タイトル:ふたりの赤ん坊誕生
掲載日:2023/??/??
シリーズ名:渾天儀シリーズ
シリーズ番号:2
著者:海道 遠
あらすじ:
星合女学校のガミガミ先生がお見合いすることになった。お相手は渾天儀をお持ちの教授の弟さんだとか。
少し前に、女学校の渾天儀の中で正座して記念撮影した写真をお相手が拝見して、すぐに縁談がまとまった。
あたい(思結)はオモダカくんと雄蝶雌蝶のお役目をした。
ある日、母ちゃんのお腹に新しい赤ん坊が宿ったことが判明。隣町のウメ先生のところでお産をすることになった。ガミガミ先生もオメデタで、同じウメ先生のお世話になるという。

本文
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第一章 泣きどころ
『そら、人間には3つの欲望というものがあるだろう。食べたい食欲と眠りたい睡眠欲と……』
渾天儀の中に入ると、男でも女でもない不思議な声が言った。
「3つの欲望?」
思結には、さっぱり分からない。
『あ、ああ、お前さんはまだ小さいから、分からなくてよいのだ』
「失礼ねっ、あたい、作物のタネの区別はずいぶんつくようになったし、育て方も頭に入ってるし、竈(かまど)に火をつけてご飯を炊けるようになったし、田植えの手伝いもできるし、稲刈りだって手伝いできるようになったわ。弟のトヨ坊が、母ちゃんのおっぱいがほしいのかオムツを取り替えてほしいのか、抱っこしてほしくて甘えてるのかも区別つくようになったわよ!」
すると声は、
『そりゃあ、偉いな。お前はまだ6歳くらいなのに。偉いが、人間の3つめの欲とは、そういうのではなく……』
「どんなんなのよ」
『まあ、それは一旦、こっちへ置いておこう。とにかく私は球体だろう? 中の中心線が傾いておるだろう? そのせいか、いつも気持ちがぐらぐらしているから底の面に誰かに力強い正座をしてもらいたいのだ。そうすれば球体も私の気持ちも安心して、どっしりするのだ』
「ふうん……」
思結は、ただうなずいて聞いていた。
「そうそう、思結ちゃん、あんたと会う前になぁ、輪っかの途中にある月からボテッと何か落ちてきたと思ったら、ヒキガエルが私のちょうど底に落ちたんだよ。それが、人間が正座した重みとちょうど同じでね、私はすっかり安心したのさ。次に大きめのうさぎもドサッと落ちてきてね、前足も後ろ足もお腹の下に敷いて座ったんだ。あの時もちょうど頃合いの重みで安心したのだよ。それからさ、あんたが私の中に登ってきたのは」
「中に入ってぐるぐる見回してから、山の谷川で拾った時ね」
『そうだよ! 子どものあんたが指でつまんで私をジロジロ見回して、ポッケに入れて家に帰った時さ』
「拾ってしばらくして、オモダカくんが教授の家から女学校に自転車にふたり乗りで連れて行ったのよ」
『そうだったな』
「あの時は、急に背が伸びてびっくりしたわ。ガミガミ怒鳴る先生からは、ひどく怒鳴られるし……」
思結は思い出して、シュンとした。
『出会った優雅な女学校の悠園(ゆうえん)校長先生! あんたたちの自転車に乗ったりしていたが、あの正座が忘れられん! あの人に私の「泣きどころ」に正座してもらったら、気持ちよくて天国行ってしまいそうだ。熟したお尻の形といい……。あ、「泣きどころ」ってのは、すごく感じるツボの意味な。痛いところじゃないよ』
「こんてんぎさんとやら!」
急に思結の厳しい声が飛んだ。
「あんた、男なの? 校長先生のお尻がなんとか!」
『い……いえっ、男も女もありません。ただの渾天儀ですっ!』
「じゃあ、校長先生のお尻の話題は、今後一切やめてね」
第二章 縁談
「変な夢、見たなぁ、渾天儀とおしゃべりするなんて」
秋晴れの空の下、トヨ坊の大量オムツの洗濯物を干しながら、思結は夢を思い出していた。
どういう訳か、思結は星合女学校へ行くと、周りの人たちから女生徒の年代に見える。
~~というわけで、中身が6歳とは、女学校では誰にも気づかれなかった。次に女学校に行った時、校長先生を尋ねてお願いした。
「渾天儀の中に入って正座しますから、校長先生もご一緒に記念撮影してください」
そこへ、ガミガミ先生がやってきて、
「おやめなさいまし、校長先生。渾天儀の中で正座すると、一生嫁に行けないという言い伝えがありますよ」
「まあ、本当に?」
「私が良い例です。その昔、渾天儀が珍しくて正座ばかりしておりましたら、このトシまで縁談がまとまりません」
「それは困りましたわね。私にもまだお嫁さんへの憧れはありますから」
悠園校長先生はしょぼくれた。
「まだだなんて。校長先生は三十路(みそじ)に入られたばかりじゃないですか」
「立派な行き遅れですよね。25歳になったら後妻の嫁ぎ先の縁談が来るんですから」
「校長先生が後妻さんだなんて、失礼な! 私なら分かりますが」
ガミガミ先生はコホンとひとつ咳をして付け足した。
「私……、渾天儀の中で記念撮影していただこうかしら?」
思結も校長先生も耳を疑った。ついさっき、行き遅れになるからお止めなさいと言った舌の根も乾かないうちに!
「いえ、実は……、人生最後と思う縁談をいただいておりましてね」
頬を赤らめながら、ガミガミ先生は小声で言った。
「まあ、それは素敵なこと! ガミガミ……いえ、上々先生にその気がおありなら、是非ともお受けなさってください」
校長先生は顔を輝かせて自分のように喜んでいる。
「しかし……私は38歳ですのよ。世間様が何とおっしゃることか……」
校長先生が髪を整えてから立ち上がって、ガミガミ先生の正面に正座した。
「先生、貴女は世間様とご結婚なさるのですか、それとも殿方と?」
いつになく強い視線で睨まれたガミガミ先生は、
「と……殿方とですわ」
「では、その殿方と気持ちを通わせて、良いご家庭をお築きなさいまし。間違っても世間体のために結婚を急いで人でなしの男に服従したり、暴力三昧の生活を許したりしてはなりませんよ!」
「は……は……はいっ!」
しばらく沈黙が校長室を支配した。
更にしばらくして、ガミガミ先生が高笑いした。
「あっははは……ほほほ……」
「どうなさったの?」
「だって、校長先生。まだ写真撮影も何もしていませんのに、可笑しくなりまして」
「そ、そうだったわね」
ふたりはひとしきり笑った。
思結の耳に、渾天儀から荘厳な声が届いた。
『我と記念撮影したおなごの行く末は、夢が叶うかどうか、きっと見届けるからな』
第三章 お見合い
その後、ガミガミ先生は渾天儀の中で写真撮影してお見合いしたが、一回めはうまくいかずとか。
でも、ガミガミ先生は教師として真面目な方だ。あたいにだってそれは分かる。
お顔だってメガネを外せばうりざね顔で、美人といえば美人だし生徒への面倒見だってよい。よいから口うるさくなるのだ。
そんなある日、青い屋根の大学教授の先生から、思いがけない縁談が舞い込んだのだ。弟が独身だからお見合いしてやってくれないか―――と。
後妻募集じゃなくて初婚だ。
ガミガミ先生のご両親は、神様のお恵みだと言って嬉し泣きしたそうだ。
ガミガミ先生は校長先生から正座の所作を習った。
「背筋を真っ直ぐにして立ち、その場に膝を着き、お尻の下に衣を敷いて、かかとの上にそっと座る。かかとを開き気味にして座ると、シビレにくくなります」
かくしてお見合いは行われ、メガネを外してひっつめ髪でなくて、耳かくしという最新流行の髪で本番に臨んだガミガミ先生は、初々しい美しさだったそうだ。
青い屋根の大学教授の弟さんは、ガミガミ先生を気に入り、お見合いはまとまった。
上司の校長先生は我が事のように喜んだ。
「姉のように敬愛しております。なんというおめでたいことでしょう」
お結納の日には、ガミガミ先生の希望で校長先生にも同席していただいたんだとか。
お相手の方は、兄上の大学教授と同じ大学で物理学の助教授をしているとのことだった。
渾天儀の中で正座したお見合い写真を見て、気に入ったそうだ。
「わ、私、物理に詳しいというわけでは……」
ガミガミ先生は謙遜したが、もちろんお相手は勉学に明るい夫人を求めていたわけではない。
誠実そうな壮年の男性で、
「決して裕福とは言えない学者だが、よろしければ身ひとつで来てほしいと思っております。雅海(まさみ)さん」
と、プロポーズまでしたそうだ。
あ、雅海さんというのは、ガミガミ先生の本名だ。雅海(がみ)と読めるから、女生徒たちがあだ名にしたのだ。
お式はガミガミ先生の希望で、綿帽子を着た白無垢でということになり、雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)の役は、なんと、あたいと、ちょっと大きいけどオモダカくんに白羽の矢が立った。母ちゃんは、あちこち親戚や知り合いのお宅にあたいの晴れ着を借りようとして走り回った。
母ちゃんの実家の親戚に、ちょうど良い晴れ着が見つかった。
第四章 結婚式その後
挙式当日――、
(これが毎日ツバを飛ばして、生徒に怒鳴っているガミガミ先生だろうか?)
純白の蘭のような美しさに、あたいはポワンとなってしまった。いつもは大口開けて怒鳴っている唇に、朱色の口紅が塗られておちょぼ口になっている。
綿帽子を着た先生は、まるで天使のように後光が差している。もう少しで手元が狂って、盃にお酒をドバッと注ぎすぎるところだった!
隣の新郎も、青い屋根の教授の弟さんだけあって、なんて凛々しい方だろう。
オモダカくんと目を合わせて驚きあった。校長先生の美貌がかすむほどだ。
ふたりは厳かに正座して三三九度を無事にすませ、視線を絡ませて頬を染めた。
窓の外でガシャガシャと音がするので、隙間から見てみたら、大きな渾天儀がやってきているではないか。
(さては、ガミガミ先生の正座が忘れられなくて、覗いているんだな)
渾天儀って相当な正座フェチだ!
すずみちゃんとオモダカくんくらいしか信じないだろうけど。自分のツボに正座してくれた人に執着しちゃうんだ!
人妻になったガミガミ先生は、教師を続けるらしいが、まるで別人になった。前みたいに灰色か紺色の縞模様の着物じゃない。花柄や吉祥文様の艶やかな着物姿だし、見えなくても無理してメガネはかけないし、何より生徒に優しくなった。
驚くべきは、女学校が終わる時間には旦那さまが人力(じんりき)で迎えに来ていることだ。甘味処へ寄って、デートしてから帰るというアツアツぶりだ。
人力の後から大きな渾天儀がガシャガシャついていくというのも、滅多に見られないヘンテコな景色だ。
(「正座してツボに座ってくれた人の夢が叶うか見届ける」とか言ってたけど、しつこいのね)
そんなだから、半年経たないうちに授業中、気分が悪くなって、バタバタ教室を出て行ったガミガミ先生が、なんとオメデタだと判ったのは当然のことだろう。甘いものの食べすぎではないそうだ。
ま、40歳で子どもを産むというのは珍しいことではない。15歳で嫁いだ女性が50歳近くまで毎年のように赤ん坊を産んだりすることはザラにある。
うちの母ちゃんも、1年前にトヨ坊を産んだもんな。まだまだ産まれるかもしれない。
山の谷川で見た、渾天儀の赤ん坊みたいに、ワチャワチャ湧いてくるみたいに――。
(いやいや! そんなにどんどん産まれたら、あたいはずっと子守りしなくちゃならないじゃないの!)
それは勘弁してもらいたい。
あたいだってやりたいことが……ぼんやりと見えてきたかな? まず、天の河をはっきり見てみたい。七夕には毎年雨が多くてはっきり見えないから。
オモダカくんによると、教授のお宅には天体望遠鏡があるらしいから、来年の夏は見せてもらおう。
第五章 3人目
来年の夏は、なんて思っていたら、父ちゃんが旧暦だと七夕は八月にもあるぞと教えてくれた。
父ちゃんが教授のお宅の望遠鏡の予約をしておいてくれたのには、びっくりした。町内会で教授と親しくなったらしい。きっと、宇宙の広さの話とか詳しくもないのに、教授に披露して話が合ったと勘違いしたんだろう。
あたいの正座を、あでやかな奥さまが褒めてくれていたとか、父ちゃんは鼻の下を伸ばして話していた。
トヨ坊におっぱいを飲ませながら、小耳にはさんだ母ちゃんの眉間にみるみる間にシワが寄った。
まだ飲みかけの日本酒のとっくりを下げようとする。
「はい、今夜はここまで。トヨ坊だっておっぱいを止めたんですから、あんたも終わりです」
「トヨ坊はまだ欲しがってるじゃないか」
「もう乳離れしなきゃいけない大きさなんですから、いいんです! それに、お腹に次の子がいるんですから、おっぱいはやめないと栄養が行かなくなります」
父ちゃんとあたいは、ぽかんとした。
「次の子がお腹にいるだと? 聞いてないぞ」
「今、初めて言ったんです。今日、お産婆のウメさんに診ていただいて分かったんですから」
「なに~~! 二番目の子が! でかした、母ちゃん」
「ちょっと、父ちゃん、三番目でしょう。あたいもこのうちの子なんですけど……」
思わずあたいは言った。
(やれやれ、またオムツの洗濯物が増えるのか……)
「母ちゃん、一度、お腹が大きくならないうちにトヨ坊を抱っこして、教授のお宅の渾天儀の中で正座させてもらえ。頭の良い子が生まれるかもしれんぞ」
「山から追いかけてきて、我が家の軒を壊したデカい輪っかの珠でしょう。本当に頭の良い子が生まれるのかしら」
「厄払いと開運のためだ。俺はもう正座してきたぞ」
「まるで神社じゃありませんか」
「あ~~あ!」
父ちゃんは、自分でとっくりを取り返してきた。
「うちの連中はどうしてこう、ロマンが無いんだ、少し話が分かるのは思結くらいだな」
「ロマンって何を分かれってのよ。月も回ってるから満ちたり欠けたりするって? 地球も回ってるから朝が来て夜が来てって。そんなの当たり前じゃないですか。それより、今晩のおかずを何にしようとか、明日の農作業の支度とかやっておく方が大切なのよ。そうしないと毎日、回っていかないの!」
「地球が回らなきゃ、毎日が回らないぞ」
「もう、父ちゃんってば」
母ちゃんは、本当につくづくイヤになったという感じで肩でため息をついた。
あたいは知っていた。
母ちゃんのお嫁入りの時に持ってきた小さなタンスの引き出しの奥に「バレエ」っていう洋舞の写真が、雑誌の1枚を破った1枚が大切にしまってあるのを知ってるんだ。
女の人がたくさん、レースのドレスを着て、みんなそろって踊ってるの、多分、くるくる回ってるんだよね。
あれ? じゃあ、父ちゃんも母ちゃんも結局、回ってるものが好きなんだ!
……ってことはあたいも?
好きかどうか分からないけど、回る渾天儀が気にかかるもんね!
渾天儀は回らない「正座」が好きみたいだけど。
第六章 父ちゃん診療所へ
しばらくして、教授のお宅にお邪魔して渾天儀の中で正座してくるわ、と母ちゃんが出かけていった。どういう風の吹き回しだろう?
一度、伺ったお宅だから、勇気出せたのかな?
玄関で、母ちゃんは見覚えある女性を見かけたとか。それは、ガミガミ先生だった。
一緒に待たせていただいている間におしゃべりして、メガネを外しておられたけどひと目で分かったとか。
あたいがガミガミ先生の婚礼で雄蝶雌蝶の役をすることになった時、正式にお願いに、うちのあばら家に来てくださったので見覚えがあったのだ。
「その節は、お嬢様にお世話になりまして……」
てなわけで。
なんと、ガミガミ先生もお腹の赤ん坊のために、渾天儀に正座しにきたそうな。
「まあ、先生もですか! 実は私も……」
「まあまあ、では、私たちの子は同級生になるのですね」
渾天儀は安産の神様扱い。
「それなら俺も行って来なきゃならんな」
と、父ちゃんが言い出した。
渾天儀の真ん中の底に正座させてもらった父ちゃんは、その重厚さに魅せられ、感激して、帰ってきてからも渾天儀についてしゃべることしゃべること!
前に、山道を追っかけられた時は見物するどころじゃなかったもんな。
それから、あたいはまた、渾天儀とおしゃべりする夢を見た。
『この前、父ちゃんが正座しに来たぞ』
「うん、知ってる。父ちゃんの座り心地はどうだった?」
『それより、父ちゃん、膝が痛そうだったぞ。大丈夫か?』
「えっ、そう?」
朝になって父ちゃんに聞いてみると、やはり膝が痛むそうだ。
オモダカくんが、父ちゃんを後ろに乗せて、4キロ離れた診療所まで乗せていってくれた。
このまま放っておくと大変なことになっていたらしい。渾天儀にお礼を言わなくちゃ。
2番めの……違った、3番めの子が産まれてくるっていうのに、父ちゃんに今、何かあったら困る!
「渾天儀さん、有り難い存在だねえ」
母ちゃんが涙ぐみながら言った。
第七章 円環女(えんかんじょ)
渾天儀の役目は天文学者に星の運行を見せることだ。それは大昔の中国から変わっていないらしい。
天文学者は星を見て、天文密奏と言って、皇帝陛下っていう偉い偉いお方に星の位置を知らせる。それに寄って政(まつりごと)を決める。
だから、星の位置を間違えて見たりしては大変なことになる。外国と戦が起こるかもしれない。
性根の悪い奴らは、そんなことを企んだりする。
とんでもないよ!
間違った見方をさせて戦を起こそうなんて。星を見せてくれる神聖な渾天儀を穢そうなんて。
父ちゃんから教えてもらったことだけど、日本の帝のいらっしゃる宮廷には、国で一番大きい渾天儀があるらしい。
沢山の天文学者の一番偉いお方は、渾天儀師と言って、今は女性学者が務めているとか。
お名前は、えっと……えんかん……そうだ! 円環女(えんかんじょ)という役人の名を持った女官が務めているのだとか。
そこの渾天儀は人間が何十人も入れる大きさだから、中心に正座して、星の位置を知り、星の意志を読む重い重いお役目を務めているんだって。
民間の言い伝えでも、朝廷の使う渾天儀には女神が住み着いていて、名を「円環女(えんかんじょ)」という。たいそうたおやかな美貌を持ち、権力は絶大なもの。
彼女の示す星を読み、国の未来が決められるのだから。
彼女には、夜も昼も離さず側に置く若い緋色の衣をまとった冠者(かじゃ=若者)がつき従っていて、「緋色冠者(ひいろかじゃ)」という。ひと時も離さずその者のいうことを聞いてやる。
しかし、それは喜ばしいことではないそうだ。緋色冠者は「円環女」よりも国の舵取りを握っているとも言える。
彼が無茶なことを言っても、何でも叶えてやるのなら、こんな危ういことはない。
ぐらぐら動く、平面に置かれた渾天儀そのものだ。
七夕の夕べには、教授が子どもやお母さんたちや、中学生、女学校生や高等小学校の皆も呼んでくださり、そんなお話を聞かせてくださった。
奥さまと女中さんたちが、素麺を茹でてくださったのを、あたいたちはご馳走になった。
第八章 産気づいた
七夕の夕べには、女学校の校長先生もお呼ばれしていた。今のとこ、渾天儀が中央の底に正座してもらって、いちばん心地よいと言っている校長先生だ。
(きっと「円環女」という役人の女官は、校長先生と勝負がつかないほど、楚々(そそ)として艶やかな女性なんだろうな)
それとオモダカくんも、皆の聞いている後ろの壁にもたれて静かに聞いていた。
初めて井戸水に氷の張った冬のある日、そろそろお腹のふくらみが目立ち始めた母ちゃんが、洗濯物の入った盥(たらい)を持って出ようとして、
「あ、いたたた……」
お腹を押さえてうずくまった。
「母ちゃん、どうしたの!」
「母さんや!」
父ちゃんも早くも駆けつけた。
「大丈夫よ、少し痛かっただけ。五か月に入っているんだから、流産する心配はないわ」
痛みをガマンして笑顔を見せる母ちゃんだが、放っておけない。ちょうどそこへ、自転車で通りかかったオモダカくんが、あたいには神さまに見えた。
「え? 母ちゃんのお腹が痛む? 産婆さんとこは隣町だろう? 自転車で送っていってやるよ」
「せ、せっかくだけど……、自転車だとでこぼこ道で揺れるから、あまりよくないんですよ」
母ちゃんは申し訳なさそうに言った。オモダカくんは、
「じゃあ、教授のお宅までひとっ走り行って、車をお借りできるか聞いてくるよ!」
「そ、そんな、教授さんに悪いですよ」
「人、ひとりの命がかかっている時に、悪いも遠慮もあるかい、母ちゃん。待ってな!」
オモダカくんは颯爽とデコボコ道を自転車で走っていった。しばらくすると、教授の黒いピカピカした車が畦道の向こうから走ってきた。周りで作業していたお隣さんたちが母ちゃんについていてくれたから、あたいも心強かった。
車が近づいてきて窓から、奥さまが顔を出した。
「お腹がお痛みになるの?」
すぐに降りて、母ちゃんを支えに来てくれた。すぐに車の後部座席に乗せて横にさせ、毛布を掛けてくださった。
「すぐにお産婆さんのところへお運びしますからね。えっと。行きつけのお産婆さんは?」
「隣町のウメさんとこです」
「ウメさんて、ウメ吉さんのことね? 私もお世話になっているわ」
あたいはトヨ坊を抱っこしたまま、車が隣町へ向かうのを見送った。
第九章 ウメ先生
しばらくして、奥さまから、伝言だと言ってオモダカくんが急いで自転車を漕いで帰ってきた。
「産まれるんだって! 産院に入院の支度をして持ってきてって!」
「産まれる? まだ赤ん坊はちっこいちっこいぞ!」
言いながら、父ちゃんは慣れたもんで、母ちゃんの着替えの寝間着や洗面用具を風呂敷に包み始めている。
「ウメ先生の言うことにゃ、270匁(もんめ)ありゃ、無事に取り上げる自信があるんだってよ!」
「270匁……って、1000グラムじゃないか。かなりちっこいぞ。あんの野郎、でかいこと言いやがって、うまくいかなけりゃ、ただじゃおかないぞ」
あたいが母ちゃんの入院支度の荷物を持って、車に乗ることになった。今度の赤ん坊はトヨ坊のすぐ後だから、お下がりのオムツもたっぷりあるから大助かりだ。
オモダカくんの自転車の後部座席から降ろしてもらい、すぐに産院に飛びこんだ。
普通のお宅と変わらないけど、二階へ行くと八畳くらいの部屋が並んでいた。
廊下で白い割烹着を着た、顔立ちの上品な男の人にぶつかりそうになった。
「あのう、ウメ先生は……」
「今、車で来た透河さんか? 院長のウメ吉は俺だよ、お嬢ちゃん」
「へ?」
「院長の安山(あんざん)ウメ吉だ。赤ん坊はちと小さいが、産まれたがっている。一番上の姉ちゃんだな。あんたも俺が取り上げたんだ。安心して待ってな!」
「はあ……」
(男のお産婆さんとは、びっくりした! それも、あたいも取り上げたですって?)
顔が真っ赤になった。
(あの先生にオムツを換えられたんだ!)
産まれるのは夜遅くになるということで、待っていると、夕暮れの中、聞き覚えのあるガシャガシャする音が聞こえてきて、
窓から覗くとデカい渾天儀が転がってきていた。
あたいは確かに感じた。
「渾天儀は、母ちゃんのことが心配で様子をうかがいに来たんだ! この前、座りに行ったもんな。え? 座りに行ったのは教授宅の渾天儀だよね? じゃ、山から下りてきたのと違うんだ!」
夜明け、春の雲が朝焼けに染まる頃、ウメ吉先生は赤ん坊を取り上げた。
「おめでとうございます! 男の子です」
割烹着の先生に産湯をつかわせてもらった赤ん坊は、ちっこかったが元気に育った。
早春に生まれたので、父ちゃんが「早春(はやはる)」と名付けた。センスも何もない父ちゃんにロマンの話は無理だわ。
とにかく、ふたり目の弟が産まれた。
未熟児だったが、すくすくと育ってくれて、あたいも両親もホッとしている。母ちゃんに退院の許可が下りた。
ただし、早春だけは大きな病院で、まだ入院しなくちゃならない。
あたいが隣のお宅の自転車を借りて、1日に4回、母ちゃんが絞った母乳を持っていった。
父ちゃんは、この前、足を痛めたから代われない。
トヨ坊のオムツの洗濯や、ご飯を作ったり、農作業もあるから、あたいは大忙しだ。
第十章 お手伝い
オモダカくんが教授の奥さまに言った。
「思結が頑張っています。本当は小学校に行きたいのに、ますます行けなくなっちまって」
奥さまは考え、夫の教授に提案した。
「思結さんは、とても利発で健気な子です。お宅にお手伝いに行きたいと思うのですが……」
「うむ。あの子は利発だな。父親もいろんなことに興味を持っている。でも、うちから女中をひとり手伝いに行かせればいいのではないか?」
教授は読んでいる本から目を離さずに言った。
「いえ、あのう、私、一度、赤さんのお世話をしてみたくてたまりませんの。オムツを換えたり沐浴させてあげたり――」
教授が本から目を上げた。
「すみません……。赤さんを産めないのは私ですのに」
3年、子無きは去れと言われる時代だ。奥さんは申し訳なさそうに言った。
「赤ん坊は授かりものだ。いいとも。お手伝いに行っておいで。先方さんのお邪魔にならないようにね」
「はい。ありがとうございます、あなた」
奥さんは瞳を輝かせて、その日から手伝いに行く準備をはじめた。
奥さんはあたいの家に手伝いに来て、やっと産まれて間もない赤ん坊に触れられて、感激しながらお世話をした。
母ちゃんもあたいもどれだけ助かったか分からない。
しかし、産後間もない母ちゃんは、まだあまり動かない方がよいし、トヨ坊と生まれた赤ん坊――ハヤ坊の世話だけでも大変なところへ、田植えの準備はあるし、で、あたいん家がどれだけてんてこ舞いしているか、奥さんは身を持って感じた。
(思結ちゃんが、小学校に通う時間や労力の余裕はありそうにないわね)
母ちゃんとハヤ坊が退院してひと月め、ウメ吉先生が母子の健康管理にやってきた。
ウメ吉先生が自転車でやってくる前から、ウワサを聞いた周りの農家の奥さんたちが、集まってきた。
母ちゃんに身体の具合を聞いて、ハヤ坊が竿秤(さおばかり)に掛けられて体重測定される間、奥さんたちは窓から覗いていた。
「なんて凛々しい男産婆さんでしょう、ウメ吉先生って。思結ちゃんのお母さん、あの先生のお世話で出産されたのでしょ」
「思結ちゃんの時から三度目ですってよ!」
奥さんたちはひとしきり、ウメ吉先生の美貌に釘付けになった。
ウメ吉先生は作業が終わると、母子が寝ている傍らに正座して奥さんたちは急いで帰った。
「母子とも順調ですよ。早春くんは未熟児でしたが、出産時よりかなり体重が増えているし、母乳の飲み方も良いようだ」
母ちゃんは寝床に起き上がり、正座して深々と頭を下げ、お礼を言った。
ウメ吉先生と入れ替わりにやってきたのは、ガミガミ先生だ。臨月に近いとかでお腹がはちきれそうになっている。お腹の下に両手をあて、どっこいしょと正座した。
「正座するとお腹の赤さんも落ち着くのがよく分かります。私もお腹を支えて正座すると、とても穏やかな気持ちになるのです」
あたいが慌ててお茶を出した。
「思結さん、今は大変でしょうけど、あなたは聡明なお子です。女学校で待っていますよ」
にっこり笑うガミガミ先生を、初めて見た思結だった。
渾天儀の女神もこんな微笑みなのかな? と思うほど優しい笑みだ。
