[76]正座でハイタッチ


タイトル:正座でハイタッチ
分類:電子書籍
発売日:2019/12/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:48
定価:200円+税

著者:海道 遠
イラスト:keiko.

内容
 俳優で歌手の、三枝統也はかなりの人気者。彼の催すイベントに必ず仲良し三人組で参加する、亜美、美知、千春の女子大生がいた。
 ある日、統也がハイタッチを正座して行うと発表。その前にネット配信を含む「正座講座」を受けてもらうことになり、和装で行くつもりになったので、浴衣やかんざしの支度などに喜ぶ亜美たちだったが、突然、亜美の母親が倒れて入院することになり、ハイタッチは参加できなかった。
 母親の意識は二か月戻らず、長期入院になる。亜美は必死で看病するが、次の年にはクモ膜下出血まで起こし、手術を受けることになる。
 さて、亜美の運命はどうなるか?

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本文

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第一章 ハイタッチ情報

 亜美は、推し(好きな芸能人)の握手会、ハイタッチ、手渡し会などに行きまくってる二十歳の女子大生だ。
 亜美の推しは、俳優で歌手の、芸能界でも群を抜いて素晴らしい美貌と演技力の持ち主、三枝統也だ。交流会は欠かさず参加している。
 仲良しの美知と千春といつも三人で参戦だ。
 亜美のファッションはいつも赤色担当、美知は青色担当、千春は黄色担当で、原色三人娘で目立つようにしている。
 ある日、久しぶりに統也のハイタッチが発表された。

(統也くんとの待ちに待ったハイタッチ――!)
 亜美は、気絶するほど嬉しい。天にも昇る気持ちだ。統也に命を捧げてもいいと思うくらい大好きなのだ。五年ぶりにハイタッチできるなんてこれは夢だろうか? 
「美知ぃ~~、千春に知らせて! 統也くんのハイタッチが発表されたのよ! 五年ぶりにデビュー二十周年記念で! だから夏の旅行、悪いけどキャンセルしてね! もろに日にち被っちゃったから!」 
 美知に、さっそく電話する。
「なんですって! 統也くんのハイタッチ! 私も行く!」
「旅行、やめにしていい?」
「旅行どころじゃないじゃないの! 千春も分かってくれるでしょう!」
「いい? 美知。行くのなら、ハイタッチの日まで怪我しないよう、車やバイクや自転車にも乗っちゃ駄目よ! 風邪をひかないように三十分ごとにうがいして、食べ物にも気をつけて新鮮なものだけ食べるのよ」
「わかってる、わかってる! いつものことだもん」
「ご家族にも当日のために病気や怪我に気をつけてもらってね!」
「わ、わかったわよ、亜美」
「千春から連絡来たわ。参戦するって」
「じゃあ、スマホ開いて。申し込みするわよ」

第二章 三枝統也くん

 統也はただの俳優ではない。
 日本舞踊、掌華流の家に生まれた跡取りだ。幼少期から礼儀作法は厳しく教え込まれた。
 しかし、舞踊家の道へ行かず、家元の息子であることはいっさい伏せて、思春期から俳優の道を選び、ドラマ、映画、舞台に活躍してきた。運が味方したのか、まずまず順調に二十五歳の今日まで芸能界の若手の中では有望株と言われてきた。
 その美貌と人の好さは誰もが認めるところであり、これからがいっそうの頑張り時だと思っている。
 ファンとの交流も積極的にやってきた。
 初のカレンダー発売の握手会、映画の初DVD発売にはハイタッチ会、学園祭にも数年間、毎年各地方の高校の学園祭でトークショーを開いて来た。
 
 しかし、ハイタッチ会も握手会も、終わってみるとやりきれない不満が残った。
 参加してくるファンが多くて、ひとりひとりに十分な時間が取れないことだ。最後尾になると、押して来てわずか一、二秒でハイタッチということになる。何を話すこともできない。話しても聞き取れない。どんどん次の人に流れていくのだ。
 ファンが多くてとは贅沢な悩みだと思うが、やはりどうにかしたい問題だ。周りのスタッフの協力があってこそのハイタッチや握手会なので、よけいにファンとの交流をもう少し長く時間をとれないものだろうか、と思うのだった。
 同年代の青年マネージャーとスタッフにも言ってみた。
 抽選でなければ、ものすごい数のファンが押し寄せる。でも、そこそこの何千人かとゆっくり会うためにせめて三日間、時間を設けるというのはどうだろうか。そして―――。
 統也はそこまで話した時、ピンと思いついた。自分が幼少の頃から、鍛えられた「美しい正座」。
 お互い、正座をしてハイタッチすれば、落ち着いてファンと会えるのではないだろうか。
「そうだよ! 立ったままだから流れていくんだよな。時間が限られてるから仕方ないけど。そこそこ時間をとって正座してハイタッチすればいいんじゃないか」
 マネージャーとスタッフはびっくりした。
「正座してハイタッチ?」
「何畳か畳を敷いて、正座して僕が待っていて、ファンの方にも順番に正座してもらう。そしてハイタッチすれば、落ち着いてふた言、三言、しゃべれるだろう」
「正気ですか、統也さん!」
「そんなの聞いたことないですよ!」
「畳となると、靴を脱いでもらわなければなりません。時間がかかってしまうぞ」
 マネージャーとスタッフがハナから反対しかかると、統也は、
「手間がかかっても良い方向へ変えたいんですよ。今のままじゃ、ハイタッチしっかりできたって実感のある人は少ないと思う。ちゃんと『会えた』って思える『正座ハイタッチ』にしたい」
「正座ハイタッチ!」
「若い女の子たちにも正座に馴染んでもらえるしね」
 統也はすっかりその気だ。
「よく言った、統也!」
 事務所のドアの陰から叫んで出てきたのは、統也の父親、掌蔵だ。
「父さん、どうしてここに?」
 掌蔵はやや顔を赤らめて、咳払いをひとつした。
「そんなことはどうでもいい。それより」
 掌蔵は事務所の簡易椅子に腰かけた。
「正座は日本人の誇りだからな。日本舞踊の基本でもある。うちの流派、掌華流の象徴だ。正座のハイタッチで芸能界のライバルを出し抜くのだ、統也!」
「父さん……」
 息子が驚く番だった。幼少の頃から厳しかった父親がここまで賛成してくれるとは思わなかったのだ。
「どうしたんだ、父さん。芸能界に入るのは大反対だったのに」
 統也は父親のごつい両手を握りしめた。
 実は、ここ数年、父親も女の子アイドルの握手会に行くようになっている。それを息子は知らない。
「近頃のお前は寝る間も惜しんで舞台に映画にドラマに、その練習に頑張っておるからな。本番には、わしの弟子達も、手伝いに行かせよう。何でも手伝わせるがいい。ファンの女の子に正座の指導ってのもいいかもしれんぞ」
「うん。父さん。それ。いいよ! 最近の子は正座から遠のいてるだろうから、正式な正座の仕方を教えてあげられるね」
「うむ」
「いい事ずくめじゃないか~~!」
 自分のアイデアに、統也は躍り上がった。

第三章 正座ハイタッチの計画

「お待ちなさい!」
 いきなり聞きなれた声がして、統也父子が振り向くと、掌華流夫人、統也の母親、美園が和服姿で立っていた。
「お、お前、どうしてここへ」
 父親が慌てると、
「今日はこの局のワイドショーに生出演の仕事がありましたの。それより何ですか、さっきから聞いていれば、伝統ある掌華流の正座を芸能界のイベントに使うとか」
「母さん、常々言ってるじゃないか。日本の女の子は正座しなくなったって。これは正座を広めるチャンスにもなるじゃないか。どうか、反対しないで……」
「反対だなんて、誰が言いました?」
 統也と父親は呆気にとられた。
 厳しい顔をしていた母親の美園は急ににっこり笑い、
「なんていい考えかしら。統也、でかしたわ。正座する機会が増えれば、日本の女の子は日舞だってやりたいと思うかもしれないわ」
「え、そこまではどうかな」
「統也、同じやるなら、ちゃんとした正座をしていただきましょう。捻挫でもされたら大変でしょう」
「そりゃ大変だよ」
「全国の支部に正座の講座を行うよう指令を出します。インターネットで正座の講座配信を流します。それにパスした人だけがハイタッチに参加できるっていうの、どうかしら。とは言っても合格率は九九・九パーセントですけど」
「ええっ、そりゃ、ハードル高いんじゃないか? 講座を受けた人だけってのは」
「母さんはそうは思わないわ。完璧に正座できる女の子なら、きっと本物のファンだわ。講座を受ける志のある人なんだから。講座費用はむろん、無料ということで」
「無料! お前、太っ腹!」
 叫んだ父親を、美園は睨んだ。
「あなたが乗り気な訳もちゃんと察してましてよ。思春期坂五六の握手会も近いそうですわね。今日もここの局のスタジオで……」
(ば、ばれてた……)
 父親は顔色を失くした。統也は苦笑いして、
(さすが、お袋のテキパキの力量には降参だ)
「こうなったら、正座全国講座やってみようじゃないか!」

第四章 思いがけない出来事

 統也のハイタッチは全国の掌華流の教室で「三枝統也のハイタッチのための正座特別講座」が日本だけでも五十か所、開かれることが発表された。
 近隣の諸国支部でも数十か所で開かれる。通えないファンのためにネット配信されることが発表された。
「正座してハイタッチ?」
 ファンの驚きは隠せなかったが、統也自身、熱心に動画で説明した。
 正座した方がゆっくりハイタッチできること。
 これにはファンから反対の声は無かった。
 誰しも一秒でも長く、統也と交流したいと思っているのだ。練習するとか靴を脱いで畳に座るとかは、それを思えばなんでもない。
 早速、国内の正座教室だけでも多数の応募があった。ネット配信も始まり、一か月後の本番向けて練習は進んだ。

 亜美も「正座でハイタッチ」と聞いて驚いたが、
「今までのスピードで統也くんの前を通り過ぎることに比べたら、正座してもいいのじゃないかしら」
 と思い始めた。よけいワクワクしてきた。
「あの統也くんの前で正座するんだもんね、失敗しないように教室へ通わなくちゃ」
「そうね!」
 同行する美知と千春も大乗り気だ。
「いっそのこと、三人とも浴衣にしない?」
 美知の発案で、三人とも浴衣で参加することに決まった。
 とはいえ、浴衣を着るのは子どもの時以来だ。三人とも急いで浴衣を仕立て、ちゃんと着付けや所作を覚える覚悟を決めた。
 練習に通うこと十回。ようやく先生から及第点の正座ができるようになった。
「チケットをゲットした時と同じくらい嬉しいわ!」
「そうね、後、二日よ。美知、千春、私の赤い立葵の柄に合うかんざし見てくれない?」
「いいわよ。私も買っちゃおう」
 三人でアクセサリーを見まわり、やっと気に入ったかんざしを見つけた。
「じゃ、美知、千春、二日後、駅前でね」
 教室の帰り、三人と約束して別れたのだった。

「ただいまあ。ハイタッチの時の、かんざし買ってきちゃった! 美知と千春とお揃いの」
 ご機嫌で帰宅すると、母親がダイニングテーブルにうつ伏せで寝ていた。
「どうしたの、お母さん」
「あ、お帰り。大丈夫よ。少し頭痛がするだけだから」
「無理しないで横になったら?」
「そうね。じゃあ、夕方まで二階で横になるわ」
 青い顔のまま立ち上がり、階段を昇り始める気配がした。
 次の瞬間、バターンという音がしたと思った瞬間、母親は階下に倒れていた。
「お母さん!」
 急いで抱き上げたが、意識がない。
 亜美は震える手でスマホを触り、救急車を呼んだ。それからのことは、あまりよく覚えていない。気がつくと、病院で白いベッドに横たわる母親の脇にいた。
 母親の顔色は木の葉の陰にあるように真っ青だ眉間にしわも寄せている。
 医者の言うには、
「一連の検査はやってみました。異常は認められませんから、すぐに意識は戻ると思われますが、頭痛の原因が不明です。かなり疲れがたまっていたようですから、しばらく入院された方がいいですね」
 亜美は泣き崩れた。
 駆けつけた美知と千春が肩を支えた。
「統也くんのハイタッチは、またいつかあるよ。亜美、元気出して」
「うん、それより私、自分が許せないの。お母さんが疲れていることにも気づかず、自分だけ浮かれていたなんて」
 数日間、母親の脇で見守る。母親の意識が戻る気配はない。
「先生、まさか、このまま目を覚まさないってことはない……でしょうね」
「何を言ってるんだ、亜美。母さんはきっと目を覚ますよ」
 父親が背後から肩をしっかり持って娘を励ます。
「そうよ、亜美。おばさん、必ず治るって」
 毎日、病室に姿を見せる美知たちも心配そうだ。
「亜美、私も今回のハイタッチ諦めて、おばさんが治るよう、手伝うからね」
「私もよ」
 美知と千春の本気が伝わってきた。
「ふたりは私の代わりに行ってきて」
「いいのよ。統也くんは待っていてくれる。亜美のことも私たちのこともね。返って病気のお母さんを放り出していって、統也くんが喜んでくれるとは思えないわ」
「あ、ありがとう、美知、千春……」
 三人の女子大生は夕暮れの病室で改めて手を取り合った。

第五章 統也の気がかり

 それから二か月間、亜美の母親は昏々と眠り続けた。
 ようやく目を開いた時は、倒れた真夏から、ずいぶん日が経ち、秋も半ばになろうという時だった。
 とりあえず、亜美と父親は胸を撫で下ろした。しかし、食事、着替え、風呂などは介護の手が必要なので施設に入所してもらうことになった。
 亜美は大学が終わると毎日施設に通い、母の世話をした。家に帰って、家事もしなくちゃならない。今まで友達と遊んでばかりいたことをつくづく後悔した。
「お母さん、ごめんね。ごめんね。今まで、亜美、親不孝で。友達とばかり遊んでいて。もっとお母さんの側にいれば良かった、お母さんの手伝いすれば良かった。そうすれば、こんなことにならずにすんだのに……」
 母親は身体を拭いてもらいながら、優しく首を振る。
「そんな風に考えなくていいの。たまたま、母さんの身体がちょっと調子崩しただけ。亜美ちゃんの好きにすればいいのよ」
「いいの。今はお母さんの側にいたいの」

 三枝統也は、真夏に行った「正座でハイタッチ」が大成功し、一応は満足していた。が、何かひっかかるものがあって、時たま考え込む。
「どうしたんですか、新作映画の興行成績もかなり良い方に向かってるのに、浮かない顔して」
 マネージャーが尋ねる。
「いや……なんだか分からないんだけど、何かひっかかるものが……」
 マネージャーは不思議そうな顔をした。
 夏の「正座でハイタッチ」は大成功し、今までのハイタッチや握手会に新風を吹き込んだ。
 美しい正座の仕方を習得した女の子が続々とやってきた。外国の女の子までがインターネット配信でマスターしたと言って。そして、ゆったりと正座して、いつもの三倍くらいの時間のハイタッチを堪能していったのだ。
 因みに講座での正しい正座の仕方。
・ 畳に乗るまでに、靴などは脱ぐ。
・ 畳の端を踏まずに畳に乗り、静かに座り、ハイタッチしてる人が終わったら、立ち上がって自分が中央に進む。
・ 背筋は伸ばす。
・ 肘を垂直におろすようにし手は太股の付け根と膝の間に重ねずにハの字におく。脇は閉じる又は軽く開く程度にする。
・ 膝同士は「ぴったりつける~握りこぶしひとつ分」開く。
・ 足の裏は「親指程度が触れる程度、親指同士を重ねる、深く重ねる」など楽なように。 
・ スカートの場合は、お尻の下にスカートを敷くようにする。
 正座の指導を受けてからハイタッチするということは、日本の芸能界にとても良い衝撃を与えた。実際、統也のファンはどっと増えた。
 ドキドキしている人が大半だったと思われるが、所作が優雅になり、浴衣姿の人も多く、我先にというより、ちゃんと順番を待って心に余裕があるという感じだ。
 統也からファンを大切に思っているという気持ちが深く伝わったのだった。

「うん。とても良かったと思っている。両親も喜んでいるし、日舞の入門希望者まで出てきたくらいだ。でも、何かがひっかかる」
 統也はマネージャーと話していた。
「何がひっかかるんですか?」
「う~~ん、何だろうな?」
「もしかして、日舞の家元がお家だってことを公けにしたことですか?」
「いや、それは、問題ない。ファンの方々は家と僕とを別々に考えてくれてるようだから」
「じゃあ、何でしょうね」
 マネージャーも首をひねるばかりだ。
「昨年の『正座でハイタッチ』の時、いつもの三人組は来ていなかっただろ? 三原色のファッションで来る三人組の女の子たち」
「ああ、そういえば」
「あの子たちが来ていなかったってことかな」
「統也さん!」
 マネージャーが統也の肩をバン! と叩いた。
「あちらにも都合ってもんがあります。いつもいつも来られるわけではないですよ。来る来ないは自由なんですから」
「そりゃそうだが、『正座でハイタッチ』にしたとたん来なくなったなんて、『正座』を無理強いしてしまったかなって反省してたんだよ。ほら、僕って強引なとこあるから」
「強引でもありますが、『謙虚』も看板ですよ、統也さんは」
 にっこり笑うマネージャーの表情は弟のようで明るい。
「それならいいんだけど」
「万人から愛されようってのは不可能です。統也さんの魅力をしっかり知ってる人だけがファンとしてついてきてくれるでしょう」
 もっともだ、と統也は思うが、三人組の女の子の、赤色を受け持っていた子の顔がはっきり思い出せない。それが気がかりの原因のようだった。

第六章 新計画ハイタッチ

 数日して、マネージャーが顔を輝かせて飛び込んできた。
「統也さん、五年ぶりの写真集発売、決まりましたよ! それに合わせて、もう一度、ハイタッチしましょう!」
「何だって?」
 統也も喜びのあまりソファから立ち上がった。
 掌華流夫妻、統也の両親も交えて、念入りに話し合いが持たれた。
 もう一度、「正座でハイタッチ」を開催することに、皆、賛成した。
 全国五十か所の教室で「正座教室」を開催、そしてインターネットでの動画配信で流すことにし、無事に修了した人には「正座講座修了証」も渡すことにした。すべて、一枚残らず、三枝統也のサイン入りで。
 破格の計らいに、三枝統也ファンは沸き立った。
「あのハイタッチのお稽古を受けた人全員にサイン入り修了証をプレゼントですって?」
「また、ゆっくりと統也くんとハイタッチできてお顔が眺められる上に、サインまで!」

 亜美の母親の病状が思わしくない。
 今度もハイタッチを諦めていたところへ、くも膜下出血の疑いが出て、さっそく手術することになった。
 統也のハイタッチの二日前だった。
 母親は激しい頭痛と戦いながら、娘に微笑んでみせる。
「行ってらっしゃい、ママは大丈夫だから」
 亜美はぶんぶん頭を振った。すると母親は、
「私ね、統也くんの演技も歌も大好きよ。何より美しい顔立ちと誠実な心映えが」
 意外な言葉だ。
「え? 母さん、そっち方面チンプンカンプンじゃなかったの? 若い子は誰が誰だか分からないって」
「実は、あなたの留守中にさんざん彼の作品を見たり聴いたり、すっかりファンになっちゃったのよ」
「まあ、母さんたら!」
「だから、ハイタッチに行ってらっしゃい」
「それだけはできないわ。手術前の母さんを置いて」
「行ってほしい理由はもうひとつあるの。母さん、独身の頃、掌華流の日舞を習ってたのよ。だから懐かしくて。今の家元のお母さまに正座の仕方、みっちり仕込まれたのよ」
「ええ~~?」
「統也くんは家元の息子さんだそうね」
「でも、ハイタッチに行くのは話が別よ」
 そこで母親は苦しそうに寝返りをうった。
 手術開始の時間が来た。母親はストレッチャ―で運ばれていく。
 亜美は、父親と一緒に見送った。美知と千春も見守ってくれた。
「手術中」の灯が点った。

 五時間が経過し、やっと手術が終わった。真夜中になっていた。
「先生!」
 亜美が医師に飛びつくと、
「ご安心下さい、成功ですよ。麻酔が切れるまで待って下さい」
「ありがとうございます、先生」
 頭を真っ白な包帯でぐるぐる巻きにされた母親がストレッチャーで運ばれてきた。
 しばらくは、集中治療室に入る。
(こんな不安に満ちた紫色は見たことがないな……)
 ほんのり明るくなっていく夜明けの紫の窓を見つめながら、亜美は思った。

 美知と千春が知らない間に『ハイタッチ正座講座』を受けに行ってくれて、統也の事務所に、亜美の分もお願いしに行ったが、本人ではないということで断られてしまった。
「負けないわよっ」
 美知と千春は掌華流、家元の自宅へ駆けつけた。
 お弟子さんの女性が玄関に出てきた。
「お願いしますっ。友達がお母さんを看病しなくちゃならなくなって、どうしても『ハイタッチ正座講座』が受けられなかったんです。代わりに私たちの修了証じゃ駄目ですか?」
 ふたりは必死で頭を下げたが、お弟子さんたちは狼狽えるばかりだ。
 家元夫人の美園がどこかへ出かけるらしく、玄関から出てきた。
「どうしたの?」
「はい、このおふたりが、統也さんのハイタッチに代わりの者じゃ駄目かって。統也さんの事務所ではお断りになられたそうですが」
「あら、この前まで正座講座に見えていたお嬢さん方ね」
 美園は美知と千春を直接、指導して覚えていた。
「娘さんの樹村亜美さんと、お母さまの樹村愁子さんの分を、あなた方の分で代行するの? 正座講座修了証明証」
「はい。ご無理は承知ですが、そこをなんとかお願いします」
「樹村愁子さん?」
 美園の顔色がポッと明るくなった。
「存じ上げてるわ。昔、うちに日舞を習いに来て下さっていた方だわ」

「~~というわけだ。どうにかならんのか、統也」
 すべてを聞いた父親の掌蔵が息子に電話した。
「ええ? いくら親父とお袋の頼みでもそれは……規則違反だよ」
 息子の返答を、父親の大きな声が吹き飛ばした。
「情けない! お前はそれでも日本男児か!」
 鼓膜が破れないかと統也と美園が怖気づいた。
「日本男児は情けのかたまりなんだぞ! 日頃からお世話になってるファンとご病気のお母さんを見捨てるつもりか! ファンが困ってる時こそ、力づける。それがお前の役目じゃないのか! 何のためのハイタッチだ!」
 統也は頭の上から大きな石を落とされたような気がした。
(その通りだ、ハイタッチの意味を僕は忘れていた!)
(ファンに感謝するためのハイタッチや握手会だ。ファンが苦しい時に力づける役目の僕じゃないか!)
「父さん……。よく言ってくれた」
 統也は急いで母親の美園に、樹村亜美さんと愁子さんの「正座講座修了証」を発行するように願い、マネージャーにも連絡した。

第七章 正座でハイタッチ

 手術終了から三十時間が経過し、亜美の母親はやっと目を開けた。
「お母さんっ! 良かった……良かった……」
 亜美は母親のシーツがびしょ濡れになるくらい、泣いた。
 医師は、泰然として微笑み、
「これで大丈夫ですよ、後はリハビリ次第ですね。ご自身と娘さんの頑張りで快方に向かうでしょう」
「頑張ります。ありがとうございます、先生」

「亜美、今、何日の何時?」
 母親が尋ねた。
「二十一日の午後二時よ」
「じゃあ、間に合うわね。統也くんのハイタッチ」
「行かないわよ。母さん、眼を覚ましたばかりじゃない」
「もう大丈夫。母さんの分までちゃんと正座してしっかりハイタッチしてらっしゃい」
 酸素吸入器を外して、母親は微笑んだ。
「亜美、廊下でお友達が待ってるぞ」
 父親の声がした。廊下に出てみると、美知と千春が小紋の可愛い花柄の着物姿で待っていた。
「さ、亜美も小紋に着替えるのよ、統也くんが正座してハイタッチしてくれるんだもん、おめかししなくちゃ」
「ちゃんとオーケー出たわよ。亜美もハイタッチできますって。統也くんの『男気』のおかげでね」
 嬉し涙でふたりの姿が見えなくなった。

 ハイタッチ会場――。
『正座でハイタッチ』に相応しく、由緒ある神社の神楽殿に設えられていた。神楽殿とは、普段、神に捧げる芸事や舞いが奉納される場所である。
 一人ずつ神楽殿の階を昇って進んでいく。
 紅葉の盛りを迎え、境内はもみじの赤と銀杏の黄色に彩られて華やかだ。
 すでに境内には、ファンの女性が溢れている。殆どが振袖か訪問着などの和服姿だ。
「亜美、本当に良かったの? 着物、着なくて」
 小紋姿の美知と千春が申し訳なさそうに尋ねる。亜美は病院に泊まり込んでいたままのセーターの普段着だ。
「うん。私はこれでいいの。お母さんも小紋、着ていったら? って言ってくれたけど、すぐに病院に戻らなくちゃならないから」
「そういうとこ、亜美らしいわね」
 美知と千春が涙ぐんだ。
 神楽殿をぐるりと何重もに取り巻いた女性の列はドギマギしている。神楽殿の中央に畳が六畳分くらい細長く敷かれている端っこが見える。
(あそこで正座してハイタッチするんだわ)
 亜美もさっきから心臓がどうにかなりそうだ。
(うまく正座できるかな? 私だけ正座講座受けてないのに、ハイタッチさせてもらうことになって。これじゃ裏口入学だわ。他のファンの方に怒られる)
 今になって亜美は引き返したくなった。
 それを察したのか、美知と千春が、小声で、
「大丈夫、難しくないよ。できるって」

 いよいよ、亜美が神楽殿に昇る時が来た。
 そのまま進んでいくと、衝立の向こうでファンとハイタッチしている統也くんの横顔がチラリと見えた。
 正座に相応しく、藍の着物に袴姿だ!
 凛々しい横顔に、なんと和装が似合うことか。
 こんなに胸が熱くなるのは初めてだ。初めてのハイタッチの時より興奮している。

 統也は寸分の崩れもない整った正座をして、ファンの女性に順番にゆったりおしゃべりしながら、ハイタッチしていた。
 終わった順に、女性は丁寧に三つ指ついてお辞儀をして、立ち上がり、神楽殿を降りていく。
 亜美はスニーカーを脱ぐ時に、靴紐を解く手が震えて、スニーカーのまま来てしまったことを呪いたくなった。
 あっ! と思った時にはよろけて畳の上に尻もちをついてしまった。
(ああ、私のバカ! 消えてしまいたい!)
 どうにか立ち上がり、畳の上に正座した。統也の前の女性が去り、いよいよ亜美の番だ―――。
 統也がこちらを向き、視線を感じる。
(さっきの尻もちはきっと見られたよね?)
 いきなり、統也が「あっ!」という顔をした。
(この娘だ! 何度か三人でイベントにやってきた、しっかり顔を思い出せなかった娘だ)
 しかし、そんな思いはすぐに飲み込んで、平静を装った。
 慎重に彼の前の座布団に座り、差し出される大きな両手に、自分の両手を重ねた。大きな彼の手のひらが、温かく重ねられ、五本の指を絡ませてしっかり握ってくれた。眩しくて顔が上げられない。
 統也の口から出た言葉、
「久しぶりですね」
 亜美は思わず、顔を上げた。統也がにっこりしていた。
(久しぶりですね―――?)
(覚えていてくれた――?)
(こんなに沢山のファンの中で、私のことを? 久しぶりだってことも分かってくれてる?)

 そこからの記憶がない。その後、統也と何をしゃべったんだか。美知と千春に聞いたところによると、ちゃんとお辞儀して彼の前から去ったそうだが。
 神楽殿を降りて、美知たちと合流するまで我に返れなかった。千春がスニーカーを持ってきてくれるまで裸足のままだったことにも気づかなかった。
 神楽殿の周りのざわつきが甦ってくる頃、
(覚えていてくれたんだ、私なんかのことを)
 もう一度、この事実をかみ締める。あまりの感激に、境内の砂利の上にしゃがみこみ、しばらく立ち上がれなかった。

 その後、亜美の母親は順調に回復していった。
 母の名前、美那子さんへ、と 書かれた「正座講座修了証明書」が、元気をくれたことは間違いない。
(統也くん、ありがとう、心から。亜美、一生忘れないよ)
(美知も千春もありがとう)
 亜美はつぶやくのだった。


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