[134]第12話 乙女のため息


発行日:2009/06/28
タイトル:第12話 乙女のため息
シリーズ名:やさしい正座入門学
シリーズ番号:12

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
販売価格:100円

著者:そうな
イラスト:あんやす

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本文

 世の中は、《定型》に納まる事ばかりではなく、その大半が自分の目と頭で「判断」しなければならない事ばかり。そして、《定型》がもたらす《思い込み》とは、なんて人の思考を狂わせるものなのだろうか……。

 今までどこに隠れていたのか、忘れかけていた夏の虫の声。チラホラ聞こえ出した頃に、やっと夏の感覚を思い出してくる。この時期の時間の流れは、ゆったりしているようでどこか早い。長かったはずなのに、あっという間に過ぎ去ってしまったゴールデンウィーク。沢山あったはずなのに、あっという間に消え去ってしまった財布の中身。それなりに充実した時間を過ごせていたとは思うのだが、こういうとき、なんだかジンワリと諸行無常を実感する。今回は、そんな諸行無常なゴールデンウィーク中の思い出話です。

 この休み中に法事に行ってきた。祖父の三回忌だ。「あぁ、もう三回忌なんだなぁ」と思うと、三年なんかあっという間だな、としみじみ思ってしまう。だが、その直後に、「あれ? 二回忌ってしたっけな?」なんて疑問が頭によぎってくるから、何だか危ないような気がしてくる……。(補足。一周忌の後は三回忌になり、必然的に二回忌というものは存在しなくなる。不思議な決まり事である。)ともかく、時間が過ぎるのはとても早く、だからこそ普段からしっかりと目を開けていたいな、という気持ちになってくるのだった。私の目よ、開け。
 田舎の家に着くと久々に家族全員と合流し、法事の行われる寺に向かった。寺の待合室で親戚と挨拶を交わしながら、喪主の娘としてもてなしを始める。お菓子やお茶を配っていると、ふと、見慣れない小さな女の子が一人、年配の親戚と来ていた。こんな大人ばっかりの法事に参加するなんて偉いなぁ、退屈にならないかな、なんてふと思ってしまってから、自然と目で追って気にかけるようになっていた。おじさん、おばさんとおもちゃで遊んでいたその子たちが席についたので、そこにお茶を運んで行って話しかけてみたが、恥ずかしがってしまうのかそっぽを向いてしまう。小さい子にはよくあることだ。私はその様子を見て、「可愛いですね」と話しかけてみた。すると、
親戚おじ「この子はね、英語習ってるんだよ」
唐突に英語の話しになった。きっと、法事の挨拶より何より孫の英語の話しを自慢したいのだと思い、私もそれについて話を展開させた。
私「そうなんですね、英語を!じゃあ、簡単な会話ができたりするんですね」
親戚おじ「いやいや、先生がね、外国の人なんだよ」
私「そうなんですか。それじゃあ、発音がいいでしょうね」
……それから、その子の英語教育の環境について、何分か話しを聞いていた。そう、英語教育の内容に発展もせず、いかに充実しているかでもなく、ただひたすらに環境の話しを延々とされた不思議な時間だった。例えるなら、「飴をあげる」と言ったら、その製造会社の話しを延々とされたというくらいに、不思議な時間だった。(飴はいらんのかいな)。そう、私の親戚には、ちょっと……いや、かなり珍しい人が多い。毎年、法事に来る度にそう思うのだから、多分……そうなのである。
(図1:本堂) 時間となり、法事が行われる本堂に移った。私は喪主の娘なので、一番前の隅の座布団に座っていた。すると、私のちょうど右肩の後ろ辺りに、親戚に連れられた小さな女の子はちょこんと座った。その正座をする姿は何とも可愛らしいこと。今から何をするのか、よく分かっていないような表情で、本堂の中をキョロキョロと見回していた。「退屈しないかな……急に民謡を歌いだしたりしないかな」と、少し心配していたが、その子は始まる前から落ち着いた雰囲気を醸し出していたので、暫くするとそんな私の心配も消えていた。
 さて、お坊さんが伏し目がちでシナシナと入ってきた。どうやら始まるらしい。みんなが座布団に座り直す音がする。釣られて、私も座り直した。お坊さんが、二言、三言話をしてくれる。雑談と雑念の無くなった部屋の中は、静寂と虫の声で満たされる。たまに鳴く、鶯の声が更に神聖さを強調している気がする。「ホォ~……ホケキョ!」あぁ、何て贅沢な時間だろう。しかしこの鶯、ちょっとホケキョまでの間を溜めて鳴くのがクセなのだろうか。少しじれったいところのある鶯だ。そんな鶯さんだが、この後も鳴き声で法事に彩を添えてくれていた。
 さて、お坊さんの小話が終わり、いよいよ読経の時間がきた。そして、足がシビれてくるかこないかの瀬戸際に差し迫った頃、お坊さんはとてもありがたい一言を言ってくれた。
お坊さん「あ、どうぞ、皆様、足を楽になさってください」
ありがとうございます、ありがとうございます。その一言で、私たちは救われます。何せこの一言には、法事の充実度を大きく左右するほどの力が込められているのだから。この時のお坊さんの顔は、いつもよりも輝いて見えるからゲンキンである。
 さて、読経も開始され、少し崩した足も痺れてきた頃、後ろでため息が聞こえてきた。どうやら、あの女の子のため息だったようだ。気になって肩越しにチラっと見てみると、どうやら、しきりに足をモゾモゾさせているようだった。《ッフゥ~……モゾモゾ、ッフゥ~……モゾモゾ》。足が痛いんだな、痺れたんだな、とは思ったが、どうしてため息を吐くのか今ひとつ分からなかった。もしや、《ため息を吐くと、痺れが緩和される》効果が!? などと仮説を立ててこれは大発見かと意気込んだ私は、ため息を吐く音を気づかれないようにやってみた。《……ッフゥ~……ッフゥ~……》。すると!……呼吸が整っただけで何も変わらなかったので、次第に虚無感を感じてやめた。我ながら珍妙な事をしてしまった。正座と呼吸は、どこか関係ありそうで関係ないようだ。(呼吸は呼吸でも、肺呼吸ではなく腹式呼吸だと、少し気になるところはあるのだが……またの機会にしようと思う)
 暫くして、本堂のドアがガラガラと開く音が聞こえた。気になったので、ちょっと目をやると、親戚のおばさん一人とあの子がいない。法事の最中だったのでちょっと気になりもしたが、
「なるほど、やっぱりそうだよね。流石に、疲れるよね」
と、納得してみる。この環境は、小さい子には確かに難しい場ではある。私の幼い頃も、法事関係か何かで、周りが大人だらけの中、時間が止まって進まないような、何とも息の詰まる感覚を覚えたことがあった。《みんなが何をしているのか分からず、自分もただ居るだけ》のその環境は、とても息苦しく、本当に窒息してしまうのではないか、と思うほどであった。だから、息抜きに外に出させたおばさんの選択は、いい選択だったと思う。泣いてしまったり、だだをこねてしまったり、歌を歌いだしてしまったりしたら、大変だからな。……読経中に歌を歌い出された空間というのも、少し興味があるが。
 その後、すぐに女の子とおばさんは戻ってきて、みんなで無事にご焼香も済ませた。そして、墓で線香をあげると、それぞれが食事会の行われる店へ移動した。私たちは、片付けもあり最後に寺を後にしたので、店に着いた時には既にみんなが揃っている状態だった。いよいよ法事の締めである。ここで、色々な事を語ったりして、また次回会いましょうね……という締めをするのだろう。
 私は、空いている席に私物を置き、参加者に何を飲むかを聞きながら、栓のしてあるビンを次々と開けていった。辺りを見回すと、あの小さな女の子は、おじさんおばさんに挟まれて座っていた。私は、少女の傍らに座り「何が飲みたいのかな?」と聞こうと思ったが、ビールとウーロン茶、オレンジジュースしかないので、「オレンジジュースでいいかな?」と聞いた。「ビールください」という洒落もわずかに期待していたが、そんなのは当たり前のようになかった。少女にはオレンジジュース、おじさんにはウーロン茶を注ぎ、私は自分の席へと戻った。
 そして、父の短い挨拶があり、いよいよ食事が開始された。それぞれが、話を始めたり、好きなものから食べたりし始める。丁度、私の周りは、普段滅多に会わない人たちが集まったせいか、みんな「……」という風に顔をチラチラ見ながら、食べ始めた。私は、何かを話そうと思ったが、グンと年差もあるせいか、結局何を話していいのか分からず、もどかしい気持ちで醤油にワサビをといていた。正面に座っていたおじさんが、よくTVに出ている弁護士に似ていたので、少し興味を持って見ていたのだが、酢の物を思いっきりかきこんだ後、「すっぺぇ~!」と呟いて、渋い顔をしていたのが、実に印象的だった。当たり前の事に、素直に反応できる大人は、気持ちの良いものだな……。

 一通り食べ、そろそろお腹も落ち着いてきた頃、あの女の子が気になりだした。チラリと見てみると、ちゃんとお行儀よく追加のお子様ランチを食べている。(この子のみ、当日急に追加になったらしい)よく見れば、おじさんの手には、立派なカメラがあった。向かいの席の親戚に、その子との写真を撮ってもらっているようだった。本当に、孫と仲がいいんだな。そう思いながら、私は三回忌の主役である祖父に、想いを馳せていた。私の幼い頃も、あんな感じであったのだろうか……と。すると、カメラを構えている親戚は言った。
「いいわねぇ~、本当の親子よね」
え、本当の親子……? つまり、あの祖父と孫みたいな関係に見えた人たちは、父と子の間柄だったのか!こういう私は、しみじみとその家族を見ていた。(言い方が変だけれど、きっとこういうことなのだろう)。遅くに生まれ、育てるのも、色々大変だろうな。でも、それはそれで素敵だな。本当に世の中には色んな人が、色んな思いをして生きている……そう思うと、なぜだか少し、勇気が出てくる気がする……。

 さて、食事も終盤になり、帰り始める人もチラホラ見えてきた。私は、急いで袋に引き出物を詰め、親に渡していく。それを親が、挨拶と共に一人一人の参列者に渡していく。このリレー作業は、家族でやると絆のような連帯感が出るので面白い。手際よく渡していくと、最後に残ったのは、あの女の子の家族であった。母がその親戚と話しをしている。その間、女の子は私をチラチラ見て、手を振ってくれたりしていたので、私はデレデレしながら振り返したりしていた。そういえば、今さらながらこの子はなんていう名前なのだろうな。
 そして、みんなが無事に帰ったあと、いよいよ家族だけになって、プチお疲れ様をした。いや、ただ、栓を開けただけのビールがもったいないので、処理していただけだが。手つかずが5本も開いていて、内二本は私が犯人であった。
 私は、飲みながら母に話しかけた。
私「開けたけど、みんなあんまりお酒を飲まなかったね~」
母「そうね、結構車で来てる人多かったから」
私「そういえば、今日のあの女の子、可愛かったね」
母「そうね。いきなり来たからビックリしちゃったけど、何とか無事にお子様ランチも用意できて良かったわ」
私「そういえば、あの子、なんていう名前なんだろう?」
母「んー……何だったかしら……どこかの子供を、預かってきたみたいなのよね」
(え?)
母「どうも、あの家庭は、同じ宗教を信仰している人の子供を預かるっていう慈善事業をしているらしいわよ、さっき話してくれたの」
(……親子じゃない!? 孫でもない……!? 他人!?)
三回忌という法事の場に、親族以外が来ていた事に、私は驚いていた。そして、おじさんの慈善事業に無償でランチを提供し、もてなし、えー……とにかく、おじさんたちのポリシーが、一般の行事と混同されたのだけは分かった。
 と、そんなことを考えてポカンとしていると、帰ったはずのそのおじさんが部屋に戻ってきた。私の方にズンズンと向かってくる。どうしたのかと困惑していると、折りたたんだ新聞をズイと差し出してきた。私は――ただ咄嗟に受け取っていた。おじさんは言う。
おじ「これね、ここんところにね、私たちの偉い先生のね、ありがたいお言葉が書いてあるの。人生の教養になるからね、読んでみて」
そして、おじさんは無駄に爽やかな笑顔を残し、去って行った。ポカンとした私を置き去りにして。すると、新聞紙を片手に放心していた私は、急にあることを思い出した。あ、あの人、確か家に電話をかけてきた人だ……切る間も与えずその先生について四十分ほど語って、その新聞をとりませんか、いやむしろ取りなさいって言ってきた人……この人だったのか……。本当に、本当に、本当に、個性的な親戚が多いと思った。
 そんなこんなで、帰り道ではその事も笑い話と変化した頃、帰りの車の中で家族と今日の話しをしていた。やはり私は正座協会に属しているだけあって、お寺での正座のことが気になる。本堂での足の痺れの話しを話題にしてみたら、父は言った。
父「やっぱり、お坊さんは《シワがよるほどブカブカの足袋》を履いててズルいなぁ~」
続いて、着物に精通している母も言う。
母「そうよね。足袋は着物を着る時の正式な衣服だから、あんなにブカブカなのはおかしいわ」
言われてみれば確かにそうだ。いくらなんでも、あれじゃブカブカすぎるじゃないか!シビれと戦っている私たちからすると羨ましすぎるので、いっその事、キッツキツの足袋を履いて、読経をすればいいのだ。そして、その最中に「っう……」とか言って、渋い顔をしながら痺れて……パタリと倒れ……ダメだ、ダメだ。これではわけが分からない。しかも、普通の人より痺れにくい格好をして、それに慣れているお坊さんでは、なお更弱いんじゃないかと心配だ。
 そうか、お坊さんはこれでいい。ブカブカの足袋のまま、木魚をポクポク叩き、痺れに悶えている人を尻目に、そのまま涼しい顔で説法を説く。それが、お坊さんマジック。なんてな。でもそれでシビれを回避できるのなら、私たちもそこからなにか学べるのかもしれない。
 なんやかんやで、正座はとてもキチンとした姿勢なのだが、無理をしてまでやるものではないなと思った。もちろん、無理をしたい場合もあると思うが、法事では少し崩して楽な姿勢を心がけるのも、シビれを気にせず集中するには大切だと思った。なぜなら、読経を聞いていて、初めてその経文の内容を知ったからだ。私は今まで読経をBGMのように流して聞いていたのだが、あれは、《生きている自分》に対して読まれていたものであった。自分に対する戒めや生き方、問いかけの内容である。もし、いつも通りに足のシビれと時間を気にしていたなら、それには気がつけなかった。そう考えると、「読経に正座」というのは、ただのポージングではなくそれを《謹んで聞くための心(姿勢)》だったのかもしれない。そう思うと、正座が苦手になってきた現代は、少し正座にも工夫が必要となってくる。大切なのは姿勢を保つ事ではなく、「聞く姿勢」を作ることなのだから。どういうことから始めれば良いか、ぜひ正座協会のホームページを参考にしてみてほしい。やはり、《定型》にとらわれすぎてはもったいないし、便利だが人の思考を単純なものにしてしまうと思うからだ。
 時は現代。正座の歴史もうん百年。私もまだまだ、色々な正座の仕方を開拓していけたらと思うのであった。

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