[211]おすわり



タイトル:おすわり
発行日:2021/11/01

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:44
販売価格:200円

著者:海道 遠
イラスト:よろ

内容
 「俺」は八百屋の滋おじいちゃんに飼われている、コロ(本名、コロガキ)。黒柴リキと一緒に飼われている柴犬二匹。俺たち犬の「おすわり」は、人間の「正座」だ。
孫の女子高生モモカが時々遊びに来て、正座を習う。亡くなったおばあちゃん(滋おじいちゃんの妻)が正座がきれいだったとか。ある日、おじいちゃんが骨折し、松葉杖生活になってしまう。ご仏壇で合掌する時に正座ができないので、おじいちゃんは落ちこむ。

 
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本文

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第 一 章 コロのひとり言

 世間で「おすわり」と言われるのは圧倒的に犬の俺たちだろう。
 人間の言うこときく初歩だもんな。
 他には、人間の子供かな?
 人間の子供……大好きだ!
 駆けっこしてくれるしナデナデしてくれるし、甘い匂いがするし。でも、ナデナデされすぎてうっとおしくなる時もある。こういう時、人間は最近「めんどう」とか「うざい」って言うらしいんだよ。
 飼い主の滋おじいちゃんも最近の若者言葉はあまり分からないってこぼしてる。

 人間の子供も大人から、よく「座っていなさい」って言われてるな。あれは俺らの言われる「おすわり」と同じだな。はしゃぐの好きだから。
 俺たちは基本から教わったし、できたらご褒美はもらえるし、俺たちの方が得だし上手だろう。
 人間の子供はお座りしただけで頭ナデナデしてもらえたり、おやつもらえたりしないもんな。うん。
 待てよ? 「おすわり」ってそんなに高等芸なのか?
 俺たち犬には「伏せ」「寝ころん」「チンチン」の方が難しい。「尾まわり」も難しいぞ。いちばん難しいのは「おあずけ」だ。食べたいものが目の前にあるのに、ご主人様の「よし」がないと食べられないんだからな。あれは辛い!
 ま、いいや。
 人間には「おすわり」が、すごく大切な時があるみたいだ。
 でれ~~んとだらしない気持ちが引き締まるとか、飼い主の滋おじいちゃんも言ってる。

 俺は柴犬のコロ。本名はころ柿。滋おじいちゃんが名づけてくれた。後輩の保護犬、黒柴のリキ(オス・本名、チョーシューリキ)とのんびり暮らしている。
 え? チョーシューリキ? 滋おじいちゃんがファンだった「プロレスラー」とかの名前らしい。すごく強いんだって。俺の後輩のリキはツンデレの意気地なしだけどな。
 家族は八百屋さんやってる滋おじいちゃん。まだまだ元気。お店をひとりで切り盛りしている。力仕事もやる。俺もリキも果物大好き! スイカやリンゴやイチゴやマンゴー。
 たまに来る孫たち。年代はいろいろ。
 孫娘の高校生のモモカが、時々、八百屋のアルバイトに来る。
 最近、お母さんの言いつけで日本舞踊を習い始めたらしい。にほんぶようって、きれいなかっこうで踊りを踊ることらしいけど、「踊り」っていうのが俺には判らない。正座ができないとか言って、お行儀教室へも通い始めた。
 つまり、ちゃんと「おすわり」できないらしい。これは一大事だ!
「おすわり」って俺たちにとっても「おけいこの最初の一歩」だからな。と、黒柴のリキにも教えてやる。リキは俺より二才年下のくせに聞いているのかいないのか? 寝てばかりいる。
 モモカは体育会系少女で日焼けいっぱいしてる子。おしとやかな踊りがいやでいやで仕方がないらしい。
 たいいくかいけいしょうじょって何だっけ?
 滋おじいちゃんが、
「モモカ。運動部でも正座をちゃんとしなさいと指導されないか?」
「うちの剣道部とかは言われるけどね」
「じゃあ、お行儀教室や日本舞踊もちゃんとやりなさい」
「剣道部と日本舞踊の正座は種類が違うの!」
 モモカはむくれて立ち上がり、玄関を出ていってしまった。
 滋おじいちゃんは優しい。なのに、なんだ、モモカってば、おじいちゃんに口答えするなんて。

第 二 章 滋おじいちゃんがケガ

 おばあちゃんは、俺がもらわれてくる前に天国ってところに行ったみたいだ。てんごくってどんなとこなんだろう? 
 おじいちゃんがお風呂に入ってる時、外で待ってると「ああ、天国、天国」って言ってるけど。天国ってお風呂の中にあるのかな? あ、ごくらくの間違いかな? ごくらく?
 力仕事もどんどんやる滋おじいちゃん。
 だけどある日、トマトの箱を運んでいて、転んで足の骨を折ってしまった。
 病院から帰った滋おじいちゃんの片足には、真っ白い包帯ってのが、板と一緒に巻かれている。
「コロや、リキや、大丈夫だ。半月もすると歩けるようになるからな」
 にっこり笑って大きな手で俺とリキをナデナデしてくれたので、俺もホッとしてにっこりした。いつも不愛想なリキもにっこりした。

 滋おじいちゃんの息子や娘や大きい孫たちが大慌てでやってきた。おじいちゃんがお店を休みたくないっていうもんだから、ドドドと集団で手伝いに来たんだ。
 でも、お店のことを分かってるのは、滋おじいちゃんとモモカだけだからてんやわんやだ。市場へ行って野菜や果物を仕入れてこなきゃならないんだって。慣れないおじさんたちは、あたふたしていた。
 ようやく野菜、果物を全部並べて値札を立てる。準備が終わるとそんなに忙しいお店じゃないんだけどな。商店街じゃなくてお家のならんだ場所にポツンとあるから、普段は静かなもんだ。
 それでもおなじみのお客さんが野菜や果物を買いに来てくれる。
「おじいちゃんの足は?」
「うちの旦那、ここのほうれん草でなきゃだめなのよ。早く治ってね」
 とか、ご近所の奥さんやおばあちゃんが声をかけてってくれる。
 おじいちゃんの息子たちが代わりに交代で店番をした。
 おじいちゃんは、店の奥にひっこんで、曲がらない足を休めて過ごした。思わずやってきた「ゆっくりした時間」に落ち着かない様子だった。
「ばあさんが亡くなってから、こんなにのんびりしたことはなかったなあ」
 モモカが淹れてくれたお茶をすすってから、ご仏壇の方を向いた。
「骨折して困るのは、ばあさんのご仏壇の前で正座できないことだなあ。ばあさんはお行儀に厳しかったからなあ」
 そうか。おじいちゃんは、足が治らないと「おすわり」がちゃんとできないんだ。犬に「おすわり」ができないのと同じくらい困るよな。
「お行儀が悪いけど、これで勘弁しておくれな」
 そう言って、おじいちゃんはご仏壇の前でケガした方の足を伸ばして手を合わせた。
 ご仏壇の中のおばあちゃんの写真は、ふわふわの髪の毛をしていて微笑んでいて優しそうな人だ。本当にお行儀に厳しかったんだろうか?
 もしかして、おばあちゃんが生きていたら、俺とリキは厳しくしつけされてたかもしれないな。
 なんだかんだ言って、おじいちゃんは甘い。
 ドッグフードじゃなくて、俺たちに魚や鶏肉の入った煮物を作ってくれるからな。散歩の時に犬仲間が「ドッグフード」とやらを食べてると聞いて、俺たちはチンプンカンプンだったもん。
 そんなおじいちゃんのために、早く足を治すお手伝いができたらいいなあ。

第 三 章 モモカの正座のお稽古

 モモカがお店のヒマな時間に、おじいちゃんから正座のお稽古を受けることになった。
「まっすぐに立って。膝を床について。今日はジーパンはいてるな。スカートの時は膝の内側に裾をはさみこんで、かかとの上に座る。そうそう。そして両手は膝の上に置いて。もう少し膝をそろえて」
「だって剣道部じゃ、こういう風に開いて座るんだもん」
「武道の時とは違うぞ。普通に正座する時だ。うん、膝を寄せればなんとかなるな」
「できるわよ。おじいちゃんだって、ちゃんとお作法知ってるのね」
「そりゃあ、そうさ。ばあさんに仕込まれたんだ」
 おじいちゃんは、まだ包帯の取れない足を畳の上に伸ばしている。お転婆なモモカだけど、やればできるじゃん。
「座り方はできるけど十五分もつかな?」
 モモカはもう窮屈そうにモジモジしている。
 えっへん。俺の方が「おすわり」長くしていられるぞ。

 二、三日して、おじいちゃんがモモカに付き添われてタクシーちゅう車に乗って病院へ行き、帰ってきた時には、足に添えてあった板が無くなった。少し楽に動かせるみたいで俺も嬉しい。
 リハビリというものをするらしくて、俺とも散歩に行けることになった。俺とリキのリードはモモカが持っている。
 三回目のリハビリで、リードをおじいちゃんが持つことになった。急にリキが前から来た親子連れを見て走り出した。
 若いパパが連れていた三歳くらいの女の子は、駆け寄ってきたリキを嬉しそうにナデナデした。リキもおとなしくナデナデされた。

 だけど引っぱられたおじいちゃんは土手に倒れてしまい、治りかけの足を打ってしまった。
「いたたたた……」
「おじいちゃん!」
 おじいちゃんはモモカの肩を借りて、ようやく家に帰り着いた。
 リキがしょんぼりしていた。
「なんで急に走り出したんだ?」
 俺がきくとリキはバツが悪そうに、
「においが似てたんだよ」
「誰に?」
「前、俺を飼ってたご主人に」
 リキを保護犬にした、つまりリキを道端に置き去りにした人ににおいが似ていたっていう。
「でも、思い違いだった。俺のドジで、おじいちゃんをコケさせてしまった」
 リキはご飯の時間になっても口をつけず、お店の台の下にもぐりこんだままになっている。モモカが心配して台の下を覗きこむ。
「リキ、大丈夫。おじいちゃんはまた歩けるようになるから。そんなにしょげないの。おじいちゃんに立派なおすわり見せてあげなさい」
 リキはさっそく野菜の並べてある台の下から出てきて、おじいちゃんの前へ行き、胸を張って最高の「おすわり」をしてみせた。
「よしよし、リキ。カッコいいおすわりだぞ。また一緒に散歩へ行こうな」
 リキはシッポを振って「ワン!」と返事した。
 やれやれ。

第 四 章 プレゼント

 おじいちゃんがずいぶん歩けるようになった頃、リキが元の飼い主と似たにおいの人にまた出会った。
 子連れの若いパパさんだ。リキが嬉しそうに近づいていったので、モモカがリードを引いた。
「リキ、お嬢ちゃんが怖がるかもしれないから、急に近づかないの」
 若いパパさんは、髪を可愛いツインテールにしたこの前の女の子を連れている。
 がっしりしていて、うちのおじいちゃんよりとても大きい。よくおじいちゃんがテレビで見ているお相撲とりのひとみたいだ。おじいちゃんと俺たちに気づくと、背負っていたリュックを下ろして何やら取り出した。四角い箱だ。真っ赤なリボンがついている。それを持って近づいてきた。
「あの、これ、お礼に……」
 おじいちゃんは何のことだか分からずに、白髪の眉毛の下の目をぱちくりした。
「うちの、るる、この娘ですが、犬をさわるのが夢だったんですが、今まで勇気が出せなかったんです。でも、リキくんが近づいて来てくれたおかげで初めてワンコにさわれた! って大喜びで。ですからこれ、つまらないものですがお礼です。受け取って下さい」
「え、お嬢ちゃんが」
 おじいちゃんもモモカもびっくりした。子供が犬にさわれたくらいで、豪華そうなプレゼントをいただくなんて。
「うちのリキがお嬢ちゃんのお役に立ったんですな。でも申し訳ない……」
 おじいちゃんは頭をかいて笑った。
 るるちゃんは、今日もリキをナデナデできて嬉しそうだ。リキも目を細めてされるままにさせている。
 若いパパは「遠慮なさらず!」と言って箱をモモカに渡し、土手を、るるちゃんを肩車して降りていく。まるでゴリラがリスザルを肩車しているようだ。モモカは、その姿が微笑ましくて、クスッと笑った。
「ありがとうございます!」
 おじいちゃんの声が若いパパの背中を追ってこだました。    
 俺とリキとモモカは早く帰ってプレゼントを開けたくてたまらない。おじいちゃんは皆をたしなめて家路についた。

 プレゼントは開ける前に、ご仏壇にお供えされた。
「おじいちゃん、プレゼントされた品をお供えするのは変じゃないの?」
 モモカが笑っている。開けてみると、ドッグフード一式と、リキ用の可愛いドレスだった。リキはオスだが、せっかくだからとモモカにピンクのドレスを着せられて、いやがりもせずおスマシしている。いいなあ。俺もほしいなあ。
 それにしてもドッグフードをお供えされて、天国のおばあちゃんはどんな顔をしているんだろう? 思わず、ぶしゅっとクシャミが出た。

第 五 章 お店が!

 ある昼下がり、俺もリキもお店の床に寝そべっていた。
 もうすぐ学校を終わったモモカが来るはずの時間だなあと思っていた。
 そこへ――、横の道路を車が何台か通ったな~~と思っていたら、いきなり、
「ぐわっしゃ~~~ん! !」
 と、ものすごい音がして、お店のテントの端っこが破れてぶら下がった。
 それから、リンゴやトマトやキュウリやキャベツがたくさん、転がり落ちて、道路に散らばった。
 車がギギギ~~~ッと止まる音がした。
 モモカが血相変えて走ってきた。
「おじいちゃん!」
 お店に並べてあったものは半分くらい道路に転がっていたが、おじいちゃんは無事だった。
 車が角地に建ってるお店をかすったのだ。
 車が止まって男が降りてきた。真っ青になって、それでも走ってきた。
「お怪我はありませんか!」
「あ、ああ」
 おじいちゃんは答えた。モモカがおじいちゃんをお店の奥に戻した。
「す、すみません」
 車を運転していた男が自分で警察に電話した。
 ご近所の人たちも、何ごとかと家から出てきた。
「は、はい、怪我人、怪我人はいないと……」
 運転手が震える声で電話している時に気づいた。
 俺の後ろ足が真っ赤だ。トマトがぶつかったと思っていたら、どうも違うみたいだ。リキが心配そうにクンクンにおいを嗅いでいる。
 わ~~~! 俺、ケガしたんだ!
 運転手がこっちを見ながら、電話口に報告した。
「怪我人はいませんが、ケガ犬が一匹……!」

 俺はモモカに抱っこされて軒先でじっとしていた。
 おじいちゃんが座りにくいというのに、どうにか座って俺の顔を覗いた。ちっとも痛くないんだけど後ろ足がやっぱり赤い。
「コロ! コロガキや、大丈夫か、モモカ、救急車呼んでやってくれ」
「おじいちゃん、犬には救急車は呼べないわ」
「なんでだ?」
「僕の車で動物病院に運びます!」
 運転手の男が叫んで、モモカと俺を車に乗せた。

 病院で左足を包帯でぐるぐる巻きにされた。
 痛くなってきたけど、おじいちゃんみたいに骨が折れたんじゃないんだそうだ。
 病院から帰るとリキが寄ってきた。
「心配したぞ、コロ」
「わりぃわりぃ」
「お前があやまることはない。居眠り運転だってさ」
「居眠り運転?」
 なんてこった。居眠り運転なんかのせいで、俺はケガしたのか。
「コロ。大したケガじゃなくてよかったな。でもお前と一緒に足をケガするなんて、よほど仲がいいんだな、わしら」
 おじいちゃんが涙ぐみながら俺の首をゴシゴシした。

第 六 章 見舞い客

 ご近所のいつものお客さんや、知り合いのみんなが後片づけやお見舞いに来てくれる。
 軒先が壊れてしまったけど、それはすぐ修理できるんだって。
 損をしたのは俺だけか。

 次の日、モモカのお母さんくらいの女の人が日傘をさしてやってきた。くすんだピンクの洋服を着ている。いい匂いだな。
「この度は、とんだことでしたね」
「あのう、どちらさんで?」
 滋おじいちゃんが店の奥から松葉づえをついて出てきた。
「……初めまして。私、松野木と申します。あのう、ケガしたというワンちゃんは……」
 俺はまだ足が痛いから、縁の下に寝そべったままでいた。
 誰かな? お見舞いの人? これだから人気者は困るなあ。
「まあ、ここではなんですから、お上がりになってください」
「はあ」
 女の人、マツノギさんが日傘をたたんで、お店から少し入った土間のあがり口に腰かけた。
「どうぞお上がりください」
 滋おじいちゃんが戸棚からお茶セットを取り出した。
「ありがとうございます」
 マツノギさんはおずおずと土間から畳の部屋へ入り、丸いちゃぶ台の前に座った。きれいな座り方だ。これが俺たちの「おすわり」、人間の「正座」っていうんだと思う。
 膝をきれいにたたんで、スカートはきっちりと膝の内側にはさんである。なにしろ、まっすぐ伸ばしている背すじが気持ちいい。
 でも、顔はうつむき加減で曇っている。時々、俺の方を見る。俺はちょっとだけ、シッポを振ってやった。
 おじいちゃんがお茶を淹れた。
 マツノギさんは頭を下げた。
「どうぞ、おかまいなく。お怪我されてらっしゃるのに、おじゃまして申し訳ありません」
「ああ、この怪我は車が突っ込んだ時のじゃなく、わしが転んで骨を折っただけですわい」
「まあ……。ご災難続きで……」
「わしのドジですわい」
「あの、これ、つまらないものですが」
 マツノギさんは包装された箱をおじいちゃんに渡した。
「そんなお気遣いを」
「今日、お伺いしたのは、ワンちゃんがケガをしたと風の便りに聞いて」
「え、コロのお客さんなんですか」
 え? 俺の?
「はい。私、こちらの奥様の瑞恵さんの、知り合いなんです。ほんのしばらくお行儀教室でご一緒させていただきました」
「そうでしたか。うちのと」
 おじいちゃんは、どっちのお客さんなんだかわからずに首をかしげている。
「あのう、ご仏壇におまいりさせていただいてよろしいでしょうか?」
「ああ、ありがとうございます。隣の部屋です」
 ご仏壇の前でまたきれいな座り方をして、お線香をあげ、白い手を合わせた。
 土間から背伸びしてたら、全部見える。
 マツノギさんは、ちゃぶ台に戻ったと思ったら、急にお座布団を横へやり、ガバッとおじいちゃんに頭を下げた。
「お許しください。コロくんを五年前、お店のシャッターの前に段ボールに入れて置いておいたのは、私なんです」
「な、なんですと?」
 なんだって~~~~?
 俺の耳が、ピ――――ンと立った!
「お許しくださいっ」
 マツノギさんは土間の上がり口まで下がって頭を下げた。
「どうしても飼えない事情がありまして、奥様が犬好きだとおうかがいしていたので、育てていただけるのではと思い、夜中にお店の前に置いたのです」

第 七 章 おじいちゃん、怒る

 マツノギさんは泣いていた。
 でも、びっくりしたのは俺の方だ。リキも聞き耳を立ててやってきた。
 俺は子犬の時に、おばあちゃんの知り合いからもらわれてきたと聞いていた。なのに、お店の前に捨てられてたのか!
 ショックだ。足をケガしたことよりショックだ。
 マツノギさんていう女の人も優しそうだし、うちのおじいちゃんも優しい。なのに心にぽっかり穴が空いたみたいだ。
 俺って必要とされてなかったんだ……。
 コソコソと縁の下の奥に潜りこんだ。
「何ですと? コロを入れた箱をうちのシャッターの前に置き去りにしたのが、あんたですと?」
 おじいちゃんも声を強張らせた。
 俺はよけい辛い。
「許してくださいとは申しません。大切な命を放り出したんですから。でも、この度の事故を知って、あの時の子がどうしているか気になって……」
 おじいちゃんの声はもう聞こえなかった。黙りこんだんだろう。
 しばらくして、マツノギさんが日傘をつかんで出ていく気配がした。

 すれ違いにモモカが来た。
 もしかして、お店の入口で立ち聞きしてたのかもしれない。
「おじいちゃん……」
「犬を捨てるなんて……」
 と、言ったきりだ。
「おじいちゃん、落ち着いて」
 口を「へ」の字に曲げて、ご仏壇の前に座ったおじいちゃんは相当機嫌の悪い時なんだ。俺もリキも知ってる。
「はい、おじいちゃんの大好物の芋焼酎持ってきたから、ご機嫌なおして」
 モモカが笑顔で言った。
「私、あの人と会ったことあるわ。昔、おばあちゃんが会わせてくれたの。中学生の時、お茶席に連れていってくれて正座も丁寧に教えてもらったの。おばあちゃんとも仲良くて」
 おじいちゃんは返事をしない。
「コロのことは……。コロはあの人の家で幸せに飼われ始めたのよ。だけど、コロを飼ってみて娘さんが重度の犬アレルギーだってわかったのよ。急に全身にアレルギーが出て呼吸困難になったのよ」
「……!」
 おじいちゃんが顔を上げた。
「一刻を争ったのよ。早く犬を遠ざけないと、命に関わったそうよ。慌ててたんで、誰かに預けるとかも考えなかったみたい」
「なんてことだ……」
「それでも当時のことをずっと後悔していて、今回の事件のことを聞いて飛んできてくれたのよ! コロのことが心配だから」
 おじいちゃんはじっとしていたが、急に顔を上げた。
「モモカ、さっきの女性を追いかけてくれ! そんなに遠くには行ってないはずだ」
「はい! そうこなくちゃね、おじいちゃん」
 モモカははりきって走っていった。

第 八 章 「おすわり」を教わった人

 マツノギさんがモモカに呼び止められて戻ってきた。
「コロガキのやつを見舞ってやってください」
 おじいちゃんは穏やかな顔に戻って言った。
「ありがとうございます」
 マツノギさんが俺のことを探して縁の下を覗きに来た。
 子犬だった俺を段ボール箱に入れて捨てた人だって? でも、どうしようもないじじょうっていうから、困ってたんだよな。
「コロくん、おいでおいで。大きくなったね。おばちゃん、時々、お店に見に来てたんだよ」
 いい匂いのする手を差し伸べてきた。そう言われるとなんとなく覚えてるような気がするぞ。
「おい、コロ」
 リキがでかい態度で声をかけてきた。
「捨て主じゃなくて、前の飼い主だと思えばいいじゃないか」
「……そ、そうだよな」
「俺なんか、捨て主の顔も分からないのに、お前、幸せだぞ。コロガキ」
「呼び捨てするな、後輩のくせに。リキめ」
 リキはプイと横を向いて行っちまった。でも、リキの言うことはもっともだ。前の飼い主の顔が、こんなに優しそうな女の人だって分かったんだもんな。
「コロ、左足をケガしたのね。可哀想に。痛い?」
 そんなに痛くない。すりむいただけだから。
「私が『おすわり』教えたの、覚えてるかな? まだ二か月にならない頃だったけど、上手にできたのよ」
 えっ。「おすわり」教えてもらったの、この人から? てっきりおじいちゃんだと思ってた。
 モモカがにこにこして見ている。
「コロの『おすわり』は、特急品だっておじいちゃんから褒められてるんですよ。人間でいう『正座』だって」
「まあ、正座。奥様の瑞恵さんから私もよく教わりましたわ」
「はい。私も覚えてます」
「あの時のモモカちゃんよね。中学生だったかしら」
「はい。その節はどうも」
 モモカはかしこまって挨拶した。
「コロ、おすわり。やってみて、マツノギさんを安心させてあげて」
 しゃーないなあ。座ってやる。全然痛くなく「おすわり」できた。
「ほんと! きれいな『おすわり』ねえ」
 そうだろ。まるで超イケメンが帝王座りしてるみたいだろ。
「コロ、『お手』してみてくれる?」
 ほい。お安いご用だ。白い手のひらに、焼き立てのパンの色みたいな俺の手を乗せた。
「ありがとう。コロ。うちのチサトもアレルギーが治って、早くコロに会いにこれますように」

 春の夕暮れの匂いが忍び寄ってきて、マツノギさんは立ち上がった。おじいちゃんが軒先に出てきた。
「先ほどは失礼しましたな」
 照れている。
「いいえ、コロくんに会わせて下さってありがとうございました」
 丁寧に頭を下げてマツノギさんは帰っていった。モモカも帰ろうとした。

「モモカ、ちょっと待て!」
 おじいちゃんに呼び止められたモモカは、戻ってきた。
「正座のお稽古して帰りなさい。コロガキに負けないようにな」
「はいはい」
 正座のお稽古は、いつもよりスムーズにいった。
「モモカ、上手になったじゃないか」
 おじいちゃんが褒める。
「だって。この前、彼のとこへご挨拶に行ったんだもん」
「何だと、彼?」
「うん。今日、呼んであるの」
 おじいちゃんは目を白黒させている。いきなり「彼」と来たもんだ。俺とリキも顔を見合わせて目を白黒させた。
 しばらくして、やってきたモモカの彼は、なんと、居眠り運転で店にぶつかった運転手だった。俺を車で病院へ連れて行った時になんだかふたりの様子が変だな、と思ってたんだ。
「先日はすみませんでした」
 モモカの「彼」が、スーツを着てやってきた。わりといい男じゃないか!
「モモカさんの――」
 言いかけたが、おじいちゃんがさえぎった。
「お前さん、なんだ、その座り方は! うちのコロとリキより『おすわり』が上手にできるまで、うちの可愛い孫娘は嫁にやらんぞ」
 これは長期戦になりそうだ。

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