[42]正座の景色


タイトル:正座の景色
発売日:2018/12/01
シリーズ名:須和理田家シリーズ
シリーズ番号:6

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:44
定価:200円+税

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
高校一年生の浩介は、生徒会で活動を始めた。
生徒会の一年生、次期部長を対象にした講習会が行われ、そこに姿勢のよい生徒や体育館でも正座していられる生徒がいた。
遅れを取ったと感じた浩介は、生徒会役員の賢が落語同好会に入り、学校説明会などに生徒会で落語を用いた演出をしてみたいと提案したことで、早速正座の訓練を開始するが、うまくいかない。
そんな時、自宅が和室で正座に慣れているという須和理田の家に呼ばれ……。

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本文

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 某高校の秋の説明会。
 教員からの三年間の取得単位数や必須科目、選択科目及び、過去五年間まで遡った進路実績、過去三年間の修学旅行先の説明が行われた後、生徒らによる学校紹介が開始された。
 トップを飾るのは生徒会で、幕が上がれば一般生徒より真面目で制服を校則通りに着た数人が立っていると説明会に来ている生徒や保護者は予測した。
 しかし、幕が上がると大喜利調にしつられた舞台があり、和装姿の生徒がすっきりと背筋を伸ばし、綻びのないきちんとした正座で並んでいた。
「みなさん、こんにちは。生徒会です。本日は大喜利調でわかりやすく、そしてできれば面白く、僕らの学校のことをお話したいと思います」と中央の男子生徒がよく通る声で言い、一同は正座をしたまま見事にきれいな礼を揃えたのだった。

 ――遡ること半年前。
 高校一年生の多田師浩介は、五月の生徒会役員選挙に立候補し、書記の役職を得た。浩介の通う高校の生徒会は役員を重宝するため一つの席を巡っての選挙戦は行われず、事前に生徒会室を訪れ、どの係をやりたいかの希望を取った後に調整してからの立候補となる。従って、中学生の時のように生徒会長に三人も候補者がいるということはない。選挙においても、一定の投票数が得られれば当選するという。「万が一に投票数が得られなかったら?」という浩介の疑問に対しての生徒会顧問の先生の返答は、「学校始まって以来、そんな話は聞いたことがない」だった。たまたま浩介が生徒会室を訪れた時、書記の席が空いていて、そのまま書記に立候補し、書記になった。
 現在の生徒会は三年生が六人、二年生が七人で、立候補して新たに加わった一年生が浩介を入れて七人だった。計二十名での活動となるが、それは三年生が退く七月末までで、その後は十四人で活動することになる。
 生徒会での活動は、それぞれの役職での仕事はあるが、行事などは役職に関係なく、皆で仕事をする。生徒会というと、生徒の中でもよいポジションのように捉えられがちだが、実際には学校行事の雑用全般、それも最終で回ってくるような縁の下の、そのまた下の力持ちといった役割が果てしなく多い。生徒会に入る前で浩介は知らなかったが、五月に行われた球技大会も生徒会役員はトーナメント表の管理から、競技種目のサッカー、バスケ、バレーの審判を各部に依頼したり、コートを見て回り、球技大会終了後はコート内の忘れ物の回収やごみ拾いも行っていたと言う。
 それを笑顔で説明する三年生は、とても自分と同じ高校生とは見えないほど、人格者であり、明日から銀行で働けるのではないかと思うほどにしっかりとして見えた。
 浩介は同じ一年生で庶務を担当している藁里賢と親しくなり、一緒に帰る時に「俺ら、今の先輩みたいになれるか?」と話した。浩介と賢は生徒会の活動のほか、部活動には入っていなかった。そのため生徒会のある日は早くから生徒会室に行き、活動日以外も雑用を自然と率先してやるようになり、また生徒会が終わった後は部活に顔を出さずに下校するため一緒に行動する機会が多かった。
「三年間、ああやって学校のために資料作ったり、部の部長といろんな相談したり、それを先生に報告したりしていれば、しっかりしてくるのはありそうだよね」と賢は言い、浩介も同意した。
「藁里は何でこの高校にしたの?」と浩介が訊くと、「通いやすかったのと、入れそうっていうのがあったけど、説明会の時の印象が一番よかったのが大きかった」と賢は言った。
「それ、同じ」と浩介は大きく頷いた。
 浩介たちの通う高校は、ごくごく一般的な学校である。しかし、通っている生徒の評価をはじめ、中学生や高校生の間でも浩介たちの通う高校は校風がよいことで有名だった。
 部活数が多く、また個々の活動が活発だという特徴とともに、校内の生徒は部活や学年問わず、来校者に必ず挨拶する。
 浩介が高校の説明会に初めて訪れた中学二年の十月、校内の至るところに在校生が立ち、挨拶をし、説明会会場の体育館やトイレの案内も率先して行っていた。
 説明会の八割方を在校生がこなし、生徒会長が在校生を代表して檀上から挨拶した。よく通る声で堂々と話す姿と、この高校を選んだことや、楽しい学校生活を順序よく、魅力的に話す内容に、広い体育館は自然と静まり返り、生徒会長が話を終えてきれいな礼をすると拍手が起こった。今すぐにでもあんな人と一緒に過ごしたいと思ったが、浩介が入学する前にあの生徒会長は卒業している。そのことがとてももどかしかった。翌年、受験生になった浩介は再びこの高校の説明会に参加した。生徒会長も話の内容も違ったけれど、やはり魅力的な人だと思った。元々の資質もあるとは思ったが、この学校生活がそうした生徒をつくり上げていると確信した浩介は、どうしてもこの学校に入り、生徒会での充実した生活を送りたいと願ったのだった。
「生徒会の仕事がしたいっていうのも大きいけど、生徒会の仕事を通してあんなふうに成長できたらいいよなあ」と賢と浩介は頷き合った。


 そんな賢と浩介が「なるほど、これか」と思う行事が伝えられたのは、中間テストの二週間前だった。テスト終了日の午後と、その翌日の学校創立記念日で一般の生徒が休日となる二日間で集団活動をリードする人のためのトレーニングが行われるという。
 中学生の時、ほぼテスト最終日は前夜寝ないで勉強し、テスト後に自宅でスマホのゲームをやりながら寝るのが当たり前だった浩介は「えっ!」と思ったが、生徒会に入る面々は計画的に勉強する優等生が多いらしく、誰ひとり異議を唱えなかった。「テスト最終日って、睡眠時間少なくて一番きつくない?」と、後で賢に訊いたが、賢は「何で? 普段の授業よりテストは早く終わるよ」と涼しい顔で返しただけだった。
 渋々ではあるが浩介はテスト勉強の準備を繰り上げて毎日の勉強時間を増やした。放課後は職員室にわからない問題の質問に行き、その後図書室で自習し、テスト終了日後のトレーニングに備えた。
 浩介の中学校の同級生で、今も同じクラスの紀羅美カヤはチア部に入り、充実した毎日を送っているようだった。浩介が放課後職員室に数学を聞きに行った帰りの渡り廊下から、中庭にマットを敷き、大声で歌いながら振りを確認するチア部の中にカヤが見えた。目鼻立ちがはっきりしていて、すらりとしたカヤは入学当時から上級生をはじめ、男子に大人気だったが、カヤはそうして近付いて来る男子とではなく、浩介の友達の須和理田と付き合いはじめた。まだ付き合ってはいないと当人同士は言っていたが、活発で美人なカヤと、園芸と囲碁が好きで草食系男子の若干美少女に見えなくもない須和理田は不思議と似合っている。
 浩介は箸の遣い方や正座などの所作が美しい女の子が理想で、その理想の彼女探しに入学当初カヤも巻き込んだことがあった。色々なそれらしき部活を覗いたけれど、浩介の思うところの理想とする女の子とはまだ出会えていない。その間に、ただ気が強いという感じのカヤはずいぶんとしなやかになったというか、更に強くなったというか、変わったと浩介は思う。須和理田といることで、雑な動作が減った一方、須和理田の護衛のような立ち振る舞いが時折見受けられ、益々勇ましくなったような気もする。
 とにかく、そんなふうに中学校からの同級生が変化を遂げる中、自分はまだ進化以前だという焦りを感じていた。


 テスト最終日、部活や友達との遊びで教室を出て行くクラスメイトに混じり、浩介は賢の教室を覗きに行き、一緒に購買で買ったパンを一階のホールで食べた。
 購買で買い物をしては去って行く集団の中から、「今日先輩何か学校の集まりで来られないって」というような会話や、「今日と明日の集まり面倒」という声が聞こえてきた。
「今日さ、何やるんだろう」と賢が言い、「そうだね」と浩介も頷いた。
 会場となる視聴覚室に行くと、いつも会う生徒会の一年生の面々のほかに、各部の次期部長である二年生も集まり始めていた。
 ホワイトボードの前に立ったのは、体育の生活指導の先生だった。
 生活指導の先生は、ここへ集まった人は立候補であったり、推薦であったり、またはじゃんけんだったかも知れないが、それぞれの場で人をまとめる役割を担うことになったと前置きし、そのための指導を行うと話した。
 そして、ジャージ姿の生活指導の先生は恭しい態度で視聴覚室を出ると、スーツ姿の六十代くらいと思しき女性を連れて戻って来た。この女性が今日は指導をしてくれると言う。
 女性講師はよく通る大きな声で挨拶した後、お辞儀の大切さについて解いた。
 視聴覚室は弱く冷房が入っていて、いくら事前に勉強していてもテスト後の身にとっては、心地よい眠りを誘う環境だった。浩介はうつらうつらしかけたが、「みなさんも、もう高校受験で面接の練習をしたと思いますが、やってみましょう」と言われ、パイプ椅子から立つように促された。 
「あなた、とてもいいですね」という女性講師の声で顔を上げると、髪をひとつにまとめたチア部の次期部長が褒められている。他にも、剣道部、茶道部、華道部、書道部の次期部長が次々に褒められ、その姿勢の良さがみなの見本となった。残念ながら生徒会役員は誰もその中には入っていなかった。出遅れた、と浩介は思う。
 姿勢を全員正し、そこからお辞儀の角度を教えられた。ここで習ったのは三十度と、四十五度のお辞儀で、女性講師が見て回った後、改めて全員でのお辞儀が行われた。
 その後、扉の開け閉めと、お茶の出し方、正座についてのお作法を、動画を見て学習した。
 女性講師は講習会の締めくくりに、「昔からこの学校の生徒さんはとても感じがよくて、今日もここへ来るまでにたくさんの生徒さんから明るい挨拶をしていただきました。みなさんのご活躍をお祈りしています」と言った。
 女性講師が帰った後に、生活指導の先生による挨拶の練習が始まった。先ほど習った礼に「おはようございます」、「こんにちは」をつける。これを繰り返し、この日の講習は終了した。
 帰る時、生活指導の先生への「さようなら」という挨拶が、開始時の挨拶より格段によくなっていたのは、参加者全員が自覚していたと思う。
 翌日はジャージで体育館に集合した。
 この日の講師役は進路指導課の先生だった。
 進路指導課の先生は、この講習はこれからの高校生活での活動はもとより、受験での面接や、将来の就職試験にも役立つはずですと前置きした。ジャージで体育館の床に座っていた生徒の背筋が自然と伸びる。
 まずは全員で起立し、前日に習った三十度と四十五度のお辞儀をし、挨拶した。
 その後、八つのグループに分けられた。
 縄が配られ、五分後に縄飛び大会をするので、各自で分担を決め、練習するようにと指示が出る。
 浩介の班はチア部、書道部の二年の女子と、水泳部の二年の男子と、生徒会で一年の賢での五人だった。水泳部の二年の男子が「女の子はきついと思うから、俺、縄回すよ」と笑顔で挙手し、もう一方は浩介が持つことにした。
 書道部の女子が時間がないことを告げ、すぐに練習を開始する。
 チア部の女子が前方の高く飛ぶ場所に率先して入り、賢が「じゃあ」と書道部の女子を真ん中に決めた。
 この後すぐに縄跳び大会に突入し、十分程度の時間で三回ほど勝負が行われた。
 バスケ部とバレー部のいる班が優勝したが、どの班も悔しさというよりは、体とともに心の緊張もほぐれ、素直に優勝した班に拍手を送っていた。
 この後、班ごとに小さな円になって座り、いくつかの項目を発表することになった。
 高校に入ってよかったこと、この高校をどうしたらもっとよくできるかの提案、仲のよい友達の話。
 初対面の複数の人を前に、これは意外と難しかった。
 誰から始めるかはじゃんけんで決めた。
 緊張した面持ちの書道部の女子からになったが、意外というか、声もはっきりしていて、きちんと内容のある話だった。それに続くかたちで、かなり質の高い発表ができたと浩介は思ったし、みんなもそう思っているのが伝わってきた。
 ふと気付くと、書道部の女子は硬い体育館の床に背筋を伸ばして正座していた。
「足、痛くないですか?」と聞くと、「慣れれば大丈夫。この方が落ち着くの」という答えだった。
 チア部の女子は正座をしていなかったが、背筋が伸びている。そして隣を見ると、賢も正座をしていた。
「え、どうして?」と驚くと、「いや、この方が気持ちも引き締まるし、いいかなって」と賢は曖昧に笑った。
 確かに緊張感のある場では、正座の方が本人にとっても、周囲にとってもいいのかもしれない。浩介はそう思い、正座をしてみた。
「背筋を伸ばして、膝がつくか握りこぶしひとつくらの間隔にするといいよ。あと、足の裏は親指が軽くつくか、重なるくらいにすると座りやすい」と、書道部の女子が教えてくれた。
「ありがとうございます」とお礼を言うと、「うちの部、正座することが多いから、そういうのも自然と教えるようになるんだ」と柔らかく返された。ああ、これが次期部長というものだ、と浩介は思った。どこかで生徒会役員というと格上な捉え方をしていたが、一学年先輩であり、次期部長となる活動を一年続けていた人はやはり違う。
 この後は、架空のクラス内で意見が二つに分れた時の解決法を班ごとに話し合い、講習は終了した。
 お疲れ様でした、と誰となく言い合い、立ち上がろうとすると足が痺れ、咄嗟に賢が腕を支えてくれていた。
「正座、慣れるまでは少し時間がかかるよ」と親切に言った賢に、浩介は「ありがとう」と言って頷いたが、日本文化関連の部活に入っていない賢はなぜ正座に慣れていたのか、という疑問が残った。


 その後、生徒会では生徒総会の準備で冊子を生徒会総出で作ったり、進行の順番を確認したりと忙しい日々が続いた。生徒会役員はこの時期基本的に生徒会の仕事が最優先とされていた。それがほとんど生活に影響しないのが浩介と賢だったはずだが、ここ暫く賢が遅れてやって来たり、帰りも浩介に「ちょっと用事があるから」と言って、足早にどこかへ行ってしまうようになった。クラスは違うし、生徒会でしか顔を合わせないので詮索はしなかったが、浩介は何となく、賢の行動が気になっていた。
 生徒総会では今年度の部活の予算が読み上げられたり、現時点での校則についての生徒からの意見が取り上げられたりした。生徒総会終了後には、生徒会役員が使用した机や椅子を片付ける。
 その作業をしている時、浩介は賢に「最近、何か忙しい?」と聞いてみた。はぐらかされたらそれで諦めるつもりだったが、賢は「同好会に入った」とあっさり教えてくれた。
「何の同好会?」
「落語」
「落語?」
「うん。中学の時に日本文化部っていう部活の一環でやってたんだけど、高校では落語部ないし、生徒会入るつもりだったからいいと思ってた。そしたら中学の先輩が国語の先生にかけあって、落語同好会を作れることになったって教えてくれたから、少し前から入ったんだ」
「……そう、だったんだ」
「多田師もよかったら、入らない?」
「え、無理だって。落語聞いたこともないし」
「でも、多田師は声もよく通るし、この前の皆の前での話もテンポよくて聞きやすかったから、練習すれば結構うまくなると思う」
 そう頭のいい賢に言われ、何となく浩介はその気になった。
「活動は、和室でやっているから、明日来ない?」
「いや、いきなり活動に参加するのは、まだ。本当に落語が好きな人や、やりたい人に失礼だからさ。こっちでそれなりに落語の番組を見たり、本を読んだりして、できそうかどうか考えてからにするよ」
 浩介がそう言ったのは、決して落語同好会が嫌なわけではなく、生き生きと話す賢とに温度差を感じたからだった。
 賢は「なんか、逆にありがとう」と言った。
「どうして?」
「一つ返事で入るって言われるより、真剣に考えてくれているのが分かるから」
「まあ」
「それでさ。生徒会に入ったばかりで、どうこう提案するのもって思うんだけどさ、いつか学校説明会とか、新入生歓迎会でさ、ステージに正座して並んで、大喜利調で生徒会っていうか、学校のピーアールできないかなって。毎年生徒会長の話もすごくいいけど、生徒会全体でバックアップできないかって思うんだよね。部活紹介で落語同好会と被るかって問題もでるかもしれないけど、いつかやりたいと思っててさ」
「それ、すごくいいんじゃないかな」と浩介は即座に頷いた。
「この前の講座のお辞儀とか、挨拶とか、スピーチとか、そういうのを言葉で説明しなくても伝えられる機会だと思う」
 浩介が同意したことで、賢はこの意見に自信を持ったようで、今年の文化祭から生徒会有士でどこかに入れてもらえないか会長や先生に相談すると言った。
 浩介も学校の活動に一石を投じられると思うと、心が躍った。
 まだまだ先の話ではあるが、一度やる気が起これば先へ先へと準備したくなる浩介である。
 落語には古典と新作があり、それらを覚えるところから始まるらしい。
 ひとまず図書館に行き、落語のCDを借り、テレビ番組も録画した。
 テレビで放送される大喜利を見て、ふと当然のことに気付いた。
 皆、和装で正座、なのである。
 この前の講習で、短い時間の正座で足が痺れたことを浩介は思い出した。
 落語作品を覚えることは必須だが、もし賢の提案が通った場合、落語に興味がない生徒会役員も駆り出されるだろう。恐らく、台本は賢が考える。そして、今から少しずつでも落語の知識を得ていく浩介が一応の相談役となるだろう。要するに、大喜利調で登場する面々は落語初心者であるということ。まあ、学ぶことや努力が好きそうな人ばかりだから、このへんは浩介が心配することではない。問題は、登場した際に正座しているということ。そして、そこから立ち上り、退場するということだ。まさか説明会に来た中学生の前で足が痺れたと転ぶわけにはいかない。これについては今から慣らしておく必要があるのではないか……。
 講習の時に出遅れた悔しさもあり、浩介は一定の時間の正座に取り組もうと考えた。
 が、自宅の椅子で正座をするのはおかしいし、足が収まりきらない。いきなり床では足が痛い。どうにもしっくり来ない。
 翌日、どうしたものかと思いながら廊下を歩いていると、須和理田に会った。
「今、帰り」と須和理田に訊かれ、頷く。
「そっちは?」
「今、園芸の方で花壇ちょっと見て来て、もう帰る」
「紀羅美とは帰んないの?」
「今の時期、部活が大変らしくて、朝も七時から朝練あって、今日もまだまだかかるって。待ってるって言ったんだけど、悪いから帰ってって言うからさ」
 どことなく心もとなげな須和理田に、浩介は一緒に帰ろうと言った。
 校門を出て大通りを歩きながら、「部活、どう」と訊いた。
「囲碁の方は夏に高校の全国大会があって、うちの学校も出るらしいよ。期末が終わったら、部長のお父さんの紹介で碁会所の方にも行って強くなろうって」
「へえ、頑張ってるんだね」
 中学生時代、塾で会う須和理田は真面目に宿題をやってくるものの、テストで一番を狙うとか、先生に積極的に質問するといったことがない、浩介の目から見てもどちらかというと消極的な人間だった。高校に入ってからも変わっていないと思っていたが、物静かだが充実した表情を見せる須和理田を前に、浩介は少し焦りを感じた。
「そっちは生徒会、どう?」
「この前は挨拶とかの講習会があったよ。そこで結構文化部の女子なんか正座に慣れていたり、姿勢がよかったりしてさ、ああやって講習を受けることが周りとの差だと思っていたけど、もう、元々できているってことの違いを見たって思いはした」
「……そんなに深い理由じゃないんじゃない?」
 のんびりと須和理田に言われ、「どういうこと?」と浩介は訊き返した。
「ただ正座する習慣があったとか、姿勢がよくなる活動をしているとか、そういうことじゃないの? 正座だけなら、うち、和室が居間と食卓になっている家だから、慣れているけど、それで何か特別な意識なんか持ちようもない」
「……元々の習慣か」
 これこそが浩介が女子に求めるものだった。美しい所作を元々の習慣とする生活環境にある女子……。女子に求める、憧れるということは、逆にいえば自身に備わっていないものだったからではないだろうか。
 部活見学で理想の女の子を探そうと考えていた入学当初の自分は、ずいぶんと短絡的な考えだったと今更ながらに反省する。別に見学した先に理想の女の子がいなかったのではなく、浩介の見方がそもそも一方的だったのだと思う。いくつもの部活をはしごした短い見学時間に、一体何を見定められるというのか。見定められるだけの能力が自分にあったと言えるのか。……本当に失礼なことをしてしまった。謝ることは憚られるけれど、ここで自分でできることをしていくことで、直接的にではないにしろ、部活見学をさせてもらった人たちに返していけるものがあるように思えた。
「多田師、ずいぶん思いつめた顔しているけど、大丈夫?」
「いや、いろいろとね、これから努力すべきことは見つかったんだ。だけどまず、正座をきちんとできるようになりたいんだけど、うちに、そういう習慣、ないからなあ」
「……うちでよければ、来る?」
「いいの?」
「広くないし、何も出すものないけど」
 そういう言い方をするところも、須和理田の消極的な一面ではあるが、よくいえば謙虚な姿勢なのかも知れないと浩介は思った。
 須和理田の自宅は賑やかな駅前を通り過ぎた住宅街にあった。
 こぢんまりとした戸建ての並ぶ中のひとつに須和理田家があり、玄関前には鉢植えのトマトがあった。
「これ、須和理田が作ってるの?」
「うん、あと二階のベランダにナスとピーマンも置いてある」
「……そうなんだ」
「うん」
 玄関の鍵を須和理田が開け、浩介はそれに続く。
 今風の新しい家だったが、通常ソファやらテーブルが置いてあるリビングダイニングが、須和理田家は和室になっていた。
 冬にはこたつになるだろうローテーブルに座布団が四枚、テーブルの四方に配置され、テレビの前の大きめの藤の籠に新聞やリモコンが入っていた。
 須和理田はエアコンをつけると、「座って」と浩介を促し、本人はキッチンへ入り、冷蔵庫を開けたり、棚を開けたりしていた。
 須和理田が出してくれたのは冷えた緑茶と、水ようかんだった。水ようかんは浩介が知っているプラスチックの容器に入っているものとは異なり、深緑の小皿に載った四角いもので細くて華奢なフォークが添えてあった。
「ありがとう」とおずおずと水ようかんを前にした浩介は、自然と姿勢を改める。
 須和理田は慣れた様子で緑茶を飲むと、フォークですっと水ようかんを縦に切り、口に運んだ。何気ない所作だったが、和菓子に慣れない浩介にとってはちょっとしたプレッシャーだった。
 ふと気付けば、水ようかんを口に運ぶ際に自然に添えられた手や、真っ直ぐな背筋、正座から、須和理田の所作の美しさが伝わってくる。
「もしかして、結構育ち、いい?」と訊いた浩介に、須和理田は「まさか。超庶民なの見ればわかるだろ」と真面目に答えた。
 どうやら須和理田は、「育ちがいい」というのは大財閥に限ったことだと思っているらしい。
「そうじゃなくてさ。いや、十分素敵な自宅だと思うけどね、きちんとしたしつけを家庭内で受けてきたってこと」
「しつけ?」
 須和理田は首を傾げる。
「だから、その自然に正座できるところとか、お茶の飲み方とか、ようかんの切り方とか、そういうのが、不慣れな人間からすると、なんか違うと思う」
「そうかな。これはうちでは普通にやっているっていうか、元々そういうものだと思ったからな」
「そういうのが、理想的なんだけど。まさに」
「ふうん。そんなこと言われるの初めてだけど。妹は、この居間とか、うちの習慣みたいなの嫌がる時あるから」
「へえ」と浩介は頷き、人それぞれだと感じ入った。
「ただ、まあ、言えるのは、正座にしても、箸の遣い方にしても、周囲からの印象が大事だっていうのはわけるけど、根本的にうちの家族はそれが心地いいっていうのが一番だから続いているんだと思う」
 言われてみれば、須和理田は昨年のプレッシャーがかかりがちな受験シーズンも肩の力が抜けて見えたし、浩介のような焦りを感じている気配もなく、いつも自然体に見える。今も向かい側に正座している須和理田はとてもくつろいだ顔をしていて、一緒にいて居心地がいい。そして、この家のこの居間での正座は浩介にとっても心地よかった。
「ありがとう。今度、うちにも来て」と浩介がいい、須和理田は嬉しそうに頷いた。
 須和理田家を後にし、ふと浩介は須和理田家では長時間正座をしていたのに全く足が痺れなかったことに気付いた。


 翌日、生徒会室に行くと三年生の会長がいた。挨拶し、この前の講習会の説明が書かれたホワイトボードを浩介が消すと、「どうだった?」と訊かれた。
 浩介は振り返り、「勉強になりました。行ってよかったです」と答えた。
「あの講習、うちの学校の伝統なんだよ。まあ、ちょっと面倒だけど、行くとみんな『行ってよかった』って言うよ」
「はい」
「三年が引退した後、九月に執行部の募集をするんだ。希望者に集まってもらって、一応執行部ができる人がどうか見て、合格した人に生徒会役員の方から、講習会で習ったことを教えるから、ちゃんと覚えておいてね」
「あ、そうなんですか」
「うん。やる気とか、いろんな発想ももちろん重視するけど、姿勢よくきちんと挨拶できたり、丁寧な言葉遣いができたり、ドアの開け閉めとか、正座とか、そういう面もきちんとしている人っていうのは、咄嗟の対応もこなせるっていうのが、この学校の考えだから」
「あ、会長。正座で思い出したんですが、まだ藁里と僕だけのちょっとした発案段階ですけど、説明会とか、新入生歓迎会の時に、生徒会で大喜利調でアピールとか、説明ってできませんか」
「面白いね」と会長は頷いてくれた。
「まあ、他のみんなと相談して、先生にも許可もらえるように具体的なことも決めないといけないけど、そういうの、いいと思うよ。きれいに正座した生徒会がお辞儀して、面白い話で盛り上げられれば、うちの学校の品格みたいなものと、楽しさが伝わるしね。それ、もし俺らがいる間にできるなら、見に行きたいな」
「頑張ります。もし、間に合わなければ、動画で送りますから」
「うん」
 未来への楽しみとこれからやることに心躍る一方、浩介の心には、敬愛にも等しい生徒会の三年生とのお別れの時期が迫っていることへの寂しさがこみ上げた。
「僕、説明会の時の会長さんの挨拶、中学二年と三年で聞きました。三年の時に聞いたのは、先輩の挨拶でした。そんなふうになりたくて、張り切って生徒会入ったんですけど、周りの友達と比較して、自分は全然進歩していないって焦りもこのところあったんです。……だけど、ただなりたいと思うんじゃなくて、ひとつひとつのことをこれから頑張って、高校生だから、この学校だから、この生徒会だからできる可能性を考えて、前進していきたいと思えるようになりました。頑張りますから、これから引退されるまで、引退されてからも、たくさん、学ばせてください」
 浩介の前で穏やかに笑う会長の、その奥には浩介と同じように一年生だった頃があり、そこからさまざまなことを学んできた日々があったことを浩介は今になって理解できた。
 ここまでになれるかは、わからない。
 けれど、背筋を伸ばし、礼節が自身にとって心地よいものとなるよう心がけることが、その一歩だと今は思った。


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