[425]転がってきた渾天儀


タイトル:転がってきた渾天儀
掲載日:2026/08/21

シリーズ名:渾天儀シリーズ
シリーズ番号:1

著者:海道 遠

あらすじ:
 大正時代の農村地帯。谷川で6歳の女の子、思結(しゆい)が金属の輪っかが何重にもなった丸いものを拾った。
『今、住んでいるのが地球っていう星。外側に火星があって、外側に木星があって太陽系というんだ』
 父ちゃんが話してくれるのと同じ世界の模型みたいなので、ふところに入れて大切にしていた。
 農作業が終わる時、書生さんが畦道に待っていて、正座の所作を教えてくれた。自分が出入りする教授宅へ行ってほしいと言う。そのお宅には大きな渾天儀があった。



本文

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第一章 金色の輪っか

 ある日、山の中で少女が谷川のせせらぎから、金属が重なって丸くなった金ピカな物を見つけた。
「きれい……」
 何に使う道具だか分からない。指先で転がしてあらゆる方向から見てみる。
 周りの輪っかには龍がついていて、真ん中は空洞だ。
 少女、思結(しゆい)は6歳。
(龍だよね、これ? トカゲじゃないよね?)
 なんとなく天を表しているのが分かった。真ん中に青い珠があるのは地球だろう。地球が丸いというのも、住んでいるところが「地球」だということも、父ちゃんから教えてもらった。
 太陽や月なども探しだすと止まらない。手のひらで転がる大きさなのに、どこから覗いても見つからない。
(もしかしたら周りの龍が飲み込んでしまったのかな?)
 不思議なことに、少女が外から正座して見た時だけすべての星が見える。
 時々、父ちゃんに話してもらう話と同じ世界だ。
『今、住んでいるのが地球っていう星。その外側に火星があって、その外側に木星があって、遠くの星も回っていて太陽系というんだ。星の散歩道というか……。そして太陽系みたいなのをいくつもいくつも含んだ渦みたいな星のかたまりが、遠くにもいっぱいあるんだ。遠くの遠くにも数えきれないくらい、いっぱい、いっぱい……』
 星々の世界の広大さは想像できないながら、少女は強く惹かれた。

 少女は想像する「星の散歩道」の美しさに酔いしれる。太陽は力の根源を。月は癒やしを。赤い火星は闘志を。
「これが我らの住む太陽系という、星の散歩道だ」
 声がして振り向くと、黒髪が長めの学生さんの格好をした綺麗なおにいさんが立っていた。
「だあれ?」
「失敬、失敬。驚かせたかな」
 少女は首を振った。
「さあ、もう一度、正座してから空を見上げてごらん。背筋を真っ直ぐにして、膝をつき、衣のお尻に手を添えて、かかとのくぼみにお座り。―――ほうら、正座が出来た!」
「本当だ、正座で座れた!」
 正座してから拾った金色の輪っかを見ると、あっと言う間に大きくなった。
「ひぇっ、どうして?」
 少女の身体が入るくらいの大きさだ。
 好奇心のカタマリの少女はさっそく入ってみる。輪っかの底には平たい場所があって、少女はまたその場所で正座した。

「渾天儀の中でも正座したのかい?」
 輪っかの外から、さっきの学生が尋ねた。
「渾天儀?」
「その金色の輪っかの重なった物の名前だよ。渾天儀っていうんだ」
「ふうん、渾天儀……。ゆっくり座って、中から星や輪っかを眺めたくなったの」
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「しゆい。透河思結(とおか しゆい)」
「しゆいちゃんか。綺麗な名前だね」
「おにいちゃんの名前は?」
「オモダカっていうんだ」
「オモダカ? 名字? 名前?」
「ただのオモダカ」

第二章 思結の家

 思結は、夜道を山から里へ伝い下りた。
 何度も、オモダカっていう学生さんが、
「送っていこう」
 って言ったけど、首を振った。
「いいの。しゆい、ひとりで帰る」
 藁葺(わらぶき)の農家に帰った。かなり壁が薄く、軒も低いあばら家だった。

「書き方」や簡単な「そろばんの使い方」は父ちゃんが教えてくれたが、6歳だが、小学校へは行かせてもらえない。
 お金がないし、弟のトヨ坊はまだ赤ん坊だから子守もしなきゃならないからだ。仕方ないことと諦めている。
 その代わり、父ちゃんも母ちゃんも優しい。
 中でも、父ちゃんから知らない話を聞くことが思結のいちばんの楽しみだった。
 父ちゃんは行儀作法に詳しくて、食事の時は家族皆に、正座させた。できるだけしびれない方法も教えてくれた。
 村の役場の作業も手伝っている。帳簿付けとか、書道の腕とか見込まれて。

 そっと上がり込む。家族は皆、床についていた。
 父ちゃんのいびきが響いている。
 母ちゃんは弟におっぱいをくわえさせたまま、夢の中だ。夢と言えば、夕暮れに山で出会った学生さんも、谷川で拾った金色の丸いのも、夢の中の出来事のようだ。
 でも、金色の珠は握ったままだ。ちゃんと龍が2匹ついている。
「夢じゃなかったんだ……」
 ふところに仕舞った。
 オモダカっていう学生さんの笑顔が思い出された。
(素敵なおにいさんだったな……。また、会えるかな?)

第三章 お招き

 ある秋の日、思結の家族が稲刈り作業を終え、畦道で片付けものをしていると、この前の「オモダカ」という学生さんが待っていた。
「思結ちゃん」
「あの時の学生さん!」
 思結は畦道で転びそうになりながら、登っていった。
「僕は大学教授の書生をしていてね、上手に正座できる女の子を知っていますって奥さまに言ったら、連れていらっしゃいって」
 向こうの幅広い道には、豪華な着物の女性がにこやかに待っている。
「教授のお宅には書斎にかなり大きい渾天儀がある。それも見せてくださるそうだよ」
「本当?」
 思結は、父親を振り返った。
「大学教授というと、笹岡先生とこだな」
 母親が、
「こんなドロのついた着物のまま、よそのお宅にお邪魔するなんて、とんでもありませんよ」
「じゃあ、着替えてからだったらいいの?」
 思結が聞き返すと、父親は、
「そうだな。お招きされたんだから、行かなきゃ失礼になるだろう」
 お許しが出た!
 思結は、バンザイしたい気分でオモダカさんに走り寄った。
「着替えてから、伺います!」
「そうか。待ってるよ」

第四章 教授のお屋敷

 翌日、思結は笹岡教授のお宅に、母親に付き添われて伺った。
 いつも遠くから眺めているだけの、入るには縁のない青い屋根の大きな洋風の屋敷だ。
 なんと、奥さまが玄関に迎えてくださった。
「いらっしゃい。思結ちゃん、お母さま。お忙しい中、よくいらしてくださいましたわね」
 とても優しそうな奥さまだ。なんて綺麗な着物だろう。
「書生のオモダカくんが、お嬢ちゃんの正座がとても素晴らしいと言うのでお招きしました」
「この子の正座がですか?」
 母親はきょとんとしている。
 思結は客間に迎えられた。ふかふかの絨毯の上に、お客様用の椅子が並べてあって、本がズラリと並べられた本棚の奥には大きな『渾天儀』がある。
 洋間の床に、思結はちょこんと可愛らしく正座した。
「まあ、本当、お嬢ちゃんはちゃんと正座ができるのね」
「でしょう。所作もちゃんとできています」
 連れてきた「オモダカ」は自慢する。
 日頃から行儀作法に厳しい奥さまに褒めてもらったので、ご機嫌だ。
 大きな渾天儀は真鍮で作られており、金ピカではなかったが、天井の高い洋間にやっと収まる大きさだ。
 もう一度、しげしげと渾天儀を眺めた思結は、渾天儀に足をかけた。
 母親が慌てて止める。
「何をするの、思結! 失礼にも教授先生の研究用具の中に入るなんて」
 さっさと渾天儀の中に入ってしまった。
「まあまあ、お母さん、思結ちゃんの好きにさせてあげましょう」
 教授が引き留め、一同は思結を見守った。

第五章 大人サイズ

 渾天儀を内側から見回す思結は、みるみる身体が大きくなって底の丸い板に乗り、背筋を真っ直ぐ伸ばし、膝を着き、衣に手を添えてお尻の下に敷き、かかとの上に座った。
 パチパチパチ……と渾天儀の外から、オモダカさんが拍手した。
「渾天儀の中でも、美しい正座が出来たじゃないか。今の君は、大人になってるよ」
「えっ?」
 足元を見ると、思結の下半身は大人サイズだ。
「いつの間に……」
(あれれ……あたい、どうしちゃったのかしら? 女学校に通う庄屋さんのお姉さんみたいなハカマ履いてるわ。髪の毛も三つ編みにしてるし)
 とたんに、さっきまでニコニコしていた教授の奥さまが、少し厳しい口調で言った。
「思結さん、何してらっしゃるの、女学校に遅れてしまいますよ!」
(え、女学校? 小学校も行ってないのに?)
「思結ちゃん! ボクが自転車でお送りします! 今日は教授がいらっしゃらないのでお車がないのです!」
「え? 自転車? 車? 何のこと? 教授はさっきまでいらっしゃったのに?」
 うろたえる思結の腕を引っ張っていくのは、書生のオモダカくんだ。
「さ、玄関に自転車がありますから、乗って!」
 言われるままに、玄関を出るとオモダカくんがいち早く自転車にまたがっている。
「さあ、早く後ろに乗って!」
 必死で後ろの席にまたがった。
(怖い! 自転車なんて乗ったことないようっ)
「行くよ!」
 オモダカくんが、遠慮なく出発して坂をぐんぐん降りていく。
 知らない間に、思結は自転車の荷台に正座しているではないか。

第六章 初の自転車

(怖い、怖い、怖い〜〜!)
 オモダカくんの背中にしがみついた。
「大丈夫ですよ! いつも女学校まで自転車でお送りする時はこの乗り方で落ちたことないじゃないですか!」
 元気よく言うオモダカくんは、余裕の笑顔だ。
「そんなあっ!」
(自転車なんて乗ったことないよ! 自転車の荷台で正座したことも!)
(母ちゃん! 母ちゃんはどこ?)
 どこを見ても母親はいない。
(オモダカくんも奥さまもさっきのままで、身体がデカくなっちゃったのは私だけ?)

 キキキ〜〜〜!
 滑りこみで女学校に到着した。
 分厚いメガネをかけた、厳しそうな女の先生が黒い鉄の校門を閉めようとしている。
 門柱には「星合女学校」と銅板がくっつけられている。
「思結さんっ! 遅刻寸前です! それに自転車で送ってもらうのは校則違反だと申してますのにっ! 荷台に正座するのも危ないと申していますでしょ! それも女学生が書生さんに送っていただくなんて、はしたないったら!」
 眉間にシワを寄せて叫ぶ女の先生のキンキン声の大きいこと。

第七章 荒療治

 校門を入るとひとりの女生徒が、髪の大きなりぼんをひらひらさせて駆けよってきた。
「ちょっと、思結ちゃん! あんたが二人乗りで登校したから、上々(ガミガミ)女史がヒステリー起こしたじゃないの」
 小学校で同じ組になるはずのすずみちゃんだった。女学生の身長になっている。
「また、荒療治して治めることになりそうね」
「荒療治って?」
「あなたとオモダカくんが考えついた荒療治よ。忘れたの?」
「? ―――? ―――?」
 オモダカくんが、
「あれだろ、全校生徒で二人乗りするっていうアレ」
 片目をつぶって言った。
「全校生徒で二人乗りですって?」
 思結は思わず叫んだ。
「そんな無茶なこと! 怪我人が出たら、停学処分や退学処分が出るかもしれないわ!」
 オモダカくんが、人差し指をチッチッチッと揺らせた。
「世の中、お前みたいな運動オンチの人ばっかりじゃ無いんだ」
 オモダカくんが憎々し気に言い、

「通学路で二人乗り禁止は仕方ないとしても、普通に自転車に乗ることでさえ許可されないのよ、この女学校は!」
 すずみちゃんが息巻いて言った。
「最近、世の中では自転車は当たり前の交通手段になってきているのに遅れてると思わない? 思結ちゃん!」
 思結は圧倒されて聞いていた。
(すずみちゃんて、こんなに気が強い子じゃなかったのに……何かあったのかしら? 髪も断髪だし……)
「とにかく、ガミガミ女史のヒステリーを治めるために、今日の昼休みに決行するわ! 全校生徒の二人乗りを!」
「おう、やるのか、頑張れよ!」
(オモダカさんとすずみちゃんは知り合いみたいね。いつの間にか……)
 思結は呆気に取られて聞いていた。

第八章 校長先生

「透河さんっ! 校長室にいらっしゃい!」
 校舎の入り口で、上々先生がイライラしながら叫んだ。
「ほうら、ガミガミ先生がお呼びだ」
 オモダカさんが茶化した。
「しっかり叱られてきてねえ〜〜」
「すずみちゃんまでっ」
 ふたりに見送られて、思結は重い足を引きずって校舎に向かった。

 思結にとっては初めて入る校舎だが、何故か校長室の場所はすぐに分かった。
 ピカピカの木製の扉をノックして入ると、窓際の大きな机から、洋装の婦人が立ち上がった。
(校長先生って、男性かと思ったら……)
 束髪という髪を結った、優しい眼差しの女性の先生だ。
 机の上に『校長 悠園(ゆうえん)』と書いた札が置いてある。
(なんて優雅な女性なんだろう……)
 思結を見ると、大きく肩でため息をついた。
「透河さん、あなた、またやらかしたのね」
「ハイッ! 女生徒にも自転車を! の訴えのため!」
 思結の口が勝手に答えた。
(あれ? 私ってこんなに生意気だった?)
 ガミガミ先生がそら来た! とばかりに、
「まったく……二人乗りは危ないと何度、注意すればよろしいの? それも男子学生とふたりでですよ! こんな風に背中にぺったりくっついて! きゃ――! ぺったりくっついてだなんてはしたない! 校長先生、今日こそは厳罰に処してください」
 ガミガミ先生が真っ赤になりながら言った。

第九章 アメンボのように

「それにしても、思結さん、あなたの平衡感覚も大したものね、自転車の荷台で正座できるとは」
「校長先生、私だけじゃありませんよ、ご覧ください!」
 またまた自覚しないうちに、思結はカーテンを勢いよくシャーッと開けた。
 ガミガミ先生が、喉の奥から悲鳴をあげた。
 カーテンの外の校庭には、自転車に二人乗りをした男子学生と女生徒がアメンボのように走り回っていたのだ。
「まあ、皆さん、本当に平衡感覚がよろしいこと。ちゃんと美しい正座をしたまま、荷台に乗ってらっしゃるわ」
「校長先生、感心してらっしゃる場合ではありません! じゃじゃ馬女子校と思われてしまいます!」
 ガミガミ先生は急いで校庭へ走っていった。
 紙を丸めたメガホンで、
「皆さん、直ちに二人乗りは止めなさ〜〜い! 男子学生はすぐに出ておいきなさ〜い!」
 自転車で二人乗りしていた生徒たちは、一瞬、自転車を止めたが、ガミガミ先生が息継ぎのために黙ると、また校庭を走りはじめた。

 その横を悠園校長先生がすり抜けてきて、ひとりの男子を呼び止めた。
「私も荷台で正座して乗せてくださる? できるか、やってみたいの」
「ええっ?」
 声をかけられた学生たちはもちろん、思結もガミガミ先生も驚きのあまり固まった。校長先生はハカマに履きかえている。

第十章 校長の挑戦

 悠園校長先生が、よっこらしょと袴の足でまたぎ、荷台の上に正座した。
「はい、座ったわよ、出発してちょうだい」
「は、はい」
 男子学生は、ちょっと緊張しながらペダルを踏みはじめた。
「重っ……」
「なんですって? 頑張って!」
 自転車はゆっくり動きはじめ、校庭を一周……するところでバランスを崩して、ふたりと自転車はバーンと横倒しになった。
「校長先生!」
 男子学生が慌てて校長先生に手を貸し、彼女は起き上がった。
「お怪我はありませんか!」
「ええ。大丈夫。ふう……やっぱり若い人みたいなわけにはいかないわねぇ」
 思結も駆けよった。
「悔しいけど……。やっぱり誰でもかれでも荷台に正座することが無理なのよ! 正座してもお作法にも何もならないわ」
「思結さんの言う通りね。でも、あなたの正座はとても美しいわ。どなたかお師匠さんに習ったの?」
「誰からも……、父ちゃん……父から教えられただけです」
「そう。所作を最初から拝見してみたいわ。教室で見せてくださらない?」
 あれよあれよと言う間に、思結は空いていた教室に連れて行かれた。
「所作と言っても簡単なものですよ」
 思結は教壇にたった。
「背筋をピンとして立ちます。そして膝をつき―――衣に手を添えてお尻の下に敷きながら、かかとを開き気味にして内側に座ります」
「なるほど……理にかなった座り方ね」
 校長先生は何度もうなずいた。そして生徒たちに、
「きれいな正座ができても自転車の荷台に座ることは、やはり禁止します。危険ですからね」
 女生徒たちは、ふくれっ面でうなだれた。
「せっかく男子学生の後ろからつかまるチャンスだったのに……」
 誰かが小声で洩らした。機敏に聞き取った校長先生が、
「男子生徒なら誰でもいいってわけではないはずです。女の子ひとりひとりに合ったお相手が、この空の下のどこかにいらっしゃるはず。その方との出逢いを待っていてください。会えたら、お好きなだけ二人乗りなされば?」
(へえ、校長先生って意外にもロマンチストだわ……)
 すずみちゃんが言い、思結もそう思った。「ロマンチスト」という言葉が理解できた。

第十一章 地響き

「思結さん、お宅のお父様はお母様に正座の所作をお教えになったのかしら?」
 校長先生が尋ねる。
「さあ、わかりませんが、母は行儀作法に関してはあまりできる方ではありませんので、よく父に叱られています」
「お父様はお役所のお仕事などをよく手伝われている知識人でいらっしゃるとお聞きしています。そのうちお会いしてみたいとお伝えください」
「は、はあ」
 女学校の生徒が教室に帰り、ガミガミ先生がやっと静かになった。
 オモダカくんが自転車を引いて家路につく時には、思結は6歳の少女に戻っていた。ふところを探ると、ピンポン玉より少し小さい金色の輪っかの珠が入っている。
 取り出して、夕陽に透かして覗いてみた。
 紫の衣をまとった麗しい女性が美しい正座をして落ち着いている姿が見えた。
(校長先生の正座の姿を見たからかな? 違うわ、校長先生じゃないな。――もしかして、私の姿?)

 数日後、悠園校長先生が思結の家に来られた。
「まあまあ、こんなあばら家にようこそおいでくださいました」
「おじゃまいたします」
 母ちゃんも緊張して、今日はよそ行きの一張羅の着物を着ている。
 家じゅうでいちばん小ぎれいな座布団をお出しすると、校長先生は遠慮しながら敷いて、美しい正座をした。
「今日は、ご主人さまは……」
「朝、散歩に行くと言って出て行ったままですが、そのうち戻ってくると思います。申し訳ありませんねえ」
 母ちゃんと一緒に頭を下げたが、校長先生には、今の思結は6歳にしか見えていないようで、不思議で仕方がない。

 どどどどど……。
「何の音?」
 地響きみたいな音が身体に感じられてきた。
「裏山から?」
「そうだ、裏山からだ! 崩れた?」
「雨も降ってないのに?」
 どどどど……は、だんだん、どっどっどと重い音になってくる。
 裏口から覗いてみると、金ピカの丸い輪っかのでかいのが山道を転がってくるではないか!
 その先頭に、父ちゃんも転がるように駆け下りてくる。
「わ~~~! 思結! 母ちゃん! そこをどけッ! ぶつかるぅ~~~!」
「きゃ~~!」
 8畳間くらいの球体が転がってきて、赤ん坊のトヨ坊をおぶったままの母ちゃんが中に巻きこまれた。
「母ちゃ~~ん!」
 次に、思結が巻きこまれた。

第十二章 谷川から湧く

 球体と共に、ごろんごろんと転がっていく。
 思結は頭や肩や肘や膝を打ちまくった。トヨ坊はねんねこ(防寒用の半纏)でおぶわれていたので頭に直撃してないだろう、なんて心配しながら転がされていった。

 一番でかい球体が家に迫った時、急に止まった。
 思結が球体の中で一回転して見てみると、家の前でオモダカくんが正座して、背中で行く手を塞いでいるではないか。
 球体は思結と母ちゃんと弟を乗せているので、かなり重いだろうにオモダカくんは背中で支えたまま、小刻みに震えている。
 そのうち、父ちゃんが駆け下りてきて、オモダカくんと並んで地面に正座して、渾天儀に背中を向けた。
「私も!」
 という声がして、家の表から校長先生が回ってきてオモダカくんの横に正座した。
 3人で渾天儀を支えている。
「思結さん、今のうちにそっと抜け出るのよ!」
 校長先生が叫び、思結はそっと片足を渾天儀から抜いて、身体も抜け出した。
「母ちゃん!」
 母親にも手を貸し、トヨ坊にケガをさせないよう脱出に成功させた。
 思結も両親も、やっと下りられたが、回転した後なので目が回ってしまっている。
 それでもホッとして力を抜いた。母親の結っていた髪はざんばらになっている。
 とたん!
 また渾天儀がひとりでに動き出して、家の壁にぶつかった。思結はもう一度、渾天儀に飛び乗った。
「思結! 何をするっ!」
 父親とオモダカくんと校長先生が渾天儀を支える間に、思結は渾天儀の中を四つん這いで移動して、やっと正座した。
 重さの比重がうまく取れた点で、渾天儀はやっと止まった。同時に、校長先生が渾天儀の真正面に駆け出て、正座した。そして片方の手のひらをかざした。
「止まれ~~~いっ!」
 校長先生の迫力いっぱいの号令が響き、その声を理解したように渾天儀は止まった。
「はあ、止まった……」
「思結さん、球体の中ででも美しい正座ができてるわよ」
 校長先生が褒めてくれたが、すぐに家の壁の修理をしなければならなかった。
 父親をオモダカくんが手伝ってくれて、夕方までに壁は応急処置ができた。
「いったい、何だったの……」
 母親がげっそり疲れて洩らした。
「それだ!」
 父親が、思結の持っている小さな渾天儀を指さして叫んだ。
「その小さな渾天儀が、谷川にたくさん湧いて出るように転がっていて、ひとつを手に取って見ていると急に巨大になって転がり始めたんだ」
 訳が分からず、一同は呆然とした。

第十三章 渾天儀の人格

 渾天儀はやっと止まった。家の軒先がかなり壊れてしまった。
「やれやれ、修理せにゃならんな」
 父ちゃんが、渾天儀を手で支えながら立ち上がった。
「やれやれって、いったいどうしてこんなことになったんですか?」
 母ちゃんが弟のトヨ坊をおぶったまま、よろけながら立ち上がった。
「だから~~、説明しただろう。谷川に小さな渾天儀がいっぱい群れててよお、こんな珍しい光景は滅多に見られんわ! と言って眺めてたら、急に1個が巨大化して転がってきたんだ」
「まった、そんな真っ赤なウソを! 輪っかの球が勝手にでっかくなって転がるはずないだろ、あんた!」
「本当だよ、な、オモダカくん?」
 傍らにいたオモダカくんも、ウンウンとうなずいた。
「まるでサワガニが群れるみたいにいっぱいいたんだ。それが……ボクたちの気配に気づいたみたいに、急に1個がデカくなって追いかけてきたんだよ」
「私が見つけた時は1個だけだったよ」
 思結が言った。
「何にせよ、よくぞ止めたな、思結!」
「父ちゃんが教えてくれたおかげかも?」
「だって、あたいが2歳くらいから正座を教えてくれたでしょう」
「まあ、2歳くらいから?」
 校長先生が瞳をイキイキさせて振り向く。
「あの所作正しい正座をお父様が!」
 父ちゃんが照れながら、
「いやいや、手のひらの念力で山道を転がってくる渾天儀を止めた校長先生の方がすごいですよ」
「とっさのことで懸命でした。おうちを壊してもいけないし、渾天儀を加害者にもしてなるものか! と思いまして……」
「まるで人間扱いですなぁ」
「人間……そう。私は渾天儀に人格があるように思えてならないんです」
 校長先生は、大真面目な顔だ。
「へえ~」
「渾天儀にねぇ」

 女学校の校門でチリンチリンと音がして、女生徒たちが振り向くと、大きな自転車のようなものがやってきた。
 後部に屋根付きで二人分座席があり、その両側に車輪、運転席は前にあり車輪がついている。校長先生が運転してきた。
 後部座席には、なんと、ガミガミ先生とオモダカくんが乗っている。
「お高いから、借りてきただけですが」
「ちゃんと正座できますよ。ベルトがついていて落ちることもありませんよね? ガミガミ先生」
 オモダカくんが笑顔で言った。
 ガミガミ先生は怪訝な顔をして、
「ま、これなら安心でしょう。しかし、お値段の面でこれが買えるご家庭はあまりないと思いますが」
「理想の正座できる自転車ってことで。今日は皆さんに見ていただくだけですが」
 校長先生は逞しくペダルを踏んで、校門の中に入って行った。

 その後ろをガシャガシャと音をさせて、真鍮の大きい渾天儀がゆっくりついていくではないか!
「渾天儀って、正座に惹かれるのかしら?」
 すずみちゃんが思結の横に来て、
「もしかして、校長先生が渾天儀の親分なのかも?」
「渾天儀が校長先生を慕っていることは確かね……」
 思結は、ふところの小さい渾天儀を指で回しながら洩らした。