第19話 今とは違う、昔の畳

掲載日2010/09/07
著者そうな
イラストあんやす
――畳は、やっと庶民の手に届く、身近なものになったのですが、皮肉なことに、そのとたんに需要は急速に減少してしまいます――
 畳といえば、日本の昔話の映像には頻繁に登場する場面が見られる。中でも、人里離れた畑で百姓をしながら貧乏暮らしをしている老夫婦が、「じいさんや、今日の夕飯は奮発して、久しぶりに米でも食べましょう」などと言いながら、3粒程度の米を水の入った釜に入れ、煮込み、ボロボロになった畳の上で慎ましやかに食事をする場面が思い起こされる。なんという貧乏。なんという暮らし。まさに、お涙ちょうだいの物語です。(そんな話ではなかったと思うが)
 ……しかし、私はそんなことを書きたいのではない。話はここからだ。本から抜粋して冒頭に表記した一文を、もう一度読み返してみてほしい。そして、最後まで読み終えたとき、恐らくあなたは思うだろう。「じいさん、ばあさん、その畳、どうやって手に入れた!?」
と……。

「座り方の変遷を見る上で大切なことの一つに、住宅の歴史があります」と、著者はいう。確かに、生活様式が変われば、座り方も変わる。極端な話、地面が固かったり、何の虫がいるか分からなかったりするようなサバンナ生活で正座をする人は、いないに等しいだろう。著者は、その日本の生活様式で特に重要な意味を持つものが、「畳」だと述べている。畳と正座は深く関連していると。
 その本来の畳の使い方について、著者はこう記している。「畳は本来、寝具や、今で言うマットの役割を持っていました」。これを見た瞬間、私は、自宅の和室を一瞥し、畳の上でベッドよろしく跳ね回る子供を想像し、「ウソだぁ~」と思ってしまった。私の記憶上、「イグサの青い良い匂いがする~」と仰向けに寝そべって寝息を立てたはいいが、イグサでキッチリ編まれたその畳は容赦なく固く、数分後には背中を痛めて起き上がった経験しかない。(しかし、畳ベッドも存在するので、現代でも大丈夫な人は大丈夫なのだろう。)
 しかし、それも著者の次の言葉で納得することができた。「当初は、稲の藁を束ねただけでしたが、藁が当たってかゆくなったり痛くなったりしないよう、また藁のクズが出ないよう、徐々に藁束を袋状のゴザの中に収納するようになります」。つまり、これを読む限り、昔の畳と私の知る現代の畳は、かなり作りが違うようなのだ。

 更に、この畳の文化について著者はこう記している。「日本は歴史的に多くの事物や制度を中国や朝鮮半島から取り入れてきましたが、畳は例外の一つといわれます。畳は日本人が独自に考案し、発展させてきたと考えられています。確かに中国や朝鮮半島では、歴史的にも現在も、畳は使われていません」
 これは嬉しい事実だ。アメリカで長く暮らしている友人も、その国に「畳は無い」と言っていた。そして、お隣中国(台湾)においても、やはりそれは無いと聞いた。日本の日常で使っている漢字も、最初は中国から入ってきたものであり、なんだかんだ歴史的には、「古き佳き中国」にお世話になってきた。隣の国であり、尊敬すべき思想家がいた国であり、似たような外見・アジア人であることから、外見・文化の大きく異なるヨーロッパ人より安心して接することができた点もあるのだろうか。
 様々な文化が入ってきた中で、「畳」は紛れもなく日本の産物なのだ。原点を振り返ろうとしても、どこが発祥の地か分からないものが混在する中、胸を張って、印籠のごとく「これぞ、日本文化です!」と言えるものなのだ。どこが発祥の地であろうと、そこから独自に発展させ極めたものであれば、それはもう自国の文化として扱ってもいい気がするが、やはり完全オリジナルというのは、また違った文化の味がある気がして、嬉しいのだ。これだけでも、また一つ、日本が好きになれる。

 さて、昔の敷物といえば畳ばかりが頭をよぎる私の脳内だが、著者は、「鎌倉時代の武家造りまでは、ごく一部を除き、床は板張りであったと考えられています」と記している。板張り……いわゆる、おなじみのフローリングかと思ったが、当時の海外の板張りの床より、クツを脱ぐ文化の日本の方が、板張りの床はツルツルして綺麗だったようだ。
明治初年、囲炉裏のある板間の一部。
 先ほど「鎌倉時代の……」と、本からの抜粋をしたが、著者は「畳が登場するのはずっと以前」だと語っている。それはなぜか? 著者の言葉はこうだった。「たとえば、『古事記』には「皮畳」「絹畳(きぬだたみ)」「菅畳(すがだたみ)」、『万葉集』には、「木綿畳(ゆうだたみ)」「八重畳(やえだたみ)」といった文字が見られます」。「皮畳は毛織の敷物、絹畳は絹織布の敷物、菅畳は菅(すげ)で編んだ敷物、木綿畳は楮(こうぞ)の繊維で作った敷物、八重畳は幾重にも重ねて敷く敷物といった意味です」。「その形状は現在の畳とは異なる点が少なくないでしょうが、それでも今に通じる畳が奈良時代にすでに存在していたことは興味深いことです。これによって、古代の日本では、さまざまな素材の敷物を「畳」と呼んでいたことが分かります」。
 これには驚いた。元来、【厚いイグサの編み物】=【畳】だと思っていたので、その歴史には驚きである。畳と一口にいっても、厚みや柔らかさが様々だったのだ。

 そこから発展して、著者の話は続く。「平安時代には、畳は極めて贅沢な品物になります。厚みは増し、縁の柄と色、材質まで細かく厳選されるようになりました。畳は衣装や帽子と同じく、公家、僧侶の格を表現する手段となり、一般庶民は一枚でも使うことが禁止されていました」。「『源氏物語』のいくつかの場面を絵画化した『源氏物語絵巻』には、板張りの床に畳が置かれ、座具と寝具を兼ね揃えていたことがうかがえます」。
 つまり、昨今流行っている畳ベッドというものは、原点回帰の箇所もあったのだろうか。贅沢品だと言われたら、急に欲しくなってくるのが人の性。人の性といえば、著者は興味深いことを記している。「鎌倉時代の絵巻物『北の天神縁起絵巻』には、長者の屋敷が火事になっている絵があります。屋敷の敷地は大混乱の様子で、畳を抱えて走っている人物の姿も見えます」。「武家などごく一部の上流層のあいだではすでに使われていた畳は、火事になったら真っ先に運び出すほど貴重品であったことがうかがえます」。
 真っ先に畳を運び出す……今となってはその光景は、やかんやまくらを持って走り回ったり、タンスを「火事場の馬鹿力~!」と持ち逃げしたりするような奇怪な行動に見えるが、本気でやっているところを見ると、当時はそれほどまでに高価だったことがうかがえる。畳が富として扱われる時代……。畳より命の方が大切なのは言わずもがなであるが、床が富の象徴であった時代も存在していたのだという証拠でもある。
 ふと、ここで一つ疑問が湧き起こる。何枚もの畳を運ぶのに、いったい何往復したのだろう? 畳様を引っぺがして助けているその間に、人間が助からなかったことなどはないのだろうか? などの疑問である(もっとも、他人より畳だからこその行いなのだろうが)。
 だが、心配ご無用。これについても、著者はバッチリと説明していた。「畳は本来、今のように敷き詰められてはいませんでした。鎌倉時代あたりまでは、一般的には「置き畳」のスタイルでした。置き畳は、その名のとおり床の上に畳を置きます。つまり、常時敷いているものではなく、必要に応じて、ほかのところから運んできて敷くのです。イメージとしては今の布団と同じでしょうか」。
 これで畳の扱われ方や、どうしてすぐに持って逃げられたのかが理解できた。著者いわく、『松崎天神縁起絵巻』には、炉を囲んで置き畳が敷かれている様子が描かれているようだ。そして、その置き畳の上にしとねを敷いて横になる女性の姿が見受けられるという。これは、まさに、軽量型畳ベッドである。※しとね=寝たりすわったりする時の敷物の事。一般的にはふとんの事。
置き畳の上の雛人形
 と、ここまでで置き畳の用途などは分かったが、結局のところ私たちのよく知る和室の畳は、置き畳ではない。いったい、いつからこのようなスタイルになったのだろう? それについても、著者は次のように記している。「移動して使用していた畳が敷き詰められ、固定して使われるようになったのは室町時代と考えられています。すると、その場所は「座敷」と呼ばれるようになりました」。「座敷は本来「畳を敷き詰めた部屋」の意味で、この言葉はもちろん今でも使われています」。今まで、畳を敷くというワードが出てきただけで座敷というイメージで考えていたが、どうやら違うようだ。今の和室の形になったのは、ちょうどこの頃だという。江戸時代ではなく室町時代というところが、私には歴史を深く感じられる気がする。
 話は続く。「この座敷のある家の造りは、書院造りの一つの特徴でもあります。書院造りの基本形態は床の間、明かり障子、天袋、地袋、そして畳などです。この書院造りがのちの和風住宅のもとをなしているのは間違いありません」。歴史の本に出てくるような書院造りが、日本家屋の元になっているなんて、驚きである。日本は、歴史的に見て建国の浅いアメリカ等の国とは違い、比較的長い歴史の上に成り立っている。だから、このようなことが現在の日本人の生活の元であることは沢山あり、おかしくはない。
 だが、なんとなく「書院造りが元だよ」と言われると、何か感慨深いものを感じてしまう。だってそれは、洋風の暮らしを取り入れた現代の生活の中にあるのだ。ふと、家の中を見わたせば、皮張りのソファの部屋の隣には、書院造りの間があるなんて……。これは、書院造りが当たり前に存在していた時代から何年も経った現在に生きる、二十歳前半女性の感想である。
 とまぁ、その書院造りに喜ぶのもさておき、著者は次のように続けている。「桃山時代に完成したといわれる書院造りはしかし、一部の公家や武家、僧侶が使っていた住宅で、庶民にはやはり無縁だったはずです」。やはりここでも、当たり前のように上流階級が先である。しかも、どうやらその理由は屋根の造りにあるらしい。著者はそれを次のように述べている。「当時、庶民の住宅の屋根は藁でできていました。藁葺きの屋根では、雨漏りしがちです。畳も藁でできているため、水に濡れるとすぐにカビが生えたり、腐ったり、時にはキノコが生えたりします。これでは、せっかく畳を敷いても、雨が降るたびに台無しです」

キノコの生えたカビ畳のイラスト
 なんと、キノコが。キノコが生えたなどと聞くと、なんだか可愛らしいような、食糧にでもなるんじゃないかというような気がしてくるが、実際に生えてくるキノコは、もっとオドロオドロしいモノなのだろう。何というか、いやに白かったり灰色だったりするモコモコしたようなイカツイキノコなのだろう。頼んでもいないのに家や風呂場に勝手に生えてくるキノコなど、強かに決まっている。……とまぁ、これは根拠など無い、ただの私の偏見に満ちたキノコ的印象である。何はともあれ、そのような食べられないキノコが「我も、我も」と生えてくるなんて、断固お断りである。
 一方の上流階級の屋根は、瓦でできていたそうだ。雨漏りをしないから、何の問題もなく畳を敷くことができる。それは理にかなっている。と、なると、ますます冒頭の老夫婦が怪しくなってくる。もしかしたら、彼らは、ただ者じゃないのかもしれない……。

 それはさておき、著者は、この桃山時代の住宅は、土間と板間がほとんどだったと述べている。「土間や板間で正座をしたら、痛いのは当たり前です。ということは、少なくとも安土桃山時代までの庶民が日常、正座をしていたとは考えにくい」。本当、そうである。どこでも正座をすりゃぁいいってもんじゃない。凛とした気持ちになれる正座も、場所を間違えれば拷問になる。
 また、著者は、「たとえ畳が敷かれていたからといって、何も好きこのんで痛い思いをするとは、やはり考えにくい。特別な動機づけがない限り、人は苦痛を伴うことをしようとは思わないからです」とも記している。確かに私自身、正座という姿勢は、慣れるまでは決して楽な姿勢ではないと思う。特に、武家や公家は、いちいち痺れていては仕事にならないだろう。人は、いくら物が揃っていても時期が来なくては「そこに山があったから登った」というように単純な理由ではいかないのだろうか。

 身分による畳の使用の制限もあったようだ。「手に入れば誰でも使えるワケじゃないのか?」とも思ってしまうが、それはよくよく畳を見れば分かることであった。著者の本には、こう書いてある。「畳は権力の象徴でもあり、とりわけ縁の材質などで身分や地位を表していた時期もあるようです。たとえば、徳川家康の座っている畳は厚みが十分にあり、縁もいかにも最高級といった感じがします」
 厚みもさることながら、縁に注目したい。幼い頃に、「畳の縁は踏んじゃだめだよ」と、言われた方もいるのではないかと思う。私は祖母に言われたことがあるが、理由は「畳の縁から、(刺客による?)刃物が出てくるかもしれないから」ということだった。何……その恐ろしい家……。
 幼心に世にも奇妙な話を植え付けられてしまった私だが、どうやらそれは、こう解釈できそうだ。畳は高級だから、上流階級の者が使うものだった⇒上流階級……例えば、殿様の住む城には、刺客も来るだろう⇒忍びは、畳の下や天井裏に身を潜ませ、刃物を出して暗殺をしたりしたのだろう。という風なら分かるが、なんとも恐ろしい話である。
 だが、更に考えてみると、それは「畳の縁の材質などで身分や地位を表す」ということから、縁を踏まないように伝えられてきた怪談、一種の教えのようなものだったのかもしれない。聞くところによれば、昔の良家は、畳の縁に自分の家の家紋を入れていたそうだ。そうくると、もう縁を踏むなんて恐れ多いことはできないはずだ。ちょっとした小話の中にも、色々な歴史が隠れているのだなぁ、と感じた思い出である。

 ここまで、貴族と庶民の違いを話してきたが、そもそも庶民とはなんなのか。その疑問も、本書には分かりやすく記されていた。「時代劇を見ていると、江戸時代には、それこそ武士と町人しかいなかったと錯覚してしまいそうですが、もちろんそんなことはありません」。「武士と町人を除いた残りのほとんどは農民です。これこそがまさに「庶民」といえます」。「明治時代も、庶民とは農民であると言って差し支えないように思います。そうすると、畳が庶民に普及したのは、やはり明治時代以降と考えるのが妥当です」。「庶民を農民やごく普通の町人と考えるのなら、畳が庶民に普及したのは明治時代と考えるべきでしょう」。
 なるほど、「庶民」の解釈次第で、二つの説が出てくるようだ。この「庶民」の位置づけは、昔の人に話を聞かなくてはなるまい。文献などはあるのだろうか。そもそも、あったとしても、そんなことを事細かに書いたものが存在すること自体が、謎であるが。
 また、本書を読み進めていくと、別の床の存在が記されていた。少々長くなるので、要約させてもらうことにする。第二次世界大戦後でも、東京の下町は大雨が降ると、床上まで浸水してしまい、この時期も畳はまだ実用的ではなかったという。その時期には、畳ではなく竹の間というものがあった。なぜ、そのようなものが出てきたのかは、藁と竹を想像してもらえれば、すぐに気が付くだろう。竹は、藁と違って水をそんなに含んだりはしない。だから、気候にピッタリなのだという。これを読んで、竹も藁も同じ植物という類からできているのにこんなにも違うとは……。改めて竹の独特さを感じた瞬間であった。
 そして、長い時間が経ち、時代は鉄筋コンクリートとアルミサッシという、密閉性の高い建物になってゆく。著者は、そのような空間では湿気がこもり、その湿気によってカビやダニが発生し、畳はそれらの温床になってしまうと述べている。同時に、アトピー性皮膚炎やアレルギーの原因にもなりかねないと。だが、実際には、アトピーなどの原因は畳だけでなく、かなり複合した要因があるという。誰か権力のある人物が、「畳のせいだ!」とでも言ってしまったのだろうか。畳ばかりが目の敵にされてしまった時代があったのだそうだ。そんな畳の不憫な扱われ方について、著者はこう記している。「畳は、第二次世界大戦を経て高度経済成長の時期に、やっと庶民の手に届く、身近なものになったのですが、皮肉なことに、そのとたんに需要は減少してしまいます」

 畳の歴史は、波瀾万丈。畳が敬遠されてしまったら、正座も段々と日常から外れていってしまうように思える。しかも、著者いわく、昔の畳は今よりも柔らかく、クッションがきいており、まるで座布団のようだったそうだ。それが、丈夫で変形しにくい畳に開発するにつれ、現代のような硬い畳になってしまったらしい。これでは畳と正座の仲は、ますます離れて行ってしまうのではないか……。
 だが、今の時代、和室にお呼ばれをしたら、必ずと言っていいほど用意されているものがあるはず。それは、誰もが畳とセットで覚えているだろう、座布団。畳と正座を救ったのは、座布団だったのだ。著者は、それについてこう語っている。「正座の普及にあわせて、畳の硬さを和らげるため、使われるようになってきました。現在のように、座布団の中に綿を入れるようになったのは江戸時代の中頃といわれます」。そして、庶民に普及し始めたのは、大正時代からだと述べている。理由は、座布団に使われる安い綿が輸入されるようになったからだそうだ。確かに、いくら座布団が良い品でも、高くては普及することはできない。そう考えると、座布団が出回った時代よりもお手頃価格で買える時代に普及し始めたと考える方が妥当である。
 更に、著者は興味深いことを記していた。それは、次のようなことである。「意外に知られていないようですが、座布団は長方形をしていて、縦に使用します。これは、正座をすることを前提にして作られているからです」。

真上から見た座布団。余談だが、側面に縫い目がない方が前方膝頭のくる位置である

 これには驚いた。でも、言われてみれば確かに若干長方形である。畳の上で使う用の敷物……つまり、高価な畳の上での座り方は正座であるだろうから、正座をすることを前提に作られたもの、それが、座布団……と。この座布団という当時のアイデアは、今の日本でも廃れずしっかりと残っている。これらの畳、正座、座布団の出来事を、著者はこうまとめている。「座布団の普及が正座を広めた」。

 さぁ、長い時を経てやっと手に入った畳という文化の結晶の上を、歴史を噛みしめるように踏みしめてみてもらいたい。私たちの先祖は……あるいは、輪廻転生があるのなら、その時の日本に生まれたかもしれない私たちは、きっと畳に憧れを抱いていただろう。やっとの思いで手に入れていたものが、今、ここに当たり前のようにあるのだ。 そして、そのありがたみを感じられたとき、あなたは理解し、驚愕するだろう。高級であるはずの畳の上で、貧乏のどん底の暮らしを送っていた、その昔話の老夫婦の不可解な生活に……!!

 次回は、着付けと正座について語りたい。

※昔話の全てが畳ではなく、ゴザや板間で表現されていたものも沢山あります。
私の見ていた近代的な紙芝居やアニメ等にたまたま畳の表現が多かった可能性がありますので、あしからずご了承ください。

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