[431]鬼哭(きこく)龍、現る


タイトル:鬼哭(きこく)龍、現る
掲載日:2026/10/03

シリーズ名:渾天儀シリーズ
シリーズ番号:4

著者:海道 遠

あらすじ:
 思結は、ある日、養女となった笹岡教授宅で、渾天儀の女神の護衛を務めている緋色冠者に会い、「私がお前の真の父親だ」と知らされる。思結は小さな渾天儀から生まれた命だと言うのだ。
 ――三年後、思結は都会の助産婦学校を卒業して、都会の駅から正座して乗ってきたが、毎日のように正座しているからシビレずに済んだ。
 車両内で産気づいた若い女性がいた。



本文

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第一章 渾天儀いっぱい

 笹岡教授のお宅に養女に行って、1年が過ぎた。
 あたいは、朝、学校へ行く前に実家に寄って洗濯だけは、やってから登校する。
 教授がお手伝いさんを貸してくれていたが、何もかも手伝ってもらうのは気がひけるので、せめて家族の洗濯物は自分でやることにしたのだった。
 それに、ひとり分の家事は寂しいから――。洗濯だけでも弟ふたりや、父ちゃん、母ちゃんとつながっている気がする。
 ある日、大量の洗濯物を、洗濯イタを使ってゴシゴシ洗い終えて物干し場に行くと、物干し竿に手毬くらいの渾天儀がいくつもぶら下がって場所を占領しているではないか。
 驚くことに渾天儀には意志があり、いたずらされていることはお見通しなのだ。わざと竿を斜めにしてやると、ぶら下げられていた渾天儀が、次々にガシャンガシャンと落ちて、
(うわ〜ん!)
 みたいに泣きながら、そのまま地面を跳ねていく。
 可愛いもんだ。
 ちゃんと家の隅にでも置いて、飾ってやるとおとなしいんだけど。
 そしてまた性懲りもなく、次の日には物干し竿を使おうとすると、ぶら下がって揺れている。

 夕方など、子どもたちが地面に転がっている小さな渾天儀をビー玉みたいに指で弾いて遊んでいる。
 あたいは首飾りにしている渾天儀をふところから引っ張って、まじまじ見た。
(なんだか、数が多いな。いったいどこから湧いて出るのかしら……)

 翌日、こういうことに詳しいすずみちゃんに尋ねてみると、ほっぺを赤くして、
「思結ちゃん、渾天儀の小さいのは、円環女さまの子どもなのよ! 沢山生まれてるってことは……」
 ちょっと言葉を詰まらせた。
「ん?」
「とにかく、円環女の女神さまは護衛の緋色冠者と心を通い合わせ、深く慈しまれていらっしゃるのよ」
「ふうん?」
「渾天儀はおふたりの愛の結晶ですもん」
「愛の結晶……?」
「円環女さまの心が満たされていると、渾天儀の赤ちゃんはどんどん生まれるのよ」
「おふたりの心が満たされない時は……?」
「渾天儀が敵に襲われた時でしょう」
 すずみちゃんは意外なことを言い出した。
「渾天儀の敵―――? それは何―――?」
「それとか星の異変とか……。もしかすると、鬼哭(きこく)龍が現れたのかもしれないわ」
「鬼哭龍――それは何?」
 言葉のひびきから、嫌な感じがする。
「渾天儀の天敵と言っていいと思うわ。渾天儀を襲って、大きな凶暴な口で噛み砕いてしまう龍と、それを操る妖魔の男のことよ」
「噛み砕いてしまうですって? とんでもないわ!」
 そんな恐ろしい妖魔がやってきて、平穏な日々が乱されませんように。

第二章 ウメ吉先生の苦難

 女学校の帰りに、すずみちゃんと一緒にウメ吉先生の産院によってみると、産院で産まれた月足らずの赤ちゃんの命が危ないという。
 分娩室(ぶんべんしつ=赤ちゃんが産まれる部屋)では、赤ちゃんの救命措置が懸命に行われた。
 あたいも助産婦になった時、そういうことも覚悟しておかなきゃならないだろう。

 ウメ吉先生は何度も経験しているに違いない。だのに、すずみちゃんが驚くべきことを言った。
「渾天儀の緋色冠者がウメ吉先生の心痛を受けて、心に暗黒が流れこんだわ」
「ここでどうして、緋色冠者さんの名前が唐突に出てくるの?」
 あたいは、すずみちゃんの瞳を見つめた。
「ウメ吉先生は何があっても、他の患者さんには笑顔で接しなきゃならないから、嘆くのを我慢しているでしょうけど、その分、緋色冠者が嘆き悲しんでいるのよ」
「ウメ吉先生と緋色冠者さんはどういうご関係なの?」
「あたいにも、はっきりと分からないけど、同じ心の波動を持っているみたい……」
 あたいは混乱した。
 ふたりはどういうつながりがあるのか?

 でも、聞いたかぎりはじっとしていられない。
 あたいはすぐに、笹岡教授のお宅に走っていった。客間の渾天儀の前へ駆けつけて、息を切らしながら正座した。
 そして、心をこめて渾天儀に祈った。
「どうか、赤ちゃんの命が助かって、ウメ吉先生と緋色冠者さんが元気と希望を取り戻されますように……」

第三章 緋色冠者の声

 何度かお祈りを胸の内で言った。
『来たか……、娘よ……』
 重厚な声が渾天儀から聞こえた。
「あなたは……緋色冠者……? 渾天儀の女神といつも一緒にいるという緋色冠者さんでは?」
『いかにも。私は緋色と申す。円環女さまをお護りする者でお前の父親でもある』
「えっ! 父親ですって?」
 あたいは思わず息を飲んで渾天儀を見た。中心に黄色い珠が光って輪っかの球が浮いている。
「あたいの父ちゃんは畑を耕して、お米を作っているわ。時々、宇宙の話をしてくれる平凡な父ちゃんよ」
 すると、緋色冠者さんの声が、
『それは人間界の父親だ。私はお前の命の源の父親である』
「じゃ、育ててくれたのは実の父ちゃんじゃないってこと?」
『お前は、円環女さまと私の間に産まれた小さな渾天儀のうちのひと粒だ。それ、首に飾っている抜け殻が、お前の入っていた卵とも呼ぶべき渾天儀だ』
「あたいが、渾天儀から生まれた―――? この小さな渾天儀から?」
 あたいは首飾りにしている小さな渾天儀をつまんで、手のひらの上に置いた。
『だからこそ、私の嘆きを感じ取れたのであろう。若造の医者の嘆きと同時にな』
「それは、ウメ吉先生のこと……?」
『先ほど、赤ん坊の命が危うくなったのは渾天儀を憎む鬼哭龍と、それを操る男の怨念のせいだ。新生児の命を危険にさらし、渾天儀の力を弱らせようと目論んでいる。渾天儀の力が弱まれば、若造の医者の心も弱らせることができる。それほど若造医者は渾天儀を信じて、日々、健やかな赤ん坊を誕生させ、育てることに邁進(まいしん)している』
「ウメ吉先生の熱心なお心は分かりますが、鬼哭龍というのは?」
『若造医者を一方的に憎み、渾天儀を狂わせ、人間に誤った情報をもたらす悪魔の龍だ』
「なんてこと……! ウメ吉先生に害をなすなんて、あたいが許さないわ!」
『思結……お前になら、鬼哭龍に対抗することができそうだ。若造医者はお前に絶大な信頼を置いている様子だからな』
 突然、渾天儀の周りに激しい風が起こった。
「きゃあああぁ~~っ!」
 部屋の机の上にあった紙や本、置物は吹き飛び、花瓶は倒れ、窓が音を立てて開いた。
 窓の外には暗闇が満ち、冷たい黄色の眼光が睨んでいるではないか。
『思結、あれが鬼哭龍だ!』
 渾天儀の中からさっきの声が聞こえた。
 黒い鱗の龍がのたうち、暗闇から獰猛な姿を見せた。なんと邪悪な姿だろう。
『思結よ、憎め! 憎むがよい。鬼哭龍を!』
 風はますます激しくなる。

 背後の扉が開き、飛び込んできたのは――。
 ウメ吉先生だ。渾天儀とあたいの間に立ちはだかった。
「思結! 耳をふさげ! お前を闘いに巻き込む者の言うことを聞くな! たとえ父親であっても。他者を憎む教えを信じてはならない」
「ウメ吉先生!」
 先生は広い胸で覆い、あたいを抱きしめた。
「赤ん坊はギリギリ助かった。心臓はしっかり鼓動を打っている。もう大丈夫だ。だから、鬼哭龍とやらを憎まなくてよい」
 風が突然、止んだ。
 窓の外は明るくなり、黄色い龍の眼は消えてしまった。
 渾天儀の中の緋色冠者さんの気配もふっつりとどこかへ行った。
「緋色冠者よ。穢れを知らない思結を苦しめないでやってくれ!」
 ウメ吉先生が叫んだが、緋色冠者さんからの答えは無かった。
 床に散らばった本や花瓶の花の中で、あたいはウメ吉先生の消毒液の匂いのする割烹着に包まれて、じっと抱きしめられていた。
「怖かった……、先生っ!」
「緋色冠者の言葉も、鬼哭龍の言葉も聞かなくていい! お前は苦しまなくていいんだ」
 静かな空間に返った部屋に、扉がノックされてオモダカくんが入ってきた。
「嵐が過ぎ去ったけど、大丈夫かい?」
 産院の助産婦さんと看護婦さんが電話してきた。
「さすが、ウメ吉先生ですわ! 不吉な嵐が去りました! 赤ちゃんは危険を脱しましたよ!」
「さすが『梅の花言葉』のとおり、『気品』と『高潔』『忍耐』『厳かな心』の持ち主ですね!」
「『優美』『艶やかさ』もあるわよ」
 助産婦さんと看護婦さんは、受話器を取り合って花言葉を並べた。
「『優美』『艶やかさ』まるで女性向きですね」
「だって、先生は中身の美しさをそのまま表した美貌の持ち主ですものね」
「ま、待った、それくらいにしてくれ。また後で。留守中、頼むよ」
 先生が照れて、電話を切った。

第四章 魚の卵

 オモダカくんが、香り高い紅茶を淹れてくれた。
「おふたりともこれでも飲んで温まって。落ち着くよ」
 笹岡ご夫婦のお気に入りの英国のティーカップのセットだ。ウメ吉先生がカップを持ち上げ、ひと口味わった。
「うむ。おいしい。身体じゅうに沁みわたる」
 あたいも飲もうとしたが、カップに歯がカチカチ当たって、まだ震えが止まらない。
 それに……両側にウメ吉先生と、オモダカくんに座られていると、落ち着かない。
 ふたりから、あたいのことが大切だという思いがどっと流れてくる。それは有難いことなんだけど……。
 ふたりの火花も感じてしまう。
「思結、渾天儀に向かって正座してお祈りしたのが通じたんだな。赤ちゃんとウメ吉先生が無事で良かったな」
「オモダカくんこそ、自転車を貸してくれてありがとう。もう少し遅かったら、鬼哭龍か、緋色冠者に思結を奪われてしまったかもしれない」
 ウメ吉先生とオモダカくんは、表面上の礼を言い合った。
「あたいの父親はいったい誰なの? 渾天儀の女神の護衛を務めている緋色冠者って人が、あたいの父親だって言ってたわ……」
 あたいはティーカップを置いた。
「思結の父さんは、村で働いている父さんひとりだよ。緋色冠者の子どもは魚の子どもみたいなもんだ。うじゃうじゃ生まれるだけで、ひとりずつ区別がつかないくらいいっぱいさ」
「オモダカくんたら! 人を魚の卵ですって……!」
 あたいはふくれた。
「魚の卵はよかったな」
 ウメ吉先生は少し笑ってから、
「いくらたくさんいても、思結ちゃんは特別なひとつの命だよ。女神と緋色冠者が真剣に愛して生まれた子だもの」
「ウメ吉先生はすべてのことをご存知なんですね」
「うむ……」
 ウメ吉先生は座り直した。
「数年前、山歩きをしていた時に、湧き水の中に光るものを見つけた。輪っかの重なった小さな渾天儀だった。それが君だよ、思結ちゃん」
「じゃ、母ちゃんからあたいを取り上げてくださったっていうのは……」
「すまん。いきなり山の泉から拾ってきた子だなんて言っても信じられんだろう」
 あたいの瞳から涙があふれた。
「じゃ、あたいは、父ちゃんと母ちゃんとは血のつながった親子じゃないのですね」
「それがどうしたっていうんだ。ご両親はたっぷり愛情をかけて育ててくれただろう。弟もふたり産んでくれたし」
「はい……。はい……」
 あたいは再び、ふところから渾天儀のぶら下がった首飾りを引っぱり出した。
「これはあたいの卵の殻じゃなかったの? 緋色冠者がそう言ったけど……」
「それは、俺の入っていた卵の殻だ」
 オモダカくんの言葉に飛び上がりそうになった。
「じゃ、オモダカくんとあたいは兄弟ってこと?」
「魚の卵ほどたくさんあるから、どれがどれだか分かんないけどな」
「じゃあ、これはオモダカくんが持っていた方がいいわ」
 オモダカくんの首に渾天儀の首飾りをかけた。
 急に、母ちゃんの作ってくれる「筋子の煮つけ」が食べたくなった。教授のお宅からの帰りにうちに寄ることにした。
「じゃ、俺が先に自転車で畑に寄って、知らせてくる。思結が久しぶりにうちでご飯食べますって!」
 オモダカくんが張り切ってお屋敷を飛び出し、自転車で矢のように畦道を遠ざかっていくのが見えた。

第五章 帰郷

 3年の月日が流れた――。
 車掌さんが車両に入ってくるや、独特の抑揚で、
「次は、梅林~~~、梅林~~~」
 懐かしい駅の名前を言った。
 もうすぐ故郷の駅に汽車が到着する。
「帰ってきたわ! もうすぐ父ちゃんと母ちゃんに会える!」
 助産婦学校を卒業して都会から帰ってきたのだ。故郷は3年ぶりになる。
 トヨ坊は小学校1年、ハヤ坊はそのひとつ下だから6歳になっているはずだ。ハヤ坊の下に生まれたキジ坊と来夜美(こよみ)の双子は3歳になるはずだが、まだ会ったことがない。
 あたいは、都会の駅から正座して乗ってきた席から下りて膝を伸ばした。毎日のように正座しているから、都会から数時間乗ってきたが、シビレずに済んだ。
 席がひとつ空いていたので座ることができた。年度変わりがもうすぐなので混んでいるかと思ったら、そうでもない。
 斜向かいに座っている、あたいと同じくらいの女の子はかなり大きなお腹をしている。長い間、汽車に揺られているけど大丈夫なんだろうか。
 目を閉じたまま、汽車に揺られている。
 つい先日まで助産婦学校の研修で、お腹の大きい女性は毎日、見慣れていたけど、少し気になった。

 それより―――、
「お客様、あの金属の珠はお客様のものでしょうか?」
 車掌さんに聞かれて振り向くと――、
 ドッジボールくらいの渾天儀が、席の周りをガシャガシャ言わせながら、転がっていたのだ。
 懐かしい渾天儀だ。都会で勉強している間は、まったく見かけなかった。
「申し訳ありません。私のです。網棚に乗せて紐で縛っておきます」
 しかし、渾天儀はいつの間にか網棚から下りてしまい、客席の間をウロウロしているのだった。
「お客様、どうか他のお客様のお邪魔にならないよう、お願いいたします」
 顔から火が出そうだった。渾天儀はまるでじっとしていないやんちゃ坊主のようだ。
「車掌さん、あのう、これは渾天儀と申しまして、学者さんがこれを見て暦を読み、農作業などに役立てますのよ。ここではお邪魔していますが、平安時代よりもっと昔から、庶民の役に立っておりますの。だから、今日のところは勘弁してやってください」
「いくら暦のことで役に立っても、車内では邪魔にしかならないのですが……」
 車掌さんが何回めかの注意に来た。
「ほら、次の駅で下りるわよ!」
 あたいが言うと、渾天儀はびっくりしたのか、汽車の床で何回か跳ねた。

 同時に、車窓の外側に恐ろしいものを見てしまった。トンネルから出る一瞬前だったが、トンネルの闇の中に、緑色のグネグネとした大きな龍と漆黒の長い衣を着た男を見てしまった。
(あれは! 渾天儀の宿敵『鬼哭龍』! 渾天儀とあたいの気配を嗅ぎつけて、汽車の外にまで迫ってきたのね!)
 とたんにハッとした。鬼哭龍が喜ぶのは、渾天儀が苦しむことだわ。故郷を発つ前のことが思い出された。
 渾天儀が苦しむのは、ウメ吉先生が苦しむこと! 
 つまり……生まれてくる赤ちゃんやお母さんが苦しむことだわ!
 案の定、斜向かいの席に座っていた女の子はお腹を押さえて苦しんでいる。
「大丈夫ですか? 何分かおきに痛みが来ますか?」
「はい……そうみたいです」

第六章 お産

 外は夕暮れで、なんともいえない黄色い空気に染められている。突然、轟音がして、稲妻が車両のすぐ側をかすめた。
「鬼哭龍! 邪魔しないで!」
 あたいの表情が鬼みたいになっていることは、自分でもわかった。
 トランクから膝掛けを出して床に敷いた。車掌さんを捕まえて、
「赤ちゃんが産まれそうなんです! 乗客の方々で毛布をお持ちの方がいらっしゃいましたらお借りできませんか? お尋ねになってみてください!」
「赤ちゃんが産まれそうだって?」
 車掌さんが慌てふためいているだけなので、あたいは車両中に聞こえるように大声で言った。
「皆さん、赤ちゃんが産まれそうなんです。毛布をお持ちの方は貸してくださいませんか。床に敷いたり、毛布を持ったりしてください」
 妊婦の苦しみはますますひどくなる。
「あああっ、痛いっ! 痛いっ! 誰か助けて!」
「妊婦さん、私は助産婦です。免許をもらって故郷に帰る途中なんです。私が赤ちゃんを取り上げてもよろしいですか?」
「早く産ませてください、助産婦さん!」
 妊婦さんは顔をクシャクシャにして叫んだ。
 乗客たちが毛布を持ってきた。
 あたいは内診してどっきりした。逆子だ。実習では見学していただけで実際にお産させた経験はない。
 窓の外で、鬼哭龍が鳴き声を上げた。
「ギャオ〜〜ン」
 難産を喜んでいるのだ。
 あたいは歯を食いしばった。
「鬼哭龍! あんたには負けないわよ。きっと赤ん坊を無事に産ませてみせるわ」
『クックック……』
「渾天儀、ウメ吉先生! あたいに力を貸して!」
 妊婦の周りに毛布が張られた。乗客たちが外から妊婦を励ます。
「赤ちゃん、頑張って〜〜!」
 という声も聞こえる。あたいは無我夢中で妊婦さんに声をかけた。
「お母さん、お口で息をして! そうそう」

 しばらく静寂が来て―――。
「ほ……ぎゃあっっ! ほぎゃあっ!」
 取り上げた温かいものが力強い産声を上げて、夢中でへその緒にはさみを入れた。
 皆から集めた手ぬぐいで新生児の身体を拭いた。聴診器をあてると、健康この上ない心音が聞こえた。
「お母さん、元気な男の子ですよ!」
 毛布の中で力を出し切った新生児の母親は、ぐったりしてうなずいた。
 あたいは、客席に宝物のように赤ちゃんを抱いて正座した。乗客の方が微笑ましく見守ってくださる。
 やがて、車両は懐かしい故郷の駅に滑りこんだ。
 新生児のお母さんは毛布を担架代わりにして、駅員さんに運ばれていった。

第七章 再会

 よれよれになってホームに降り立つと、ウメ吉先生とオモダカくんが迎えに来てくれていた。
「思結!」
 赤ちゃんを産んだ女性を見て、オモダカくんが急いで後を追う。産まれた赤ちゃんは、オモダカくんの子らしい。
「思結ちゃん、汽車の中でお産だったんだって? よくやった!」
「ウメ吉先生……」
 ウメ吉先生の胸に飛びこんだ瞬間、気が遠くなっていった……。

 次に目を覚ましたのは病室だった。白い壁と白いカーテンとウメ吉先生の顔……。
「お帰り、思結ちゃん。背が伸びたね」
 ふわっと、先生の香りに包まれた。
 消毒液と先生の匂いが入り混じった独特の香り……。
 頬を両手で包まれ、先生のまつ毛が触れた。
 先生がそっと離れたとたん、我に返った。
(今のは、先生のまつ毛?)

 渾天儀が照れたように、ガシャガシャ転がりながら、部屋から出ていった。寝台の上に座るとウメ吉先生も隣に座った。
「気分はどう?」
「あたい……夢中でした。赤ちゃんを無事に取り上げようとして……」
「初めてで、それも汽車の中で居合わせただけなのに、よくやったよ」
 褒めてくださっても、さっきのまつ毛の感触が恥ずかしくて、まともに顔を見られない。それでも頑張って先生の足元に正座して、頭を下げた。
「先生にお教えいただいたおかげです」
「赤ちゃんのお母さんはオモダカくんの奥さんでね。都会にある実家に帰っていたんだよ」
「オモダカくんの?」
「そう。彼、1年前に結婚したんだ」
「まあ。なんていうめぐり合わせかしら」
「俺と、君を奪い合う勝負から下りたのさ。オモダカくんが俺に勝てる訳がない」
「先生ったら」
 先生はもう一度、強く抱きしめた。
(溶け合って、ひとつになってしまいそう……)

第八章 鬼哭龍の襲来

 いきなり、真っ暗な外から暗黒のおぞましい龍が窓を突き破って入ってきたと思うと、黄色く光る瞳の男も飛び込んできた。
「思い通りにはさせない、渾天儀め!」
 黒色の龍が渾天儀に巻き付き、今にも破裂しそうに締めあげた。
「何をする、渾天儀は皆の願いを叶えて尊敬されるものだ!」
 ウメ吉先生があたいを背中に隠しながら、言い返した。
「それが気に入らぬのよ」
 黄色く光る瞳の男が忌々しげに吐いた。
 渾天儀を締め付けて、グニャリとさせた龍が、今度は先生の身体に巻き付いた。
「ううっ、苦しい!」
「ウメ吉先生!」
「思結、逃げろ! 俺はどうなってもいい!」
「先生〜〜!」
 病室は暗闇に閉ざされ、先生に巻き付く龍の鱗だけが不気味に光った。
 あたいは黒色の龍のしっぽにすがりついた。それを抱いたまま、正座して合掌する。
「先生を離してください。離しなさい! 先生を必要としている人々が沢山いらっしゃるのよ!」
「おのれ、渾天儀を崇拝する者らめ!」
 鬼哭龍のしっぽがあたいの首に巻きついて締めつける。
 目の前に赤いものが現れたと思うと、正座して合掌した。
「あなたは、緋色冠者さん!」
 あたいの首を締め付ける龍と合掌する緋色冠者さんの力が拮抗(きっこう)しているのが伝わってくる。
 緋色冠者さんの緋色の衣がビリビリに裂かれていく。
 どこから?
 分からないけど、細かい渾天儀の粒が、大粒の雨のようにかなりの勢いで降ってきた。
「私の娘、思結の幸せを邪魔する者は許しません! さっさと諦めて退散しなさい!」
 神々しい女性の声と共に、白い壁に紫色の影が映った。
 首を絞めつける鬼哭龍の力が弱くなった。
「円環女さま……、あたいを守りに来てくださったのね」
 渾天儀が願いを叶えてくれたらしい。

第九章 平和な朝

 翌朝、昨夜の悪夢のような鬼哭龍の襲来がウソのように晴れ上がったお天気だった。
 父ちゃんと母ちゃんと兄弟たちが、笹岡教授の車で送ってもらって、病院にやってきた。
「思結、お帰り。助産婦学校の卒業、おめでとう!」
 母ちゃんが一番に言ってくれた。
 初めて会う末っ子のキジ坊と来夜美(こよみ)の双子は、よちよち歩きの年頃だ。あたいが手を出すとふたりとも胸に飛びこんできてくれた。茶色い細い髪の毛から汗の匂いがして愛おしい。
 笹岡教授も奥さまも、あたいの帰りを心から喜んでくれた。
「お帰りなさい、思結ちゃん。さっそく武勇伝を作ってくれて、自慢できるわ。こんな逞しい娘を持って」
 汽車の中でのお産のことをおっしゃっているのだ。
 考えてみれば、あたいには3人も母親がいる。生みの渾天儀の女神、円環女さまと育ての母の母ちゃんと、笹岡教授の養母のお母さんと――。
 教授の奥さんが、いっそう声を弾ませた。
「今度は思結ちゃんがお母さんになる番ね。取り上げ役は、もちろんウメ吉先生で!」
 あたいより、ウメ吉先生の方が顔を真っ赤にした。
 渾天儀が廊下を転がってきて、ウメ吉先生の後ろからワザとぶつかり、茶化したので皆は笑った。

 すずみちゃんは、あたいが実家に帰ってから会いに来てくれた。
「おめでとう、助産婦の資格、いただいたのね!」
「うん。すずみちゃんは女学校の先生になるんですって?」
「うん。もう先生になって3年めよ」
 それから、耳に唇を寄せて、
「渾天儀の女神さまは何ごともなくご健勝。緋色冠者もね。ますます仲睦まじいらしくて、渾天儀が山のあちこちの泉に湧いているらしいわよ」
「喧嘩をすると、鬼哭龍の思うツボ。仲を引き裂くきっかけになってしまうからね」
「喧嘩なんかしそうにないわよ。あちこちに渾天儀がころころ転がっていたり、樹にぶら下がっているのを見ても分かるけどね。二度と鬼哭龍なんか来ないようにしてほしいわ」
 トヨ坊とハヤ坊と、キジ坊と来夜美ちゃんが駆けこんできた。
「母ちゃん、もうお昼だよ。お腹へった~~!」
「あら、本当。もうお昼だわ。母ちゃん、あたいも手伝うわ」
「じゃあ、またね、思結ちゃん」
 すずみちゃんが帰っていった。

第十章 ウメ吉先生の前世

 ある朝、ウメ吉先生の産院へ行くと、先生が先に行って院長室に座っていた。
(どうしたのかな? いつもあたいが先に行って掃除するのに)
 ウメ吉先生はいつになく真剣な表情をしている。やがて、打ち明ける。
「実はね……、前世では、どこかの強大国の渾天儀の中で星の配置を読む天文師で――皇帝陛下に天文密奏する役目だったんだよ。だから、それを妬んで鬼哭龍が地位を奪うべく追ってくるんだ」
「ええっ? すごい! 前世が渾天儀の天文密奏するお役目だなんて」
「申し訳ないな。俺のせいで君まで危険な目に合わせてしまって……」
「先生、よくぞ打ち明けてくださいました。そうと分かったら、これからもっと思いきって鬼哭龍と戦えます! あ、正座して思念を送るという意味ですけどね。負けないように沢山、生まれてくる渾天儀を可愛がって保護してやりましょう」
「む?」
「祈り続けていると、いつか鬼哭龍とも和解できて戦わなくなるかもしれません」
「優しいな、思結ちゃん」
 ウメ吉先生は目尻を下げて蕩けるような顔になった。こういう顔の時はチューされる時だ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね!」
 冷蔵庫から、買っておいた『あいすくりん』を取り出した。
「これ、食べてください」
「あ、ありがとう。君は?」
 扉をそっと閉めてから窓の外に目をやると、樹の枝に渾天儀がひとつぶら下がっているではないか。
「残念でした!」
 あたいはカーテンをシャッと閉めて、ウメ吉先生の膝元に正座した。


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