[393]お江戸正座36


タイトル:お江戸正座36
掲載日:2025/12/17

シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:36

著者:虹海 美野

あらすじ:
おていは高級料亭の娘である。
従兄の松吉が所帯を持ち、次はおていが、という雰囲気があるが、おていは、松吉が幼い頃に面倒を見てもらった立太郎を密かに思っている。
そんなある日、仲がよいとばかり思っていた松吉夫婦が何やらここのところうまくいっていない様子で、松吉がお麻と口を利かぬのだという。
お麻はとうとう実家に戻ると言い出し、松吉一家にお麻の一家、そうしておていの一家で、話し合いが行われることになり……。

本文

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 おていは高級料亭の娘である。
 お父ちゃんは料亭の板前で、兄、つまりおていの伯父ちゃんと二人で板場を守っており、ほかにも頼りになる番頭さんや手代、丁稚やお運びの人が店で働いている。
 そうして、おていの従兄の竹吉も、子どもの頃より手習いの傍ら、下駄の預かり番から、掃除、お運び、帳簿のつけかた、そうして板場での修行をし、だいぶお父ちゃん、伯父ちゃんに頼りにされるまでになった。
 その竹吉も、少し前に所帯を持った。
 おていたち家族の住まいは同じ敷地内の離れだから、竹吉夫婦の細かな様子はよくわからぬが、もともとこの家の板前であった人の娘であったという竹吉のご新造さんのお麻は、料亭での振る舞いをよく心得ているようであり、また、竹吉との仲もよいと、お父ちゃんやお母ちゃん、番頭さんなんかから聞くから、うまくいっているのだろう。
 ふと、おていはお茶のお稽古の折、ぼんやりした。
 我に返り、居住まいを正す。
 背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、肘は垂直になるようにおろし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うようにし、着物は尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにする。
 懐紙を出し、小さなかわいらしいお菓子をいただき、お茶をいただく。
 今日の掛け軸は梅の花にうぐいすであった。
 なんということもないが、どこか心和む。
「何かお考えのようでしたから、心が少しでもゆっくりできるといいのですがね」と先生が微笑み、おていは「すみません」と小さく詫びた。優しい先生は、「さまざまな思いの時がおありでしょう。そういう時にもお茶はよいものですよ」と言ってくださった。
 話は戻るが、従兄の竹吉が所帯持ちになり、そうなると、次はおていだ、というふうに周囲は思うようだ。
 どうしたものかと、おていは思う。
 お茶のお稽古の後、おていの足は自然ととある剣術道場へ向いていた。
 剣術道場は、竹吉の母の実家から少し行ったところにあるから、おていの家からは少し歩く。もともと、高級料亭の娘のおていは、お稽古三昧で結構忙しい。だから、このお茶のお稽古で、やや剣術道場の近い場所に来た機会に足を伸ばすのだ。否、おていの中では、先生には大変申し訳ないが、お茶の稽古がついでで、本当の目的はこの剣術道場である。
 偶然通りかかったていを装い、おていはゆっくりと剣術道場の前を通る。
 今日はいらっしゃるだろうか……。
 門の外から奥にある道場をそっと見る。
 よおく見たけれど、いなかった。
 おていはがっかりし、剣術道場の前を通り過ぎた。
 その時、視界の端に、すっと剣術道場へ入って行く人影が映った。
 見逃すはずがない。
「立太郎さん!」
 おていは嬉しさのあまり、そそそ、と立太郎に歩み寄る。
 つい、明るく声を張り上げてしまったようだ。
 立太郎はびくり、とし、おずおずとおていを振り返った。
「こ、これは……」
 いつも堂々としている立太郎が、なんだか狼狽えている。
 そんなに驚かせてしまっただろうか。
 申し訳ない……。
「あ、あのお茶のお稽古の帰りに偶然通りかかって、お見掛けしたものですから」
「そうですか……。そうでしたか……」
 笑顔で頷いてくれるが、いつものようにいろいろと話してくれそうにない。
 なんだか悲しかったが、そういう日もあるのだろう。
 おていは丁寧に会釈し、立ち去った後、立太郎が入って行った剣術道場の門を見遣った。


 家でおていはお琴の稽古の復習をしている。
 頭に立太郎のことがあるので、どこか上の空だ。
 家の縁側では、従兄の竹吉が魚を湯がき、身をほぐしたものを猫にやっているところらしい。
 時折可愛らしい猫の鳴き声がする。
 竹吉が昔譲り受けた猫で、料亭という商いだから、店の方に猫は連れていけないので、離れに住むおていたちの家族の家で猫は暮らしている。
 こちらに来て戻る時は着物を替え、身体を拭いてから店に入る約束も竹吉は律義に守っている。
 店に入らぬおていは、気が向くと猫と遊んだり、寒い冬の日には布団に迎え入れて、一緒に眠ることもある。一度、うちの敷地の外へ出てしまい、探すのに難儀したことがあったから、それ以来、可愛らしい桃色の太目の紐に店の名を書き、ついでに鈴もつけたものを首に軽く結んだ。猫は時折その結び目の辺りを縁側なんかに擦りつけることがあって、紐の結んだ先が少々傷んできた。そろそろ新しいものを用意しようか、とおていは思っているところだ。
 猫の面倒に於いて、竹吉が食べ物に気を付け、おていの家でも暑さ寒さで難儀しないよう配慮しているから、猫はほどよく丸く、毛艶もよい。
 まあ、竹吉はお商売を継ぐ身で、一人息子だし、それなりに大変といえば大変だろうか、妻のお麻とうまくいき、変わらずに猫を可愛がれる生活はうらやましくもある。
 一方の自分はどうなることやら……。
 おていは、ふと、立太郎を思い浮かべる
 立太郎は、竹吉の母方の叔父の友達である。
 そう言うと、すごくおていと年が離れているように思われるが、そもそも竹吉の母方の叔父、由吾郎が竹吉の母と十以上年が離れていて、竹吉が手習いに通う前の六つくらいの年に由吾郎が十二くらいだったから、由吾郎や立太郎と竹吉は六つ違いである。そうしておてい松吉が三つほど違うから、おていと由吾郎、立太郎とは九つくらいの年の差だ。だから、おていと立太郎が夫婦になる場合、世間的に年齢の面ではさほど珍しくない。特に立太郎の家は船問屋で、立太郎はそこの若旦那だから、もっと年の差のある夫婦になることもある。
 立太郎は、竹吉が母の実家に預けられた際、叔父の由吾郎とともに竹吉の面倒を見てくれた人なのだそうで、それ以降も、何かと竹吉を気にかけているようだった。
 その縁で、おていも幼い頃より、立太郎と顔見知りになり、立太郎は竹吉の妹のようなおていのことも、竹吉同様かわいがってくれた。
 それから暫くして、立太郎はお商売を継ぐために忙しくなり、めっきり顔を見せなくなった。
 幼かったおていも、手習いでの友達と遊び、そうして手習いを終えてからはお稽古事三昧の日々で、立太郎のことは、完全に忘れてはいなかったが、昔少し遊んでもらったお兄さん、というくらいに記憶していた。
 だが、一年ほど前に、店の旦那衆の集まりで、おていの家の店に立太郎が来て、お稽古事から帰ってきたところだったおていは、立太郎と顔を合わせた。
「おていちゃん、久しぶりですね」と言われ、そこには完璧な美丈夫の若旦那である立太郎がおり、おていにとって立太郎は、瞬く間に恋い慕うお人になった。
 立太郎は、竹吉や竹吉の叔父の由吾郎が話すところによると、昔から文武両道で周囲の人に慕われ、頼りにされているという。
 立太郎と一緒になりたい娘は江戸にいかほどいるのだろう……。水面下に於いての熾烈な競争と思われる中、果たしておていは立太郎に選んでもらえるのだろうか。
 おていはお琴を中断し、正座する。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直になるようにおろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬように。
 一応お作法にも通ったことはあるし、今もさまざまな習い事で学ぶ毎日だ。
 家はまだお父ちゃんたちの代で二代目だが、そこそこに評判の高級料亭である。
 どうにかおていは、自身が立太郎に選ばれる可能性を絞り出そうとし、そうして、ため息をつくのだった。


 そんな、お稽古三昧に密かに立太郎を思うおていの生活に、ささやかな波風が立った。
 なんと、仲がよいものだとばかり思っていた、松吉夫婦が最近不仲なのだと言う。
 朝餉の席でも、平静を装っているが、松吉が全く妻のお麻と話をしない。
「松吉、いい加減になさい!」と、しっかり者の松吉のお母ちゃんがたまりかねて叱っても、松吉はだんまりを続けているらしい。
 美しく、頭のよい伯母である松吉のお母ちゃんは、松吉に関しては大層心配性な人であったから、こんなふうに叱りつけることは、あまりないのではなかろうか。しかも、同じ家で暮らしているとはいえ、所帯を持った息子である。しっかり者の伯母は、そのあたりはよく心得ているお人であろうが、それでも松吉を叱るとは、相当腹に据えかねたのだろう。
 松吉の妻のお麻もかなりしっかりした、芯のお強いお人のようだが、今度のように松吉が不機嫌を貫くのに対し、困った様子でどうにもならぬらしい。
 おていの母は、「どうしたものかしらね」とため息をついていた。
 あの、根はしっかりしているが、常に穏やかである松吉でもそんなことがあるほどに、所帯を持つというのは難儀なことなのだろうか……。妻のお麻の性格にも、何か難儀なところがあるようには見受けられぬ。
 二、三日なら、まあ、夫婦の間のことと、周囲も受け流すが、七日、八日とそれは変わらない。
 とうとう、松吉の妻のお麻が一度実家へ帰りますと言い出してしまった。
 松吉の両親、それにおていの両親が「ちょっと待ってちょうだい」と、松吉の妻のお麻を止める。
 そうして、どうにかこうにか二人をなだめ、おていの家の方で、話し合いが持たれることになった。
 店の方では、身内以外の誰かに聞かれたりしては、後々面倒である。あの高級料亭の若旦那夫婦が仲たがいだって、などと、言う方はそれほど考えずに口にするかも知れないが、そういう話が広がって、いいことはまずない。
 その点、離れのおていの家の方には、店のお客はもちろん、乾物屋やら魚屋やら野菜の問屋やら、酒屋、陶器店の人やらが来ることがない。
 おていの家は、それほど広くはないが、庭に面した座敷を話し合いの場に設けた。
 この話し合いの場で、誰が気にかけるとも思えぬが、違い棚に花や陶器を飾る。
 にゃあん、と猫がやって来て、違い棚に乗ろうとするのを、おていが抱き上げて止めた。
 ここで陶器が割れでもしたら、それこそ縁起でもない。
 玄関では、「ごめんください」と声がする。
 今回の話し合い、松吉の妻のお麻に松吉の一家だけでは、お麻さんが言いたいことを言えぬ状況になるかも知れないでしょう、と松吉のお母ちゃんが心配し、松吉の妻、お麻のご両親にもご足労いただいた。
 お麻の実家は、ここから少し離れたところにある料理屋である。
 どちらもお商売があるから、話し合いは昼餉が済み、夕餉の準備に取りかかるまでの時刻で行われる。お麻の実家はここからは歩けばやや時間がかかるが、もう、お麻の兄上が店を仕切れるところまでになったから、多少の時間の融通は利くという。その点、ありがたい限りだが、肝心のこちらは、松吉にその両親が顔を出すわけだから、まあ、話し合いが長引いた場合は、おていのお父ちゃんが気張るしかない。もうおていのお父ちゃんもそこそこの年だし、そもそも一人でお店を継ぐのが大概の旦那であるのだが、おていのところは、お父ちゃんも、松吉のお父ちゃんも、ちょっと頼りないところがある。「いやあ、昔よりはずっとしっかりしたんだ」と言いながら、今でも互いに支え合っているし、たびたび「兄ちゃんがいてよかったよ」とか、「弟のお前がいてよかったよ」とか言い合っている。
 だから、今回の話し合いが穏便に、そうして迅速に済んでほしいと誰よりも願っているのは、実はおていのお父ちゃんであった。
 まあ、そんなことは置いといて、松吉の妻のお麻、そうしてそのお父ちゃん、お母ちゃんが座敷に入り、勧められた上座ではなく、下座に並んで座った。
 料理人とそこのおかみさん、というだけあり、肌や髪がきれいで、身体の線にたるみやゆがみがない。これは、松吉の両親、おていのところの両親、そうして、店でまかないを摂る通いの奉公人たちも然りであった。
 三人は、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、肘は垂直になるようにおろし、手は太もものつけ根と膝に指先同士が向かい合うように揃え、足袋を履いた足の指先同士が離れないように正座している。きりっとした、ほどよい緊張感のある家族だ、とおていは思った。
 すぐに松吉の両親に松吉も座敷にやって来て、あいさつを交わす。
 もともと、うちの板場で頼りにされていたお麻のお父ちゃんは、松吉のお父ちゃん、おていのお父ちゃんにとって、兄のような存在であったというだけあり、厳しい感じのお人に見えたが、気心知れた松吉のお父ちゃんやおていのお父ちゃんとは、とても穏やかな表情で談笑した。
 そうして、店を任され、兄弟同士で支え合ってはいるものの、それなりに店では貫禄のようなものを感じさせる伯父ちゃんもお父ちゃんも、まるで幼い弟のような顔になっている。
 こういう縁あるお人があるというのは、幸せなことだとおていは思う。
 それはどちらか一方だけがよい人でも成り立たぬのかも知れないし、やはり、合う、合わぬ、という根本的なものもあるのだろう。
 そう、ほのぼのした思いでいたが、そもそも今日の話し合い、そのご縁が危ういから設けられたのだ。
 松吉一家に、夕餉の下ごしらえが始まるまでとの条件でおてい一家も話し合いに加わる。
 皆、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、肘は垂直になるようにおろし、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は指先同士が向かい合うように揃え、正座する。
 それぞれの前に茶が用意され、襖が閉められると、おもむろに話し合いが始まった。
 てっきり松吉のお父ちゃんが仰々しく、「本日はお忙しいところ……」とかなんとか言うのかと思ったら、「で、お麻、一体これはどういうことなんだ」と、お麻のお父ちゃんが口火を切った。
 一瞬、座敷はしん、と静まり返った。
「お麻、早く言いなさい」と、お麻のお母ちゃんが、お麻の方を見遣って言う。
 お麻は「知りません。どういうわけか、松吉さんが、私がよそにいい人を作ったって、言い出して、こっちはなんのことか全くわからないのに、松吉さんは口も利いてくれません」と答えた。
 え、と一同は驚き、お麻を凝視し、やがてそれを松吉へと移した。
「お麻、お前、本当に心当たりがないんだな。お前がそんな娘じゃないのは、十分承知だが、万が一ってこともある。だったら、この場で……」
「あるわけないでしょう!」
 ちょっと凄みのある自身のお父ちゃんを、お麻は一喝する。
 その迫力に、一同は固唾を飲んだ。
 ちょっと、否、正直に言えば、恐そうな感じのあのお父ちゃんを一喝するお麻の底力のようなものを見た気がした。
 松吉のお母ちゃんも結構しっかりとしたお人だが、これはお麻といい勝負かも知れない。
「松吉、一体どういうことなんだい!」と、ここで松吉のお母ちゃんが、松吉をせっつく。
 松吉は居心地悪そうに、俯いている。
「おい、今、ここで言わずに、後でごちゃごちゃ言っても、しょうがねえ。早くあらいざらい喋りな」と、松吉のお父ちゃんが諭す。
「文(ふみ)が……」
 松吉が畳の目を見つめ、ぼそり、と言った。
「文?」
 松吉以外の全員が、訊き返す。
「お麻への文を見つけたのです」
 ええ、とおていは内心驚いた。
 店には毎日多くのお客が来る。
 商家の若旦那も多いし、まあ、出会いがないでもないのかも知れない。
 だが……。
「おい、お麻、それは本当か?」と、お麻のお父ちゃんが訊く。
「知らないって。一度も私は受け取ったことがありません。ええ、松吉さんからすらね!」
「お麻、今、松吉さんから文を一度ももらったことがない話は、関係ないでしょう!」と、すかさずお麻のお母ちゃんが指摘する。
「だって、文のことも今知ったっていうのに、お父ちゃんにも、皆にも、そんな疑われるような目で見られて、たまったもんじゃないわよ」
「お麻、言葉にお気をつけなさい!」と、お麻のお母ちゃんがやや顔を赤くしてたしなめる。
「そうだ、お前。もし、文の件が誤解だとしても、今のお前の態度でやっぱり考え直したいと言われたら、困るのはお麻、お前だ」と、お麻のお父ちゃんが慌てる。
「あなたは今黙っててください」とお麻のお母ちゃん。
「おい、俺はお麻のことを思って!」とお麻のお父ちゃん。
 わあわあと、えらいことになった。
 これでは、夕餉の下ごしらえまでに話し合いは済まぬどころか、このまま物別れに終わるかも知れない。
「竹吉!」
 大きな声で、その場がしん、となる。
 まるで騒いでいたのが竹吉だったのでは、と勘違いしそうな呼び方であった。
 竹吉の名を呼んだのは、竹吉のお母ちゃんだ。
 ほっそりしているのに、一日に五回も飯を食う大ぐらいとあって、声も腹の底からしっかりと通っている。
「その文はどこで見つけたのですか? お麻さんの行李(こうり)とか、仕舞ってある着物の間とか、いろいろあるでしょう? いつ、どこで見つけたのか、はっきりなさい」
 ……それはそうだ。
 お麻が覚えがないと言うのなら、どこで見つけたかをまず言うべきである。
 皆が、「ああ」と納得し、竹吉を見る。
「……猫の首に……」
 ぼそり、と竹吉が言った。
「猫?」
 皆が怪訝な顔をして、首を傾げる。
「そんなところに文を隠す人がありますか!」と、また松吉のお母ちゃんが指摘する。
「だから! うちの猫の首の紐のところに、恋文が結んであったんです」
 苦悩の表情で竹吉は一息に言った。


 猫の首につけた鈴の音と、「ごめんください」と言う声がし、一同がはっとする。
 つい、お麻一家も松吉一家も大声でわあわあと騒いでいて、外の様子を全く気にしていなかった。
 水を打ったように静まり返った座敷に通されたのは、立太郎であった。
 まあ、立太郎なら松吉のお母ちゃんの弟の竹馬の友であるし、松吉とも馴染みがあるので、今のことをやすやすと口外しないだろう。否、そうした古くからの関係がなくとも、立太郎はそういったことを人に話さぬ人格者である。
 まずは見苦しいところを見聞きさせてしまったことを詫びなければ、と一同が思った時、立太郎は猫を座敷に放し、座敷前の廊下で、正座した。背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、肘は垂直になるようにおろし、脇は締めるか軽く開く程度で、美しい正座から、座礼した。
「申し訳ございません!」
 深々と頭を下げる立太郎に、一同はぽかんと、それを見ていた。


「立太郎さん、一体全体どうしたっていうんだい?」
 松吉が猫を膝に抱きながら尋ねた。
「あの文を猫に託したのは私です」
「えええええ!? なんだって?」
 松吉のお父ちゃんにおていのお父ちゃんが、正座のまま、のけぞる。
「まさか、立太郎さん、お麻のことを?」
 松吉が真っ青になる。
 ……そんな!
 おていはあまりのことに呆然とする。
 確かにお麻はきれいだし、芯のしっかりしたお人だ。
 だが、何も、こんなに身近にいる、しかも松吉と一緒になった人を立太郎が慕っていたとは……。
「あの、ちょっと、立太郎さん、そいつは、一体どういうことか、説明してくれないか」と、松吉のお父ちゃんが言う。
 立太郎は廊下に座したまま、「では、説明いたします」と、厳かな口調で答えた。
「私には、思い人がおりまして、そのまま心に秘めておこうと考えておりました。ところが、もうそろそろ所帯を持ったらどうかと親に言われまして、それで、思い悩み、お相手に伝えようと決意しましたが、如何せん、お相手が忙しいようで、なかなか家には居りません。それで、つい、気がせいで、猫の首紐に文を託しました。もう、届いている頃だと思ったのですが、お相手からそのお話も出ないもので、それが答えかと落胆いたしましたが、矢張り、一度お相手の口からはっきりとお返事をいただきたく、今日、直接やって来たところ、なんだか、とてつもない大きな誤解をさせてしまっていたようでして……。申し訳ない」
 そう言い、立太郎は再び深々と頭を下げる。
「猫……」と、松吉は膝の猫を見る。
 猫は首の紐の先を松吉の膝に擦りつける。
「松吉、その文に宛名はあったのかい?」と、松吉のお母ちゃんが訊く。
「否、こうやって、いつもの癖で擦りつけたみたいで、そこはちぎれていたんだよ……。ついでに言うと、差出人も紙の端っこだったから、擦れて、読めなかった」
 一同は大きな徒労感で脱力した。
「松吉、お前さんにとって、お麻さんが全てなのは、よおく、わかる。うん、気持ちはわかる。だがな、宛名がわからないのに、どうしてそれがお麻さんだとすぐに決めた?」
 おていのお父ちゃんが茶を飲み、ため息をついて訊く。
「あ……」
 松吉はそこで真っ赤になり、俯いた。
「全く。この子は……」
 松吉のお母ちゃんがはあっと、大きく息をつく。
 そうして、松吉のお父ちゃん、お母ちゃんは居住まいを正し、頭を下げる。
「お麻さん、お麻さんのご家族、立太郎さん、そうしておてい、うちの松吉のせいで、とんだ迷惑をかけてしまいました。どうか、勘弁してやってください」
「そこまでうちのお麻を思ってくれてのことだ。これからも、どうかよろしく頼みます」と、お麻のお父ちゃんが応じる。
「私も、そんなふうに謝られては困ります」と、立太郎が顔の前で手を振る。
「どうして、私も?」と、おていが訊く。
 皆が、おていを見る。
「ああ、いいのです。いいのです。もう、あの文はなかったことにしてください」と、立太郎が腰を浮かせる。
「いいや。私はおていが小さい時から兄のように一緒にいたから、わかる。おてい、これは、立太郎からおていにだ」
 そう言うと、懐から、紙の端がちぎれたり、擦れたりした付文を差し出した。
「あああ、そんな、皆の前で」と慌てる立太郎は、普段の落ち着いた立太郎とは別人のようであった。
 おていは文を開き、はっとして立太郎を見る。
「私はこれで……」と立ち去ろうとする立太郎を、「待ってください」とおていは呼び止めた。


 今回の話は、猫が首紐に括りつけられた文の一部をどこかで損じて宛名と差出人がわからなくなったことから、それを見つけた松吉が、妻のお麻を思うあまりに、お麻への文と勘違いし、仲違いしたことに始まった。
 蓋を開けてみれば、おていが思っていた立太郎もおていを思っており、おてい宛ての文を猫に託してくれたのだ。
 少し前に剣術道場で会った際、立太郎が何やら様子がおかしかったのは、おていが文を受け取ったものだとばかり思っていたからであった。それから、やはりおていの返事が気になり、意を決しておていの家を訪れてみれば、文がどうのこうのと、松吉夫婦が、家族同席でもめている……。
 さぞかし、立太郎も驚いたことであろう。
 だが、間一髪で、誤解は解けた。
 今は祝言の用意で、おていの一家は幸せな忙しい日々を送っている。

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