[311]うさぎの登り坂で尻もち
タイトル:うさぎの登り坂で尻もち
掲載日:2024/10/03
著者:海道 遠
内容:
新進女性漫画家の五十里美卯(いそりみう)は、仕事中に、近所から聞こえてくる「シエスタ~~」という叫びに悩まされている。
苦情を言うために訪ねると、「劇団・我逢人」の稽古場で、正座をテーマにした劇を稽古中。演技に行き詰った団長の界 呼太郎(かい こたろう)が、「万事休す!」の意味で発していたと判る。劇団から花形男優が実家に連れ戻されて、稽古が進まないとか。美卯は代わりに正座の所作のお稽古を買って出る。
本文
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第一章 奇妙な叫び
「あ~~っ! もうガマンならん!」
美卯(みう)はPCを乱暴に閉じ、椅子を蹴って立ち上がった。勢いでクズ箱がひっくり返り、ボツの漫画の下書きやメモが散らばる。
「ありゃ、先生!」
たったひとりのアシスタントのY子ちゃんが、急いで紙クズを拾いに立ち上がる。
「ごめん、Y子ちゃん、ちょっと行ってくるわ!」
「行ってくるって、先生!」
新人女性漫画家の五十里美卯(いそりみう)は、最近、人気急上昇で忙しい。今は新作に取り掛かろうとしているのだが、まったくアイデアが浮かばないで、イライラが止まらない。
Y子ちゃんが、好物のアップルパイを買ってきても、てんでダメ。
仕事に集中するために最愛の愛兎のミニうさぎ、「呼タロウ(こたろう)」を彼氏の「物見くん」の元へ預けて頑張っているのに――。
不意に何か思いつきそうになった時――、
「シエスタアアアアァァ~~~!」
いつも妨害される正体不明の叫びが聞こえてきて、美卯の頭は白紙になってしまう。
「もう~~、限界だわ!」
勢いよく部屋を出ようとした時、編集部の賀川さおりとぶつかりそうになったが、美卯は頭にハチマキを巻いたまま、飛び出していった。
「シエスタアアアアァァ~~~!」
団長の「界 呼太郎(かいこたろう)」は、獣が吠えるように叫び続けていた。
「またシエスタかい!」
劇団員たちは、肩をすくめている。
「シエスタ」とはスペイン辺りの南欧で、お昼寝の習慣のことだ。その時間になるとお店などが全部閉まってしまう。そこから「万事休す!」を茶化した言葉だ。
劇団員たちは、そろいもそろって正座の正しい所作も知らない。脚本を書いた劇団員がどんな表現をしたいのかも分からない。
界 呼太郎は、動物園のシロクマどころではない落ち着きの無さで、稽古場を歩き回っていた。
「冗談言ってる場合じゃないんだ! この公演がうまくいかなけりゃ、劇団『我逢人(がほうじん)』は解散せざるを得なくなる。本当に、万事休す! だぞ!」
「か、解散って、団長!」
「俺たちが全力を傾けてやってきた『我逢人』がつぶれちまうってことですか?」
劇団員たちはうろたえるばかりだ。
「騒ぐな! この公演さえうまくいけば、『うさぎの登り坂』状態に帰れるはずだったんだ。なんとか盛り返す!」
団長の側にいた看板女優が、
「正にタイトル通り『うさぎの登り坂』だったのよね。とんとん拍子にスポンサーや借りられる劇場も見つかって、順調に準備は進んでいた……。なのに――」
第二章 劇団「我逢人」(がほうじん)
美卯は薄汚れたビルを見上げて睨みつけた。三階立てのビルには何が入っているのか分からない。
「シエスタアアアアァァ~~~!」
奇声というか叫び声は続いていて、日頃から付近の住民も、安眠できないとの声も聞く。少なくとも、美卯が今のマンションに引っ越してきて一年間は、毎日のように何かしらの叫び声が聞こえてくるが、最近はよけいに騒音だ。
殺風景な玄関には、「劇団・我逢人」と書いた板が掲げられている。やっと劇団の稽古場だと判った。
更に、「うさぎの登り坂で尻もち」稽古の真っ最中だと手書きの文字で張り紙がしてある。
(うさぎ?)
美卯は、愛する呼タロウと同じ出し物のタイトルに目を止めた。
(おっと、それどころじゃない!)
お世辞にもセンスあるとかオサレとか言えない、汚れたオンボロな鉄の扉をドンドンと叩いた。
「あの~~、近所の者ですが、変な声を出すのは、いい加減にしてくださいませんか!」
中からガタイのでかい中年男が出てきた。無精ひげを生やして険しい顔をしている。
「俺がここの責任者だが、お嬢ちゃん、何か?」
出し物はどんな劇なのか?
美卯は勇気を出して無精ひげの団長に聞いてみた。
「地方に移住して起業した男三人。
地酒の作り方を土地の人に習い、うさぎの登り坂のように軌道に乗りはじめたが、地元の宴会では正座が厳しく言い渡された。どんなに酔っても足を崩してはならないと。正しい所作で正座をして、宴会が終わるまで崩してはならない。
男三人は、正座の所作が分からないで困る。どうにか正座したものの、痺れがひどくて悲鳴を発してしまう」
――という内容だ。
団長の界 呼太郎が言うには、劇団員たちも正座の所作を知らずに困っているところだった。検索しただけでは詳しく体得できない。
「その上、脚本を書いた花形男優が、強制的に実家に呼び戻されてしまい、軟禁されてケータイも繋がらないので、イメージがつかめないんだよ」
界は頭を掻きむしった。
第三章 言っちゃった
「俺も舞台には立つが、堂々と主役を張れるタイプじゃないんでな」
(それは納得……強面(こわもて)だもんな)
美卯は心の中でうなずいた。
所作について、ああでもないこうでもないと、皆でパニックに陥って、界は思わず何回も、
「シエスタアアアァァ~~~!」
と、吠えていたのだった。心のすみっこで団員にウケるよう願いながら。
「団長さん……、『界 呼太郎』さん? 『かい こたろう』さん?」
「芸名だ。世界の界、呼ぶの『こたろう』って字ですが。何か?」
美卯は、愛兎の名前が「呼タロウ」だと言いそうになったが、留まった。そんなことより、先決問題は団長の叫び声をなんとかしなければならない。
「私は駆け出しの漫画家、五十里美卯と申します。よろしかったら、脚本を読ませていただけますか?」
「いいけど?」
団長は、ぼろぼろになった脚本をホイと渡した。
美卯は正座シーンにサッと目を通し、
「私、正座のお作法を少し習ったことがあります。ご実家に戻られた団員さんの考えた正座を想像してみます」
「へ?」
劇団員が美卯を取り巻いた。
「所作の基本から創り出しましょう!」
つい、美卯は言ってしまった。
「私のバカバカ、なんてこと言っちゃったのよう!」
「どうしたんですか、先生!」
帰るなり、アシスタントのY子ちゃんがびっくりするくらい、美卯はオツムを自分でポカポカやった。
待っていた編集担当の賀川女史も、目を丸めて迎えた。
「あそこは劇団の稽古場なの。劇中の正座のお作法に困ってたんで、つい、私が基本を知ってるから所作を創りましょう、なんて言っちゃったのよ~~! どうしよう、そんな自信なんかないのに……」
Y子ちゃんは、うさぎが鼻をヒクヒクするように、小さな口元を心配そうにヒクつかせた。
「先生ったら!」
「だって、Y子ちゃん、あの変な叫び声から逃れたい一心だったのよ!」
美卯は賀川女史に向き直り、がばっと床の上に土下座した。
「賀川さん、大変、ご無理申しますが、締切りを二週間、いえ、十日、いえ一週間ほど伸ばしていただけませんか?」
「土、土下座なさっても、編集会議にかけてみないと……」
賀川女史もおろおろするばかりだ。
「強力な耳栓かヘッドホン買ってきましょうか?」
「あの吠え声は、耳栓では防ぎきれませんねえ……」
第四章 チャンスか?
美卯は、落ち着くために彼氏の物見くんに会いに行くことにした。物見くんに会いたさ半分、預けてある愛兎の「呼タロウ」に癒されたい半分の気持ちだ。
物見くんのマンションに着き、ドアが開くと同時にリビングに走りこんで、ケージの中にいる呼タロウを抱っこして出すや、めちゃくちゃ頬ずりした。
「呼タちゃ~~ん! 元気だった? ママ、寂しかったよ! あんな騒音さえなければ、ずっと一緒にいられるのにねえ」
呼タロウは美卯の匂いに気がついて、クンクン匂いを嗅いでから、ほっぺを舐めまくった。
物見くんは、今回の話を聞いて、
「『劇団・界』って有名なところだぞ。演劇界じゃ注目されてる劇団だ。お前のマンションの近くに稽古場があったとはな」
「そうなの?」
「実家に連れ戻された花形男優って、狂言の家の御曹司じゃないのか? 我逢流(がほうりゅう)だったら、最近、家を出ていた息子が帰ったんだろ?」
物見くんは芸大の学生なだけによく知っている。
「とにかく、団長の吠える声を止めさせたいの。そのために正座の所作を考えるって言っちゃったのよ!」
「う~~む、ダメ元で我逢流の本家に軟禁されてる息子に会いに行けばどうかな?」
「どうやって会うの?」
物見くんの膝に、呼タロウがちょこんと座りに来た。物見くんは、首根っこを撫でながら、
「我逢流の息子もうさぎを飼っているんだ。俺、ラビットランで知り合って、顔見知りなんだ。息抜きにラビットランには来ると思うんだけど……」
「ええっ? 顔見知り?」
美卯は奇遇な幸運に、神様にひれ伏したくなった。
第五章 ラビットランで
三日後、美卯と物見くんがラビットランに行ってみると、二十代半ばの青年が声をかけてきた。ネザーランドのオレンジのうさぎを抱いている。呼タロウの半分の大きさで、可愛いったらありゃしない!
「やあ! 物見くんと呼タロウくん!」
「我逢さん、イッポくん、こんにちは。いい天気だね」
申し分ない青空の下、多少の仕切りはあるが、原っぱにうさぎたちと飼い主たちが伸び伸びと楽しんでいる。
(この人が、「劇団・界」の花形役者!)
なるほど、評判どおりの舞台映えする目鼻立ちと身長で、さすが狂言の家元出身だ。スラリとした和風の最先端の気品を持つ青年だ。
「こっちは漫画家やってる俺の彼女、五十里美卯って言います」
物見くんが紹介すると、くらくらなりそうな真っ白な歯と笑顔で、
「初めまして。我逢まな舞(がほうまなぶ)です。物見さんから、お話はうかがってましたよ。呼タロウくん、お利口で可愛いですね」
「あ、ありがとうございます。宜しくお願いします」
美卯は、物見くんの背中に隠れてシャツの肘を引っぱりながら、小声で言った。
「劇団の所作のこと、なんて切り出せばいいかしら」
「正直に全部、お話しすれば?」
「そ、そうね」
美卯は、ごくんとツバを飲みこんで、花形劇団員がいなくなったから団長が叫び声あげてること、そのせいで仕事にならないこと、洗いざらい話した。
「まさか僕が家に戻ったことが、まあ、戻らされたわけですが――。そんなことになってるなんて。団長や団員には迷惑をかけたと思ってましたが。美卯さんにまで、大きなご迷惑をおかけしていたとは……」
「それで、脚本を書かれた我逢さんが、どんな正座の所作を書かれたのか、教えていただけたらと思いまして」
「分かりました。美卯さんが正座の所作を教えていただけるのでしたら、僕が思っていた正座の所作をここでやってみせましょう」
まな舞は、イッポくんを物見くんの腕に預けた。
第六章 お手本
青い新鮮な芝生の上に、我逢まな舞は裸足で立った。
「背すじを真っ直ぐにして立ちます。両側の骨盤の上に両肩が来ることを確認して。そして膝を着きます。女性はスカートなら手を添えてお尻の下に敷きながら、かかとの上に座り――」
(うん。ここまでは、私の習った基本と同じだな)
美卯が頷いた時、
まな舞は、いきなり草むらにすべって倒れ、ドシン! と尻もちをついた!
「ててて……!」
周りで見ていたうさぎ愛好家の人たちが、思わず吹き出した。
「我逢さん! 大丈夫ですか?」
「我逢さん!」
美卯たちが慌てて手を貸そうとしたが、まな舞はにっこりしてひょいと跳ね上がり、あざやかに膝を着いて正座した。
「これが、僕が書いた脚本の正座の所作なんだ。今のはちょっと予定以上のコケ方になってしまったけど」
「え? 尻もちつく、これが所作?」
「さすが、狂言の家元のお生まれ。ユニークな所作ですね」
物見くんが感心しきりだ。
「うちの愛兎イッポの仕草を眺めていたら、ある日、コロンと後ろに尻もちをついてから、ゴムマリみたいに座り直したんだ。それで思いついたんだ」
「まあ! うちの呼タロウも、時々コロンしてクルリンて、起き上がるんですよ!」
美卯は、我逢まな舞にすっかり親近感を持った。
「物見さん、イッポを預かって下さってありがとう」
イッポを受け取ろうと、立ち上がりかけたまな舞は、「うっ」と顔を歪めた。
「いかん……、尻もちついた時にやっちまったようだ」
第七章 母親、噴火
救急車が駆けつけ、緑の広場に赤いランプがチカチカした。ラビットランにいた人々は、何ごとかと騒然となった。
尻もちをついたまな舞が立ち上がれなくなり、物見が救急車を呼んだのだ。
自宅にも連絡し、救急車が病院に到着する頃には我逢流のお弟子さんたちまで駆けつけて、ごった返してしまった。
「まな舞のケガの具合はいかがですの、先生!」
出先から駆けつけたという我逢流家元夫人は、取り乱していた。
主治医に呼ばれてマネージャーらしき男性とふたりで病室に入っていった。しばらくして扉が開き、夫人が出てきたので、美卯と物見くんは歩みよった。
「先ほどまでラビットランで、息子さんとご一緒していた者です。ご容態は?」
夫人は紫がかったレンズのメガネをやや持ち上げ、
「うちに知らせてくださった方ですね。ありがとうございました。息子は尾てい骨を強打してヒビが入ってしまったようです」
「なんてことでしょう」
美卯が顔色を変えていた。
「草地とはいえ、何の危険も考えず、正座の所作の見本をお願いしてしまいました。誠に申し訳ございません」
物見くんと美卯は、丁寧に謝った。
「全治三か月だそうです。あなた方、どうなさって下さいますの? 狂言の舞台が迫っているのです。息子がチンケな劇団に関わっていたので、一年もお客様にお待たせしていたのです。そのために連れ戻したというのに、またしても怪我でお待たせすることに!」
頭のてっぺんから湯気でも吹き出しそうな夫人だ。
「本当に申し訳ありません」
美卯たちは、もう一度二つ折れになって頭を下げた。
病室に行くと、まな舞はコルセットを着けたまま横になっている。
「母さん、これは僕が勝手にやったことなんだ。元々『劇団・我逢人』で使う予定の所作で、自分で振り付けを考えたんだ。物見くんたちは関係ない。何も悪くないよ」
「まあ! ケガするような舞台をさせる劇団なんて、今度こそ、絶対に許しませんからね!」
母親は激怒のあまり、理性を失っていてどうしようもない。
美卯と物見くんはイッポくんを預かり、呼タロウと一緒にキャリーに入れて、病室を退散した。
ラビットランの広場まで戻ってきたが、美卯はすっかりしょげていた。
「美卯、そうしょげるな。まな舞くんには気の毒だったが、入院したのでケータイは解禁になったぞ」
物見くんはスマホ画面を見せて、まな舞くんのメールを示した。
「不幸中の幸い? これで劇団と我逢さんとの連絡はつくわね」
美卯は、呼タロウを受け取ると、その足で「劇団・我逢人」に向かった。
第八章 やる気、再開
団長の界はじめ、「劇団・我逢人」の劇団員たちが殺到した。
「あんたたち、我逢家へ行ったんだって? まな舞がケガしちまったそうじゃないか!」
「……全治三か月だそうです。創作した所作を実演していただいたために……。申し訳ありません。団長さんにもどう謝ればいいか」
劇団員たちは、がっくり肩を落としてため息をついた。
だが、団長は違っていた。
「あんたが謝ったところで、まな舞のケガは早く治ったりしない。それより建設的に行こう。俺も二度と吠えたりしたくないからな」
「――?」
「あんたには、正式な正座の所作を教えてもらい、その上で、まな舞の創作した所作の解説と指導をしてもらいたい。動画を送ってもらうから!」
「我逢さんは、あの所作を動画撮影されてたんですか? それなら説明しやすいですわ!」
美卯は顔を輝かせた。
「ところで、そちらの方は?」
「私の知り合いの物見くんと、ペットのうさぎたちです。我逢さんの所作は、うさぎの動きから考えつかれたそうですので、お預かりしたんです」
物見くんは、うさぎたちの収まっているキャリーを持ったまま、にっこりした。
「よーし! まな舞にもっと動画を送ってもらうよう、催促しよう」
劇団員たちに、ほっとした空気とやる気が満ちた。
美卯は、劇団の稽古場に立った。
「では、これから正座の基本所作をご説明いたします」
劇団員が体育座りして見守っている。
「まず、背すじを真っ直ぐにして立ちます。次に床に膝をつき、女性はスカートをはいておられる時には、お尻の下に敷いて、かかとの上に座ります。手は膝の上にゆったり置いてください」
劇団員たちはうなずきながら美卯の所作を見ていて、次は同時にやってみた。
「はい、基本の所作はこれで分かっていただけましたね」
第九章 人に逢うご縁
界が、劇団の名前を「我逢人」にしたのは、狂言の「我逢流」のファンだったからだ。
界とまな舞が新しい芝居で訴えたかったのは、【人に逢うご縁から笑顔】だ。
まな舞の考えた創作の正座所作は、尻もちをついてから起き上がりこぼしのように倒れた反動から一気に起き上がって、正座するという所作だ。うさぎの俊敏な動きから考えついたのだ。
見舞いに来た父親の家元が、動画を見て、とてもユーモラスなのを気に入った様子だ。
「尻もちついた反動で勢いよく正座するとは! こいつぁ、いい! ひょうきんで斬新だ!」
狂言に通じるものを感じたらしい。
一方、劇団「我逢人」でも、まな舞の動画を見て、すっかり気に入った団長の界である。
(いっそのこと、狂言とコラボできないかな?)
と言い出す。
「しかし、この跳ね方をマスターするには、相当な脚(あし)の筋力が必要ですね」
ぼそりと物見くんが言い、
「うぉっしゃあ! これから皆で特訓だ!」
団長が吠えた。
美卯が正式な正座の所作から外れないように監修しながら、コラボできそうな狂言の演目を探し始めた。
同時に劇団員みんなで、本物の狂言の上演を観劇しに、何回も繰り出した。
まな舞は入院中にコラボ向けの脚本を書き直し――。やがて、書き上がった。
題して【満兎】(まんと)
(うさぎが満ちる?)
美卯は書き上がった脚本を、PC画面でじっくり読んだ。
「さすが、まな舞、カンペキな脚本だ! すぐにも配役を決めて……」
読み終わった団長も大満足だ。
「団長、あのう、大事なことを忘れてませんか?」
まな舞がPCの画面越しに、そうっと言った。
「ああ?」
「まだ、僕の親父にコラボの件を話してないんですよ」
「!」
団長は固まってから、
「直にお願いしに参じる。羽織袴で!」
翌日、界団長は、さっそく紋付羽織袴の礼装に身を固め、我逢流狂言の宗家を訪ねた。
美卯は心配でたまらないのでついていき、物見くんも同行した。
「ウサたちは?」
「Y子ちゃんに世話を頼んできたわ」
ふたりは大股で遥か先を行く団長の後を追いかけた。
「団長! アポは取ったんですか」
「ああ、まな舞にメールしたら、親父さんが時間を取ってくれたそうだ」
団長はやる気満々だが、美卯は案じていた。
「団長、あのう、家元さんは温和な方ですが、奥様はどうでしょう?」
「ええ?」
「コラボもですが、まな舞さんが劇団に戻ることを許してくださればいいのですが」
「う~~む、最初に劇団に飛びこんできたのは、まな舞の方からだが、次期家元だからな。いつまでも、というわけにはいかんのは承知してるぜ」
「ケガまでさせてしまいましたから……。その上、コラボまでお願いできるでしょうか?」
「ま、当たって――砕けない! 頑張って動画を視てもらう」
どっしりした門にたどり着き、ピンポンを鳴らした。
第十章 狂言とのコラボ
三か月後、まな舞のケガは完治して、我逢流狂言の一門の中から選ばれた方と劇団員とで劇の稽古を重ね、夏の初めにようやく初日を迎えた。
近くの神社の能舞台を借り、薪能(たきぎのう)として上演することになった。狂言と同じく能の後に上演される。
真っ暗になった夏の宵闇の中に、朱色の篝火がめらめらと燃え上がり、幽玄な空間を作り出している。
観客たちは正方形の舞台を取り巻いて、芝生の上に直に正座していただいた。芝生の上で鑑賞が昔の常だったので「芝居」というそうだ。
美卯、物見くん、Y子ちゃん、賀川女史も芝生の上に正座した。
後方の席には、まな舞の両親も正座して、上演が始まるのを待っている。
【狂言と現代劇のコラボ・満兎】
狂言では、主役をシテ、脇役をアドという。
シテの太郎冠者(たろうかじゃ)を、団長の界 呼太郎。
アドの次郎冠者(じろうかじゃ)を、我逢まな舞。
ふたりとも、古風だがカジュアルな和柄の着物に袴、かみしもを着けている。若い次郎冠者は明るい色の柄だ。お面は着けないし、足袋も履かない。
演奏は、笛と小太鼓と太鼓と大太鼓の奏者が後ろで奏でる。
ストーリーは、古典の「附子(ぶす=トリカブト)」から。
「絶対に開けてはならないと主人から言われた卵型の物体」を開けたくてたまらない、留守を預かった使用人の太郎冠者と次郎冠者の留守番の話だ。
ふたりは、見たこともない大きな卵の中に何が入っているのか知りたくて仕方がない。
次郎冠者「ところで、そなた、相も変わらず眉間にシワを寄せてござるのう」
太郎冠者「そういうそなたも、今日は主人から開けてはならぬという大きい卵を預かったのじゃから、よけいに眉間のシワが深いのう」
次郎冠者「ほんに奇怪(きっかい)な卵でござるな。このような大きい卵は見たことがない」
太郎冠者が卵に抱きつき、頬をぴたりと当ててみる。
「やんわり温こうござる」
「おや? ひとすじ、ヒビが入ってござる。これは、これは、もしかすると――」
「何でござる」
「フタになっていて、開けられそうな具合でござる」
観客から、クスクス笑いがもれる。
「ああっ、そなた、そのように力を入れては……。ああ、開けてしもうた」
卵型の不思議な入れ物のフタを太郎冠者が、ぱっかん! っと開けてしまい、ふたりは恐る恐る中を覗いた。とたんに、ワッと驚いて尻もちをつく。だが、バネ仕掛けのようにすぐに起き上がって、全く乱れない正座のカタチで座った。
観客から、どっと笑いが起こる。
卵の中から子うさぎがぞろぞろ、笑いながら飛び出してきた。さまざまな毛色の子うさぎの着ぐるみを着た、劇団の女の子と少年たちだ。ピンクもいる。水色やレモン色もいる。
第十一章 子うさぎども
「わはははは」
ぴょんぴょん!
「うしゃしゃ〜い! きゃはははは」
ぴょんぴょん!
「わ〜い、出たぞ〜! うしゃしゃ〜い! 広い世界だ!」
ぴょんぴょん!
「うしゃしゃ〜い! 明るいぞ!」
可愛らしい跳ね方に、観客もにこやかに見守っている。
「これこれ、子うさぎども。じぃっ~~とせぬか!」
「バラバラに跳ねていってはならぬ」
太郎冠者と次郎冠者は、へっぴり腰で八方に散る子うさぎたちを追いかける。
「こちらへ御座れ(ござれ=いらっしゃい)、御座れ、子うさぎども。そちらの森には怖いキツネが! 食われちまうぞ」
「こちらへ御座れ、御座れ、そちらの河原に行くと、空から怖いトビが! 食われちまうぞ」
子うさぎどもは、「御座れ」と言われ、「参ろ、参ろう」と、笑いながら戻ってきた。
「おいらどもは、世間で足りなくなっている笑い声を振りまくために、【満兎】の卵から生まれてきたんだよ」
けらけら笑いながら、ふたりの周りをぴょんぴょん跳ねる。
「これ、これ、待ちゃれ、待ちゃれ」
ふたりは追いかけているうちに連れの股の下をくぐったりしてしまい、ひっくり返って、またバネ仕掛けのように戻って正座したり。
観客は大笑いしている。
太郎冠者と次郎冠者は、いつの間にか向かい合って、ちょこんと正座していた。
「これは、お初にお目にかかるでござる」
「お初う? お初なんかではござらぬ。どれだけ長い付き合いか」
「そ、そうでござった! 子うさぎどものせいで、目が回っちまって、忘れてしもうていたでござる」
「わっはっは」
「あっはっは」
笑いあう太郎冠者と次郎冠者。
「改めてよろしゅうお願い申し上げまする~~」
「よろしゅうお願い申し上げまする~~」
そこへ、主人が帰ってきた。ふたりはどっきりして飛び上がり、どこかへ隠れようとあちこちをウロウロ。
その様子が可笑しかったので、また観客が大笑いする。
主人が口をポカンと開けて、子うさぎたちを見回した。
「こ、これは! さては卵のフタを開けたでござるな」
「お、お許しくだされませ~~」
「お許しくだされませ~~」
太郎冠者と次郎冠者が平謝りすると、主人は、
「太郎冠者、そなたの忠義心を試すために留守居(るすい)をさせたのじゃ」
「で、では……」
「まあ、よいよい、世の中に笑いが戻った。子うさぎどもを放ち、皆が正座できたおかげゆえ、笑顔の花が咲いてござる。卵を開けたことは勘弁してやろうぞ」
子うさぎたちは、嬉しそうに輪になって跳ね、主人も太郎冠者と次郎冠者も、輪に入って踊りながら笑顔満面だ。
「笑顔、万歳」
「生まれくる新しい命どもに万歳」
「たくさん生まれて来なされ」
ふたりハモって、朗々とした声で吟(ぎん)じた。
卵から「正座して挨拶と笑顔」が生まれたのだ。
第十二章 追いかけっこ
「うん、これなら、成功と言えるでしょう」
まな舞の母親が、しっかりうなずきながら言った。
「今後も『劇団・我逢人』とのコラボ作品に出演を許すと、あなたから伝えてやってくださいな」
「母さんから伝えてやった方が喜ぶんじゃないか? 上演を観てからお前が返事するのを待っていたのだから」
家元が鷹揚に言った。
美卯と物見くんも笑いながら拍手していた。
振り返ると、まな舞の両親も、篝火に照らされた紅い顔で拍手している。
隣に正座して観劇していた、Y子ちゃんのかたわらの四角いバスケットから、呼タロウとイッポくんがひょいと顔を覗かせ、飛び出した。
「あ、ダメよ。呼タロウ! イッポくん!」
美卯が叫んだが、目の前に美味しいクローバーの香りが満ちているというのにガマンする彼らではない。ぴょんぴょん跳ねて行ってしまう。
気配を感じたのか、他の観客たちの膝元からも、うさぎが跳び出しはじめた。まな舞のラビットラン仲間さんたちも、大勢が今夜の公演を観に来ていたのだ。
うさぎたちは、てんでバラバラに夜の芝生を駆け回り、飼い主たちは追いかける。
「ミミ太、戻りなさい!」
「バニラ、どこ?」
まるで舞台の再現だ。
「楽しそう!」
「俺たちも跳ねようぜ!」
舞台上でうさぎの着ぐるみを着ていた劇団員たちも、どっと観客席に下りて跳ねはじめた。
舞台上に残された、まな舞と劇団長がボーゼンとしていると、一羽のうさぎが舞台に飛び乗ってきた。団長の足元にまとわりつく。
「呼コタロウ、だめよ!」
「呼太郎だって――?」
美卯が叫びながら、呼タロウを捕まえようとスライディングした時――、うさぎを踏んづけそうになった団長の足元がヨタヨタした。
「あっ、あっ、あっ」
尻もちをついてから、ぴょ~~んと元の位置に一回転して正座すると――。
真正面に、まな舞の母親が一糸乱れぬ正座をしていて、界と間近で目を合わせてしまった。
第十三章 禅語の我逢人
「こ、これは家元の奥様……!」
「『劇団・我逢人』の団長の界さんですね」
「はあ」
「まな舞のことを、これからもどうぞ宜しくお願いいたします」
しっかり両手をついて頭を下げた。
「【我、人と逢うなり】」
「はあ?」
「禅語の【我逢人】の意味です。息子が界さんに逢わせてくれたのです」
「は、はあ」
「聞けば、界さんは、昔に我逢流を気に入ってくださり、劇団の名前を『我逢人』になさったとか。このご縁は、出逢いがもたらせてくれたのです。この度、まな舞が界さんにお世話になることになったのも、名前の出逢いからだと私は思います」
「これはもったいない」
界は、きちんと正座を調えた(ととのえた)。
「まな舞くんこそ、よくぞ、我らの劇団に来てくださった。感謝の極みです。宜しくお願いいたします」
ふたりはお辞儀しあった。
母親の背後には、まな舞が美しい正座で座り、頭を下げていた。
「ひらめいた! 私、これをヒントに新連載を描くわ!」
美卯が、呼タロウをやっと抱っこして宣言した。
「良かったです、先生!」
Y子ちゃんと賀川女史も喜んでくれた。
「これで、あの叫びも治まりますね」
「賀川さん、ありがとう~~、お待たせしました。頑張ります」
グレーの毛並みをモフモフしながら、
「呼タちゃん、あんたは又しばらく物見くんとこだけど、ママ、がんばるからね」
「がんばれよ、美卯。たまには俺にも、モフりな」
「物見くんたら!」
物見くんの広い胸が、呼タロウごと後ろから美卯を抱きしめた。