[34]正座のボクとお茶菓子を


タイトル:正座のボクとお茶菓子を
分類:電子書籍
発売日:2018/05/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:80
定価:200円+税

著者:笹川 チエ
イラスト:時雨エイプリル

内容
『お茶菓子部』に所属する僕は、正座をして美味しそうにお茶菓子を頬張る西園寺先輩に憧れを抱きつつも、一歩踏み出せない日々を送っている。
そんなある日、僕に初めての友だちができた。彼の名は東原千歳くん。浮かれた僕が部活に誘ったところ、なぜか東原くんは僕をお茶菓子部、並びに西園寺先輩から引き離そうとして……。
踏み出すことは、怖い。それでも―――背筋を伸ばして、正しく座って。あなたに伝えたいことがあるんだ。

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本文

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 前を向くことが好きだった。
 そこにはいつも、彼女がいてくれたから。
 彼女と同じように座って、背筋を伸ばして、足を揃えて。
 「正しく座る」のだと、彼女は笑った。
 そして美味しそうにお菓子を頬張る、その顔を。
 忘れたことなんて、一度もないんだ。


「ええっ、サクちゃん友だち出来たの?」
 吃驚仰天! と言わんばかりの大声が、とある高校の茶室内に響く。
 畳の上で正座した秋山 まどか先輩は、わざとらしく両手を頬に当てた。小柄な体型もあって、アイドルのようなポーズがなんだか似合っている。
「あのコミュニケーション障害を何人分を抱え込んでいるようなサクちゃんに? 初めての友だちが? ついに? やっと?」
「う、うう、返す言葉もございません……」
「いや返していいと思うぞ。酷い言われようだし」
 そう言いながら、秋山先輩の隣で正座している新垣 陽一先輩も、真似するように両手を頬に当てている。大柄な体型には似合わないポーズ……と、言える勇気が僕にあるはずもなく。
「う、ううう」
 先程から言葉も無い僕―――桜庭 さくらは、だんだん顔が俯いてしまう。
 僕ももちろん正座をしているわけだけれど、だんだん背中が曲がり始めて……。
「桜庭くん」
 凛とした声が、僕の背中をピンと正す。
「うあ、は、はい!」
「背中が曲がってた」
「すすすみません……っ」
「今はそれどこじゃないよ、チャコちゃん!」
 『チャコちゃん』―――こと、西園寺 智弥子先輩は、今までの話を聞いていなかったのか、首を傾げつつ用意されたエクレアを頬張った。
 その美味しそうに食す顔を見ると、つい僕たち三人も自分のエクレアを口に運んでしまう。
「……今更だけどチャコちゃん、エクレアってお茶菓子?」
「洋菓子の時点でアウトだろ」
「お茶に合うお菓子であれば大丈夫」
「だ、大丈夫……」
 どの辺がですか……なんて、野暮な質問はもうしない。
 『お茶菓子部』に入部して、そういった具体的な質問はしなくてもよい―――至極ゆったりとした部活であるということを、僕は日々実感しているからだ。
 ……そう、気づけば。
 西園寺先輩に出会って、お茶菓子部に入部して。正しく座ることを覚えて。
 この人たちと一緒にいる時間が、早くも一ヵ月経とうとしている。


―――『お茶菓子部』はその名の通り、お茶菓子を食べる部活だ。
 ……といっても実は正式名称は『茶道部』である。今はわけあって茶道の先生が不在。残った部員たちが茶室でお茶菓子を頬張る活動だけを行うようになったことから、『お茶菓子部』と呼ばれるようになった。ちなみに命名は秋山先輩らしい。
 ただし、ただお茶菓子を食べるだけの部活ではない。お茶は点てないけれどせめて作法だけは……という、西園寺先輩の発案により、たった一つのルールがある。
 そのルールとは―――正座をすること。
 活動場所である茶室では、必ず正座をしなければならない。それさえしていればお茶菓子を食べられるし、漫画を読もうがのんびりお喋りしようが構わない……という、部活のような、そうでないような部活こそが、『お茶菓子部』。
 茶道の先生が復帰するまでの一時的なものだけれど、今のところ、その復帰の報せを聞くことはない。
 ちなみに部員は、先ほど名前が出てきた四名。部長の西園寺智弥子先輩。副部長の秋山まどか先輩。新垣陽一先輩。そして……僕、桜庭さくら。
 先輩たちは全員三年生で、僕は一年生。だからなのか、とても彼らは僕を可愛がってくれる。
「まあ、俺たちとしては不安だったわけだよサク太郎」
 新垣先輩は『サク太郎』、秋山先輩は『サクちゃん』……と、僕のことを呼ぶ。『桜庭さくら』という僕の名前から取った渾名だ。生まれてこの方、渾名で呼んでくれる間柄の人間がいなかったから、今でも呼ばれるとむずがゆい気持ちになる。
「お前、毎日部活来るし。基本的に任意参加なんだから友だちと遊んでいいだぞって言ったら、『友だちいません』って泣きそうな顔で言うし、実際ちょっと泣いたし」
「そんなサクちゃんに友だちが出来たんだね……嬉し涙流してもいいよ。私たちが受け止めるよ」
「な、泣きません今日こそは……!」
 そう。そんな話を先輩たちと以前したから、今日はご報告を……と思ったら、想像以上にオーバーリアクションで喜んでくれた。恥ずかしいような、むずがゆいような。
「同じクラスの子?」
 西園寺先輩が、僕に尋ねてきて驚いた。先輩は普段あまり喋らない。聞き手側に回りつつ、頬張るお茶菓子に意識を八割向けている人なのだ。
 その人が今、珍しく僕を見つめている。それだけで、僕はまた身体が固くなってしまう。この人のまっすぐな目も、背筋も、―――正座も、僕を緊張させる要素だ。
 自分の正座が間違っていないか確認する。大丈夫、背筋は反らさず伸ばす。足の親指は離さない。大丈夫。大丈夫……。
「あ、の、えっと……はい、そう、です」
 確認した姿勢のまま、頑張って目を逸らさず、答える。どもりすぎて恥ずかしい。でも、僕はいつもこんな感じだ。「そう」と、西園寺先輩もいつものように頷くだけ。
 ……僕は、人と話すことが得意ではない。緊張して、どもって、空回りして。気づいたら友だちすら作れなくなって……そんな自分が、ずっと嫌いだった。今も、僕は僕が好きじゃない。
 だけど西園寺先輩と出会って、お茶菓子部に入部して―――正しく座るようになってから、僕の気持ちは少しずつ変わり始めている。
「じゃあ今日、部活来なくてもよかったのに。その子と遊びに行ったらよかったんだよサクちゃん」
「え、い、いや、でも急に誘うのも悪いですし……」
「気にしすぎなんだよサク太郎は」
「そ、そうでしょうか」
「まあチャコちゃんに会いたい気持ちもあるもんねサクちゃんは」
「へあっ!?」
 急に爆弾発言を落とされて、奇声を上げてしまう。『チャコちゃん』と渾名で呼ばれた西園寺先輩はきょとんとした顔をしている。
「……私に?」
「い、いいいいえっ、そんな、そそそんな!」
「会いたくないのサクちゃん」
「西園寺に会いたくないのかサク太郎」
「いいえ!」
「じゃあ会いたいんだ」
「会いたいんだな」
「う、うう、ううう……!」
「二人とも、桜庭くんをからかいすぎ」
「もー、チャコちゃんはそうやってすぐ流しすぎ」
「つまんないぞ西園寺」
「桜庭くんは、誰にでも照れ屋さんで緊張しいだから」
「う、うう……」
 図星だらけで何も言い返せないけれど、でも……。
 目を向ければ西園寺先輩とばっちり視線が合って、すぐに逸らしてしまう。自分の頬が、ほんのり熱くなるのがわかる。
 ……西園寺先輩と出会って、僕は少しずつ変わっていると思う。
 その中でも著しい変化は、西園寺先輩への不思議な感情だ。
 緊張するような、ドキドキするような、目を逸らしたくなるような、本当はずっと見ていたいような……正しく座って、きちんと向き合いたいと、思うような。
 そのごちゃまぜな感情の答えを、僕は見つけだせていない。秋山先輩と新垣先輩は「恋だ愛だプロポーズだ」なんて言うけれど……そういったものを、僕は抱いたことがない。だから、これが彼らの言うようなものなのか、自信を持てない。
 だから僕は、とりあえず正座だけはきちんとして、エクレアを頬張ることしか出来なくて……生クリームとコーティングされたチョコレート、そしてシュー生地が、口中に甘やかに広がっていく。美味しい。西園寺先輩がとろけた顔をして食べるのもわかる。
「…………」
 ……例えば、恋愛相談とかを……友だちにするのは、アリなのだろうか。
 僕は、彼の顔を思い浮かべる。
 屈託なく笑いかけてくれる彼―――僕の、初めての友だちを。


 東原 千歳くんと会話をするきっかけになったのは、『お茶菓子』だ。
「すげー美味しそう」
 突然後ろから声がして、ビクリと大袈裟に肩を跳ね上がらせてしまったのをよく覚えている。何しろ教室で誰かに声をかけられることが滅多にないからだ。
 振り返ると、そこにはクラスメイトの男子が一人いた。さすがに同じクラスの人の顔は知っている……けど、普段話すことがないと、名前を覚えるのが難しい。さらさらの黒髪と強い目力は、なんだかとても見覚えがあるような気がするのだけれど。
「え、あ、あの」
「それ、豆大福。美味しそうだなって」
 彼が指差したのは、僕の携帯画面だった。ちょうど豆大福の紹介ページを見ていたのだ。
「好きなの? 豆大福」
「す、すすすき、というか、あのその……」
 どうしよう、どうしよう。なんて答えるのが正解なんだろう。いつもそうだ。言葉に迷い、惑い、どもってしまう。その内に、彼は僕の隣の席に座った。そのときは休み時間で、ちょうど席の本来の主はいなかった。
「ん?」
「あ、あの、ごめ、んなさい」
「なんで急に謝んの」
 至極不思議そうに彼は首を傾げる。
「だだって、僕、どもって、ばっかで……」
「……? だから?」
「え……」
「謝るところ、どっかあった?」
 ……そのとき、僕はあの茶室を思い出した。彼らのことが、頭に浮かんだ。
 背筋をピンとさせる。そして目を合わせる………のは、まだ難しい、けど。
「あの、ま、豆大福、が好きな……人、に、美味しい豆大福を売っているお店があるって、お、教えてもらって」
「へえ、いいな。俺も好きだよ豆大福。店どこ?」
「こ、ここ……」
 携帯画面を見せると、彼が覗き込んでくる。距離が近くなる。
「ああ、こっから近いじゃん。帰りに寄れそう」
「そ、そう、かも」
「桜庭も行く?」
「えっ! い、いや、ぼ、僕はみ見てただけ、だから、だって値段……」
「値段? ……おお、いい値段するね」
「う、うん、そう」
「気軽に寄れるところじゃないかあ。あれ、桜庭の下の名前って『さくら』だっけ?」
「う、うん? は、はい」
「さくら、甘いもの好き?」
「ひえっ」
 急に下の名前で呼ばれて吃驚しない人がいるなら教えてほしい。彼はきょとんとして僕を見る。
「どうした? あ、俺も下の名前でいいよ」
「え、うあ、え、ええと」
「あ、まさか覚えてないとか?」
 酷いなあ、と言われて、僕は存外傷つかない。彼は朗らかに笑ってくれたから。
「俺は東原千歳」
「ひ、ひがしはらくん」
「千歳」
「ちと、せ、くん」
「『くん』いらないよ」
「い、いや、いやあ……」
「で、甘いもの、好き?」
「う、あ、……うん……」
「そっかあ」
 僕へ笑いかけてくれる人を、僕は数える程度しか知らない。
「良い友だちになれそうだな、俺たち」
 ……そうして、僕に初めて友だちが出来たのだ。


「と、友だちと思っていて不正解ではありませんか」
「ええ? なんだよ今更。大正解に決まってるじゃん」
 千歳くんは軽快に笑う。僕がほっとして肩を盛大に撫で下ろすと、「大袈裟だなあ」と更に彼は笑った。
「で、今日は何調べてたの」
「え、エクレアを」
「エクレア?」
「普通の五倍くらいある、エクレアを、置いてるカフェがあるらしくて」
「五倍」
「ご、五倍」
「それはデカイな」
「そうだよね……」
 これはお茶菓子部に入部してから、気づいたことでもあるけれど。
 僕はどもり癖があるものの、ある程度その人と話すようになると、ほんの少しだけ言葉の詰まりが弱くなるらしい。今まで『ある程度その人と話す』というレベルまで到達しなかったから、気づくことが出来なかった。
 あと、なんとなく……だけど。背筋を伸ばしたり、正座をしていても、少し話しやすくなる気がしている。
「カノジョと一緒に行くの?」
「カ……ッ!?」
「あれ、違うの」
「ちちちちが、ちがちが違うよ!」
 こういうとき、本当に『気がしている』だけなんだなあと切に実感する。……というか、これは、あれなのでは。いわゆる恋愛相談―――恋バナというものを、友人と語り合えるチャンスなのでは?
 ねえ千歳くん、聞いてくれる? 僕、ちょっと気になる先輩がいて……。
「そっか。じゃあ俺と行く?」
「へっ?」
 イメージトレーニングがあっという間に切断されてしまった。素っ頓狂な声を上げてしまう。
「あ、男同士でカフェとか嫌なタイプ?」
「そ、そそそそんなことない、というかその、友だちとカフェ、とか、行ったこと……ない」
「え、マジで? 友だちいなかったって言ってたの、本当なの?」
「う、うん……」
「へええ」
 信じられない、と顔で物語る千歳くんは、最近よく僕と一緒にいてくれる。休み時間とか、移動教室とか。お昼ご飯も二人で食堂に行ったりして……。
 正直、とても楽しい。泣いてしまいそうなくらい、僕は嬉しい。でも、千歳くんは他にも友だちがたくさんいる。それなのに、僕に重きを置いてくれようとしている。
「さくら今日暇? あれ、部活やってるんだっけ」
「あ、……えっと、大丈夫」
 遊びに行きなよ、と言ってくれていた彼らを思い出す。入部してから休むのは初めてだし、一応あとでメールだけしておこう。
「じゃあ、今日行こうよ。せっかくだし」
「……千歳くん、は……」
「ん?」
 僕といて、楽しい? 僕なんかといて、つまらなくない?
 そう聞くのはきっと、簡単なことだ。だけど。
 自分を卑下しないでほしいと、いつか西園寺先輩は言ってくれた。
「……ううん。エクレアのお店、僕も行きたい」
「お、やった。行こう行こう」
 嬉しそうに千歳くんが笑う。僕も、自然と笑えていた。


 翌日のお茶菓子部、茶室。大きいエクレアのお店に行ってきたと報告すると、西園寺先輩は正座をしたまま僕に詰め寄った。
「どうだった? 美味しかった?」
「お、おお美味しかったです」
「中身のクリームはいっぱい?」
「ぎゅ、ぎゅうぎゅうに詰まってました」
「羨ましい、ずるい、私も行きたい、行きたい」
「うう、うあ、あああ……」
「チャコちゃん、チャコちゃん。チューしそうな距離になってる」
 秋山先輩が西園寺先輩を引っぺがしてくれて、僕は安堵の溜息を吐く。心臓がバクバクとうるさい。「ラッキースケベだな」と新垣先輩はニヤニヤしているけれど、なんだか違うような気がする。
「今度私と一緒に行こうよチャコちゃん」
「……今月はお小遣いが……」
「お茶菓子に出費しすぎなんだよ西園寺は」
「え、も、もしかして、この部活で食べてるお菓子って……」
「ああ違うよ、これは部費。チャコちゃんは個人的に朝と夜にもお茶菓子が必須だから」
「ひえ」
「一日三食とはまた別に」
「ひえ……」
 一日三お茶菓子。なんでこんなに細いんだ西園寺先輩。全身すらっとしていて、正座も相変わらずとても綺麗で、その背筋を見るだけでドギマギしてしまうのに……。
「サク太郎、西園寺のこと見すぎ」
「みみみ見てませんん!」
「動揺がすごいねサクちゃん」
「桜庭くん、背中を意識して」
 言われて、びしっと背中を伸ばす。足をぴったり揃える。きちんと正座をするだけで、なんだか息がしやすくなるのは、気のせいではないと思う。
「そういえばチャコちゃん、今日のお茶菓子は?」
「ずんだ餅」
「げえ、ずんだかあ。俺あんま好きじゃない」
「ぼ、僕ずんだ餅、初めて食べるかも……です」
「そうなの? 俺の分いる?」
「ずんだ餅の素晴らしさを知らないなんて……ふたりとも、人生の一割損してる」
「微妙にリアリティありそうな数値出してくんなっつの」
「あ、あはは……」
 ……こんな風に、誰かと笑い合えることを。
 一ヶ月前の僕は、想像できなかった。
 それなのに今、この人たちと一緒にいられて。初めての友だちも出来て。
―――それ以上を望むのは、我儘なんじゃないだろうか。
 ちらりと西園寺先輩を見る。至極美味しそうにずんだ餅を食べている。
 僕なんかが、この人の近くにいられるだけで……幸せなことだ。
 そう、思うのに。
 地団駄を踏んでいるような、このむず痒い心は、一体なんなのだろう。


 千歳くんは小さな頃から甘いものか好きらしい。多種多様のお菓子が家で出されていたから、とのことだ。
「父親が仕事帰りにポンポン買ってくるんだよ」
「す、すごいね……」
「洋菓子だろうと和菓子だろうと、ちゃんと家族全員分、ほぼ毎日。だから俺、ちっちゃい頃はすごい太ってた」
「う、嘘だあ」
 だって今の千歳くんはほっそりしている。それに、いわゆるイケメンと呼ばれる人にあたる。彼の笑顔は眩ゆい。
「ホントホント。今はセーブしてる。さすがに毎日は太るよな」
「そ、そうだよね。僕も気をつけなきゃ……」
「さくらも細い方じゃん。結構食べるの?」
「う、うん。最近はほぼ毎日、部活で……」
「部活?」
 そういえば、なんだかんだで部活のことをまだ伝えていなかった。こういう、話すタイミングを掴むということが、僕には難しい。みんなどうして上手に出来るんだろう。
「お、おちゃが、しぶに」
「お茶?」
「お、お茶菓子部に、入ってて」
「……お茶菓子部?」
「う、うん。もともと茶道部なんだけど、今はそう、呼ばれてて。僕も入ったばかりなんだけど……」
 そのときの千歳くんの反応は、少し変だったと思う。彼は瞬きをすると、僕から目を逸らす。それはどちらかというと考え込むといった動作で、でもすぐ僕の方へ視線を戻して。
「……さくら、前に『豆大福好きな人がいる』って言ってたよな」
「え……は、はい」
「それって、部活の女子の先輩だったりする?」
「えっ。さ、西園寺先輩のこと、知ってるの?」
 千歳くんが、黙る。いつも必ず軽快に笑い返してくれる彼が。
 僕は猛烈に不安になって、とにかく何か言わなければと慌ててしまう。
「あ、あの、よかったら、あの、千歳くんもお茶菓子部……どう、かな。お茶菓子食べるだけの部活……なんだけど。千歳くんも甘いもの好き、だし、先輩たちも良い人だし、あの、よければ見学に―――」
「絶対行かない」
 初めて、僕は千歳くんの言葉で傷ついた。
 彼の冷たい声は、鋭利に僕の心を刺す。
「……あ、ご、ごめん、急、に、変なこと言っ……」
 嫌われてしまったのかもしれない。呆れられたのしれない。後悔と動揺が身体中を駆け巡る。
 千歳くんは我に返ったようにハッとして、申し訳なさそうに眉を下げた。その顔は、いつもの優しい彼のものだ。
「俺の方こそごめん。今の言い方、よくなかった」
「い、いや、僕が……」
「さくらは悪くないんだ」
 確かめるように言うから、僕は千歳くんの俯く顔を見つめてしまう。
「さくらは、悪くない」
 僕はきっと、彼のことを知らないのだと、そのとき思った。話したばかりで、友だちになったばかりで、僕なんかに何でも話してくれるわけはなくて。
「…………。ねえ、さくら。今日ゲーセン行こうよ」
「へ? げ、ゲーセン?」
 突然の話題転換に、僕は頭の回転が追いつかない。
「この間のカフェも美味しかったし、楽しかったけど。さくらと他のところも遊びに行きたい」
「う、うあ……」
「……なんで顔を両手で覆う?」
「そんなこと言ってくれる人、今までいなくて……」
「まさかあ」
「あ、で、でも、部活が……」
「部活って毎日あんの?」
「い、一応。でも、行きたいときに行く、って感じというか」
「じゃあいいじゃん」
 そのときの彼が作り笑顔をしていたということを、僕は暫く後に気づくことになる。
「サボっちゃおうよ」
 千歳くんは少し猫背であることだけを、僕はそのとき知った。


 お茶菓子部ってどんなことするの。クレーンゲームをしながら、千歳くんは僕にそう尋ねる。桜餅を抱える猫……という変わったぬいぐるみをゲットするべく、彼は六回目のバトルに突入していた。
「え、ええと……さっき、少し話したけど……お茶菓子を食べる」
「それで?」
「え、えっと……正座する」
「……正座?」
「う、うん。もともとは茶道部、なんだけど。事情があって今はお茶が立てられなくて……だから、作法だけでもって、先輩が」
「……ふうん」
 千歳くんから聞いてきたというのに、さも興味がありませんと言いたげな声。僕はそっと息を吐く。
 友だちと初めてゲームセンターに来た。車のゲームはすぐ逆走して、銃のゲームもすぐゾンビにやられてしまった。ホッケーゲームは意外と接戦になった。……負けたけど。どれもこれも初めてで、千歳くんも楽しそうにしてくれて、僕もとても、楽しい。友だちと遊ぶって、こんなに楽しいことだったのかと思うくらい、ワクワクする。
 だけどその反面、千歳くんの顔色を窺ってしまう自分がいる。またあの冷たい声を出させてしまうのではないかと思うと怖くて、部活の話題は出していない。休みますというメールを先輩へ送るタイミングも無くしてしまった。
「あ、取れた!」
「えっ、わ、ほ、ほんとだ!」
「さくらもどれか挑戦してみる?」
「む、難しそう……」
「やってみたら楽しいって」
 どうして、千歳くんがあんな言い方をしたのか、気になる。僕は知りたいと思っている。けれど、尋ねることは出来ない。
 彼は僕の友だち、だけど。そこへ踏み入れられるほどのものではないと。
 そう思っているのは、僕だけなのだろうか。
「さくら?」
「へっ」
「ぼおっとしてる」
「う、ううん。そんなこと……ないよ」
 自分の背中が曲がっていることに気づく。最近は、普段から背筋を伸ばすよう気をつけていたのに。
 そういえば千歳くんって、結構猫背だよね。軽やかに言える自信がない。
「………………」
 難しい、と思ってしまう。
 人と関わるということ。人の心に触れること。
 踏み出す、勇気は。どこから作られていくのだろう。
 むしょうに、あの茶室が恋しくなる。
 正しく座るあの人たちに、会いたくなる。


「なあ、明日はどこ行こっか?」
「えっ?」
 ゲーセン内を全制覇……とまでは言わずとも。色んなゲームで遊んでいたら、すっかり日が沈もうとしていた。
「明日なんか用事ある?」
「よ、うじ……というか」
 部活に、行きたい。そう返す勇気が持てない。そう言ったらもう、千歳くんは僕を友だちと思わなくなってしまうんじゃないだろうか。そう考えてしまうのは、僕の杞憂なんだろうか。
「あ、あの、千歳く―――?」
 言葉に迷っているうちに、彼が突然足を止めた。つられて僕も止まることになる。
 どうしたの、と聞く前に、彼の視線の先を追いかける。するとそこには、意外な人がいた。
「さ、西園寺先輩っ?」
 思わず声に出すと、先輩がこちらへ振り向いた。彼女は和菓子屋から出てきたところのようだった。手に何か購入したらしき袋を持っている。そういえば、ここは先日話した豆大福のお店では……?
「……桜庭くん? あなたもここの豆大福を買いに―――」
 そこで彼女は目を見開いて固まった。僕は何か変な格好をしているだろうか。そう思ったけど。違う。彼女の視線は僕以外のところへ向いている。
「………………」
 彼女の視線の先。
 千歳くんは冷たい目で、先輩を睨みつけていた。
「ち、とせくん……?」
「―――ちとせ」
 先輩の、震えた声を。
 僕は初めて聞く。
「千歳」
 こんな、切なげな声が。どうして彼に向けられているのか。
 千歳くんは唇を噛むと、僕の腕を強く掴んだ。有無を言わさないように僕を引っ張り始める。
「さくら、行こう」
「えっ」
 どうして、なんで。その言葉は頭の中で回るばかりで、口から出てこない。僕を連れて千歳くんは先輩を通り過ぎようとする。
「千歳、待って―――」
「気安く呼ぶな」
 彼の冷たい声は、僕だけじゃなく、先輩も傷つける。
 先輩の泣きそうな表情を、初めて見た。僕は見たくなかった。
 千歳くんは見向きもせずに歩き続ける。先輩は立ち止まったまま動かない。それでも僕は千歳くんに引っ張られ続けてしまう。
「ち、千歳くん、うで、痛い、よ」
「さくら」
 なんで。
 なんで、千歳くんも泣きそうな声をするんだろう。
「あの人と関わらないで」
 曲がった背中が、僕の腕を掴む手が、縋るように見えてしまうんだろう。
「俺、あの人、嫌いなんだ」
 僕は、何も言えないまま。
 千歳くんに引っ張られていくことしか出来なかった。

10

「元カレかな」
 秋山先輩によるパワーワードが僕の脳に叩きつけられる。理解するまでに十秒もかかってしまう。その間も秋山先輩と新垣先輩は僕の反応を待ってくれていた。優しいような、面白がられているような。
「も、元カレ、とは」
「元の彼氏」
「うっ」
「昔の男とも言うな」
「うっうう」
「サクちゃんにはレベルが高いかあ」
「顔真っ赤っかだぞ」
「ううう……」
―――西園寺先輩の泣きそうな顔を見てから、一週間が経つ。
 僕はあれ以来、部活に顔を出していない。千歳くんの目がどうしても気になってしまったし、西園寺先輩に会ってどんな顔をすればいいのか分からなかった。
 そうしたある日のお昼休み。突然秋山先輩と新垣先輩が僕の教室に乗り込んで来た。慄く千歳くんを他所に二人は有無を言わさず僕を連れ出し、茶室で久しぶりに正座をして「一体全体どうなっているのかサクちゃんに洗いざらい話してもらう緊急会議」を開くこととなったのである。……会議名は秋山先輩が付けた。
「もう、びっくりしたんだからね。過度な気遣い屋のサクちゃんが連日無断欠席だし。チャコちゃんも来なくなっちゃうし」
「え。さ、西園寺先輩、部活来てないんですか」
「そうだよ。お陰様でお茶菓子を持ってくるやつがいないから、部活が成り立たねえし」
「そうだよそうだよ」
 お二人が買ってくればいいのでは……という話は置いておいて。
「で、でもあの、そういう……も、元の彼氏という雰囲気では、なかったような……」
「まあ、元カレだったとしても、チャコちゃんが部室に来なくなった理由はよく分かんないよね」
「元カレはお前と西園寺が関わんなっつったんだろ?」
「は、……はい」
「それをサクちゃんは素直に従ってたわけだ」
「う、うう」
「ま、過度に気弱なサク太郎に反抗しろっていう方が難しいんだろうけど」
「初めての友だちだもんねえ」
「……うう……」
 言葉に詰まる僕の頭を、二人はワシャワシャと撫で始める。やっぱり、この人たちは優しい。結局のところ―――何も出来ず、何もしていなかった僕を、責めないのだから。
「サクちゃんの状況はわかったけど、問題はチャコちゃんだよね」
「なんで来なくなったんだろうな」
「う、ううん……」
「元カレとお茶菓子部に何か繋がるものがあるのかな」
「だ、だから元カレという風には見え、見えなかったというか」
「恋愛初心者のサク太郎には分からんだろうが、見た目だけでは伝わらないものが恋愛なんだよ」
「そうだよサクちゃん。私とヨーちゃんが付き合ってることを見抜けなかった時点でサクちゃんの恋愛レベルはゼロなんだよ」
「うっ、うう」
 そう、秋山先輩と『ヨーちゃん』……こと新垣先輩、が付き合ってることを僕は西園寺先輩から教えてもらったわけで……それを言われたら何も反論できない。
「で、これからどうしようかヨーちゃん」
「元カレ締め上げてさっさと事情聞けばいいんじゃねえ?」
「ご、強引が過ぎるのでは……?」
「大丈夫、拳を振り上げるヨーちゃん格好いいから元カレもイチコロ」
「ぼ、暴力よくないです。元カレ、じゃなくて千歳くんが怪我しちゃ―――」
「―――元カレじゃないから」
「ふあっ!?」
 急に西園寺先輩の声がして、僕は奇声を上げてしまう。な、なんで? どうして? 三六〇度辺りを見回していると、西園寺先輩は奥の台所から現れた。し、死角のところにいたのか。というか、隠れていた?
「私がチャコちゃんも引きずってきたの。でもチャコちゃん、なんにも喋んないし。サクちゃんも目の前にチャコちゃんいたら、何も喋れなくなっちゃうでしょ? だからとりあえずチャコちゃんは台所の奥に無理矢理いてもらって」
「サク太郎を先に吐かせて、西園寺から事情を話すように流れを誘導してたわけ」
「元カレ元カレって連呼されたら否定したくなるよねえ」
「……意地が悪い」
 西園寺先輩にジトリと睨まれても二人は気にしないのか、軽快に口笛を吹いている。ハートが強い。僕が西園寺先輩に睨まれたら、失神どころではないというのに。
「で、チャコちゃん。元カレじゃないなら、東原千歳くんは何者なの? なんで部活に来なくなったの? もうお茶菓子食べないの?」
「ちゃんと話すから、一度にたくさん聞かないで」
 諦めたように西園寺先輩が息を吐き、畳の上で正座をして、瞼を閉じる。先輩の睫毛の長さがよく分かる。
 ……目を開けて、先輩は事実を口にした。
「―――弟」
「えっ」
「千歳は、私の弟なの」

11

 ……西園寺先輩の話をまとめると。
 先輩と千歳くんは、血の繋がった正真正銘の姉弟だ。彼は昔引っ込み思案で、先輩の後ろにくっついているばかりの子どもだったらしい。そんな弟を、先輩もとても可愛がっていた。
 しかし二人が小学生のとき。両親が離婚することになった。
 そこで、どちらが子供を引き取るか、という話になる。
 千歳くんは、どっちでもいいと言ったらしい。姉と一緒なら、お父さんでもお母さんでも、どっちでもいいと。
「お姉ちゃんは、ずっと一緒だよね」
 弟に尋ねられ、先輩は頷いた。
 だけど。
 両親に、どちらと一緒に暮らしたいか、聞かれて。
 西園寺先輩は母親を選び―――千歳くんは、父親に引き取られることとなる。
 それから、別々の生活が始まって。
 今まで一度も連絡を取っていなかったらしい。

12

「なんで?」
 秋山先輩は、スンナリとその疑問をぶつける。ごく単純に、不思議そうに。
「なんで千歳くんと一緒にいてあげなかったの? 連絡取ってあげなかったの?」
 西園寺先輩は答えない。目を逸らして、膝の上に置いた自分の手を握っている。
「……昔はいつも、一緒にお茶菓子を食べてたの」
 僕は、教室で楽しそうに話していた千歳くんを思い出す。
「父が毎日のように、お菓子を買ってきて。家には畳の部屋があったから、そこでいつも二人で食べてた。お茶も用意して、正座して」
 それが楽しかった、と、独り言のように先輩は呟く。
「同じ高校に入ったことは、父から連絡があって知っていたの。でも、会ってどんな顔をされるか……怖くて。この間、偶然会ってしまって、やっぱりあの子は私を嫌っていて……」
 先輩の背中が、少し曲がる。
「ここでお茶菓子を食べるのが、あの子に申し訳なくなってしまって。……だから」
 そこで言葉が止まる。先輩は目を逸らし、なにか口にしようとして……そのまま立ち上がった。話はここで終わりだと言う風に。
「今日からは部室に来る。心配かけてごめんなさい。……正直、みんなに会えなくて、寂しかった」
「そうだよ! 私だって寂しかったんだからねチャコちゃん。絶対来てよ」
「……ありがとう」
 西園寺先輩と秋山先輩が柔く笑い合う。新垣先輩がほっと笑っているのを見つける。
「家庭の事情だし、俺らがとやかく言えねえけど……お前がここに来ちゃいけないわけないだろ。気にすんなって」
「……うん」
「サクちゃんは? どうする?」
「え」
 西園寺先輩が黙って僕を見る。申し訳なさそうな、僕の顔を伺うような目。
「私はサクちゃんにも来てほしいけど……千歳くん、怒ってるのかな。無理に連れてきちゃったし」
「ま、様子見て来れそうだったら……というか、お前が来たくなったら来いよ」
「……、はい……」
 先輩たちの視線を受け止めきれなくて、俯いてしまう。
 ……胸の奥が、ずっとつっかえている。事情を聞いても、なお。
 僕は……僕は、どうしたいんだろう。

13

 予鈴がなって教室に戻ると、千歳くんは何もなかったように笑って僕に手を振った。僕は上手く笑えなかったけれど、手だけは振り返すことが出来た。
 そういうことすら、今までの僕は出来なかった。友だちがいなかった。誰かのことを考えたり、想ったり、……嫌ったりという感情を、僕は実感として捉えられない。
 僕にとって「嫌い」という感情は自分へ向けるものだと思っていた。上手に話すことが出来ない、友だちが出来ない、何も出来ないちっぽけな僕。今でも僕は、僕が好きではない。
 だけど千歳くんは、西園寺先輩が嫌いだと言った。先輩は、自分が千歳くんに嫌われていると言った。
 なんだろう。ずっと、地に足が着いていないような気がする。今の自分の気持ちを名付けられない。
「さくら」
 放課後になるまでそれは続いた。千歳くんは僕のそばまで来て、やはり何もないように笑う。
「これから暇? 今日の数学の宿題、教えてほしいところあってさ」
 いいよ、と頷くべきだ。友だちなんだから。彼がそうしてほしいと言っているんだから。
 千歳くんと先輩のことは家族という間柄の問題で、つい最近知り合った僕が、なにかを、言う権利なんて。
「……千歳くん」
「ん?」
「今日、西園寺先輩に会った」
 千歳くんの笑顔が消える。その目に冷たさが生まれる。
「……だから?」
「…………」
「俺には関係ないよ。どうでもいいよ」
 僕の心臓がひしゃげていく。その言葉を、意味を、理由を、ずっと見つけられなくて。
「言ったじゃん。俺、あの人嫌いなんだって。名前も聞きたくない」
 千歳くんの俯く顔を、曲がった背中を、僕は何度も見てきた。
「あの人が何言ったか知らないけどさ」
 千歳くんの全部を、僕は知り得ていない。
「俺は俺の友だちに、俺の嫌いな人と関わってほしくないよ」
―――だけど。
 千歳くんの腕を掴む。彼の目が見開いて、僕を見る。
 緊張した。怖かった。人に言葉を返すとは、いつも怖い。呆れられてしまうんじゃないか。嫌われてしまうんじゃないか。僕なんか、すぐ見離されてしまうんじゃないか。ずっとそう思って生きてきた。
「ぼく、は」
 席から立ち上がる。背筋を伸ばす。千歳くんと真っ直ぐ向き合う。
 そうだ、僕は。
「僕の友だちに、僕の好きな人を好きになってほしい」
 千歳くんの瞳が揺れた。手を振り払われないよう、強く握る。
「行こう、千歳くん」
「……どこに」
「お茶菓子部」
「……っ嫌だ、行かない」
「僕も嫌だ」
 ちゃんと、伝わるように。僕の気持ちが正しく伝るように。どうか、僕の踏み入れた足を、拒まれませんように。
「こんなの、嫌だよ。千歳くんも、先輩も、ふたりとも……いい人なのに。優しい人なのに」
 僕を受け入れてくれた、ふたりが。
「僕の大切な人たちが、泣きそうな顔をしているのは嫌だよ」
 千歳くんの腕を引っ張って僕は歩き始める。教室を出て茶室に向かう。彼は思いの外抵抗もなく引っ張られていく。
「さくら、待って」
「いやだ」
「さくら」
「いやだ」
「さくら、なんでそんな滅茶苦茶泣いてんの」
「ふたり、が、泣きそうな顔、するからっ」
「鼻水でてる」
「ううう」
 緊張と不安と怖さで顔がぐしゃぐしゃになる。これでいいのか。迷惑じゃないのか。余計なお世話じゃないのか。
「………………」
 ……だけど、千歳くんが手を振り払われないでいてくれるのも、確かで。
 今、このときは。ちゃんと僕たちは友だちなのだと、思う。

14

 茶室の扉を開けると、三人分のまん丸の目が僕たちを見た。秋山先輩も新垣先輩。そして……西園寺先輩。
「……っ」
 千歳くんの身体が強張る。その腕を強く握る。
 秋山先輩と新垣先輩は顔を見合わせると、すぐに立ち上がった。
「じゃ、俺たちこれからデートに行くんで」
 え、とあからさまに西園寺先輩が動揺する。
「私とヨーちゃんは二人で夜のランデブーするので」
「ら、らん……?」
「何も考えずに言ってるだけだから気にするなサク太郎」
 新垣先輩が秋山先輩の頬をつねる。「いひゃい」と言いながら秋山先輩は笑っている。親指を立てながら、二人は颯爽と茶室を出ていった。
「………………」
 西園寺先輩も、千歳くんも、黙っている。俯いて、目を合わせようとしない。
 千歳くんを茶室へ入れる。三人で輪になるように座る。僕は慣れ始めつつつある正座をした。千歳くんは胡座をかく。先輩は変わらず正座のままだけれど、膝の上で手をいじっている。
「桜庭くん、どうして……」
 千歳くんを見ないまま、先輩は僕に尋ねる。僕は鼻水をすする。
「……泣いてたの? どうして?」
「な、泣いてません」
「泣いてたじゃん」
「今はその話ではなく……!」
 彼も彼女も、僕ばかり見る。やめてほしい。……僕を、逃げ道にしないでほしい。
「……っ」
 また滲む視界を自覚しながら。僕は彼らと向き合う。
 背筋を伸ばす。顎を引く。足を揃える。膝に手を置く。
 真っ直ぐに、彼らを見る。
「お」と、やはり僕はどもってしまう。
「お、茶菓子を」
 それでも、ちゃんと。
 二人に正しく、伝わるように。
「僕の好きな人たちと、お茶菓子を、食べたいから。千歳くんを連れてきました」
 とても単純なことだった。
「ふたりの、事情を……気持ちも、僕は、知りません」
 千歳くんと、西園寺先輩と。
 僕の好きな人たちと、好きなものを、共有したかった。
「だけど、それでも―――」
 教えてくれたのは、あなただった。
「僕の好きな人たちを、どうか、悪く思わないでほしい」
 西園寺先輩が、息を吐く。
 胸に手を当てて、目を閉じる。暫くして瞼を開くと、僕を見て。
 最後に、千歳くんを見る。
「……あの二人が帰っちゃったから」
 西園寺先輩が、鞄からそれを取り出す。
 豆大福だ。あの高級なお店の……ところのではない。多分、コンビニで売っているもの。
「まだ四つある」
 僕の分もあることに、場違いながら浮き足立ってしまう。
「三人で食べよう」
 千歳くんは何も言わない。胡座をかいたまま俯いている。だけど、先輩が豆大福をひとつ差し出すと、おそるおそる受け取った。
 包みを開けて、自分の分の豆大福を頬張る。正直、緊張していて味が分からない。先輩も千歳くんも、俯いたまま黙って食べている。これで本当に良かったんだろうか。余計なお世話をしただけなんじゃないだろうか。
 僕は僕の自己満足で、二人を苦しめているのではないのか。
「―――この間、あんたが行ってた、高そうな店の豆大福」
 彼の声に、西園寺先輩がパッと顔を上げる。その瞳が揺れ輝くのを見つける。
 千歳くんは、居心地悪そうに正座を始めた。足を揃えて、背筋を伸ばして。先輩と、向き合って。
「美味しかったの」
「……帰ってから食べた、けど……ぼおっとしてしまって、味がよく分からなかった」
「なんだそれ。もったいない」
「……そうね」
「なんで俺を置いていったの」
 僕は何も言えない。西園寺先輩も、何も言わない。
「なんで何も連絡くれなかったの」
 背筋を伸ばしたまま、千歳くんは言う。
「なんでお茶菓子部なんて作ってんの」
 ぼろぼろと涙をこぼした瞳で、先輩を見つめる。
「俺は―――俺だって、ずっと」
 正しく座ったまま、豆大福にかぶりつく。
「姉ちゃんとこうしていたかったんだよ」
 最後の一口を飲み込むところまで、先輩はずっと見ていた。瞬きをすると先輩からも雫が一粒こぼれる。
「ごめんなさい」
 誰かにとっては、ちっぽけなことなのかもしれない。それでも僕は、千歳くんは、西園寺先輩は。
 目の前のことに、とにかく精いっぱいなだけだ。
「ごめんなさい、千歳」
 ずずず、と盛大に鼻水をすすったのは僕だった。二人が僕の方を見る。涙と鼻水で顔がくしゃくしゃの僕。二人は大きく吹き出した。
「だからなんでさくらが泣くんだよお」
「だ、だってえ」
「桜庭くん、酷い顔」
「う、ううう」
「ていうか、この間あんな高い豆大福買ってたくせに、なんで今日はコンビニ豆大福なんだよ」
「あれを買ったから今月は更に金欠で……」
「残りの一個、俺食べたい」
「えっ」
「え、この流れで自分が食べる気なわけ」
 言い合いながら、二人は僕の手を片方ずつ握ってくれる。正座をして、膝をつき合わせて。彼らと言葉を交わせることが、どうしようなく嬉しくて。
 ……西園寺先輩と出会って。千歳くんと出会って。
 ずっと僕は、こうしたかったんだ。

15

「つまりシスコンこじらせたブラザーが拗ねて反抗期こじらせてたってこと?」
 千歳くんのアッパーを華麗に避け、新垣先輩は彼の首に腕を回す。「ギブギブ!」と楽しそうにはしゃぐ千歳くんに僕はなんだかモヤモヤしてしまう。「ヤキモチは格好悪いよサクちゃん」でも僕も千歳くんとああいうこと出来るようになりたいです先輩。
 あれから数日後。千歳くんはお茶菓子部……正確には茶道部、に入部した。入部届を顧問に提出したから、正式な部員である。
「で、チャコちゃん。今日のお茶菓子は?」
「マカロン」
「また洒落た洋菓子だな……」
「さくら、洋菓子ってお茶菓子?」
「う、うーん……」
「その議論は答えが出ないっていう答えが出ちゃってるんだよチーちゃん」
 秋山先輩は早速千歳くんのことを「チーちゃん」と呼び始めた。ちなみに新垣先輩は「西園寺弟」と呼んでいる。千歳くんがどんな顔をするか少し不安だったけれど、特に気にした様子はないようだった。
「西園寺弟も入って、これでようやく部員は五人か」
「先生帰ってきたら喜んでくれるかな」
「先生?」
「茶道の先生。今は入院されてる」
「……今更だけど、あんたお茶点てられんの?」
「先生がいれば」
「なんでいないと出来ないんだよ……」
 千歳くんの的確な突っ込みに、西園寺先輩と秋山先輩および新垣先輩が明後日の方向を見上げる。
 ……千歳くんと西園寺先輩が仲直りしたのかというと、僕には正直よくわからない。相変わらず千歳くんは先輩に対してツッケンドンな態度だし、先輩も受け答えがぎこちない。でも、言葉は交わす。背筋を伸ばして、目を合わすようにしている。千歳くんが猫背じゃなくなったことだけを、僕は知っている。
 でも結局、西園寺先輩がなぜ千歳くんと一緒にいてあげなかったのかは分かっていない。ある日の帰り道で、「もう別にいい」と目を逸らして言った千歳くんの言葉が本心かどうか、僕は図り切れていない。
 ただ……これは、僕の推測でしかないけれど。
 先輩は、両親のどちらかが独りぼっちになってしまうのが嫌だったんじゃないだろうか。
 もし先輩と千歳くんが二人一緒にいれば、両親のどちらかが一人となってしまう。そうならないように、先輩は両親に掛け合ったのではないか。
 先輩は、そういう人だ。優しい人だ。出会って、話をして。僕はそれを知った。
 もちろん先輩はそんなこと一言も口にしていない。けれど、千歳くんも薄々そう考えているのではないかと思う。
 それでも千歳くんは、先輩と一緒にいたくて。一緒に、いたかったから。あんな……。
 このことを口にする勇気は、どこにもないけれど。
 西園寺先輩が皆へマカロンを配る。正座の姿勢を整えて、五人で手を合わせた。
「いただきます」
 ―――誰かと言葉を重ねること。誰かと一緒に、好きなものを食べること。
 僕にとって、それはとても難しいことだ。踏み出すこと、その輪に入ること。迎え入れること。今でも緊張して、いつ壊れてしまわないかビクビクしている。
 それでも、この人たちだけは、ずっと大切にしたい。失いたくない。
 この人たちの前で、正しく座ることの出来る、人間でありたい。
 それが出来たら僕は―――僕を好きになれる。そんな気がする。
「さくら、なに食べながらボーッとしてんの」
「うひゃあっ」
 千歳くんが突然、僕の背中を指でツツとなぞった。ゾワゾワが僕の全身を駆け巡る。食べかけのマカロンを落としてしまいそうになる。
「ちちち千歳くん背中は、背中はおやめになって」
「おやめになってって」
「時代劇みたいだねサクちゃん」
「もう、さくら。また『くん』が付いてる」
「うっ、うう」
「千歳」
「ち、千歳く――」
「千歳」
「ち、ちと、せ……」
「よし」
 満足げに千歳く―――千歳、が、笑う。呼び捨てにしなきゃ怒ると突然言われたのは、つい昨日のことだった。
 気恥ずかしくて頭を掻いていると、なぜか西園寺先輩がジトリとこちらを見てくる。
「……ずいぶん仲が良いのね」
「えっ」
「まあスーパー親友なんで」
「えっ」
「なんならハイパーな親友なんで」
「は、ハイパー?」
 千歳が僕の肩に手を回す。距離が近い。緊張していると先輩のジト目がさらに強力になる。千歳は上機嫌にニコニコしている。な、なんだこの状況? 秋山先輩と新垣先輩に助けの目を向けても、ニヤニヤされるだけだった。な、なんなんだ一体。
「さくらくん」
「は、はい―――はいっ?」
「私もさくらくんって呼ぶ」
「え、は、ひ、ひえ」
「お、じゃあさくらも下の名前で呼んだら?」
「ひえっっ」
 グッと千歳くんが親指を立てる。な、なんでそんな『計画通り』と言わんばかりの顔を?
「だって好きなんでしょ? 姉ちゃんのこと」
「す―――!?」
「え、だって言ったじゃんこの間」
「そうなのサクちゃん!?」
「おいおい俺たちがいないときに告白してんじゃねえぞサク太郎」
「ちちち違います違わないけどそうじゃなくて!」
「なに? 俺たちのこと弄んだの、さくら」
「ちがちが違う!」
「千歳、さくらくんのことをからかいすぎ」
「なんだよ自分もまんざらじゃないくせに」
「そ―――」
「あ、チャコちゃんの顔赤い」
「キッスするか?」
「しししません!」
「じゃあとりあえず下の名前で呼んだら?」
 千歳と秋山先輩と新垣先輩がニヤニヤしている。西園寺先輩は正座をしたまま固まっている。僕もコピーしたように固まってしまう。
「……ち……」
 地団駄を踏むような、この思いを。この気持ちを。
「ち、ち……」
 その答えを口にするのは、僕にはまだ出来ないけれど。
「ち、ちちちちち、ちっ、ちや――――――!」
 僕の言葉が、正しく伝わって。
 笑ってくれる人が、いるのは。
 背筋がまっすぐ伸びるくらい、幸せなことなんだ。


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