! 仕方ないですわね」
「へへへ……」
「紀伊の国のお姫さまがいらっしゃるというのに、クシャクシャのおグシではお会いできませんものね!」
「――は? 今、なんつった、ひじき!」
「紀伊の国のお姫さまがいらっしゃるのに、おグシを整えないとなりませんね、と……」
 薫丸は急いで振り向いた。
「美甘(みかん)ちゃんが、京に帰ってくるのか?」
「はい。西に旅に出られていて、紀伊へ戻られるついでにご本家にお寄りになられるとか。きっとこちらにも来られますよ」
「ええ〜〜! 美甘ちゃんが!」
「だから、若君さまも男を磨きましょ!」
「前に紀伊の国へ、リ・チャンシー先生とおじゃましてから、どのくらい経つかな〜?」

 ―――しかし、待てど暮らせど、美甘ちゃんは来ない。ついに夕暮れになった。
「どうなってるんだ、迷子になってやしないだろうな」
 薫丸が簀の子や玄関をウロウロしている間に、どんどん暗くなってくる。玄関脇の出入り口をドンドンと叩く音がした。
 玄関番が出ていくと、身体の色の剥げた小鬼が2匹立っているではないか!
「うわあ〜、お、鬼!」
「何を騒いでいるの?」
 ひじきが出ていった。
「こちらは九条家のお屋敷ですか?」
 ギョロリとした目玉に牙を生やした小柄な鬼が2匹いて、片方は首にヘビを巻きつけている。
「ぎゃあああ、あ、あなた方はもしかして?」
「チマタで人気急上昇中の天燈鬼と竜燈鬼と申しますが」
「やっぱり! サインくださいな! 握手して!」
 ひじきは舞い上がった。
「はいな。後でゆっくり」
 片方の鬼が、
「それより、紀伊の国の美甘姫さまからのご伝言で、先に八坂神社へ寄ることになったから、薫丸くん家には明日行くと……」
「なっに〜〜? 八坂神社に先に寄る? なんでやねん? どうして? あ、おいらに会うために浄化してもらうとか」
「あ、あのう……」
 天燈鬼を、竜燈鬼の首に巻きついていたヘビが引き止めた。
「それは、美甘姫さまのお口からお聞きになってください」
「ええっ、水くさいなぁ〜〜」
 不機嫌になった薫丸は、
「腹が減った〜〜! 早く夕餉(ゆうげ)〜〜!」
 と、わめき散らした。
 夕餉の膳が運ばれてきても、正座もしないであぐらのまま、ご飯をかき込む。
 邪鬼たちは、ヤバい気配を感じてそそくさと引き上げた。
「平安時代に来たんだよな、おいらたち。あの人気は令和じゃなかったっけ?」
「邪鬼の人気が時代を遡って(さかのぼって)きたんじゃないか?」
「鬼さんたち、頑張ってね! サインありがとう!」
 ひじきと乳母は邪鬼のサインをもらって大満足の様子だ。サインと引き換えにおやつのおひねりを差し上げた。
 その様子を見た薫丸は、よけい腹が立ってきた。

 翌朝、薫丸が大の字になってふて寝していると、ひじきが長い廊下を小走りになって結び文を持ってきた。
「若君さま、お文ですよ、美甘姫さまから」
 眠そうな目をこすりこすり、文を広げた。
「美甘ちゃんの文字だ! なになに、『八坂神社の奥殿に来てください……?』自分から来ないで呼びつけるつもりか? 隣の実家なら分かるが、なんでおいらが美甘ちゃんの滞在先へ行くんだ?」
「さあさあ、文句言ってないで、早くお支度しましょうか」
 ひじきが薫丸の重い身体を起こしていると、乳母がやってきた。
「これ、ひじき。若さまを起こすのは力が要りますよ。無理してはいけません」
 薫丸は、ハッとしてぱっちり目をあけた。
「そうだった! ひじき! 支えなくても大丈夫だよ」
 別の侍女を呼んで手早く着替えてしまった。
 別室には、炊きたてのご飯の匂いが漂っていて朝餉の膳の用意してあった。炊きたてのご飯で薫丸はさっさと済ませてしまった。
 が、配膳をしていたひじきが、口元を押さえて席を外した。代わりに乳母が配膳役をした。
「どうしたの、ひじきは」
「なんともございませんよ。お腹のややがまだ小さいうちは、ご飯の匂いなどが気分を悪くさせるのです」
「お腹のやや……。まだ目立たないから忘れていた」
 ひじきは先日、通ってきていた男と三日夜餅(みかよのもちい)の儀式を交わし、正式に夫婦になったのだった。日を置かずお腹にややができたと報告を受けたところだった。
 薫丸は弟や妹がいないので、母上のそういった変化を見たこともないので、さっぱり分からなかった。

第二章 八坂神社で

 薫丸はいつものように水干をまとい、髪を下げみずら髪に結ってもらうと、ひとりでさっさと八坂神社へ出かけた。
 神社は春を迎えていろんな花が咲き、1年で1番美しい季節だ。少し階段を上がって朱い山門をくぐる。
 朝から参詣のお客様もいっぱいだ。
 奥殿の前に、薄茶色の髪の背の高い男が立っていた。直衣(のうし)を身につけた貴公子だ。
 ふわふわした髪の毛が風に踊っていて、結っていないが違和感はない。茶色っぽい瞳はミドリ色を帯びて深い色を醸し出している。
 薫丸を見ると、
「九条家の薫丸君におわしますか」
 と言った。
「そうだよ」
 と、薫丸が答えたと同時に、女の童がふたり飛び出してきた。
「薫丸くん、いらっしゃい!」
 そのうちのひとりが目を輝かせて挨拶した。
「み……美甘ちゃん! 見違えたよ! 大きくなって!」
「薫丸くんも背が伸びたんじゃない?」
 幼なじみの美甘ちゃんは、すっかり綺麗になっている。
「昨日はごめんなさい。時刻が遅くなったので、スサノオの尊さまの社殿に泊まらせていただいたの」
 もうひとりの少女も、溌剌としている。
「こちらが八坂神社のご祭神の奥方さまのマグシ姫さまよ」
「え? ひぇっ! スサノオの尊さまの奥方さま!」
(道理で、美甘ちゃんのような振り分け髪ではなく、ちゃんと結い上げている)
 薫丸は恐縮して小さくなった。
「どうぞ、お上がりくださいな」
 薫丸はもじもじした。
「どうしたの? どうぞ」
「だって、スサノオの尊さまもいらっしゃるんだろ? おいらなんか、どんな顔してお会いすればいいか……」
「そのままで立派な公家のご子息よ。スサノオの君も、普通の優しいおじさん。さあ、いらしてください」
 マグシ姫は、薫丸の肘をつかんでひっぱっていき、奥殿の1番奥の部屋まで通された。
「さあ、こちらよ」
 マグシ姫が襖を開けると、床の間を背に黒いあごヒゲを生やした温厚そうなおじさんが、にこにこして出迎えた。どっしりした正座をしている。

第三章 スサノオの尊おじさん

「ようこそ、いらっしゃい。薫丸くん」
「は、初めまして」
「なるほど、トレードマークの下げみずらがよく似合っているね」
「は、ありがとうございます」
 薫丸は心の中で、舌打ちした。
(美甘ちゃんのおしゃべり!)
「下げみずらを愛するあまり、元服を遅らせているとか」
「は、まあ」
「そんなに下げみずらに思い入れがあるとは?」
「おいら……いえ、麿は生まれた時から黒髪ぼうぼうだったそうで、最初の髪結いで母が下げみずらを結ってくれたそうなので……」
「これはなんと親孝行な!」
 スサノオの尊は爽やかに笑った。
 薫丸が気がついたが、尊の傍らに座っているのは玄関にいたふわふわ頭の男ではないか。
「私は琉球の季節神うりずんと申します。私のお願いで美甘姫に琉球へ来ていただいていたのです」
「琉球へ? なんでまた?」
「それはおいおい話すとしましょう」
 静かに微笑んで黙りこんだ。

 マグシ姫がビイドロの湯呑みでお茶を持ってきた。
「はい、お茶をどうぞ。チョウ豆というハーブティーです」
「は〜ぶち〜?」
「お茶の一種です。きれいな色でしょう」
「青い!」
 薫丸は、がぶりとひと口飲んだ。
「不思議な味だなぁ」
「氏子さんからいただいたんですけど、レモン汁を垂らすと紫色に変わるんですよ!」
「へえ〜、それは見たいですね!」
 さっそく、マグシ姫がレモンの絞り汁を持ってきた。1滴垂らすと鮮やかな紫色に変わった。
「おお!」
「ハーブティーだけだったら、全然味が感じられないんですけど、レモン汁を入れると風味豊かになって。最近、何杯も飲んでしまいますの。琉球のうりずんさんのお宅にも持っていってたくらいです」
「美甘ちゃんとこのみかんもたくさんあったのに?」
「あら、よく分かりますね、薫丸さん」
「あいつから、みかんを切り離せませんからね」
「さすが、公家幼稚園舎ぴちぴち組からの幼なじみ! よくご存じね」
 美甘ちゃんが照れて、
「もう〜〜、薫丸くんたらっ。私のこと、みかんから生まれたみかん太郎! なんて呼んでたんですよ。ひどいでしょう」
 その間にも、マグシ姫はチョウ豆茶を何杯もおかわりしていた。

 うりずんもお茶をいただきながら、この度、美甘姫を琉球の家で預かることになったわけや、起こったことを薫丸に報告していた。
「えっ、じゃあ、マグシ姫さまは得体のしれない男にさらわれそうになったのですか!」
「そうなんだ。それも美甘姫と間違ったらしい。だから、薫丸くん、美甘姫の警護をちゃんとしてあげなければ! 傀儡子一座と遊んでいる場合じゃないぞ」
「……!」
 薫丸の目つきに真剣な光が宿った。
「なんですって! それも正座師匠を敵視する輩なんですかっ?」
「それについては、まだ何も分からん」
 うりずんは押し黙った。

「私にできることなら、いつでも力を貸すからね」
 スサノオの尊が力強い言葉を言った。
「これは有り難いです! おいら、いや、麿からも万古老師匠にお伝えします」
「私からも」
 うりずんと薫丸は、そろって頭を下げた。

第四章 腹痛

「う……」
 突然、マグシ姫がお腹を押さえてうめいた。
「どうした? 姫さん」
 スサノオの尊が寄り添う。
「ちょっと、ハーブティーを飲みすぎちゃったみたい」
「おバカさん。調子よく飲んでるなぁ〜と思ってたんだ」
「マグシ姫さま、こちらへ。横になってください」
 美甘ちゃんが寝室へ連れていった。
「マグシ姫さま、どの辺がお痛いですか?」
 姫は下腹の辺を押さえた。
「変ねえ、飲みすぎなら鳩尾(みぞおち)が痛くなるはずだけど。
 マグシ姫さまには、古参の婆やさんか乳母さんはおられないのですかっ」
「いないわ。実家の母親も千数百年前に亡くなったし……」
「さすが神様! でも、こういう時、困るのよね……」
 美甘ちゃんはしばらく考えてから、先ほどの部屋に戻った。
「薫丸くん! あなたの乳母さまに来ていただくわけにいかないかしら!」
「え? 乳母に?」
 薫丸にも美甘ちゃんの必死な表情が伝わった。
「ちょっと待ってて! 連れてくるよ!」
 境内の人混みをすり抜けて走ってった。

「乳母! 乳母! どこだ?」
 九条家へ着くなり、薫丸は乳母を呼んだ。
「なんですか、若君。若君から大声で呼ばれるなんて、めったにないこと……」
「八坂神社のマグシ姫さまが、お具合が良くないんだ! 直ぐに診て差し上げてほしい!」
「ええっ、何と? 八坂神社のマグシ姫さま?」
 乳母が戸惑う間もないまま、薫丸は背負って走り出した。
 途中で横道から馬でやってきた、うりずんに出会った。しかし、人混みに馬を乗ることは危険すぎる。結局、神社の奥殿まで薫丸が乳母を背負って走り、ようやく行きついた。
 薫丸の乳母は美甘ちゃんに案内され、マグシ姫の枕元に駆けつけた。
「姫さま、九条家の乳母でございます! ちと失礼してお腹をさわります」

第五章 乳母、大忙し

「お腹が痛い……」
 美甘ちゃんがマグシ姫のひたいの汗を拭いていた。
「マグシ姫さま、しっかりなさって! 薫丸くんの乳母さまがおいでくださったわ!」
 マグシ姫は乳母の手をしっかり握った。
「これは……もしや……」
 乳母の顔色が変わった。
「姫さま、しっかり! 乳母の問うことに慎重にお答えくださいませ」
 マグシ姫はうなずいた。
「今月『玉兎(ぎょくと)の訪い(おとない)』はありましたか?」
「ぎょく……と……? 何のこと……?」
 苦しい息の下から、姫は尋ね返した。

「頼もう〜〜」
 玄関で男の声がした。
「あ、うちの舎人(とねり)の声だ」
 薫丸が洩らした。
 急ぎ、玄関へ行くと、
「ひじきどのからご伝言です。腰の具合が悪いから、乳母どのに帰ってくださいと」
「ひじきが? どうしたんだろう」
「お腹のせいで、座り心地が良くないとかで……乳母どのに帰ってくださいと」
「乳母は今、マグシ姫さまの手当だし、どうしよう?」
 すべてを聞いていた、うりずんが立ち上がった。
「私が万古老師匠どのを迎えにまいろう!」
「うりずんさん、ありがたいです! マグシ姫さまのご様子が落ち着かれたら乳母と後から帰りますから、宜しくお願いします!」
「分かりました、若君!」
 うりずんは素早く馬に乗り、万古老の住む山の洞窟へと向かった。

 都に到着した万古老は、すぐさま九条家に向かい、ひじきの様子を診た。
 母体も胎児も健康だ。お腹が急速に大きくなってきてどうやって座ればいいのか、持て余していたというのが当てはまるようだ。
「妊婦さんは正座しなくてはならんとは言っておらんぞ。横座りになってもよいから楽なように座るのが1番じゃ」
 他の侍女に、もたれ心地のよい座り位置をこしらえるように言った。
「なに、六月(むつき)じゃと? まだまだ大丈夫、健康な妊婦さんなのじゃから、立ち働くがよいぞ。転ばぬようにだけは気をつけてのう」

第六章 思い違い

「『ぎょくとの訪い』って何ですか……?」
 マグシ姫に尋ねられて、乳母は説明しようと焦った。
「月に一度のアレですよ。1番最近はいつでしたか?」
「月に一度の……?」
 そこへ、夫のスサノオの尊が襖を勢いよく開けて入ってきた。
「あなたさまは! 八坂神社のご祭神、スサノオさまでは?」
 九条家に仕える人々は突然のスサノオの来訪に驚いて、接待の支度に散ってしまった。
「乳母どの。姫さんの身体は、まだ大人になっていないと思われる」
「は……」
「赤さんがほしいと思いつつ、まだ身体は準備ができていないのだ」
 マグシ姫が立ち上がろうとした。
「ご不浄(お手洗い)に行きたい……」
「分かりました。まいりましょう」
 乳母はマグシ姫の肩を支えてついていった。

 しばらくするとマグシ姫は寝室に戻り、すっきりした顔をして、
「ご心配をおかけしました。どうやらチョウ豆ジュースの飲みすぎだったようです」
「お腹の痛みは治まったのですか?」
「はい。お世話をおかけしました」
「いえいえ、姫さまさえご無事ならよろしかったのですけれど……もしや、赤さまを宿されて、何ごとかあったのかと思ってしまい……」
 マグシ姫は真っ赤になりながら、
「君さまが先日、熱い接吻をされたので、きっと赤さまが授かったのだと思ってしまい、美甘ちゃんに言ってしまったの」
「え? 接吻?」
 スサノオの尊が咳ばらいして、周りの視線を避けながら、
「あの時は姫さんを可愛く思えて、つい長い接吻をしてしまったのだ」
 乳母は、ふたりを交互に見つめて、
「そ……それは、とんだ思い違いでしたわね。でも、そのうち、きっと――」
(それにしても―――、おふたりは出会われてから、千年近い年月が流れているのに、スサノオの尊さまはずっとマグシ姫さまのご成長をお待ちになってらっしゃるのかしら?)
 他人事とはいえ、気をもんでしまった乳母である。

第七章 妊婦のための

 その日の夕刻、九条家から万古老師匠が引き上げる間際に、薫丸と乳母と美甘ちゃんが帰ってきた。
 薫丸と乳母は万古老師匠に何度もお礼を言った。
「娘のひじきが誠にお世話になりました」
「いやあ、何ごともなくて良かったですな。健やかなお子が生まれますよう、祈っておりますぞ。―――それに、お礼を申し上げるのはこちらの方です」
「は?」
「ワシは、この度のことで思いつきました! 『妊婦のための正座教室』を開こうと!」
「万古老師匠、本気か?」
 薫丸が思わず問い返した。
「本気じゃとも。妊婦さんにも正式な正座の所作をお教えして、妊婦さんに無理のかからない座り方を広めなければのう。例えば――、背筋を伸ばして立ち、ゆっくりと膝をつき、お腹の大きい妊婦さんは後ろに手をついてもよいぞ。ゆっくりと衣の裾をお尻の下に敷きながら、かかとの上に座る。横座りしてもよろしい。てな具合じゃ。うりずんさんも手伝ってくれるそうじゃから」
 背後にいた、うりずんが、
「私が手伝うと? いつの間にそんなことに?」
 慌てたうりずんは、紅くなっている。
「はははは、きっと手伝ってくれると信じとるわい」

 美甘ちゃんは隣の自分家へ帰り、祖父上と雑談などしていると、マグシ姫がやってきた。
「マグシ姫さま、もう歩き回られて平気なんですか?」
「うん。今日はお騒がせしました」
 ふたりだけになれる部屋へ行き、おやつを食べていると、
「あのう、薫丸くんの乳母どのが尋ねてたけど『げっとの訪い』って何のこと? 美甘ちゃんわかる?」
「うん」
 美甘ちゃんはうなずいた!
 うなずいた!
(わかっているの?)
 マグシ姫はショックを受けた。
「私、昨年、初めての『月兎の訪い』が来たの」
「ええっ、美甘ちゃんに?」
「『玉兎(ぎょくと)の訪い』というのは、お腹で赤さまを育てる準備をしてますよ〜っていうしるし。少し気分が悪くなったりお腹や頭が痛くなったりするけど、5日か6日ガマンすれば、いつも通りになるわ」
「そ、そうなの……」
 ちょっとどころじゃない、かなりうろたえるマグシ姫だ。
(美甘ちゃんの方が知らない道を先に行ってた!)
「赤さまが生まれる身体になるには、まず『月兎の訪い』がなければね!」
「……美甘ちゃん、よく知ってるわねえ」
 ジェラシーが混じった褒め言葉を送った。
(なんか、こんなわらわ、イヤだなぁ)
「紀伊のお家では、侍女たちとそんなことをおしゃべりしているからでしょう。もう誰かとチューした? とか」
「そんなことまで!」
「うち、みかんの手入れする女も畑の警護する男もいっぱいいるでしょう? 周りにカップルがいっぱいいるから、つい……」
(なるほど、美甘ちゃんは耳年増(みみどしま)なんだ)
「美甘ちゃんはチューしたことあるんでしょ? 公家幼稚園舎のぴちぴち組の時、薫丸くんと」
「えっ、してませんてば! マグシ姫さまこそ、スサノオの尊さまと熱〜いチューをしたとか……」
「そ、そりゃ、夫婦ですもん」
「ど、どんな感じかな?」
 美甘ちゃんが今にも唇が触れあうくらい迫ってきたので、マグシ姫は飛び上がって逃げた。

第八章 まゆらの反対

 万古老師匠は「思い立ったが吉日!」とばかりに、早々と『妊婦の座り方指導教室』の準備をはじめた。
 藍万古の姿に若返って生徒を集めようとしたが、今度ばかりは孔雀のピーちゃんから聞きつけた、まゆらちゃんが強い態度で止めさせた。
「藍ちゃんはセクシーすぎるわ! 妊婦さんにホルモン異常が起こったらどうするの?」
「妊婦さんには説明だけで、触ったりせんぞ」
 万古老が機嫌を損ねて言い返した。
「触らなくても、藍ちゃんは視界に入ってくるだけで女の身体を狂わせる可能性があるのよ。いい? お腹の赤さんにもしものことがあったら、取り返しがつかないわ。万古老の姿のままで指導すること!」
 まゆらちゃんは4本の腕を使って説明し、ギンギンに睨んだ。―――これには降参せざるを得ない。
「分かった、分かった。このヨボヨボの身体で、妊婦さんの家を一軒一軒、訪ねていきますよ」
「『妊婦さん乗り合い馬車』でも作ればどう? 私が馭者(ぎょしゃ)を務めてあげる」
「お、それはよいのう」
 〜〜というわけで、普段は「妊婦さん乗り合い馬車」を走らせ、教室に歩いていける妊婦さんはそうしてもらった。場所は山寺の系列のお寺である。
『万古老爺さんの妊婦の座り方指導』の計画は、おおいに喜ばれた。

第九章 ひじきのお産

 やがて、ひじきの赤ちゃんが生まれる日がやってきた。
 九条家の乳母の娘というだけあって、大層な祈祷が営まれた。護摩木が焚かれ、多くの僧が読経する。
 初産(ういざん)なので時間がかかるらしい。
「安産のご祈祷、うちでしてもらったんだけどな」
 マグシ姫と美甘ちゃんも、白い幕の外で安産を祈って合掌した。
 そこへ、傀儡子仲間のオダマキも駆けつけてきた。
 薫丸がマグシ姫に紹介する。
「傀儡子仲間のオダマキと言います」
 オダマキは地面に正座して、
「すみません。あたいなんかがお屋敷におじゃましてはいけないと思ったのですが、やはり心配で……」
「なに、言ってるんだよ、オダマキ! お前だって、ひじきとは顔なじみじゃないか。来てやってくれて嬉しいよ」
 薫丸はオダマキの両肩をたたいた。
「オダマキちゃん、お久しぶり! その節はありがとう」
 美甘ちゃんが簀の子に誘いにきて、にっこりする。

 万古老師匠は妊婦期間の座り方を指導したので、庭からそっと合掌する。
 余裕を見せているようだが、乳兄弟の薫丸は内心、落ち着かない様子だ。うりずんと一緒に庭をウロウロしている。
 ひじきの夫も、またそうだった。
 時折、ひじきのうめき声が外まで聞こえてくる。苦しそうだ。
 しかし、平安時代の人々はご祈祷して、お産で取り憑いている悪霊を憑坐(よりまし)に乗り移らせるか、弓弦を鳴らして追い払うしかないのだ。
「もう少しかかりそうですよ」
 付き添いの侍女のひとりが、別室で待つ者に報告に来た。
「お産って、こんなに時間がかかるものなの? もう半日以上、痛そうな声が聞こえてるわ」
 マグシ姫が胸で手を組んでもらした。

 やがて―――、
 九条家の屋敷全体に、産声がひびきわたった。丈夫な男の子の誕生だ。
 無事出産の知らせは屋敷じゅうを駆け巡った。
「バンザ〜〜イ!」
 薫丸とひじきの夫君が叫んだ。
 皆が喜んでホッとしている中、マグシ姫だけは浮かない顔をして、そっと九条家を後にする。うりずんが気づいて、勇気づけるように手のひらから神通力を背中向けて送った。

第十章 マグシ姫の涙

 ひとり、令和に帰り、夜更けの京の街を八坂神社へトボトボと歩いて帰った。すれ違う観光客の会話は、夜になってもにぎやかだし、ネオンの数も道路の自動車の数もますます多いが、マグシ姫の心の中は寂しい風が吹いている。
 奥殿の寝室に入ると、スサノオの尊はすでに褥に入っていた。マグシが着物を脱いで背中側に潜り込むと、
「赤さんは生まれたのかね?」
 温かい声が背中の向こうから聞こえた。マグシ姫の堪えていたものが堰きをきって溢れた。
 涙が後から後から溢れて止まらない。
「……どうした、姫さん」
 スサノオが驚いて、上半身を起こした。
「いいえ、いいえ……」
 マグシ姫は両手で顔を包んで泣くばかりだ。
「姫さん……」
 心配したスサノオが肩に手をかけても押し返す。
「赤さまが生まれてくるって、大変なことなんですね……えっ、えっ……」
 嗚咽(おえつ)が止まらない。
 初めて身近な人のお産に立ち会って、可愛い赤さまの面倒を見ることだけを思い描いていたマグシ姫は、自分のことが恥ずかしくてたまらなかった。
 しばらく待っていたスサノオは、
「……良い経験をしたな。何ごとも『苦』あっての喜びなのだ。母親は逞しい」
 背中から、ふわりと囲むように抱きしめる。
「私がそなたの母親にでも父親にでも、師にでも、何にでもなって守っていくからな」
 姫はひとつひとつにうなずき、夫の海のような愛を感じていた。

 涙を拭いて君の胸に向き直り、
「そうそう、美甘ちゃんには『玉兎の訪い』が来たのですって」
 スサノオはすっかり心得ていて、
「それはめでたい」
「……」
 マグシ姫の眼がしらが、また熱くなった。
「姫さん、泣かなくてよい。人と自分は違って当たり前なのだ」
「わらわに『玉兎の訪い』が来たら、お腹に赤さまになる芽が出るのでしょうか」
「おやおや、気が早いな、姫さんは。さっきまでお産の苦しみを見て、しおれていたくせに……」

結びの章 みかんの和菓子

 5月になった。
 本格的に「妊婦さん向け正座教室」をはじめた万古老師匠のところへ、マグシ姫が訪ねた。
「孔雀の柄の着物を着たお姉さんから聞いたんですけど、藍万古さんて、女の身体を変えてしまわれるんですって?」
 万古老師匠は、ぎょっとした。
「孔雀の柄の着物を着たお姉さんから? そ、それは……藍万古がの……」
「はっきり言います! わらわは早く赤さまがほしいんです! 藍万古さんに会わせてください!」
「藍……万古に……それは……」
 万古老は口をモゴモゴさせて答えられない。
 しばらくしてから、
「で、では、藍万古に伝えておくから、明日の今頃、もう一度来てくださいますかな?」

 翌日、教室を訪ねると、藍万古が冷静な顔を作って約束通り待っていた。
「お腹に赤さまができると、みかんのような酸っぱいものが欲しくなるとか。みかんをたくさん召し上がると、逆に赤さまが来てくださるかも……?」
 ――藍万古の「超テキトー」な返事だが。
 マグシ姫さまの瞳が輝いた。
「みかんの果汁とか、櫛型の和菓子とかでもいいかしら?」
「もちろんですとも!」

「みかんの果肉入り、櫛型の和菓子」
 うりずんが作り出したお菓子だという。
 マグシ姫はそれを聞いて、美甘姫の紀伊の国のみかんを使って、もっと八坂神社名物になる土産物を作りたいなどと思いはじめた。
 妊婦さんが、つわりの時に酸っぱいものを欲しくなるのを知ったからでもある。
「まあ、それって、私たちの友情を深めるご縁のものとしか思えないわね!」
 美甘ちゃんに言ってみると、大賛成してくれた。
 こうして少女ふたりは、みかんを使ったお菓子作りに没頭することになったのだった。


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