[432]ニガ虫貴公子


タイトル:ニガ虫貴公子
掲載日:2026/10/11

シリーズ名:かわら版シリーズ
シリーズ番号:1

著者:海道 遠

あらすじ:
 大通りで、妙な似顔絵が配られていた。ニガ虫をかみつぶしたような若い公家の顔だ。
 唐の国からやってきたボロボロの褐色の衣を着た絵師の娘が通行人に聞いてみると、
「公家の雀司(すずめつかさ)家の若さまの似顔絵だそうですよ。比類なき美男子だというウワサでしたのに?」
 似顔絵の裏に「絵師募集してます」と書いてあった。



本文

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第一章 謎の似顔絵

 平安時代。
 京の都は藤原氏の政治が勢力を増している。

 いつもの通り、婆やが裏口で泣いて止めるのを、無理やりくくり袴を履いて、草鞋(わらじ)のヒモを締めて結び、メガネをかけて出かけるのは「辻風の姫」と異名をとる姫だ。本名は誰も知らない。
 何か事件はないか嗅ぎまわっている。
「おや?」
 人通りの多い通りで、妙な似顔絵が配られていた。ニガ虫をかみつぶしたような若い公家の顔だ。
「美しくブロマイドの絵を描くのは、昨今のイケメンの流行りだけど、ニガ虫顔のブロマイドは見たことないなあ」

 何枚も押し付けられたのは、「辻風の姫」より珍しい、ボロボロの褐色の着物に手甲(てっこう)を手首に着けた若い女性で、緑色の傘を持っている。
「あの女性は、緑色の傘を持っているという評判の絵師娘だわ!」
 辻風の姫の耳には、彼女の情報が入っていた。
(唐から船でやってきて、絵の腕はかなりのものらしい。あんなにたくさん、ニガ虫男のビラを押しつけられて気の毒だけど、私は自分の仕事が忙しいんだった!)
 クルリと背中を向け、「辻風の姫」は都大路を駆けだした。

「なあに、これ? こんなニガ虫をかみつぶしたような似顔絵が、倭国の都では流行っているのかしら?」
 見れば見るほど不快になる似顔絵だ。絵師の娘、豆紗(ドゥシャ)は、困った。
「この似顔絵はどなたのお顔かしら?」
 通行人に聞いてみると、
「それは、公家の雀司(すずめつかさ)家の若さまの似顔絵だそうですよ。若さまは比類なき美男子で、都大路など歩けない人だかりができるってウワサだったのに、いつの間にそんな怖いお顔になられたのかねえ」
 ひとりの婦人が教えてくれた。
「それは変ですねえ。あ、その雀司家ってどこですか?」
「あんた、何しに行く気だい? 都大路の北の突き当たりまで行った通りにある大きなお屋敷だけど」
 娘は北へ向かって歩き出した。
 似顔絵の裏に「絵師募集しております」と書いてあったからだ。

 時々、後ろからくる牛車の者に、
「ジャマだ! どかんか!」
 と怒鳴られながら、豆紗は歩いていった。
 どうにか雀司家を探し当て、裏口らしき入口から、似顔絵を持って、
「あのう、これに絵師募集って書いてあるんですけど……」
 門番の男が中に引っ込んで、次に出てきたのは灰色の髪の上品な初老の婦人だ。
「ああ、それを見て来てくださったんですね。私はこの屋敷の若さまの乳母です。あなたは?」
「唐の国から船でやってきた絵師で、豆紗(ドゥシャ)と申します」
 ゴミやほこりがいっぱいくっついた頭を下げて、お辞儀した。
「あら、これは驚いた! 唐の国から来た絵師さんが娘さんとは!」
「腕は確かですよ!」
 若様の乳母という老婦人は、豆紗を中庭に案内してくれた。
「ここが倭国の公家さまの中庭……。大きな池があって、樹もいっぱい植わっていて花も咲いている。唐の国の庭に負けない美しさだわ」
 あちこち見ながら、豆紗は通された簀の子の端に座った。
「実は、我が家の絵師が急にやめてしまって困っていたの。
 来る日も来る日も、ニガ虫をかみつぶしたような顔ばっかり描くのはごめんだと言ってね」
 老婦人はため息をついた。
「この似顔絵ですね」
(こんなニガ虫顔ばかり描くのはイヤだわ。もっともなことだわ) 
 ドゥシャは思った。
「どうしてこの似顔絵を、そんなにたくさん描かなきゃならないのですか?」
 老婦人に尋ねてみると、
「門や壁や、牛車にも貼りまくっているんですけどね、町の衆が、こんな怖い顔を見るのはイヤだと言って、どんどんはがしてしまって……」
「町の衆の気持ちも分かります。本当に若さまは、そんなお顔をなさっているのですか」
「若さまのお部屋へお通しいたします」

第二章 貴公子さま

 老婦人の後ろからピカピカに磨きこまれた幅の広い簀の子を進む。渡殿(わたどの=渡り廊下)といい、唐の建物のようなカラフルな飾りは無いが、清潔に保たれている。
「御簾(みす)のじゃんぐるだわ」
 豆紗の感じた通り、部屋の中は御簾と呼ばれる簾(すだれ)だらけだ。特に若様のお部屋には幾重にも御簾が下げられている。
(どこまで顔を隠せば気が済むのかしら?)
 などと思っていると、先に貴公子さまの御前に出られた老婦人が声をかけたので、豆紗は御簾をくぐっていった。
 衝立(ついたて)の前に、この世のお方とも思えない美貌の青年が座っていた。
(なんてお美しいお方かしら)
 それも、帝以外は禁止されているという紫色の着物を堂々と着ている。
(叱られないのかしら?)
 若さまが爽やかな笑顔で、
「唐の国から来た娘の絵師だって? 珍しいねえ」
 ニガ虫をかみつぶしたような似顔絵と天と地ほどの差がある。
「緑由(りょくゆ)の傘の豆紗と申します」
「緑由?」
「いつも緑色の傘を持っているので、『きゃっちふれーず』でございます。雨で、作品を濡らしたくないので傘はいつも持っております」
 破れた緑色の傘を広げて見せてみた。
「なるほど。自分の作品は濡らしたくないよな」
「それにしても、あの似顔絵は、若様と全然似ておりません。少しお待ちくださいませ」
 豆紗はいつも墨と筆を持ち歩いている。サッと取り出し、若さまのお顔を見ながら、さらさらと手を動かした。
「おお、これは!」
 手にした若さまは、感嘆の声を上げた。
「その方の腕は大したものだ。まるで鏡を見ているようだ」
「恐れ入りましてございます」
 豆紗は丁寧に頭を下げた。
「そのままのお姿で十分すぎるほどお美しいのに、何ゆえに、ニガ虫をかみつぶしたような似顔絵を描かなければならないのですか?」
 一番訊きたいことを、豆紗はついに口にした。
「私もあんな似顔絵を見て欲しいわけではないのだよ。しかし、私の顔がこんなに美しいと世の中に知れ渡っては、不具合なことがあってねえ」
「不具合なこと?」
 真面目に言ってるんだか、戯れ言なのか、豆紗は吹き出しそうになったが、嫌みに思えないのは若さまが無邪気だからかもしれない。
 そこへ、乳母さまが声をかけた。
「豆紗さん、あのう、せっかく年頃のおなごはんが、都へいらしたのですもの、五衣(いつつぎぬ=十二単じゅうにひとえ)をお召しになりませんか?」
 絵巻物を見せてもらうと、なんてすばらしい衣裳だろう。
 見惚れている間に、乳母さまは侍女に指図して、豆紗にさっさと五衣なるものを着せてしまった。
 桜カサネという色合いの、薄紅色や中紅色、薔薇色という濃い色。なんとおなごらしい彩りであろうか。袖を眺めるだけでもうっとりしてしまう。

 重い衣裳を引きずって廊下に出ると、若さまと出会った。
「おや、よく似合っているね。さっきのボロ雑巾みたいなのとえらい違いだ。お昼は馬に乗って丘の上へ『ぴくにっく』でも行こうか」
「ぴくにっく?」
 よく分からないけど、何かに誘われたようなので、
「は、はいっ」
 と返事してしまった。

第三章 ぴくにっく

 よい返事をしたとたんに、はきなれない袴の裾を踏みつけ簀の子にズッデ~~~ン! と顔面からコケて鼻をまともに打ってしまった。
「いたた……」
 貴公子さまの持つ手綱で馬に乗って出発する時は、顔に紗の顔かくしを着ける始末だ。
 貴公子さまは、肩を揺らせて笑いながら、
「こんな顔にならなくて良かったねえ」
 おどけて振り向いて見せた顔が、あのニガ虫の似顔絵とそっくりだった! 今度はこらえきれず、豆紗は吹き出して笑いが止まらない。

 貴公子さまは、人間のこぶしが三つほど固まったような、デカいおむすびを五つほど持ってきた。
(すごい! 白いご飯など、めったに食べられないわ!)
 瓢箪に水も入れて万端だ。
 若い緑が一面の丘の上で、気持ちよく味わった。
「食べ終わったら、正座のお稽古をしましょうね!」
「……」
 豆紗の独断で、正座の所作をお稽古する。
「背筋をまっすぐにして立ちます。次は、膝をその場について――、おなごの着物のすそは、手を添えてお尻の下に敷きます。そしてかかとの上にそっと座ります。これで正座の出来上がり!」
 貴公子さまが不服そうに、
「君は絵師なんだろう。どうして正座の稽古を?」
「唐の都では、正座師匠の万古老さまが正座のお稽古をよくしなさいと……」
「明日から、似顔絵をたっぷり描いてもらうからな!」

第四章 かわら版

「大変だああ~~~~!」
 翌朝、かわら版を見た貴公子さまは、大声を上げてびっくりした。
 なんと第一面に、あのニガ虫似顔絵が乗っていて、
『雀司家嫡子に顔面偽造疑惑、浮上!』
「かねてより疑惑のあった雀司家の嫡子が○○日、女性と『ぴくにっく』しているところが目撃された。しかし、最近バラまかれていた似顔絵とはまったく異なる風貌で、検非違使(けびいし=平安時代の警察庁)が動きはじめた」
 と書いてある。
「まずい! 私の素顔がバレる!」
 大騒ぎしている貴公子さまのところへ、ボディガードのぬばたまさんがやってきて、
「いかがなさいました、若君!」
「お腹でも壊されましたか?」
 乳母さままで駆けつけてきた。
 豆紗は、昨夜お泊り用に乳母さまから貸していただいた、ピンクのふりふりネグリジェ(死語か?)を着て侍女の局のある棟(むね)に飛びこんだもんだから、
「なんだ、その格好は! ちゃんと十二単を召せ!」
 貴公子さまから叱られてしまった。
 彼は頭をかかえて、
「どこからバレたんだろう? あの丘は見通しがいいから、誰もいないのは確認させたのに」
 片膝を立てて貧乏ゆすりしながら、ひとりごとを言っている。
「さては、デカいおむすびの中に隠しカメラを仕込んだヤツがいたのか? きっとそうだ! ご飯は食べるから無理として、梅干しの中だろうか!」
 豆紗は騒ぎの中にいる、いつも黒づくめのボディガードの、ぬばたまさんの袖をつまんで、
「ねえ、ぬばたまさん、どうして貴公子さまは顔隠しにこだわるの?」
「俺もフシギです。顔は俺の方が自信あるくらいです……」
「ええ! 確かに!」
 苦味ばしったぬばたまさんは、ニヒルで魅力的な男だ。
「俺が耳にしたところ、若さまは数年前に顔がバレて、外出時に女子がハチのように群がって牛車が動けなくなったとか。雰囲気とかSEXYさとか、財力とか地位とか、総合点で若さまは満点だとか。父上さままで朝廷に出仕できなくなったそうで……」
「まああ~~~~!」
 豆紗は昨日のぴくにっくを思い出した。
「こぶし三つ大のおむすびを気どりもせず、大口開けて食べてらしたお人が、そんなに女子に追われて? ……可愛ちい♡」
(隙を見て、大口開けてる瞬間はサササッとスケッチしといたわ)
(正座の所作を失敗して尻もちついた時も、おむすびを離さなかったし……うふふ、可愛すぎるう♡♡)

第五章 若のご正室

 貴公子さまは、おむすびを大口開けて食べている姿まで描かれても怒ったりせずに、豆紗に胸がキュンとなったようだ。
 それに、正座のお稽古の時に、尻もちをついてしまったところを、手を引っぱって起こしてもらったことも、ときめきを感じていた。
 正式の所作を教わったことにも感激していて、豆紗は母性本能をくすぐられる。
 その後、ニヒルな漢のぬばたまさんとヒソヒソ話していたものだから、貴公子さまは、ちょっとばかりジェラシーを感じていた。

「かわら版」のスッパ抜き(死語?)に話は戻る。
 貴公子はどうも疑いが晴れず、やや不機嫌だ。
 豆紗に尋ねてみる。
「まさか、君がおむすびにカメラなんか着けていないよね?」
「当たり前です!」
 と、怒りながらも、
「カメラって何だろう?」
 首をかしげていた。
「私は絵師として雇われたのですから……そんなにモテたくなければ、いっそ、奥方をおもらいになればよろしいのに……」
「妻なら、ずいぶん前からいるが」
 貴公子さまが何気なく答えた言葉に、
「ええええ~~~~っ」
 意外だった豆紗は大声を上げた。

 乳母さまは落ち着いて答えた。
「この国の公家の跡取り息子は、元服と申しまして、12~14歳くらいで元服の儀式の時に、たいていご両親さまがご正妻をお決めになられます。うちの若さまのご正室は、中衛家の大姫、雷子(らいこ)さまです」
「中衛家の大姫? どんなお方?」
「肖像画がありますから、ご覧になられますか?」
 乳母さまの後をついていくと、棚がいっぱい並んだ部屋に連れていかれ、
「これが中衛家の大姫さまです」
 それは――一目見ると『鬼女』のようにも見える恐ろしい顔の女だった。
「こんな、鳴る神(なるかみ=雷)妖怪みたいなのが、貴公子のご正室!」
 しばらく動けない豆紗だった。

第六章 純愛夫婦

 それからしばらくして、貴公子夫妻が菩提寺にお詣りした時に、裕福な公家をひがんだ暴徒に石を投げられ、頭などに怪我をしてしまったという。
 乳母さまと一緒に、豆紗も中衛家へ駆けつけてみると、貴公子さまと雷子というご正室が頭に包帯を巻き、痛さにうめいていた。
 貴公子さまが包帯を巻いている姿は痛々しい。ご正室さまが細やかに看病している。肖像画みたいに怖いお顔ではない。
「だから申したのですよ。あなたはこんな美貌なのですから、素顔を知られては危ないと。ニガ虫かみつぶしたような似顔絵を絶えずくばっておかないと、妬んで攻撃してくる輩がおりますから、と」
 ご正室が包帯を巻きなおしながら、ぼやいている。
「え? 今、ご正室は何と? ニガ虫かみつぶしたような似顔絵を絶えずくばっておかないと――?」
(じゃあ、似顔絵を描かせる命令を下したのは、ご正室さまだったのね!)
 貴公子さまもまた、
「奥方も、気軽に私についてこられるから、こんなとばっちりを受けてしまって……華やかなかんばせ(顔)にキズがついてしまったではないか」
 ご正室にキズ薬を塗ってあげている。
(鳴る神妖怪とまでは言いすぎだったけど、あんなに優しく奥方の傷の手当をされている……華やかなかんばせ?)
 豆紗は首をかしげた。
「このふたりは、純愛関係なのだわ! よく聞く政治家の子ども同士の政略結婚ではないのだわ!」

「豆紗さん」
 貴公子さまのお屋敷に帰ると、ぬばたまさんが簀の子で土下座していた。
「どうしたの、ぬばたまさん」
「実は……ピクニックの時、瓢箪(ひょうたん)の中に隠しカメラを仕掛けたのは、私でございます!」
「な、何ですって?」
「男は顔で決まる、なんぞと思っていましたが、やはり、仕事の手腕や財力からして、貴公子さまと私なんぞでは月とスッポン! そこで、ちょいと困らせてやろうなんぞと悪気(わるぎ)がおこりまして」
「じゃあ、あなたが『かわら版』に、貴公子さまのお顔の情報を売ったの?」
「も、申し訳ございませぬ~~~」
「瓢箪の使い道、恐るべし! 若さまにご報告します」

第七章 似顔絵をばらまく

「かわら版に報じられたからには、頑張って描かなきゃ!」
 豆紗は貴公子夫婦のため、塗籠(ぬりごめ)に籠もって必死で「ニガ虫似顔絵」を描きまくった。

 似顔絵を町中でばらまき、通行人に声をかけた。大殿さまの許可は取ってある。
「これが本当に、雀司家のご嫡子のお顔だと思われますか? 本当だと思われる方は奥へどうぞ」
 庶民は顔を見合わせて戸惑っている。似顔絵を見ておしゃべりをはじめた。
「あなた、本当に実物の若君を見たことある?」
「いや、見たことがない。朝廷の雲の上のようなお方だ」
「絶世の美男子というウワサしか知らないわ」
「だから、女たちは顔を見たいとヤッキになってるんだよな」
「でも、似顔絵はこの前、かわら版に載った顔と同じだぞ」
「顔を偽造するって、そんなにいけないことなのか? 検非違使のお方が探すとか……」 
「顔を偽造って、どうやったらできるのさ? あのかわら版には本当のことが書いてあったのかい? 字の読める人、教えとくれ!」
 そこで豆紗は気がついた。
(そうか! 皆、貴公子さまの顔をはっきり知らないんだ!)
 ひとりの貧しそうな痩せた老人が、
「わしは何年か前の冬に田畑を失い、住居も嵐で壊れて、カミさんと途方に暮れていた時に、公家さま方が大きな鍋で炊き出しをしている広場へ集まったことがあるんだが、その時の見知らぬ公家さまが、このニガ虫男とよく似ていたんだ」
「みの吉爺さんもかい? 実は私もだよ」
 同じように痩せ細った中年の女性が言った。
「その時は、まだ子どもたちも小さくてね、どれだけ助かったことか」
「3年前の真冬の嵐の時だろう? ワシもだ」
「そういえば、その次の年の日照りで飢饉になった時も、ニガ虫男が、地方から山に貯蔵してあったという日持ちのする食料を行列して運んできてくれたよな」
「あの飢饉はひどかったよな。皆、よく生き残れたもんだ」
「ニガ虫顔の男のおかげさね」

 豆紗はぼんやりして聞いていた。
「あれれ? 話がとんでもない方向へ流れている」
「絵師とかのお嬢さんよ、いったいどうしたいんだい? ワシらは生きていくのに必死で、あの時のニガ虫をかみつぶしたような顔の男が雀司家の若君かどうかなんて、はっきり覚えちゃいないよ」
「命を助けてもらって、食べものをむさぼったことしか覚えちゃいない」
「そ……そうなんですか?」
「絵師のお嬢さん、あんた、家が嵐で吹き飛ばされたり、食べもんが何も無かったりしたことがないンだろ」
 そう言われればそうだ。
 唐の国にいた時は、万古老の弟子として庵(いおり)に住まわせてもらって、畑仕事はしながらも食べ物には困らなかった。
 かと言って、皇帝陛下の息子が美しいウワサとか、どこの国の王子の行列が通るからって馬車に群がるようなヒマなことはしていなかった。

第八章 雀司家へ

 豆紗は「うん!」とうなずいて、庶民の人々に、
「ちょっとだけ、お願いとお教えしたいことがあります。時間のある人だけ、ついてきてください」
 承知した人だけを連れて、雀司家のお屋敷へ案内した。

 農民や商人たちは、初めて見る公家の屋敷の美しさに感嘆しながらついていった。
「ふわ〜〜、御殿て、こんなのを言うんだねえ。我が家の竪穴式住居とえらい違いだね」
「見てごらんよ、あの几帳の向こうの衝立(ついたて)の豪華なこと!」
 座敷まで皆を通して座ってもらい、ニガ虫男の似顔絵を取り出した。
「私は考え違いをしておりました。今日は、もしニガ虫貴公子を目撃されても検非違使さまには知らせないようお願いするつもりでしたが、その必要は無さそうだとわかりました。皆さん、ちゃんと顔を覚えていないということですし」
「そうそう、ごちそうしてもらったりしたことは覚えているが、腹がペコペコだったからお顔は覚えてないんだよ」
 男も女も言った。
「今後も、もしこのニガ虫男を見ても、他の方には――女性にはナイショにしておいてほしいのです。牛車を取り巻いて動けなくなると、ご一族の方も困られるのです」
「それは知ってるよ! ウワサを信じた女たちが牛車を取り囲んだって話は評判になったからね」
 おばさんたちが笑いながら言った。
「実は、私らも牛車を覗きに行ったのさ。見えなかったけどね!」
 いっそう笑い声が弾けた。

「さあ、正座の所作をお教えしますから、ものはついでに覚えて帰ってください」
「正座?」
「ほら、唐渡りの座り方だよ。あんまりワシらには縁が無いと思いますがのう」
 老人が笑いを堪えて言った。
「ま、そうおっしゃらず。お役に立つ時があるかもしれませぬ」
 豆紗のかけ声で、皆は正座の所作をはじめた。
「現在の唐の国でも正座は行われています。是非、覚えて他の方々にも教えてさしあげてください」
 正座してから、しばらく座ったままにしておき、席に戻った豆紗は言った。
「皆さま、正座してみて気分はいかがですか️? お配りしたニガ虫顔の似顔絵は、ある事をお教えしたかっただけです」
「お教えしたかったこと?」
「整ったお顔でもニガ虫顔でも人生は変わりありません。平等に流行り病にもなりますし、戦乱に巻き込まれたりします。それでも美しくて財力のあるお方に妬みは集まってしまうのです」
 人々はうなずいたり考えたりしている。
「人生は糾える(あざなえる)縄の如し―――幸せと不幸せが交互にまいります。雀司家の若君も奥方の中衛家の大姫さまも、多少、裕福であっても悩みはおありです」
 庶民たちはしんみり聞いていた。
「お集まりの皆さんも同じことでしょう。せめて、悩みのある時は静かに正座して気持ちを落ち着かせませんか。すると温和なお顔になれますよ。福は温和なお顔に寄ってきます」
 豆紗が話し終わると、皆は涙ぐんでいた。
「絵師のお嬢さんが言う通りだね」
 お屋敷から退出する時には、皆、すがすがしい顔になっていた。
「はい、これは今日のお礼に、皆さまが正座されているお姿を描いておきました」
 豆紗が集まった20人ほどの人々の正座すがたを描き、ひとりずつに手渡した。
「おお、私ってこんなに美人だったかい」
「ワシも堂々と座っておるなあ」
「ありがとうよ。家に飾っておくよ」

終章

 振り向くと、万古老師匠が目を細めて立っていた。
「ようやったぞ、豆紗よ」
「万古老お師匠さま……」
「せっかく貴公子と巡り会えたのに、唐へ帰る日が近いな」
「いえ、雀司家付きの似顔絵描きとして、2番めの妻になりましたから、また倭国に来ますわ」
 豆紗は輝く笑顔で言った。
「えっ、いつの間に?」
 師匠は白髪の眉に隠れそうな小さな眼を見開いた。
「実は、ぴくにっくに行った時に……、貴公子さまがおむすびを大口開けてお食べになったり、あんまりお可愛いので、つい、高い花木に隠れてチューしちゃったんです……」
「お前さんからかい?」
「……はい。あれよあれよという間に、みかよの餅い(みかよの餅い=結婚式)の儀式になってしまいましたの」
 頬をバラ色に染めて豆紗は言った。
「こりゃあ、1本取られたわい!」
 正座師匠の万古老の笑いが都大路にひびき渡った。
 笑い声を耳にした、メガネをかけたくくり袴の娘が足を止めた。
(なんかよく分からないままに、一件落着したようだ)
 ニタッと笑って、辻を曲がって消えた。


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