[288]巨樹を訪れる正座人(せいざびと)
タイトル:巨樹を訪れる正座人(せいざびと)
掲載日:2024/05/20
著者:海道 遠
内容:
大昔から小高い丘に巨大な樹がある。
ある日、黒いパンプスを履いた美しい女性が樹を訪れるが、巨樹(村人から樹魂(じゅこん)と呼ばれている)は、誰だか思い出せない。
戦のあった時代は、農民の娘が出陣した恋人の無事を祈りに来たが、神木でもないので困った樹魂は、娘に正しい座り方を教えた。
ある夜は、妖しの者どもが樹魂の根元に集まって酒宴を開く。
旧友の銀杏の精が遊びに来たり。ある日、樹魂の枝に白い花が咲く。
本文
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序章 樹のつぶやき
歳若い女性が、晩秋の落ち葉を黒いパンプスとかいう靴で踏みしめて近づいてきた。
私の腕――枝の葉たちは年じゅう、緑色だ。もうすぐ冬に入ろうとする季節だが、私の葉は落ちない。私の立つ場所は小高い丘の上だ。
眼下には、数百年前から変わらない人間の田畑と町と、くねくねと曲がる川とが見える。ここ五十年ほどで町の灯りが眩しくなった。
ただ、ここに繁っているだけではなく、私は何かのために長い命を与えられたような気がしてならない。
長い間、人間の暮らしを見てきた。
数日前は、経験したことのない恐ろしい思いをした。まさか村人が松明(たいまつ)を手に、私を燃やそうとするなどと――。
今日、訪れた女性は私に何か用事だろうか。黒いつぶらな瞳で私を見上げた。なぜか、とても懐かしい感じがしてならない。遠い遠い記憶の中からひもとかなければならない。
そういえばかなり昔にも、同じような瞳をしたおなごがやってきた。
第一章 戦時代の娘
その時代は戦(いくさ)が絶えなかった。
農民たちは一様(いちよう)にお腹を空かせて貧しそうだった。戦火が上がり、遠くの村が焼ける様子が分かった。
武家同士の小競り合いが続いていたのだ。そのため、人々は戦に駆り出され、作物はろくに作れず、ようやく収穫した少しの米は年貢という税に差し出さなければならなかった。
人々から戦の恐怖、肉親を失った悲しみ、ひもじさ、寒さが伝わってきた。
私がまだ少し若い頃――といっても、幹の太さは、かなりなものだったが、毎日のように私の低い枝に馬をつないで谷へ降り、水を飲んでいく若武者がいた。
私の幹に手をあて、
「ずいぶん長い年月、わしらを見守っているのであろうな」
と、語りかけて凛々しい瞳で枝を見上げた。
そのうち農民らしき、つぎはぎの着物を着た娘が来て根元に座り、少し談笑しては帰っていく。身分がつりあわぬふたりだと歴然としていたが、見つめ合う瞳に熱い想いが通っていることが見てとれた。
その娘の足取りが、その日は重かった。
「樹魂(じゅこん)さま」
娘は私のことをそう呼んだ。他の村人たちもたいていそう呼ぶ。
「お慕いするお方が、大陸へ兵として出陣することになりました。どうぞ、ご無事でありますように」
私の足元の落ち葉の上に座りこむなり、手を合わせた。
困った。私に願いを叶えてやる力などない。せめて、座り方を教えてやることにした。
『娘よ、私に望みを託されても特別な力はないのだ。ご神木ではないのでな。代わりに見よう見まねで覚えた、改まった座り方を教えよう』
「……」
娘は私の声が聞こえたらしく、不思議そうにきょろきょろした。
『背すじを伸ばして真っ直ぐに立つのだ』
娘は言われるとおりにした。
『そうだ。それから地面に膝をつき、着物をお尻の下に敷き、かかとの上に座る』
「こ、こうですか」
『そうだ。ぺたんと地面に座るより心が引き締まるだろう』
娘は素直に座り、手を合わせた。
「樹魂さま。どうか、あの方が無事で帰られますように、お守りください」
『私も祈っている』
葉ずれの音が枝を渡り、私は黙りこんだ。
第二章 妖し(あやかし)の者どもの酒宴
何百年も前から――。
陽が沈み、黄昏も消えて夜の闇に包まれる頃、妖しの者どもがどこからともなく集まってきて、私の根元で車座(くるまざ)(=まるく位置して座ること)に座り始める。
今夜は、人間の子どもにしか見えない妖しの頭領の赤い小鬼が、大きな酒壺をぶら下げてきた。
手下の大柄な鬼たちも酒盛りを始めてわいわいやっているが、頭領の小さい赤鬼だけは、つまらなさそうな表情だ。唇を突き出し眉間にシワを寄せている。
鬼たちは酒をラッパ飲みし始める。
いくら鬼とはいえ大丈夫なんだろうか? 私は気にかかる。
鬼の子の顔が、赤からだんだん白くなってきた。
「おい、頭領。大丈夫か」
手下の青鬼と黒鬼が心配そうにしている。
「大丈夫じゃねぇよ。俺は、後三日で頭領としての威厳を見せなくちゃ、頭領の座をおりなければならねぇんじゃ」
「誰がそんな事を?」
「親父の大頭領(おおとうりょう)だ」
「大頭領がっ?」
手下どもは顔色を変えた。
「威厳を見せるって? どうするんです?」
「尊い座り方で親父に頭を下げるのじゃ」
「尊い座り方?」
「どんな座り方ですだ?」
「分からねぇ。踏ん反りかえるような座り方じゃ、親父はよけい怒り狂うだろうしな」
そこへ、いつもの若武者が馬に乗って通りがかった。
「ほほう、殿の急なご用で夜中の近道もしてみるものだな。世にも珍しい妖しの宴ではないか」
赤い小鬼が顔を向けた。
「なんだ? 人間の青二才」
「ワシらは見せものじゃねえ。ジロジロ観るんじゃねぇ!」
手下の鬼たちが追いはらおうとする。
「宴にしちゃ、皆、浮かない顔をしているな。いかがした」
鬼の子が答える。
「俺は『尊い座り方』というのが分からなくて頭をかかえておるのじゃ」
「尊い座り方か……」
若武者は馬を下りた。
「それがしは、主君に向かう時に片膝を折って座る。その座り方を教えてやってもよいぞ」
「ふん、人間の情けなんぞ受けん」
鬼の子はプイと顔をそらせた。
第三章 鬼の子の挑戦
「そうだ、何百年も生き続けている、この樹なら教えてくれるかもしれぬ」
鬼の子は、いきなり瞳をくるめかせた。
「そうじゃ、そうじゃ! この樹に教えてもらおう」
とっくりを放り出すと、さっそく私の幹にしがみつき、登り始める。
私も答えてやった。
「鬼の子よ。私は樹魂と呼ばれている。てっぺんに登れたら教えてやろう」
「ようし、樹魂とやら。てっぺんまで登ってやらあ!」
鬼の子は私のてっぺん目指して猿のように鮮やかに登っていく。
私も簡単にそうはさせじと、上にどんどん幹を伸ばしていく。
鬼の子も食いついて登り続ける。まるで意地の張り合いである。
「赤鬼さま、きばりなされ~~!」
「その上の枝を握るのじゃ! そこ、もうちっと左!」
手下のたちが地上から、やんやの声援を送る。
宴の灯りも届かない闇の中を登るうち、鬼っ子の足がつるりとすべった。
「うわあ~~!」
真っ逆さまに落ちていくところを、手下たちが急いで受け止めた。
「無茶ですぞ。こんな高い樹に登ろうなんぞ」
「いんや、俺さまはあきらめん」
鬼の子は、その夜、何度も登ってみたが、てっぺんにはいけない。次の日も次の日も挑戦し続けた。
私は雲まで突き抜けて幹を伸ばし続けていたが、何日めかに遂に成長を止めてやった。
鬼の子は喜んで樹のてっぺんにまで登り、枝の上に立つ。
「どうだい、樹魂とかいったな、巨木! てっぺんまで来たぜ!」
「ようやく来たか、小僧。では、正座の所作を教えてやる」
「正座? なんだ、そりゃ」
鼻の下をゴシッとこすった。
「行儀よい座り方だ。まずしっかり立て。枝は太くしておいた」
負けん気の強い小僧だ。私の教えを何度もやり直し、ようやく及第点をやれるかなと思ったところで、小僧の足が枝を踏み外した。
「うわああああ!」
またもや落ちていくか、と失笑した時、鬼の子の身体からふわりとした火焔(かえん)のようなものが何枚も見えた。
遥か下まで落下したかと思っているうちに、真っ赤な火のかたまりは舞い上がってきた。
その姿は鬼の子ではない。
黄金の麒麟(きりん)と言う神獣にそっくりな姿だ。
「お前は?」
「礼を申すぞ。巨木の樹魂。そなたに正座という座り方を教わったおかげで、なるべき姿になれた。鬼の子として何百年も過ごしてきたが、これこそ我の真の姿、名は炎駒(えんく)という」
龍のような顔を持ち、眼はらんらんと黄金に輝き、鹿のような鋭い角を持つ四本足の神獣だ。世の人々が目にする時は瑞兆(ずいちょう)だと聞く。
私は舌を巻いた。鬼の子が気高い神獣に変身するとは。
「鬼の大頭領の親父が、天界から我を預かって鳥の卵を孵らせる(かえらせる)ように、その時を待っていたのだ。そなたのおかげで炎駒になることができた。これからは、苦しむ人々のために飛び回ることができる」
「ほほう……。私の教えた正座が役に立ったのか」
「天界の神々に報告してこよう。さらばじゃ、樹魂!」
背中の羽根を羽ばたかせ、空(くう)を蹴り、炎駒は月に向かって飛び立った。
手のひらから、育てていた幼鳥が飛び立ったような気分を味わった。少々寂しくもあり、清々しく(すがすがしく)もあり。
第四章 来客
春――。
桜が開花しはじめ、私の周りの桜たちも薄紅の花を咲かせ始めた。見かける人間たちの表情も、寒さを乗り越えて安堵(あんど)している。
桜に誘われたのか、いくつもの峰を越えた遠い国から客人があった。旧友だが、前に逢ったのはいつだったか思い出せない。
客人は銀杏(いちょう)の貴婦人だ。銀杏は人間のように男と女に別れている。私は「性」の区別が無いので感覚がよく分からない。羨ましくもある。
銀杏の貴婦人は、雲から枝の上にふわりと降り立った。
「樹魂どの、お久しゅう。葉が多く繁って、お元気そうでなによりです」
私も迎えるために、人間に似た姿になって迎える。
「黄金の衣装がよくお似合いですね、銀杏さま」
「貴方さまも翠色(みどりいろ)の長い衣がお似合いです。お花見に来ました。共に花見酒でもいかがかと思いまして」
「お誘い、いたみいります。ご一緒いたしましょう」
銀杏は太い枝にあぐらをかいた。
銀杏の持ってきた酒瓶から盃(さかずき)にそそぐ。彼女は朱唇(しゅしん)をすぼめて酒を干した。
「そのお座りようは、お楽ですか?」
私は尋ねてみる。
「それほど楽ではありませぬが、まだ春だというのに次の秋に生まれるお腹の赤ん坊が重くて、あぐらになってしまうのです」
「今から半年先に生まれる赤ん坊が重いとは……」
「お腹の子は大きい小さいではありませんからね。小さな種子のようでも命の存在を重く感じます」
「なるほど。結実(けつじつ)した命はさぞかし重いことでしょう。どれ、あぐらがお楽でないなら、良い座り方を教えて進ぜましょう」
所作を見せるために、私は立ち上がった。
「背すじを真っ直ぐに伸ばし、膝をつきます。お尻の下に衣を敷き、かかとの上に座り、両手は静かに膝の上に乗せます」
銀杏も同じように座ってみた。
「いかがですか?」
「……あぐらより楽かもしれませぬ。背すじが伸びて気持ちがすっきりするような?」
「お腹のややのためにもよろしいのでは?」
「ほんに、そうでありましょう。樹魂どの、ありがとうございます」
「酒を楽しむ時の座り方ではないかもしれませぬが」
「ほほほ……」
鈴の音のような声で、銀杏はほころび笑った。口元に当てられた袖の黄金色の刺繍がまぶしい。
銀杏が去ってしばらくしてから、足元の根元に朱い鳥居の祠(ほこら)があることに気がついた。
銀杏の声が彼方から届いた。
「正座を教えていただいたお礼です」
祠は銀杏からの贈り物だったのか。
村人たちも親しみやすい祠だ。田畑へ向かう途中の村人が、クワやスキを置き、通りすがりの旅人が気軽に立ち寄り、大きな私を尊敬の眼差しで見上げてから、祠の前で二回頭を下げ、手を二回たたいて合掌していく。
(拝まれるようなご神木ではないのだが――。銀杏どののご厚意をありがたくいただいておくことにしよう)
安らかな気持ちになる。若葉たちが光に輝きそよぐ。
(来る秋の、銀杏どのの安産を祈るとしよう。さぞかし沢山の子が生まれることだろう)
黄金の実が鈴なりに成る光景が浮かんだ。
数日して、戦の時代に恋人の出陣に心を痛めていた村娘が、若者と肩を並べてやってきた。
ふたりして私の教えたとおりの所作で地面に正座して、こうべを垂れた。
「樹魂さま、ありがとうございます。あの方が戦より無事に戻りました。右腕を失いましたが、命さえあればこの人の腕になって生きてゆけます」
娘の強い意志が瞳に見てとれ、私はふたりを見送った。
第五章 砲弾
秋も深まる頃、午睡(ひるね)をしていた私は、大きな音に目を覚ました。何かが私の胴体で炸裂した。
どうやら巨大な砲弾というものらしい。時代は人間に巨大な武器を作らせたらしい。
さすがに衝撃に驚いた。腹の真ん中に大きな穴が空いてしまった。
「なんてこった~~! 樹魂さまのお身体に大きな穴が!」
「さぞ、お痛かろうて」
村人たちが大騒ぎしながら駆けつけてくれた。痛みというものが分からないのだが。幹の中を流れる樹液が漏れ出るような感じがする。不快だ。
ギギギ……。
そのうち、私の身体が傾きはじめた。てっぺんの枝の葉たちがザワつく。
もっと驚いたのは、周りで見守っていた村人たちが騒ぎ出したことだ。
「樹魂さまが傾く。このままでは倒れてしまう!」
「村から梯子(はしご)と縄をありったけ持ってこい!」
男衆が叫び、慌てて村へ駆けていく。
女たちは震えながら見守り、老人たちと共に祠に手を合わせる。
「どうか、倒れねえでくださいまし」
「天の神様、わしらを見守る樹魂さまを元どおりにしてあげてくだせえ」
「どうか、どうか……」
男衆が梯子を何本もかついで戻ってきた。
隣のモミの樹と私に立てかけ、登りはじめる。ひとりの身軽な動きの若者がモミの木に素早く登り、先にひっかけるカギのついた縄を私の方へ投げる。私の樹体に登った男衆がそれを受け止める。
どうやら傾く私を縄でつなぎ止めて、引っぱってくれるらしい。
根元には、農耕馬も数頭、連れて来られた。人間たちの力だけでは、私の樹体は重すぎる。馬たちも何度も足踏みしながら力のかぎり引っぱってくれる。
村人と馬とが力を合わせている。
この頃になってやっと気づいたのだが、砲撃は村にも、村から離れた城郭にも降っていた。
「隣国が砲火台を操り、巨大な球を降らせているのじゃ」
男衆の誰かが叫んだ。
城も攻撃され、村には流れ弾が落ち、貧しい藁(わら)ぶきの家々が赤い炎のえじきになるのが見えた。それでも、村人たちは自分の家や田畑よりも、私の危機を救ってくれようとしている。
ようやく砲撃の音が止む頃、陽が傾き、風が冷たくなってきた。人間たちは『秋の日暮れはつるべ落とし』と言う。あっという間に陽が沈んでしまう。
「陽が山の向こうに沈むまでに、樹魂さまをまっすぐ立たせてさしあげるぞ!」
陽は西の山の端に近づきつつある。
一番星が輝き始める空は、すでに紺碧だ。その空から明るく朱いものが近づいてきた。
「何だ? ありゃ」
巨大な朱いものは私や村人の真上に止まった。夕闇に溶けこもうとしていた景色が朱い光に照らし出された。
「樹魂どの、少しでも我の放つ光が役立つように」
「その声は」
炎駒ではないか。赤い鬼の子だった童子。私から正座を習い、変身して天へ去った神獣の炎駒ではないか。力強い眼。逞しい角、逞しい体躯と蹄(ひづめ)。
しかも、馬の五頭分はある大きさだ。
「今こそ樹魂さまに恩返しと人々に力を貸す時と思い、馳せ参じたぞ」
「かたじけない、炎駒」
これほど心強いことはない。
「私の上方の枝は、さぞ重かろう。炎駒、そなたの炎で焼きはらってくれてもかまわぬぞ」
「よろしいのですか」
炎駒は戸惑った様子だ。しかし、村人たちの頑張りを見て心を決めた。
朱いひづめで空をひと蹴りすると、炎駒は、私の上方へ螺旋(らせん)を描いて宵の空を駆け上がった。火の粉は枝の無数の葉をチリチリと燃やした。
村人たちは呆然と見ていたが、我に返って気合を入れ直した。
「おお、これで樹魂さまが曳きやすくなったぞ。それ、頑張れ!」
村人たちの頑張りは夜中も続いた。緑の葉たちは、火の粉をかぶり焼けこげていく。
村の老人たちが涙を流して見守る。
「ああ、樹魂さまの緑の葉が黒く焦げていく……」
「爺さま、樹魂さまの幹さえお元気なら、葉っぱはいくらでも芽吹かせてくださるよ」
「そうか、そのとおりだな、婆さま」
老夫婦が肩を寄せて見守り続ける。
白々と夜が明け初める頃、黒く焦げた枝だけが上方に残る痛ましい姿となったが、私は人間たちと馬の力で真っ直ぐ立ち直ることができた。
東の空から昇る太陽の光が丘を照らす頃、人々は私の立ち直った姿を見て、バンザイを繰り返した。
手分けして太いつっかえ棒を根元に何本も建ててくれた。
炎駒も安堵して、その様子を見下ろしていた。
なんと礼を言えばよいのだろう。私は胸が熱くなるのを禁じえなかった。
第六章 樹魂に白い花
砲撃から何十年かが経った。
村人たちの家々も藁ぶきの屋根から形を変え、瓦という焼き物になった。陽光に輝いている。丘のふもとを行き交う人々の服装も違う形になり、街道には車とかいう四角いものが馬より早く行き来するようになった。
私の上方の枝から白いものがひらひらと舞い落ちてきた。
牛の乳のような白さだ。
「おや、樹魂さまの枝に花が咲いているよ」
「桜みたいだ。きれいだね!」
足元でけんけん遊びをしていたおかっぱの女の子が指さした。仲間の子も駆け寄ってきて、私も初めて気がついた。
―――花を咲かせている? 私が?
何百年、いや、千年か二千年か――、長く生きているが初めてのことだ。
「樹魂さま、花がついている枝を少し分けてくれる?」
先ほどの女の子が私を見上げて言った。
「そんなことしたら、樹魂さまのバチが当たるぞ、クリ子」
駆け寄ってきた坊ちゃん刈りの男の子が言った。私は思わず微笑んだ。
『よいとも。私も気づいたばかりだが、花はたくさん咲いている。好きなだけ枝を折って持ち帰るがよい』
私の声が聞こえたのか―――?
おかっぱの女の子は、真っ赤な頬をして祠の前に可愛らしく正座した。スリキズのある膝小僧をそろえて、ちゃんとした座り方だ。
「樹魂さま、枝には届かないから地面に落ちた花だけでいいよ」
「しょうがないなあ。俺が昇って枝を折ってきてやる」
「あ、ミネオ!」
男の子は、大昔の赤鬼の子にも負けぬ手足の動かし方で、私の幹を登りだした。枝に手を伸ばし、白い花のついた枝を一本折る。
するすると幹を下り、待っていた女の子に枝を渡した。女の子は枝の白い花の香りを嗅ぎ、
「なんて甘い匂いだろう。都会に出ていった姉ちゃんの『こうすい』っていう匂いみたいだ。ほら、ミネオも嗅いでごらんよ」
男の子にも嗅がせようとした。
「よせやい。俺は花なんかいらん!」
「ありがとう、ミネオ、ありがとう、樹魂さま!」
白い花を持ち帰ったクリ子は、その夜から高熱を出して寝こんでしまった。
両親も祖父母も、びっくりして医者を呼んだが、医者は首をひねるばかりだ。ウワサを聞いてミネオも駆けつけたが、クリ子の家族は会わせてくれない。
そんな騒ぎになっているとは、私、「樹魂」はまったく知らなかった。
両親からの知らせで、慌てて都会から帰ってきた姉は、帰宅するなりクリ子の寝床に走り寄った。
「しっかりしなさい、クリ子! ねえちゃんは、今年の正月にお前の欲しがっていた抱っこ人形をお土産に買っておいたわよ、ほら!」
姉が人形を見せるが、クリ子は真っ赤な顔をして喉をぜいぜいさせている。
「クリ子!」
聴診器をあてたりしてはいるが、村の医者は予断を許さない様子だ。
「先生、この子の病は何なんですか?」
姉はむしゃぶりつくが、医者は沈痛な面持ちで、
「まったく不明なのです。こんな病は診たことがなく、記録にもありません。血液を採取するとみどり色になっているのです」
姉も、両親も、蒼白だ。
「先生、都会の病院に運んでやってください。そうすれば何か治る方法が……」
医者が、クリ子の寝床の布団をめくってみせた。
「ひっ」
姉の喉からヒクッと驚きがもれ、眼をそむけた。
クリ子の身体中から細い植物の芽が伸び、布団や畳にまで伸びてはびこっているのだった。
姉は立ち上がって後じさりした。
「いったい、これは……」
「この有り様ですので、どこの病院へ運ぶこともできませんのです」
絶望の空気がよどんだ。
床の間には白い花が壺に活けてあり、濃厚な芳香を漂わせている。
「あっ」
姉が叫んだ。
「クリ子の身体から、床の間の白い花と同じ香りがするわ!」
突然、濡れ縁から、障子をこじ開けてひとりの男の子が駆けこんできた。
「クリ子!」
「ミネオくんじゃないの」
クリ子の母親が、泣きはらした赤い眼を向けた。
「あの床の間の白い花は樹魂さまの花だ。俺が枝を折って、クリ子にやったんだ」
「なんだと? 樹魂さまの?」
「どうしてクリ子から花と同じ匂いがするんだ、どうして身体から芽が生えてるんだ!」
ミネオの叫びにクリ子の家族一同は総立ちになった。
「うわ~~、なんだ、これ!」
ミネオの腕からも、白い花がくねくねと触手を伸ばすように芽吹き始めた。
第七章 姉、正座で願う
二十歳前後の若い女が、私の元へ走ってきて祠の前に、ガバと土下座した。
「樹魂さま、どうか、クリ子の命を助けてやってください。あの子が何か、お気にさわることをしたのなら私たちがつぐないますから! どうか、あの子の命だけは……」
どうやら女の子の親族らしい。泣き腫らした目をしている。
続いて中年の男が乱暴な足どりで歩いてきた。手には斧(おの)を持って肩を震わせている。
「樹魂! よくもうちの可愛いクリ子を、ひどい目に遭わせてくれたなっ」
「お父さん!」
祠の前に座っていた女が振り返る。
「子どもに害をなす花を咲かせる樹なんぞ、守り神でもなんでもねえ。切ってやる!」
「やめて、お父さん! 樹魂を切ったりしたら、クリ子がこれ以上どうなるかわからないわ!」
若い女が父親らしき男の腰にしがみついて止めている。
『娘よ……。理由を話してほしい』
私はできるだけ丁寧に、若い女の心に語りかけた。
「幼い妹の命が消えかけています。妹だけではなく、村の子どもすべてに、妙な病(やまい)が広がりかけているのです。あなた様の咲かせた花に触った者にのみ」
『妙な病だと?』
「高熱を出し、血潮がみどり色になり、身体じゅうから細い芽を出し、白い花びらの花を咲かせるのです」
『―――!』
驚いた。
花が咲いたことだけでも驚いているのに、人間に害をなすとは! どういうわけなのか、私こそ誰かに教えてもらいたい。
『女よ。正直に申す。私にもとんと分からぬ。突然、花が咲いたことも、病のことも』
陽は暮れ、辺りは夕闇に沈もうとしていた。
丘のふもとから、たくさんの灯りが登ってきた。松明(たいまつ)だ。
「害のある樹なんぞ、焼きはらってしまえ!」
「一同、松明を樹の枝に! 火で燃やしてしまうぞ!」
私は驚愕するしかない。静かに丘に立ち続けてきたというのに、人間に襲撃されるとは!
「やめて、おじさんたち、クリ子も大好きな、この大きな樹を燃やさないでください!」
クリ子の姉が、正座して地面に額をすりつけた。
「クリ子のねえちゃん、そこをどきな。燃やさなきゃ、病はどんどん広がっちまう」
「きっと訳があるのです。お待ちください。お願いです!」
村人とクリ子の姉が口論している時―――。
風が襲った。
松明が一挙に吹き消されるほどの強風だ。風は何日も吹き止まず、村人たちは手も足も出せなかった。
第八章 龍鎮やしろのご神体
真白き花が枝に無数に咲き、花びらが視界を埋めている。
黒いパンプスという靴を履いたいつぞやの女性だ。
(不吉な真白き花たち……)
女性は、視線を上に投げた。墨を溶かしたような雲が空に湧いて出ている。
「常闇(とこやみ)だな。樹魂に白い悪魔の花を咲かせたのは、貴様のしわざだな」
雲の隙間から血のような舌先がちろちろと見える。常闇とは? 私は見つめ続けた。
「くっくっく……。いかにも」
地獄の門番のようなしゃがれた声だ。常闇の声らしい。
「何ゆえに樹魂に花を咲かせ、村の子どもまで苦しめる?」
「……」
「答えよ、常闇」
睨みつける女性の瞳は意志強く燃えたぎっている。
「……相変わらず厳しいですね、宮さま」
「当然だ。少しでも気を緩めるとすぐに悪さをする。さあ申せ。樹魂がお前に何か害なすことでも?」
「していませんよ。世間知らずでお人好し。毎日、人の世話ばかり焼いて、座り方を教えるあいつが尺にさわってね……」
「尺にさわっただと? お前の料簡の狭さのせいで、村人の子どもが苦しんでいるのだぞ」
「狙いとおりだ。ご神木でもないくせに、民から慕われてばかり。憎まれて焼かれてしまえばいい」
「なんだと? ――どうやら龍鎮の宮のお叱りを受けたいようだな」
女性はゆっくりと正式の所作で正座し、額の前で両手を組みあわせた。まつ毛が伏せられ、唇のうちで呪文のようなものをつぶやく。
私も驚いた。
知らぬうちに常闇とやらの嫉妬を買っていたとは。
「はあっ――」
女性の両手は暗い雲のかたまりに向かって押し出された。
「う、う、うぐぐ」
暗い雲がねじれ、中に潜んでいるものを絞めつけているようだ。
「それっ」
もう一度、女性が叫び両手を押し出すと、雲は勢いよく青空の向こうの白い雲の峰の彼方へ飛んでいってしまった。
女性は木漏れ日を浴びながら私を見上げた。
『そなたは?』
「龍鎮(りゅうちん)の宮の神体(しんたい)です」
「龍鎮の宮とな?」
「樹魂どの。枝に白い花を咲かせた者の正体を申し上げましょう。そなたが長い長い年月、人々に愛され続けてきたこと、妖しからも尊敬されていたことを嫉妬している者がおりました」
「……」
「常闇の龍という、深い山奥に隠れ棲む(すむ)龍です。そなたをずっとねたみ続けてきて――。ついに荒ぶりを抑えられず、病の元である白い花を咲かせたのです」
『なんと……』
驚き、一瞬にして樹洞(うろ)がぽっかり空くのを、私は感じた。
『私をねたみ、怨む龍がいたとは。龍とは、すべて神聖で立派な存在だと思っていたのは間違いだったのか』
「龍とて暗黒の気持ちを持ったものや頼りないものなど、いろんなものがおります。しかしご安心ください。常闇の龍はわらわが宮へ連れ帰り、これから千年かけて、とっくりとお説教いたしますゆえ、もう荒ぶることはありますまい。それと――、病になって苦しんでいた村の子どもたちも元気になりましたゆえ、安堵なさいまし」
ご神体は鮮やかな紅(べに)をひいた唇のはしを持ち上げた。
『なにゆえ、このようにご親切に?』
私の問いに、ご神体は肩までの黒髪を揺らせてはにかんだ。
「わらわをお忘れですか?」
『……』
「無理もありません。気の遠くなるような時の向こうのことですものね。わらわが、そなたを大地に植えたのは」
『私を大地に植えた――?』
「そうです。それと、大陸から伝わった正座の所作を教えました」
物心つかない時代だ。記憶にない。自分がどうしてこの丘に立っているのか、ずっと知らずにいた。
「樹魂どの。そなたは天界から降臨した樹の苗木でしたので、この丘を選んで植えました。丘の周囲の人々に心をくだいて下さると信じて」
『そうでしたか……』
「植えたからには、わらわには見守る義務があります。それゆえ、この度は今までで最大の危機と思い、常闇の龍を鎮めました」
根元から、子どもたちの走り回る声が聞こえてきた。
私はできるだけ、ご神体の姿に近い人間の姿になって、根元に降り立った。落ち葉の上に膝をついて正座し、ご神体に頭を下げた。
『龍鎮やしろのご神体さま。樹魂はこの先もずっとあなたさまに深く感謝し、尊敬いたします』
「わらわも、そなたを植えて良かったと思うております。この先も村人を見守ってあげてください。――ただし、驕り(おごり)の心を持ってはなりませぬ」
『はは。肝に命じて』
「そうかしこまらずに。たまにはわらわのやしろにも遊びに来てください。清流に守られた山奥にあります。いっそうそなたの心を清らかにすることでしょう」
黒いパンプスには似合わない金細工のかんざしがチラリと見えて髪に揺れた。