[244]正座の演劇


タイトル:正座の演劇
掲載日:2023/01/22

シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:24

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容:
装子(そうこ)は某善位(ぼういい)高校一年の演劇部員だ。
部には勉強のできる生徒の集まる特別コースから参加している満(みつる)がおり、彼が普通科希望でクラス分けテストで手を抜いたにも関わらず特別コースになったと聞き、装子は満に憤りを感じる。部で時代劇を演じる際の意見交換をするが、ハッキリしない満に装子は激怒し、意見を求める。
満は、時代劇であるのに演者が正座や作法が出来ていない、と厳しい指摘をし……。



本文

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 某善位高校は、学科が多岐に渡り、スポーツをはじめとした部活推薦、一学年二千人ほどの生徒の中の上位三十名の集められた特待生クラス、それに次ぐ特別コースのある学校で、校舎は何棟もあり、また設備がおおいに充実している学校である。この学校では、学費免除の特待生クラスを目指し、入試を受ける生徒が年々増加していることから、学校の学力そのものも、うなぎのぼりである。
 そんな学校で、八久師装子は、普通科クラスに属し、演劇部に入部した。
 入学して暫く経った頃、本当は特待生クラスに入りたかった、という声をあちこちで装子は聞いた。気持ちを切り替え、今のクラスで出会った友達との関係を深めている子もいれば、三年後の大学入試でのリベンジを今から念頭に、授業に集中し、積極的に職員室に質問に出向いている子もいる。そうして、広々とした敷地にある水はけのよいグラウンドでは、毎年全国出場を果たす数々の部が練習に励んでいる。
 そうした活気ある校内の渡り廊下を歩き、装子は一階にある演劇部の戸を開けた。
 ちょうど発声練習の始まる時で、装子は先輩に会釈し、一年生の並ぶ列につき、大きく息を吸った。
 五月の新入生歓迎会の後、演劇部はすぐに文化祭の発表演目を何にするかの話し合いに入った。
 昨年までの台本を回して見せてもらい、一年生は二年生、三年生の活発なやり取りを見ていた。
 人の入りがよいのは、高校文化祭劇の定番で、男女の役を入れ替える、その年に流行した映画やドラマのパロディーものだが、客入りばかりを気にしない、本当に作りたいものにしよう、という熱い意見が出て、部員が同意する。
 装子の中学校では演劇発表はなく、小学校の時の学芸会以来のことで、白熱した議論そのものが新鮮で、ただ聞き入っていた。
 部には、脚本を書く人がいて、脚本はその先輩に任せることになった。
 ここまでで反対意見は? と訊かれて、挙手する部員はいなかった。
 その時、「遅れました」という声とともに、演劇部の戸が開いた。
 入って来たのは、特別コースの勇秀満だった。
「お疲れ」と、部長が満を座ったまま出迎え、ここまでの流れを簡単に説明する。
 基本的に演劇部は活動開始時間に遅れないよう決められているが、特別コースは全ての授業が終了した後に、その日の授業内容の小テストがあり、それで合格点を出さなければ、課題をその場でする。
 この時間に満が来たということは、小テストで合格点を出した、ということだ。
 推薦での入学も多い某善位高校だが、学校では学業重視を掲げている。
 故に満が部の活動に遅れるのも、仕方のないことだった。
 それは装子もわかっているが、以前、満が他の生徒と話しており、そこで「失敗したな。大変なのは嫌だから、わざとテストで手を抜いたのに、特別クラスになった」と聞いた時、嫌味なやつがいる、と率直に思った。それ以降、満が部の備品を積極的に運んでくれても、装子が来るまでドアを開けて待っていてくれても、満をいい人だとは思えず、逆にそのいい人という感じの振る舞いに腹が立った。
 装子はこの時も、どうぞゆっくり来てくださって構わないのに、と心の中で思い、回ってきた脚本を見ている振りをして、満を無視した。


 演劇部での演目は、先輩が歴史の授業で聞いた逸話をヒントにした江戸時代人情劇に決まった。
 武家の長男と、その長男に偶然助けられたお嬢様の恋模様を軸に、それを見守る周囲の人々の温かい支えを描いている。
 それ故、大きな動きや展開はない分、台詞の抑揚や表情など、細かな演技に力を入れたい、という脚本担当の部員からの希望のもと、練習は開始された。
 大道具や衣装などは、毎年使用したものが、いくつかの部が共有する保管室にあるので、新調するものはそれほど多くはないということだった。
 ただ今回、お武家様とお嬢様が登場するに当たり、着物はなるべく良いものを使いたい、という意見が出た。某善位高校は部活予算など比較的気前よく出してくれる学校だが、果たしてどこまで出してもらえるだろうか、と部員は頭を抱えたが、インターネットで検索し、古い着物を格安で売っている店を見つけた。振袖などにも流行りすたりがあるらしく、それが幸運なことに、演劇部で所望する古風なものと店で安価な値のものとが妥協なしで一致した。申し訳ないほどの値段で、あっという間に衣装は宅配で届いた。包みをほどき、丁寧に和装用の衣文掛けに吊るす。そうしておかないと、和服はすぐにしわになるらしい。虫食いの心配をしたが、絹は虫食いに遭わないのだと先輩が教えてくれた。
 こうして早々に、衣装をつけての練習が開始された。
 文化祭は九月上旬で、練習が佳境に入る七月、八月に着物を全て着付けての練習はさすがに無理がある、とのことで、この機会にと、着付けについても、慣れている先輩に一年生は教えてもらった。役者希望の新入部員も、これを機に教えてもらう。装子は高校生に着物の着付けができるのか、と驚愕したが、以前和装が好きな先生にお願いし、基本的な着付けを教えてもらったのだと言う。三年の先輩にもなると慣れたもので、装子にはよくわからない、いくつもの紐なども手際よく確認し、着付けに使用する順番に整理していく。帯も上手に結び、この細い先輩のどこにそんな力があるのか、と驚くほど、装子では畳むだけでも手間取りそうな、長く、厚みのある帯をぐっと引いたり、結んだりして、芸術的な形に仕上げたのだった。
 練習は順調に進んだ。
 台本もよく、また、歴史を含めている内容は、学生らしい、と校内をまわっていた学部長先生からもお褒めの言葉をいただいた。
 部員たちの士気も上がり、演劇部が一体化してきた、という雰囲気に満ちていた。
 日曜日の練習の後、皆で昼食を購買で買い、窓を開け放った部室で昼食がてらのミーティングが開かれた。
 日曜の練習も今日は午前、午後と入っていたが、特別コースは午前中に講習が入っていて、満は講習を終えてやって来た。
 そこで部長が、「一年生も慣れた頃だから、そろそろ遠慮のない意見を言えるようにして」と切り出した。
 一年生は装子も含め、皆顔を見合わせる。
 一人ずつ意見を言っていったが、衣装係としてもっと早く着付けができるように頑張りたいです、とか、照明係としてタイミングを合わせられるように努力します、とか、劇中の大道具の運搬でなるべく音を立てないよう気を付けます、といった個人的な反省が大半だった。
 そして満の番になった。
 満は自分の番だとわかっているのか、気づいていないのか、黙っている。
「勇秀くんの番だよ」と、隣に座っていた一年生が気を利かせて声をかける。
 しかし、満は正面を向いたまま、「知ってる」と短く答えたのみだった。
 さっきまでの円滑な雰囲気が一変した。
 次第に、満は発言するのか、どうするのだろう、という疑問が湧き、それはだんだんと装子にとっての苛立ちに変わった。
 事情があっても遅れて来て、その上、自分の順番で何も言わず、部の時間を取っていることに腹が立った。
 大切に一口ずつ食べていたカツサンドを、口いっぱいに入れ、大きく咀嚼した。
 ほかの一年生は皆、食事の手を止め、少し困った顔をして、俯いている。
 先輩たちは何も言わず、ただ、満を待っていた。
「今は、いいです」
 満がそう言ったのを覆うように、装子がいちご牛乳のパックをストローで勢いよく吸い上げ、ズズーッと鳴らした。
 僅かな沈黙の後、先輩は「じゃあ、言える時に」と返し、「ここまでの話し合いで意見がある人は?」と確認する。
 装子は挙手した。
「八久師さん、どうぞ」と先輩に言われ、先ほどズズーッと吸い出されてつぶれたいちご牛乳のパックを置き、椅子を鳴らして立ち上がった。
「勇秀くん、今の、どういうつもり?」
「はい?」と満は、動じるふうもなく、装子を見上げている。
 見上げられている立場なのに、どこか馬鹿にされている気がする。
「『はい?』って、訊く前に、自分で何か思わないの? 言うことがないなら、初めからそう言うべきだと思う。それとも、後で話のわかる先輩たちにだけ伝えれば、それで用件は済むと考えているの? だけど、それじゃあ、全員の意見を言う場の意味も否定したことにならない?」
 言いながら、装子は満の、手を抜いたのに特別コースに入ってしまった、という主旨の会話を聞いた時から蓄積された怒りが自制心を押し上げているのを感じた。
 そして、たった今、部員が揃う場で満は先輩から『言える時』に意見を言うという了承をもらっていた件を、挙手した自分は一体どうしたかったのか、と混乱してくる。
 満はそれを見透かすような、妙に冷めた目で装子を見ている。
 そしてため息をついた。
「僕は、授業時間の都合で部にずっと参加できないので、言っていいのか迷いましたが……」
 満の発言に、装子は自身の混乱を押しやり、かみつくように「そういうのいいから、意見があるなら言いなよ!」と満を睨んだ。
「なら、言います」と、満の方は冷静なままだ。
「脚本を見て、武家の慣わし、生活、食事においてまで、本当によく調べてあると思いました」
 満が脚本を眺めながら言い、なんとなく、部員も装子以外は脚本を確認した。
「そうだね、うちの脚本家は、そういうところで手を抜かないから」と部長が相槌を打つ。
「脚本はよくできている。しかし、皆さん、今の練習を見て、どう思われますか? 僕には着物を着た高校生が舞台に立っているようにしか見えない。衣装や小道具、脚本を整えても、つまるところ、役者は全く、お武家様、お嬢様、そして江戸の人に見えないのです。それはなぜか? 作法がまるでなっていないのです。武家の長男と、そこに嫁ぐ娘が屋敷で合対峙する重要な場面で、正座ひとつ、まともにできていない。背筋は曲がっているし、座り方も雑です。慣れない和装でそれが無理と言うのなら、そもそもこの演目を選んだことから戻って、練り直す方がいい。僕はそう思います」
 場がしん、と静まり返った。
 今回、主演を務める三年生は、一年生の満の意見に俯き、耳を赤くしている。
「皆さん、どうですか。今の勇秀くんの意見を聞いて。演目変更を考えますか? それとも、江戸の人らしく見えるよう、頑張りますか?」
 部長が穏やかに訊く。
 装子はその間に音を立てず着席したが、まだ興奮を鎮められず、事の成り行きを見守っていた。
「すみませんでした」
 ふいにそう言って起立したのは、武家の長男を務める三年生だった。
「努力しますので、この演目で続けさせてください」
 それに続き、武家に嫁ぐ娘役の三年生も「私も、努力します」と続き、家臣役なども次々と立ち上がった。
 装子はそのまま事の成り行きを見守っているに留めたが、後から思えば、装子もお嬢様の侍女の役をもらっていた。そして、つい今しがた満が指摘した場面にも、装子は登場していた。つまり、先輩たちが立ち上がり、役を続けさせてください、と言う場面で、一年生の装子だけが座ったままであり、正座や作法の勉強をしますとか、努力しますとかいったことを一切口にしなかった。満の言動の比ではない、言ってみればかなりの失態だった。装子こそ、この場で注意を受けるべきだったようにも思う。そして、それこそ満が装子に反撃するとすれば、これ以上の機会はないはずだとも考えられた。
 しかし、満は何も言わず、また、演劇部の誰も、装子のこの件には触れなかった。
 但し、台詞の練習のほかに、演劇部では全員で正座をはじめとする所作も学ぶことにします、ということが部長からしっかりと伝えられ、その際には全員の明確な返事が暗黙の了解で求められたのだった。


「背筋を伸ばして、膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度。スカートの時でも広げずに、お尻の下に敷いて。足の親指同士が離れないように。手は膝と太ももの間でハの字に。脇はつけるか軽く開く程度」
 部長の指示に従い、次の練習からは発声練習や柔軟体操のほかに、正座の時間が設けられた。
 役者だけでなく、衣装係や舞台係も含め、全員が意識を共有することが作品の質を上げるというのが、某善位高校演劇部の考えだった。
 だが実のところ、武家の背景は床の間を描いたベニヤ板で、小道具は置いてあるが、座るのは舞台の板張りである。
 この板張りを、二百年以上の時を遡った、お武家様の屋敷にするのは、この演劇を作り上げる部員全員にかかっている……。そうわかっていても、長台詞も多く、細かな仕草にも気を遣う。正座に気を遣えば台詞が飛び、台詞に集中すれば正座が崩れる。
 装子は侍女役で木綿の着物で控える役である。
 台詞はあまりないが、武家に嫁ぐ娘のお付きという役だけあり、真っすぐに背筋を伸ばし、決して雑多な動きはしてはいけない。
 台詞のない時間の演技というのは、思いのほか難しいものだと思う。
 そして、言うまでもなく、正座に慣れなければ、足もしびれて痛くなる。
 人と比べるのは論外だが、武家の長男、嫁ぐ娘は座る場所が広々としている。
 一方の装子は控えている身である故、舞台の端で、本当に狭く、冷たい場所で正座をしている。
 まさか演じること以外に、こういった難所が待ち受けているとは考えもしなかった。
 それでも、主演の二人も、ほかの役者も、誰一人それを口にしない。
 正座の練習を共にしているほかの部員にも、正座に慣れるまで、演じることの難しさはわかっている。
 だから、舞台の外からの注意の声が飛ぶ時は、その大変さを理解した上での改善策だと皆が理解していた。
「はい、いいです!」
 脚本家兼監督の部員の一言で、ふっと舞台上が江戸時代から、現代へと戻る。
 それまで誰一人台詞以外の言葉を発しなかったが、一度緊張が解かれると、足のしびれで悶絶している。
 その様子を、脚本家志望で今は照明係を務めている満は黙って見ていた。
 足をさする一人である装子は、満の様子に気づいていたが、以前のような苛立ちは感じなかった。
 顔にあまり感情を出さず、黙ってはいるが、満には満なりの考えがあり、しかし周囲を慮って発信しない面があることを知ったのだった。
 足のしびれが直ったのを見届けたらしい満は、「さっきの場面、侍女はものを拾うところで裾を押えるのを忘れています。それから、ほかの人も座った状態でものを取る時には袖に手を添えるのを忘れないでください。そういう細かな所作はお客さんに大きな印象は残さないかもしれませんが、必ず届いていって、その小さな所作の追及が、ひとつの世界を作ります」と、声を張って言った。
 いつの間にか、満の口調は丁寧語だが、断定になった。
 ~したらどうでしょうか、とか、~だと思います、といった一歩引いての意見から、今では随分と堂々と断言するようになった。
 さすが、手を抜いても特別コースの人は違いますね、と装子は内心毒を吐きながら、満の注意を受け、所作の見直しをした。


 日曜日の午前中、体育館で練習できるという日、演劇部はいつもより一時間早く集合し、柔軟や発声練習をした。満は、校内で模試を受ける日で、活動には参加できなかった。
 柔軟や発声練習の後は満がいなくとも、正座の練習も行った。
「背筋を伸ばして。手は太ももと膝の間でハの字に。脇は開きすぎないように。親指同士、離れないように」
 そんな注意はもう、数え切れぬほど聞いたが、それを毎回聞くことで浸透するものがあると装子は思った。
 それに慣れてくると、正座はしんどいものではなく、思いのほか、楽に感じられるようにもなってきた。
 姿勢がよくなることや、真っ直ぐに座ることで、腰も楽である気がする。
 そうして体育館へ向かい、練習が始まった。
 衣装をつけての通し稽古は、かなり貴重な機会だ。
 皆が本番さながらの気持ちで、劇を進めていく。
 最後まで演じきったところで、大きな拍手が体育館に響いた。
 はっとすると、学部長先生が拍手をしながらゆっくりと舞台へと近づいて来る。
「いやあ、素晴らしい。細かな所作をよくここまで勉強しましたね。私くらいの年代は、時代劇や、そういった舞台も見慣れている人が多いが、そういう人も感動する出来栄えでした。本番も今日のように頑張ってください。期待していますよ」
 部員は慌てて、「ありがとうございます」とか、「頑張ります」とか口にし、礼をした。
 学部長先生は楽し気に体育館を出た。
「びっくりしたね」と、一年生が装子に話しかけた。
「うん、まさか学部長先生がいるとは思わなかった」と装子は頷く。
「学部長先生、特待生クラスや、全国大会常連の部活以外の、普通科クラスや部活も、満遍なく見ているんだって」
「そうなの!?」と装子は驚く。
 どこかで、特待生クラスや推薦入学者が大半を占める部活ばかりが重視され、普通科クラスやこれといった実績のない部は、学校から目をかけてもらえていないような思いがあった。しかし、それは装子の思い違いだったようだ。さっきの学部長先生の拍手や笑顔を見れば、それがわかる。生徒一人一人を見守ろうとする、温かい眼差しだった。特別に目をかけてもらおうなどというおこがましい気持ちは起きなかった。ただ、感謝の気持ちだけが装子の心にあった。
「それでは、部室に移動します。忘れ物をしないように」と部長が言い、それぞれが小道具や機材を分担して持ち、部室に戻った。
 小道具、機材の確認をした後、役者は着替えをし、衣装を衣文掛けに吊るすと、帯や腰紐、草履を丁寧に仕舞う。
 そうして今日の活動が終わり、各々が部室を出て行く。
 鍵を職員室に戻す当番だった装子が皆と別れ、渡り廊下を進んで行くと、「特別コースと部活の両立は忙しいですか」と、つい先ほど聞いた学部長先生の声がした。その先を見ると、学部長先生と向かい合って立っているのは、やはり満だった。装子は満と顔を合わせるのが嫌で、自習用机の横に設置されているパーテーションに身を隠した。
「そんなには忙しくないです」
「そうですか。まあ、特待生クラス、特別コースで部活に入っている人は他にもいますからね」
「はい。部の方でも配慮してもらって感謝しています」
「そうですか。楽しめていますか?」
 学部長先生の問いに、装子は、ん? と思った。
 学業と部活の両立の忙しさについて訊いたのは、装子にも理解できる。
 だが、『楽しめていますか』というのは、どういった意図だろう。
 すると、満はすぐに「はい」と答え、続けた。
「中学校までは、勉強ができる方だと、自動的に学級委員だとか、行事の時の代表者にすぐ先生に頼まれたり、推薦されたりして、だけど、勉強と人をまとめることが同じだけ得意な人とそうでない人がいるんです。僕はまさに、その後者で、人をまとめたり、時にはきつい言い方をしなければならなかったり、それで嫌われないかと心配になったり、辛かったです」
「うん、面接の時、『この学校は勉強の得意な人も、ほかのことが得意な人も個性を出せる学校であることに強く引かれました』って言っていたね」
「……はい。本当に入学してみてその通りで、学級委員は希望者が多いくらいだったし、だからってもめることもありません。そういうことが、本当に僕にとっては楽なんです」
 装子にはよくわからない話ではあった。
 装子自身がこれまで務めた委員といえば、美化委員と放送委員で、どちらも代表者やそれに準ずる役になったことはなかった。
 敢えていうなら、修学旅行の自由行動での班長くらいだろうか。事前にどこに行きたいかは話し合って決めたし、当日はバスの乗り継ぎ時間に遅れないように気を付けて、事前に先生から渡された携帯電話の管理をするくらいで、負担に思うことは何一つなかった。早くしてほしいなら、急いでと言えばいいし、それで嫌われることもなかった。考えてみれば、装子は自分の考えを伝えることに抵抗を感じたことはないし、それで失敗だと思う結果もこれまでなかった。一体全体、何がどう、あのお勉強のお出来になる、勇秀くんには難しいのか……。
 装子が暫し首を傾げていると、ふいに「お疲れ様」と声をかけられ、顔を上げた。
 視線の先には、まさかの満がいた。
 いつの間にか学部長先生とのお話が終わり、帰るばかりといった様子の満が、鍵当番の装子にあいさつをしている。
「あ、うん」と装子はしどろもどろに会釈した。
 満は少し間を開けて、「この前はありがとう」と小さく言った。
「え、何が?」
 装子は満を疑わし気に見上げる。
 満は「さっきの話、聞こえていたよね」と切り出した。
『聞いていたよね』と、立ち聞きされた、という意図がない表現が、装子を慮ってか、もともとの性格なのか、装子には判断ができない。
「あ、少し……」
「さっき聞こえた通りで、人前で意見を言うのがもともと苦手だったのに加えて、中学までは代表委員やなんかで、言わなければいけないことがたくさんあって、だけどそれを言うと、皆が面倒だったり、時には嫌な思いをするのがわかって、そういうことを考えると疲れてね。それがあって、部活での意見もすぐに言えなかった。だけど、八久師さんが、その一歩を踏み出させてくれた。先輩たちに失礼じゃないか、嫌われないか、と思ったけど、意見を言ったら、受け入れてもらえた。この学校はそういうところだ、意見を認めてもらえる、と思ったら、急に気が楽になった。本当に感謝している」
 意見を言うのが苦手だ、と今しがた言ったばかりであるが、ずいぶんと長々と喋るなあ、と装子は思っていた。
「あの、つまり、ありがとう、と言っているんだけど」
 満は少し困ったように言った。
「それはわかるって!」と、反射的に大きく返し、装子ははっとした。
「……なら、いいけど」
 見上げた満は、視線を逸らした。
 あ、と装子は思う。
 勉強ができて、部活でも立派な意見が言えて、学部長先生にも目をかけられている、装子からは到底手の届かないところにいるような、この同じ学校の同学年の勇秀満という人間が、今、自分の態度で動揺している……。
 そのことが、装子にとっては、軽い衝撃だった。
「……ごめん。これからは、もう少し、落ち着いて、考えてから発言するように気を付ける」と、装子は謝った。
「いや、八久師さんは、そのままでいるべきだ」
 ……動揺していると思ったら、即座に断言する。
 この切り替えの早さは、頭の回転の速さと関係するものか……。
 よくわからない。
「……はあ」
「もちろん、落ち着いたり、考えてからの発言は大事だ。それはよくわかる。だけど、忖度なしに、即座に意見を言う、その率直さ、素直さは、とても尊いと僕は思う」
 ……率直? 素直?
 装子が首を傾げていると、「そこが八久師さんの最高にいいところだ」と、満は一人納得した様子で、実にさわやかな笑顔になった。
 この学校は、学部長先生が生徒一人一人に目を向けてくださる、ということはつい先ほど知ったことだが、そうして目をかけられる、ということは、人を認める、ということにもつながるのではないか……。よくわからないけれど、勉強のお出来になるらしい、この勇秀くんは無意識のうちに、装子のよいところを見てくれていたらしい。もしかしたら、もともとの性格によるものなのかもしれないが、それでも、それは装子の心に何かしら温かく残った。


 演劇部の発表は、大成功を収められた。
 二日間の公演はどちらもほぼ満席で、静かで重要な場面で心配された私語もなく、最後は拍手が鳴りやまないほどだった。
 出入り口に用意しておいたアンケートには、キャストへの称賛はもちろん、それを作り上げた演劇部全員の団結力を褒めたたえたものも多く見られた。
 そして、所作のひとつひとつがとても丁寧に演じられていることに触れているものもあった。
 部員みんなで使用した機材を運び出す際、装子の後ろから大きな機材を担いで来た満に気づき、装子は黙って重い扉を開けたまま、満が機材を持って通るのを待った。
 これまでは、大人気ないものの、満に手伝ってもらってもそっけない態度を取ったし、こうした機会には気づかぬ振りをして、扉を閉めて先に行っていたが、そうした子どもじみた考えは、自然と消え去った。
 演劇部にとっての最大の行事が済んだわけだが、その期間に、脚本を書いて来る、という課題が出された。
 これも全員ですか? と一年生が驚いたが、書けない場合は、有名な監督の脚本の抜き出しなどでもいいので、とにかく書いてみること、ということだった。
 装子は図書室でなるべく短い脚本を選び、それを書いてみることにしたが、脚本家志望の演劇部員には大きなチャンスだけあり、皆、参考のために映画を何本も見たり、舞台を見に行ったりと、研究に余念がない様子だった。
 しかし、その間にも学校では定期テストのほかに、模試、小テストはある。
 装子は早々に脚本の写しを終え、勉強に本腰を入れた。
 普通科とはいえ某善位高校は、勉強のできる生徒が大半で、これまでは八割方テストで取れていた生徒でも、高校では三割にようやく届く点数だったということが珍しくない。
 テスト返却の時に教室のあちこちで、歓喜、安堵、そして驚愕の悲鳴が上がる中、どうにか単位のもらえる境界線は超えたところに位置する装子は、期末テストで挽回を図るべく、本人なりに奮闘していた。
 今日も数学のグラフの問題がわからず、職員室に向かった。
 しかし、運悪く、受け持ちの数学教師は席をはずしている。
 こういう時、ほかの数学教師に頼んで訊くとか、ほかの教科の質問も用意し、そちらを先に解決させるという要領のよさが装子にはない。
「失礼しました」と、すぐに職員室の戸を閉め、途方に暮れる。
 困った、と職員室の前にある自習用スペースの机に教科書を置いた。
 わからないところを再考してみるが、もともとわからなかったところで、その先へ進めない。
 横を見ると、そこで満がノートパソコンを開き、脚本を執筆していた。
 装子は演劇部に入り、脚本を初めて読み、今回写しとはいえ、脚本を実際に書き、その手法はだいぶ学べたが、満はずいぶんと慣れた様子で、脚本を進めていた。
 暫く見入っていると、「どうしたの」と、満に声をかけられた。
「気づいていないと思った。邪魔してごめん」と、装子が自分の机に向かおうとすると、「そっちは何しているの?」と訊く。
「数学、質問に来たけど先生がいないから……」
「貸して」
 満はそう言うと、装子の机から教科書を手に取り、「これ?」と、わからないところを確認する。
 装子が頷くと、満は「借りるよ」と装子の筆記具を手に、簡潔に、順序よく、解説をしてくれた。
 勉強のできる人というのは、本当に無駄なく、けれど必要なことはもらさずに解答へ導いていけるものらしい。
「ああ……、わかった」
「よかった」
 一人納得する装子をよそに、満は脚本の執筆を続ける。
 早々に教科書や筆記具を仕舞う装子に視線を向けず、満は「この脚本、通ったら、八久師さん主人公にするから、勉強しっかりしといて」と、抑揚のない声で言った。
『ありがとう』と言って立ち去ろうとした装子は、はたと、立ち止まった。
「今、何て言った?」
「だから、この脚本が通ったら、八久師さんが主人公だから勉強しといてって」
「えええ?」
 驚愕する装子に満はあくまで冷静なままだ。
「文化祭以外にも、新入生歓迎会とか、生徒会主催の行事に演劇部の出番をねじこんでもらえれば、上演ができるから」
「その前に、脚本書いている人、かなりいるよね?」と、装子は確認する。
「その中から選ばれる脚本を書けばいいわけだから」
 ……この自信はどこから……、と装子は黙り込む。
「こういう時こそ、何か言わないと」
「ええ?」
 涼しい表情で満は手を動かしながら続ける。
「この脚本の主人公は、物怖じしない、とにかく元気で真っすぐな性格だから、上演の時にもその性格を前面に出してほしい」
「……私が?」と、装子は確認する。
 実力のある先輩がたくさんいるのに、自分を主役にすると満は言っている。
「だから、そうだって。一度言われたことは、その場で理解できる能力をもう少し培った方がいい」
 眉すら動かさず、満は言う。
 何か言い返そうとした時、後ろから「それは楽しみですね」と声がした。
 そこにいたのは、学部長先生だった。
「八久師さんは、入試の後に書いてもらった作文にも、『努力して、演劇部で主役をやりたいです』って書いてありましたね。それに、勇秀くんの脚本とくれば、本当に楽しみですね。もちろん、ほかの演劇部の子たちも、それぞれにいいところがたくさんあるから、そこで選ばれることも大変でしょうが、楽しみにしています」
 そう言うと、学部長先生は職員室へと入って行った。


 全員の脚本提出が済み、その中から採用希望の脚本を、誰が書いたかを伏せ、全員で読んだ後に選考が行われた。選考は投票と、話し合いの両方で決められた。
 満の脚本は翌年の文化祭での採用には届かなかったが、脚本を短くし、冬の保護者懇談会の際に上演されることになった。
 保護者懇談会といっても、学部長先生をはじめとした職員、そして来賓、保護者、希望する生徒が体育館で観賞する、規模としては文化祭と同じものである。
 そして、その劇での主演は装子に決まった。
 緊張と嬉しさで武者震いした装子だが、満の脚本は、主人公が啖呵を切った後、長台詞を言う見せ場があり、その長さにおののき、更には主人公は剣道一筋という設定で、またしても正座をする場面が登場する。
 部長は苦笑しながらも、うちの部はもう、発声や柔軟とセットで正座と作法も取り入れることにしようかと提案した。
「そうですね」と、真顔で満が賛同する。
 そして、正座での長台詞に挑む装子はこの日から、一言一句を誤ることなく、心情を込めて言えるよう、満に大層細かな指摘と指導を受けることになった。


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