[201]お百度参りで正座
タイトル:お百度参りで正座
発行日:2021/08/01
分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:44
販売価格:200円
著者:海道 遠
イラスト:よろ
内容
竜蛇国からやってきたジャレツとダフォーラのふたり組。
誰から頼まれたわけでもないが、倭国に侵攻して提督府を開いたギイムを偵察に来た。
彼らは大神宮で病気の母親のために正座してからお百度参りをする少女ミギワを見かけ、発作を起こした彼女の母親を助ける。
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本文
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第 一 章 お百度参りの少女
雨の匂いまで古い歴史を感じさせる。
雨に煙った情景は、森林の外れに時折見える集落くらいだが、家々も土壁づくりでなんと古いことだろう。
雨を避けながら、彼方の丘を見ると白い大きな建物のカタチが見える。
ジャレツがもらす。
「あれが、ギイムが本拠地を置いた提督府か」
「壮麗な建物だね。迎賓館を提督府にするなんて、ギイムらしいじゃないか。さっそく好き放題、独裁をやっているらしい」
昨日から雨が降り続き、足元はぬかるみが続いている。
「ひどいね。雨が多いのかね、この地方は」
黒いレインコートは着ているものの、フードからひどい雨だれを落としながら、ダフォーラが言った。
「さあ、俺も初めての土地だからな」
連れの大柄な男も分厚い黒のレインコートのあちこちから雨だれを垂らしながらぶっきらぼうに答える。
「あ、あそこなら雨宿りできそうだ」
肉付きのよい腕を出して、ダフォーラが指さしたのは、雨の中、黒黒と佇む大きな建物だった。よその土地から来たジャレツとダフォーラは、見たことがない大きな神社というものだ。
この歴史の長い倭国では、あちこちに大きな神様を祀る神社というものが建っていたが、これほど大きい建築物は初めて見たのだった。
倭大神宮という大きな木札がある巨大な門に走り寄り、柱の陰で雨具を取る。大量の雨粒がふたりの足元に落ちた。
「やれやれ、ひどい降り方だな。夕方までに止むかな」
「この国を見物しよう、なんて言うからついてきたら、ひどい目にあったじゃないか」
いたずらっぽく睨むダフォーラに、ジャレツは唇の端で笑った。
「俺たちの『見物』とは『偵察』のことだ。今回は根性の良くないギイムが提督に就任したと聞いたからには、念入りにしなけりゃならん」
「ジャレツ。あんたも生真面目な性分だねえ。誰に命令されたわけでもないのに」
「嫌なら今から帰るかな? 大海を越えなきゃ竜蛇の都へは帰れんぞ」
「仕方ない、一緒に行くさ。それが相棒ってもんだからね」
肩までの赤い巻き毛から滴る雨をタオルで拭きながら、ダフォーラも答える。ふたりは長い間組んできたキナ臭い稼業の相棒なのだ。
「おや、あれは」
雨に煙る白い景色の中に、人影が見えた。
先ほどから小さな社から入口の鳥居までを行ったり来たりしている。
「少女のようだな。この土砂降りの中で何をしているんだろう」
言うなり、ダフォーラは雨宿りしていた大門を飛び出していった。
近づいてみると、大神宮の本殿から離れた小さな社と鳥居の間を、十四、五の少女が何かを握って往復している。
レインコートも着ずに、着物はびしょぬれ、頭もびしょびしょのままだ。社に行っては本殿の前で正座し、二回お辞儀をし、手を二回打ち鳴らし、天井から下げられた大きな鈴をガランと鳴らして一回、深く祈り、頭を下げて鳥居の場所まで戻る。
鳥居の下には人の背丈ほどの石碑があり、その上に木の札のようなものを置いていく。
少女が雨の中、一心不乱にやり続けているので、ダフォーラもジャレツも声をかけそびれていた。ようやく少女が最後のお祈りをすませたらしく、肩で息をしたまま立ち止まった。
「あの……何をしてたんだい?」
ダフォーラが尋ねる。少女は顔を上げた。利発そうな細面の少女だ。
「お百度参りです」
「お百度参り?」
ジャレツも走ってやってきた。
「お百度参りって何だ? 亥の刻参りなら聞いたことがあるが」
ジャレツのふざけた言葉にダフォーラが肘鉄を食らわした。
「ぐほっ」
「亥の刻参りは呪いをかけるためのお参り。全然、意味が違うじゃないか。ああ、ごめんよ。悪気はないんだ、このおじさんの冗談さ」
「いえ、いいの。神社の神様にお願い事をしてるの。神社とこの石碑を百往復するの」
「百往復もかい? とても深い思いの願い事なんだねえ」
ダフォーラが驚いて尋ねる。
第 二 章 ミギワの母親
その時、同じくらいの年頃の少女が雨の中をバシャバシャと水たまりをものともせず、走ってきた。
「ミギワ! お母さんが!」
少女は聞くなり血相変えて少女と共に行こうとする。
「どうしたんだ、急に」
「私のお母さん、病気なの。だから早く治るようにお百度参りしてたんだよ。友達に付き添いを頼んでおいたんだけど、急に具合が悪くなったらしい」
「では、俺たちも行こう」
「え?」
ミギワは足を止めてジャレツを振り返った。
「俺は医者だ。診てみよう」
医者の免許を見せながら言った。
「お医者様! ああ、お願いします」
一同はミギワの家へ急いだ。
村の外れの一軒家に親子の住まいがあった。母親が寝台の上で苦しんでいた。
ジャレツはレインコートをもどかしく脱ぎ捨てるなり、母親の脈をとった。
「これは?」
「心臓がよくないってお医者様が。前から入院させなさいって言われてるんだけど……」
手早く検査が行われた。
ジャレツはダフォーラを振り返った。
「緊急手術する。支度してくれ。俺の手術道具を消毒して湯を沸かして、ナイロンをありったけ集めて滅菌室を作る」
「え? ここで手術するの!」
「一刻を争うんだ。病院へ運んでいる時間はない」
ダフォーラとミギワと少女は、あたふたと動き始めた。
そうして準備が済むと、少女たちは成功を祈っているしかなかった。
どのくらい時間が経ったのか――。
雨が止んで夜明けの光が射してきた。ジャレツが滅菌室の中から出てきた。
「お母さんは!」
「大丈夫だ。応急処置はしたから。病院でもう一度検査してもらった方がいい」
「先生……。ありがとう、ありがとう」
ミギワの目に涙があふれた。
「ジャレツ、明日、東町の病院に入院手続きできたわよ」
小さな端末を耳から離して、ダフォーラが報告した。
その日の真夜中、母親の意識が戻った。
「あなたは……」
かすれた声に、ジャレツは、
「医者です。お嬢さんと居合わせたもので」
「お世話になったのですね。ありがとうございます」
母親は消耗していたが、微笑みをつくろうとした。
「翌朝、入院の手配をしましたから安心して下さい。今の気分は?」
母親は頷き、娘を呼んだ。
「お母さん。こちら竜蛇国のお医者様よ。お母さんを手術して下さったのよ」
部屋を出ようとしたジャレツの耳に、母娘の会話が入ってきたので足が止まった。
「ありがとう。お百度参りしてくれてたのね」
「私、昨日、百回目達成したの。だから、神社のご神体があのお医者様と引き合わせて下さったんだわ」
「ミギワ。入院する前に言っておくわ」
「なに? 改まって」
廊下のジャレツは耳をそばだてた。
「私は大倭大神宮の巫女だったのよ。本殿の奥の壁には、『正座の聖典』が塗りこめられて隠されているの」
「ええ?」
「この国を襲う侵略者たちは、その『正座の聖典』を狙ってくるわ。それがないと、この国の統治者とは正式に認められないの」
「『正座の聖典』?」
「ええ。お百度参りでも必要だった、正座の正式な所作などが記されているの。それがどこにあるか、前の宮司様が教えて下さったの。あなたは『正座の聖典』の真の持ち主なの」
「私が? お母さん、何を言ってるの」
「そしてね―――」
母親は言葉を切った。廊下の様子をうかがう気配がする。ジャレツはもう一度、部屋に入った。
第 三 章 正座の聖典
「すまん。今の話、聞いた」
ミギワ母娘は身を縮めて抱き合った。
「俺とダフォーラは竜蛇の人間だが、ギイム提督の荒いやり方をよく思っていない。今回の侵略も、土地の人には気の毒だと思っている。だからギイムにはさっき聞いた話は告げないから安心してくれ」
「し……信じていいのでしょうか?」
ミギワの母親がまだ苦しそうな息をしながら尋ねた。
「もちろんだ」
「母さん、この先生は母さんの命を助けてくれたのよ。信じて大丈夫よ」
ミギワが母親とジャレツの瞳を両方見つめて言った。
「わかったわ。ありがとうございます、先生」
「『正座の聖典』とは何だ?」
「正式な座り方の指南書であり、所持者は、この倭国の最高位を示します」
「なるほど、ギイム提督なら喉の奥から手を出しても欲しがる代物だな」
ダフォーラが部屋に入ってきた。
「ジャレツ。『正座』という座り方なら、情報を得て習得してきた。提督府へ潜入できる」
「どんな座り方か、やってみてくれ」
ダフォーラは、その場に姿勢よく立った。
「真っ直ぐ立ち、膝をつき、膝の内側に着ているものの裾をはさみこみ、かかとの上に座る。両手は膝の上に静かに置く」
「さすがダフォーラだな。提督府の男どもを、そのお色気で全滅してきてくれ」
「残念だねぇ。私がお相手するのは、提督府の女官さま方だよ」
ダフォーラは芳しい香りの巻き毛を肩の向こうへ投げ、ニヤリと笑った。
ギイム提督が倭国を征服して、連合府に報告は済ませている。
「倭国は竜蛇の支配下になった」と。
今日も提督府ですっかり安心して私室のソファで寛いでいた。
「倭国は歴史が何千年もの国。征服するのに一筋縄ではいかぬと聞いていたが、なんのことはない、赤子の手をひねるようなものだったではないか」
配下の者が告げた。
「女官がひとり、お目通り願いたいとのことです」
「女官? 女官ごときが私に直に何用だ? まあいい。通せ」
女がひとりやってきた。赤毛で大柄な女だ。倭国の民族衣装の着物を着ている。
「何用だ」
「ダフォと申します。女官の中には正座の所作を習得していない者がいるようにお見受けしました。私が皆さんに教えてさしあげたいと思い、その許可をいただきにまいりました」
ダフォという女官は床に正座して、提督に丁寧に頭を下げた。
「正座?」
「この倭国の民族が誇りにしている所作です。正座で諸国の来訪者へのご挨拶はもちろん、一般庶民も生活に取り入れる優雅で清らかな文化です。提督府の女官方も、当然、習得していなければ恥をおかきになると思いまして」
「ほう?」
ギイムは眉をゆがめてソファから身を起こした。
「そのような座り方が民族の誇り……。いいぞ、好きにしてくれ。後は女官長のタムサに任せる」
ダフォに許しを告げてから、ギイムは密やかな声で配下に命じた。
「正座の習得について、もっと詳しく調べて報告せよ」
ダフォーラは女官長のタムサという女にお目通りを頼んだ。
タムサは白髪混じりの初老の女官の長だった。威嚇的な視線でダフォーラを見下ろした。
「ほほう、あんたが『正座』とやらを女官たちに指南してくれるというのか」
「はい。タムサ様」
第 四 章 聖典のありか
長雨が上がり、ようやく春らしい晴天が倭国の大地を覆っていた。
若い緑や色とりどりに咲く花に縁どられた道を行くミギワの心は軽かった。
ようやく母親の病が治りそうなのだ。
お百度参りが効いたのかもしれない。今日は大神宮へお礼参りにやってきたのだ。
麗らかなお天気なので参拝者も多い。
ミギワはまっすぐに本殿へ向かって歩いて行った。庭には色とりどりの花が咲き乱れ、目を楽しませてくれる。
そこへ! 背後から馬のいななきと共に物々しい複数の馬蹄音と、軍靴の音が聞こえてきた。
「それっ、者ども、この大神宮の中から『正座の聖典』を探し出せ!」
馬上から、ギイム提督が叫んだ。
大神宮の宮司が白い上衣、袴すがたのまま馬の前に飛び出した。
「提督さま! これは何のさわぎでしょうか?」
「宮司。そなた、『正座の聖典』がこの大神宮にあることを隠していたであろう。すぐに出せ! それを持った者が真のこの国を掌握した者であるそうではないか」
「この国は倭国の民のもの。誰のものでもありません」
「いいや、私は聞いたぞ。『正座の聖典』を持つ者がこの国を支配できると! さあ、よこせ! この神宮のどこかに隠してあるという事実は判明している」
「この神宮に? そ、そのような物はございませんよ」
「嘘を申すでない、宮司!」
ギイムの姑息そうな目が爛々と光った。
「かまわん、者ども、神宮の建物じゅうを探せ!」
兵どもが本殿に突入し、参拝者は悲鳴をあげて逃げ出した。
「これは……」
ミギワは植えこみの陰で震えた。
(もしかして、母さんの言っていた『正座の聖典』のこと?)
ミギワは背後からいきなり肘をつかまれて、飛びあがりそうになった。ジャレツだった。
「なんだ、あなただったの。びっくりしました」
「ギイムが『聖典』を探そうと動き出したな。ミギワ。ケガをしないように本殿から離れている方がいいぞ」
濃いグレーの軍服の兵がどっと投入され、本殿の内部の道具類が外に放り出される。
奥のご祈祷殿の内部まで兵が踏み込む。しかし、どの戸棚や扉を開けても「正座の聖典」らしきものは見当たらない。
(さては……)
ギイムは特に力自慢な兵に向かって、ツルハシやシャベルを持ってくるように命じた。兵たちは道具を持って飛びこみ、本殿奥の壁にツルハシを打ち立てる。
ガーンガーン!
壁が打ち破られる。
「な、なんてことを……。神罰が下るぞ」
宮司は膝を折ってうずくまってしまった。
そこへミギワの母親がよろよろしながら駆けつける
「母さん、まだ、じっとしてなくちゃ」
ミギワは慌てて母親を引き止めるが、母親も必死だ。
「あれは、あなたの身分を証明するもの」
「え? どういうこと? 私とその聖典と何か特別な関係があるの?」
「あった! ありましたぞ~~! 提督閣下! 『正座の聖典』を発見しました!」
兵の声が聞こえてきた。ギイムは馬から降り、本殿へ走りこんだ。
本殿奥の壁を打ち壊したところ、塗りこめられていた聖典が発見されたのだった。
第 五 章 二巻めの聖典
ギイム提督は喜びいさんで、世界連合本部に『正座の聖典』を持参した。
―――が、世界連合本部のお偉方が首を横に振った。
『正座の聖典』は二巻で対になっていて、片方の一巻だけでは、所持者だと認められないのだという。
(聖典がもう一巻……?)
ギイムは呆然とし、すぐに倭国に戻ると今度は街じゅうを探させた。が、見つからない。
提督府では女官の間でも「正座の聖典」の話で持ちきりだった。
ダフォーラの教えている女官たちの正座教室の最高齢の女官長が、そっとミギワの母親の家を訪ねた。
「ミギワ、私だよ。大神宮で巫女を努めていたタムサだよ」
椅子にかけていたミギワの母は立ち上がって老女を迎えた。
「これは、タムサさま。お懐かしいことです」
女官長は黄色い濁った眼をしていた。
「病と聞いた。もういいのかい?」
「はい。すっかり。旅のお医者様が手術して下さってから、しばらく病院に入院していました」
「顔色もいい。そりゃ、良かったね」
扉をコンコンとして入ってきたことを知らせたのはダフォーラだ。
「おや、あんたは提督府で正座を教えている女官のダフォじゃないか」
「そうです。この女性とは不思議なご縁で知り合いまして。タムサさまとお知り合いとは思いませんでした」
三人はテーブルでお茶を囲んだ。
ミギワの母親の話によると女官長と自分は若い頃、大倭大神宮の巫女を努めていて、代々伝わる話を前の宮司から聞かされたという。
「代々の宮司に伝わる話―――?」
二巻めの聖典は、大神宮の隅にある小さな社のお百度参りの折り返し地点である石碑の中に収められていると。
「なんですって! そうと知ったら、ギイムは目の色を変えて石碑を打ち壊して『聖典』を手に入れようとするわ」
ダフォーラが急に立ち上がったので、椅子がガターン! とひっくり返った。
「ここか」
「ミギワに最初に出会ったお百度参りの場所ね」
あの時と同じくらい激しい雨が降り出した。
ジャレツとダフォーラは、ミギワが木札を置いていた石碑を見下ろした。
「この中に『聖典』とやらが隠されているのか」
「ミギワのお母さんと女官長がそう言ってた。でも、ちょっとやそっとの衝撃では石碑は破壊できないだろうって」
「竜蛇の兵器をもってしても不可能なのか」
「おそらく。力だけで壊せる代物ではないらしいわ。何百年もお百度参りの念が積もりに積もって、凝り固まっているらしい」
「ぞっとする話だ」
ジャレツの額が雨でなく脂汗で濡れた。
「では、どうすれば破壊できる」
「破壊なんかしない方がいいんだよ。建立以来、この姿でここにあるんだもん。たくさんの人々の願い事を吸って。だから――」
「ギイムのやつから守る」
「そうよ!」
ジャレツとダフォーラは顔を突き合わせて笑った。
第 六 章 真の正座の聖典
数日後、ミギワの元に提督府から使者が来て一通の書状を渡した。提督府への招待状だった。
驚いた母親も一緒に書状を見る。そこには、
「提督府に来て立派な正座をしてみせよ」
と、したためてあった。
「どうして提督閣下があんたのような年端もいかない女の子のことをご存じなのかね」
母親は首をかしげてから「あっ」という顔になった。
(タムサだ。提督府の女官長タムサが提督に告げたのだわ)
タムサは昔から策略の得意な女だった。
おそらく彼女は、真に美しい正座ができる者が現れた時にこそ、お百度参りの石碑は割れ、第二の『正座の聖典』が現れるという言い伝えを提督に告げたのだ。それで提督は、ミギワに白羽の矢を立てたのだ。おそらくミギワのこともタムサから聞いていたのだろう。
(そのつもりでお見舞いに来て様子をさぐりに来たのだ)
「どうしよう、母さん。怖いわ。私がもし失敗したりすれば」
ミギワは母親に寄り添って震えた。母親は娘の肩を力をこめて抱きしめ、
「大丈夫。あなたは大神宮の巫女だったお母さんの娘だから」
「それに私が指導するからね」
扉を開けて入ってきたダフォーラは倭国の民族衣装キモノを艶やかに着て、ウインクした。
「でも……もし、私が美しい正座ができたら、お百度参りの石碑から『正座の聖典』が取り出されて提督の手に渡ってしまうのでしょう? そうなったら、倭国は本当に竜蛇の国のものになってしまうのでしょう?」
「そんなことはさせやしない。私とジャレツがついてるかぎり。な、ジャレツ」
「おうとも」
ジャレツも分厚い靴でミギワの家に入ってきて、親指を立てた。
ミギワは自宅でダフォーラから正座の稽古を受けた。
とはいえ、母親から習っていたミギワの方が、正座は美しくできる。
提督府に出向いてギイム提督の前でも着物姿で落ち着いて正座してみた。
背筋をまっすぐにし、膝をついてから着物の裾を膝の内側に折りこんで、かかとの上に座る。水鳥が水面に着地するような美しい所作だった。
見守っていた女官長のタムサはじめ、女官たちは、その美しさにため息をつくほどだった。
「うむ、これなら大神宮に連れて行っても大丈夫でございましょう、提督閣下」
タムサがギイム提督に述べる。ギイム提督はイライラとしていた。
「なんでもいいから、さっさと大神宮へ連れていって『正座の聖典』を手に入れろ!」
ご機嫌の悪い上官を前に、兵隊たちや、女官たちも曇った表情をしていた。
「では、すぐにもミギワを大神宮に連れてまいりましょう」
タムサが女官たちに指示して、ミギワを車に乗せた。
提督府の隅で様子を見ていたダフォーラは、ジャレツに連絡した。
大神宮はこんもりと茂る大木の中に鎮まり返っていた。
宮司がギイム提督の到着に慌てて飛び出してきた。
「提督閣下! 今日は何を? 先日、壁の中から『正座の聖典』を発見なされたはずでは」
「もう一巻の聖典を探さねばならぬのだ」
「もう一巻ですと!」
「それで今日はこの娘を連れてきた」
ミギワが提督に続いて車を降りた。生ぬるい突風が一行に吹きつけた。
「なんだかイヤな風だわ……」
突風が止む前に大粒の雨が落ちてきた。黒黒した雲から、蛇が這うようなおどろおどろしい雷鳴も響いてきた。
「ミギワ。さっさと正座しろ」
ミギワは提督の声が聞こえないかのように、本殿から歩き始めた。そして、片隅にある小さな社に到着した。離れた鳥居の下には、お百度参りの石碑がある。
ジャレツとダフォーラが最初にミギワと出会った場所だ。
ふたりは木立に隠れて、ミギワとギイム提督一行の様子をうかがっている。
雨と雷がひどくなってきた。
ミギワはかまわず、石碑の前でまっすぐ立った。そして水鳥のような正座を奉納した。
激しい雨と風がミギワの顔面に吹きつけた。
人々は、何が起こるか、お百度参りの石碑を見つめ続けた。
しばらく雨風の音だけが辺りを包み――、
いきなり、真っ白な光が視界いっぱいに広がった。
雷が石碑を直撃したのだ。ギイム提督は弾き飛ばされて、地面に横たわった。
ダフォーラが飛び出してきて、ミギワを小さな社へかくまった。
「大丈夫?」
「ええ。私は……」
胸を上下する息を鎮めて見たものは―――。
倒れた提督と、真っ二つになった石碑と、そして、石碑の中の何かが燃えていた。
「おお!」
宮司が雨の中を走ってきた。
「『正座の聖典』が燃えてしもうた」
その声に、気を失っていたギイム提督は目を開けた。
「……おお、なんてことだ」
石碑が真っ二つに割れた中、燃え上がったものは、激しい雨にうたれて、たちまち黒焦げのものになってしまった。
「せっかく大軍を率いて倭国に進軍し、侵略できたと思ったのに……」
ギイム提督は濡れた玉砂利の中をのたうちまわって悔しがった。
数日後、ギイム提督は世界連合府に報告に行き、提督府から撤退した。倭国に平和が戻ってきたのだ。
ギイムの独裁が去ったので、倭国の民たちはホッとした様子だ。
ジャレツとダフォーラが旅立つ日も、ミギワ母娘が見送ってくれた。
「やれやれ、大切なものって存在しない方が平和だね」
ジャレツがダフォーラの目の前で手のひらを開いた。その上には、小さなマイクロチップが乗っていた。
「それは?」
「これが本物の『正座の聖典』だ」
「ええっ、いったいどこに?」
「ミギワの母親の心臓に埋め込まれてあったんだ」
「なんですって?」
「ミギワの母親の心臓を手術した時に見つけた。母親が後で話してくれた」
「そうだったのかい」
「次はミギワの心臓に埋め込むように、前の宮司から言われていたらしい。しかし、こんなものは無い方が人々もミギワも平和に暮らせる」
「確かに。それに、ミギワならそんなのが無くても立派な正座ができるもんね」
ふたりは微笑みあい、ジャレツは港から海めがけてマイクロチップを力いっぱい投げた。