[345]はぐく女(め)さんの正座教室


タイトル:はぐく女(め)さんの正座教室
掲載日:2025/04/01

シリーズ名:うりずんシリーズ
シリーズ番号:10

著者:海道 遠

あらすじ:
 八坂神社のご祭神、スサノオの尊の妻マグシ姫は、紀伊の国から帰った美甘(みかん)姫の幼なじみ、薫丸(くゆりまる)の侍女、ひじきのお産に立ち会い、母になる苦しみを知った。
 夫との間に赤さまを待ち望んでいた時だった。とはいえマグシ姫はまだ幼いままで身体の準備もできていない。
 万古老師匠の妊婦さん用の「正座教室」が始まった。


本文

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第一章 ふたりの姫

 八坂神社のご祭神、スサノオの尊の妻マグシ姫は、紀伊の国から帰った美甘(みかん)姫の幼なじみ、薫丸(くゆりまる)の侍女、ひじきのお産に立ち会い、母になる苦しみを知った。
 マグシ姫は夫との間に赤さまを待ち望んでいた時だ。幼いままで、身体の準備もできていない。

「赤さまを身ごもるとあんなにお腹が大きくなって、正座するのが苦しくなると知ったわ」
「私もよ。お産も苦しそうな声が聞こえたしね」
 マグシ姫は八坂神社の境内で、美甘ちゃんと一緒にツツジの花を見物しながら、ため息をついた。
 どうやら「赤さまを産む」のは、想像していたよりずっと大変なことらしい。
 でも、ふたりで正座師匠万古老のはじめた「妊婦のための正座教室」を続けていこうと誓う。
「がんばろうね!」
「うん!」

「万古老師匠が週に2回開かれるそうよ。ただし、決して藍万古(あいばんこ)に変身しない約束で。カッコいい姿になってしまうと、妊婦さんに悪い影響が出るかもしれないとか」
 美甘ちゃんが不思議そうに、
「孔雀柄の着物の女性が言ってたけど、『ほるもん』がどうとか?」
「『女性ほるもん』が出すぎると、赤さまに良くないとか」

 マグシ姫がもうひとつ問題を言い出した。
「妊婦さんの呼び方、もっと良いのはないかしら? うりずんさんの住む琉球では『かさぎーん』ていうんだって。こちらでは、ハラミーとか」
「イマイチな感じね」
「――育む(はぐくむ)から『はぐく女』(はぐくめ)ってどうかしら?」
 マグシ姫が言うと、美甘ちゃんは、
「健康的でいいわね! 古めかしい?」
「わらわたち、古めかしい女の子じゃないの! 万古老師匠も相談しましょうよ」
 万古老師匠は教室で報告を受けて、
「はぐく女? ……ワシはなんでも構わんよ」
「産まれた赤さまのことは『やや桃』って呼びます。桃は縁起のよい果物ですから」
「『やや桃』かぁ。かわゆい呼び名じゃのう」

 次は、悪阻(つわり)の時に、大半の人が食べたくなるっていう酸っぱいもののおやつと飲み物を考える。
「はぐく女」さんのために、みかんを使ったおやつを作ることにする。
「うちの紀伊の国のみかん畑のを使ってちょうだい」
 美甘ちゃんが言ってくれた。
 時折、九条家にやってくる唐の菓子職人のリ・チャンシーさんの助言も得て、メニューを決めることにする。

 万古老師匠とうりずんさんの監修の元、「はぐく女」さんに詳しい女性にも、ひとり来てもらいたいと思っている。
「誰かいらっしゃらないかしら?」
 マグシ姫が、悔しがって、
「う〜〜ん、以前、共にご祭神を務めていた牛頭(ごず)天王の奥方さまなら、8人もお子をお産みになったベテランなんだけど、朝廷の決定で引っ越しされたし……」
「マグシ姫さま。ハリ采女さまは、気のお強い方だそうじゃないですか」
「ま、まあね……」
「孔雀の着物のお姉さんは?」
「彼女は孔雀明王さまだから、お産の経験は無いのですって」
「それで孔雀がついて回ってたのね!」

第二章 衆さんの過去

「少し待っていていただけませんか? マグシ姫、美甘ちゃん」
 寺の教室の入り口に、うりずんさんの姿があった。青い長衣を着て薄い茶色のふわふわの髪、琉球のうりずんという早春の季節神だ。万古老の若い頃の「藍万古」といい勝負の美貌だ。
「うりずんさん、心あたりがあるの?」
「うん、少しね」
 言うなり、ひらりと馬に乗って出かけていった。

 湖国のひとつのお寺に向かった。
 衆宝観音は穏やかに、うりずんの話を聞いていた。
「つまり、万古老さんの妊婦さんのための正座教室に行って、手助けするように――と?」
 庭からの風が、爽やかにふたりの周りを取り巻いた。うりずんは衆宝観音に出産経験があるのかどうかは知らない。
 観音の答えを待って、うりずんの胸は高鳴っていた。
「―――いいわよ、私で役に立つなら」
 衆宝観音は軽く返事した。
「衆さん、本当に?」
「もうずいぶん昔―――、人間の女性になった時に、ひとり子どもを産んだことがあるの。生まれてすぐに浄土へ行ってしまったけれど。だから妊婦さんたちに助言はできると思うけど……」
 切なそうな横顔が下を向いた。
 うりずんの胸が凍りついた。まさかの返答だった! すぐに観音の前に正座して両手をついた。
「衆さん―――! す、すまない! 悲しいことを思い出させてしまった」
「いいのよ、うりずん」
「とてもお願いできない。妊婦さんたちを見る度に悲しいことを思い出させてしまう」
「そんなにヤワではないわよ。私」
 うりずんの肩を持って立たせた。
「記憶の彼方の出来ごとで、今の私には、貴方がいてくれるのだもの。私もお寺に籠もっていないで人間の若い妊婦さんにお会いすれば、気晴らしにもなるしね」
「衆さん―――」
 うりずんは、観音のふくよかな身体を力いっぱい抱きしめた。

 万古老が、都に戻ったうりずんを呼び出した。
「あれだけ、ふたりの姫が乗り気なのじゃからワシも全力でがんばるが、あんたも宜しく頼む。しかし……、あんたの方が妊婦に良くない影響が出ると、ワシは思うのじゃが……」
「は?」
「ワシの若い頃の姿の方があんたより妊婦さんたちに人気じゃと思うんじゃがなぁ〜〜」
「なんですって! うりずんより魅力的な方が教室に参加されるという意味ですか? 万古老師匠!」
 眉を吊り上げて教室に入ってきたのは、衆宝観音だ。
「しゅ、衆宝観音さま! これはお久しゅう……」
「お久しぶりです。この度、わらわも教室に参加させていただくことになりましたので、よろしゅう。――申しておきますが、うりずん以上に魅力的な男性など存在いたしません(きっぱり!)から、ご安心くださいませ」
「は、はあ」
 万古老師匠はタジタジとなって引き下がるしかない。
 もう一度、うりずんに耳打ちし、
「最近、正座教室を妨害する『兇つ奴(まがつど)』という者どもの存在が分かったところじゃ。くれぐれも妊婦さんたちや、姫さまたちに危険が及ばんように」
「『兇つ奴』党には、私も警戒を怠らないようにいたします」
 うりずんは表情を引き締めた。

第三章 おやつ色々

『はぐく女・正座教室』のウワサを聞いて、ぽつりぽつりと生徒が集まり始めた。皆、安定期の妊娠五か月以上の大きなお腹になってきた女性たちだが、ひとり、まだ四か月めの『はぐく女』さんがいる。ヨモギさんという中納言家に仕える侍女だ。年齢は16~7歳でマグシ姫たちより、おねえさんだ。平安時代の初産は、十代半ばが多いので平均的だと言えよう。
 万古老が話をした。
「ヨモギさん、お前さんはまだ『はぐく女』になって四か月。もう少しで安定期に入りますから、それまで待っていただけないでしょうか。ワシはあくまで正座師匠で、産婆でも医者でもありませぬから」
「はい。わかりました」
「もし、お身体に異常を感じられたら、衆宝観音さまにご相談くださいね」
 衆宝観音が、ふたりの前に正座して挨拶した。
「衆宝です。固くならずになんでもおっしゃってくださいね」
「お腹が大きくなっても衆宝さまのように美しい正座ができるとよいと思っております」
「ヨモギさん、お茶とお菓子でも楽しみながら、おしゃべりいたしませんか?」
 美甘ちゃんが誘った。
「私の里では、みかん畑を作っています。お腹に『やや桃』さんが来てから、食べ物のお好みは変わりましたか?」
「そうねえ、最初はお腹が空くと気分が悪くなったりしていましたが、最近は少し食べられるようになりました。突然、焼き芋をいただきたくなる時があるのです」
「焼き芋――焼いた甘藷(かんしょ)のこと。ほくほくして美味しいですよね! おやつに参考にします」
 美甘ちゃんは、みかん果汁を湯呑みに入れて持ってきた。
「今日はみかんのしぼり汁を。衆宝観音さまもどうぞ」
「まあ、新鮮ですね!」
 ヨモギさんと衆宝観音さまは、美味しそうに味わった。
 その頃、マグシ姫は、薫丸(くゆりまる)くんの九条家におじゃまして、先日産まれたひじきさんの赤さまの様子を拝見してから、唐のお菓子職人のリ・チャンシーさんとご挨拶をしていた。
「初めまして。唐のリ・チャンシーと申します」
 日本語の上手な好青年だ。加えて、マグシ姫にはピンと来るものがあった。
「スサノオの妻のマグシと申します。リ・チャンシーさんには、神仙と通じる念をお感じいたします」
「やはり、お分かりでしたか。お感じになるまま、私は神仙の者にございます。お役にたてることがあれば、なんなりとお申しつけください」
「ありがとう。よろしくご指導たまわりとう存じます」
 謙虚で可愛らしい座礼をした。
「やあ、これは桃色牡丹が咲いたようだ」
 リ・チャンシーは、白い歯を見せて微笑んだ。

第四章 所作と正座

「基本の正座の所作を示しておきますぞ」
 万古老師匠が「はぐく女」さんたちに説明をはじめる。美甘ちゃんに前に立ってもらい、ひと通りの所作をしてもらう。
「背筋を真っ直ぐに立ちます。そして、転ばぬように気をつけて床に膝を着き――衣に手を添えてお尻に敷きます。次に、かかとでVの谷間を作り、そこに座ります。はい、正座の出来上がり」
「正座の所作は初めて拝見するわ」
 貴族の姫や、侍女の「はぐく女」さんたちは、美甘ちゃんの所作を感心して見ていた。
 次に万古老が、
「皆さんは、お腹の赤さんが重いのですから、長い間背筋を伸ばして座っているのはお苦しいことでしょう。そんな時は、少し姿勢を崩してかまいませんから横座りして臨機応変になさってください。何より大切なのは『はぐく女』さんとお腹の『やや桃』さんですから」
「『やや桃』さん?」
「助手が考えた、お腹の赤さまの呼び名です」
「まあ、可愛い呼び方!」
「『やや桃』さんですって? 可愛い! わらわもそう呼びます」
「『はぐく女』って呼ばれると『育め!』って応援されているようで元気が出ますわ!」
 マグシ姫と美甘ちゃんが考えた呼び方は、好評だった。
 衆宝観音さまも、深くうなずくのだった。

第五章 ヨモギの初日

 ヨモギは、無事に「はぐく女」として5カ月めに入った。
 最近は「やや桃」さんがお腹の中で動くのを感じられるようになり、愛おしさが芽生えてきた。
 いよいよ「正座教室」に参加する初日だ。お仕えの主人宅には早めに届けを出し、同じく侍女のキマという女の子がついてきてくれることになった。

 教室まで距離があるため、お迎え馬車を利用することにした。
 馬車と言っても、牛車とは大違いの、今まで農作業に使われていた板張りの木材が丸出しになったむしろを敷いた馬車だ。
「万古老師匠さまが馭者(ぎょしゃ)を務められるのよ」
「お師匠さま自ら……」
「そろそろ来ても良さそうな時間なのに、なかなか見えてこないわねぇ」
 5月の中頃で、虫の垂れ衣すがたで道端に待っていると、温かいというより暑くなってきた。
「あ、あの馬車ではないかしら? ヨモギさん」
 キマが言った通り、馬の蹄の音が聞こえてきて、辻を馬車が曲がってきた。
 馭者席に座っている男は、スゲ笠を被っていて顔がよく見えない。
(万古老師匠は黒いおヒゲだったかしら?)
 先日、お会いした時とは少し違和感を感じたが、
(万古老師匠は、若い時のお姿に変身されるとかお聞きしたから、その姿なのかもしれないわね)
 馭者は席から降りて、にこりともせずに小さな昇降台を下ろした。
「足元に気をつけてお乗りくだせえ」
 馬車には誰も乗っておらず、ヨモギとキマだけが馬車に乗った。
 ますます太陽の陽射しが強い。馬車は出発した。
「暑いわねえ。お水をどうぞ。『やや桃』さんもノドが乾かないように」
「ありがとう、キマさん」
 キマが水筒の水をくれた。陽炎がゆらゆら立っている。
 しばらく馬車に揺られて、
「おや? 教室のあるお寺へ向かっているのかしら? どんどん山道へ入っていくわ」
 ヨモギは少し不安に思った。
「こちらの方が近道なんでね」
 馭者の男が、ぶっきらぼうに言った。
 竹林に入って薄暗く細い道に入っていく。
「本当にこの道でいいのかしら?」
 ヨモギがいぶかしがっていると、馭者の男が急に飛び降りるや、荷台に上ってきた。
「あっ、何を……」
 ヨモギは逃げる間もなく、馭者の男に肩に担がれて馬車を後にした。キマは驚いて悲鳴を上げることもできない。

「今日から初参加のヨモギさん、そろそろお見えになってもよさそうな頃だけど……」
 マグシ姫と美甘ちゃんが、首を長くして教室で待っていると、
「大変だ、大変だ!」
 天燈鬼と竜燈鬼が、ドカドカと教室にやってきた。マグシ姫が、
「まあ、あなた方。『はぐく女』さんたちが驚かれるではありませんか。ここでは静かに――」
「それどころじゃありませんよ、マグシ姫さま!」
「いったいどうしたの、天燈鬼さん」
「お迎え馬車かと思わせた馬車に、怪しい男が馭者として乗っていて、林の中へ消えてしまったんですよ!」
「怪しい男?」
「おいらには見覚えが。『兇つ奴(まがつど)』っていう、正座教室を妬む一味のひとりじゃないかと……」
「なんですって!」
 マグシ姫たちが廊下で聞いて驚いているところを、うりずんと万古老師匠が気づいた。
 うりずんは早くも、外へ飛び出して馬にまたがった。

 気配をたどりながら山道を進むと、時々林の陰に隠れながら小走りに進んでいく怪しい男を見つけた。肩に担いでいる女性は気を失っているようだ。
「待て! 『兇つ奴』!」
 うりずんに背後から声をかけられた男は、足を止めた。
「何か? 嫁が急病で医者のところへ運ぶ最中ですが」
「ヘタな言い逃れは無用だ! お前は先日も万古老師匠の催しを邪魔した男だろう!」
「爺さんの料理教室の手伝いをしていたあんちゃんとは別人のようだが?」
 ※正座小説『正座汁・藍万古の料理教室』参照。
「万古老師匠には、イケメン助手がたくさんいるのだ!」
 何事かと思って田畑仕事の手を止めた農夫たちが集まってきて、騒がしくなった。
 馬から下りたうりずんは、動けないよう念力の視線を送り、男の肩からヨモギを奪い返した。
「あれ? いつの間に女を?」
 男は悔しそうにうりずんを睨みつけた。

第六章 ヨモギの救出

 しかし、うりずんが奪い返したと思った女性が、一瞬のうちに馬の背から消えていた。
(『兇つ奴』には、幻術を使える者がいるのか?)
 うりずんは歯がみした。
 万古老師匠は教室の『はぐく女』さんたちに、おとなしく待っているよう指示してから藍万古に変身して、検非違使庁(けびいしちょう=警察庁)へ急いだ。
 はぐく女さんたちは目をぱちくりして、
「今、万古老お師匠が、藍色の長い髪の男性の姿に変身しなかった?」
「私は気づかなかったけど?」
「何ごとか起こったみたいね、さっき邪鬼さんたちが叫んで来ていたようですし……」
 はぐく女さんたちはざわついたが、気がついたのは一部の生徒さんだけだったようだ。
 衆宝観音さまが、留守を預かった。

 ヨモギは意識を取り戻した時、薄暗い小屋に閉じ込められていた。格子のはまった部屋に放り込まれていた。
(ここは……)
 地味な萎え烏帽子を被った装束の男がふたり、やってきた。
「気がついたようだな、貴族の侍女さんよ」
「あなた方は?」
「誰でもいい。いいか、万古老の教室とやらに来ている中納言の姫の飲み物にこの粉を入れるんだ。約束すれば自由にしてやる」
 小さな薬の紙包みを格子の隙間から入れた。
「中納言の姫さまに? イヤです!」
 中納言の姫と言えば、朝廷から宿下がりしている女御の琳子(りんこ)さまではないか。
 しかも、お上の皇子を身籠られている。
 ヨモギが直接、口を聞ける方ではない。万古老師匠のウワサを聞いた父君と乳母が「はぐく女教室」に通うよう勧めたとか。牛車で乳母が付き添って通っているそうだ。
 得体のしれないものを飲ませて、お身体に万が一のことがあれば、ヨモギや主家まで検非違使の捜査が入るに違いない。想像しただけで恐ろしい。
「イヤとは言えないのさ、お姉さん。よ〜〜く俺の目を見な!」
 薄汚いヒゲ面の男の眼から視線を逸らせない。声が耳の中に反響する。
「よいな、必ず飲ませるのだぞ」
 ヨモギの手は呼び寄せられるように、薬包を受け取っていた。

 次の瞬間、竹林の中でヨモギは声を掛けられた。とたんに朱い鼻緒の草履が脱げてしまった。
 藍色の長い髪の青年が尋ねる。
「ヨモギどのだな?」
 ヨモギは再び意識を失くし、青年の腕の中に崩折れた。

第七章 マグシ姫、噴火

 藍万古が、行方不明になった侍女を連れ帰ったと聞いて、孔雀明王が孔雀のピーちゃんの背中に乗り、急いでやってきた。
「藍ちゃん! あれほど注意しておいたのに、妊婦さんを背負って帰ったそうじゃないの!」
 やってくるなり怒鳴りつける孔雀明王に、藍万古は思いきり「し〜〜〜っ!」とした。
「非常事態だったんだ。仕方ないだろうが」
「でも……」
 不意に孔雀明王の瞳に涙が溢れたと思うと、胸に飛びこんだ。
「藍ちゃんが無事で良かった〜〜! 『兇つ奴』って、どんな集団なのか検非違使庁も全くつかんでないと聞いて、心配で心配で……」
「まゆら……」
 珍しく女らしいまゆらの姿にいじらしさを感じて、藍万古は抱きしめた。

 この度の事件で、マグシ姫の怒りの炎が燃え上がった!
(『兇つ奴党』ってどういう集団なの? どうして正座教室の邪魔ばっかりするの?)
 ヨモギから聞いた話では、女御の琳子さまに怪しい粉を飲ませるように命令したらしい。
(まさか『やや桃』さんに危険な薬ではないでしょうね? もし、そうやったら……許さへんわよ〜〜!)
(こうなったら―――)
 マグシ姫の心は決まった。

 その日の夜、八坂神社に天燈鬼と竜燈鬼が駆けつけて、ご祭神の住まう奥殿の雨戸をドンドンとたたいた。
「てえへんだ、てえへんだ! 開けてくだせえ!」
 社(やしろ)の者が戸を開けた。
「天燈鬼くん、いつから江戸っ子になったのだ?」
 スサノオの尊が顔を出した。
「マグシ姫さまが『兇つ奴党』の石牢に閉じ込められてしまわれたんでさ!」
 スサノオの尊の顔色が変わった。
「それは誠か?」
「へい! マグシ姫さんが、竹林の奥へ行って仁王立ちになって叫びを上げたんだ!」
 竜燈鬼が続ける。
「『あんたたち〜〜、今度、正座教室の邪魔をしたら許さへんで〜〜!』って!」
「そしたら、怪しげな男たちが現れて竹林の向こうの北側の岩山に連れていって、岩の入り口から中へ押し込まれなさったんでさあ。岩の中は石牢があるというウワサがひんぱんに……」
 スサノオの尊は、ピシャリとひたいに手を当てた。
「あのじゃじゃ馬めが!」
 すぐさま、
「検非違使に使いを! それと万古老師匠と、うりずんさんにもだ! 私が行くべきだが、今はご祭事の前。お社から離れるわけにはいかぬ……うぬぬ」

第八章 救出

 その夜のうちに情報は各所に伝わり、顔色を変えた万古老師匠、うりずん、薫丸(くゆりまる)と傀儡子一座のオダマキまでが心配して八坂神社に集まった。
「マグシ姫さま、どうかご無事で……」
 オダマキは美甘ちゃんと一緒に、胸の前で両手を揉みしぼっている。
「石牢から脱出するなら……力持ちの人が必要よね! 元、検非違使の半夏さんにも来てもらいましょう!」
「よし、おいらが半夏さんにお願いしてみるよ!」
 薫丸が言うなり、駆け出した。
「なに? オダマキの友達が石牢に?」
 半夏は得意な弓をがっしりとつかみ、すぐに北の岩山へ向かった。

 東の山際から夜が白みはじめている。
 竹林をグルリと周り道して北側へ出ると、険しい岩の壁が立ちはだかった。
 半夏が到着すると、うりずんが岩壁を睨んでいた。
「うりずんどのか」
「傀儡子一座の半夏どのだな」
 ふたりは見かけだけで確かめあった。
「耳をすませていると、確かにマグシ姫の声が聞こえる」
 岩の上の繁みに小さな出入り口を発見した。が、大きな岩が塞いであって入れない。
「うりずんの兄ちゃん、どきな! やっぱ、色男にゃ力仕事は無理だろう」
 半夏が上半身の着物を脱ぎ、両肩のうぉーみんぐあっぷをした。
 出入り口の大岩を持ち上げるために、腰を下げた。
「う〜〜ぬぬぬ〜〜っ」
 顔を真っ赤にして半夏は岩を持ち上げる。頭の上に持ち上げた! 一同、唖然としていた。
 大岩は、ずし〜〜んと投げ飛ばされ、モウモウと砂ぼこりが立った。
「タヂカラヲ神の再来だ……」
 ヤンチャだった弟のスサノオの悪行に怒り、岩の中に籠もってしまったアマテラス大神をひっぱり出すために、剛力で岩を持ち上げて蹴り飛ばした男神の名を、誰かがつぶやいた。
「ゴホッ、ゴホンゴホン」
 顔の汚れたマグシ姫が、砂ぼこりにむせながら出てきた。
 うりずんが受け止め、万古老師匠が駆けつけたところだ。
「マグシ姫さま! よくぞ、ご無事で!」
「うりずんさん……万古老師匠さま……」
 泣いているのかと思いきや、キッと目を上げ、
「んもう〜〜! 許さへんわ! 『兇つ奴党』! わらわをこんなところに閉じ込めるなんて!」
 地団駄(じだんだ)踏んで悔しがった。
「ご無事で何よりです!」
 万古老師匠がその場に正座して頭を下げた。
「なんと闊達(かったつ)な姫御の祭神さまですなぁ」
 岩をぶん投げた半夏が、苦笑した。
「そなたが岩をどかしてくれたんやね! ありがとう。褒めてとらすぞ!」
「はは、光栄にございます」
 半夏も座礼をした。

第九章 夫婦で座礼

 マグシ姫はうりずんの馬に乗せられ、朝には神社へ帰ってきた。
 南門を入って敷地の中ほどにある拝殿前の石畳に、夫のスサノオの尊が正座して待っていた。万古老師匠はじめ半夏も傀儡子一座の者たちも驚いて駆け寄り膝を折った。
「この度は妻を救っていただき、深くお礼申す」
 スサノオの尊はしっかり頭を下げた。
 万古老師匠が皆を代表して、
「尊さま、姫さまを危険な目に合わせてしまい、申し訳ございませぬ。―――どんな罰にも甘んじます」
「何を申される、師匠! ご一同は妻の命の恩人である」
 馬から下ろされ、まだ不機嫌そうな顔でダンマリを決め込んでいたマグシ姫に、
「姫、そなたからも、お礼を申しなさい」
「……」
 マグシ姫は、ゆっくり夫の隣に正座して頭を下げた。
「皆様のお力添えにより、無事に戻ってくることが出来ました。誠にありがとうございました。今後は無鉄砲なことはしないとお約束いたします」
 スサノオの尊も、共に深々と頭を下げた。
「半夏さん、岩をどかせてくださってありがとうございました。あのまま石牢から出られなければどうなっていたことか」
 半夏は、頭を搔いていた。

 部屋に戻ってから、スサノオの尊は厳しい表情を崩さず、
「肝を冷やしたぞ。――連れ去られた侍女どのも無事に戻って、美甘姫にも害が及ばず良かった」
「美甘ちゃんは、わらわと背格好が似ているから、気をつけなければならないわ」

第十章 婆やさんの話 

 マグシ姫はひとり、自分の一室で「兇つ奴党」という一味に思いを馳せた。単に正座に反対しているのではなく、万古老師匠に嫉妬しているのか? 以前、正座をしていたという。
(美甘ちゃんは小さい時に、兇つ奴らしき男から正座を教えてもらったらしいし)
(そうだわ、美甘ちゃんの婆やさんに聞けば何か分かるかもしれない)

 マグシ姫は薫丸のお隣の美甘ちゃんのお屋敷を訪ねた。
「マグシ姫、無事で良かった! 美甘、心配で眠れなかったのよ!」
 美甘ちゃんが、泣きながら抱きついた。
「……心配かけてごめんなさいね。わらわを石牢に閉じ込めた男について聞きたいの」
「『兇つ党』っていう?」
「そう。美甘ちゃんは、幼稚園時代に怪しいおじさんから正座の所作を教わったのでしょう? どんな人だった?」
「よく覚えてないんだけど……」
 婆やさんが、お茶を持ってきた。
「婆やさんは覚えておいでですか? 美甘ちゃんが正座の所作を教わった男のこと」
「……ああ、菜の花畑で子どもたちに正座の所作を教えていた男がいましたよ。昔話を聞かせる前にムシロを敷いて。飴を子どもたちに配り、優しそうな男でしたよ?」
「――?」
「船に乗って唐の国へ渡り、俺様が最初に日本に所作を伝えたんだ、と自慢してましたけどねえ」
「正座教室を開いて盛況な万古老師匠に対抗したいとか?」
「本当にあくどい男でしたら、閉じ込めるだけでは済ませないと思いますよ」
 ゾッとするようなことを、婆やさんは言った。
「そ、それもそうですね……」
 美甘ちゃんが、マグシ姫の不安そうな顔を吹き飛ばすように、
「菜の花畑へ行ってみない? ちょうど咲く頃よ」
 婆やさんが付き添って、ふたりは春の野に出かけた。
「一面の黄色よ!」
「おじさんがムシロを敷いて、子どもたちに正座のお稽古させてたのよ」
 ふたりの姫は小袿(こうちぎ)を脱いで袴の裾をめくり、畑の真ん中へ出ていった。一面の菜の花に包まれて夢の世界だ。
「きれい! きれいねえ」
 ふたりではしゃいでいると、薫丸が土手の上から叫んでいる。
「お〜い、美甘ちゃ〜ん! マグシ姫さま〜〜!」
「薫丸くんだわ」
「『兇つ党』のひとりが捕まったってよ〜~」

第十一章 スサノオの言葉

 検非違使庁へ駆けつけると、万古老師匠、うりずん、半夏、オダマキも来ていた。
「役人さん、『兇つ党』のおじさんに会わせてください」
 マグシ姫が八坂神社のご祭神と知ると、上官がすぐに牢屋に案内した。
 男は牢屋の中でも、しゃんと正座していた。拷問のためではなく自らそうしているのだった。
 意外にも、人柄の良さそうな人足風の男で、
「石牢を抜けだした? さすがだな」
 マグシ姫も、男の前に正座した。
「女御の琳子さまに飲ませようとした粉は?」
「お腹の赤さんが丈夫に育つ漢方薬だ。お役人にも確かめてもらった。どうやったら渡せるか、考えて―――馬車に乗った女人にお願いしようと……」
「どうして、そんなことを?」
 男は顔を赤らめた。
「いつぞや牛車の小窓からチラッと見えた、琳子さまの可憐な横顔が忘れられず……」
 駆けつけてきた天燈鬼と竜燈鬼が、ヒューヒュー口笛を吹いて冷やかす。
「おじさん、女御さまに『ホ』の字やったんかいな!」
「回りくどいことすっから誤解されるんだよ」
「ほいじゃ、なんでマグシ姫さまを石牢に?」
「や……やかましいじゃないか! 俺っちを凶悪犯扱いにして叫ぶから」
 背後から、万古老師匠たちのクスクス笑いがもれてきた。

「今後は一切、正座教室の邪魔をしたり、婦女を連れ去ったりしてはいかんぞ」
 検非違使が厳重に言い渡した。しかし、その後、逃げ足の早い男は煙のように消えてしまったという。
「もし再び仲間が接近してきたら、すぐに知らせるよう」
 うりずんと万古老師匠が、姫ふたりと婆やさんに付き添って帰途に着いた。

 八坂神社に着いてから、万古老師匠はスサノオの尊に会いにゆき、しかと頭を下げた。
「正座教室のことを妬んでのことなら、ワシにも責任があります」
「師匠どの。今は検非違使庁を信じましょう」
 万古老もマグシ姫も、何か吹っ切れずにしゅんとしていた。
 一方、スサノオの尊は泰然としていた。
「真面目で優しい人間ほど、人に憎まれたりすると自分が悪いと思い悩む。しかし、そこは冷静に。万古老師匠が憎まれるわけはないのだから。こういう時こそ静かに正座して一息つきましょう。『はぐく女』さんに美しい正座をしてもらうために」
 煙るような目つきで微笑んだ。
 かつて若い頃、高天原(神々の住む聖地)で、暴れん坊と呼ばれて四方から憎まれてばかりいた経験のある神の言葉だった。


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