[212]正座の師弟


タイトル:正座の師弟
発行日:2021/12/01
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:19

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:44
販売価格:200円

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
 某出井高校、バレーボール部の丁太(ていた)は、同じクラスで料理部の女子、宝のことが気になっている。
 自由奔放な宝に大人しい丁太はなかなか近づけない中、正座の話題から宝に正座を教えてもらおうと頼むが、丁太に正座を教えてくれることになったのは、怖くて厳しい料理部の副顧問の漆左(うるさ)先生だった。
 宝に会いたかった丁太はガッカリしたが、漆左先生に丁太は正座を褒められ、更に食事マナーまでを教えてもらい……。

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本文

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 円城丁太は、放課後の調理室で、歴史を教える漆左先生と向き合い、心底困惑していた。
 事の起こりは、ほんの些細な話の流れからだった。

 部活動の盛んさと自由を尊重することで知られる某出井高校に丁太は入学したが、それは自宅からの通学時間と学力が条件に合ってのことだった。
 しかし、この某出井高校の個々に輝きを放ち、且つ、団結する先輩たちの姿に心打たれ、近くに通いやすい高校があっても、敢えてこの学校を志願する者が多く、よって、某出井高校の一学年の教室は早くも、制服を着崩し、部活に入り、水を得た魚のごとく生き生きと高校生活を満喫する生徒で溢れていた。
 そうした中、丁太はやや気後れし、教室内では少数だが存在する大人しい部類に入っていた。中学から続けていたバレーボール部でも、あまり目立つ言動はせず、日々地道に練習に勤しんでいる。部活の自己紹介では見事なバク転や、先輩からの無茶振りで即席コントを要求され、しっかりオチをつけたネタを披露したり、力あるジャンプサーブで実力をアピールしたりと、まさに十人十色の積極的な新入部員の中でも、丁太は名前と出身中学を言うに留めた。
 部活が始まると、練習は中学の時よりずっと厳しかったが、雰囲気は常に明るい。出欠については先輩も先生も触れなかったが、用事なくさぼる部員はいないようだった。早くも先輩と打ち解けた一年生は、休憩時間には先輩とふざけ合ったりして、ずいぶんと楽しそうにしている。こういった時、丁太はなるべく気配を消すように大人しくしていたが、高校では大人しくしていても、不思議と疎外感は抱かなかった。部活中の話題は、常に部活のことが中心で、先輩同士しか知らない話題であれば、誰かがわかるように一年生に必ず説明してくれる。丁太が話の輪に入っていなくとも、発言しなくとも、某出井高校のバレーボール部は、常に丁太を仲間として意識し、広い意味での輪に取り込んでいた。その心地よさは、丁太が初めて知るものだった。先輩と話したりふざけたりしている部員はもちろん、丁太ほどではないにしろ、大人しい性格だと思われる部員も、休憩時間は肩の力を抜き、練習には集中している様子がうかがえた。
 ああ、これが某出井高校なんだ、と丁太は思った。
 無理をしなくとも、大人しいままに受け入れられる、それはなんと尊い場なのだろう……。
 誰に向けたらいい感謝かはわからなかったが、丁太は日々、そんな思いをかみしめていた。
 そんな丁太が度肝を抜かれたのは、同じクラスの女子、間場宝の発言だった。
 宝は自由で、怖い物知らずの女の子だった。
 新学期の初めの授業で、先生が板書をしていた時、「先生、そこ見えないからどいて」と、臆することなく、そして礼儀を知らずに宝は言った。
 正直なところ、丁太も先生のいる場所が遮られ、困っていた。
 しかし、それをあんなふうにそのまま伝えるということを、丁太は全く考えていなかった。
 先生はこの時、特に気分を害した様子もなく、「ああ、ごめん。これで見える?」と、黒板の端に移動してくれた。たったそれだけのことだったが、この時から、丁太にとって宝は気になる存在になった。
 そして、つい先日、一学期の期末テストの後、バレーボール部が学校で合宿を行う際に、料理部がその間の食事を担当してくれた。
 そこに料理部の宝がいた。
 新学期の自己紹介では、中学までは陸上部だったが、高校からは別のことをやりたいと言っていたが、ダンスとかテニスとか、そういう部を丁太は勝手に想像していた。
 だから、合宿初日、調理室に宝がいた時には、友達のところへ遊びに来ているとでも思った。
 常に自由に振る舞う宝なら、十分にありうることだった。
 以前も、体育館を仕切り、バレーボール部とバスケ部が練習していた時に、バスケ部の練習に宝が混ざっていたことがあった。その時丁太は、『これから、バスケ部と体育館を共有する時には、宝の様子が見られる』と、内心喜んだが、次の練習も、また次の練習にも宝の姿はなかった。どうしたのだろう、先輩に失礼なことでも言って、入部早々追い出されでもしたのだろうか……、と心配していると、体育館を体操部と使っていた時には、なんとそこに宝がいた。バスケ部が合わなくて、体操部にしたのか、と思っていると、今度は体育館のステージで練習しているダンス部で宝が柔軟をしていた。
 一体どういうことなんだ、と丁太が思っていたが、宝は友達が多く、その友達に「今日、一緒にうちの部活遊びに来ない?」と誘われては、「行く、行く」と、一緒に部の練習に参加していたらしい。いくら自由な某出井高校でも、それぞれの大切な活動を重視し、誇りを持っているのだから、そんな適当な参加は許されないのだろうが、どういうわけか、そのあたりに於いて、宝はフリーパスのようなものを持っている感があった。それは、持って生まれたもの、授かったもの、としか丁太からは言いようのないものだった。
 だから、合宿初日の料理部の参加も、友達に誘われて来た、といういつもの流れだと思った。
 先輩後輩の仲は比較的柔軟でも、練習の厳しい運動部ですら自由に出入りしているのだから、毎日が活動日というわけではない料理部なら尚更参加しやすいのは、丁太にも想像できる。
 しかし、翌日の朝食の時にも宝は調理室にいて、丁太たちバレーボール部が食事をしている間に昼食の下ごしらえの準備をしていた。
 こっそり見ていると、宝は実に手際よく、そして器用に調理をこなしつつ、片付けも同時進行で行っていた。
 丁太たちバレーボール部が早々に空にした各テーブルに置かれた炊飯器を回収していた先輩が、宝のところへ戻って片付け作業に入ろうとする頃には、全ての片付けが終わったようで、磨かれたようにきれいに洗ったボールを料理部の先輩が感心して見ていたのも丁太は知っている。
 そして、宝は同級生はもとより、先輩とも楽しそうにしていた。
 なんというか、宝のいる場は、空気が明るい。
 そして、遠目にも怖そうなおばさんという感じの漆左先生を臆せず「漆ちゃん」と呼び、まるで同じ年の女の子のように接していて、厳しい顔を崩さない漆左先生が、それでもどこか嬉しそうなのが丁太にもわかった。一見、ただの怖い物知らずの女の子だと思っていた宝は、その実、細やかな気遣いのできる人だったと気づいた時には、もう丁太にとって、宝は特別な存在になっていた。
 まあ、『特別な存在』にもいろいろあって、宝の場合、友達とか、楽しい仲間とか、何かあれば誘ううちの一人、というような範囲で宝を特別に思う人は某出井高校内でもかなりの割合を占めているのは明白だった。


 校内を歩いていれば、あちこちから遊びの誘いの声がかかり、中庭を歩いていれば、二階から、「宝、揚げパン食べる?」という声とともに、購買のパンまで投げてもらえる人気者の宝と、購買部で並んでいても目当てのパンを三度に一度は買い損ねる丁太が二人で話せる機会を得られたのは、丁太にとってはまたとない幸運だった。
 午後の教室移動の途中で、教科書を間違えたと気づいた丁太は、走って教室に戻った。
 そこで教室に一人いる宝に会った。
「次の授業、どこでやるの?」と、宝は呑気な様子で丁太に訊いた。
 始業まで数分、教室に誰もいないこの状況でここまで動揺していないのは、宝の生まれ持った器の大きさなのか、はたまた、単なるだらしない性格なのか……。丁太は困惑したが、「化学室」と短く答えた。
「それ、どこだっけ?」と訊かれ、え、何度か授業で使ってるよね……、と再度困惑しながら、「三階渡り廊下の隣」と答えた。
「渡り廊下のどっち側?」と更に訊かれ、確かに渡り廊下の両端に教室はあるけど……、ここまで説明してもまだわからない? と困惑の上に驚愕し、「じゃあ、一緒に行く?」と提案すると、宝は頷いた。
 元気な印象の強い宝だが、実際隣を歩いていると、華奢で肌が透き通るようにきれいで、柔らかそうな髪は肩で自然に揺れていた。
 黙っていれば、相当にかわいいのではないか、と丁太は思いつつ、いや、そういうことではない、今のこの性格だからいいのだ、とその思いを打ち消した。
 その一方で、この宝の呑気さというか、高校生になった今でも授業を行う教室を把握していないこと、それ以前に二学期にもなって未だに校内の使用教室位置を覚えていないのは、この先本人が困るのではないかと他人事ながら不安というか心配になった。
「あのさ、……もう少し、しっかりした方がいいと思うよ」と丁太は小さく言った。
 言った後に、宝ならではの本音故に真っ直ぐに突っ込んで来る返しを覚悟したが、意外にも「そうだね。よく言われる」と素直に頷かれ、拍子抜けした。
 話題を変えようと、丁太は「間馬さん、料理部だったんだね。バレーボール部の合宿では、お世話になりました」と切り出した。
「あれ、知ってた?」と宝は驚き、驚かれたことに丁太は軽いダメージを受ける。丁太はもともと、打たれ弱い性格であると自覚がある。幼い頃から、悪気はなくとも相手の真っすぐ過ぎる言動や、乱雑な言葉遣いに遭遇するたびにダメージを受けた。中学でバレーボール部に入って、ボールを受けるたびに、心の中で、これはダメージ二、これはダメージ六、まだまだ……! と自身を鼓舞し続け、次第に強くはなれてきたと思う。ダメージ八級でも返せた自分だ、全然いける、と部活で文字通り心身共に鍛えられてきた。しかし、今回の宝の短い驚きは、丁太にとっては宝の丁太への認識が想像以上の薄さであったことの驚きで、宝が悪意ゼロである故に、ダメージレベルはぐん、と上がった。
 ずっと宝が気になっていたのは自分の方だけであるという自覚はあったが、お互いの部活くらいは知り合っている仲だと勝手に思っていた。
「うん。僕、バレーボール部で、合宿の食事を用意してもらっている時に、間馬さんが調理室にいるの見たから」
 ダメージを気づかれないよう、丁太は敢えて明るく答えた。
「ああ、そうそう、作った作った」と、宝は一人合点し、頷いている。
「すごくおいしいし、野菜も食べやすい料理ばかりで、本当に感謝しているよ。すごいんだね」
「ありがとう。献立はみんなで考えたけど、出汁の取り方とか、味付けは、漆ちゃんが教えてくれたの」
「漆左先生?」
「うん、そう。初日に、うるせえなぁ、と思ったけど、実はいい人で、かわいいんだよ」
「へえ、……そうなんだ」
 よくわからないが、ここは話を合わせておく。
「最初に正座までさせられたけど、おかげで夏休み中、親戚に久しぶりに会った時に、座敷で正座してたら、なんか褒められた」
「そうなんだ」
「そういえば、合宿最後の日、ラーメン屋の座敷でバレーボール部も、漆ちゃんに正座指導してもらったよね?」
 宝の一言で、丁太は『あっ』と、あの日のことを思い出した。
 丁太がトイレに行っている間に、漆左先生の正座指導を賜っていたが、面倒だったので、皆が食べ始めた頃にさりげなく戻ったのだった。
「いや、ちょうどその時、席外してて……、残念だったな」
「じゃあ、正座、やる?」
 思ってもみない、宝からの申し出だった。
「え、いいの? いやあ、実はあの時、参加しそびれて、すごく残念だったんだ。嬉しいな。ぜひお願いするよ」
 勢い込んで、丁太は頷いた。
 やった! これで宝と二人で会える。
 場所はどこがいいか?
 無難にこの前のラーメン屋がいいか?
 それともちょっと高いけど、和食のレストラン?
 正座のお礼ってことで、ここは御馳走しよう。
 もしかしたら、御馳走のお礼ってことで、次の約束も取りつけられるかもしれない。
 その次には、お互い割り勘ってことで、映画なんかどうだろう……。
 心躍らせる丁太に、「じゃあ、明日放課後で大丈夫?」と宝が訊き、「もちろん!」と即答したのだった。


 翌日の放課後、丁太はトイレへ走り、そこで入念に髪を整え、制汗スプレーを吹きかけ、服装の乱れがないか再度確認し、宝に指定された調理室へ向かった。
 もう、宝は来ているだろうか……。
 大きく咳払いし、コンコン、と戸をノックした。
 返事はなく、代わりにガラッと、戸が開いた。
 いかにも行動的な宝らしい、と思い、「ごめん、待った?」と、髪を直しながら顔を上げた丁太はそこで硬直した。
 目の前にいたのは、小柄な女性ではあるが、それは宝ではなかった。
「いらっしゃい。待っていましたよ」
 厳しい顔つきで、本人なりに優しく話しているらしい漆左先生一人が立っていた。
「あ、あの……」
 宝は? と訊きたいのを堪えていると、どう勘違いしたのか、「いいんですよ、遠慮しなくて。正座を学びたいなんて、本当に感心です。部活の先生の方には私の方から話しておきました」と、感慨深く頷き、「さ、早速始めましょう」と丁太を促すと、調理室の扉は閉じられた。
 宝は、丁太が正座を学びたい、という額面通りに受け取り、本人的には気を回して、わざわざ漆左先生に頼んでくれたようだ、と察したのは、ご丁寧に教室後方の調理台から離れた場所に座布団まで準備されているのと、満面の笑みの漆左先生とを見た時だった。
「まずは、正座してそこへお座りなさい」
 漆左先生は歯切れよくそう言い、丁太は「お願いします」と頭を下げ、上履きを脱いで、それを揃えてから座布団に正座した。
「あいさつと、履物を揃える習慣は大変結構。姿勢もよろしい」
「……はあ」
「膝が開いているので、つけるか、握りこぶし一つ分くらいの開きで」
「はい」
「足は、親指同士が重なるか、ついているように。そうそう、大丈夫。肘は垂直におろして、手は太ももと膝の間でハの字になるように置いて、脇は閉じるか、軽く開く程度にね。女の子でスカートの場合は、広げずにお尻の下に敷きます。まあ、一応これも覚えておいてください」
 そこまで説明し、丁太の周りを一周した漆左先生は、向かい側に正座した。
「とてもよくできていますよ。慣れないうちは足がしびれると思うので、そういう時は無理をしないように」
「はい、わかりました」
 これでお役御免、と、漆左先生には申し訳ないが、早々に退散しようと思った丁太だったが、「あなたはご家庭での指導がとても行き届いているようですね。おうちの方に感謝しないと」と漆左先生は言い、「ありがとうございます」とお礼を言った丁太に「せっかくだから……」と漆左先生は立ち上がり、調理台に何かを並べ始めた。
 そして、「こちらへどうぞ。お箸の持ち方や和食のいただき方も簡単ですけど、指導しましょう」と極上の笑みを丁太に向けたのだった。


 座布団を和室に返しに行き、部活に向かう頃には四時半を過ぎていた。
 ずいぶんと濃厚な一時間を丁太は漆左先生のもとで過ごした。
 お箸の持ち方くらい、魚の食べ方くらい、汁物のいただき方くらい……、知っているようで、意外と知らないことがあった。
 それでも漆左先生は、丁太の最初のあいさつと履物を揃えたこと、そして正座の指導のもと、実にきちんと座れたことを大層評価してくださり、将来役立つであろうマナーについてまで教えてくださったのだった。
「遅れてすみません」と、部活の練習に加わると、「漆左先生に何説教されてたんだ?」と、笑いながら訊かれ、「正座です」と答えると、顧問の先生まで笑っていた。
「見合いの事前練習?」と言われ、「違いますよ。だったら、先生や先輩が先でしょう。なんで僕が先なんですか!」と言い返すと、「円城、今からランニングしてくるか?」と笑いながら先生は言ったが、目は笑っていなかった気がした。
「いや、先生みたいに周囲が放っておかない人って、落ち着いて出会うにはお見合いの方が向いているかと……」
「わかっているじゃないか」
 先生と丁太のやり取りを見ていた一年生が、「いつの間にか、ずいぶん慣れた感じになったね」と言った。
「あ、そうかな……」
 曖昧に頷きながら、確かにそうだ、と丁太は思った。
 宝の言動に驚いた日から、いつの間にか、あんなふうに自然体でいられ、好きなことを言いながらも、不思議と好意的に受け入れられる生き方にひかれていた。
 無意識に宝を見ているうちに、そうした思いが、自身にも影響を及ぼしたようだ。
 この日のバレーボール部の片付け当番は二年生だったが、遅れてきたから一緒にやらせてください、と丁太は申し出て、最後の戸締りも買って出た。
 職員室に鍵を返しに行き、一人駅の方へ歩いていると、食料品の入った大きな布の袋を提げた漆左先生と、隣を歩く宝が見えた。
 漆左先生が見えた時には、わざとゆっくり歩いて顔を合わせないようにしようと思った丁太だったが、宝が一緒にいるのがわかると、速足になり、さもすれ違いざまに気づいた振りをし、しかも、漆左先生にだけ興味を引かれた演技までして、「あ、漆左先生、今日はありがとうございました」と、頭を下げた。
「いえいえ、今時正座や日本文化を学ぶ意志は感心です」と漆左先生は満面の笑みで答えた。
「漆ちゃん、円城君の正座指導どうだった?」と宝が訊くと、「円城君は、もともと礼儀正しい生徒さんですからね、誰かとは違って、とても優秀です」と漆左先生が答えた。
「何、それ、私のこと? 最初に会った時に私が言ったこと、まだ根に持ってるの?」と宝が訊く。
 何のことだか丁太にはわからなかったが、そういえば、バレーボール部合宿初日、いつもの調理部の顧問の先生が修学旅行の下見でいないため、別の先生が調理部の面倒を見ることになり、その時に口答えした怖い物知らずな一年生がいて、間に上級生が入ってというひと悶着あったという話はなんとなく聞いた。それが宝のことだったとは思わなかったが、今思えば、明るいけれど真面目な感じの調理部で、初日に来てくれた先生に、恐らくは横柄な態度で口答えできるのは宝くらいなものだと丁太は納得した。
「私はそんなに執念深くありませんよ。あなたはとても優しくていい生徒さんですよ」
 漆左先生はそう言って宝に笑った後、丁太の方を見て、「今日もね、弟の店に行くのに買い出しを手伝うって知ったら、宝さんが一緒に荷物を持ってくれるって言ってくれたんですよ」と説明してくれた。
「あ、そうだったんですね。これ、僕も持ちますよ」
 丁太は漆左先生の提げていた袋を一つ持ち、ついでというふうに、宝の手に提げていた袋も持った。
「ありがとう。助かる」と宝が言い、丁太はずっしりとした野菜の入った袋の重さも忘れ、「全然、こんなの大したことないよ」と笑った。
「漆ちゃんのうちね、日本料理屋さんなんだって。それで、漆ちゃんも調理師の資格は取ったんだけど、やっぱり先生になりたいと思って、そこから先生になる夢をかなえたんだって」
 宝の説明に漆左先生は照れ臭そうに笑いながら、「そうなんですよ。今は弟が父からお店を譲り受けていて、父は少し前に引退したんです。だから、お店が忙しい時には、こうして弟の店を手伝いにね」と頷いた。
 二人とともに駅の南口へ出て、少し歩くと、丁太が想像していたのより、ずっと大きく立派な店構えの日本料理店が現れた。
 漆左先生に続き、店の入り口ではなく、その横にある小さな木戸から中へ入る。
 そこには新緑の美しい、見事な日本庭園が広がっていた。
 そして、各部屋から庭を見ながらの食事ができるように、和室が設えてあった。
「漆ちゃん、すごいお嬢さんなんだね。全然そんなふうに見えないけど」と宝が真面目に言い、「あなたは本当に余計なことばかり言うわね」と漆左先生は若干気分を害した様子で言った。
「とても立派なお店で驚いています。先生がきちんとされているのも、頷けます」と丁太が場を繕って言うと、「円城君は本当にいい生徒さんね」と、漆左先生は機嫌を直した様子で頷いた。
「やだな、漆ちゃん、言っていることは、私も円城君も同じだって」と宝が言うと、「その伝え方で、受け取る方はずいぶん心もちが違いますよ」と漆左先生はぴしり、と言った。
 そして店の中に通された。
 店はランチ営業を終え、夕方からの営業に備えての準備中らしく、客の姿はまだなかった。
 細い廊下を歩いて行くと、着物姿の女性が「お疲れ様です」と頭を下げる。どうやらこの店の従業員らしい。飲食店でのバイトは丁太の学校でも比較的経験者が多いが、こうした本格的な店となると、なかなかにハードルも高そうな気がした。漆左先生はその着物姿の女性と言葉を交わした後、「うちの生徒なの。買い出しを手伝ってくれて」と二人を紹介した。
「こんにちは」と、いつもと変わらぬ明るさであいさつする宝の横で、丁太は「僕は荷物を少し持っただけで」と小さく言い、ぎこちなく頭を下げた。
「まあ、そうですか。ご苦労様です」と、和服の女性は品のある笑顔で会釈し、仕事に戻って行った。
 廊下を曲がり、奥の厨房まで行くと、その入り口で漆左先生が声をかけ、中から板前姿の男の人が出て来た。漆左先生の弟、ということで、さぞかし気難しそうな人かと覚悟したが、柔和な笑顔の人で、「やだ、漆ちゃんと全然似てないね」とここでも宝が思ったことを口にし、漆左先生が小声で「あなたは少し黙ってなさい」と叱り、漆左先生の弟さんは、あっはっは、と笑って、「そうでしょう」と言った。
「姉がお世話になっています。こんな人が先生で、生徒さんたちはさぞ、やりにくいでしょう?」
「うん、怖いよ」と、たった今、『少し黙ってなさい』と言った漆左先生の言葉を忘れたのか、無視したのか、宝がけろりと答え、丁太は息を呑んだが、「でもいい先生だよ」と宝は無邪気に続けた。
 先生の弟さんは目を細め、「ありがとうございます。これからも、どうかよろしく」と言い、丁太が慌てて、「こちらこそ、本当に漆左先生にはお世話になって感謝しています」とお辞儀をした。
「よかったなあ、姉さん」と漆左先生の弟さんは言った後、「今日は買い出しの手伝いをしてくださって、ありがとうございます。バイト代をと思ったけれど、ちょうどお腹も空く時間でしょう? 開店前にうちの料理をご馳走したいのですが、ご都合はいかがですか?」と宝と丁太に尋ねた。
 二人は顔を見合わせ、すぐに「ご馳走になります!」と返事をしたのだった。


 簡単な食事をカウンター横の座敷でいただけるとばかり思っていた二人だったが、先ほどすれ違った従業員の女性に丁重に案内されたのは、庭の見える一室だった。
「こちらへどうぞ」と案内され、丁太はすっかり緊張していたが、宝の方では「ここで食べていいの? ありがとう」と、実に自然体だ。
 顔が映るほどに磨かれた一枚板のテーブルを挟み、緋色のふかふかの座布団に向かい合って座る。
 まるでお見合いみたいだ、と丁太は思ったが、宝の方は心からくつろいでいる様子だ。
 二人の前には、美しい和紙のおしながきなるものも出されており、それを見て丁太は二度驚く。
 ちょっとした丼ものでも出るのかと思っていたら、前菜からお吸い物、お刺身、焼き物、揚げ物、蒸し物、そして水菓子までが出る立派なコースだった。
「ねえ、この最後の水菓子って、かき氷か何か?」
「果物のことじゃない?」
 実は宝のくつろぐ様子から、普段からこうした高級料理店で食事をしているのではと丁太は思ったが、どうやらそうではなく、宝は緊張せずにどこでも自然体でいる、ということらしかった。
「それよりさ、僕、ちょっと荷物持つの手伝っただけで、こんなに立派な食事出してもらったら、悪いよ……。お代、出した方がよくない?」
 こそっと丁太が訊いたが、「払うとして、いくら持ってるの? 私今、三十円くらいしかないよ」と宝はけろりとして言う。
「三十円!?」と、丁太は予想以上の宝の所持金の少なさに驚いたが、丁太の財布にもせいぜい二千円くらいしか入っていなかった。
「……どうしよう」
「食べさせてくれるって言うんだから、いいじゃん。子どもが変な気を遣う方がこういうところでは失礼だよ」
「そうかな」
 おろおろする丁太とは対照的に宝は堂々としたものだ。
 ……三十円しか持ってないのに、と思ったが、丁太は黙っていた。
 そのうちに、料理が次々と運ばれて来た。
 お店の人は、高校生二人がタダでご馳走になるにも関わらず、きちんとしたおもてなしをしてくださる。
「ああ、ちゃんと座らないと」と丁太は姿勢を改める。
「正座する時は、膝はつけるか、握りこぶし一つ分離すくらいで、親指同士は離れないように。それから、スカートはお尻の下に敷いて……」
 漆左先生に教わった正座を思い出し、丁太はきちんと正座した。
 宝もいつの間にかきちんと正座をしている。
 正座と一緒に漆左先生に教わった食事マナーも大層役に立った。
 汁物をいただく、その日常的な行為にも、きちんとマナーは存在する。
 宝は味に詳しく、香りづけしているものや、出汁についても次の料理を運んでくる店員さんと話し、大抵は宝が言った素材で合っていた。
「お若いのに感心ですね」と店員さんは言った後、「とても真摯にお料理に向き合ってくださったと伝えておきます」と満面の笑みで部屋を辞した。
 メロンとシャインマスカットの盛られた美しい器が最後に登場し、それを味わって、手を合わせてごちそうさまでした、と言い、二人は店の人、そして漆左先生とその弟さんの板前さんにお礼を言い、店を出た。
 宝は「また漆ちゃんと弟さん、ここでご馳走してくれないかな」と、実に楽しそうに言いながら、駅へ向かっている。
 その後ろ姿を見ながら、今日は夢のような日だった、と丁太は思った。
 そして、漆左先生が丁太に正座と食事マナーを直々に教えてくれたのは、初めから、今日宝と二人で食事をさせてくれるつもりだったからではないか、という考えが過った。
 いや、まさか……。
 帰り道で会ったのは偶然だ。
 そもそも、あの厳しい漆左先生が、そんなことを考えるとは思えない。
 それでも、今日、確実に丁太の中で何かが動いた。
「間場さん」と、丁太は宝を呼んだ。
「何?」
「僕と、またこんなふうに話してくれませんか?」
 言った直後になんか失敗した……、と丁太は思ったが、宝は「いいよ。っていうか、私ら友達じゃないの?」と笑った。
 宝に友達が多いことは知っている。
 そのうちの一人が丁太で、丁太にとっての宝の存在とは全く違うことも弁えている。
 それでも、嬉しいことに変わりはなかった。
「また、漆左先生の買い物を手伝う時は、僕も荷物持ちするよ」と、丁太は、宝との接点を探して言ってみた。
 宝は笑って頷いて、「今度、ケーキでも焼くから、漆ちゃんがいる時に、漆ちゃんの弟さんのお店に差し入れに行こうか。今日のお礼に」と言った。
「もちろん! 僕でよければケーキの材料の買い出しも一緒に行くよ」と丁太は嬉々として答え、先を歩く宝の隣へと並んだ。

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