[127]第5話 がむしゃらに


発行日:2008/08/11
タイトル:第5話 がむしゃらに
シリーズ名:やさしい正座入門学
シリーズ番号:5

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
販売価格:100円

著者:そうな
イラスト:あんやす

販売サイト
https://seiza.booth.pm/items/3177702

本文

 私たちは、何かをする時に、あまり理由をつけてはいない。それが感覚的に「自分に必要だと考える」からではないかと思う。感覚的に必要と思えなかったものは、きっと目にも入らないのだろう。

 前回私は、「岡澤道場」の合気道と正座について話しをした。今回は、その合気道との関わりに、少し触れていきたいと思う。
 まず、武道の道に足を踏み入れたワケを聞いてみた。岡澤道場代表の岡澤さんの場合はこうだった。
岡澤:「強くなりたいな、と思った」
 次に、続ける理由を聞いた。
岡澤:「強くなりたいからです」
 実に同じであった。
岡澤:「《単純な理由》です。強かったらやりません(笑)」
 なるほど、その通りである。深い事情や脂肪燃焼を理由にするより、その《単純な理由》の方が明確で継続できるように思えた。そういえば、強い者こそ更に上を求めると、私は聞いたことがあるが。

 前回《正座法》の話をしたが、岡澤さんは《正座法》などの無い、他の武道の始めと終わりにも正座を取り入れている。理由は、お弟子さんたちと礼節をもって同じ目線で話をしたいからだそうだ。そこで真剣に話をする事によって、精神も礼儀作法も共に身につくのだという。
合気道、投げの様子 以前の記事にも書いたが、正座という姿勢は、気持ちが引き締まる。そのため、しっかりと聞く姿勢、話す姿勢に適しているように感じられる。だからこそ、この道場では正座を取り入れているのだろう。このように、岡澤さんは礼儀作法も道場を通して広めたいと公言している、素晴らしい考えの持ち主であった。その証拠に、お弟子さん達にとてもなつかれており、時には相談役になったりするのだそうだ。なんと、良いお兄さん、いや、お父さん的存在なのだろう。
弟子たちの合気道を使った鬼ごっこの風景 合気道四段で現役師範の時田さんの場合は、こうである。彼はその頃、大学生だった。彼は剣道など、何か武道をやりたかった。ある時、新入生歓迎会のデモンストレーションに、女性の先輩に連れられて行くことになる。そこが運命の分かれ道。その実演を見た瞬間、「これだ!!!」……とひらめき、その後は《がむしゃら》に打ち込んでいったという。
なんとも凄い事である。ただひたすらに《がむしゃら》である。人が、がむしゃらに何かに打ち込むという事は、計り知れない体力・精神力を必要とする。だから、これほどのめりこめるモノに出合えたのは、むしろ出合うべくして出合った《縁》というべきなのか。そんな時田さんの姿は、羨ましいくらいに輝いているのだ。

 その二人が、いつも心にとどめているという言葉がある。それは、《合気即生活》【あいき そく せいかつ】である!思わず力んでしまった。
時田:「今は亡き、チヨダ館長がおっしゃっていた事です。生活全てが合気道である。そこに居る場所すべてが修行である、と」
岡澤:「本来、武道というものは《どろくさ~い》というところが無い方がいい。自分の力を計るものが無くてもいいような。つまり、武道家である事を自覚して、行動しなさい、ということでしょうね」
 なるほど。私も、幼い頃に空手を習っていた事があったが、始めた頃に親に言われた言葉がある。
親:「本当に強い人は、自分の力を表に出さないのよ」
 その時は、まだ小学生だったので、そのままの言葉で理解をしていた。しばらくしてから、鍛えていない人より力を持っているからこそ、簡単に使ってはいけない、本当に使うべき時に使うのだ、と思うようになった記憶がある。そして、心を大きく構える事も、また力なのだという事を学んだ。それ以来、武道から離れた生活をしていても、私は、その言葉をずっと心にとどめている。
 この自分の体験を思い出してみると、《合気即生活》という言葉が理解できる気がする。もしかしたら、違う意味かもしれないが、私にはそう思えたのだ。
時田:「この言葉は人生をかけてつかんでいきたい」
 さて、私は、合気道は「自分から攻めていかずに、相手が攻撃してきた技をかわす為の技」だとイメージしていた。だから、それについても気になって質問してみた。すると、時田さんはこう答えてくれた。
時田:「館長先生は、とにかく身を守れれば良い、と考えていたそうです。だから、いわゆるルールや試合というものも無いんです。勝ち負けを決めるような」
 実に、シンプルで爽やかな答えだ。イメージは少し当たっていただろうか。
 また、岡澤さんは今日の武道についてこう語っている。 岡澤:「空手もテコンドーも柔道も、現在では、防具を開発して《スポーツ》にしている。だから段々と《武道らしさ》というものが無くなっていく。僕は、試合に勝つための練習ではなく、武道家としての自覚を持つ事が大事だと思うんです。スポーツではないんだよ、というね。まぁ、勝ててるから言うんですけどね(笑)」
 なるほど……。《武道らしさというのもが失われつつある》……これは、武道の精神の神髄の問題だ。そこで思った。それは最近TV等の話題に上がることの多い、《自分らしさ》を持つことと似てはいないだろうか。決して、今の時代だから、などとは言わない。きっといつの世も、同じだろうと思うからだ。武道らしさ(武道の心得)を失うのも、自分。……だとしたら、最終的に自分らしさという「個性」を消してしまうのも、自分ではないのだろうか。
 じゃあ、どうすればいいのさ、と思う。そこで考えるのが、《武道家としての自覚》である。武道家としての《自覚》、《覚悟》を決めれば、きっとその人の心は守られる。それに学び、私たちも自分の個性を《自覚》し《認める》のだ。そうすることで、初めて個性がにじみ出るに違いない。人生の教訓は、武道から学べるというが、まさにその通りであると思う。
 さて、合気道の形も正座からだった。ここは一つ、迷っている時には正座をしてみてはどうだろうか。私は、どうもこの正座というやつは、「道」に近いものがあると思い始めている。もう正座道だ、正座道。何か、頭にかかっていた霧が晴れるかもしれない。「これだ!!!」と。

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