[404]お江戸正座39


タイトル:お江戸正座39
掲載日:2026/03/18

シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:39

著者:虹海 美野

あらすじ:
瀬太郎は諏訪理田陶器店の息子である。手習いを終え、最近は教養のため、お父ちゃんとともに香道や茶道の席に顔を出している。
ある日、料亭で行われた顔合わせの席で、呉服屋の大旦那と瀬太郎は出会う。
気難しそうな大旦那が苦手だと思っていた瀬太郎だが、その後、店の前で転んだ大旦那を背負い、医師の元へ連れて行った。
すると後日、大旦那が瀬太郎を訪ね、店にやって来た。そこで瀬太郎は、大旦那の子どもの頃の話を聞き……。

本文

当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。

1

 瀬太郎(せたろう)は、諏訪理田陶器店の息子である。瀬太郎の家は、お父ちゃんが茶葉を扱う諏訪理田屋の息子で、お父ちゃんはそこの次男であった。長男の伯父が諏訪理田屋を継ぎ、次男のお父ちゃんが暖簾分けをしてもらい、陶器店を開いた。三男の叔父は諏訪理田屋の支店を出し、茶葉を扱う店を商い、四男から六男までの叔父は婿養子に入り、七男の叔父は諏訪理田という名の戯作者である。
 そんなお父ちゃんの兄弟のことを瀬太郎はのんびり考えていたが、今は香道の帰りであった。
 諏訪理田屋陶器店は瀬太郎が継ぐ予定だから、お父ちゃんはお商売仲間や、近所の親しい人との集まりに時折瀬太郎を連れて行く。酒の席に連れて行くことがないので、大概が茶道か香道である。訪問用の着物をお父ちゃんは瀬太郎に誂え、新しい足袋を用意し、瀬太郎を伴って出かける。瀬太郎はまだ十三だから、背丈が伸びる。裾や袖をお母ちゃんが出してくれるが、それでも、すぐに着られなくなる。お父ちゃんは、瀬太郎の成長を喜び、「お前は、お父ちゃんと違って、しっかりした体格で、身体も丈夫だ。着物の新調のし甲斐があるな」と、嫌な顔をせず、気持ちよく、新しい反物を選び、着物を用意してくれる。
 お母ちゃんは、お父ちゃんがいない時、瀬太郎の着物を仕立てながら、「本当にお父ちゃんはいい人で、お母ちゃんは運がいい。大切な子どもに着せるもの、食べさせるもの、そういうものに、お父ちゃんはお金が云々と一度も言ったことがない」と言う。
「それは、お母ちゃんが、わがままを言わないからでしょう」と、妹のおとせが言う。
 確かにそうかも知れない、と瀬太郎は思う。
 世間では、着道楽、という趣向もあって、あれも、これも、と着物を求める人もいると聞く。
 だが、お母ちゃんはそういうことがない。
 そうして、お父ちゃんは、折を見ては、家族の着物を誂えるように言い、足袋や下駄も、「そろそろ買い時だ」と、買いに行こうと促す。
 そういう時、お母ちゃんは「ありがとうございます」と、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直におろし、脇は閉めるか軽く開く程度、太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座し、丁寧に座礼する。そうして、それはしつけというより、お母ちゃん自らがそうするのを見て育った瀬太郎、おとせも同じようにするのが、この家での決まりのようであった。
 おそらく、お父ちゃんが威張らず、優しいのは、お母ちゃんがつつましく、感謝を忘れぬ人柄だからだ。
 つまり、瀬太郎は、思いやり、敬う夫婦の元に生まれ育った、というわけである。
 そうして、お父ちゃんはおとせにはお琴やお針のお稽古に通わせ、瀬太郎には、教養として、茶や香の席に連れて行く。
 今日も瀬太郎は香道で、雅な座敷で余所行きの着物に新しい足袋で、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直におろし、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座し、馳せ参じた。
 身なり整え、きちんと正座をすれば、そこそこに品位は保たれる。
 瀬太郎は鼻がきく方なのか、結構香道で褒められる。こういう時、お父ちゃんは、舌の鋭い料理屋のお母ちゃんの家に似たからだろうか、と臆面もなく、皆の前で言う。
 今日と前回の茶道は、商い仲間ではなく、ご近所の仲間で、医師の先生や、剣術道場の師、料亭の旦那といった顔ぶれであった。
 瀬太郎の香道の筋がよいことを、皆褒めてくれた後に、剣術道場の師には、瀬太郎の骨格がしっかりしていることを褒められた。体格に恵まれていて、筋が良さそうだ、と。確か、お母ちゃんの方の祖父の兄弟は、遠路より、定期的に江戸へ出てきてお商売をする人で、かなりの健脚であると聞く。これも、お母ちゃん譲りということか。そういう素質が瀬太郎にも受け継がれているのだろうか。お父ちゃんは、お母ちゃんに似ていると思われる瀬太郎を恥ずかしげもなく、誇らしい面持ちで、「これはうちのに似まして、算術も得意だし、根性もあります」と、堂々と褒める。
 お父ちゃんが、お母ちゃんや瀬太郎、おとせを人前で褒めるのは、もうこの界隈では有名で、茶化す者もいない。十三になる瀬太郎は、そろそろやめてほしいと内心思うが、こうやって、人前で家族を褒められるお父ちゃんの人柄というのが、とても尊いとも思うようになってきていた。


 香道から十日ほどしたこの日は、前回ご一緒した料亭の旦那が、昼食にと、店に皆を招待してくださった。瀬太郎はまだ子どもだからと遠慮したが、せっかく茶道、香道で会ったご縁、それに若い人がいる方が、食事の席も楽しかろう、と誘ってくださった。この日、前回の茶道、香道は、腰の調子がよろしくない、と欠席だった呉服屋の大旦那もいらした。
 お父ちゃんとともに、席に着いた瀬太郎は、前回のような、緊張感がありつつも、和気あいあいとしたのを想定していた。だが、この呉服屋の大旦那の存在が場の空気を支配していると感じた。
 店先で集まった面々は、気さくにあいさつし、店に入った。
 今回招待してくださった、料亭の旦那が迎えてくれ、広い座敷を貸し切って、この旦那を含めての賑やかな席になる。
 「ああ、この前はどうも」とか、「瀬太郎、また背が伸びたんじゃあないかい?」とか、「前にできたあの大きなお店、旦那さんも、お内儀さんも気さくで情のある人だったねえ」、「ああ、あれはただ運がよくお商売が成功したんじゃあない。努力を重ねた結果だろうね」、「見習いたいもんだ」、なんていうふうに、瀬太郎のことも話の輪に入れつつ、噂話なんかをする。前に行った茶道の時同様で、続いて十日前の香道、そうしてこの食事会に於いても同じ顔ぶれ、同じ雰囲気である。今日の食事会もこのまま、そんな雰囲気になるであろうと瀬太郎は思っていたのだ。
 ところが……。
 呉服屋の大旦那がいらっしゃると、つと、会話が止んだ。
 大層よいお召し物で、悠然と座敷に入って来た呉服屋の大旦那は、黙って上座についた。
「お体の方はどうですか」と、剣術道場の師が尋ねれば、厳しい形相を崩し、「ああ、もうすっかりいいですよ」と笑う。
 医師や料亭の旦那ともあいさつを交わした後、瀬太郎のお父ちゃんが「こちら、初めてお目にかかります、長男の瀬太郎です」と、瀬太郎を紹介した。
 瀬太郎は慌てて、「よろしくお願いします」と座礼した。
「よろしくお願いします」と、返したこのご高齢の大旦那が何を思っているのか、瀬太郎にはわからなかった。
 食事の席では、小さな器に盛った、さまざまな料理が膳に並び、運ばれて来た。子どもの頃からこんな贅沢をしていいのかしら、と瀬太郎が思うと、お父ちゃんが、お運びの人に「これと同じものを、包めるものだけでよいので、二人分、帰りに詰めてもらえますか」と小声で頼んでいた。
 お母ちゃんとおとせの分だろう。
 お父ちゃんは、出先でもおいしいものに出会うと、できる限り、土産にしてお母ちゃんとおとせにも食べさせたいと思うようだ。
「諏訪理田屋さんは、ご家族の仲もよろしくて、安泰ですな」と、医師が笑う。
「せっかくこんなにおいしいものをいただいたのなら、是非とも、うちで店番をしている妻と、稽古に通っている娘にもと思いましてね」
 お父ちゃんは照れることなく、そう言う。
 この店の旦那は「ありがとうございます、今後もご贔屓に」とにこやかに返す。
 瀬太郎はその横で、ずっと呉服屋の大旦那の存在が気にかかり、大人しくしていた。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直におろし、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座する。
「どうした、瀬太郎。いくら食べてもおなかが空く年だろう。どんどん食べろ」と、剣術道場の師が言う。瀬太郎からすると緊張する場でも、さすが剣術道場の師ともなれば、肚が据わるのか、くつろいで酒を飲んでいる。
 ああ、お商売をしていくということは、こういう席でも慣れていかないといけないものなのかも知れない、と瀬太郎は内心ため息をついた。


 季節が初夏になり、雨が降って肌寒くなったかと思えば、真夏のように暑い日が続いたりという時期になった。
 この日、昼時を過ぎた頃、お父ちゃんはお母ちゃんとともに、お母ちゃんの実家の料理屋へ顔を出しに行っていた。昼餉をいただき、夕餉用のお菜を詰めてもらって帰ってくるのが、いつもの習慣だ。お父ちゃんが言うには、お母ちゃんの方の祖父母にとって、お母ちゃんは、うちのおとせと同じようにかわいくて、まだ幼い娘のように思っているのだから、定期的に会いに行かせるのだとかで、こういう日は、おとせの手習いのための弁当のほかに、瀬太郎にも昼餉を用意してくれる。お母ちゃんは、瀬太郎も一緒に行こうと言ってくれるが、なんとなく、お父ちゃんはお母ちゃんと二人で出かける日がほしいみたいだし、こっちもお商売のことをもう学んでいるのだから、こういう時くらい店番でもして役に立とう、親孝行しよう、と思うから、断っていた。
 店番というのも、瀬太郎にとっては、店に一人きりでいて、お客がくれば相手をするということが、ある種乙なものであった。
 そろそろおとせが帰ってきて、この店番一人の時間も終わりかと思った頃、おとせが、「兄ちゃん」と、通りから呼んだ。
 なんだ、と出てみると、店の少し前のところで、先日会った呉服屋の大旦那が転んでいる。
 おとせがどうにか、大旦那を支えているが、大旦那の草履は片方が脱げ、けがもしている様子である。
「どうしました!」
 瀬太郎はすぐさま駆け寄り、大旦那を支えるのを、おとせから代わった。
 おとせが大旦那の草履を拾う。
 近くにはぬかるみがあり、これを避けたところで、転んだ様子である。
 瀬太郎は、「おとせ、大旦那の草履を貸して」と言い、それを片方の手でまとめて持つと、「ちょっとの辛抱です。先生のところへ行きましょう」と大旦那を背負った。
 腰にぐっとくる重さはあったが、背負えないほどではない。
「ちょっと、店を頼む」と、瀬太郎はおとせに言づける。
「うん」と、心配そうにおとせが頷く。
「大丈夫だ、歩ける」と、大旦那は言うが、背負った視線の先にある細い大旦那の手もけがをしているのが見て取れる。
 痛いだろうに、意地っ張りな爺さんだ、と思う。
「歩ける元気があるうちに、先生のところへ行きましょう」と瀬太郎は返す。
「生意気を言いおって」
「私も、生意気が言えるうちに、先生のところへ急ぎますよ」と瀬太郎は返し、先日の料亭で同席した医師の家へ向かった。


 医師の家の縁側では、なんとも呑気というか、医師と剣術道場の師が茶を飲んでいた。
 まあ、急患がいないのは助かった。
「おい、諏訪理田屋の瀬太郎じゃあないか。どうしたっていうんだ」と、先に気づいた剣術道場の師が腰を浮かせ、事態を察すると、「よくここまで頑張ったな」と、瀬太郎を労い、そっと瀬太郎の背から大旦那を抱え上げると、「大旦那がけがだ」と、医師に声をかける。
「どうなさった」
「道でぬかぬみを避けて、転んだみたいです」と、瀬太郎が伝える。
「さあさあ、こっちへ」と、医師は大旦那を抱えた剣術道場の師を促し、「瀬太郎、ご苦労だったな。ちょっと休んで行きなさい」と瀬太郎に伝えると、「そっちにけが人が行くからな」と奥の座敷に声をかけた。
 やれやれ、と瀬太郎が帰ろうとすると、「ちょっと休んでおいきなさいな」と、医師のお内儀さんが、縁側に面した座敷に促す。
 いえ、帰ります、と言う前に、お内儀さんは行ってしまった。
 困ったなあ、と思いながら、瀬太郎は縁側の沓脱(くつぬぎ)に大旦那の草履と自分の草履を揃え、座敷に上がった。
 気づけば、この湿気の多い時期、大旦那を背負った肩から腰は汗でびっしりと濡れていた。
 風通しのよい座敷に、新緑と土の混じった匂いが届く。
 庭木や花の鮮やかな色を見つめ、瀬太郎はゆっくりと正座した。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は閉めるか軽く開く程度、肘は垂直におろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬようにする。
 医師のお内儀さんが、「どうぞ」と麦湯の入った盆を持ってやって来る。
「ありがとうございます」と会釈する瀬太郎に、「今、剣術の先生も来ますから」と言い、麦湯の入った湯呑を二つ置いて、先ほど医師と師が使っていた湯呑を下げて、戻って行った。
「おう、瀬太郎、ご苦労だったなあ」と、剣術の師がお内儀さんと入れ違いに座敷に来た。
「大旦那は?」
「ああ、骨の方は大丈夫だそうだ。瀬太郎がすぐに連れてきてくれたから、けがの治療も時間を置かずにできるし、無理して歩いて来なかったおかげで、転んで痛めたところもひどくなっていない。傷には膏薬、打ち身に効く飲み薬を使って、しばらく安静にしときゃあ治るってさ」
 ほっとし、瀬太郎は麦湯をいただいた。
 喉が渇いていた、と気づいた。
「ああ、大旦那が瀬太郎にくれぐれもよろしくって」
「はあ」と、瀬太郎はあいまいに頷いた。
 その様子を察した師は、「とっつきにくい爺さんだろう」と笑った。
 そんなにはっきり言うもんだろうか、と瀬太郎は師を見る。
「この前の食事会の時には、ずいぶんくつろいで、平気そうだったじゃあないですか」
「ああ?」と、師は首を傾け、麦湯を飲む。
「そりゃあ、せっかくの高級料亭での会合。こっちが硬くなってると、相手もやりづらかろう。仮に肚の中では緊張してたって、なんでもないって顔して、楽しむのも、まあ、大人になったら多少は必要だ。特に瀬太郎んちみたいに、人付き合いが大事な家の子はな。それに、気難しそうに見えるけど、肚の中はきれいなお人だ。ずるいところが全くない。正直すぎるっていうか、取り繕わないのが玉に瑕っていうかね。今は悠々隠居生活だが、あれでも昔は、呉服店の大番頭まで上り詰めた、お商売の鑑みたいな人だったって話だけどねえ」
 ああ、それでお父ちゃんは私をあちこちに連れて行くのか。
 そうして、それを周囲の大人も受け入れてくれるのか……。
 瀬太郎は、いろいろなことに合点がいった。
 そうして、人を深く知る、ということや、付き合いの浅い人とのやり取りを、身をもって知ることもまた学びだと気づく。
「それに、今日みたいなことがあった時にも、一度でも同席したことがあれば、助けやすいですね」と、瀬太郎が言うと、「お前さんは、よくできた子だ。お父ちゃんのしつけの賜物だな」と言う。
「ありがとうございます」と瀬太郎が言うと、逆に師が照れたのか、「お前さんじゃあねえ。お父ちゃんの方を褒めたんだ」と、剣術道場の師は返したのだった。


 大旦那の件から、ひと月ほどが経った。
 まだ十三の瀬太郎は、お商売のことを学ぶほかにも、時折手習いで一緒だった友達に会うこともあるし、川開きや、潮干狩りなんかもあって、すっかり大旦那のことも忘れていた。
 だから、ごめんください、と大旦那が店の手代を連れてやって来た時には驚いた。
 ちょうど店じまいする頃を見計らって、大旦那は来た様子であった。
 お構いなく、座敷と瀬太郎を借りたい、と言う。
 戸惑うお父ちゃん、お母ちゃん、おとせをよそに、さっさと上がり込んだ大旦那は、瀬太郎が座敷に入ると、ぴしゃりと襖を閉めた。
 ……一体なんなのか。
 この前、強引に背負ったことへの苦情でも伝えに来たのか。
 ……ありうる。
 この爺さんなら。
 仕方ない、これもまた学び、というのかも知れない。
 聞くか。
 あんまり長くかからないといいけどなあ……。
 瀬太郎は背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直におろし、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士向き合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座する。さすがに夏に突然の訪問者となれば、足袋は履いていないが、まあ、そこは大目に見てほしいものだ。
 畳の目を見ていると、「うん、さすがに日ごろ旦那と、茶や香を嗜むだけあって、行儀がいいな」と、大旦那が言った。
「ありがとうございます」と座礼し、顔を上げる。
 ……これは、なんだい?
 大旦那がこれから言わんとすることに、検討をつけて覚悟していた瀬太郎は、内心首を傾げる。
「ちょっと立ってみなさい」
 はあ、と瀬太郎は立ち上がった。
 座敷には、次々と反物が並べられていく。
「好きなものを選びなさい」
「え?」と、瀬太郎は反物を見やる。
 大旦那が咳払いする。
「これからの季節に着るものだから、少し大きめに仕立てた方がよかろう」
「あの、これはどういう……」
 大旦那は、瀬太郎の前で居住まいを正した。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直におろし、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座し、手をつき、「この前は、ありがとうございました。おかげで今、こうしてどこも痛みを感じず、歩けるようになりました」と言う。
 誰に向かって言っているのか、わかるまで、少し時間がかかった。
 瀬太郎は「やめてください。大旦那。私はちょっと背をお貸ししただけですよ」と慌て、大旦那の前にしゃがむ。
「その『ちょっと』が、相手にとってどれほど大きなことか」と、大旦那は顔を上げ、穏やかに笑った。
 そうして、瀬太郎に立つように再度言い、手代に反物を瀬太郎の肩にかけるよう指示し、大旦那が見立てを始める。
「私は、手習いもそこそこに、奉公に出た。家にあまり余裕がなくてね。兄弟も多いし、お父ちゃんもお母ちゃんも、それなりにかわいがって、気にかけてくれたが、忙しくて、子どもの着るもののほつれだとか、丈だとかまで、手が回らない。そのせいか、元からかはわからないが、人一倍、私は着物への関心が高かった。だから、奉公先が大きな呉服屋に決まった時には、本当に嬉しかった。もちろん、入ったばかりの奉公人は、美しい反物を触らせてもらえない。掃除とかね、その家の子のお守りとかね、そういうのが仕事だ。それでも、全然辛くなかった。そうやって、頑張って、頑張って、ひたすらに歯を食いしばったら、大番頭になって、店の婿養子にしてもらえて、気づけば、若旦那、旦那、今じゃあ、大旦那だ」
 前半の話は知らなかったが、後半は少し剣術道場の師に聞いた話であった。
 瀬太郎は時折、「はい」と相槌を打つ。
「もうすっかり、贅沢が許されるようになったけどね、奉公先でお仕着せを用意してもらって嬉しかった時のことは、今でも覚えている」
「はい」
「この前は、初夏にと仕立てた着物で出かけた折に、ぬかるみで裾を汚したくなくて、それを避けたら、あの有様だ。けがをして、人の世話になって、どうしようもないと反省したが、どうにもね……。子どもの頃からの記憶というのはね……」
「はい」
 それこそ、着道楽などし放題であろう、大きな呉服屋の大旦那が一枚の着物の汚れを恐れ、けがをしたというは、まだ十三の瀬太郎にも、心にしみた。
「ああ、これなんか、どうだろうか。少し渋みもあるが、なかなか似合う」
 瀬太郎にかけた反物を手に、大旦那が頷く。
 なるほど、さすが、呉服屋の大旦那である。
 これまで瀬太郎が仕立ててもらった着物とは、一味違う。
 いいな、と思う。
 これを着て、秋の江戸を歩いたら、さぞ楽しかろう……。
 だが……。
「あの、今度、着物を仕立ててもらう折には、このような反物にいたします」
「ん?」と、大旦那が首をかしげる。
「今日、見立てていただいただけで、十分です。とてもとても、それ以上をいただくわけにはございません」
「さすが、ここの旦那と、妻のおつぎさんの人柄を受け継いでいる息子だな」と、大旦那は、優しく笑った。
「気が引けるなら、今度会う時には、お前さんの話でもしてくれないか。建前の話じゃあない。どういうもんを旨いと思うか、どこへ遊びに行ったか、そういうなんでもない話だ。そういう話が、このくらいの年になると、なかなか面白い」
「……はあ」
 私の話なんか、一文にもならないけどね。
 お父ちゃんの弟の戯作者だったら、話にもそれなりに価値があるだろうけど……。
 ただ、大旦那が譲らぬことも、瀬太郎には、この案をのむよりないことはわかっている。
 なんだか恐れ多い気もするが、お言葉に甘えることにした。
「それでは、とびきりの、いつもの、建前でないお話を、今度お会いした時のために考えておきます」と瀬太郎は返した。
「ああ、楽しみにしている」と、大旦那は満足げに頷いた。
 そうして、襖の方を見やり、「もう、入って来なさいな」と声をかけた。
 すすす、と襖が開き、気まずそうなお父ちゃんとおとせが顔を出した。
 お母ちゃんは、茶を載せた盆を手に困った顔をしている。
 大旦那はおとせに手招きし、別の反物を出した。
「私の見立てだが、よかったら受け取っておくれ。この前は、大勢が歩いて行く中で、お前さんがすぐに駆け寄ってくれた。なかなかできることじゃあない。これも、おつぎさんの性分が、自然と受け継がれているんだろうねえ」
 そんな、とおとせは困惑し、「どうしよう」と、お父ちゃんを見る。
「大旦那、さっきから、おつぎのおかげで、うちの子どもらがいい子に育ったようなことばっかり……。そりゃあないですよ」と、お父ちゃんが笑顔で言う。
「なあに、お前さんほど、毎回言っているわけでもあるまいに。ひがみなさんな。ほれ、おつぎさんが好きだと言っていた店の菓子だ」と、お父ちゃんに渡す。
「あれもこれも、ご用意いただきまして。遠慮なくいただきます」
 お父ちゃんは、おとせを促し、廊下にお父ちゃん、おとせ、お母ちゃんが背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直におろし、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座し、座礼した。
 大旦那は「邪魔したな」と言い、お母ちゃんが脇に置いた盆の茶を飲み干すと、飄々と出て行った。


 秋の始まりに、「ごめんください」と、瀬太郎は呉服屋の大旦那を訪ねる。もう、かれこれ、数回は顔を出している。
 最初は反物のお礼に、店で扱っている湯飲み茶わんと菓子を持参した。そこで大旦那に、「碁はできるか」と訊かれ、首を横に振ったが、「やっているうちに覚える」と、半ば強引な誘いで、碁盤の向かいに座った。
 それから、折を見て、大旦那を訪ねるようになった。
 今日は叔父の店で扱う、日ごろの足腰の痛みを和らげる薬と、茶葉を扱う諏訪理田屋本店の方で扱う茶葉を持参している。
「大旦那がお待ちかねですよ」と、番頭が迎えてくれる。
「おお、似合うじゃあないか」と、碁盤を前にして待っていた大旦那が、以前見立て贈ってくれた着物の瀬太郎を見て、顔をほころばせる。
 瀬太郎は「はい、ありがとうございます」と言い、促され、碁盤の前に座る。背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直におろし、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、正座する。
 すぐに用意された茶を飲み、大旦那が「最近はどうだ」と訊く。
「はい。今月より、剣術道場の門下生にしていただきました」と、瀬太郎は答える。香や茶の席で一緒になる、あの剣術道場の師に誘われてのことである。
「そうか。お前さんの体格を偉く褒めていたな。私を背負った時も、しっかりした足取りだった」
「はい」
「そうすると、お前さん、忙しくなるんじゃあないか」
 大旦那が碁盤に目を落とす振りをして、視線を逸らす。
「それほどでもありません。大旦那のところへは、今まで通り、押しかけて、囲碁のご指南をしていただきますよ」
 瀬太郎がそう返すと、「欲張りなやつだな」と大旦那は目を上げて、子どものように嬉しそうに笑った。

おすすめ