[204]レンコンの君さまへ正座



タイトル:レンコンの君さまへ正座
発行日:2021/09/01

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:48
販売価格:200円

著者:海道 遠
イラスト:よろ

内容
 トオルはレンコン収穫するレンコン会長の家の跡取りだ。今年から祖父の仕事を手伝おうとしていた。高校二年生だ。
 祖父はレンコン農家、お行儀教室、居合術道場を同時にやっている。中でもお行儀の正座に重きを置いていた。収穫の迫ったある日、神社に新しい巫女がやってくる。

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本文

当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止します。

第 一 章 新しい巫女さん

 この冬一番に冷え込んだ朝、高校へ行く前に、トオルは自分ちのレンコン畑(池)のほとりに立ってみた。
 畑の上すれすれに白いサギが滑空していく。レンコン畑の向こう側の家並みは、白い靄に包まれて屋根の上しか見えない。
 今は泥水の中に埋まっているレンコンたち。蓮の葉っぱは枯れて荒涼とした感じだが、これから収穫期が始まる。
 泥水の中で育っているレンコンを水掘りする。探り出してホースの水のジェット噴射で泥を洗い流し、収穫していく。
 トオルは今年から初めて祖父の作業を手伝うことになったのだ。
 夏、七月は白や淡いピンクの蓮の花が、鮮やかな緑の葉の中で咲き乱れる。茎を高く伸ばして咲く蓮の花はとても清楚で気高くて、汚れを知らない。
(母さんもあんな感じの人だったのかな……)
 トオルは幼くして両親を亡くしたので、母親の記憶があまりない。色白な女性だったことは覚えている。

 白い息を吐きながら見渡していると、
「ん? あれは……」
 冬になって緑の大きな葉っぱはすべて枯れ、泥ばかりの畑に、淡く薄い青色の蓮が一輪、咲いているではないか。しかも、とっくに花の咲く夏が終わったこの真冬に!
(青の蓮?)
 トオルは眼をこすってから、もう一度見直してみたが、間違いなく青色だ。初めて見る。
(確か、青い蓮の咲く時は――)
 ふいに後ろから声をかけられた。
「あのう」
 振り返ると、白い着物に緋色の袴の女の子が立っていたのでぎょっとした。
(巫女さん! こんなとこでコスプレか?)
「東野さんのお宅はどの辺かご存じありませんか? この辺りのレンコン畑を取り仕切ってらっしゃるとお伺いしたのですが」
(薄い着物一枚で寒くないのかな? ――なんて色白なんだろう)
 トオルは向こうへ指さして、
「東野なら俺の家ですが。この畑をぐるりと回ったところですよ」
「まあ、東野さんでしたか。今度、大蓮の神社の巫女を努めさせていただくことになった、美湖と申します」
 ぴょこんと頭を下げると、ひとつにまとめている長い黒髪も一緒に跳ね上がった。
(見かけない可愛い娘だな)
 トオルは思った。
「俺は東野トオルです。大蓮神社の巫女さんなら、俺んちの畑開きの時のご祈祷してくれるんですね」
「そうです。こちらに引っ越してきたばかりの巫女一年生ですが、宜しくお願いします」
「俺も今年からレンコン畑を手伝うことになったんです」
「じゃあ、お互い新米ですね」
 ふたりは微笑みあった。
「東野さんのお祖父さまは、お宅においででしょうか」
「祖父ちゃんなら、座敷か納屋にいると思うけど」
「ありがとうございます。行ってみます」
 美湖は真っ赤な袴をひるがえして、村の方へ駆けていった。

第 二 章 レンコンの精

 トオルはレンコン畑に視線を戻した。子供の頃から見慣れている畑だ。
 この地方では最初に収穫した一番できのいいレンコンの穴を通ってレンコンの君が天界からやってくるという言い伝えがある。
 ちゃんと正座してお迎えしなければレンコンの君は怒り、その年のレンコンの出来は悪くなるという。
 やってきたレンコンの君と一緒に残りのレンコンの出来が良いように祈ることになっているのだと、祖父から教わった。
「じゃあ、レンコンの君って、ずいぶん小さいんだな、祖父ちゃん」
 幼かったトオルは、無邪気にそんなことを言った。想像してみても一番大きなレンコンの穴でも数センチだから、レンコンの君ってブドウの粒くらいの大きさなんだろうか、と思ったりした。
 祖父は、わっはっはと笑った。
「そう思うんなら、そう思っておけばいい。誰も見た者はいないんだ」
(いったいレンコンの君ってどんなカタチをしているんだろう? 小人? 人間みたいなカタチなんだろうか? 蓮の葉の真ん中にたまる水滴みたいな水の妖精のカタチをしているんだろうか?)
 子供心にも不思議でならなかった。

 そんなことを思い出していると、祖父とさっきの美湖という巫女さんが歩いてきた。
「途中で東野さんと出会いました。ご自宅でお作法教室をされているんですね」
 美湖が嬉しそうに言った。
「私、お作法教室に通わせていただくことにしました」
「え?」
「レンコンの君さまをお迎えする時、美しい正座でお迎えしなきゃ、ご機嫌を損じると宮司さまから教わりましたから」
「どうぞ、どうぞ。大歓迎ですぞ」
 祖父も顔をほころばせている。
「では、私も支度がありますので、これで失礼します。トオルさん、後で、高校でお会いするかもしれませんね」
 再び黒髪の頭を下げて、美湖は小走りに朝もやの中を去っていく。
(そっか、あの娘がうちのお作法教室と高校へ来るのか。……『トオルさん』だって)
「どうした、鼻の下が伸びとるぞ」
 祖父がからかった。
「お前も負けずに正座の稽古をしなければならんぞ」
「あ~~、そうだった。正座は苦手だなあ」
「今日、帰ったら稽古をつけてやろう」
 祖父の表情が厳しくなる。
「そうだ、祖父ちゃん! 畑の北に青い蓮が咲いてるぞ」
「そりゃ本当か? 青い蓮の咲いた年はレンコンが大豊作だそうだ。こりゃ、縁起がいいぞ!」
 一変して目尻の下がる祖父だった。

第 三 章 祖父ちゃんのお座敷で

 トオルの祖父は、先代から継いで自宅で作法教室を開いている。
 隣に建つ道場では居合の道場も開いていて、十人くらいの同年代仲間と頑張っているし、町内レンコン畑会長もしている。
 白髪頭の角切りで、まだまだ現役バリバリなのだ。
 お稽古教室と居合術の両立は、静と動の組み合わせだ。どちらが欠けてもならんと、お行儀の基本、正座の作法には特に重きを置いている。
 トオルは幼い頃から、正座と居合術を毎日指導されてきたが、褒められたことがない。最近、やっと自分では落ち着きがあるんじゃないかと思うトオルだが、祖父のおめがねにはなかなか叶わないようだ。

 帰宅して、制服から普段着に着替えて座敷へ行く。
「ただいま。よろしくお願いします」
 いつものように障子をあけて廊下で正座し、頭を下げてから顔を上げて、トオルは目を見開いた。
 床の間の前に祖父と美湖が座って、こちらを向いているではないか。
「美、美湖さん、早い! いつの間に?」
「おかえりなさい」
 美湖はセーラー服姿のまま、にっこり笑った。
「今日は転校手続きだけで、高校には少ししかいなかったの。会わなかったわね」
 いつの間にかタメ口になっている。
「そ、そうだな。俺は二組だ」
「私は一組になったわ。お隣ね」
「おほん」
 祖父が咳ばらいした。
「トオル。さっきの正座はなんだ。なってないぞ。何年習っているのだ。美湖さんと一緒に指導するからここへ来なさい」
「は、はい」
 祖父はふたりを座敷の真ん中に立たせた。
「よろしいか。背筋をまっすぐにして立ち、静かに畳の上に膝をつく。美湖さんはスカートの裾を膝の内側に折りこんでかかとの上に静かに座る」
 美湖は緊張しながら、ゆっくり言葉通り正座してみた。隣のトオルも同時に正座した。
「ううむ」
 睨みつけていた祖父は、
「トオル、背筋が曲がっておる! 何回、何十回言えばわかるのだ」
「そ、そんな居合術の時みたいに怖い顔で睨まないでよ、祖父ちゃん」
「居合術の時もたるんでいるぞ! 美湖さんの正座を見なさい。お前の座り方より遥かに美しく整っている。所作もよくできている」
 トオルは隣の美湖を見た。確かにきれいな姿勢で正座できている。
「君、お行儀か何か、茶道とか習っていたの?」
「茶道を少しだけね」
「道理で……」
 悔しいのと恥ずかしいのとで、トオルの心はぺしゃんこになってしまった。その後、何回もトオルだけやり直しをさせられた。
 祖父からは合格は出なかったが、そのうち、居合道場の時間になり、行ってしまった。
 座敷にはトオルと美湖だけになった。
「お腹すいたわね。お持たせ(自分が持ってきた菓子など)だけど、食べましょう。東野師匠は甘いものがダメだってことだし」
「祖父ちゃんはお酒ひとすじだからな」
 美湖はさっさと箱を開け、中身を取り出す。
「はい、どうぞ、蓮の花のカップケーキよ。私が作ったの」
「蓮のカップケーキ?」
 ピンクの蓮にそっくりの薄い桃色の生クリームがカップのスポンジの上に乗っている。
 ふたりで蓮の花のカップケーキを頬ばった。
「うまい!」
「良かった!」
「ところで君はどこの県から引っ越してきたんだ?」
「東京よ。父の故郷がここだから帰ってきたの。子供の時からたまに、こっちへは遊びに来てたのよ」
「へえ」
「何かバイトしようと思っていたら、神社が巫女の募集してたから、やってみようかなって思ったの」
「ふうん」
 トオルはスマホを取り出し、思いきって言った。
「連絡先、交換してくれる?」
「連絡先? 私、ここにも来るし、学校でも会えるでしょう」
「じゃ、LINE交換はダメってことか」
「LINE? なに、その四角いの」
「スマホだよ。持ってないのか? 知らないのか?」
「すまほ? 分かんない」
「……」

第 四 章 最初のレンコンでご祈祷

 今年最初のレンコン収穫が始まった。
 祖父の手伝いをする人たちが集まってきて、腰まであるゴムのズボンで完全装備して泥の中に入り、レンコンがある場所を両手で探る。それから水を噴射してレンコンの泥を洗い流す。レンコンは長い。二メートル近いものもあるので、折れないように作業するのが大変だ。
 トオルはまだ見学しているだけだが、祖父が最初に収穫したレンコンの中から出来栄えの良いものを一本選んだ。
 太くて立派なレンコンだ。
「大蓮神社に奉納するのはこのレンコンにしよう。宮司にご祈祷してもらわなきゃならん」
「そうすると、レンコンの穴からレンコンの君さまが出てきて、今年の収穫を豊作にしてくれるんだよな、祖父ちゃん」
「新米のお前が三方(さんぼう・お供えする四角い木製の台)に乗せてお供えする役目だぞ」
「分かったよ」
 トオルは気を引き締めた。
 すぐにトオルと祖父、畑で働く作業員ふたりが羽織袴に着替え、車で大蓮神社へ向かう。奉納するレンコンは折れないように柔らかい布でぐるぐる巻きにした。

 数分も車で行くと小山のたもとに朱い鳥居が見えてくる、大蓮神社だ。境内で車を停めて、皆で本殿まで歩く。
 トオルは白い布で巻いたレンコンをそっと持って進む。
 本殿の前では、宮司さんと頭の上に金細工の冠を着けたお姫さまみたいな巫女さん三人が待っていた。金の細かい飾りが風にひらひらして美しい。
 三人の中のひとりは美湖だ。
 トオルは美湖にチラリと視線をやった。可愛い。三人の巫女さんの中ではダントツだ。
 本殿の中に入る。トオルはレンコンから布を取り、三方の上に置いた。泥を洗い落としたレンコンは真っ白で眩しいくらいだ。
 トオルと祖父たちは、神社の神様の前に正座し、美湖が宮司の前にレンコンを置く。
(正座は一生懸命、真面目にやったけどちゃんと出来たかな?)
 トオルは心配しながらまじまじとレンコンを見つめた。
 宮司が、
「では、レンコンの君さまの道をお作りください」
 レンコンを裁断するという意味だ。トオルは羽織を脱ぎ、持ってきた日本刀を帯に挟んだ。腰にずしりと重い。
「トオル、見事に切るのだぞ」
「うん」
 もう一度慎重に、居合術の正座で座ったかと思うと眼にも止まらぬ速さで刀が一閃した。
 次の瞬間、レンコンは真っ二つに両断されていた。
 本殿の外からその様子を見ていた祖父の仲間たちは、パラパラと拍手した。
(なんとか努めを果たしたな)
 トオルはほうっと肩で息をした。

 断面が真っ白で目にしみる白さだ。大小、十個ほど穴が空いている。
(どの穴からレンコンの精が出てくるんだろう?)
 トオルがじっと見ているうちに、宮司が、
「はい、たった今、レンコンの君さまが穴を通って外界へ出て来られました」
「ええっ、そんなに早く?」
 思わず声を上げたが、慌てて自分の口をふさいだ。
「トオル、レンコン畑に戻り、我らは正座してご祈祷してもらうぞ」
 祖父が命令する。
 宮司さんと巫女たちも加わり、トオルと祖父たちは歩いて列をなし、レンコン畑まで戻る。
 お天気に恵まれ、他のレンコン農家の人や住民らも行列を見守っている。

 畑に到着すると、畦道の向こうに人影が見える。
 若竹色の狩衣をまとった若い男だ。
 狩衣というのは平安時代の貴族の装束だ。袖も丈もたっぷりと布地を使っている。神社の宮司さんの正式な装束と似ている。
(なんだ、あの男? またコスプレか?)
 トオルは次の瞬間、
(あれがレンコンの君さまか!)
 ピンと来た。なんて美しい目鼻立ちだ。女のように色が白いが精悍だ。狩衣がとてもよく似合う。
 いつの間に小さなレンコンの穴から出てきたんだろう。
(レンコンの君さまは、自由にカタチも大きさも変われるんですって)
 説明しながら、彼方のレンコンの精をうっとり眺めているのは美湖だ。トオルは本能で彼女の横顔から想いを読み取った。
(美湖のうっとりした眼は、眼は、この眼は……)
 胸の奥が熱く、じ~んと痛む。

第 五 章 正座のストライキ

「皆の者、我はレンコンの精霊である」
 レンコンの君さまの声は、男にしてはか細いが、女にしては、しっかりした声音だ。
 池の畔に真っ赤な毛氈を敷かれたレンコンの君さまは、宮司、トオル、祖父、巫女たち、レンコン畑で働く数人の者の前で、まるで都の御所で話すようにゆったりとしゃべった。
「長き年月、誠にご苦労じゃった。その方たちのおかげで、この地方はレンコン作りを絶やさずにこれた。礼を申す」
 真っ赤な毛氈の上に神々しく正座したレンコンの君さまは、やや頭を下げた。
「これまで幾年月、誰にも姿を見せなかったが、今年はレンコン作りの棟梁が跡継ぎをお披露目するというので姿を現してみた」
「え、じゃ、俺のために?」
 トオルがびっくりした。
「トオル、光栄に思え。お前のためにレンコンの君さまは姿を現したとおっしゃったぞ」
 祖父が感動にうち震えていた。
「今年も豊作であるよう、我が祈願して進ぜよう。皆の者、頭が高い」
 正座して頭を下げるようという指示だ。一同、恭しく池の端に正座した。
 ところがひとり、トオルだけが―――。
「トオル、どうした。正座して頭を下げよ」
 祖父が厳しく言っても、トオルはレンコンの君を見つめて仁王立ちになったままだ。
 レンコンの君さまもいぶかしげに見つめた。
「トオル、座りなさいと言っているのだ」
 美湖も不思議そうに見守っている。
「いやだ!」
 一同、驚きで言葉も出ない。
(どうしたのだろう、レンコン作りの跡継ぎは。この重要な神事に参加しないつもりなのか?)
 ひそひそ声がする。
「俺は嫌だ!」
 歯を食いしばってトオルはもう一度叫んだ。
「トオルくん!」
 美湖が立ち上がって腕を握った。
「どうしたの。レンコンの君さまのご機嫌を損ねたら、レンコンの収穫ができなくなるのよ。ちゃんと正座して礼儀正しくしなければ」
「……」
「分かってる。私のせいでしょう。私がレンコンの君さまに一目惚れしたから、トオルくんはヤキモチ妬いて反抗してるんでしょう」
 トオルの頬がみるみる真っ赤になる。
「トオル、そうなのか?」
 祖父も叫んだ。
「……」
 一同、トオルの答えを待った。
「そ、そ、それもあるけど……。それだけじゃない」
「え?」
 祖父と美湖が見つめる。
「レンコンは、俺たちの誇りだ。この地方を豊かにしてくれたんだもんな。でも――」
「……?」
 レンコンの君の愁眉がしかめられている。
「俺の父ちゃんと母ちゃんは、俺の子供の頃、台風の夜にレンコンを守ろうとして泥水に足をとられて、命を落としてしまったんだ! 村の皆だって知ってるだろう。そのレンコンの象徴に頭なんぞ下げられるかよ」
「……!」
「……!」
 祖父はじめ、一同は言葉がなかった。

第 六 章 レンコンの君、失踪

 トオルは踵を返してその場から走り去ってしまい、レンコンの君も、どさくさに紛れて姿が見えなくなった。
 皆でふたりの名を呼び、探したが見つからない。陽が傾きはじめ、神社の宮司と美湖以外の巫女さんは神社に戻ることになった。
 レンコン畑の作業人には祖父が心から詫びた。
「あれには厳しく言い聞かせますから、今日のところは、申し訳ありませんがご祈祷は延期ということでお願いします」

 翌日から、レンコンのご祈祷は延期になったまま、収穫は始められた。
 手袋、腰までのゴム作業着を着て、深さ五十~六十センチの泥沼の中に生育しているレンコンを手探りで探し出す。
 レンコンは一本ずつジェット噴射の水で洗い清められ、舟に積まれて出荷場に運ばれる――はずであった。
 ところが、作業の途中で生育の悪いレンコンがどんどん見つかるわ、生育の良いものも作業の途中でボキボキ折れてしまうわ、で、祖父や作業員は真っ青になった。
「どうしたことだ、これは。ごぼうのような細いレンコンしか採れないなんぞ、かつて無かったことだ」
「収穫の途中で折れてしまうなんて考えられん。作業員は皆、ベテランだっちゅうに」
「やはり、トオルが正座しなかったために、レンコンの君さまが怒ってしまったのかのう」
「そうとしか考えられんな」
 作業員はとても出荷できないレンコンの山を見て、途方に暮れた。

 村はずれにある小さなお堂がある。
 その縁に五歳くらいの子どもがひとりしょんぼり座っていた。絣の着物姿で、令和の子どもとは思えない。
 トオルが気になって近寄っていった。
「どうした? 迷子か?」
 子どもは眼をこすって首を振る。
「家はどこだ」
「……」
「名前は?」
「……」
「困ったな。交番、行くか」
「こうばん? 知らないところはやだ! 我は帰るところがない」
「困ったな~~。俺も帰るところがないんだよ」
 トオルは子どもの横にドサッと腰を下ろした。
「正座しない」宣言してから、家に帰っていないのだ。
 村の者や宮司さんや、祖父に面目が立たない。
(でも、俺の本心だもんな)
 空は果てしなく青い。底がないくらいだ。
「意地はってたって、何も進まないわよ」
 お堂の陰から出てきたのは美湖だった。
「わ、美湖さん! びっくりした」
「早く帰って謝っちゃいなさいよ」
「君にも責任はあるんだぞ。レンコンの君に一目惚れしただろ。だから俺、モヤモヤしてしまって……」
「ってことは、トオルくんは私のことを好きになってくれたのね!」
 美湖は言いにくいことをサラリと言った。
「さあ、これでも食べて元気出して」
 持ってきた紙袋には、いつかの蓮の花カップケーキが入っている。
 トオルも子どもも、すぐに手づかみでむさぼった。
 子どもは、食べたとたんにみるみる背が伸びて、大人の姿に変わった。レンコンの君だ。立派な狩衣姿で現れた。
 あまりのことにトオルはケーキを喉に詰まらせた。
「ムッ、ムムッ」
「あら、大変。早くお茶飲んで」
 美湖の竹筒からお茶をもらい、ようやく飲み下したトオルだが、眼を飛び出させたままだ。目の前に狩衣姿のレンコンの君がいる!
「ああ、もういいわ。あなたの務めは終わり」
 美湖が指をぱちんと鳴らすと、レンコンの君は霧のように消えてしまった。
「え? 消えた? レンコンの君はどこへ?」
 あわてふためいてお堂の周りと一周してもレンコンの君はいない。
「もうどこにもいないわよ。あれはまぼろしというか、影武者というか、私の形代というものだったの」
「ええ? どういうこと?」
「あれは私の代わりなの。本当のレンコンの君は――」
 美湖は、トオルの耳に手を添えてごにょごにょとつぶやいた。
 しばらく沈黙があってから……
「えええええ~~~~~~っっ! !」
 トオルの身体はぴょんと十メートルほど後ろへ飛んだ。
「だから、ちゃんと正座しなさい」

第 七 章 冬の嵐

「大変だ! 低気圧が近づいているぞ!」
 レンコン畑の作業員がスマホを見て叫んだ。
 トオルの祖父は苦々しい顔をした。
(ここまで収穫は悪いわ、その上、嵐なんぞ来ては今年のレンコンは全滅だ)
 作業員たちは急いで発掘作業に使う機械類を片付け、納屋に運び始めた。
 先ほどまで冬の美しい青い空だったのに、昏い色をした雲が近づいてきている。風も強くなってきた。
「おお、トオル、どこへ行っておったんじゃ!」
 祖父が叫んだので、作業員も手を止めて目をやった。
 トオルが美湖に付き添われるように、畑に帰ってきた。
「お前がレンコンの君さまにちゃんと正座しなかったせいで、冬の嵐まで呼んでしもうたぞ!」
 祖父は激怒している。
「お師匠さん、お言葉ですが、それは嵐とは関係ございませんわ」
 美湖が言う。
「天候は仕方のないことです。畑を守って下さい。私たちは大蓮神社のご神体に向かってお祈りいたしますから」
 美湖はてきぱきと毛氈をレンコン畑の畔に敷き、トオルを座らせようとした。
「トオルくん、今こそご神体に向かって真剣に正座してお願いするのよ!」
 トオルは頷いた。
 日が傾く中、嵐を呼ぶ鈍色の雲の群れは、生き物のようにうようよとやってきた。雨もぽつぽつ降り出す。
「はい、トオルくん、背筋をしゃんとして。ちゃんと東、大蓮神社の鎮座する方向を向いて。毛氈の上に膝をついて。袴は膝の内側に折りこんで、かかとの上に座るのよ」
 トオルは降り出した雨の中、できるだけ言われるように正座した。
「それでいいわ」
 と、美湖が認めた時、すでに土砂降りになっていた。
 畑の周りの村々は横殴りの雨の中に没して何も見えない。そのうち陽も暮れて真っ暗になってしまった。
 畔に残っているのはトオルと美湖だけになってしまった。毛氈などとっくの昔に風に吹き飛ばされてしまっている。
 ふたりは地面にひれ伏して嵐に耐えた。

 びょうびょうと風の轟音だけが耳の奥に響いた。
 激しい雨のしずくが眼といい耳といい、口といい、容赦なく入ってきて、ただ地面にひれ伏して嵐の過ぎ去るのを待つしかなかった。
 その間も隣でうずくまった美湖は、トオルの手を離さず握っていてくれた。ご神体へのお願いもずっと唱え続けた。
「大蓮のご神体さま、どうかどうか、レンコンをこの嵐からお守りください。このレンコンを作る民の命をもお守りください」
 トオルも続けてお祈りを唱え続けた。
 誰ひとりも、父や母のように嵐で命を落としてほしくない。

 どのくらい時間が過ぎたのか――。
 嵐の轟音はようやく止み、山の端が明るくなり始めた。
「トオルくん、トオルくん、大丈夫? 嵐が過ぎたようだわ」
 美湖の声に我に返ると、トオルは畑を見回した。
 あれほどの強烈な嵐だったというのに、レンコン畑の水面は静かになっていた。増水もせず、畦道の崩れたところもない。
 よろよろと立ち上がった。
 どうやら被害はなさそうだ。
「良かった……」
 美湖も立ち上がり、
「プッ、トオルくんの顔! 泥パックしたみたいよ」
「そっちこそ!」
 ふたりは泥の畦道に顔を伏せていたので、顔も身体も泥だらけだったのだ。

 他のレンコン農家の被害も奇跡的に少なく済んだ。皆、手を取り合って喜んだ。
 収穫が再開された。トオルの祖父も、ほくほく顔だ。
「ようやった! トオル。お前が嵐の夜の間、正座してお願いしたおかげで、レンコン畑は無事だ」
「その後のレンコンはどう?」
「嵐の後に掘った分は、どれも出来がいい。これもレンコンの君さまと神社のご加護かのう」
「うん」

「レンコン会の会長の孫が今年から跡を継ぐと聞いて、この姿で出てきたの」
 巫女姿に着替えた美湖が、レンコン畑の作業場で打ち明けた。
 作業服のトオルは、半分チカラの抜けた顔をした。
「美湖。美形の狩衣の男の形代を作り、一目惚れしたお芝居を打ったんだな」
「そうよ、楽しかった!」
 美湖が心の底から楽しんだ様子で微笑んだ。
「トオルくんの正座で、大蓮神社の神様も畑を護って下さったのよ。これからの収穫はちゃんとしたレンコンが採れるはず」
「また来年の収穫時には、レンコンの穴を通って来てくれよ」
「いいけどね」
 美湖は照れくさそうに、
「私はレンコンの精霊だから、男でも女でもないよ。それでもよかったら」
「……!」
 トオルは唖然とするしかなかった。

 それから半年、季節が巡って蓮の花の咲き乱れる夏になった。
 春からレンコンのための土壌作りに励んできたトオルは、汗を拭き拭き蓮の花を見渡した。
 池の畔に、狩衣姿の青年が立っていた。
「美湖さんの形代……」
 青い蓮の花と大きな蓮の葉っぱを持っている。トオルがゆっくり近づくと、丸い葉の上に親指くらいの小さな赤い袴の巫女がいて、可愛らしい正座をしながらにっこり笑った。

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