日本正座協会


連載コラム


[ホーム] [連載コラム]

第22話 正座の時代は、平和の象徴か


執筆者:そうな


――『食事のときはすなわち家族会が開けたのである。
    いわゆる一家団欒の景色は
      もっとも多くの食事のときにある』――
          (本書に掲載されている本『家庭の新風味』)


 昔の日本人の典型的な食卓は、茶の間でちゃぶ台を囲み、一家で団欒の時を過ごす形。
それは、温かい家族のつながりを感じられる光景。
一口に家族といっても様々な形はあるが、そこには世代を越えた繋がりや助け合いが、当たり前のように組み込まれているようにみえる。
これが典型的な理想像だとしても、家族の集まる場としてちゃぶ台とは、そのくらい重要な存在だったに違いない。
 ……で、そもそもちゃぶ台って何だろう?
私は、その正座にピッタリである高さから憶測し、日本が起源で、しかも茶の間用に製作されたと勝手に考えていた。
 しかし、今回、本書を読んでみると、意外な……されど、確かに!と思わされる内容に、新たな歴史的衝撃を受けた。
なんとなく見当がつくであろうが、ちゃぶ台の出現には正座も関係する。が、いきなりちゃぶ台の話をするのもなんなので、まずは、いつの時代から正座、あるいは正座らしきものが出てきたのか、そして、正座をして食事をするようになったのはいつからなのかを著者の考えとともにみていきたいと思う。


 時代は縄文時代にさかのぼる。
……はて、なぜこの時代に?
それについて、著者は次のように述べている。
「日本人の先住民である縄文人の座り方を見るのに、最も参考になるのは土偶です」
 なるほど。そこから生活のあり方を推測するということだろうか。
座っている土偶は多々あるようで、東北地方を中心に出ているようだ。
著者は、青森県八戸市の是川遺跡から出土した土偶について、こう述べている。
「しゃがんで手を合わせた格好をしています。分かりやすくいえば、手を除けば体育座りに近い格好です」

 次に、青森県田子町野津平遺跡から出土した土偶については、こう述べている。
「体育座りに近い座り方をしています。また、排便をするときの恰好、いわゆるウンチング・スタイルに近い格好をしている土偶も散見されます」

 さらに、東京都八王子市の宮田遺跡から、横座りの恰好の土偶も出土したという。それは、次のようだったという。
「土偶は乳児を抱いていて、横座りの恰好をしています」

 そして、1997年の青森県大畑町で出土した土偶について、著者は「興味深い」と述べている。その土偶の内容はこうだ。
「(土偶の造られた)時代は縄文晩期の後半といわれます。当時の朝日新聞には『《正座》した土偶』という見出しが付いたようですが、実際のところは、正座なのか蹲踞なのか、あいまいです」
 私の知っていた土偶とは、両足を肩幅に開いて胸を反らせ、棒のようにつっ立っている恰好なので、こんなにも色々な土偶があることに驚いた。


 最後に、山梨県の釈迦堂遺跡から出土した土偶の中にも、正座をしているをいわれる土偶があったそうだ。
著者は、それらについて、こうコメントしている。
「これらの土偶が仮に正座をしていたとしても、それは決して日常の姿勢ではなく、宗教的な儀礼などにまつわる行為の可能性があります」
 なるほど、と思った。
土偶にするほどの形(姿勢)、そして、出てきた場所から推測すると、これは納得のいく解釈である。


 次の時代は、弥生時代である。
この時代は、縄文時代とは違って、そのような土偶はほとんど出てきていないのだそうだ。
だが、その代わりにこんなものがあったという。
「静岡県の登呂遺跡からは、組み立て式の腰かけや一木式の腰かけ、静岡県伊豆の国市の山木遺跡からは椅子などが出土しています」
 そうか、座具が出てきたのか。その座具の意味として、作者はこう述べている。
「弥生時代は身分関係が築かれつつあった時代ですから、豪族など力を持った一部の人がこれらの腰かけを使っていたと思われます」
 どのようなイスなのだろうか。縄文時代にも何らかの自然にあるものの上に座ってはいただろうから、人の手でイスというものを作り出すようになったのが弥生時代からなのだろうか。
 しかし気になる。それはどんなものだったのだろうかと調べてみたところ、どうやら丸太を使った簡易なイスのようなものであることが分かった。

 その次は、古墳文化の時代である。
ここでは、土偶ではなく埴輪が登場し、全国的に古墳周辺から出土している。
色々な座り方がみられるようで、著者はこう述べている。
「栃木県の亀山古墳などからアグラをかいている男性の埴輪が出土しています。ほかにもアグラを組み、合掌をする男性の埴輪など、アグラを組んでいる埴輪は数多く出土しています」
 さらに、こんなことも。
「正座をしている埴輪も出土しています。たとえば、群馬県太田市の塚廻り4号墳からは、正座に近い姿、両手をついてひざまずく正装の男性の埴輪が出土しています」

(殯を示す人物埴輪軍。群馬県太田市の塚廻り4号墳より出土。正座のような姿勢の埴輪は、「跪いて誄(しのびごと)をする男性」。『図説日本仏教の世界 古墳からテラへ』より)


※【誄】……人の死をいたんで、その人の生前の功徳などを霊にのべること。『スーパー大辞林3.0』より。

 やっと正座が出た!……と思ったが、これまた正座といえるものではなさそうだった。近い格好は沢山あるようなのだが、どうにも、これぞ正座!というようなものはやはり無いようだ。
 しかも、本書いわくそれには続きがあり、
「その『ひざまずく正装の男性』の前には、椅子に座る男性がいます。この椅子に座る男性は祭祀の主宰と考えられています」
と記されている。
これもまた、縄文時代に続き、宗教・儀礼のようなものなのだろうか。

著者は、
「こうしてみると、古墳時代には、椅子、アグラ、正座と、少なくとも3種類の座り方が存在していたことが分かります。――しかし私は、少なくとも椅子に腰をかけている人物は身分の高い人に限られていたと想像します」
と述べている。
 確かに、座り方は3種類ほどあるようなのだが、出土物で事実を確認すると同時に、どれもが日常で使われていた可能性が低いことを匂わせる。


 次は、飛鳥時代である。
著者いわく、日本に椅子が広まったのは明治時代以降らしいのだが、実はそのもっと前……飛鳥時代にも椅子を積極的に導入しようとしていた時期があるというのだ。
 著者はこう述べている。
「朝廷はそれまで行われていた跪伏礼(きふくのれい)などをやめ、中国式の立礼(りゅうれい)を行うことを決めています。跪伏礼とは、地面にひざまずき、両手を土につける礼式のことで、立礼とは椅子に座って行う礼式のことです」
 なるほど……海外との交流が出てくるとなると、納得である。その頃の海外の文化は(特にローマ・インド・トルコなどの海を渡って入ってくる文化)、日本の暮らしとは全くといっていいほど違うので、上層部が感化されて新しいことをやり始めようとするのも分かる流れである。
 だが、文化が全く違うからだろうか……椅子に座る文化はあまり浸透しなかったようだ。なんども跪伏礼の禁止令が出ているというくらいだから、相当になじめなかったのだろう。そもそも、イス以外の文化が根本的に変わっていないのだろうから、それだけ変わっても馴染めないのは、なんとなく想像がつくが。
あぁ、微笑ましい。


 そして、時代は流れて奈良時代である。
ここでも著者は《椅子に座る人》を確認したという。
「それは僧です。椅子に腰かけた像を《倚像(いぞう)》といいますが、倚像は奈良時代以降、高僧の像に見られるようになりました」
 著者によると、平安時代までは椅子のことを倚子と書き、《いし》と読んだのだそうだ。鎌倉時代以降、《椅子》と書くようになり、唐音である《いす》の音があてられたのだそうだ。

(栄西像。くつを脱いで座っている。 『図説日本仏教の世界 禅と無の境地』より)


隣国を経由して入ってきた宗教や文化に、素敵に感化された時代なのだなぁ……私もその時の日本を見てみたかった……。新しい大量の文化に触発されるというのは、どのような気持ちなのだろうか。

(本尊台座。ブドウや文様が、仏像の台座に取り込まれている。薬師寺パンフレットより)


 著者の説明はまだ続く。
「奈良時代の高僧は読経も椅子に腰をかけて行っていたと考えられます。それはおそらく、仏教が伝来したインドや中国の影響が大きかったからでしょう。法隆寺や東大寺の住職は、今も椅子に座ってお経をあげています。こうしたことから考えると、古来、椅子に座ることは社会的地位を示すものであったと考えられます」


 さて、奈良といえば「大仏ー!」と続けたくなる今日この頃。
次に、著者は、仏像の座り方に注目した。
「仏像を見てみると、さまざまな座り方があることに気づきます。最も多く見られるのは、結跏趺坐(けっかふざ)です」
 なんとも難しい感じである。漢字からして凄みを感じてしまう。

 ここで、著者は座り方の詳細を教えてくれている。さぁ、早速やってみよう。
「趺坐とは足を組み合わせて座ることで、結跏趺坐は両足の甲をそれぞれ反対の腿の上にのせて座ります」
 やってみた。……が、こんな座り方、できるわけがない。
これは、相当な体の柔らかい人ではないと無理なのではないか……!
リビングで必死に結跏趺坐を行っていると、通りすがりに「固いね(笑)」などと声をかけられる。
半ば意地になって、手で足を支えながら形を作ろうとすると、コロンと無残にも転がってしまった。……その瞬間、私の中で何か虚しいものが通り過ぎていった気がした……。
なんだろうか……心を無にしていれば、このような虚しさを感じることもなかったのだろうか……。軽々しく仏像の真似をしようとした私に、バチがあたったのだろうか。(どうにも地味なバチであるが)
 これができる人は、なんだか神々しくみえるだろうなぁ……なんて、半ば諦めていると、今度は半跏趺坐(はんかふざ)という言葉が目に入る。
それについて、著者はこう記していた。
「半跏趺坐は結跏趺坐の略式ともいえる座り方で、現在では座禅をする際、結跏趺坐ができない人にこの半跏趺坐が進められるそうです」
 なるほど!!これならできそうだ。
ちなみに、結跏趺坐については、仏像の中でも如来(にょらい:仏や仏陀の尊称)に多く見られると記してあることから、相当素晴らしい部類の姿勢なのだということが分かる。

(中央薬師如来像の姿勢が結跏趺坐。 薬師寺パンフレットより)


そして半跏趺坐に関しては、菩薩(ぼさつ:仏の位の次。文殊、観音、弥勒がある)に多く見られるという。
 だが、一般では座禅を行うときの座り方でもあるということから、座り方が云々より、ただ私が軟弱なだけなのだろう。心に痛いが、今こそ自分を認めよう……。
 参考までに、ここに半跏趺坐の行い方を記しておく。
「片足を他の片足のももの上に組んで座る。『デジタル大辞泉』より」
 説明は実に短いが、私にはこれでも難しかった。
結跏趺坐はできなかったけれど、半跏趺坐くらいはやってみたい!という奇特な方は、ぜひどうぞ。

 そしてさらに、結跏趺坐には種類があるという。
それは2種類あり、1つは《吉祥坐(きちじょうざ)》といって、左足を右腿の上に置き、次に右足を左腿の上に乗せる方法なのだそうだ。
もう1つは、《降魔坐(ごうまざ)》といい、吉祥坐とは逆の順序で、右足から組み始めるという。
 半跏趺坐には種類は無いようだが、椅子に腰かけているものもあり、弥勒菩薩半跏像などはその典型なのだそうだ。

(弥勒菩薩像 『図説日本仏教の世界 古墳からテラへ』より)


 そして、《輪王坐(りんのうざ)》という座り方もあるという。
これは、片膝を立て、体を支えるように手を後方につく座り方だそうだ。著者は、いわば立て膝の姿勢だと記していた。

 と、ここで、正座の仏像もあるという。
それについて、著者はこう述べている。
「正座をした仏像は、京都市の三千院にある勢至菩薩跪像(せいしぼさつきぞう)です。この像は西方極楽浄土から亡者を迎えに来る来迎形式の像で、正座してひざまずき、合掌しています。通常の正座に比べると、両膝のあいだが開いています平安時代後期の1148年の作です」
 もう1つあった。
「京都市の教王護国寺(東寺)にある伝武内宿禰(たけうちすくね)坐像も正座に近い座り方をしています。そして、勢至菩薩跪像と同様に、両膝は左右に開いています。こちらも平安時代後期の作といわれます。ただし、かかとは立っています」
 なるほど……!惜しい、とても惜しい!!
確かに似てはいるが、私たちのよく知る正座とは、やはり合致しないようである。いや、もっとストライクゾーンを広げて、これも正座だと言ってあげるべきか……。
……否!いくら仏様でも、あの形、あの痺れのつきまとう姿勢こそが《正座》だと思うので、やはりこの時代も《正座》はなかったようである。
 ただ、これでもツライ姿勢に入るのだろうか、著者はこう記している。
「確かに、正座(に近い座り方)をしている仏像もあることはありますが、その数は結跏趺坐や半跏趺坐などに比べると、決して多くありません。極楽浄土から迎えに来る際にとる姿勢と考えられ、日常生活でとる姿勢ではありえない座り方と考えられていたようです」
 言われてみれば、日常生活でスムーズにとる姿勢ではない気がしてくるが、それはさておき、いやはや、仏像の座り方1つをとっても色々な種類があるのだなぁ、と思った。


 さて、話は仏像から人間に移る。
一般的に、正座は、三代将軍・家光のころから広まったとする説があるようだが、著者は、
様々な文献から高貴な女性の多くが立て膝をしているということから、その説には信憑性がないという結論に至った。
「始まった」ならまだしも、「広まった」とする考えに異議を唱えている。
例えばそれは、次のような著者の考え方である。
「のちの三井財閥につながる三井家の礎を築いた三井高利とその妻の絵が残されています。二人並んで描かれているその絵を見ると、高利はアグラをかいていて、妻は横座りをしています。高利は一時代を築いた人物ですから、後世に残る肖像画をいい加減な姿勢で描かせるわけがありません」
 なるほど、説得力のある説明である。他にも貴族の例はいくつかあり、どれも写真には男性はアグラ、女性は立て膝、亀座(かめざ:正座の格好をして、足を両側に広げ、尻を床に下ろした姿勢)をといった姿勢をとっているという。

 ただ、幕末にもなると、少し変わってくるようだ。
著者は、こう記している。
「幕末の写真には、正座をしている身分の高い女性の写真も散見されます。とはいえ、鎌倉、江戸初期、江戸前半期、江戸末期、明治と、そのときどきの最高位、もしくは高い身分の少なからぬ女性たちが正座をしていないのもまた事実です。このことの意味は、日本人の座り方の歴史を考えるとき、大きなヒントを私たちに与えているように思うのです」
 

 さて、ここからは、著者は昔の人がどんな姿勢で食事をしていたのかを教えてくれる。
まずは、江戸時代の支配階級や上流階級の食事姿勢について、著者はこう述べている。
「江戸時代に描かれた『錦葉百人一首女寶大全(きんようひゃくにんいっしゅにょほうたいぜん)』には上流婦人の食事風景を見ることができ、畳の上に置かれたお膳を前に、彼女たちは正座をしています。また、『女中風俗艶鏡』には、お膳を前に正座や立て膝をした女性が描かれています」
「『絵本筆津花』では、上流の町家の食事風景が垣間見られます。ここでも、畳の上に置かれたお膳を前に男性の町人が正座をしています」
 ここでは、上流階級が主だが、膳を前に主に正座をしているようだ。
私自身、今まで何度か、着物を着て膳を前にすることがあったが、正座が一番食べやすい姿勢であった。むしろ、横座りをしようものなら、膳から身体が離れてしまったり、斜めになったりと食べにくかった覚えがある。
着物をユルく着ようがキツく着ようが、膳を前に正座(百歩譲って男性はアグラも可)以外で食そうとすると、必ず1回は畳の上に落とすハメになるだろう。おぉ怖い。

 次に庶民の食事風景を見てみる。
「『日用助食 竈(かまど)の賑(にぎわ)ひ』には、子供がお膳を前にアグラをかいて食事をしている様子が描かれています」
 農民については、
「『経済をしえ草』には、夫と思われる男性が縁側で飯と汁と香の物をお膳に載せ、食事をしている様子が描かれています。妻と思われる女性がおひつからご飯をよそおうとしていて、その姿は立て膝をしています」
 この文からは、男性の格好がいまいち分からないのだが、縁側ということだから、縁に腰かけて、足を垂らして座っているということなのだろうか。
まさか隣の家ということはないだろうから、畑を見ながら食べているのかもしれない。
同じ日本という国でも、男女別に食事をとる風景は、今とは全く違うスタイルである。
 次に『耕稼春秋』に描かれている、稲刈りを終えた農民たちの祝宴をしている様子について、こう記している。
「酒も飲んでいるようで、大人の男性はアグラをかいたり寝ころんだりしています。男の子の姿も見え、彼らは脚を伸ばしたり、正座(に見えます)をしたりしています」
 なんと!酒を飲みながら寝ころんでいると……!?
私自身、幼いころに寝ころんだ姿勢でジュースをビンから飲んだことがあるが、なんとも上手くゆかず、口からあふれ出し、耳に注入してしまった覚えがある。のちに、同じことを牛乳のビンでもおこなってしまい、ひどく後悔したのは言うまでもない。
 だから、未だに寝ころびながら液体を飲む人を見ると、「本当にそれで飲めるの?」と疑ってしまうほどだ。まぁ、とりあえずそれは置いておいて次に進む。
「以上はいずれも江戸時代の食事の様子ですが、傾向としていえるのは、上流階級のほうが正座をしている率がたかそうであるという点です。その理由の1つには、畳の有無があるように思います」
 確かに、畳の有無で、正座をするかしないか、できるかできないかも変わってくる。それが一番重要なポイントかもしれない。

 次に、後のちゃぶ台なるものが出てくる。
「丈の低いテーブルは、蘭学者のオランダ正月の集いに初めて登場します。時代は江戸時代の後期です」
 その集いが気になって仕方がないが、今はちゃぶ台のことだけを考えることにする。
ここでは、丈の低いテーブルという言い方をしている。
「ちょっと、ちゃぶ台ってちゃんと言ってよ、もう」
などと思う方もおられるだろうが、これには意外な理由があった。
 著者はこう述べている。
「ちゃぶ台とは、西洋のテーブルを日本人の暮らしに合うように改良した卓です。言われてみると『なるほど』と思うでしょうが、テーブルの脚を切って短くしたのがちゃぶ台です。『西洋のテーブルの日本版』ということもできます」
 これは思い切ったことをしたな……そう思う。
これまで、日本人の生活で椅子を使うことはほとんどなかったということから、高さのあるテーブルが馴染まないのはよく分かる。だが、そのために脚を切るなどと誰が考えたのだろう。
これには、ただただ、思い切ったなぁ……という言葉しかない。
 確かに、テーブルに高さがあるから椅子が合うのであって、低ければ座布団や床に直に座るのが合うのだ。
これが後の日本の居間で大活躍するのだから、何が功を奏すか分からない。あっぱれと言っても良いだろう。

 そして、そのちゃぶ台について、著者は『家庭の新風味』という本から興味深いことを書いていると紹介している。文頭でも取り上げたが、以下がその内容である。
「食事のときはすなわち家族会が開けたのである。いわゆる一家団欒の景色はもっとも多くの食事のときにある。この点から考えれば、食事はかならず同時に同一食卓においてせねばならぬ。食卓といえば、丸くとも四角でも大きな1つの台のことで、テーブルといってもよい。シッポク台といってもよい、とにかく従来の膳というものを廃したいとわが輩は思う」
 どうしてそんなにも膳を廃したかったのか……。私は別に、人の心中など読めないので定かではないが、この作者の膳を廃するという意図を次のように理解した。
例えば、膳は1人分の食事を乗せるが、ちゃぶ台はみんなの食事を乗せ、顔を突き合わせながら食べることができる。それは1人1人個別になっている膳より、はるかに団欒とした温かみを感じるのだ。
今まで台所や別室で食事を済ませていただろう奥さんや子供たち(主に女児)と同じ席で顔を見ながら食事をするという感覚は、いったいどのようなものだったのだろうか……。
……もっとも、ちゃぶ台になっても、なんら変わらない家庭もあっただろうが。

 そういえば、先にシッポク台という言葉が出てきた。
シッポク料理なら聞いたことがあるが、シッポク台ってなんだろう?
著者は、それについてこう説明している。
「『シッポク台』は、漢字で書けば『卓袱台』。ちゃぶ台も漢字で書けば『卓袱台』です」
なんとまぁ。ちゃぶ台は茶舞台などと書くのだろうと思っていたため、ビックリである。
なんとなくだが、ちゃぶ台にはお茶のイメージが強い。
 だが、2つ同じ漢字があるなんて変だ。どちらかがただの当て字である可能性もある。
そう思い、デジタル大語泉で「卓袱台」調べてみると、こんなことが分かった。
「【卓袱台】すわって食事をする時の食台。中国読み〈チョーフー〉より転化した名ともいわれる」
 ちゃぶ台……チョーフー台……。
日本の生活に溶け込んでいたちゃぶ台の語源が外来語の音だったとは、思いもよらない事実であった。
 ただ、このちゃぶ台が入ってきたのは江戸時代の後期で、『家庭の新風味』が書かれたのは明治後半だと記してあり、この頃は一般家庭でちゃぶ台が流行っていた風潮がある気がするが、著者はいくつかの文献から推測し、東京などの都会に限っていたと見ているようだ。
 なにはともあれ、ちゃぶ台(よくある一家団欒の意味で)が日本に入ってきて良かった。ちゃぶ台は、脚を折りこめることが大切なポイントである。折りたたんで片づければ、狭い部屋でも布団がひけるからだ。まさに、当時の日本にマッチする外来品。テーブルの脚を切った人を称えたい気分である。
(比較的横座りでも不便ではないちゃぶ台を前に、正座をする人間は、膳の時より減ったのではないか……とチラリと思った。だからどうということはないのだが)

 さて、ちゃぶ台トークに満足したところで(私が)、本書の寺子屋での座り方を見ていこうと思う。
著者は、寺子屋での様子を描いた絵を見ると、子供たちが正座をしているものが幾つか確認できるという。
「たとえば、『孝経童子訓(こうけいどうしくん)』に描かれている子供たちは、ほとんど正座をしているように見えます。ただしこの寺子屋は、都市の富裕層の子女を対象にしているようにも思えます。また、『絵本栄家種(えほんさかえぐさ)』を見ると、女子の学習風景を垣間見ることができます。しかし、先生(師匠)らしき女性は、立て膝で描かれています」
 なんだろうか……ここから考えられるのは、教育の師弟関係にも正座が用いられるようになっているということだろうか。
対象は富裕層らしいが、その頃の良家の子供は庶民の鑑と考えると、それが常識になりつつあったとも考えられるだろうか。
 そして、ここに渡辺崋山の描いた『江戸時代の寺子屋風景』という絵が本書にあったので、載せてみる。

(『江戸時代の寺子屋風景』渡辺崋山 本書より抜粋)


 座り方は色々だが、勉学に励んでいる者は正座をしているように見える。
左下の絵は、両親とその子供だろうか。これは、一種の面談だろうか。親も一緒に参加する塾かとも思ったが、通常の寺子屋は昼間に開かれているそうなので、流石に両親がつきっきりという線は薄くなる。
 そしてなにか、1人祭り状態の者がいるようだ。両手を挙げている。まるで雨乞いのポーズのようだが、これは喜んでいるのだろうか、はたまた嘆いているのだろうか……なんだか異様に気になる。
 ……とまぁ、考えだしたらキリがないので、ここら辺で思考を強制終了しておく。
それにしても、いくら眺めていても飽きない絵である。

 最後に、著者は新選組の座り方を見ている。
新選組に座り方を見るとは、なんとも格好いい響きである。
 まず、著者は正座の影響から述べている。
「武士という観点から考えると、正座は戦闘には不向きです。なぜなら『いざというとき』足がしびれて、とっさの行動に後れを取り、場合によっては、命をも落とすことになるからです」
 大いに同感である。
あのしびれは、身体が「キツイ姿勢だよ〜、血流が悪くなって危ないよ〜」と訴えているシグナルであるから、特訓をしたからといってしびれないわけではない。(慣れで軽減されることはあるようだが)
武士がそのような姿勢で長時間座り、いざ敵が攻め込んできたときに、生まれたての子羊のような足取りで戦おうという方が無謀というものである。
 そして、著者はこう述べている。
「戦国時代には正座が普及していなくて、平和な江戸時代、それも中頃から徐々に普及していったとすると、正座をしていたほうが“平和的”であるとはいえそうです」
 これにも大いに共感する。
正座も、そういった歴史を見る上でのモノサシになるのだなぁと、うなづいてみる。
「正座をした武士というと、新選組の局長・近藤勇を思い浮かべます。近藤は本来、農家の出(ただし、豪農)で、生まれながらの武士ではありませんでしたが、見方によっては『最後の武士』といえなくもありません。何枚か残っている近藤の写真を見ると、いずれも正座をしています」

(近藤勇 本書より抜粋)


「時はまさに幕末ですから、武士社会のあいだでは正座はかなり浸透していたことでしょう。しかし農民、とりわけ近藤の生家のような豪農や庄屋などではなく、ごく普通の農民のあいだでは正座はまだ普及していなかったと私は考えます。しかし、近藤は正座をしている。それは、本来の武士以上に武士足らんとした彼の心意気の表れではないかと思うのです」
 確か、本書で正座は武士の教養の1つとして儒学から入ってきたと教わった。
彼ら新選組は、武士になりたいと切望していた人が沢山いたのだと聞く。その第一歩として、まずは武士の教養を身につけたのだろうか。
 新選組の活躍と行く末を考えると、この固い決意をもって正座をする姿に感慨深いものを感じてしまう。愛しいなぁ。

 さて、時代はいよいよ明治になる。
本書によれば、椅子やちゃぶ台が広まってきたのも明治である。
これだけでも、こんなに生活様式がガラリと変わるのだから、明治維新様々である。
 著者は、この時代になると、公式の席や写真に撮られることを意識した際には、正座になることが徐々に常識になってきていると述べている。
「たとえば、最初の徴兵検査が行われた際の1874年の写真です。20人以上の青年たちが写っていますが、最前列の人は全員、正座をしています。衣服は全員、着物です。脚気がなければ、正座の普及はもっと早まったのではないかと考えられます」
 脚気……。これがなければ、正座は早まっていたのだろうか。そして、正座が早くから取り入れられていたら、何かが大きく変わっただろうか……。
 これは多少大げさな考えだが、正座には武士の精神や平和の意味合いも含まれていると思う今日この頃なので、やっぱり何かが違っていたのだろうなぁ、と思う。

 歴史は、文献によってその断片を読み解き、考察することができるが、それだけである。
だから、過ぎ去った歴史に対して、あの時こうしていれば、何かが変わっただろうか?という問い自体が虚しい響きであり、無意味なものであると思う。
 だがその問いも、その先にあるものの考察に変われば、また別の意味を持つのだと思う。

 これからの正座の扱われ方を考えることは、調査をしている者としては楽しい。
これだから、文献からイフ(if)の世界などを想像・考察し、探究するのをやめられないのだ。



次回は、「正座よもやま話 今の常識、再点検」とともに、正座をみていきたい。