[286]お江戸正座4


タイトル:お江戸正座4
掲載日:2024/05/08

著者:虹海 美野

内容:
戯作者の次女、おすみは版元の若旦那に茶会の誘いを受ける。
その茶会でおすみは緊張で足をしびれさせ、大の字でひっくり返る。
落ち込むおすみに姉が優しく正座の仕方やお茶の点て方を教えてくれる。
半月ほどして茶会に誘ってくれた版元の若旦那に会ったおすみは、今度は版元の若旦那の家での茶会に招待される。
正座の練習もしたし大丈夫だと姉に励まされ、版元の若旦那の家を訪れると、なんと招待されていたのはおすみ一人で……。

本文

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 心地よい静けさの漂う茶室での出来事であった。
 あっと思った時、おすみは天井を仰いでいた。
 場が、しん、と静まり返った。
 畳で大の字にひっくり返っても尚、足のしびれはとれぬ。
 ここで無理をして起き上がったところで、また転ぶ、と思った。
 狭い茶室で、ひっくり返った時の足が誰にも当たらなかったのは、奇跡に近い、と暫し天井を見たままおすみは思った。
 正座なら普段からしているはずだが、この趣ある茶室に、父の代わりにと出向き、茶の師である優しいけれど威厳ある五十を過ぎた先生に、もう長年こちらの茶席に招かれているご新造さんと父上の代からのお付き合いが続いている版元の若旦那という面々。版元の若旦那から、戯作者の先生のお嬢さんが今日はご縁あっておいでになりましたと紹介された。あいさつした後に正座した時に、先生にどうぞ緊張せずにおくつろぎください、と気遣っていただき、上品なご新造さんからも、お若い方がいらして華やかだことと温かに迎えていただいたものの、全身に力が入ったままであった。
 そうして、お菓子をいただき、器を手に取り、お茶をいただき、どうにか無事に終わった、と思った頃に、無事に終わったとは言い難いことが起こってしまったのだった。

 その後、どうやって帰って来たのか、おすみはあまり覚えていない。
 せっかく新調した着物で今回の大失態。
 暫くこの着物に袖を通したくなくなった。
 初夏で普段は履かぬ白い足袋も、茶の席だからと履いていったが、もう、それを両の足を擦り合わせて脱ぎ捨てる。
 部屋で突っ伏していると、「やあ、お帰り」と父が寝ぼけ眼で庭に面した廊下を歩いて行った。ここ数日、珍しく食事の時以外は文机に向かって延々仕事をしている父だが、まだ少しかかりそうといったところか。
 おすみの父は戯作者である。
 おすみの家族は父、母、姉で、少し前に父のお弟子さんが一緒に暮らしていたが、割と短い期間でうちを出て、一人暮らしを始めた。
 時を同じくして、たまにうちに遊びに来ていた姉の友達はお武家様の元にご奉公に出て、最近は身内だけが家にいることが多くなった。
 そのせいか、母の掃除をする日の間が長く開くようになり、姉もお稽古事のない日は畳で眠っていたりする。
 そんな折、父の本を出してくれている版元のつながりで親しくなったお茶の師の会に先生もいかがですか、と声がかかった。だが、父曰く、戯作の進行が遅れているので、そんな焦った心とくたびれた状態で行っては失礼にあたりますので今回は残念ですが見送りますと言ったところ、お茶は一期一会、先生のお嬢さんがおいでになるというのはいかがでしょう、と提案を受け、大事な約束があると言う姉の次にお声のかかったおすみが行くことになったのだ。
 正直なところ、父の執筆が遅れているのも、そもそもは身内だけで人の出入りのなくなった家の中、少々気が緩んでいたのだとおすみは思っている。ほかの戯作者の先生は、静かな家の方が筆が進むのかも知れぬが、父の場合は人の出入りなどが程よい緊張感になっていたようである。
 姉も、父のお弟子さんが出て行き、遊びに来る友達がいなくなってから、明らかに家でごろごろとする日が増えた。
 まあ、両親や姉のことを指摘しているが、かくいうおすみも、似たようなものであった。
 お母ちゃんが掃除をおろそかにしているのを知っているのなら、おすみがやってもいいものだし、お母ちゃんが夕餉の準備が面倒だから、今日は朝炊いたごはんに香の物で済ましましょうと言った時にも、ちょっと外へ出れば、野菜や魚、貝なんかを売って歩いているお商売の人がいるはずで、おすみが買いに出てもいいのである。それでおかずや汁物を用意した膳を出そうと思えば、出せる。
 だが、初夏の始まり、草木が一気に伸び、花が匂やかに開く、いわば人も動きやすく、明るい世界に、おすみの家族はどこか出遅れた感があった。
 江戸っ子というのは、いつもちゃきちゃき動き、言葉は歯切れよく、気風よい振る舞いをする……。だが、なんだか今は初夏の涼し気な風の入る、この小さな家の中では、しんしんと心と体を休めたい、ゆっくりゆっくりと外を気にせずに最低限のことをして過ごしたいといった雰囲気が漂っており、おすみもそれは同じであった。
 もう少し前は手習いで一緒だった友達と、縁日だ、桜だ、紅葉だといっては出かけたものである。だが、友達も一人、二人と嫁ぎ、まだ嫁いでいない子も見合いの話が舞い込むようになり、なんとはなく、付き合いが途切れた。今は姉とお琴のお稽古に通うくらいである。
 そうして、家にこもって、ただただ休息していたところへの、茶会の誘いであったのだ。
 つまり、それなりに毎日予定があり、きびきびと動いていたところから間が開いての茶会であった。
 まあ、そんなおすみの事情を茶会に同席した人たちは知る由もなく、知る必要もない。
 言い訳無用。
 ただただ、己の失敗が今は痛い。


 最近、あまり外へ出ていなかったが、茶会で出たお菓子のおいしさを思い出し、おすみはお琴の帰りに茶店に寄った。
 初夏の日差しは強くなりつつあるが、外の縁台に座り、川から流れる風を受けると心地よい。好物の団子を二本に茶を頼み、下駄を履いた素足をぶらぶらとさせる。
 そこへ「おや、おすみさん?」と声をかけられた。
 版元の若旦那である。
 年はおすみより十ほど上の二十六かそのくらいであるはずだ。
 版元の若旦那とあって、取り立てて洒落た装いではないが、どこか知性を感じる風を醸し出している。
 うちに何度も来たことがあるが、小難しい話をせず、いつも簡素な言葉を遣い、それでいて奥の深いことを語る人であった。
 子どもの頃から、おすみはこの若旦那に懐いていた。
 この人の落ち着いた声を聞いているだけで、心は明るく、安らいだ。
 今回の茶会も、この版元の若旦那が出席するというので、おすみは行くと言ったよう気がする。
 そうだ。
 あの茶会の席でひっくり返った時、誰一人おすみを咎めなかった。
 最初に手を携えてくれたのは、隣に座っていたこの若旦那で、「どこか痛いところはありませんか」と聞いてくれた。
 あまりの失態に、おすみは黙ってむくり、と起き上がり、転んでつぶれた帯を気にする余裕もなく、膝まで翻った着物の裾を直し、立ち上がった。
 その憮然とした態度も表情も、一番近くで見ていたのが、この若旦那であったはずだ。
 この大失態をした上、態度の悪い娘に対し、版元の若旦那は先日のことなどまるで知らぬような様子で会釈する。
 ここであの時の失態を詫びるべきかという思いが過ったが、詫びるのだとすれば、お茶の師匠、あのご新造さんにもすべきで、今、ここで何事もなかったかのようにしてくれるこの版元の若旦那に対し、あの時のことを掘り返すのは野暮に思えた。
 おすみは「こんにちは」とだけ返した。
「いい天気ですね」と、版元の若旦那は笑う。
 初夏の天気同様にからりとした笑顔であった。
「これからお宅の先生のところへ行くのですが、少しご一緒してもよろしいですか」
 おすみは「ええ」と頷いた。
 ずっと子どものように話しかけるこの人が、大人同様の扱いをおすみに対してするようになったのは、いつの頃か。
 着物の肩上げをおろし、髪を結い、暫くした頃だろうか。
 手習いが終わった頃には、姉とともに簪をいただいたこともあった。
 父によい作を書いてもらうため、あれやこれやと知恵を絞る人であることはわかっており、その延長に、父のかわいがる娘二人に贈り物をしたまでなのだが、それでもどこか特別な心が芽生えていた。
 若旦那はおすみと同じものを奥のおかみさんに声をかけて頼んだ。
「おすみさんは昔からここの団子が好きでしたね」
 おすみが顔を上げると、版元の若旦那は空を見たまま続けた。
「私は実はあまり甘いものが得意ではなかったのですよ。お茶の席で振る舞われる菓子も小さいのでなんとかいただいていた、というくらいで。けれど、先生のお宅に伺うと、おすみさんが饅頭や団子をとてもおいしそうに食べるんですね。それを見ているうちに次第に私も何やら食べてみたいと思うようになりまして、まあ、無理ならやめようと思ったのですが、気づけばこの通り」
 おかみさんが持って来てくれた団子二本に茶の載った盆を見遣り、茶で喉を潤し、団子を手に取る。
 茶店で版元の若旦那はそれ以上何も言わなかった。
 おすみも何も言わなかった。
 そうして食べ終わると、版元の若旦那はおすみの分の勘定も済ませてくれ、一緒におすみの家へ向かった。
 出迎えた母は、茶菓子を用意していないことに慌てたが、版元の若旦那は、つい先ほど済ませてきましたので、お構いなくと、それを遮った。
 父はどうにか戯作を仕上げたところで、着物を着崩しており、髪も当っていない状態だったが、版元の若旦那は「先生、ありがとうございます」と言い、早速戯作に目を通し、夕刻前には帰って行った。
 版元の若旦那は、畳の上で背筋を伸ばし、大層改まった様子で戯作を読んでいた。
 そういえば、茶室でも、この時のように、居住まいが美しかった。
 それなりの心がけあってのことであろう。
 そういうお人から見て、茶の席でひっくり返ったおすみをどう思うのか……。
 そのことを考えると、あの時の失敗とは違う、何やら別の痛みが心を走った。


 版元の若旦那が帰った後、ふと隣の部屋を見ると、姉が母とともに茶を点てているではないか……。
 一体どういう風の吹き回しか……。
 そういえば、茶会の前はあちこちに埃が浮いていた我が家は隅々まで掃除が行き届き、いつの間にか食事はごはんに汁物、菜のものと揃う膳が出るようになった。
 立ったままのおすみに気づいた姉は、「ちょうどよかった。おすみちゃん、お茶をどうぞ」と、どこぞのお嬢さんのような仕草で微笑む。どことなく、言葉遣いも丁寧だ。
「はあ」と言いながら部屋に入ろうとするや否や、姉は畳は一畳を何歩で歩くだとか、本当は床の間の掛け軸の前に座って見るものだとか、お茶の作法やら何やらうるさく言い始めた。
「まず正座。背筋を伸ばし、脇は軽く開くかつける、手は太もものつけ根と膝の間に草履の鼻緒のように指先同士が向かい合うように。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度。足の親指同士が離れないように。穿いている衣服はお尻の下に敷いて」
 きびきびと言葉を発するところを見ると、ここ何日かでちょっとばかり覚えた、というのとは違うようである。
 おすみは言われるように、背筋を伸ばし、脇はつけ、手は太もものつけ根と膝の間に草履の鼻緒のように揖斐同士が向かい合うようにそろえ、膝もつけるように心がけ、足の親指同士が離れないようにした。着物ももちろんきれいにお尻の下に敷いた。
「すごくいいと思う。ただおすみちゃんはお裁縫をしている時なんかに前かがみになりやすいから、たまに背筋に気をつけて。きれいに正座をしてならしていけば、だんだんとそれが当たり前になるから」
 つい先日までごろごろとそこらへんで猫のように眠っていた姉が、ずいぶんと大人びた言い方をする。
「はい」とおすみは返事をし、茶をいただいた。
 これくらいゆとりを持って正座をして飲んでいれば、茶会での茶は、きっともっともっと味わえたに違いない、とまた後悔が押し寄せた。


 版元の若旦那がおすみの家を訪れたのは、それから半月ほどしてだっただろうか。
 父に、今回の戯作も評判がよいですよと笑顔で言い、早速次作をと話を進める。
 台所にいた姉が「おすみちゃん」と手招きする。
 何かと思えば、「おすみちゃんが版元の若旦那にお茶を点てて差し上げたら」と言い出す。
「普通のお茶でいいじゃない。お姉ちゃんがそこにいるんだから、淹れてくれればいいのに」と言うおすみに、これまでの姉なら、随分ときつい返しをしたもので、それに慣れているおすみは、何を言われても言い返す心づもりであった。
 しかし、姉は「せっかくの機会だし、先日は先生のお茶会にもお呼ばれしたでしょう?」と言う。しかも、窯の準備などを手伝うとまで言ってくれている。
 これはどうしたことか……。
 いつのまにか姉は、ちょっとしたところのお嬢さんのような仕草で、柔らかな線をその手で描くようにし、茶器を出したり、それらを拭く一連の作法を大層優しく、「おすみちゃんも知っていると思うけど、一応今日は一緒にね」などと気遣いの言葉まで添えて、丁寧に指導してくれる。
 そうして茶を点てる前には、「正座は背筋を伸ばし、脇は軽く開くかつける、手は太もものつけ根と膝の間に草履の鼻緒のように指先同士が向かい合うように。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度。足の親指同士が離れないように。穿いている衣服はお尻の下に敷いて」と、正座についての注意点も再度教えてくれた。
 これだけ丁寧に教えてもらうと、さすがにおすみも順応していく。
 そうして点てた茶を盆に、姉に言われた通り、座敷の前で膝をつき、障子を閉める際にも膝をついて丁寧に閉め、お茶をお出しした。
「これは、おすみさんが点ててくださったのですか」と版元の若旦那が尋ねる。
「……はい」と小さくおすみは頷いた。
「先生」と版元の若旦那は父に揃えた膝を向ける。
 やはり、背筋が伸びて、膝は握りこぶし一つ分開く程度、手は指先を揃え、太もものつけ根と膝の間に置かれている。
「今度、うちの茶会におすみお嬢さんをお呼びしてもよろしいでしょうか。前回ご一緒させていただいて、今度はうちで点てたお茶をと思っております」
 父は版元の若旦那の分しかない茶にやや不満げな視線を向けた後、「そちら様にご迷惑でなければ、よろしくお願いします」とだけ答えた。
 おすみは驚き、版元の若旦那と父とをただただ交互に見るばかりだった。


 版元の若旦那の茶会にどなたが呼ばれているのかはわからなかったが、以前の茶会の着物はなんだかまた失敗しそうで袖を通す気になれずにいると、姉が「おすみちゃん、こっちの着物も似合うと思う」と、姉の着物を貸してくれた。淡い水色の上品な着物だった。少し背伸びしたような気もしたが、姉がうまく帯や簪を合わせてくれた。
 いつからこんなに姉が優しく、そして柔らかな物腰になったのかはわからなかったが、今は感謝しかなかった。
「また、転んだら、どうしよう……」と小さく呟いたおすみに、「正座は背筋を伸ばし、脇は軽く開くかつける、手は太もものつけ根と膝の間に草履の鼻緒のように指先同士が向かい合うように。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度。足の親指同士が離れないように。穿いている衣服はお尻の下に敷いて」と再度教えてくれる。
「これだけ先に心配しているんだから、向こう五年くらいは正座や茶会でのことで心配することもないでしょう。楽しんで」と優しい言葉をかけてくれる。
 母はやや心配そうに、「失礼がないようにね。大丈夫よ」とおすみの手をしっかと出かける前に握ったのだった。
 こうして版元の若旦那宅をおすみは訪れた。
 版元だけあり、手代や女中がおり、おすみが訪れるとすぐに、奥の間へと通してくれる。
 手入れされた庭に、広々としたお座敷。
 白い足袋でうっかりつるり、と滑りそうなほど磨かれた廊下。
 その奥の座敷に版元の若旦那がいた。
 若旦那は窯の湯を準備しているところだった。
 座敷には、まだ誰も来ていない。
「どうぞ」と版元の若旦那は、おすみを見て会釈する。
 床の間の掛け軸には二羽の鶴が描かれていた。
 花は二輪の白い花が細い花器に活けられている。
 掛け軸と花を拝見し、お辞儀をする。
「そちらへお座りください」と版元の若旦那が言う。
「あの、ほかのお客様は?」とおすみは尋ねた。
「本日はおすみさんだけをお招きいたしました」
 驚いたが、おすみは黙っていた。
 きちんと正座し、版元の若旦那が丁寧に、けれど無駄のない動きで茶を点てるのを見つめる。
 そういえば、昔、この版元の若旦那がうちへ来た時、うちで何かを書きつけたり、母の出した茶を飲んでいる部屋に座って、そんな様子を見ていた。版元の若旦那は、子どもだったおすみを邪魔にしなかった。子どもだからと話を合わせることなく、大人の言葉で、わかりやすく、対等だと感じられる話をしてくれた。
 その時間がおすみはたまらなく好きだった。
 今になって、その時間が戻ってきたような気がした。
 全く足はしびれず、ただただ温かな思いで版元の若旦那を見ていた。
 やがて版元の若旦那が茶を出してくれた。
 出された菓子をまだ食べていなかったことにおすみは気づいた。
 慌てるおすみに、「ゆっくりでいいですよ」と版元の若旦那は言った。
 用意された菓子は、版元の若旦那が時折土産に買ってきてくれる、おすみが好きな菓子だった。
 小さな菓子を懐紙に置き、楊枝でいただきながら、「この前、私が茶会で失敗したのを案じて呼んでくださったのですね」と小さく言った。
「いいえ」と版元の若旦那は否定する。
 どう考えても、ほかに理由は思い当たらなかった。
「私は、できれば今日だけでなく、この先も、こうしておすみさんとお茶をいただきながら、ゆっくりと暮らしたいと思っているのですよ。今日はそれをお伝えしようと来ていただきました。どうぞ」
 おすみは黙ったまま、茶をいただいた。
 いただきながら、版元の若旦那の言ったことの意味を探った。
 顔を上げると、「すぐにとは申しません。いつか、決まりましたら、お返事をいただけますか」と版元の若旦那は言う。
 つまり、そういうことだろうか……。
「もちろんです。私でよろしいのでしょうか……」
「おすみさんがいいのです。おすみさんでなければいけません」と版元の若旦那は言う。
 考えてみれば、おすみがこの先、家族以外の誰かと暮らすとして、この人のほかに思い浮かばなかった。

 版元の若旦那は、実はもうおすみ以外の家族に今日のことを話していたのだと言う。
 おすみの希望はもうわかっておりますが、ご厚意でお宅に呼んで直接お話していただけるのでしたら、どうかよろしくお願いしますと両親、姉が揃って頭を下げたという。
 そうだったのか、と驚いたおすみだが、ふと、優しい姉を思い出した。
 あの、世の中では、兄弟姉妹、順番に祝言を挙げるものではないでしょうか、と一応おすみが訊いてみたところ、版元の若旦那はご存知なかったのですか? と驚いた顔をした。
 おすみの姉が、いつの間にかいい人と出会い、もう一緒になる手筈になっているとおすみが知ったのは、この時であった。

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