[282]正座の個人練習
タイトル:正座の個人練習
掲載日:2024/04/09
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:29
著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル
内容:
磨都(まと)は特待生クラスの二年。
球技大会で闘争心を燃やすクラスで苦手なバスケの参加が決まってしまう。
困った磨都は、成績不振者は部の参加を認められない状況のバスケ部に、テストの点数を上げることを条件にバスケ指導してくれるよう交渉する。
引き受けてくれた啓示(けいじ)とベンチで勉強していると、学部長先生が個人の和室を貸してくれるという。
困惑した二人は、偶然会った工芸科の生徒に正座を指導してもらい……。
本文
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1
正座をする時は、背筋を伸ばし、脇はしめるか、軽く開くくらい。スカートはお尻の下に敷く。手は膝と太もものつけ根の間でハの字に。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度で。足の親指同士が離れないように。
もう、すっかりと慣れた正座で磨都(まと)は陶芸棟の奥にある和室に一人居た。
今日は球技大会があり、もう生徒は下校を始めたか、打ち上げの相談でもしているだろう。
磨都もクラスで声はかけられたが、用事があると言って、一人ここへ来た。
待ち合わせの約束をしていないから、多分啓示(けいじ)は来ないだろう。
それこそ、クラスの打ち上げの主役扱いで、彼の周囲に人の輪ができ、楽しい時間を過ごすのだろう。
わかっていたけれど、あと少しだけここで待たせてもらおう、と磨都は英語や古文の教科書を出し、正座をしたまま静かに深呼吸した。
……遡ること半月前のことだった。
うっかりしていた!、というのは、この日二度目の心の絶叫だった。
某善位高校には、スポーツ推薦クラスや工芸科、そして普通科には、学費免除の特待生クラス、それに次ぐ特別クラスがある。
勤辺磨都(きんべまと)は、その特待生クラスの二年だ。入学後の試験で上位者のみの特権である学費免除に加え、選りすぐりの教師陣によるクオリティの高い授業、放課後、休日におよぶ学習指導のおかげで予備校に通う必要もないという、大学受験を考える生徒にとって至れり尽くせりのクラスに磨都は運よく入れた。だが、世の中というのは、努力云々ではなく、もともととんでもなく頭のいい人というのが結構いるようで、特待生クラスに入って、授業やそのほかのカリキュラムは受けているものの、後はゲーム三昧だったり、何かしらの趣味に時間を費やしても、常に学年一位、二位、全国模試でも一桁台が当たり前という人を磨都はもう何人見たことか。ため息しか出ない。そうした中、うっかりと今日の放課後の小テストの範囲を間違えたことに気づき、ホームルーム中にこれ幸いと勉強に勤しんでいた。この日は球技大会の出場種目決めと、各委員会からの連絡事項だけなのも運がよかった。
しかし、ふと顔を上げた時、黒板の球技大会出場種目の下はすでに希望者の多くの名で埋め尽くされており、あろうことか、残るは女子はバスケだった。しかも、女子バスケ希望は全員、小学校か中学校での経験者であるらしい。確かに、朝練、放課後、土日の活動に試合と、部活で明け暮れているのに、常に成績上位だった子がいたなあ、と磨都は思い、そうして、事の重大さに気づいた。磨都はバスケといえば学校の授業でしか経験がない。しかも、練習試合であっても、ドリブルをする機会すらなく、パスが回って来れば、すぐに俊敏そうな子にパスをし、お役御免といった状態だった。バスケの技量以前の問題である。しかし、それでも去年までならどうにかなったかもしれない。そこまで球技大会に対する思い入れが特待生クラスになかったからだ。だが、今年の全クラス対象のテストにて、普通クラスの何名かが特待生クラスの順位に食い込む、というちょっとした革命が起こった。普段肩の力を抜いているように見えて、実は結構な負けず嫌い気質の特待生クラス、特別クラスはこれを機に、勉強以外で普通科に挑もうと考えた。その絶好の機会が球技大会であった。
ああ、どうしよう、と磨都は深い深いため息をついた。
2
球技大会まで十日を切った頃、気づけばあちこちでスポーツ推薦の生徒に指導を賜る生徒を見かけるようになった。
特に野球など、女子があまり馴染みでない種目でそうした例は多いようで、和気あいあいと楽しそうでありながら、的確な指導を受けている様子が見て取れる。
できれば磨都の参加するバスケでもそうした指導を頼みたいと思ったのだが、経験者揃いのメンバーは、誰もそうした指導を望んでいなかった。バスケ部はスポーツ推薦に関係ない部ではあるが、すでにいくつかのクラスが指導を依頼していて、まだ教えてくれる部員がいるかどうかもわからなかった。
そんな中、磨都のクラスで自主練をしようという計画が持ち上がった。
早朝なら体育館も借りられる日もあるし、外のバスケコートのある中庭でもいいのではないか、などと相談している。
これは、まずい……。
この負けず嫌いの人たちの中で、明らかに自分が戦力にならないとわかったら……。
優等生で人当たりのよい生徒が大半であるが、基本的に自分をしっかりと律することを割と幼い頃より習得している人が多いので、勝負をかけた球技大会を前に磨都のバスケに関する現状を知られるのは極めてまずかった。
どうしようか、と迷ったが、まずは打開策を、と思い至る。
バスケ部に頼みに行くのは勇気が必要だが、今それなりに仲良くしているクラスの女子と気まずくなるよりはずっとマシだ。
特待生クラスは授業がほかのクラスより午後一時間多い日が週に何度かある。
この日もその授業、七限のある日で、ほかのクラスの生徒は部活に勤しんでいる時間だった。
この後、クラスの女子の間でバスケの練習の話題が出る前に磨都はこっそり教室を出た。
男子バスケ部が今日体育館を使っているのは、職員室前の掲示板で確認済みだ。
できれば女子部員に頼みたいところだが、女子は学年を問わずトーナメント戦で当たる可能性があるので、クラス外のバスケ出場者はライバルになり、指導は頼めない。
校舎と校舎の渡り廊下を抜け、体育館へと向かう。
風を通すのに開いている重い扉の向こうから、顧問の声が聞こえた。
まだ部活の最中のはずだが、バスケ部の男子部員が集められ、何やら重々しい空気が漂っている。
「……ということで、次の試験で全科目七十点を下回る生徒は部活休止になるのでしっかり勉強するように」
七十点、という言葉に俯いている男子部員がざわめく。
「先生、それは先生の判断ですか」
「違います。点数の低い生徒の多い部活が対象です。これを機に学生の本分である勉強をしっかりしておくように」
そう言うと、顧問の先生は「本日はここまで」と締めくくり、「ありがとうございました」と部員が声を揃えると、お開きになった。
顧問が去り、部員があれこれ文句を言いながら片付けを開始したので、磨都は思い切って、「あの、すみません」と声をかけた。振り返った部員の誰と目を合わせていいのかわからぬまま、「私、特待生コース二年の勤辺といいます。その、急なお願いで申し訳ないのですが、どなたかバスケを指導していただけませんか……」と、尻すぼみになり、磨都は俯いた。
「このタイミングで特待生が来るって、どういう嫌がらせだよ」と誰かが言い、皆が笑っている。
磨都が顔を上げると、すでに誰も磨都を見ておらず、片付けを再開している。
最悪のタイミングだった、と思ったが、磨都は否、と思い直す。このタイミングだからこそ頼めるのではないか、と。
「先ほどの顧問の先生のお話、少し聞きました。私は三年生までのカリキュラムを授業でほぼ終えています。もし、バスケの指導をしてくれるなら、各科目七十点、いえ、八十点以上を約束します。わが校では、授業態度の最高加点二十点を加え、中間、期末テストで七十五点以上から五段階評価で四、八十五点以上から五がつきます。前回でのテストの点数は知りませんが、確実に評価は上がります。評価が上がれば指定校推薦も取りやすくなりますよ。指定校推薦に漏れても、自己推薦で重要なのは内申点です。自己推薦の条件である内申点をクリアできて推薦試験に合格できれば、来年の秋には受験から解放されますよ。一般受験は年明けから開始して国立は三月です。その半年、大きいと思いませんか?」
一気に言い、我に返ると、バスケ部員が皆磨都を見ていた。
そのうち、近くにいた部員が「もともと頭いい人は、そういうこと簡単に言うんだよ。俺の成績知らないでしょう」と、長身から磨都を見下す。
迫力はあったが、磨都は動じずに答えた。
「努力で成績を上げてきた人間を甘く見ないでください。『簡単に言う』と思うのは、勉強でまだまだ努力の余地があるからじゃないの」
おー、と部員の何人かが言い返した磨都を囃し立てる。
「いいよ」
穏やかな声がした。
部員の間から磨都の前に出て来たのは長身なのはさることながら、明らかに幼い頃から光の中にいたというか、皮肉った言い方をすればカースト上位に属していると思しき、何やら眩しさを感じさせる、ついでに自虐的な言い方をすれば磨都とは無縁の男子だった。
「二年普通科の須葉啓示(すばけいじ)。よろしく」
磨都は気後れしたが、それを悟られぬよう姿勢を正し、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
3
頼みに行った日から開始された指導は基本的に啓示がお手本を見せ、それを磨都がやってみる、という個人練習だった。
ほかの部員の多くは、すでに指導を頼まれていたらしい。そうした中、面倒だったので断り続けていたのが啓示だったそうだ。
放課後の校庭、中庭などほとんどの場所は、部活はもちろん、球技大会前の練習で埋まっており、バスケのボールを持った啓示の後に続いて辿りついたのは、工芸棟のある、だいぶ学校の敷地内でも端の方だった。その道中、ドリブルもシュートも実に華麗に決める女子と、拍手して、「もう完璧」と笑っている男子バスケ部の実にさわやかな光景も目にした。
自分で頼んでおいて、しかもそれで了解を得られて言うのもなんだが、啓示はずいぶんとはずれくじを引いたものだ、と磨都は思った。
ドリブルは途中で爪先にあたり、どこかへ転がっていくし、バスケットゴールに見立てた鉄柱にシュートをする練習では、ボールは鉄柱にかすりもしなかった。
パスの練習でも、磨都の腕力では啓示のところへ届かないし、啓示のボールは勢いがありすぎてまともに取れない。
相当苛立っているだろうが、それでも啓示はずいぶんと辛抱強く練習の面倒を見てくれた。
「疲れた?」と、啓示が訊いてくれた時には、情けなくて泣きたくなっていた。多分、自分の百倍彼は疲れているだろう……。
磨都は「そろそろ、勉強をしようか」と切り出した。
とにかく、一刻も早く、お礼がしたかった。
「ああ、今日じゃなくてもいいけど……」
「教わるだけ教わって、何も返さないまま一日終わるのは悪いから」と言うと、啓示は「じゃあ」と頷いた。
「ここでいい?」と、磨都は陶芸棟の前にあるベンチを指した。
「構わないよ」と啓示は言う。
「ええと、文系? 理系?」
「一応、文系」
「じゃあ、英語か現国の教科書、今、ある?」
「ああ、英語は友達に今日貸したままだ。現国はある」と、教科書を出す。
試験範囲は今やっているところと、次の日本文学史からだろう。
「国語、いつも何点くらい?」
「……五十取れればいい方」
「……」
磨都は暫し黙り込んだが、気を取り直す。
「現代文は、出る範囲がわかっているなら、とにかく本文を読み込んでおく。語句の意味は教科書に書き込んで、読みながら覚えるといいよ。それから、接続詞に注目して……」
磨都が教科書を見ながら説明を始めると、「お勉強ですか」と声をかけられた。
磨都と啓示が顔を上げると、学部長先生がにこにこと立ってこちらを見ている。
「こんにちは」と、慌てて声を揃えてあいさつすると、「続けて続けて」と言う。
「お勉強は始まったばかりですか?」
そう訊かれ、「あ、はい」と頷く。
「だったら、この奥の和室をお使いなさい」と学部長先生が陶芸棟の奥の入り口を見遣る。
「でも、私たち、工芸科の生徒ではないんです」と磨都はおずおずと言った。
「ええ、知っていますよ。勤辺磨都さんと須葉啓示くんですね。お二人とも普通科二年在籍ですね」
ごく自然に頷く学部長先生を前に、生徒数の多い学校であり、本日まで直接言葉を交わしたことのない学部長先生が二人の名前と科、学年を知っていたことに、磨都は驚く。啓示も同様のようだ。
そんな二人をよそに、「大丈夫。奥は私が物置にしている場所で、工芸科の生徒も使いません。鍵はないので、戸だけ閉めておいてください。時々差し入れくらいしますから」と学部長先生は言うと、あちこちの部を見に行くようで、ラグビー部の方へ向かって行った。
残された磨都と啓示は顔を見合わせ、荷物を椅子に置いたまま、陶芸棟の中へ入り、その奥の個室を開けてみた。
学部長先生は物置、などとおっしゃっていたが、立派な書院造の和室だった。茶箪笥の上には花瓶やら壺やらが並んでいる。
「ここ、本当に借りる?」と、磨都が啓示を振り返る。ここを借りるのだったら、ベンチでやった方がよほど気楽だし、移動時間を要しても自習室まで行った方がましではないか、という思いが過った。
「でも、借りなくても失礼になりそうだし」と、啓示が小さく言う。
「差し入れって、本当にしてくれるのかな?」
長身の啓示を見上げ、訊いてみる。
「さあ……」
顔を見合わせ、二人は黙り込んだ。
「どうかした?」
ふいに後ろから声をかけられ、振り返ると、工芸科の男子生徒が立って二人を見ていた。
作業用の制服を着て、工具を持ってこちらを見ている。
「あの、学部長先生がこの部屋で勉強していいと言ってくれたんですけど、本当に使っていいのかなって……」
親切に手を差し伸べてくださった学部長先生には申し訳ないが、気後れして、途方に暮れかけた二人にとって、ふっと心を軽くしてくれる同年代の生徒に打ち明ける。
「いいって言うなら、いいんじゃない?」
まるで学部長先生の圧を感じていない様子で、彼はそう言う。
「いや、なんか、畏れ多くて……」
「様子見に来るようなこと言ってたし……」
磨都と啓示が俯いてごにょごにょと言っていると、「和室での作法ができればいいってだけでしょう」と、いとも簡単に言い当てられた。
言葉に詰まる二人に、「僕、少し前に学部長先生のお友達のお屋敷に呼ばれして、その時に、演劇部の脚本を書いている人に正座の仕方なら指導を受けたよ。職員室の前でだったんで、ちょっと抵抗あったけど」と、かなり濃い内容をさらりと説明する。
学部長先生のお友達、お屋敷、職員室前で正座……。
細かい事情はわからないが、かなりカオスな時間を通過したらしいことだけは二人にも理解できた。
「すみませんけど、少し、その正座を教えてもらえませんか」と磨都は頼んだ。
「あの、工芸科の試験はどういうのかわからないですけど、私特待生クラスなので二年生までの勉強はほぼ終わっています。こちらはバスケ部ですので、バスケは教えてもらえます」
啓示がそれでなくとも手のかかる磨都以外のバスケの面倒を見るかどうか確認はしていないが、とりあえず、自分たちのできることとして、言うだけ言ってみた。
「いや、今は大丈夫だけど、じゃあ、困った時にお願いするよ」と言い、ズボンを軽くはたいて先に和室に入る。
磨都と啓示は慌てて外に置いていた荷物をまとめ、後に続く。
先に上がっている工芸科の生徒は、きちんとシューズを揃えて脱いでいて、磨都と啓示も何も言わずそれに倣う。
「ああ、やっぱり廊下に比べて畳は正座がしやすい」と彼は朗らかに言う。
「最初が廊下だったから、それに比べると、まあ、大きなお屋敷の華道のお披露目会の席でも座り心地がいい分、ちゃんと座れていたっていうか」
「……はあ」
磨都と啓示は、彼の廊下とお屋敷での差についていまいち具体的に考えられぬまま、畳の端に正座した。
「ええと、一応僕が習った正座を教えます」と、彼が改まった顔をする。
「お願いします」と啓示がはっきりと言い、磨都も遅れてそう言った。
「背筋は伸ばして。脇は軽く開くかしめるのがいいけど、勉強すると開くようになるのかな。膝はつけるか握りこぶしひとつ分開くくらい。ああ、スカートはお尻の下に敷くように。スカート短いと広げて正座することが多いと思うけど、そこ気をつけて。それから親指同士が離れないように。手は膝と太ももの間でハの字にするんだけど、これも勉強中はやらないと思うけど、まあ、ほかの場面で正座する時のために覚えておいて」
一度に彼は言ったが、二人の座り方をきちんと見てくれている。
「ちょっと姿勢がよくないけど、なるべく背筋を伸ばすように意識していけばよくなるから」と、磨都に助言してくれる。
自分では自覚がなかったが、ノートやタブレット端末を使用する際、ついつい目が近づいていたようだ。
姿勢を正す。
「それで肩の力を少し抜くといいよ」
「はい」
「まあ、そんな感じで大丈夫だと思うよ」と言い、去り際に、「これ、試しに作ってみたんだけど、よかったらどうぞ」と、ポケットから小さな七宝焼きを細い金具で縁取ったキーホルダーをひとつずつくれたのだった。
「なんか、いろいろありがとうございます」
「ううん、じゃあ、頑張って」と、さわやかに彼は立ち去った。
なんだかこの和室を借りることになったことや正座を習ったことで、今日の学習要項は目いっぱいになってしまった気がしたが、とりあえず啓示の現代文の一作品の語句の意味の記入、出題されるであろう漢字、文章の大きな転換部である接続詞をマークするところまでをやり、これの音読は自宅でやってもらうことにした。
「この語句の意味、全部書き出せるの?」と、黙々と教科書に書き込みをする磨都に啓示は訊いた。
「もう散々読んで覚えたから。本当は自分で調べて書き出した方がいいけど、次のは自分でやっていけば習慣になると思うし、このやり方が正しいのかわかんないけど、少なくとも私はこれで毎回やっているから」と言い、教科書を閉じて返したのだった。
いつも集中した後は肩こりがあるが、正座で姿勢を正したせいか、肩のこりは少なかった。
4
できないならできないなりに、と言ってしまっては、教えてくれる啓示に失礼だが、事実、毎日パス、ドリブル、シュートの練習を繰り返すと、それなりに上達するのが磨都にはわかった。だが、クラスでのバスケの朝練に出てみれば、ここ何日か啓示に見てもらった成果を全く発揮できず、ひたすら走るばかりで、中学までの授業とあまり変わらない状態だった。そのたびに磨都は情けなくなり、「そう、上手、上手」と小さな子を相手にするように辛抱強く練習に付き合ってくれる啓示に申し訳ない思いでいっぱいになった。
だが啓示は磨都の勉強指導の甲斐あってか、この前の現代文の小テストでは満点を取れたと言ってくれた。
今も磨都が書き込みをした現代文を読んでいる。
次は古文、それが済んだら英語、と磨都の中ではバスケの練習の後、限られた時間ではあるが、それを有効に使い、きちんと試験範囲を終わらせようと考えていた。
ありがたくお借りした学部長先生のお部屋で一応古文の動詞の一覧表を用意し、教科書と併せて勉強をしようとしていると、戸が叩かれ、「お勉強ははかどっていますか」という声とともに学部長先生が顔を出した。
はっと我に返ったが、先日の正座指導のおかげで、背筋を伸ばし、正座をしていたので、とりあえず体裁は保てた、といったところだった。
「お部屋を使わせていただいて、ありがとうございます」と磨都が頭を下げた。
「構いませんよ。今日はちょっと花器を取りにね」と言い、手に提げていた小さな紙袋を置き、部屋の奥に置いてある大きな桐の箱を手に取った。
なんとなく、気になって見ていると、「ご覧になりますか?」と学部長先生は二人を振り返った。
「いいんですか?」
「ええ、私の作品ですが」
「先生の?」
「大学でこっちの方を勉強していましてね。その時知り合った友達が華道の家元の息子で、今でもたまに僕の作った花器を所望してくれるんですよ」
「……そうなんですか」
そういった方面のことがわからない若輩者が「すごい」と言うのも憚られ、磨都はそれ以上何も言わず、同じように黙っている啓示とともに、そっと桐箱から出された花器を見せてもらった。
大きな皿のような花器は、中心部には洞窟の奥にある澄んだ水が注がれているかのような、美しい青をしていた。
無言のままじっくりと見せてもらい、お礼を言う。
学部長先生はそれを仕舞うと、部屋の入り口横の電気ポットを手に一度部屋を出て、電気ポットのスイッチを入れると、茶箪笥から湯のみを出し、先ほど持って来た紙袋から和菓子を勉強に用いていたちゃぶ台に置いた。
そして急須に茶葉を入れ、電気ポットの湯を注ぐ。
緑茶の柔らかな香りが漂う。
学部長先生は「どうぞ」と茶を淹れてくれた。
恐縮し、手を膝に置いたままの二人に「ささ、冷めないうちに」と茶を進める。
「二人とも、随分とお行儀がよろしい。感心ですね」と、独り言のように発し、目を細める。
「僕が正座をきちんとしたのは、大学生の頃でしたよ。学校経営の家の子ですから、礼儀作法だとか、色々なパーティーだとか、都心のホテルでのコース料理なんていうのは自然と慣れていたんですけどね、どういうわけか、日本料亭には七五三の幼い頃に行ったきりでね。それが大学の時、僕の花器を所望してくれた、先ほど話した大学の友達が華道の家元の息子で、花器のお礼にと飯を奢ってくれると言う。駅の中のレストランだろうと思っていたら、老舗の日本料亭でね。その時ですよ」
懐かしそうに学部長先生は言った。
「最近もね、うちの学校の工芸科の生徒の作品を気に入ってね、自宅と、その後食事会へと招待していましたよ」
磨都と啓示は顔を見合わせた。
つい最近、正座を教えてくれた工芸科の男子学生が浮かんだ。
「多分、その生徒さんだと思います。私たち、正座の指導をしてもらって、これもいただきました」と、ペンケースにつけていた七宝焼きのキーホルダーを見せた。
「ああ、お友達でしたか。科を越えていろいろなお友達ができるのもこの学校ならではで、嬉しいですね。最近彼は陶芸にも興味を示していましたからね」
学部長先生は嬉しそうに笑う。
「僕はね、高校、大学が学びの終わりではなく、そこを出て学びが始まると思うことがあるんですよ。きっと彼はずっと何かを創り続けるでしょうね。僕も未だに発展途上で、友達に花器を頼まれるたびに、大学の時のなかなか求めるものに辿りつけないのと同じ感覚に一度はなる」
羨望と焦燥、そんな感情が磨都の中に宿った。
「すっかり長居をしましたね。僕はこれで」と学部長先生は言い、自身の湯のみを持って部屋を出た。
5
クラスの練習と啓示との個人練習をしているうちに球技大会当日になった。
もし雨なら中止になるので、秘かに雨を期待していたが、そうはならなかった。
クラスの練習では、相変わらず磨都の活躍は皆無で、それを啓示に知られたくなかったのだが、球技大会が開催されては仕方がない。
まあ、啓示が人気者であることは雰囲気でわかるし、球技大会中も友達や女子との付き合いで忙しいだろうから、磨都の出る試合を見ることはないだろう。
啓示のクラスの女子とバスケのトーナメントでは決勝に進まない限り当たらないのを朝確認し、磨都は安堵する。
一回戦は一年生が相手で、二年の負けず嫌いの磨都たちのメンバーに気圧されたようで、大差で勝利した。
磨都はコートを一応走ってはいたが、ほぼ活躍といえる場面はなかったが、啓示がいないので安心した。
次の回は同学年だったが、さすがに磨都のクラスはバスケ経験者ばかりのメンバーなので、パスが相手に渡ってもクラスメイトは華麗なドリブルであっさりとボールを奪い、シュートを決め、これも勝利した。相変わらず磨都の活躍する場面は皆無だ。
三回戦に進むと、体育館の見物人も増える。
ざわめく体育館で、磨都は床に正座をして試合までを過ごした。
足はやや痛くはあるが、すっかり最近は正座が楽になった。
体育館履きにジャージでの正座であるが、親指同士が離れぬようにすると、自然と膝も近づき、手を太ももと膝の間でハの字にすると、不思議と身体が楽に感じる。
そして、こんなに人が多く、ざわめいている時でも心が落ち着く。
まあ、活躍はないだろうけど頑張ろう、と自身に言い聞かせ、立ち上がる。
試合が開始される。
さすがに今度は相手も強い。
クラスメイトが苦戦している。
ボールの取り合いが前回の試合より遥かに多い。
ゴール下まで行っても、ボールを取られ、なかなかシュートできない。
もどかしい思いでコートの後方に磨都は立っていた。
その時、「磨都にボールまわせ!」という啓示の声が体育館に響いた。
ずっとシュートを決めていた子の名前が応援で叫ばれていた中、磨都の名が呼ばれると、体育館は澄んだように静まり返った。
ゴール下で相手側に囲まれていたクラスメイトが頭上から磨都へとパスを出す。
磨都の周囲には誰もいない。
磨都は低い姿勢でドリブルし、シュートする。
ボールは外れて落ち、そこからまたボールの取り合いになる。
「いいから、磨都にパスしろ!」
再び啓示の声が響く。
磨都へとボールがロングパスで届く。
小気味よい音を立てて磨都の両の手にボールがおさまる。
「いけ、シュートしろ!」
啓示の声がする。
膝からゆっくりと落ち着いて、磨都はシュートする。
きれいな弧を描き、ボールはざん、とシュートを決めた。
わっという歓声が起こり、クラスの女子が磨都とハイタッチをする。
そこから磨都たちのクラスの士気が高まり、押され気味だった試合の流れが変わった。
6
決勝、準決勝は現役バスケ部員のいるクラスの総当たりだった。
この結果を見ると、磨都たちのクラスは準々決勝まで行けたのは上出来、といったところだった。
体育館には大勢の生徒がつめかけ、人影から背伸びするようにして試合を見ていた磨都は、そこでとても真剣で自由にコートを走り、何度もシュートを決め、大歓声の中心にいる啓示を見たのだった。啓示のシュートと同時に試合終了の笛が鳴り、大喜びする啓示を見ると、磨都は体育館を離れた。
おめでとう。
よかったね。
そう心の中で思いながら、直接伝えたかった、と気づいた。
それに、まだバスケの練習を見てもらったことのお礼を言っていない。
勉強も一通り試験範囲までは一緒に見たけれど、その後の進み具合はわからない……。
今日でなくても、と分かっていながら、磨都はその後、特待生クラスにしては各々の種目で健闘したことを喜び、たまには打ち上げでもしよう、といつになく浮足立っているクラスメイトの誘いを穏便に断り、先に教室を出た。
昨日まで球技大会の練習のため、どこもかしこも人で賑わっていた放課後の校庭は、今日ばかりは静かで、スポーツ推薦クラスの生徒が部活に向かう声が校舎から聞こえてくるくらいだった。
工芸棟の和室で磨都は正座をし、一人勉強を始めた。
背筋は自然と伸びていた。
足の親指同士が離れることもないし、膝もついている。
心が落ち着くと、今日までの十日間が思い出された。
バスケを教えてもらって、勉強をみる。
それも毎日二時間できればいい方で、十日間で二十時間。合計でも一日にも満たない時間だった。けれど、毎日教室で過ごす誰とよりも、その日一日を振り返ると思い出すのは啓示との時間だった。
勉強は高校に入ってからあまり好きではなくなった、と言った啓示がだんだんと勉強に真剣になって、わからないところを聞いてくれるのが嬉しかった。
初日にもらった七宝焼きのキーホルダーを、磨都と同じようにペンケースのファスナーにつけているのも、なんだか特別な感じがした。
二人でいたから特別に思ったけれど、現実に戻れば啓示と磨都とでは、本来この大勢生徒がいる学校で、年に何度かすれ違う程度の関係のはずだった、と今になって気づく。現にバスケを教えてもらえるよう頼みに行くまでの高校生活での一年間、磨都は啓示の存在を知らなかったし、啓示の方でも言うまでもなく磨都を知らなかっただろう。
寂しいような、悲しいような思いでいる磨都とは裏腹に、外からは打ち上げに向かう集団の賑やかな声がする。
そろそろ帰るか、と思った時、外から聞こえてきた賑やかな声が和室の戸が開くのと同時になだれ込んできた。
びっくりして、コントのように腰を抜かして大きく口を開けている磨都の前に現れたのは、啓示と、バスケ部員と思しき啓示の仲間、そしてそのお友達だか彼女だかよくわからないけれど、とにかく楽しそうにしている、おおよそ磨都が普段近づかない人たちだった。
「いたいた! よかった。教室や自習室みんなで探したよ。校内放送で呼び出してもらおうかと思った」
啓示の隣にいた男子がそう言い、啓示が「打ち上げ。一緒に行こう」と、早く、早くと急かしながら言った。
磨都は急な展開についていけず、教科書をしまい、言われるがままに立ち上がった。
「あの、でも私、バスケ部でも同じクラスでもないから……」
一応それを伝えると、「行きたい人! って声をかけて、ついてきた人たちで行くだけだから」という返事だった。
「勤辺さん、ついてきてはいないけど、啓示が連れて行こうって言ったんじゃん」と誰かがいい、「もう、いいから早く」と、啓示が再び急かす。
「……楽しそうでいいですね」
ふいに聞き覚えのある、けれどこの場にはそぐわない、深みといわば年齢と感じさせる声が響いた。
笑顔のまま、皆が声を止め、声の方を見る。
「……学部長先生!!」
一気に姿勢を正した一同の中、何か言わなくては、と思ったらしい啓示の仲間が、「みんなで球技大会の打ち上げ行くんです。クラスや部は関係なく、行きたい人って……。先生もいかがですか?」
言って、言った本人が一番後悔した、という顔をした。
気まずさの中、つい磨都は「先生! 今日まで自習のためにこのお部屋を使わせていただいて、ありがとうございました」と、正座をして居住まいを改め、頭を下げた。
「いえいえ、お勉強ははかどりましたか?」と訊かれ、啓示は「はい。おかげさまでたくさん勉強しました」と勢いよく答えた。
「それはよかった。じゃあ、今日は思い切り楽しんできてください」
穏やかに笑った学部長先生に、「先生も行こうよ」と、磨都から見ると派手な女子が再度学部長先生を誘った。
「いや、それはさすがにね」
「いいじゃないですか。校則でも大丈夫ですよね」と、やはり派手だと感じる女子が学部長先生を誘い、物おじせずに学部長先生と腕を組み、「打ち上げ行きたい人―?」と言い、同時に学部長先生の手を挙げたのだった。磨都には絶対にできない凄技だった。
「決まり」と、男子の一人が言い、「いいんですかねえ。じゃあ、少しだけ」と学部長先生が歩き出し、磨都と啓示は和室の電気を消し、戸を閉める。
皆から少し遅れて磨都は啓示と歩き出す。
十日一緒に過ごして、打ち上げに誘ってもらえるようになったが、磨都の中では、今でも同じ学校の制服という以外、啓示との共通点が見つけられない。打ち上げが終わったら、もう、時間を合わせて会うこともないし、校内ですれ違うことも数えるほどあるかどうか……。今のうちにお礼を言おう、と磨都は啓示を見上げた。
「今日まで、本当にありがとう。球技大会がこんなに心に残る行事になる日がくるとは思ってなかった。すべて須葉くんのおかげです」
頭を下げ、再び啓示を見ると、「来年もバスケやるなら教えるよ」と、なんでもない顔をしていた。
この温度差がもう、思い入れの違いだ、という気はしたが、来年また何日か会えると思えば、それも嬉しかった。
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打ち上げは、学部長先生を中心に予想外に盛り上がった。
初めはすぐに帰る、と言っていた学部長先生だったが、カラオケに行けば美声を披露し、そこでの費用を全て持ってくれ、その後、啓示の仲間は学部長先生の負担にならぬよう内心配慮したようで個人会計のファストフード店に行こうという提案の際、私はここで、と帰ろうとしたのを少しだけ、と皆にせがまれるかたちで同行し、そこで学生時代の話や奥さんとの馴れ初めを聞かれるがままに話し始め、すっかり生徒と打ち解けていた。
大盛り上がりのうちに駅前でお開きになり、明日から勉強に励んで一年後、また啓示にバスケの指導をしてもらう日を待とうと、力強く、そして少し哀愁を感じながら帰宅した磨都だったが、翌日から校内のあちこちで、打ち上げで一緒だった子に声をかけられるようになり、七時間授業の日や自習室で勉強した下校時に、「バスケ部今終わったから、一緒に帰ろう」と誘ってもらい、週に一度か二度は啓示と顔を合わせる日常は続いた。啓示とお揃いだからという思いで七宝焼きのキーホルダーをペンケースにつけている磨都が、少し欠けた後も七宝焼きのキーホルダーを啓示がつけ続けていたと知るのは、一年後、再びバスケの個人練習後に勉強をする日になる。