「正座とイスラム」と「心と姿」
掲載日:2002/11/06
投稿者:wakasama(兵庫県29才男性)
正座は日本独自とよく言われますが、よくイスラムの世界では祈りを捧げる時に、額と鼻をこすりつけ、正座をすることがあります。
昔から、神のような何かしら目には見えない、人智を越えた働きのようなものに対して畏敬の念を現わす際に、「ひれ伏す」という姿勢がとても大切にされてきたのではないかなぁと思います。
心と姿というのは、とても関係が深いと思うのですが、心によって姿が現れる時もあれば、姿によって心が現れることもあると思います。
たとえば前者の場合は、イスラムなどでも大いなる自然の働きや命の働きなどを含めて宇宙を司る神に畏敬の念を現わす心が大切だとされますが、その心を形にして現れた時に、正座をしながらひれ伏すという姿が出てきたのだろうと思われます。
後者は、日本でも女性が着物などを着たときには、心まで引き締まるということをよく聞きます。形によって、心が変化するということは、とても多いのではないでしょうか。科学的には体に多少無理な姿勢であるはずの正座を、わざわざすることによって、目には見えない心の部分がとても改まることは、よく言われているのではないでしょうか。
イスラムの礼りを見ていると、心と体と両面を大切にしようとしているのが、とてもよくわかります。宗教はもちろん心の問題でしょうけども、こういう体も大切にすることを「宗教の身体性」というようです。
心によって姿が現れることもあれば、姿によって心が現われることもある。
正座もまた同じようなもので、日本人の失われるつつある謙虚さや改まりの心などがどんどんと失われていく中で、もう一度正座という改まりの形から、心の改まりを願うという方向で、今後は大切にされていくのかもしれません。
痛いからしない。楽だから椅子にする。それもまた一つの道理ですが、イスラムの人の祈りをテレビなどで見るにつけ、それだけで良いのかという気が時折します。
楽ではないであろう正座をしている姿は、合理性や安楽性などを越えた、目に見えない大切な部分(自然への感謝や生命への畏敬の念や人間の謙虚さなど)を、身体を通して大切にしようとしているように感じます。
正座もまたいずれ尊ばれる時代がくるような気がしてなりません。