[230]正座の自律


タイトル:正座の自律
発行日:2022/07/01
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:22

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:48
販売価格:200円

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
某善位(ぼういい)高校に入学した整子(せいこ)は、学力トップ三十名の特待生クラスに入れず不満を抱いていた。
仲良くなった二人は勉強はできるがあまり真面目に授業を受けず、整子は二人と友達でいるために和室での授業の際にも当初の正座からあぐらをかいて座っていた。
度を越えた私語により、整子は授業態度を注意され自己嫌悪に陥る。
そんな時、オーストラリアからの留学生ミアがやって来て、クラスの雰囲気が良くなり……。

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本文

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 某善位高校での入学式、花行整子は、恨めしい思いで最前列の席に座る三十名の新入生を見ていた。
 某善位高校は、専攻科目が多岐に渡り、スポーツ推薦枠も多く、留学生の受け入れもしている学校で、生徒数は一学年二千人を超える。
 故に入学式は、様々な有名人がコンサートを開くような大規模なホールを貸し切りにして行われる。
 そしてこの時の席順、及び入退場の順番は、常に特待生クラスが優先された。
 この特待生クラスとは、スポーツなどの部活枠とは別に、勉学で優秀な精鋭三十人で、普通科の生徒とは別のカリキュラムが組まれ、長期休みには合宿を行い、国公立大学を目的に三年間同じメンバーで切磋琢磨し合うクラスである。この特待生クラスになれば、選りすぐりの教師陣が各教科を担当するので塾に通う必要もなく、また、制服や学用品、修学旅行などの費用以外、つまり学費や設備費といった月謝が免除になる。
 この特待生クラスの選抜方法は、入試後に合格した生徒が、入学前学力テストを受け、その上位三十名を決定するというものである。
 学年の中には部活枠での入学の生徒もいるわけだが、それでも一学年二千人の中での三十の席は非常に狭き門であった。
 中には某善位高校よりも学力が上の難関校に合格できる生徒が、この某善位高校の特待生クラスの学費免除や塾に通う必要のないといったメリットから、某善位高校の入試を受け、特待生クラスに入る、という例もある。
 整子は難関校に合格できる学力は持ち合わせていなかったが、英語、数学は中学の間に二級までを取得し、漢字検定は一級を取得。入試で重視される内申点もかなり高かったことから、上位三十名であれば、一位、二位は無理でも二十位くらいには入れるだろうと踏んでいた。
 万が一、特待生クラスに入れなかったとしても、学費免除などはないが、特待生クラスの次に控える特別コースの理系、文系の各十五名の属するクラスには確実に入れると確信していた。
 もちろん、高校受験が終わり、周囲が勉強から解放されて遊んでいる間も、学力テストに備えて勉強する努力を怠らなかった。
 しかし、クラス別の書類が届いて開けてみれば、整子は普通科に属していた。
 つまり、特待生クラスには入れなかったばかりか、特別コースにも入れなかったのである。
 整子には、学費等の事情はなかったが、特待生クラスに入れば、両親が喜んでくれるだろう、という思いもあり、また、正直、周囲からの羨望、尊敬の眼差しもほしいものであった。
 すっかりそのつもりでいた整子は、大層解せない気持ちで、特待生クラス、特別コースの座る席より後方の普通科の指定されたシートに座っていた。
 しかも、特待生クラスに座っている生徒の会話に耳をそばだててみれば、春休みには泊りがけでテーマパークに連れて行ってもらったとか、アニメのイベントをはしごしたとか、毎日ゲーム三昧だったとか、いかに勉強せずに春休みを遊び暮らしていたかを強調し、勉強しなくとも特待生クラスに入れちゃった、という、勝手に聞き耳を立てている整子からすれば自慢大会としか思えない会話が繰り広げられていた。
 この場で、本当は勉強していたんじゃないの? と言ったところで、ひがみにしか聞こえない、と思うと、せっかく入りたかった某善位高校に入学できて、両親も喜んでくれたし、祖父母も親戚もお祝いを送ってくれたりしたのに、当の本人がこれでどうする、しっかりしないと、と本来の喜びに満ちた心へと軌道修正を試みる。
 そして、ふと横を見れば、もう打ち解け、友達になっている女子がいる。
 味子という子が、市内で有名な日本料亭の孫だとほかの子がいい、味子という子は、でもうち、全然作法にも厳しくないし、正座をして食事することもないよ~と言って笑っている。一緒に話している子は、うちはオムライスやハンバーグやピザがメインだけど、リフォームして物置状態だった広い玄関を居間にして畳にしたから、ごはんの時は正座だよと答えている。背筋を伸ばしたり、足の親指同士が離れないようにしたり、毎日正座すると、わりと気づくところもあるんだよねと答えている。
 なんの悩みもなさそうに笑い合っている、解放そのものといった感じの呑気さ……。
 これはこれで、特待生クラスの余裕の会話とはまあ、根本的な部分で違うが、その特待生クラスとの違いにすら気づいていない、言わば気楽さなるものを天秤にかけるのであれば、味子とかいう普通科で、整子と同列扱いのクラスメイトが特待生クラスにも勝っていそうなくらい心軽さ……。
 そのことが、ただ勝手に人の会話に聞き耳を立てている整子をとてつもなく苛立たせる。
 クラス内には、整子と同じように特待生クラスを望んだ生徒がいるはずだ。
 その仲間を探して、互いに切磋琢磨し合い、三年後の受験時にその差を、この呑気なクラスメイトに思い知らせよう……。
 周囲を僅かの間見渡したが、整子はそれもすぐに諦めた。
 特待生クラスへの未練は残ってはいるが、結果は結果であり、ここで同じ未練を持つ者同士が結束したところで、どのくらいの期間、友情は続くのか、そもそも友情に発展するのか、と考え、ため息をつく。
 整子の中学時代の仲良しの友達の学力は、全く統一性がなかった。それこそ難関校と言われる学校に合格した友達は塾に行かず、ゲーム時間の制限を設けることもしていなかったし、整子よりも真面目に塾通いをしていた子の学力がそれほど高いということもなかった。けれど、それが友達関係に影響したことはただの一度もなかった。補習になった友達が放課後一緒に帰れない、という時に、「じゃあ、ゲームして待ってるよ」と言う勉強のできる友達、「塾があるから帰るね。また明日」と急いで帰って行く友達、「塾行くまでここで勉強して待っているよ」という整子。そういう自分と友達の都合に折り合いがつけられる仲間だった。
 ……特待生クラスのことに気を取られていたけれど、高校で、あんな友達はできるかどうか……。
 味子たちの、整子からすれば、どうでもいい話を横で聞きながら、整子はふと不安になった。


 整子の残る迷いをよそに、学校生活はスタートした。
 クラス委員に選出された整子は、英語の授業での発音もよく、教室内でも一目置かれる存在になった。
 そうした整子と親しくなったのは、やや派手で要領のよい女子二人だった。
 仲良くしてみると、二人はもともとの頭がとてもよいようで、本気で勉強すれば、難関校に合格できる能力があるようだった。
 ああ、上には上がいる……。
 この二人が遊んで過ごして受けるテストと、整子が頑張って勉強して受けるテストとで、どちらの方が高得点だったかと考えると、さっぱり自信がなくなった。
 二人とも授業の直前に小テストの範囲をざっと見ただけで、必ず満点を取るが、英語や古文の細かな下調べや、歴史のややマニアックな知識などが求められる教科は苦手なようで、赤点を取らない程度にやればいい、という認識だった。
 小テストの勉強は欠かさず家で行っている整子は、それを二人に知られるのが恥ずかしく、二人と同じでいるように振る舞った。
 周囲を見れば、小テスト前に真面目に勉強しているクラスメイトは大勢いる。
 もともと勉強に力を入れている生徒の多い学校だから、ごく一般的な光景だったが、整子にとって重点を置きたいのは、友達との関係で、二人が楽しそうに喋っている中、「ちょっと勉強する」と言って、単語帳やノートに集中することはなかった。それに、二人は頭がいいことに加え、大層面白おかしいことが好きで、ジュースで口をいっぱいにした状態で誰が一番長く、笑わずに我慢できるかとか、先生の真面目な問いにわざとボケを入れ、クラスの全員がスルーするたびに、下を向いて笑いを堪えている、といった学校生活を送っている。整子もその面白さについつられる。
 特待生クラスを目指していた勉強熱心な子と仲良くなりたい、という希望は、二人のあまりの面白さに圧倒されて、早々に消え去ったが、今の状況は決して整子にとってなんというか、落ち着いた、本来の定位置ではなかった。
 古文の時間、和室に移動し、先生がお香やお茶の道具を持参し、どのような嗜みが行われたかを教えてくれる場で、整子は無意識にきちんと正座をしていたが、二人の友達があぐらをかいてスカートの前を抑える格好で座っているのを見て、慌てて同じ座り方をしたりもした。
 二人の友達は、先生の話を全く聞いておらず、前に座っている男子の靴下が薄くなり、指が出ているのに気づいて、前に座っている男子に話しかける。
 男子は「そうなんだよ。お母さんに靴下代もらったけど、ラーメン食べに行って遣ったから、もうしばらくしたら、また靴下破れたって言う」と恥じる様子なく説明し、それを受けて「ああ、うちの学校指定の靴下一足千円だもんね」とか二人は納得して、男子が「そうそう、まあ、穴空いたら、通気性もいいし、これはこれで流行んないかな。財布にも優しい、肌にも優しい、地球にも優しい、足も臭くならない。もう、メリットしかないじゃん」と言い、「本当に臭くない? ちょっと試してみてよ」と、整子に話を振る。「え、本当にやだ」と即答し、「財布にも肌にも地球にも優しい靴下なのに、花行さんは優しくないな」と男子が言い、「ええ、そういう解釈?」と思わず声を上げたところで、「花行さん、いいですか?」と、穏やかだけれども、怒りを含んだ先生の声が響いた。
「え、私だけ?」と再度声を上げ、靴下の男子と友達二人が俯き、肩を震わせて笑いを堪えている。
 古文の先生は、話を中断し、「ちょっと皆さん、背筋を伸ばしましょう」と手を叩いた。
 整子は俯いたまま、先生の声を聞く。
「せっかくですから、正座してみましょうか。女の子はスカートを広げずお尻の下に敷いてくださいね。膝はつけるか、握りこぶし一つ分開くくらい。ノートを取っていなければ、脇はしめるか、軽く開く程度で、手は太ももと膝の間でハの字になるように。そうそう、そんな感じですね。足が痺れたら、無理しないように」
 先生はそう正座の指導を口頭ですると、授業に戻った。
 ほんの僅かの時間だったが、あぐらから正座に改める自分が、整子はとても恥ずかしく感じた。
 正座をするキッカケを作ったのは不本意ながら整子ではあったが、それを押しやるほどに、後悔や焦りが整子の心を占めた。
 授業の後、質問のある人はどうぞ、と先生が言うと、何人かの生徒が集まっている。
 そこには味子もいて、先生が「お母さんのご実家のお店にある屏風や花器、素敵ですね。お料理ももちろん素晴らしいですが」と、何やら味子の母の実家の日本料亭をほめていた。当の味子は、「そうなんですか。子どもの頃から、絶対に触ったら駄目だって言われて、あんまり興味もないし、気にしてなかったですけど」と答え、「それはまあ、大層価値のある素晴らしいものですからね」と、その古文にも先生の興味を示す屏風や花器にも関心のない味子に対し、先生は親しみをこめた話し方をしている。
 先生は、学校で生徒に勉強を教えるのが仕事で、生徒は高校で取るべき単位があって、その間には義務が生じる。
 恐らく、整子やその友達は先生にとって義務で教える存在で、味子たちは教師としての喜びを感じられる存在なのだろう。
 ……本当の私はどうしたいのだろう、と整子は心の中で呟いた。


 五月に入ってすぐに、大会に勝ち進んでいる女子バスケ部の応援があると担任から話があった。
 試合が行われるのは週末で、本来なら休日だが、これも学校行事の一環だという。
 鍛え抜かれた身体に、さわやかな雰囲気のスポーツ推薦の生徒たちは、入学式の際にも集合写真を先に撮って、すぐに部活動に戻って行ったし、校舎も別なのでほとんど接点はない。
 まあ、ほぼ知らない人と言ってもいいのかもしれないが、自分たちが朝六時頃に起床して、朝の授業開始までのんびり過ごしている間、寮から活動場所へ直行し、先輩、顧問の先生が来る前にコートの準備をして整列、はっきり揃ったあいさつで部活動に全力投球している同学年の子たちがいて、その子たちが活躍する場を見に行ける、というのは、とても意義のあることに整子は思えた。
 また、整子が某善位高校に合格できた時から、両親は市の大会などの結果を新聞で見つけては、「整子の高校の~部が勝った」とか、「整子の高校の~さんという子が入賞している」とか、嬉しそうに話題にしていた。整子の高校、という言い方もどうかとは思うが、整子を生活の大きな軸にしてここまでやってきてくれた両親の無意識の感情だと捉えると、ありがたいと感じる。
 先生は名簿を片手に、順番に応援に出席するかどうかの確認をし始めた。
 最初の数名は「出席します」と答えたが、途中、運動部の男子が「部活があるので欠席します」と言い、二、三人あけて、「親戚の結婚式に行くので、欠席します」と答えた。整子より先に呼ばれた友達二人は「前から予約していた家族旅行があります」、「法事があります」と言い、「行けないの?」と小声で訊いた整子に「証明書とかいらないから、行きたくないなら、適当になんか言えばいいんだよ」と説明した。「え、じゃあ、さっきの用事は?」と重ねて訊くと、「ないけど、行くの面倒だから」と言うことだった。整子は迷ったが、「親戚の集まりがあります」と答えておいた。親戚の集まりがあるのは嘘ではなかった。ただし、集まれる人だけ、無理をしないで、という約束で、当然学生である整子は学校行事が優先されるはずだった。
 先生は全員の出欠を確認すると、年季の入った応援グッズを出席者に配布し始めた。
 今ならまだ、出席しますと言っても間に合う、という思いを抱え、整子は罪悪感を抱いたまま俯いていた。
 きっと両親は、せっかくだから、応援に行っておいで、と言うだろう。
 だけど、受験勉強でお正月もみんなに会ってなかったから、と整子は言う心づもりまで準備している。
 そういうことが、なんだか心苦しかった。
 隣の列では、呑気な顔をした味子たちが、配布されたばかりの応援グッズを手に笑い合っていた。


 整子ともう一人の学級委員が職員室に呼ばれたのは、昼休みだった。
 明日オーストラリアから留学生の女の子が来るので、朝、職員室まで迎えに来るようにとのお達しだった。
 留学生の件は、以前から聞いていた。
 入学後に配布された様々な書類の中に、留学生のホームステイの受け入れの希望の有無に関するものが入っていて、整子の家は個室をそれぞれの家族が使っていて、その個室も客人の布団を敷くだけの余裕がないので、ホームステイの受け入れは希望しなかった。それもあって、なんとなく、留学生が来ることは知っていたが、自分とは無縁であるような気がしていたのだった。
 担任の先生によると、同じクラスの味子の家がホームステイの受け入れを希望していたので、味子の家にお願いするということだった。
 整子ともう一人の学級委員の役割は、留学生に朝教室まで同行し、その日の昼食を一緒に学校の食堂で取り、放課後に味子に引き合わせることだった。食堂は混雑するし、昼食代もかかるが、そこは学校の経費で、席も来賓用の席を留学生とその案内係で取っておいてくれるそうだ。さすが、某善位高校という感じがしたが、友達二人と別行動になることが、整子は少し不安だった。
 午後の授業は英語で、外国人の先生が物語の一説を出し、それに関してどのように感じたかをどんどん出すようにと指示を出す。
 すぐには答えない生徒に向かい、先生は、「例えば情景が寒そうとか、雰囲気が楽しそうとか、そういう思ったことでもいいです」と続ける。
 知っている英語で、皆が答え、先生がそれを繰り返してどんどん黒板に書いていく。
 こうして語彙力をつけていくらしい。
 勉強のできる子は、長文できちんと答え、先生がそれに対して英語で質問を重ねたり、同意したりして、会話が続く。
 このくらいの会話は整子でもできるが、二人の友達の手前、単語で答えた。だが、意外にもといっては失礼だが、二人は長い英文でそれに応じていて、先生が名簿に記しているのがプラス点だとわかり、嗚呼、私は一体何をやっているんだろうと整子は心の中でくずおれた。
 そうして翌日の朝、整子はもう一人の学級委員とともに職員室に向かった。
 職員室に向かう際、友達二人は「お疲れ」とか、「行ってらっしゃい」とかを言って、笑って送り出してくれた。
 こうして見ると、無理して肩に力を入れているのは、自分だけ、というのがわかる。
 それもなんだかむなしくて、整子はため息をついた。
 到着した職員室で対面したのは、思ったより小柄で茶色の艶やかな髪をした、ミアという女の子だった。
 一週間の留学中の荷物を詰め込んだらしい大きなリュックが先生の机の横に置かれ、学用品の入ったバッグを持ったミアが立っていた。
 想像していた大げさなジェスチャーなどはなく、ミアは「ミアです。オーストラリアから来ました。よろしくお願いします」と、練習したらしい日本語であいさつしてくれた。
 整子は英語で自己紹介し、「困ったことがあったら、何でも言ってください」と伝えた。
 ミアはあらかじめ考えていたことは日本語で言ったが、ふいに思ったことは英語で発した。
 それにごく自然に英語で応じられる自分が、整子は嬉しかった。
 自分ができることを、当たり前にしているということに、ここのところ飢えていたのだと思う。
 けれどそれは、誰に強要されるものでもなく、整子自身が勝手にしていることで、楽しんでいるのも事実だった。同時に、自分を抑えていなければ、今、あの二人と友達関係を続行できていたかどうか……。そう考えると自信がなくなる。
 今日はミアのお迎えがあったので、朝の授業までの時間を二人と過ごせなかったことで、整子の中には少しの焦りが生じていた。
 そんな整子の心の内を察してかはわからないが、ミアは朝、教室の前まで到着すると、整子ともう一人の学級委員に「朝、迎えに来てくれてありがとう」と日本語で言った。「そんな、全然気にすることじゃないよ」と学級委員が言い、整子も頷いたが、そんなことを言わせてしまったことを整子は申し訳なく思った。ミアは、誰一人知り合いのいない教室にこれから入り、一週間を初めて来た国で過ごすというのに……。
 この日の歴史の授業は、ミアに先生が簡単なあいさつをした後、通常通り開始されたが、歴史についての入り口で、いつものように先生が生徒にいくつかの質問をした。答える生徒は少数で、その返答も短かった。しかし、ここでミアは、不慣れな日本語で自分の国との関連性に触れ、更に最近の日本の経済状況などにも結び付けた意見を述べた。先生は次第にその目を真剣に輝かせ始めた。周囲の生徒も朝聞き流しているテレビのニュースの内容と、歴史とのつながりに、視線を自然にミアヘと向けた。
 発展していく内容に、授業の内容は普段より明らかに質が上がり、生徒からの意見も活発に出るようになった。
 授業の終わりに先生はミアに拍手し、「今日は素晴らしい授業ができました。これからもぜひ、皆さんが勉強していることが生活にいかに近しいものか学習していってください」とまとめた。
 先生が去った後の教室で、整子は次の授業の準備をしながら、さまざまなことを思った。
 某善位高校に入学する生徒の大半は、勉強が得意な生徒だ。
 そして、その何割かは、毎回授業で挙手し、ほかの生徒が手を出さない問題を黒板で解いた経験があるはずだった。
 けれど、皆が皆、同じような学力になった教室の中で、互いをけん制する暗黙の了解があり、その突破口になる者はなかった。
 その空気を、ミアは到着後一時間で変えた。
 その勇気、潔さ、そして、真っすぐな精神。
 そうしたものに、整子は感動したというより、深い敗北感を抱かされた。
 本当は、そうしたい、と思いながら、抑制し続けた行動の全てを目の前で示された気がした。


 食堂でぼんやりしていると、ミアと学級委員が二人で話していた。
 この日のランチはあらかじめ用意されていて、ハンバーグにサラダ、ごはんにお味噌汁、プリンがデザートでついていた。
 整子にとっても、このランチは初めてだった。
 携帯を出して、食べる前に写メを撮り、教室でお弁当を食べている友達に送る。
 すぐに返事がくる。
 また何かを送ろうとし、ふと前方を見ればランチを前に目を輝かせているミアがいた。
 ミアにとって大切な場面で、自分がしていたことに気づく。
 ……いつから私、こんなになってしまったんだろう、と整子は思った。
 いや、もともと大層な人間でもなかったけど、こういうことは中学まではしなかった……。
 今の自分のしていたことは、ミアに対しても、そして教室にいる友達二人にも失礼に当たる。不安から逃れるために、整子は写メを送って、それはありがちなことだけれど、友情とはほど遠い感情だった。
 整子はそっと深呼吸した。
 ああ、この感じ、正座をしてきちんと食事をいただく時に似ている、と整子は思った。
 正座はしていなかったが、「いただきます」と、手を合わせ、箸を取る。
 デミグラスソースのかかったハンバーグから。
 しっかりとしているけれど、優しい味わいだ。
 ごはんを食べ、お味噌汁をすする。
 和食は汁物から、という話を昔教わったことを思い出し、ふと湯気の立つ椀から目を上げるとミアと目が合い、どちらともなく微笑み合った。
「とてもおいしいです」とミアが言い、もう一人の学級委員と「よかったね」という気持ちで左手をトレイの端の方からのぞかせ、Vサインを見せ合う。
 もう一人の学級委員は、まずプリンから手をつけた。
「もう、高校だから、好きなものから食べることにしたんだ」
 その照れ臭そうな顔に、ミアが「おいしいですか?」と、色素の薄い目を向けて尋ねる。
「はい、おいしいです」と学級委員が笑って答える。
「お箸、上手だね」と、学級委員が褒めると、「少し練習してきました」と答える。
「準備だけでも大変なのに」と整子が言うと、「日本の文化をたくさん学べるのを、楽しみにしています」と頷く。
「例えばどんなことなの? よくわからないんだけど」と整子が続けると、「玄関で靴を脱いだり、お風呂の湯船のエチケットはわかるんですけど、椅子を使わないで座る……」と、そこでミアは言葉を探し、「正座?」と学級委員が訊くと、「はい」と頷いた。
「日本のお作法は、とてもひとつひとつに意味があって、興味があるので、たくさん学びたいです」とミアは笑った。
「偉いなあ。この人なんか、この前みんなが正座している授業の時に、平気であぐらかいて、私語までしてたんだから」
 学級委員が余計なことを言い、首を傾げるミアに、「気にしないで」と整子は引きつった笑顔を向け、そっと学級委員を睨んだ。
 給食とも、仲のいい者同士のランチとも違う、こそばゆくて、少し緊張して、けれどそれが面白い。
 こんな付き合い方もあるんだ、と思う。
 そう、こんなふうに付き合えるんだ、と。
 昼食の後、ミアは整子ともう一人の学級委員に「どうもありがとう」と言った。
 もう一人の学級委員は、「まだ食べたことのないランチが食べられて、こちらこそありがとう」と恐縮し、整子は「こっちこそ、すごく楽しかった。ありがとう」と答えた。
 食堂に行く時よりだいぶ打ち解けた三人は、新学期から友人のように肩の力を抜き、教室へ戻った。


 ミアと打ち解けた整子は、余計なお世話ながら、単語レベルの英会話の味子にミアを引き合わせるのに一抹の不安を抱いた。
 言葉数少なくミアをどうにか誘導する味子と、それに小さく頷きながらついて行くミアの二人を、整子はなんとも心もとない思いで見送った。
 翌日も心配していた整子だったが、ミアはあっさりと味子と打ち解け、また、味子の仲間とも親しくなっていった。
 持参したお弁当も、味子の母がミアが食べやすいようにサンドウィッチにした、という話も漏れ聞こえてきた。
「うまくいっているみたいでよかったね」
 我に返ると、整子の友達二人が整子の顔を覗き込んで、「味子ちゃんたちとミアちゃん」と付け加える。
 もう一人の友達も、「整子、ミアちゃんのこと、ずっと心配していたでしょう」と訊く。
「あ、うん、そうだね」と整子は頷きながら、二人が自分が思っているよりもずっと整子のことを見ていて、わかっていてくれていることを知った。
 その一方で、整子は二人のことをどこまで知っているのだろう、と考える。
 要領がよくて、勉強ができて、学校行事にはあまり熱心ではない人……。
 それだけではなかった。
 整子が学級委員の仕事で二人と離れ、戻って来た時に戻りやすい雰囲気をさりげなく作ってくれていて、ついさっきまで何を話していたかを教えてくれたし、何より、整子が教室に戻って来た時、すぐに気づいて手を振って整子の居場所を用意していてくれるのがこの二人だった。
 そして、中学で仲間だった子たちとは、初めから何もかもうまくいっていたわけではなかったことを思い出す。
 席が近くて仲良くなった後、課題の提出時にすでに仕上げている整子、要領よく授業中に終わらせてしまう友達。一方で、課題を進めるのに時間がかかる友達が提出時の直前に必死に問題を解いている横で大声で話す仲間に怒り、そのうちに勉強の得意な友達がやり方を教え、課題を集める係りが声をかけた際には、少し待ってくれるよう整子たちが頼んだりもした。やだ、また課題終わってないの? などと軽口を叩き、今日はちゃんと終わらせてきた、という返事の時に、勉強の得意な子がうっかり忘れて大急ぎでやっているのをほかの仲間が笑いながら、頑張れ、ほら、早くしないと係りの人が来ちゃうよ~、などと囃し立てたりしたこともある。
 この子はこういう子、という意識がお互いにあって、認める、ということが仲を深めていったという重要な通過地点に、仲間の誰一人気づいていなかったと整子は今になって思う。
 恐らく、いや、確実に今の友達二人は整子の実のところの性格も、二人との関係にまだ戸惑っていることもわかっている。
 それでも、二人は整子を遠ざけなかった。
 そして同時に自分たちのスタンスを変えなかった。
 ありがとう、と言うのも、今日から自分流でいくね、と言うのもなんだか違う気がして、けれど整子はこの日、昼食後に次の授業の小テストの勉強を始めた。


 ミアの留学期間はあっという間に終わりを迎えた。
 ほかのクラスで学んでいた留学生、及び、普通科の生徒が講堂に集まり、盛大なセレモニーが行われた。
 吹奏楽部やチア部、ダンス部の発表を整子は舞台袖から見ていた。
 整子ら学級委員は、この後、留学生への花束贈呈の役割がある。
 ほんの何日かしか経っていなかったが、ミアがクラスに来てから、クラスでの授業に対する姿勢はとても前向きになり、また整子自身、全てではないが、友達二人の前で自分を出せるようになっていった。二人は整子が一人で勉強していたからといって、疎外感を抱かせなかったし、整子が勉強していない時には笑いが止まらなくなるほど面白いことを話した。整子のテストの結果がよければ、「やるじゃん」と素直に褒めるし、自分の方がよければ「整子もまだまだ勉強が足りないね」などと軽口を言い、「いつも私ばっかりいい点だと心苦しいから、勝たせてあげたの」などと、整子が憎まれ口を叩けば、「じゃあ、優しい整子にご褒美のツボ押し」などと言って、整子の手の平を押す。「あーッ、効くーッ」と整子が顔を真っ赤にしていると、それを友達が動画に撮ってあげたりして、クラス中で笑ったりすることもあった。
 笑っている中にはミアや味子たちのグループもいて、クラス全体の仲は確実によくなっていた。
 クラスメイトの仲がよくなれば、授業中の雰囲気も自然とよくなる。
 誰かの発言に対し、皆が良心的に受け止めるようになると、授業の質が上がる。
 その成果かわからないが、昨日の小テストの平均点が特別コースを抜いたという。その先生の報告に、クラスからは歓声が上がった。
「この調子で、これからも頑張ってください」と、嬉しそうに言う担任に、「先生、そんなのこのクラスに期待しちゃ駄目ですよ。学級委員の花行さんですら、よくふざけてるんですから」と、以前親からもらった靴下代でラーメンを食べに行った男子が言い、「なんで私?」と声を上げた整子に、「だって和室で古文の先生の前であぐらかいてる人が学級委員て、うちのクラスくらいでしょ」と突っ込まれ、「どうもすみません。以後気をつけます」と、整子はしょんぼりと引き下がったのだった。ミアとのランチの時もそうだったが、整子の一度の失敗をみんなよく取り上げるものだと思う。なんのかんの言っても、座敷で先生を前にすれば正座をするのがやはり良心的な行いなのだろうと反省する。
 けれど、と今は正座のことは一端保留にし、ふと整子は考えた。
 普通コースで特別コースを追い抜いたということは、特待生クラスに追いつくのも可能ではないか、と。
「あの」と、整子は声を上げ、古文の先生にお詫びしなければと、青ざめている担任の先生が力なく、「どうしました?」と訊き返した際に、「行儀の悪い学級委員からの提案で申し訳ないのですが、あ、いえ、これからは、椅子での授業のほかは正座を心がけます。誓います。……それで、うちのクラスで今度、打倒特待生クラスを目標にしませんか? 定期テストの内容は違うかもしれないですけど、学校で全員受ける模試で実際に特待生クラスを追い抜けるかは別として、個々の成績もモチベーションも上がると思うし、もし、一度でも、一教科でも、特待生クラスを抜いたら面白いと思うんです」と息巻いた。
 ふと、クラスが静まる。
「このクラスにだって、真面目に勉強すれば、もっともっと力のある人がいるはずです。講堂での座席の位置は変わらなくても、もし、特待生クラスを抜いたら退出場の順番を、成績のいいクラスからにしてくれるよう、職員室に直談判しに行くのも面白いと思います!」
 そう続け、クラスを見渡すと、皆が整子を凝視していた。
 その視線には、整子が入学式の時、心の内で抱いていた羨望とくやしさのない交ぜになった感情を思い起こさせるものが感じ取られた。
「まあ、無理強いはよくないけど、私たち頭いいのが協力すれば、なんとかなるよ」と、友達の一人が言ってくれ、「そんな感じで、無理強いなしで、協力したい人はするっていうので、どうですか」と、もう一人の友達が提案してくれた。
「賛成です」と、靴下の男子が挙手し、その後拍手が起こった。もうこの学校を去ってしまうミアも、味子たちも拍手してくれている。
「ありがとうございます」と整子はお礼を言い、このクラスでよかった、と心から思ったのだった。
 ミアのいた一週間を思い出し、整子は花束贈呈の際、「あなたのおかげで、変われました。本当にありがとう」と伝えた。
 ミアは恥ずかしそうに首を横に振り、「こちらこそ、楽しかったです」と笑った。
 セレモニーの後、それぞれ留学生を送り出すクラスでは、お店を予約したり、カラオケに行ったりして送別会が行われ、整子たちのクラスはミアが食べたがっていたというファストフードを買いに行き、教室でそれを食べた。
 色々な話をし、集合写真を撮る際、前の真ん中に座ったミアはお作法を習った人のような正座をしていた。
 それに気づき、最前列に座った整子や友達の二人も、以前の古文の先生の教えを思い出し、スカートをお尻の下にしき、膝をつけるか握りこぶし一つ分開く程度、脇はしめるか、軽く開くくらい、手は太ももと膝の間にハの字になるように置き、背筋を伸ばす。
 この集合写真は、笑顔がよいことと、前の列の正座がきれいであると学長先生がお褒めになったことから、翌年の学校のパンフレットに掲載されることになった。


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