[287]お江戸正座5


タイトル:お江戸正座5
掲載日:2024/05/16

著者:虹海 美野

内容:
文三は茶葉を扱う諏訪理田屋の三男である。
今後店を盛り立てるため、何か手立てはないかと考えていたところ、お得意様のご老人から、茶を飲み比べて同じものを当てる遊戯をしてみたらどうかと提案を受ける。
そこへ、おふみという娘が来るが、茶葉の名を確認し忘れたと言う。
ご老人に出すはずの店で一番よい茶を出すと、これだと言い、それを買い求めたおふみを、茶の飲み比べの遊戯に文三は誘うが、おふみは頑なにそれを断り……。

本文

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 諏訪理田屋は、そこそこに大きな茶葉を扱う店である。
 文三はそこの三男で、長男夫婦がもう店は継いでおり、次男は所帯を持って暖簾分けをし、家を出た。そうして三男の文三を筆頭に独り身で家業に勤しむのが六男までの四兄弟、七男の文左衛門は戯作者になると言って、家を出た。師匠の家に居候をした後に一人暮らしを始めたと連絡が来て、それからすぐに戯作が出され、そこそこの評判であるらしいと知った。
 諏訪理田屋の商いは長男夫婦に任せているが、それに胡坐をかいてのうのうとしているわけにもゆかぬ。長男の息子が今年で十になったところ、娘は三つである。長男の息子が若旦那におさまる頃に、文三、それに六男までの四兄弟がどうしているかはわからぬが、とにかく、この店を盛り立て、茶葉は諏訪理田屋でと多くのお得意さんを増やしておくに越したことはない。
 そのためにどうしようか、と文三は思案していた。
「難しい顔をしてどうしました」と、先代からのお得意様であるご老人がやって来た。
 店内の上がり框で頼んだ茶葉を待っている間、文三はお客人に茶を出すように言い、その近くに膝をついた。
「いえね、うちもお陰様で繁盛していますが、私や弟で何か店を盛り上げられないかとここのところ考えておりましてね」
「ほう、それはそれは」とご老人が頷く。
 そこへ、若い娘がやって来た。
 この店で番頭をしているが、初めて見る顔である。
 年の頃は十六から十八くらいだろうか。
 華美ではないが、若い娘にしては上品な着物の着こなしをしており、暖簾をくぐる際の所作も美しかった。
「いらっしゃい、何かお求めはございますか」と手代が応じる。
 娘は首を傾げ、「すみません、以前こちらでいただいていたお茶がほしいのですが」と困った顔をした。
「ええと、どのような……」
「それまで飲んだどのお茶より、苦味と甘味がほどよく、深い味わいのする茶葉で、香りもとてもよかったのですが、すみません、茶葉の名を確認するのを忘れました」
 そんなやり取りを見ていると、ご老人の元に丁稚が茶を運んで来た。
「お嬢さん、もしかして戯作者の先生のところのおふみさんではありませんか」と、ご老人が声をかけた。
 文三とご老人の方を見た娘は、目元がやや吊り上がり、鼻筋の通った、ちょっときつそうな人相ではあるが、美しい顔立ちをしていた。
「……はい。ああ、確か父を俳句の会に誘ってくださった……」
「覚えておいででしたか」とご老人は朗らかに笑った後、「もしかして、お求めの茶は、これではありませんか」と、今しがた丁稚の持って来た茶を見遣った。
 少し困った顔をしたおふみという娘に、「よろしければ、これを飲んで判断しなすったらどうです」とご老人は、手つかずの茶を盆ごと勧める。
 文三はすぐに丁稚に茶を持って来るように言った。
「あの、よろしいのでしょうか」とおふみという娘は戸惑っている。
 新茶が入った際などは、客が試飲できるよう、小さめの湯呑にすぐ茶を淹れられるよう用意しているが、常連のお客人へのもてなしの茶となれば話は少し違う。
 だが、この常連のご老人は「構いませんよ」と言う。
 ここで、おふみという娘は、「せっかくのお茶をいただきますので、こちらお邪魔させていただいてよろしいでしょうか」と断り、丁寧に草履を脱ぎ、揃え、上がり框の端に座った。
 ……なんとも、美しい佇いの正座であった。
 背筋を伸ばし、きれいに穿いているものを尻の下に敷き、足の親指同士が少し重なるようにし、膝はつけ、手は膝と太もものつけ根の間に草履の鼻緒のように指先同士が近づくかたちで置かれ、脇を閉めている。
「では、いただきます」
 澄ましたように見える鼻が僅かに茶の香りを確かめ、大きな目が優し気に伏せられる。指を揃えた手で持つ湯呑をそっと小さな口に寄せ、茶を飲んだ。僅かに口に含み、それから何度かに分けて、すうっと飲んだ。
「ありがとうございます。このお茶をください」とおふみは言った。
 手代がすぐに茶葉の用意をしに行くのを、文三はご老人とともに見ていた。
 この店で、一番の高級茶葉であった。
 おふみは茶葉を受け取り、勘定を済ませると、「どうもありがとうございました」ときれいに礼をし、店を後にした。
 ご老人は丁稚の持って来た茶を啜り、一息つくと、「ちょっとした遊戯をしませんか」と提案した。
「どのような」と文三は首を傾げた。
「茶の好きな常連さんなんかを集めて、茶を当てるのです。なに、賭け事でなければ問題ない。皆で茶のおいしさを改めて知るとともに、いつもは飲まぬ茶の良さも知りましょうとでもいう趣旨でよろしいのではないですか?」
「それは、よいお考えです」と文三が大きく頷く。
「それで、いつもの常連の顔ぶればかりでは楽しくない。今来たお嬢さんもご招待いたしてはどうでしょう」
 続いたご老人の提案に、文三は暫し戸惑った。
 若い娘さんを、二十後半の茶葉の店の男が誘ってよいものか……。
 そんな文三を見透かしたようにご老人は、「お誘いする役目は私が引き受けましょう。あのお嬢さんの御父上とは、昔からの友人のような関係ですから」と請け合ってくれた。


 善は急げと、文三は早速茶の試飲会の準備に取り掛かった。
 常連の得意客への文、当日に出す菓子の発注。
 茶は新茶をこぞって買う時期を過ぎていたが、単に高価な茶だけではなく、安くとも飲みやすくまろやかな茶や、この辺りではなかなか入手できぬ珍しい茶など七種を揃えた。この茶を選ぶ際には、文三ら四人の兄弟で幾度も協議を重ね、実際に飲み比べをし、どの茶から出すかなどを話し合った。そうしてまとまった話を旦那の長男に伝え、長男はすぐに広い座敷に違い棚の飾り、掛け軸、茶器を用意すべく、蔵にしまってある諏訪理田屋の家宝を出した。
 おおよその準備が整い、帳場で長男に当日来る顔ぶれについて訊かれ、先代からのお得意様や、煎茶を薬としても扱う薬問屋の大旦那、俳句や香を嗜む粋人、それに先日やって来たおふみというお嬢さん、十名ほどを予定していると答えた。
 すると長男は、「そのおふみさんというお嬢さん、もしや、うちの文左衛門が師事している戯作者の先生のお嬢さんではないか?」と言う。言われてみれば、文左衛門に師匠宅でお世話になるからと持たせたのは、あの高級茶葉で、それを飲んでいたお嬢さんが、茶葉が切れたからと買いに来た、茶葉の名を覚えておらず、茶の値段を問わなかった、といったところも頷ける。
 それにお得意様のご老人があのおふみという娘の父上を俳句の会に誘ったと言っていた。なるほど、そういう交友関係かと文三は納得した。
 それなら、ただの茶屋からの誘いではなく、父上と縁ある人と参加する場として、ご両親の許可もすぐに下りるであろう。もう、今頃はお得意様のご老人が声をかけてくださって、話がいっているはずである。
 そう思っていたところ、「ごめんください」と、そのおふみが店に現れた。
 対応しようとした手代を制し、文三がおふみを迎えた。
「いらっしゃいませ。先日はありがとうございました。お茶の味はいかがでしたか」
「その節は、茶葉の名を忘れてこちらへ伺い、ご迷惑をおかけいたしました。おかげさまで、お茶はおいしくいただいております」
 おふみは丁寧に頭を下げる。
「ご迷惑など……。それはようございました」と文三が応じ、「それでは、今度のお茶の会はいらしていただけるでしょうか」と尋ね、おふみが『はい』と言ったようなつもりで、『お待ちしております』と言いかけたところへ、「そのことですが、私は参れません」と断られた。
「それは……」と言いかけ、客の訪れる上がり框を前にしては忙しなく思い、「よろしければ、その理由をお聞かせ願えますか」と、上がり框の奥にある店の座敷へとお通しし、丁稚に茶を持って来るようにと声をかけた。
 おふみは戸惑っていたものの、大きな茶屋の息子であり、番頭である文三を前に「少しだけお邪魔します」と俯いて答えた。
 前回同様、所作の美しい娘だと文三は思った。
 初めは遠慮した座布団に勧め、そこでおふみは一礼し、座布団に正座した。
 客のための大判で、布団のように柔らかな座布団を諏訪理田屋では用意しているが、おふみが華奢で、まるでほっそりとしたきれいな猫が座っているようである。
 座る際に袖に手を添え、穿いているものをきれいに尻の下に敷き、背筋を伸ばし、足の親指同士をつけ、太もものつけ根と膝の間で指先が向かい合うよう、履物の鼻緒のように手を揃え、膝同士をつけ、脇を締めている。やはり、美しい正座である。
 ほっそりとした首筋と小さな顔とに目をやり、何やらこそばゆく、視線を畳に落とした。
 丁稚が茶を持ってやって来て、下がった。
「それでは、その先ほどおっしゃっていた理由を聞かせていただけますか」と、文三は尋ねた。
「うちの父は戯作者をしておりまして、諏訪理田屋様の文左衛門さんをお預かりしていた時期がございました」
「それは、存じております」と文三は頷いた。
「そうですか。ですが、その先はご存知ないと思います。私、文左衛門さんがうちにいらした時、意地悪をいたしました。だから、文左衛門さんは早々にうちを出て、一人暮らしを始めたのです」
 思わぬ打ち明け話に、文三は暫し黙り込んだ。
 このお上品なお嬢さんが意地悪?
「それは、うちの弟が何か失礼やご不快になることをしたからでは」と文三は尋ねた。
 文左衛門は末の子で、お店を継ぐために育てられた長男と比較すると、ずいぶんと甘く育てられた。一応一通りのしつけはされていたとは思うが、昔からほかの兄弟のようにきびきびと動く、お商売をするための所作が全く身につかなかった。いつも、何か別のことを考えているようで、お茶の値やお客に対して、何ら関心を持たず、手伝いとして店に置くのも憚られた。そんな折、文左衛門は自ら戯作者になりたいと言った。跡継ぎではなし、本来の性格からも、その方がよいかも知れぬ、と文左衛門を家族は送り出したのだった。
 お師匠の家は奥さんがおり、もう大きくなった娘さんもいるので、お師匠のために米を炊いたり、洗濯をしたりということはまずないだろうから、ややお坊ちゃん育ちの文左衛門でもやっていけるだろうと、文三の家族は安心しきっていた。
 だが、その安心から、特に文左衛門に師の元で世話になる心得などを説かなかった。
 それがいけなかったのかも知れぬ。
 しかし、おふみは「いいえ」と首を横に振る。
「大層私や妹にも気を遣い、真面目に戯作の勉強をしておられました」と言う。
「はあ」と、文三は曖昧な相槌を打つ。
 一体どういうことなのか、要領を得ぬ。
「敢えて申すなら、その気遣いが、私には何やら疲れてしまうといいましょうか、率直に申しますと、目障りでございました。嫌な方なら、正面から文句も言えますが、良い方である故、ただただ苛立ち、自己嫌悪に陥るのです。お優しい文左衛門さんは、うちを出る理由を何も言わないまま、一人暮らしを始めました。ですから、うちを追い出したのは、私です。私のせいです。私が文左衛門さんに意地悪をいたしました。申し訳ございません」
 ここでおふみは座布団を退け、手をついて詫びた。
「なんとまあ、正直なお嬢さんだ」と文三は呟いた。
「お顔をお上げください。文左衛門ももう大人です。自分で決めたことでございましょう。おふみさんが気に病む必要はございません。かえってそんなふうに気に病むおふみさんに対して私は文左衛門の兄として申し訳なく思います」
「そんな。とにかく私はこのような人間です。とても諏訪理田屋様の大切なお茶の席に出られるような立場ではございません」
「いえ、寧ろ、どうしても来ていただきたいと今、私は思いました。こんなにも正直で優しいお嬢さんが来てくださるのであれば、忌憚ないご意見をいただけるでしょう。私はお商売をさせていただいておりますが、正直な人が好きです。どうか、お越しくださいまし」
 文三がそう言うと、おふみは目を大きく見開き、文三を見ていた。
 そうして、「はあ」と間の抜けた返事をし、茶をきれいな所作で飲むと、茶会の日時を確認し、招待の文は不要ですと気を遣い、帰って行った。
 文三は何やら落ち着かぬ思いでおふみを見送った。
 そこへ、長男が「とうとういい人を見つけたのかい」とやって来て訊く。
 驚いた文三が「まさか、そんな」と顔の前で手を大きく振ると、「そうか?」と長男は首を傾げる。
「隣町にもうじき空く店が出る。そこにうちの支店を出したいと思っているんだ。文三がそこの店主になるのに、誰かと一緒になってくれればと思っているんだが」
「まだ私には早いですよ」と言うと、「お前には言っていないが、弟たちは、それぞれに婿養子の話がきている。本人にも伝えて乗り気だが、やはり兄より先にというわけにはいかぬと遠慮しているんだ」
 文三の肩に大きな手を置き、兄は店に入って行った。
「そうだったのか……」
 兄弟でまだまだ店を盛り上げようと思っていたのは、どうやら文三だけだったようである。
 そうして、支店の話。
 一緒になってくれれば、という兄の言葉。
 もしかしたら、兄はいずれ文三に見合いをと考えていたのかも知れぬ。
 そこで文三は、ふとおふみを思った。
 一緒になるのなら、あの人がいい、そう思った。


 かくして、茶の飲み比べの日がやって来た。
 奥の広間に客人のための膳を置き、試飲用の色の違う湯呑を並べる。
 一度目に飲む各々の茶の湯呑と、二度目に飲む各々の茶の湯呑とは当然別の色にしており、どの茶とどの茶が同じであったかを当てるという、銘柄だけでなく、舌の記憶も競う決まりにした。
 続々と客人が集まる中、可憐な花のようにおふみが現れた。
 客人たちは皆、この華やかな娘を大層歓迎した。
「お待ちしておりました」と迎えた文三に、おふみはつと、歩み寄った。
 鼓動の速まる文三に、「あの、今日はお茶を点てるのではないのですか」と小声で尋ねた。
「ああ、煎茶の飲み比べでございます」
 そう答え、今回の会の主旨を記した書状をおふみが遠慮したことから、場所とお茶の会があるとしか伝えていなかったことを文三は今更ながらに思い出した。
「ああ、そうですよね。うっかりしておりました。お茶を点てる練習を何度も……」
 がっくりとし、「あの、今日はこれで失礼します」と言うおふみを、文三どころか周囲にいた客人たちが一斉に引き留めた。
 客人の中には、高齢の先代に代わってやって来た若旦那もおり、なんだか文三は気が気ではなかった。ここにいる若旦那におふみが見初められたら、勝ち目があるとは思えぬ。ああ、ただおふみをこの会に誘うことばかりに腐心し、そうしたことまで考えが及ばなかった。
 一人忙しなくあれこれ文三が考えている間に、弟たちが着々と用意を始めた。
 各々が膳の前に座る。
 帰ると一度は言ったおふみも、膳の前に正座した。
 相も変わらず、美しい所作の正座である。
 きれいに結った帯の下、穿いているものを尻の下に敷き、おろしたてと思われる足袋の親指同士をつけ、脇を締め、膝をつけている。
 一杯目の茶は、比較的安い新茶であった。
 次に京からの下りものの貴重な茶。
 体に良いという少し苦味のある茶。
 四杯目に先日おふみが買い求めに来た店で一番よいとされる茶。
 菓子屋に卸している安価だが、菓子によく合う茶。
 そんなふうに七杯の茶をまずは飲んでもらった。
 そこから、茶の銘柄を書いてもらい、二度目に順序を変えて出す茶は先ほどのどの茶と同じかを当ててもらう。
 茶の銘柄の正解率が高かったのは薬屋と、お得意様のご老人であった。
 同じ茶の正解率が高かったのは、お得意様のご老人、そしておふみであった。
 茶の銘柄はほとんど白紙で出したおふみだったが、その舌は確かだったようで、その場にいた人は皆、称賛の言葉を述べた。しかも、ほかの客は湯呑の茶を全て飲み干し、途中厠へ向かったが、おふみは殆どの茶を一口飲んだだけで同一のものを当てた。
 おふみは「私は茶店でお団子と一緒にお茶を飲んだり、父のために体によい茶を用意したりすることがあったので」と謙遜するが、正直なところ、文三でも一口、二口で全て正解とはいかなかった。
 お得意先のご老人が「これなら、新しい店のおかみさんとして、申し分ありませんね。諏訪理田屋は安泰だ」と扇子を出してあおぎながら言った。
「それは、本当でございますか」と、客人が身を乗り出す。
「いや、まだ話しておりませんでしたか。これはこれは、とんだ失礼を。年よりの失態、なにとぞ大目に見てやってくださいな」
 ざわつく座敷の中、お得意様のご老人だけは、言葉ばかりで全く失言をしたと思っていない様子である。
「おふみさん、すみません」と文三が慌てると、おふみは「私は、そんな勿体ないお話がいただけると思うような身の程知らずでは……」と首を横に振る。
 ほら、やっぱり駄目じゃあないか、と文三はこの時ばかりはお得意様のご老人を忌々しく思った。
「では、もし、諏訪理田屋の文三のもとへぜひと、お話があったら、おふみさんはお受けしますか」
 懲りもせずに、このお得意様のご老人は続ける。
「え」と、文三とおふみは同時に言い、顔を見合わせる。
「ほら、ご覧の通り」と、お得意様のご老人はご満悦の笑みを浮かべていた。


 なんだかよくわからぬが、話はとんとん拍子に進んでいった。
 身内は皆大層喜んでくれた。
 美しいとか、若いとか、品があるとか、教養があるとか、何より舌が鋭いとこの前の会で常連のお墨付きのお嬢さんと、とにかくおふみへの評価は高かった。
 その一方、おふみはまだ戸惑っている様子である。
 そのおふみの戸惑いをなんとか払拭したいと、文三は、あれやこれやとおふみを誘った。
 潮干狩りはいかがですか、舟遊びにいたしましょうか、それとも今度祭りにでも参りましょうか、遠出で時間を割くのがおいやでしたら、近所の料亭、いや、昼間のちょっとした時間においしいおやつでも食べに行きませんか……、等々案を出した。
 するとおふみが行きたいところがある、と言う。
 早速参りましょう、と文三が乗り気で応じ、さあ、そうなると新しい着物を用意して、ああ、下駄も新調しようかと考えを巡らせると、なんと行先は七男、文左衛門の家であると言う。
 何がどうしてそうなるのか、文三は困惑した。
 いろいろと遊びに行ける時期であるのに、何が悲しくて、弟の一人住まいを訪ねるというのか……。
 だが、まあ、一緒になる報告をしたいとか、そういう義理堅いことをおふみが考えているのは理解の範疇であり、弟のところにはちょろっと顔を出して、その後どこかでゆっくり飯でも、と文三は考えていた。
 ところがその日、おふみは風呂敷に包んだ重箱を抱えていた。
「それは……」と尋ねると、「母と作りました」と言う。
「文左衛門さんはおひとり身で、物売りもほとんどやって来ないところにお住まいですので、お節介とは思いましたが、お弁当を用意しました」
「……ああ、こちらで気が回らず、申し訳ない」と文三は詫びた。
 実のところ、独り立ちした弟が何を食っていようと、さほど興味がなかった。
 だが、おふみが大層真面目な顔でそう言うので、一応それに合わせておいた。
「とんでもございません。文左衛門さんが召し上がってくださるかどうかも、正直わからないんです」とおふみは言う。
「そんなことはないでしょう」と文三は軽く流すが、おふみの表情は強張ったままである。
 長閑というか、周囲に店も人も見かけぬところに文左衛門の住まいはあった。
 こういってはなんだが、大層質素である。
 風を通すにはよい時期ではあるが、入り口の引き戸から中が全て見渡せるこの小さな住まいの出入口は、不用心にも半分ほど開いている。
 これはどうしたものかと文三が呆気に取られている隣で、おふみは慣れた様子で「ごめんください」と声をかける。
 暫くの後、「はい」と、くぐもった声が中からした。
 明らかに寝起きの声である。
 土間まで下りてきた素足が見え、引き戸が開いた。
「お前……」と文三は眉間に皺をよせ、大きくため息をついた。
 もうじき昼だというのに、明らかに寝起きの顔に、髪はぼさぼさで、ひげも当たって久しいのがわかる。
 しかも、はだけた着物に、前のふんどしも見えているときた。
「おふみさん、出直しましょう」と、すぐに文三はおふみを引き寄せた。
 お嬢さんにお見せするものではない。
 しかし、「また寝てたの」と、おふみはこれまでと違ったぞんざいできつい口調で言う。
「はあ、おふみさん。お見苦しい恰好ですみません」と、文左衛門も慣れた様子で帯をずらし、着物の前を改める。
「ああ、これは文三兄さんまで、どうしたのですか」と言いながら、「まあ、どうぞ」と文左衛門は引き戸を全て開け、二人に入るよう促した。
 こんな有様であると知っていれば、文左衛門を店の方に呼び、奥の座敷で三人顔を合わせるべきだったと文三は心から後悔した。
 文左衛門に勧められるまま、座敷に上がったが、土間にはいつ炊いて、米をこそげ取ったかわからぬ窯と、欠けた箸と茶碗が水を張った小ぶりの桶の中で浮いている。
 ふと気づけば、古い畳の上、書き損じの紙だとか、饅頭か何かをこぼしたものが落ちているところへ、おふみは文三の店を訪れた時と同様に正座をしている。
 背筋を伸ばし、膝をつけ、尻の下に穿いているものを敷き、足の親指同士をつけ、手は太もものつけ根と膝の間に履物の鼻緒のように指先同士が向かい合うように置かれ、脇を締めている。
「今日は、謝りに来ました」と、おふみは言った。
 一体何を、と思っている文三の横で、おふみは手をつき、「うちにいた頃、失礼な態度を取り、申し訳ございませんでした。すぐに許していただけるとは思っておりません。ずっと許せぬと言われましても、仕方がないと思っております」と詫びた。
 ひとつしかないであろう湯呑に、文左衛門は実家からもらっている茶を淹れ、おふみの前に出す。
「何も謝ることはございません。家族水入らずのお宅を乱したのは私です。それなのに、食事から着物、布団まで、本当にこまめに世話をしていただきました」
 ここで、文三はとっくに知っていることではあったが、この弟の文左衛門が毎日おふみとともに食事をし、ひとつ屋根の下生活していたということを如実に思い浮かべ、何とも言えぬ腹立たしさを覚えた。
「そうですよ、おふみさん、こんなのが突然家に居座ったら、さぞかしご迷惑だったことでしょう」と文三が思わず力を込めて言うと、じろり、と文左衛門が文三を見た。
 文三が「いや、お前は弟だから、まあ、私からしたらかわいいけどな」と、取ってつけたような言い訳をする。
「おふみさん、おようさんとのこと、私は大層感謝しております。感謝してもしきれません。もっと早くにお礼を伝えるべきでしたが、おふみさんの優しすぎる性格故、自分は何も知らぬとしらを切られると思い、ぐずぐずと今日までまいりました。今回足をお運びくださったこの機会に、どうかお礼を言わせてください。ありがとうございました」
 文左衛門はずいぶんと伸びた、だらしのない月代に、いつ洗ったかもわからぬ着物で、おふみに礼を言った。
「一体、どういうことだ」と文三が再び間に入る。
 何やら己の知らぬことを、おふみと文左衛門が話しているのが気に入らぬ。
「実は私は、師匠のお宅にたまに来るおふみさんのお友達のおようさんを想っていたのです。そのおようさんがお武家様の元への奉公が決まりまして、その時におようさんと私との仲を取り持ってくださったのが、おふみさんなんです。まあ、口調は多少きついところもありましたが、私やおようさんのことをとても思ってくださいました。おかげで、私はおようさんがご奉公に出る前、おようさんに会えました。その後書いた戯作も、おようさんを想っての作。おふみさんのお力添えがなければ、今の私はおりません」
「そんなことが……」
 文左衛門とおふみとの間に、おようさんという娘さんがおり、その娘さんのためにおふみが尽力したことを知り、文三はいくらか安堵した。
「ここからは私が話そう」と文三は膝をずらし、前へ出た。
 古い畳に散らばっている饅頭だかの食べかすが、今日おふみと出かけるからと新調した着物にめり込み、やや気が削いだが、文三は居住まいを正して改めて正座する。
 穿いているものを尻にきちんと敷き、足の親指同士をつけ、膝は握りこぶし一つ分くらい開け、脇は軽く開き、背筋を伸ばした。
「うちの方で、今度空き店舗を買って、そこに支店を出すことになった。そこで私が商いを始めるに当たって、おふみさんと一緒になろうということになった」
「文三兄さんと、おふみさんが?」と、文左衛門は二人を交互に見た後、「それはおめでとうございます」と、笑った。
「おふみさん、どうか文三兄さんをよろしくお願いします」と頭を下げる文左衛門に、おふみは「私で、本当によろしいのですか」と尋ねる。
「もちろんです。こんなに嬉しいことはありません」
 手放しで喜ぶ文左衛門に、文三は当然のことだと思ったが、おふみはそうでなかったらしく、「ありがとうござします」と、大層かしこまって、礼を何度も言った。

 重箱はそのうちに取りに行くというおふみに、文三は、たまには実家に顔を見せるように、こっちに来るついでに髪や髭も当たって、着物はこちらで新しいものを用意するから、その折にこちらにおふみさんの重箱は届ければよい、と伝えた。
 文左衛門におようさんといういい人がいることはわかったが、それでもなんだか文三はおふみを文左衛門と二人で会わせたくなかった。やれやれ、先が思いやられると、我がことながら、溜息をつく。
 すると、何を勘違いしたのか、「私、」とおふみが切り出した。
「文三さんにふさわしくなれるよう、今、おうちのことやお作法、お花など、頑張っています。これから、もっと頑張りますから、よろしくお願いします」
 己の心を知らず、真摯にそう伝えるおふみに、文三はこの上ない幸せを感じた。

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