[278]お江戸正座3


タイトル:お江戸正座3
掲載日:2024/03/11

著者:虹海 美野

内容:
おたきは戯作者の妻である。
少し前に夫のお弟子さんが食事の席で足をしびれさせて転んだ折、咄嗟に大切にしていた茶碗が割れたことを嘆いてしまい、その後お弟子さんが家を出ていったことから、悪いことをしてしまったという思いが残っている。
ある日、娘のおふみに正座の仕方を教わったおたきは、夫に誘われ、芝居に出かける。人の多い土間席でおたきはおふみに教わった正座をし、それを夫にも教えると、周囲の人に感謝され……。

本文

当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。


「正座をする時は背筋を伸ばして、脇はしめるか、軽く開くくらい。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度で。手は太もものつけ根と膝の間で、下駄の鼻緒のようなかたちで膝に向けて指先が内側へ向くよう置く。足の親指同士が離れぬように。穿いているものは広げずにお尻の下に敷いて」
 その言葉を思い出し、おたきは芝居が始まる前に正座をした。
 隣の夫にも同じように教えた。
 夫と並んで正座し、芝居が始まり、騒がしくも期待溢れる声や拍手で舞台に立つ美しい役者を見て幸せに浸るおたきは、ふと、新しい茶碗を買うのはどうかしら、と思った。
 それは、少し前のとあることが起こってのことだった。

 おたきの夫は戯作者である。
 現在は小さいながらも庭のある家で、夫、娘二人と、ありがたいことに食べるのに困らない生活を送っている。
 夫は今でこそ戯作者でやっていけるようになったが、出会った頃は飴屋だった。大層精巧な金魚や鳥の飴を作る人で、決して大金の稼げる仕事ではないが、誰にでも丁寧な態度で、若いおたきはすぐに夢中になった。誰かに取られはせぬかと心配したものだが、大店の若旦那でもなし、江戸の花形の大工や火消でもなし、争奪戦とは全く無縁で、一緒になった。
 夫が飴屋をして、おたきが昼間料理屋に働きに出て、まあ、そんなふうにやっていくのだろうと思っていると、そのうちに夫が戯作者になりたいと言い出し、戯作を書く一方で版元の手伝いをし始めた。
 何がなんやら、と思っているうちに、おたきは一人目の子を授かり、勤めていた料理屋をやめた。この先大丈夫かと思っているところへ、料理屋のおかみさんが、上方からの土産でもらったという茶碗をひとつ、餞別にとくれた。木の箱に入った、当時のおたきにとっても、夫にとっても大層な茶碗で、あなたが使ったら、いやお前がもらったのだから、などと譲り合い、では子どもが生まれたら、と言っても、子どもには分不相応、おまけに大きいときて、夫の仕事が軌道に乗り、長屋から今の家に越して来た時も木箱を着物と一緒に仕舞って持って来るほどに慎重に扱い、そのままになっていた。
 茶碗が箱に納まったまま、日々は過ぎた。
 そして、夫が弟子を家に住まわせる、と言い出した。
 お弟子さんというのは、身一つで来るものだと思っていたが、そのお弟子さん、よいおうちのご子息だったようで、かなりの支度金というか、こっちで暮らすのに際してのお金を持参してくださったらしい。それは恐縮なのだが、問題は夫である。夫はそのことをおたきに伝えはしたが、お金に関しては戯作に関する勉強に遣うと言い、こちらには一切回さない。お弟子さん本人は師匠なる夫に渡したお金の遣い道を知らないのだから、責めるべく人があるとすれば夫である。住む人が一人増えても、夫がその分生活費を多くおたきに渡すでもなく、されど、初めてのお弟子さん、適当な扱いはできぬと台所の方でも気を遣い、これまで同様の生活費であれこれ賄うわけである。
 まあそれでも、今よりもずっと収入の少なかった頃から、安くてもおいしい、栄養のある食材を買い、あれこれ工夫して、夫が毎度楽しみにする膳を用意してきたおたきである。
 せっかくお弟子さんが来たのだ。
 気持ちよくお迎えしようではないか、と一時心にくすぶっていた財布事情は忘れることにした。
 それにお弟子さんを迎えるというのは、それだけ夫の戯作者としての地位が確立された心持ちにもなる。さあ、布団だ、湯のみだと準備する時に、仕舞ったままであった茶碗を思い出した。
 せっかくだから、この茶碗を使おうとおたきは思った。
 これから先、長らく一緒に暮らす、夫の大事なお弟子さんである。仲良くやっていこう、そう心に誓った。
 だが、そうしたおたきの誓いは脆くも崩れ去った。
 お弟子さんが食事の後、膳を持って立ち上がった際に足をもつれさせ、娘にぶつかり、そのまま庭まで転がり落ちた。
 茶碗は畳に転がった、と思いきや、障子を倒し、庭へと転げ出たお弟子さんとともに、狭い廊下から外へ出た。そうしてふと気づけば、茶碗は粉々に散ってしまっていたのである。
 つい、おたきはお弟子さんの心配よりも、茶碗のことを口走った。
 夫も娘二人も、この時のおたきの咄嗟の発言を咎めなかったが、いつになってもおたきの心にはそのことが残った。


 お弟子さんがここを出ると言い、その時夫がこの先一人でやっていくための金銭や生活の準備の面倒を見ていたことは知っているが、おたきは表立った手伝いはしなかった。ただ、あの時お弟子さんが持参したお金がこういう形で役立つのなら、それまでの多少窮屈になった台所事情など安いものだと思った。
 こうして、おたきの生活は元に戻った。
 そう大きく何か変わったわけではないが、朝、昼、夜の食事に休憩時のお菓子、家の掃除に至るまで、お弟子さんがいた頃は気を遣った。戯作者の妻として、気風良くいる己を、おたきは自身に課していたと、今になって思う。
 例えば、身内だけなら、昼餉は茶漬けにでもしてしまえばいいが、やはりお弟子さんにお出しするとなると、躊躇う。前日の、いくらか表面が硬くなった饅頭でも、家族内なら奪い合って食べたものだが、よそのご子息にそれはお出しできないし、かといって、家族は硬くなった饅頭、お弟子さんだけ羊羹をご用意するではあからさまであるから、たかがおやつでと、よその話で聞けば笑って受け流す程度だが、当事者としてはいろいろに考え、何かしらが積るのである。
 おたきは勝手に戯作者の妻たるゆえんを考えていた。
 床に埃が舞っているのに気づいても、それまでは、まあ今度でいいか、と見過ごして、のんびりする日もあった。だが、お弟子さんがいるとなると、戯作者の妻として、抜かりなく家のことをこなすべく自身の姿をおたきは描き、くるくると働いた。
 そんな日々から解放され、これまで通り、昼は茶漬けの日が増え、床に埃が舞う日常に戻った。おやつに関しては、二つの饅頭を四人で分ける日もあるくらいである。甘いものは嬉しいが、三度の飯のように必ずというわけではなし、夫は子どもらが食べぬのに自分だけが菓子を食べるのをよしとしない性格で、だからといって、家を支える夫に何も出さず、娘たちだけが饅頭を頬張るというのも抵抗があり、饅頭がふたつあれば、まあ、多少の大なり小なりは気にせず、分け合ったものを味わっていただくのが、本来のおたきの家庭であった。
 そんな折、おたきはふと、娘のおふみの行儀がよくなったことに気づいた。今日も半分にした饅頭に「えー」と言いながら、それを味わう姿は背筋が伸び、どこそのお嬢さんのような風情さえ漂わせている。
 最近、おふみの友達のおようちゃんがお武家様の元へ奉公に出たことが関係しているのかも知れぬ。
 着物の繕いものをしている時、ふとおたきはおふみにそのことを問うた。
 すると、案の定、おようちゃんに所作について教わった、と言う。
「正座をする時は背筋を伸ばして、脇はしめるか、軽く開くくらい。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度で。手は太もものつけ根と膝の間で、下駄の鼻緒のようなかたちで膝に向けて指先が内側へ向くよう置く。足の親指同士が離れぬように。穿いているものは広げずにお尻の下に敷いて」
 そんなふうに教えてくれた。
 これを知っていれば、お弟子さんが部屋から転がることもなかったかも知れないわね、とおたきは思い、小さくため息をつく。
 その一方で、否、これは仕方のないこと。
 私にはよそ様のご子息を毎日丁重に面倒見るなど無理なことだったと、納得しようともする。
 娘たちがお稽古事に出た折、茶を淹れて夫の元へ持って行くと、「これから出かけないか」と言う。
「どちらへです」と訊くと、「芝居でも見に行かないか」と言う。
 芝居に行くのは久方ぶりのことである。
 夫は仕事柄、書物を多く購入する傍ら、芝居にもよく行っていた。最初の頃はおたきも一緒にと誘ったが、「勿体ないですよ。あなたが行けば、それは何か仕事の助けになるでしょうが、私が行ったってどの女形がいいだの、あの着物が素敵だのって言うくらいですから。私が行く分のお金で、あなたが二度芝居に行った方がよほどいいです」と断った。次第に夫は一人で芝居に行くようになり、そのうちに仕事で知り合った人と連れ立って行くようになり、おたきはいつも「行ってらっしゃい」と見送り、その間に娘たちの夕餉の支度をしていたものだった。
「たまには、一緒に行かないか」と、珍しく、夫は再度おたきを誘う。
「でも、私がお芝居を見ても、あなたのように話の筋がとか、役者のせりふ回しだとか、表現だとか、そういったことはわかりゃしませんよ。ただ、ああ、楽しかった、ですから」
「楽しかった、でいいではないか」
 のんびりと、夫は返す。
「けれど、お夕飯の支度をまだしておりません」
「帰りにうなぎでも、弁当でも、何か買って帰ろう」
 戸惑うおたきが顔を上げると、夫は目を細め、小さく頷く。
『この金魚の飴をください』
『金魚ですね。どうぞ』
 初めて言葉を交わした、あの時飴売りだった夫は、あの時と同じ目をしているようにおたきには感じられた。
「……よそ行きの着物に着替えてからでよろしいですか」
「ああ、もちろん。ゆっくり支度なさい」と夫は言う。
 ああ、よそ行きの着物、どんなものがあったかしら、と考えを巡らせながら、おたきは久方ぶりに装った。


 芝居は、昼から夕刻までの部を見ることにした。
 夜まで見てもいいが、娘たちに言っておかなかったし、ここのところ、家にばかりいた夫もおたきも、長丁場はやや心もとなかった。
 たまのぜいたくの芝居見物であっても、席は桟敷席ではなく、狭い土間の席である。
 なるべく人に押されぬところへと思っていたが、次第に人が入り始め、座る場所は狭くなる。
「おたき、もうちょっとこっちが空いているから」と夫がおたきを気遣う。
 おたきはふと、おふみから聞いた正座を思い出した。
「正座をする時は背筋を伸ばして、脇はしめるか、軽く開くくらい。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度で。手は太もものつけ根と膝の間で、下駄の鼻緒のようなかたちで膝に向けて指先が内側へ向くように膝に置く。足の親指同士が離れぬように。穿いているものは広げずにお尻の下に敷いて」
 おたきは、背筋を伸ばし、おように聞いた通り口にし、正座をした。
 場所が広くなったわけではないが、手狭な感じはしない。
 夫にも、同じようにするように言ってみた。
 後ろの人を気にするほど、夫は背が高いわけではないので、背筋を伸ばしても、なんら困る者はいない。
「おにいさん、おねえさん、ちゃんと座ってくれるから、隣にいるこっちは助かるよ」と声をかけられ、後ろからも「こっちもおかげで座りやすい」と、芝居を見ながら食べる稲荷寿司や菓子まで分けてもらった。
 やがて芝居が始まり、おたきは夫とともに大きな拍手で舞台の役者を迎えたのであった。


 毎日不満なく過ごしていたおたきだったが、やはり芝居に行けば、何やら心が軽く、晴れやかになる。
「また来よう」と夫は言った。
 いつもなら、「もう十分ですよ。勿体ないですから」と言うおたきだが、今回は「ええ」と答えた。
 夕餉までは少し時間があった。
 夫と歩いていると、一軒の陶器店があった。
「ちょっと入ってもいいですか」とおたきが尋ね、「ああ、構わんよ」と夫は頷く。
「ごめんください。まだいいですか」と声をかけて、暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」と奥から声がした。
 たまたま入った店だったが、美しい焼き物が並んでいて、おたきはそのひとつひとつに心引かれた。
 安く売っている茶碗を手に、そろそろ娘たちに新しいものを、と思い、まあ、それはまた今度、と戻す。
 そうして、奥の台にある茶碗を見る。
 豪奢な絵柄ではないが、描かれた小花と、手に取るととても軽く、触り心地のよい茶碗に、ああ、これがいい、とおたきは思った。
 すぐに買い求めようとし、ふと気づけば、それは一回り小さな同じ絵柄の夫婦茶碗であった。それでは駄目だわ、と一度思ったものの、おたきはこの夫婦茶碗を指し、「これをください」と声をかけた。
「はい、ただ今」と、店主と思しき翁が出て来た。
「こちら、いいでしょう。見たところ、そんなに派手さはないんですけどね、使うと、その良さにどんどん引かれていく作だと思うんですよ」
「ええ、本当に」
「ご夫婦でお遣いに?」と尋ねられ、「いえ、お祝いに贈りたいので」とおたきは答え、木の箱に入れてもらった。
 店を出て、夫が「あれはまだ、独り身じゃなかったか」と訊いた。
 誰に買うとも言わなかったが、夫はこの茶碗を誰におたきが買い求めたか、承知していたようだった。そのためかどうかわからぬが、ちょっと値の張るその夫婦茶碗を買う際、夫が後ろから財布を開け、勘定を済ませてくれた。
「ええ、でも、そのうち二つ必要になるでしょう。もう、いい人はいるようですから」とおたきは答えた。
 夫のお弟子さんと、娘の友達のおようちゃんとが、相思の仲であることにおたきは結構以前から気づいていた。
 現在おようちゃんはお武家様のところへ奉公に行ってしまって、うちを出たお弟子さんは寂れた小さな家で一人住まい。
 完全に別の道を進んだかのように見えた二人だが、先日このお弟子さんが初めて出した作に登場する娘は、知る人が読めばおようのことだとわかり、話の筋はおようへの想いであった。さらりとした文体と、人物の優しい描写から、そこそこの評判である。
 お弟子さんの作を読んだ夫は、驚きもせず、淡々と戯作の出来について評していた。いつ、気づいたのかは、おたきにもわからぬが、それに関して匂わせるようなことも一切口にしていない。
 おたきもそれは同じだが、夫の方ではおたきが知っていて黙っていることにも気づいていたのかも知れぬ。
「いい方にいってくれればいいが、こればっかりはわからないもんだ」と夫は言う。
「ええ、本当に」とおたきは頷いた。
「でも、あれだ」
「え?」
「また、座敷から転がって、茶碗を割った時用に、ふたつ贈る、という理屈でも、なかなかに気が利いているじゃあないか」
 おたきは周囲に気づかれぬように、夫の尻をつねった。
「いてっ」と背を浮かす夫に、おたきは涼し気な顔で「さあ、夕餉には何を買って帰りましょう」と訊く。
 暮れ始めた町並みに、あちこちからおいしそうな匂いが漂っている。

あわせて読みたい