[398]龍かもしれない漢(おとこ)


タイトル:龍かもしれない漢(おとこ)
掲載日:2026/01/23

シリーズ名:スガルシリーズ
シリーズ番号:9

著者:海道 遠

あらすじ:
 座仙女の屋敷に滞在している神仙軍の青年将校スガルは、モモンガ爺さんから、座仙女の優れた右腕の男、「深青しんじょう」の話を聞く。
「座仙女の参謀だが素性を知る者はいない。正座している姿が『神業』と言われるほど美しいという」
 越(こし)の翡翠の国から連れてきた「空師そらし」の青年、ミツアミの様子がおかしい。物の怪に憑りつかれたとか。スガルは正体を調べる。



本文

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第一章 モモンガ爺さんの話

 古い樹のウロから顔を出したモモンガの爺さんが青年スガルを長話の相手に捕まえた。
「そこの若いの。『神業夢幻(かみわざむげん)』と呼ばれる漢(おとこ)を知っているか?」
 スガルの手元に飛び移り、小さな身体で顔面近くまで登ってきた。どんぐりの実のカラから帽子の杯に酒をそそいでチビチビやりながらだから、長くなりそうだ。
「座仙女の参謀だそうだが、ただの用心棒かもしれない。はっきり素性を知る者はいない。ただ、頭は良くて腕はたつ。素朴で硬派ではあるが、人の良さそうな笑顔で笑う。うぃ~~、ヒック!」
 爺さんはしゃっくりをひとつしてから、
「何が『神業』と言われるほど美しいのかというと、顔立ちより、正座している時の姿勢じゃろう。まるで神将が座っているかのようだ。ワシは小枝に止まって屋敷の中を覗いていて見たことがある。神々しいぞ! シャキッと伸びた背筋は精悍な仏像を思わせる。なんでまた、『神業夢幻』なんて呼び名がついていると思う?」
 爺さんは手元のどんぐりの帽子から酒をグビリと飲んだ。
「ある日、座仙女が配下の男たちを各班に振り分けをする時、三段階に分けた。顔を見分けるためと号令をかけるためだが。普段は戯言が嫌いな彼女が珍しく、分けた少年、青年どもに言葉を使って分けたのじゃ」
 モモンガの爺さんは座り直した。 
「まず、一の班、楚楚美(そそび)――初心者的な正座しかできん、まだまだの少年たちじゃが、初歩の正座所作を身につけている。この班が20人ほど」
「それから、二の班、戦慄美(せんりつび)――そこそこの戦闘能力を持ち、正座所作も師匠の代わりに教えられる。彼らは100人ほど」
「そして、神業夢幻美。この地位を名乗れるのはひとりだけじゃ。座仙女――月兎路(つきとじ)は、ひとりの漢のみを『神業夢幻の美貌』と呼び、漆黒の髪の青年を選んだ」
 モモンガ爺さんは、スガルが巾着から出した木の実を受け取り、かじりついた。
「いつも座仙女に付き従っている訳ではないが、座仙女、月兎時の先頭切って盾となって出撃する。
 どこの国の出身者かは分からないが、馬術、弓術に秀でている。中国、韓国、大和王朝について詳しく各国間の交易についても詳しい。
 強大国の参謀なみの知力と統率力を持っているのかもしれないが、小さな国の片田舎で小さな勢力の一員であるかぎりは謎の人物だ」

第二章 青二才の妻

 スガルはモモンガ爺さんの説明を、無言で聞いていた。説明のすべてはうなずけた。
 しかし、もっと長く付き合っていかないと人格や素性は分からないだろう、と思う。
 モモンガ爺さんの話は続く。
「座仙女の山また山奥の本拠地の裏手にある庵(いおり)に小さな老女が住まっている。長く長くどれくらい長いか自分でも分からないほど昔から、座仙女に仕えているそうじゃ」
「え? じゃあ、座仙女もその婆さんに劣らず、長く長く生きているってわけか?」
 樹のウロにぴょんと戻り、モモンガの爺さんは笑った。
「ふっふっふ、青二才、そなた、察しがよいではないか」
「ば、馬鹿にすんなよな。分かるよ、そのくらい」
 スガルはちょっと怒ってみせてから、
「でも、長さから言ったら、俺の妻の方が長いに決まってるさ。何せ、飛鳥時代に生まれたんだからな。いや、待てよ、何億光年とか、もっともっと気が遠くなるほど昔に生まれたのかもしれない。誕プレのためにはっきり聞いておかなくちゃ」
 モモンガの爺さんは、かじっていた木ノ実を飲み込み損ねて、ゲホゲホむせた。
「大丈夫か、爺さん」
「いったい、お前の嫁さんは……」
「言っても信じないだろうがな、月光菩薩なんだ」
「……!」
 モモンガの爺さんは、ウロからUターンしてきた。一歩出たとたん、飛び上がってスガルの腕までよじ登ってきて胸ぐらをつかんだ。
「ワシはまだそんなウソが通じるほど、老いぼれとらんぞ! お前のような青二才の妻に月光菩薩さまがなるわけがないワ!」
 スガルはふところから、ゆっくり「すまほ」を取り出し、数年前からの写真を見せた。月光菩薩あかりさまの膝に座る幼児の男の子、思春期の男の子が月光菩薩さまと馬に相乗りしている写真、食事時に仲良くしている写真……。
「こ、こんなもんは偽もんか、チョットピーピーテーを使って作ったに決まっとる! お前のような普通の小僧が月光菩薩さまを妻になどと……」

 とっぷりと日が暮れた森に、馬の足音がしてきた。
「スガル、散歩ってどこまで行ったのかと思って迎えにきたのよ。お腹が空いたでしょう。夕餉にしましょう」
 馬上には、目が眩むほど上品で美しい人間離れした女人が乗っていたのだ。
「あかり。ちょっとご老人のお相手をしていたのさ。じゃな、モモンガ爺さん」
 爺さんは、馬に乗って去っていく青二才と超美人を、口をパクパクして見送った。

第三章 夕餉のふたり

「あ、モモンガの爺さんが話を横にしちまったから、聞きたいことを忘れちまった!」
 夕餉の途中で、スガルが口元に粟粒をつけたまま叫ぶように言った。
 あかり菩薩は、粟(あわ)ご飯を器によそいながら、
「何だったの? 聞きたいことって」
「モモンガ爺さんが、森の奥に昔の昔から、長い長い長生きの婆さんが住んでるって言ってたんだ」
「何のお話?」
「座仙女さまのところの深青(しんじょう)って、男がいるだろう? あの人の素性についてだよ」
「神業……夢幻美とかいう……?」
「そうそう、あの人のこと。いったい何者なんだろうって。あかりなら、よく知ってるだろう?」
 あかり菩薩はクスッと笑って、
「出自まで知らないわ。今の座仙女さまの右腕としか」
「本当か?」
 矢庭に、スガルはあかりの上半身を倒しながら抱きこんだ。膳の上の器が2、3落ちておかずがこぼれた。
「こらこら、夕餉の途中なんだけど」
「――本当に、神業って男について、何も知らないんだな」
「なんだ、ヤキモチ妬いてるの? 神業さんは、座仙女さまの親衛隊の中でもズバ抜けた特別優秀な方なのだそうよ」
「やっぱり知ってたじゃないか――」
 スガルは幼い駄々っ子のように、仰向けのままのあかりの両手を床に押さえつけて上から寝転んだ。
 あかりの美しい顔が重なりかける。
「龍の卵から産まれたとかってウワサもあるわ」
「龍の卵?」
「龍の卵は風上にメス龍、つまり母親ね、そして風下にオス龍が陣取って、『無事に産まれ出でよ』という思いを両方から受けて孵化するのですって」
「ほおお」
「その托卵法を、『思抱(しほう)』というらしいの。だから、彼の本名は『思抱龍(しほうりゅう)』だとも言われているわ」
 スガルは唇をひん曲げた。
「それじゃ、彼の正体は龍なのか? それなら納得できる気もするが、――なぁんだ、よおく知ってるじゃないか」
「これは全部ウワサだし、このくらいは皆、知ってることよ」
「そうなのか……。じゃあさ、あかりは俺のことを人に説明する時、どんな風に言う?」
「スガルのこと? 月光菩薩に大切に育てられた甘えん坊――よ。――キャッ」
 両手を押さえつけたまま、スガルは婚約者のユリのような顔(かんばせ)のあちこちに接吻の嵐をお見舞いした。
「ほうら、間違っても『思抱龍(しほうりゅう)』とは言えない甘えん坊さんだわ」
 窓の外の真っ暗になった庭の小枝にモモンガ爺さんが目玉を大きくして眺めていたが、
(おお、チューした! オデコに。瞼にも鼻にも! それから? う、う、うらやまこいのう、あかり菩薩さまの顔じゅうに!)
 乗り出しすぎて枝から落ちたついでに滑空した。

第四章 爺さんに頼みごと

「ミツアミくんの様子が変?」
 スガルくんは、美甘姫の意外な訴えに振り向いた。
「ええ。越(こし)の国で初めて会った時と、印象がガラリと違うのよ。顔つきも態度も」
「どんな風に?」
「あんなに天真爛漫だった人が目を飛び出させて怖い顔してるし、食事はひとりで誰とも話さず黙々と食べて、ニコリともしないんだって、食堂のオバチャンが言ってたわ」
「ええ? あの快活なミツアミくんが?」
「そうなのよ。彼の一回転正座を見てもらうために、こんな都の山奥に連れてきたから、怒って反抗してるのかしら? とも思ってみたんだけど、それどころじゃない怖い顔してるのよ。目の周りにいっぱいクマを作ってるし。でも、空師の仕事はカンペキに出来てるんですって」
「どうしたんだろう? 流れ者だから、よく知る者がいないな」
 スガルも首をかしげる。
「もしかして、越の国に帰りたがっているとか?」
「なんだか誰かを憎むような恐ろしい顔なのよ」
「分かった、さり気なく聞いてみるよ」
 スガルが請け負った。
(あの枝渡りのワザについていければ、だけどな)
「何なら、ワシが手伝ってやってもよいぞ! 真昼は見えなくなるからダメじゃが」
 どこからか声がした。スガルの首すじからだ。
「ワシじゃ。モモンガの百エ門じゃ」
「ああ、爺さんか。ミツアミを知ってるかい?」
「知らいでか! ワシと争うくらいの枝渡りをする人間なんぞ、あいつくらいなもんじゃ」
「じゃ、モモンガ百エ門爺さんにお願いするよ」
「はいな! お、お前さんの首の後ろに赤いものがついとるぞ。さては愛妻の〇〇マークかな?」
 モモンガ爺さんは杉木立のどこかへ登っていった。
「ええっ? 美甘姫! 手鏡を持っておいでですか?」
「あいにく一枚しか持ってないの」
 合わせ鏡にしないと首筋は見えない。美甘姫はいじわるをして、小走りに去っていった。

第五章 キヌワ婆さん

 森のそのまた奥に、モモンガ爺さんはぴょんぴょんと枝を渡り、たまには滑空して移動していった。
 今にも壊れそうな小さな庵が、ツルや雑草にまぎれて森の隅にひっそりと残っている、というくらいひしゃげてそこにある。
「婆さん、キヌワ婆さんよ、どこだい?」
「誰じゃな?」
 庵の横から声がした。老婆が小川の水で顔を洗っていたところだ。手ぬぐいで顔を拭きながらこっちを向いた婆さんは、ソバカスとシミだらけの顔をしていた。
「おお、モモンガの百エ門爺さんかい。ちょうどよかった、用事があったのさ」
「こっちも教えてもらいたいことがあるのじゃ」
「こっちが先だよ。オシロイバナの粉が切れそうなんじゃ。またお前さんに集めてきてもらおうと思ってな」
 水面に顔を映し、小さな陶器の入れ物から白い粉を指につけて顔に伸ばしていく。
「トシはとっても少しでも美しゅういたいもんだ。おぬしの集めてきてくれるオシロイバナの白粉には、重宝しとるよ」
「それなら、集めた分がここにある」
 モモンガの爺さんはふところからどんぐりの実を5個出し、婆さんに渡した。
 どんぐりの実は、婆さんの手のひらから転がって落ちそうになったが、最後のひとつを食いついて歯ではさんで受け止めた。
「ふう、まだ前歯が抜けとらんで良かったわい」
 キヌワ婆さんはひと息ついて化粧を終わり、こちらを向いた。
 今までシミとシワだらけだった老婆はどこへ行ったのだろう? 振り向いた女は宮中の姫君とも言える美しさだ。
「おお、いつもながら、永久若(えいきゅうじゃく)の効果はすごいのう!」
「座仙女さんがお使いの化粧品だからねえ。この秘薬のおかげで、アテも長く生きながらこうして美しゅう保っておるのじゃよ」
 傾いた縁側に斜めに座る仕草なんぞは、色っぽいったらない。
「そうそう、たまには座仙女さんのようにお行儀よくしなくっちゃ」
 縁側から座敷に上がり、「どっこいしょ」と真っ直ぐ立って、膝をつき、衣のすそをお尻の下に敷いてかかとの上に座った。そして、小さなモモンガ爺さんを前に頭を下げた。爺さんも慌てて正座し、婆さんに頭を下げた。
「――で、用事とは何じゃ?」
「婆さん、最近、越の国から来た若造の『空師』を知っておるかいの?」
「ああ、知っとるよ」
「あの若造が、どうも物の怪に取り憑かれたらしい。調べて警戒してくれんかの? 今、座仙女さまのお屋敷には、スガルくんという神仙の少尉と奥方のあかり菩薩さま、うりずん季節神さまの奥方、美甘姫と嫡男のゆいまるさま方が滞在中だ。誰ひとりキズつけられては困るのだ――!」
「物の怪? 何の系統か察しはつくかえ?」
「それがのう……厄介な、月神(がちじん)かもしれんのじゃ」
「なんと! 月神じゃと?」
 キヌワ婆さんは声を引き攣らせた。
「以前にも、スサノオの尊が取り憑かれたことがあるらしい。幸いにも奥方の機転で助かったらしいが、もう少しで八坂神社まで乗っ取られるところだったとか」
「なんとな? その若者は月神から呪われているのか?」
「空師の若者は普通の男だが、何故か呪われてしもうたんじゃと」
「月神は嫉妬深く執拗じゃからのう。腕が六本もあるくらいじゃから。他に欲があるのかのう?」
「まだ全然、判明せぬ。それをキヌワお婆にも調べてほしい。婆さん、井戸水を一杯もらうぞ」
「水なら甕(かめ)の水があるぞえ。今、汲んでやろう」
 婆さんはやけに長い手をくるりと伸ばして、小さな柄杓で水を汲んできて、モモンガ爺さんに渡した。爺さんは柄杓に首をつっこんで美味そうに飲んだ。
「う~~む……」
 月神の欠点は何だったか、思い出そうとしてキヌワ婆さんは考えこんだ。
「本来、月神として統べておられるのはツクヨミさまという善神でスサノオの尊さまの弟さまだが……ということは、月神の欲するものは、本来の月神としての大きな権力だろうか」
 モモンガの爺さんが、
「一度、警護長のスガルさまに様子をさぐるために空師のミツアミに面と向かって会ってもらうよ」
「ふむ、それがよい」
 婆さんは答えた。
「ただし、スガルどのにくれぐれも気をつけるようにとお伝えしておくれ。魔物に取り憑かれた者は獣と同じ……いや、怪我を負った獣よりタチが悪いからな」
「分かった」
 モモンガの爺さんは、キヌワ婆さんとのやり取りを正直にスガルに話し、ミツアミに会って何が目的なのか話してほしいとお願いした。

 森にいたミツアミを見つけて眼前に立ったスガルは、震えが止まらなくなった。
(これほどの形相になっているとは!)
(なんという容貌だ、これが、美甘姫と飛び合いっこしていたミツアミか? まるで鬼そのものじゃないか? 眼は血走って顔色はどす黒い血の色だ! 牙が狼のように長くて鋭い! 一瞬でも油断を見せたらおしまいだ!)
「ぐるる……」
 獲物を前にした形相のミツアミは喉を鳴らした。スガルは飛び上がりそうになった。
(あかり! あかりちゃん! 今朝の「行ってきます」が最後の挨拶になるかもしれないよぉ~~!)

第六章 月神を倒せそうな

 ミツアミは頭に巻いていたハチマキを、うっとおしそうに取りさり地面にたたきつけた。帯に挟んでいたヨキも抜き取り、地面に放り出した。
「こんなもんが無くても、人間の首根っこなんぞ、爪があればひと掻きで飛ばしてやる」
「ミ、ミツアミ! どうしたんだ、落ち着いてくれ!」
「うるさい、青二才の人間。屋敷にふんぞりかえって座っている座仙女とかいう婆さんを連れてこい。正座でもって、世の中を支配しようとしているが、ワシがほしいのは、そんなちっぽけな世界じゃねえ。月の神としての強大な力だ!」
「な……」
「月読の尊も、月光菩薩も邪魔者だ! ひとひねりで消滅させてくれるわ!」
「なんだと、あかりちゃんまで?」
 スガルは真っ青になって立ち尽くした。
 あかり菩薩までが月神の標的になっているとは! 恐怖と共に、ふつふつとした敵意が湧いてきた。
(あかりちゃんをひとひねりだと? そんなことはさせてたまるか!)
 ミツアミは完全に物の怪、月神に変貌した。
 スガルは急いでヨキを拾い、月神の背後から振り下ろそうとした――が、寸前で動きを止めた。
「待てよ――、ここでヤツを興奮させれば、あかりちゃんだけでなく美甘ちゃんやその子ども、そして一昨日まで遊んでいた鴇姫(ときひめ)の嫡男や、果ては美甘ちゃんの夫のうりずんさんまで血祭に上げられる恐れがある! お、俺はどうなってもいいから、彼らを守らなきゃ!」
 振り向いたミツアミの眼が、薄暗い林の中で炯々(けいけい)と黄色く光りはじめた。
「とても敵う(かなう)相手じゃない! こやつを倒せそうな御仁……倒せそうな御仁は……」
 誰かいないか、と頭をぐるぐる巡らせた。
 月神を倒せそうな強い方――、誰かを思い当たりそうだ。
「そうだ! あのお方!」
 すんでのところで、地面に刺さったヤツの手の爪を避けることができた。瞬間に、スガルは座仙女の屋敷へ飛ぶように走り出した。

「座仙女さま――!」
 叫びながら屋敷へ駆けつけると、配下の男どもが殺気立った。
「いかがなされた、スガルどの!」
「座仙女さまにお願いがございます!」
 座敷に駆け上がると、座仙女は朝のお茶を淹れて、優雅に部屋に飾る野の花を選んでいた。
「スガルどの?」
 スガルは彼女の足元に膝をついた。
「ミツアミが魔物に憑かれて乱心いたしましたっ。すぐに成敗せねば、こちらのお屋敷の皆さまが危のうございます!」
 座仙女が今朝、積んできた鮮やかな黄色の「水金梅(みずきんばい)」の一枝が、畳の上にぽとりと落ちた。

第七章 役者が違う

「スガルさん、落ち着いて正座しなさい。あなたを育てられた月光菩薩さまなら、まずそうおっしゃるでしょう。正座して目を閉じ、深呼吸しなさいと」
 座仙女――月兎路は静かな中に厳しい声で言った。御簾(みす)が開き、大柄な漢が身を滑らせて入ってきた。
 深青と呼ばれる漢だった。
 静かに水を湛えた湖のように面輪(おもわ)は少しも乱れていない。泰然自若とはこのことだろう。
「スガルくん。共に正座しよう」
 と誘い、ふたりは奥座敷の簀の子の見える席で静かに正座した。深青の所作は気品に満ちて少しも乱れない。半時ほど座っていたが、スガルの興奮は収まらない。魔物と戦う恐怖と武者震いが、ごっちゃになっているようだ。
 シビレも出てきたらしく、ついに我慢できずに立ち上がった。
「深青さん、よく静かに正座していられますね! もうすぐ魔物が正体を表して、俺たちを襲いに来るというのに」
「スガルくん。騒いでも苛立っても魔物はやってくる。静かにどう受け身するか、覚悟を決めておいた方がいいぞ」
「――くっ!」
 スガルは何か言おうとしたが言葉にならない。
 軒先の向こうの枝から、盗み見していたモモンガのお爺ちゃんが「くっくっ」と笑った。
「役者が違うようだねえ」
 ジロリと睨んだスガルだが、どうにも落ち着かない。
「ごめんくださいまし。神仙軍のスガル少尉はお邪魔しておりますでしょうか? 妻のあかりと申します。弁当を持参したのです」
 玄関で麗しい声が聞こえた。あかり菩薩の声だ。
「もうし、どなたかおいででしょうか? 森の杉木立に行ってみましたが、見当たらず……もしや、こちらかとお邪魔したのですが」

 屋敷の奥の間に、オシロイバナから作られた白粉の匂いが漂ってきた。座仙女の傍らで正座していた深青の目元が、ピリッと緊張した。
 枝の先っちょにいたモモンガ爺さんが、
(お、これは、キヌワ婆さんの白粉の匂いじゃ)
 と気づいたとたん、深青が畳を蹴って立ち上がった。

 一天かき曇るとはこのことか。
 山の上に昏い雲が立ち込め、百篝(ももかがり=稲妻)が、いくつも閃いた。
 いつのまにか、深青の姿が見当たらない。
「深青どの、どこへ消えられた――?」
 暗くなっていた庭がカッと真昼のように白くなり、墨を流したような雲から金色の龍が顔を表し、下ってきた。

 妖女キヌワの黒髪が渦を巻いている豊かな背中へ、金色の龍は剣をくわえて突き立てた。
 獣が不意打ちを食らったような悲鳴を上げて、妖女は座敷へ飛び上がって逃げた。
 座仙女は素早く立ち上がったものの、足元に倒れた妖女を見下ろして、すぐ後に追ってきた金色の龍を振り返った。
「『思抱龍』、これはいったい?」
 痛手を負った妖女は、もう立ち上がることができない。龍は人間に戻り、深青の姿になった。
 スガルが棒立ちになっていたが、ようやく女に取りすがった。
「あかり! あかり!」
 スガルは深青の顔を見上げて、
「深青さん、これはどういうことです! あかりが何をしたというのです?」
 深青は、
「スガルくん、よく見ろ。その女があかり菩薩さまか?」
 倒れて途切れていたのは、頭からにょっきりと二本の角が生え、顔面はとかげのように黒く、腕が六本もある異形の魔物だった。着物だけは女ものの小袿を着ている。
「この匂いは……」
 ぴょんと女の骸(むくろ)に乗ったモモンガの爺さんは、恐れおののいて深青の背中につかまった。
「この香りはワシが集めてやる白粉の匂い! では月神はキヌワ婆さんに憑りついてから、あかり菩薩さまに化けていたのか!」
「そういうことだ」
 深青は、血のりのついた剣をはらった。
「月神にしては呆気なかったな……」
 胸のドキドキが止まらないまま、スガルが洩らし、その後を深青が続けた。
「以前から座仙女に事情を聞いて、古参のキヌワ婆さんの様子が妖しいと思っていたのだ」
 座仙女の配下の者が片づける前に、キヌワ婆さんの骸は、黒い煙と共に消えてしまった。

「スガルくん、落ち着いたか?」
 金色の龍だった深青が尋ねた。
「はい。実は気づいていたのです。倒れていたあかりが偽者だと」
「そうなのか?」
「はい。あかりは料理がからっきし苦手で、絶対に弁当なぞ作ってわざわざ持ってきたりしませんから」
「まあ、そんなこと言っていいの?」
 座仙女がプッと吹き出し、モモンガの爺さんと一緒に大笑いをはじめた。

 憑いていた月神が抜け去り、ミツアミは杉の根元で気を失っていたが、目を覚ました。
「あ~~あ、よく寝た! ここは……どこだ?」
 美甘ちゃんがゆいまるを負ぶったまま、ミツアミを探しに来た。
「どこで寝てるの、ミツアミくん! 仕事仲間の人が捜していたわよ!」
「うう~~ん」
 ミツアミは伸びをしてから、
「ああ、腹が減った、美甘ちゃん、何か食べもん持ってない?」
「ゆいまるのおやつの残りならあるわよ。はい、揚げおやつの(ぶと)と(まがり)」
「おお、美味そう!」
 ミツアミはひったくって食べはじめた。

 森は夕闇に包まれ、真っ赤な月が登ってきた。月神がまだ絶命していないことを示している。

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