[290]お江戸正座6
タイトル:お江戸正座6
掲載日:2024/05/28
著者:虹海 美野
内容:
文史郎は茶屋、諏訪理田屋の四男である。
ある日、数年前に潮干狩りで出会った米屋の娘から婿入りの話が舞い込む。潮干狩りの日、幼いおなみに採った貝をあげた文史郎はそのお礼にと昼餉に呼ばれ、ござの座敷で正座をして迎えてくれた夫婦を前に、おにぎりの米の味を言い当てたのだった。
だが、一度会ったきりの幼かったおなみと一緒になる相手になぜ文史郎が選ばれたのかがわからない。そんな折、おなみが文史郎を訪ねて来て……。
本文
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1
文史郎は、茶葉屋『諏訪理田屋』の四男である。
長男は店を継ぎ、結婚した。
次男は暖簾分けをしてもらい、独立した。
文史郎の家は、先に挙げた長男、次男、そして三男、次に文史郎、その下に五男、六男、七男と続く。三男から六男までの四人は店で毎日精を出し、奉公人とともに働いている。七男はお商売に向かぬ性格のようで、接客中にもほかのことを考えているようでいけない、七人も息子がいる諏訪理田屋で一人くらい、そういう息子がいても不思議はない、と長兄が判断し、今は日がな一日本を読み、戯作の勉強なんぞも始めて、いずれはどこかの師について戯作者の道を目指すと言う。お商売には向かぬとも、多額の金を遊びに遣うでもなし、大人しい末っ子である。
そんなふうで、諏訪理田屋の七人兄弟、今のところうなぎ登りとまでゆかぬとも、そこそこに楽しく満足して暮らしている。
時が遡ること数年前、当時文史郎は二十歳を過ぎ、ようやく手代になった頃だった。初夏の陽気のよい日に、文史郎は長男一家に兄弟全員で潮干狩りに出かけた。
季節に応じて遊びに出かける場所が多々ある江戸においても、この潮干狩りは文史郎にとっては別格である。
砂浜を掘ると出てくる貝を拾い、それを砂抜きし、味噌汁や深川めしにする。
波が引くとともに、足指から流れてゆく砂のこそばゆさ、春とは違う強い日差しを受ける首筋の暖かさも、潮干狩りの醍醐味だと考えている。
諏訪理田屋では、七人も息子を抱え、遊びに行くとなればそれなりの行事であった。
幼い頃、採れた貝をお父ちゃん、お母ちゃんに見せに走った文史郎は、もうその時の何倍も年を取っても、未だに潮干狩りでは幼少の風景を思い出す。
そうした二十歳過ぎの潮干狩りで、十くらいの女の子が隣で貝を探していた。弟の七男より少し下か……。
すでにざるいっぱいに貝を採った文史郎と目が合った。
文史郎は「いるか?」と、ざるごと女の子に手渡した。
少し離れたところで七男の弟が、浜ではなく、海の遠く先を飽きもせずに眺めているのが目に入ったが、その七男にこれをくれてやるという考えは微塵も浮かばなかった。
戸惑っている子どもに、「いいよ。うちはほかにもあるから」と説明した。長男夫婦、それに大人の兄弟で来ている。文史郎の分を端から当てにしている者はない。もともと近所におすそわけをするくらいである。潮干狩りに来て、貝を欲しがる子どもにあげて何ら困ることもない。
だが、ざるごと貝をもらった子どもは大層遠慮深いというか、生真面目で、「でも、そんな。人様のものをただでいただいたらいけないといつもお父ちゃんに言われています」と返す。
このやり取りを見ていた周囲の子どもらが、「いいなあ、欲しいなあ」と寄って来る。
文史郎は「ああ、あっちの兄ちゃんらにもらえ」と、自分の兄弟らに適当に視線を向け、子どもらは、わーっと、文三らの方へ向かった。向こうでは、突然子どもがわらわらやって来て、なんだ、なんだと文三らが慌てている。
静かになったところで、「欲しい人のところへ行った方がいいこともあるんだよ」と文史郎が言うと、子どもは深々と頭を下げ、それからざるを受け取り、走って行った。
なんだかいいことをした、と思い、再び浜を掬っていると、「あの」と声をかけられた。
先ほどの女の子の手を引き、真面目そうな、文史郎より十ちょっと上と思われる、女の子の父親であろう男がざるを抱えて立っている。背の高い、江戸の職人風情の粋な雰囲気を醸しており、ちょっと見ると、身を固めて、手習いに通っている年ごろの娘がいるというのに驚く。が、よくよくその目を見れば、堅実というか、生真面目な様子が伝わってくる。そういえば、この子がさっき貝を受け取るのをためらったのも、この『お父ちゃん』の教えだった。
そんなことを考えながら、「はい」と立ち上がる。
「これをうちのおなみがいただいたと申しているのですが」と尋ねる。
「ええ、先ほど。よろしければどうぞ」と文史郎が応じると、「いや、しかし、それでは申し訳ない」と言う。
「お気になさらず」と答えると、「何かお返しをしたいのですが、よろしければ、昼餉をこちらで一緒にいかがでしょう」と男は言う。
昼餉の用意は文史郎の家でもしてきているが、この場合は厚意を受けた方がよいと文史郎は判断した。
なんだかわらぬままに子どもらに貝をやった文三に「ちょいと、こちらの方たちにご馳走になってくる」と声をかける。子どもの一人が「あの兄ちゃんが、貝をこっちにいる兄ちゃんらにもらえって言った」と文史郎を指先し、文三が「おい、なんなんだ」と言うのを聞き流し、屋根とござの敷いてある涼しい場所へと向かった。
若いご新造さんが、まるで奥座敷のようにかしこまった正座をして、頭を下げる。
お屋敷のお雛様のごとく、きれいなご新造さんであった。
「大したものもございませんが、よろしかったらどうそ」と、白いごはんを握ったものがきれいに並んだ重箱と、さまざまなおかずの入った重箱が用意されていた。
「すみません」と座ると、先ほどの女の子が少し離れたところに座っている。
ご新造さん同様、大層かしこまった正座であった。
まず、背筋が伸びて姿勢がいい。
脇を締め、膝をつけ、着物をお尻の下に敷き、足の親指同士が離れず、手は太もものつけ根と膝の間に指先同士が向かい合うように揃えられている。
着物や簪が豪奢というわけではないが、お忍びで来たどこぞの方々ではと思うほどの品があった。
一人場違いな気がして、文史郎は居住まいを改め、正座をした。
先ほどまで潮干狩りで帯に端折っていた着物を直して尻の下に敷き、脇は軽く開く程度、膝も握りこぶしひとつ分開くくらい、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間に指先が向かい合うよう、履物の鼻緒のようなかたちに揃える。
「では、お言葉に甘えまして、いただきます」とおにぎりをひとつ、いただいた。
諏訪理田屋では、こういった行楽の時に料亭の仕出しの弁当を頼んでおり、それなりに贅沢なおかずが詰められている。
せっかくのご厚意だからという思いとともに、失礼ながら、それほど期待をせずにいただく。
だが、多少侮った文史郎の考えは、その舌が大きく覆した。
……なんだ、この米は。
米とは、これほどに旨いものか。
粒が立って、甘い、しっかりとした米の味がした。
こんなに旨い米、否、旨いものを食ったのは初めてだ。
待て、どこかでこれにとても似た味に会った。
もう一口、おにぎりを口に運び、ゆっくりと咀嚼しながら、手の中の米をじっくりと見る。
艶があり、美しい米であった。
うーん、と文史郎は知らず知らず難しい顔をし、考え込んだ。
一体、どこでこの米を食ったのか。
うちではない。
最近食べたのは、近所の出店で売っている稲荷ずし。あれは違う。
正月に、餅つきの際、蒸した餅米をつまみ食いした。あれは旨かった。粘りと甘さが違う。それか? 違う。
もっと、何か特別な場……。
そうだ。
長兄の祝言の折、高級料亭で食事会をした。
あの時のめしはさすがに旨かった。
色々出たが、桜の型に入れて、朱色の皿にうやうやしく載っていた小さなごはん。
もしや、あれではないか……?
あの時、料亭では酒を飲み、さまざまなご馳走を食べ、今と舌の状態は違った。しかし、あの米は、今の飯と同じように、噛みしめるたびに、米の甘味がじわりと広がった。
あの味覚と同じだ。
「このお米は……」
あまりに注意深く米を咀嚼し、じっくりと眺める文史郎に、「あの、どうかされましたか」と、夫婦がおずおずと尋ねる。
文史郎は米を凝視したまま、以前行った料亭で使われている米と同じ味がする。昔のことであるのに加え、酒を何杯も飲んだ後だったので定かではないが、と付け加えて言った。
すると、夫婦が目を見張り、同時に互いの方を見遣った。
「すみません、昼餉に呼んでいただいて、面倒な話をしまして」と、文史郎は狼狽えた。
文史郎が知る限り、今名を出した料亭は、文史郎の住む界隈では高級な店で、何か旨いものを食べた時の例えに挙げることもある。要は誉め言葉として使われるほどの店ということだ。だが、今の話の中でどう受け取られたか……。
普段店で茶葉を売り、それなりに舌の肥えたお客の対応もし、言葉や態度には気を付けているはずだったが、と目を泳がせる。
すると旦那が「失礼ですが、どこかの板前さんでいらっしゃいますか」と訊く。
「いえ、私は『諏訪理田屋』という茶葉を売る店の息子で文史郎と申します」
「ああ、お茶を……」
旦那とご新造さんは納得したようで、互いに頷き合った。
そうして、「申し遅れました。うちは米屋をしております。確かにこの米は、先ほどの料亭に卸しているものです。しかし、料亭では先ほども申されましたように酒をはじめ、海のものから山のものまで、味付けにも工夫を凝らしたものが何品も出されます。一方こちらは握り飯にし、冷めてから重に詰めたもの。それでもお分かりになるとは……」と感心しきりの様子である。
「いえ、たまたまおいしい握り飯をいただいて、それであの店の飯の味を思い出したまででして……」と、文史郎がやや及び腰になるほどに、米屋の旦那とご新造さんはしかと文史郎を見つめ続けるのであった。
その横で、おなみという娘は大人しく座っていた。
こんなことを言っては失礼だが、旦那とご新造さんのよいところをもらったといった風で、端正な面差しで、白くほっそりとした、かわいらしい子どもであった。
昼餉の中で、おなみが今、近所の手習いに通っていること、その後は芸事も全てとはいかぬが学ばせる予定だとおなみの父が話した。
控えめな性格ではありそうだが、しっかりとした、利口そうなお嬢さんだ、と文史郎は思った。
「今も十分に立派ですが、これから先、様々に学ばれて、より知的になられるでしょうね」とおなみの両親に言い、「私も手習いと茶や香は少し学びましたが、おなみさんはどんな芸事を学びたいのですか? きっとどれも上手にできるのでしょうね」とおなみに話しかけた。
おなみは首を傾げ、僅かに頷いたのだった。
2
あの潮干狩りの一件の後、諏訪理田屋での米は、あの米屋で買い続けている。味がよいのでさぞかし高かろうと思い、試しに少しだけと買いに行ったところ、それまでその場その場で買っていた米よりやや高い、というくらいで、続けて買うのに支障のない値であった。恐らく、人の好い夫婦なのであろう。
あの料亭に卸している米だと大仰に言えば、値を上げても買う人はいるのではないか。
そうした、あの店の旦那さんとご新造さんの人柄にも好感を持ち、諏訪理田屋はすっかりあの米屋のお得意さんになった。
だが、米を買うのは台所を預かる人間に任せているので、文史郎自身はあの旦那やご新造さんと会うことはほとんどなかった。たまに、ご新造さんが茶を買いに来たが、その時も文史郎が昼餉の最中であったりして、顔を合わせるのは年に一度、二度といったところだった。
あの夫婦との出会いで、毎日美味しい米が食えるようになったわけだから、文史郎は、あの米屋を忘れることはなかった。
旨い米をいただき続け数年、気づけば長兄は二児の父、次兄は暖簾分けをしてもらい、家を出ていた。
3
ある日、店仕舞いをしていると、長兄に呼ばれた。
店の奥の間ではなく、住まいの方の床の間であった。
改まって、一体なんだと文史郎は訝しく思いながら、部屋に入って障子を閉めた。
向かい合う長兄は床の間を背に、正座をしてやや難しい顔をし、腕を組んでいる。
一体どうしたのか。
店の方は、そこそこに安定しており、今年の新茶の出来もよく、評判は上々であった。
先代からのお得意様も多く、安価な値で卸す茶店や、いつも決まった茶を買いに来る菓子屋もおり、お商売はうまくいっているはずである。
文史郎はいつになく厳しい面差しの長兄を前に、正座した。
いつだったか、潮干狩りに行った折、あのござの上で、どこぞの奥座敷にでもいるような正座をしていた一家を思い出した。
背筋を伸ばし、膝は握りこぶしひとつ分開く程度、着物は尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬように気を付け、脇を締め、手は指先が向き合うように太もものつけ根と膝の間に揃える。
「店でもしっかりやって、作法も身に着いたようだな。すっかり大人になったものだ」と長兄が切り出す。
「はい」と文史郎はいつもの砕けた口調ではなく、改まった言葉を選ぶ。
「おかげ様で、自信を持ってお商売できるようになりました」
「うん」と長兄が頷く。
「それでな……」
一体なんだ……?
「はい」
「すぐにではないのだが……」
もうすぐに言ってくれ……。
「はい」
長兄は焦らしているのではなく、どう言ったものか、という様子である。
若干苛立ちながらも、長兄を責められず、文史郎は待つ。
「実は」
「はい」
「お前に見合いの話が来ている。いや、うちに嫁に来てもらうのではなく、あちらのお嬢さんのお宅に婿入りするという話だ」
「私に、ですか?」と文史郎が尋ねた。
じりじりと長兄の話を待った文史郎だが、まさかこういったことだとは思わなかった。
店のことばかりが頭にあった。
たった今、『お前に』と聞いたはずだが、訊き返すほど、意外な話である。
文史郎の兄弟は、長兄、次兄が所帯を持ち、三男、四男の文史郎、五男、六男の弟が店におり、七男の文左衛門は少し前にとうとう戯作者の師の元へ弟子入りした。
つまり、この家には独り身の息子が現在文史郎を含め四人。
この場合、三男の兄、文三が先ではないのか。
「あんちゃん、だったら、文三兄ちゃんにこの話をした方がいいんじゃないか? 決まった人がいるようにも思えないし」
いつもの口調に戻り、文史郎は困惑顔で尋ねた。
「まあ、そこなんだがな。順番でいえば文三が先なんだが、あちら様が、文史郎がいいとおっしゃっている」
三男の文三と、四男の文史郎、それほど何かが違うとは思えぬ。諏訪理田屋の兄弟は皆似ており、お客人が兄弟を間違えることもしばしばである。同じお店で一緒に働き、仕事にそれほどの差もないと思う。敢えて言うのであれば、生まれた順番と、文史郎の方がいくつか若いといったことくらいか。
それがどうして名指しで自分なのか……。
「お前が昔、昼餉をご馳走になった、今でも米を頼んでいる店の一家を覚えているか?」
「……ああ」と、文史郎はやや間の抜けた声で返した。
長兄が咳払いをする。
文史郎は背筋を伸ばす。
「そこのご夫婦もなんだが、一人娘のおなみさんが今年で十七になる。そのおなみさんに婿をそろそろと考えているそうなんだが、おなみさんが一緒になるのなら、文史郎がいいと言っているそうだ」
「えええ?」
文史郎は目を見開いた。
あの夫婦の娘のおなみと会ったのは、数年前、まだおなみが十かそこらの時である。
「お前、隠れておなみさんと会ったりしていないよな?」
じっと長兄に睨まれ、「そんな暇ないのはあんちゃんも知っているでしょう。朝からずっと店で働いて、店に来るのはお年寄りや子どもを連れたおかみさんばかりだ」と返す。
「それは、こき使って、遊ぶ時間もない生活で悪かったな」と長兄がやや腹立たし気に文史郎を睨む。
「あんちゃんを恨んでいるわけじゃあないよ。そうじゃなくて、俺がそのおなみさんというお嬢さんといい仲になる暇はないって、そう言いたかったんだよ」
慌てる文史郎を、長兄はじっと見た後、「そうか」と納得した様子で頷いた。
「うちとしては、婿入りといってもそう遠くない場所だし、あの店の米の質がいいのは、この数年、家中の人間が知っている。もちろんうちだけでなく、世間様からの信頼も厚い。高級な料亭も、必ずあの店の米を使う。そういう定評のある店に入れるというのは、なかなかある話じゃあない。ありがたいお話だと俺は思うが、決めるのはお前だ」
「はあ……」と文史郎は間の抜けた返事をした。
ほかに返事のしようがない。
この店は長兄が継いでいるし、しっかりしたご新造さんが来てくれて、子にも恵まれた。
次男は暖簾分けをして家を出ている。
文三兄さんはまだ独り身であるが、四男の自分がこの先店を継ぐことはまずないし、まあ、いずれどこかに婿入り、というのはわかっていた。
長兄が言うように、婿入りにはとてもよい条件のお店である。
だが、文史郎の記憶には、あの十くらいのおなみしかおらず、そのおなみと一緒になるというのが、どうにも婿入りという言葉に追いつかなかった。
4
婿入りの話は、文三の手前もあり、長兄と文史郎のほかは店で誰も知らぬままであった。
朝店の前を掃き清め、朝餉をいただき、お商売をし、その間、文史郎は一人悶々と婿養子について考えていた。
正直なところ、文史郎は何も知らなければ、婿養子の話を一つ返事で受けていたと思う。
どういうお嬢さんでも、あちらさんがよいと言ってくれるのであれば、文史郎の方でこれといって望むことはない。
だが……。
もしかすると、あの米屋のおなみは、親の決めた誰かと一緒になるのが嫌で、その逃げ口実に昔一度面識のあっただけの文史郎の名を出し、こちらから断るよう仕向けているのではないか。
ほかに考えようがなかった。
交代で遅めの昼餉をいただき、茶をすすっていると、「文史郎さん、よろしいですか」と店の方から呼ばれた。
なんだって俺を呼ぶんだ。
茶のことなら、俺じゃあなくたって、わかるやつはいるだろう。
文三あにいは怖いが、俺なら気安いというところか。
それなら、俺の下の弟たちがいるだろう。
忙しそうにしている弟たちよりも、のんびり飯食ってる四男の方が呼びやすいか。
一人何やら訳もなく、いじけた心持ちで、「はい」と大声で返し、茶を飲み干して店に出た。
呼んだ手代に文句の一つでも言ってやろうという思いだったが、一気にそれは消え失せた。
「お忙しいところ申し訳ありません。昼餉が済むまで待ちますと申したのですが……」
深々と下げた顔を上げたその人は、「もしや、おなみさんですか」と尋ねれば、「はい」と頷く。
ほっそりとし、整った風貌の、そうしてなんとまあ、美しくなったお嬢さん、もといおなみさんがそこに居た。
初夏に合わせた白に薄茶の縦縞の入った単衣に、きれいに結った艶やかで豊かな黒髪。
ちょっと近寄りがたい気すらするおなみは、だがしかし、文史郎に気づくと、潮干狩りの日に貝をあげると言った折に戸惑った、あの子どもの時と同じ目をした。幼く、頼りなげで、あの日のように雲ひとつない空のように澄んだ目だった。
あいさつも忘れて立っていた文史郎に、おなみはふっと親しみのある笑顔を見せる。
周囲にいた手代や客やらは、このお嬢さんはなぜ、文史郎にこんなにも人懐こい顔を向けるのか、と不思議半分、妬み半分といったふうに見ている。
「文史郎さん、こんにちは」と、まるでつい先日も会ったかのような柔和な態度であった。
「こ、これは、どうも……、息災でしたか」と、文史郎はやっとのことで尋ねた。
「おかげさまで」と、会釈する。
いやはや、月日とは大層なものである。
まだ手習いに通っていたであろう、肩上げの着物であった子どもが、恐らくは読み書き、芸事を習得し、このように立派な娘になるとは……。
「よかった。文史郎さんが変わっていなくて」と、おなみは言った。
それが嬉しくてたまらない、といったふうである。
「いや、小生は、毎日茶を売って過ごして、年ばかり取りました」
「そんなことはありません。ずっと素敵です」
すっかり参っている文史郎に、長兄がそっと歩み寄り、「上がっていただいたらどうだ」と言う。
「おなみさん、もし、お急ぎでなければ、こちらへ」と、文史郎は促した。
「お約束もなしに伺いましたのに……」と言うおなみを、長兄は「何を言いますか。大したおもてなしもできませんが、ゆっくりしていらしてください」と満面の笑みで、おなみに上がるよう再度勧め、茶を出すようにと声をかける。
そうしておなみは恐縮しつつ、草履を揃え、上がり框から長兄に「どうぞどうぞ」と促され、母屋の座敷へと通される。
長兄は座らず、文史郎とおなみが向かい合って座り、茶が届くと、障子を閉め、早々に立ち去った。
さあ、どうしたものか、と文史郎は内心頭を抱えた。
そうして、前できれいに正座するおなみの膝や指先に目がいった。
文史郎は居住まいを正し、正座し直す。
背筋を伸ばし、脇を軽く締め、膝は握りこぶし一つ分開き、穿き物を尻の下にきれいに敷き、足の親指同士が離れぬようにする。
自然と目線はおなみより上になる。
膝と太ももの間で指先同士が向かい合うように置かれたきれいな手が目に入り、「よろしければ、どうぞ」と茶を勧める。
「いただきます」と言い、揃えた指先でおなみは茶に口をつけた。
「おいしいです」
「それはよかった」
大事なお客と、長兄がいい茶を淹れさせたのは言うまでもないだろう。
「おなみさんのおうちの米は大層おいしい。決まったところから卸しているのですか」
「はい。江戸からほど近い農家ですが、父の昔からの友達で、毎年そこから買い付けております」
「そうですか。うちの茶は品を揃えるのに、何か所かから取り寄せていまして。値の張る茶はやはり旨いですが、意外と安価でもよい茶や飲みやすい茶もありまして、飲む人の好みと合わせて……」
商売の話になり、つい饒舌になりはじめ、ふと気づけば、おなみは「はい、はい」と大きく頷いて、聞いているではないか。
「すみません、こんなお商売の話を」と詫びると、「とんでもないです。文史郎さんは、うちの白いおにぎりを大層褒めてくださいました。そればかりか、同じ米を使っている店まで当てたお人です。これが、どれほど商売冥利に尽きるか……」
「そう言っていただけると、嬉しいのですが……」
身を乗り出して言うおなみに、やや押され気味になりながら、ああ、さすがお商売をしている家の一人娘。しっかりとしているんだなあ、と文史郎は若いおなみをしげしげと見た。
「あの、押しつけがましい気もするのですが、また、あのおにぎりを少し持って来たのですが」とおなみが小さな包みを引き寄せる。
「それはそれは……」
喜ぶ文史郎に、「ああ、でも先ほど昼餉を」とおなみは後ろへと押しやる。
「いえ、もしよろしければ、喜んでいただきます」
そう言い、文史郎は丁重にそれを受け取った。
包みを解き、竹皮の中から現れた白く輝く三つの小さなおにぎりに、口内に唾液が広がる。
「遠慮なく、いただきます」と言い、頬張る。
旨かった。
同じ米をうちでもずっと買っているが、その何倍も旨い。
「これは、あの潮干狩りの時と同じですね。どうしてこんなに旨いのでしょうか」
米の甘味を噛みしめ、これ幸せといった表情で目を細める文史郎におなみは、「研ぎ方、炊き方かもしれません」と答える。
「うちは米屋ですから、やはり米の研ぎ方や炊き方は、よそ様よりも細かく、うるさく教わります」
「そうですか……」
確かに茶も淹れ方は大切である。
「これは、おなみさんが炊いてくださったのですか」
「はい。あの潮干狩りの日も、お母ちゃんはおかずを作るからと、私が任されました。まだ、ごはんを頼まれて間もない頃で、けれどお父ちゃん、お母ちゃんとだけ食べるからと思っていたのですが、文史郎さんがいらして。それでとても美味しいと言っていただけて、嬉しかった」
なんと、あの旨いおにぎりは、まだ十になったばかりといった小さなおなみが作ったものだったのか。
「恐れ入りました。何も考えずに幾つもいただいて」
おにぎりをひとつ食べ終え、茶を飲んだ文史郎はごく自然に手をつき、頭を下げた。
「そんな……。大げさです」とおなみが慌てる。
「私はあの日、うちのおにぎりを美味しいと褒めてくださったこと、そうして、後になって大きなお茶屋さんの家の方で、ご馳走に慣れているのに、嘘のない笑顔でうちのお弁当を食べてくれたことを知って、こんな方はほかにいないと思ったのです」
「それこそ大げさです」と、顔を上げた文史郎は言い、「あと二つも私がいただいても?」と訊き、笑顔で頷くおなみを前に、文史郎は遠慮なく残りふたつを平らげた。
そういうことだったのか、と文史郎は思った。
婿入りの話が来た時には正直困惑した。
人にとって重きを置くところとか、心に残ることとか、大切にすることとか、そういうことをおなみは今日伝えに来てくれた……。
そうして、文史郎はこれまでそうしたことを考えてこなかったが、おなみの中で数年にわたり、積み重ねられた想いを今、確かに受け取ったという思いがあった。
会った時、おなみはまだ子どもで、文史郎に深い考えはなかったが、採った貝をあげようと自ら言ったのは、後にも先にもおなみだけだった。
こういうことを、縁というのか……。
5
おなみの家を訪ねたのは、それからすぐのことであった。
さほど大きくはないが表店で、店は夫婦で切り盛りしていると言う。
「うちのような、間口の狭い店から、諏訪理田屋さんのような大きな間口のお店に婿入りを願い出るとは失礼と承知の上でしたが、お受けしていただき、なんとお礼を申してよいか……」
夫婦は初めて会った時のように、きちんとした正座で文史郎に向き合った。
大事な娘の婿に対して腰が低すぎるのではないかと、正座する二人を前に文史郎は不安になる。
二人とも背筋を伸ばし、脇を締め、膝をつけ、着物をきれいに尻の下に敷き、足の親指同士をきちんとつけている。
太もものつけ根と膝の間で指先が向かい合うように揃えられた指先までが揃えられている。
文史郎は、「とんでもございません。私でよろしいのでしょうか」と問うた。
「我々は、是非とも文史郎さんに来ていただきたいのです。初めてお会いした日、うちのおなみに躊躇いなくざるいっぱいの貝をくださり、米の味を見事に当て、そちら様の弁当に比べ質素な弁当を大層気持ちよく食べてくださった。食べ方は、その人となりが出ると私どもは考えております。とてもきれいな食べ方をなさる。そうして、あの砂の散らばったござの上できちんと正座をしてらした。そんな方はほかにおりません」と、おなみの父は言った。
「もったいないお言葉です」と文史郎は頭を下げる。
「ただ……」
ふいに、おなみの父の声が低くなった。
「……はい」と、文史郎は恐る恐る顔を上げる。
おなみの父と目が合う。
おなみの父は目を合わせたまま問うた。
「もし、同じような方がいて、おなみをそちらの方と添わせる、と申しましたら、文史郎さんはどうなさいますか?」
「え」と文史郎は絶句した。
おなみの父と目を合わせたまま、時が流れる。
……ほかにおなみと添わせたい相手がいるのか?
おなみにとっては、自分より、その相手の方が本当はよいのだろうか。
文史郎の手に力が入る。
「決して、……決して後悔させません。どんなに素晴らしいお人が現れても、私はおなみさんと添い遂げることにおきましては、負けませぬ。負けたとしても諦めませぬ」
おなみの父の目が、揺らぐ。
文史郎は続ける。
「どうか、後生です。おなみさんと添わせてください。どんなことがありましても、大切にいたします」
こんなに声を張ったことが、ここ何年、否、これまでの人生であったろうか。
「そうですか」
おなみの父が柔らかく笑った。
隣でおなみの母が目尻を袖で拭う。
「どうか、よろしくお願いします」
おなみの父は深く、深く頭を下げた。
6
これまで、毎日仕事仕事であったが、ここ最近は何日かに一度、昼間一刻ほど(約二時間)文史郎は出かけるようになった。もちろん長兄の許しを得てであるが。
今日も昼餉を断り、いそいそと出かける。
初夏の花が美しい頃で、今日はおなみと二人、近所の花の名所で弁当を食べる予定である。
通常は婿入りが決まれば、祝言の運びだが、文史郎の家は、すぐ上の文三がまだ独り身である。それを考えると先に婿入りするのが憚られ、当分は結婚の約束、ということになった。おなみの両親もそれを快諾してくれ、その間におなみはこれまでの芸事の稽古のほかに、台所の方はお母ちゃんに、商いのことはお父ちゃんに教わり、文史郎が来た暁には一日も早く文史郎と二人で店をやっていけるようにと精進しているのだと言う。
まだまだおふみの両親は若く、いきなり文史郎が米屋の店主になって奮闘することはなさそうだが、文史郎も気を引き締めねばと思う。
が、今は「文史郎さーん」と弁当の包みを抱え、嬉しそうに手を振るおなみに、つい頬を緩め、「おなみさーん、お待たせしました」と嬉しそうに駆け寄る文史郎であった。