[119]なぜ人は正しく座るのか


タイトル:なぜ人は正しく座るのか
分類:電子書籍
発売日:2021/06/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:52
定価:200円+税

著者:笹川 チエ
イラスト:時雨エイプリル

内容
茶道教室の先生である高坂百合。彼女は初対面の男―――ヒューゴ・ルイスに求婚される。
「あなたに一目惚れしました。ボクと結婚してください!」
とっさに彼女はこう告げた。
「私は、『完璧な正座』ができる人としか結婚しないので!!」
結婚を果たすため、ヒューゴは正座の特訓を開始。しかし彼はその疑問をぶつける。
「なぜボクたちは、正座をしなければいけないのですか?」
かくして高坂百合は考える。
なぜ人は、正しく座るのか。

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本文

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 間違えを犯さない人間なんていない。後悔しない人生なんてありえない。
 わかっていても考えてしまう。あのとき、ああしていれば間違えなかったのに。こうしていれば後悔の念に苛まれることもなかったのに。
 病院の屋上でベンチに座りながら―――ギブスで固定された自分の右足を見ながら、ひとつため息をつく。
 今日は晴天。雲ひとつない、青く晴れ渡った空が大変うらめしい。別に雨が降ってもいいから、私の骨折した右足をなかったことにしてくれないだろうか。
「なんでこんなことに……」
 私―――高坂 百合は、もう一度ため息をつく。骨折を成し遂げてしまってから、かれこれ何度ため息をついていることだろう。両手で足りなくなってからは数えていない。
 もっともらしい理由であれば、こんなに落ち込むことはなかったんだろう。たとえば階段から落ちそうになった誰かを助けようとして、自分が代わりにケガをしてしまっただとか。誰かにぶつかられて足をくじいたとか。それなら、こんな情けない気持ちになることはない。
 そう、私は今とても情けない。なんてったって、骨折した理由は「晩ご飯のことを考えていたから」なのだから。
 三十二歳のときの茶道の教室をはじめて早四年。三十六歳になった私は、二年前から近所にある高校の茶道部の顧問も兼業している。高校の教師として勤めている知り合いに頼まれたからだ。引き受けたからには徹底的に、完璧に。若き生徒たちに美しい茶道と正座を教えよう。そう思って厳しく指導してきた。威厳ある顧問としてふるまってきた。その厳しさもあってか部員の数は少なく、かつその部員たちの点てるお茶は何をどうしても不味くなってしまう……そんな悩みはあれど、私も部員たちも充実した部活動をできていたと思う。
 そしてある日。茶道部が終わって、帰ろうと学校の階段を下りていた。そして私は考えた。
 今日の晩ご飯は何にしようかなあ。料理するの面倒臭いなあ。たまにはハンバーガーとポテトフライでも―――あっ。
 「あっ」と思った瞬間、階段から足を踏み外した。本当にただ上の空になっていただけだった。階段から転げ落ち、私は右足を骨折した。
「なんて情けない……」
 今でも両手で顔を覆ってしまうくらいの恥ずかしさだ。せめて「焼き鮭と味噌汁を作ろう」だとか「お洒落なバーに行こう」だとか、大人らしい晩ご飯ならまだマシだ。ハンバーガーとポテトフライのことを考えていて足を踏み外して更に骨折するなんて。しかもそれを、部員たちにきっちり目撃されてしまうなんて。
 そのおかげで部員たちはすぐに職員室の先生を連れてくれたし、階段下で立てない私を見た先生たちが慌てて救急車を呼んでくれたのは大変助かったのだけれど……それはそれ。これはこれ。
 ハンバーガーとポテトフライのせいで、骨折してしまうなんて。しかも足だ。これでは茶道の基本である正座ができやしない。
「……はあ」
 また更にため息。
 骨折が完治するには、なんと半年もかかるらしい。階段から落ちただけにしては、治るのに時間がかかる折れ方をしてしまっているだとかなんとか。ハンバーガーとポテトフライのことを考えていただけなのに。
 骨折してから、かれこれ三か月。来週退院にはなるが、完治には程遠い。こんな状況で茶道の教室はおろか、部活の指導だってできない。見本となるべき私が正座すらできないのだから当然だ。つまり教室も顧問もしばらくお休み。つまり、しばらく、暇。
 だから、青い空がうらめしい。ベンチの上でだって正座をしてやりたい気持ちはあるのに、ギブスと痛みがそれを許してくれない。せめて背筋を伸ばすぐらいの抵抗しか、できない。
 もし、ちゃんと自分の足元に気をつけながら階段を下りていたら。ハンバーガーのことなんて考えていなかったら……そんな後悔の念が、延々をうずまいていく。ただまあ、後悔ばかりもしていられない。
「……足が治るまで、何をしよう」
 自分で言うのもなんだが、私は仕事大好き人間だ。仕事というか、茶道が好きだ。正座が好きだ。人に教えるのが好きだ。だから仕事と趣味が同じようなもので、そればかりに没頭していて。
 それらを全て取り上げられてしまったら、生きがいも何も―――
「―――so……」
 病院の屋上は解放されていて、私以外の患者や付き添いの看護師もちらほらといる。だから、そんな私以外の声が聞こえてくるのも当然で。
 だけど、知り合いがいないはずのこの場所で、その声は私に向けられているらしかった。声の主である「彼」は、私を見ていたから。
 ブロンズで猫っ毛のある髪。真上にある空のような水色の瞳。異国人、なんて今どき言わなさそうな単語が頭をよぎる。若そうな男の人。二十歳前後だろうか。看護師の服装ではないから、彼も患者なのかもしれない。背が高く、百九十センチ程はありそうに見える。やや猫背のようだから、もしかしたらもう少し高いのかも……。
 そうやって観察するように彼を見ていた。だから彼が私に近づいてきていることに気づくのが遅くなった。
「え」と声に出したときには、もう遅い。ベンチに座る私の目の前まで彼はやってきた。まっすぐに私を見ていた。大きな体で。綺麗な空色の目で。
 彼はまた、私に向けて声を発する。
「How beautiful you are.(なんて、美しい人)」
 英語は正直得意じゃない。けれど、今彼が紡いだ言葉程度なら理解できる。できてしまう。
 反応する暇もなく、手を取られた。彼がひざまずく。両手を握られる。大きな彼が私を見上げる。無意識に私の背筋が余計に伸びる。
 そして―――彼は確かに、こう言った。
「ボクと、結婚してください!!」
 ―――…………。
 …………………………………………。
「は?」
「ですから、ボクと、結婚してください!」
 流ちょうな日本語。想像の遥か先からやってきた言葉。
 結婚。誰と? ボクと。つまり、今目の前の彼と、私が……。
「いやいやいや」首を横に振って身を引こうとした。だけど残念ながら私の後ろにはベンチの背もたれがあり、逃げることは決してできない。ここぞとばかりにブロンズの彼が、両手を握ったまま迫ってくる。
「ボクはヒューゴ・ルイスと申します。二十一歳です。日本語を勉強するためイギリスから留学しに来ております」
「はあ、そうですか、あの、顔が近いような」
「あなたに一目惚れしました。恋をしました。もはやこれは愛です。ですからボクと結婚してください!」
「いやいやいやいやいやいや」
 何をどうすれば「ですから」につながるのか、さっぱりわからない、これは何のドッキリ? どこかで撮影でもされてる? そうでなくちゃ二十一歳が三十六歳に出会い頭にプロポーズするわけがない。あとこの男、声がハキハキと大きいから、周りにいる患者や看護師たちがこちらを好奇心の目で見ている。情けないほどに恥ずかしい。それなのに、ヒューゴ・ルイスと名乗った男は目を輝かせ、私だけを見つめて更に言葉を畳みかけてくる。
「ボクは本気です! 心からの言葉です!」
「だ、だから顔が近い、というかあの人の目がですね」
「美しい人、名前を聞かせていただけませんか。そしてあわよくばボクとお茶を、そしてお付き合いを、そしてゆくゆくは結婚を―――」
「わ」
 私は驚いていた。三十六歳ながら、プロポーズをされるのは初めてで。異国人に迫られるのすら初めてで。人の好奇にさらされることにも慣れていなくて。動揺して逃げたくて、彼の言葉をなんとか遮りたくて。
―――だから。
「私は、『完璧な正座』ができる人としか結婚しないので!!」
 そんな、一喝。
 久方ぶりの沈黙が流れる。空色の目が、きょとんと私を見つめる。
「―――『せいざ』」
 今までの流暢さのない、舌足らずな発音で彼はその言葉を口にして。
「とは、なんですか?」
 いとも簡単に、首を傾げたのであった。


 間違えを犯さない人間なんていない。後悔しない人生なんてありえない。
 後悔を立て続けにしたい人間だってどこにもいない、はずなのに。
「ユリさん、もう無理です。足が痺れています。痺れ放題といっても過言ではありません」
「足を崩していいと言った覚えはありません。下の名前で呼んでいいと許可した覚えもありません」
「ユリさん今日も美しいですね」
「褒めても足は崩していいと言いませんし名前で呼ぶなって言ってるんですけど聞いていますかルイスさん」
 思い切り背中を曲げて姿勢を崩そうとする彼の足の裏を、指でつつく。「ひぃ」と、おそらく足に電流のような痛みが走ったであろう彼が小さな悲鳴を上げる。
 ここは、私の経営している茶道教室の一室である。
 慎ましやかな六畳半の畳のにおい。茶道道具は出していない。何しろ今の目的は茶道をすることではなく、「正座をすること」だからだ。

 ヒューゴ・ルイス。二十一歳。イギリスからの留学生。
 その情報は本当で、彼曰く、プロポーズも本気とのことで。
 あの日屋上でプロポーズされた私は、とっさに「『完璧な正座』ができる人としか結婚しない」と言った。すると―――なんと彼は、「正座」という言葉すら知らなかった。日本やアジアの文化だとは認識していたけれど、いざ自分の日常にあるものを「知らない」と言われると不思議な気持ちになる。
 とはいえ、殊更都合がいい。つまり彼は完璧な正座ができない。つまり冗談だろうが本気だろうが、私と結婚する条件には当てはまらない。
「なるほど。『正座』とはそういうものなのですね」
 私が正座について説明すると、ルイスさんはいつのまにか私と隣り合うようにベンチに座り、至極真面目な顔でうなずいた。「ユリさんは、その『正座』とやらが完璧にできる人物でなければ、結婚しないと」
 私は全力で縦にうなずいた。さっさとこのよくわからない状況から解放されたいがために。……それなのに。
「で、あれば!」
 またルイスさんは私の両手を握った。吐息がかかりそうなくらい、彼の顔が目の前にやってきて。
「ユリさんと結婚するために、完璧な正座、できるようになります! 僕に正座を教えてください!」
 ……なぜ、私は断らなかったのだろう。
 彼の必死な形相に押されてしまったのか。つぶらな空色の瞳に、どこかチワワのようなかわいらしさを見出してしまったからか。いくら断っても迫られてしまいそうだと諦めたのか。それとも、何か別の理由か。
 目を泳がせながら、「まあ、あの、教えるくらいであれば……」と、私は答えてしまっていた。
 ぱあっと彼の顔が輝いて、世界中の幸せを手に入れたように微笑んで叫んだ。
「ありがとうございます、ユリさん!」
「声が大きい近い離れて、あと初対面の相手を急に下の名前で呼ばないで」
 ちなみに、ルイスさんが病院にいたのは「日本の病院を見学したかったから」らしい。
 私に一目惚れしてプロポーズするところといい、ヒューゴ・ルイスという人物はなかなかに奇特な人間である。
 そんな人間に正座を教える私は運が悪いだけで、決して、奇特ではない。

 そんなことがあった一週間後、私は病院を退院した。足は完治していないが、松葉づえがあれば一人暮らしぐらいはできる。
 そして、授業料をもらわない形での「正座指導」ぐらいも。
 足の怪我のため、残念ながら私自身はまだ正座ができない。だから私は畳の上に足を伸ばして座っている。せめて背筋はぴんと伸ばし、両手は太ももの上に添え、目の前で悶絶しながら正座を続けようとしているルイスさんを見据える。
「ルイスさん、私がこの一週間であなたにお伝えしたことを復唱してください」
 捨てられた犬のような瞳が私を見る。……とても蛇足的で主観的な情報ではあるけれど、ルイスさんは、けっこう顔立ちがいい。すらりとしている。身長も高い。いわゆる「スマート」と称されていい存在だろう。そんな人に捨てられた犬のような顔をさせてしまうのは忍びない気もするけれど、だからといって手加減はしない。無言の視線を送ると、ルイスさんはぴくぴくと足の指を動かしながら口を開く。
「まず、正座は慣れである」
「そうです。もちろん基本的な作法やコツはありますが、足が痺れてしまうのは体が正座に慣れていないという点が大きいです。完璧な正座ができるようになるためには『慣れ』が最も重要だと思います。では次に正座の仕方を言ってください」
「背筋は伸ばす。肘を垂直におろして、手は太股の付け根と膝の間に重ねずハの字におく。脇は閉じるか、軽く開く程度にする。膝同士はぴったりつけるか、握りこぶし一つ分開く。あと、ええと……あの、ユリさん、やっぱり足の痺れが限界を……」
「スカートを履かれている場合、スカートはお尻の下に敷く必要がありますが……ルイスさんには必要ない説明ですね。で、足の裏は、親指同士が離れない距離を保ってください。触れ合う程度でも、軽く重ねても、深く重ねても、そこはあなたの楽な形でかまいません。ちなみにルイスさんは親指同士が離れてしまっているので即刻くっつけてください」
「でも今足を動かしたら死んじゃいます」
「正座で人は死にません。ほら、親指くっつけて」
「はう」
 無理やりルイスさんの足を持って動かす。ルイスさんがうめく。すると今度は彼の背中が曲がってしまう。
「ルイスさん、背筋を伸ばせと何度も言ってます」
「ユリさんに触れてもらえるのは嬉しいのに……足の感覚がなくなってユリさんの手の触感がわからない……悲しいです……」
「親指重ねますね」
「はう!」
 ルイスさんがうめく。うめく暇があったら背筋を伸ばしてほしい。
 ……かれこれ、ルイスさんに「正座指導」を始めて一週間。
 普段は大学の授業があるらしい彼は、学業を終えた夕方に毎日やってくる。指導中はこうして散々弱音を吐くけれど、逃げ出すことはなく足しげく私のもとへ通いに来る。
 彼曰く、「正座は最悪の地獄だけど、ユリさんに会えるのは最高の至福なので」。……これを「素直」と受け止めるべきなのか、私はまだ決めかねている。
 そうしてルイスさんが悶絶を続けて三十分。
「今日はこれぐらいにしておきましょうか」
 私がそう言った途端、「はーい!」と即座にルイスさんは足を崩し畳に倒れ込んだ。ルイスさんは正座は好きではないようだけれど、畳のにおいは好きらしい。指導が終わると、畳に突っ伏してにおいを嗅ぐのが通例となりつつある。においが好きなのはわかるけど、こうも正座から解放された! という嬉しさをかもしだされると、色々思うところはあるわけで。
 ひとつため息をつく。私は彼の前でため息をつきやすい。
「あのですね、ルイスさん」
 そう声をかけると、彼はがばっと畳から顔を上げて私を見る。彼曰く、畳のにおいは好きだけど、私のことはもっと最上級に好き、らしい。
「そんなに正座が嫌でしたら、別に私のところへ通っていただかなくとも」
「あります」
 言い終わる前に遮られる。断言される。あまりにひたむきでまっすぐな声に、なぜか、ぐっと喉がつまる。……そのまっすぐさを、どうか背筋に持って行ってほしいのだけれど。
 空色の瞳から目をそらしつつ、私はなんとか反論する。
「ですがこの一週間、ルイスさんの正座は一向に上達の傾向が見受けられません」
「うっ」
「始めるときは『今日こそは完璧に!』と意気込んでいるのに、いざ始めたら背筋は曲がるし、かと思えば後ろにそり過ぎて足に負担をかけるし、そのせいですぐに足を痺れさせて弱音を吐くし」
「ううっ」
「あと、こうして指導が終わるとすぐ開放的にされると、私も先生としてふがいなさを感じてしまうというか」
「それは違います!」
 断言とともに、ずずいとルイスさんの顔が私に近づく。両手で体を浮かし、一歩分ほど彼から離れる。
「ユリさんは決して悪くありません。ユリさんは素晴らしいです。説明もとてもわかりやすいです。そして美しいです!」
「は、はあ。どうも」
「でもあわよくばその固めな敬語を取り崩していただければ嬉しいですし、恋人になっていただけたらボクももっと話が頭の中に入ってくるかもしれません」
「指導、やめますか?」
「やめたくないです」
「ですが」
「ユリさんと結婚するために、完璧な正座、できるようになります」
 ……このような問答も、かれこれ一週間ほど続けているわけで。
 聞くに聞けていなかったことを、私はついに口にする。
「……あの。ひとつお伺いしても?」
「! ユリさん、ついにボクに興味を抱いてくださったんですか。幸せです!」
「興味というよりは純粋な疑問です」
「つまり疑問を抱くほどボクについて考えてくださったということですね! 光栄です!」
「あなたはなぜ、私と結婚したいんですか?」
「ユリさんが好きだからです」
 即答。まっすぐな視線。
「……なぜ、私が好きなんですか? 先日、病院で会ったのが初めてですよね」
「あなたに一目惚れしました。恋をしました。もはやこれは愛です。ですからボクと結婚してください!」
「あのときと一語一句同じことを言わないでください」
「ボクの発言を一語一句覚えていてくれているんですね! これはもう結婚したと言っても過言ではありません!」
「何をどう見ても過言です」
 ぴしゃりと否定してから、再度ルイスさんと向き直る。うら若き青年。そして、私はうら若くない女性。
「私とルイスさんの年齢差で『一目惚れ』なんて信じられませんし、それに……」
 あまり言い慣れない言葉を口にしようとして、もごもごとしてしまう。まどろっこしさをはねのけて言う。
「美しい、と、あなたはよく私に言ってくれますが。残念ながら私はそう称されるほど整った顔立ちではありません。そんな風におだてられても私は」
「ユリさんは美しいです」
「…………」
「一目見たときに思ったんです。『美しい』と。それだけは、世界中の誰もが、ユリさん自身が否定しようと、絶対に変わらない事実です」
 だから、と、強くルイスさんは何度でも口にする。
「ボクは美しいユリさんが好きです。だから絶対に何が何でもユリさんと結婚したいです」
「……でもあなた、今学生でしょう? しかも留学中の」
「学生だからといって結婚してはダメなんて法律は、ボクの国にも日本にもありません」
「それはそうですけど、そんな学生の身で結婚にこだわる必要は」
「つまり結婚前提のオツキアイであれば許してくださる?」
「そうではなく……」
「ユリさん、ボクもひとつお伺いしてもいいでしょうか」
 ルイスさんが片手をあげる。先生質問です、と言わんばかりに。
「『ウエディングドレスと白無垢のどちらが着たいか』という質問でしたら、先日お答えした通り『そもそも結婚する気がないので選ぶ必要もない』とお答えするしかありませんが」
「ぜひ選んでいただきたいところですが、今回は違う質問です」
「……では聞きましょう」
 「結婚式はイギリスと日本どちらで開きたいですか」なんて質問だったら、すぐに追い返そうと思っていた。その準備に、そばに横たわらせていた松葉杖へ手を伸ばしてさえいた。
 ―――けれど。
「どうして正座をしなければいけないんですか?」
「…………え?」
 ルイスさんは、自分の痺れた両足をさすりながら言葉を続ける。
「もちろん、日本の美しい文化であることは理解しています。茶道や武道における正座の姿はとても由緒正しく、厳かで清楚で『わびさび』というものを感じます」
「……一通りの褒め文句をありがとう」
「でも、『なぜ完璧な正座ができない人でないと結婚できないとユリさんが思うのか』。これがわからないんです」
「…………。それは」
 あなたのプロポーズを適当に断る口実です。そう言えばいい。それだけの話。
 でも、私にはそれができない。
 だって―――私は心から、「完璧な正座ができる人と結婚したい」と思っているから。
「ボクは正座が上手にできません。ですがそれ以外の魅力を見せることはできます。正座以外の、ボクのいいところを知ってほしいと思ってる」
「………………」
「そしてボクは、正座をしているユリさんを見たことがありません。けれどボクはユリさんが好きです。今のユリさんが美しいと思います。今のユリさんと結婚したいです。だから」
 至極まっとうに、先生に質問を投げかけるように。
「なぜ、正座ができる人じゃないと結婚がダメなんですか?」
 そもそも、と。
 純粋無垢な空色の瞳が、私を見る。
「なぜボクたちは、正座をしなければいけないんですか?」


「ヒューゴくん、いい子ですよねえ」
 のんびりとした看護師さんの声。私と同じくらいの年齢である彼女が見つめる先には、四人の子供に馬乗りされているヒューゴ・ルイスがいる。
 退院してから早二か月。そろそろ骨折も完治する頃だけれど、定期健診にはかかさず通っていた。そうすると看護師の人とも顔見知りの仲になるし、すっかり院内マップも把握して、「彼」がいる場所も把握できてしまっているわけで。
 ルイスくんが小児科のボランティアに参加するようになったのは、私と出会った日の翌日からだったらしい。病院の見学に来た彼は、病院のボランティア募集のポスターを見るや否やすぐさま応募し、帰りに寄った屋上で私を目撃し、そしてプロポーズしたらしい。行動力が過剰にありすぎる。
 どんなボランティアをしているのかというと、学生である彼が医療行為を手伝う……なんて大それたものでは、もちろんなく。小児科に入院している子どもたちへ読み聞かせをしたり、今現在のように一緒に遊んであげたり……といったもののようだ。ルイスくんは大変人気のようで、彼がお馬さんごっこを始めると、必ず子どもたちの行列ができあがる。次は我こそがヒューゴお兄ちゃんの背中に乗るのだ、と。
「いい子、なんですよねえ」
 看護師の言葉にうなずきつつ、診察待ちのためのイスへ腰かける。白熱するお馬さんごっこを眺める。ひひーん、とルイスさんが良い顔立ちで鳴く。
 病院へ定期健診に来ると、今日は彼はいるのかしら……と小児科に立ち寄るのがルーティーンになってしまった。それは「今日は病院のボランティアに行きます!」と彼から逐一報告メールが送られてくるからかもしれないし、足が完治しない限り、うかつに仕事を始められない自分の暇をつぶすためかもしれない。……もしくは。子どもたちと心から楽しそうに遊ぶ彼の姿を見ると、言葉にならない悶々とした気持ちが少し和らぐからかもしれない。
「プロポーズ、受けないんですか?」
 どうやら仕事はそこまで忙しくないらしい看護師さんが、私の隣に立って悪戯っぽく微笑む。あの大々的な屋上プロポーズは目撃者も多くいたことから、看護師や医者たち全員に知れ渡っているらしい。普通に盛大に恥ずかしい。
「私と彼、いくつ年の差があると思います?」
「今の時代、お互い成人さえしていれば年齢や性別なんて気にすることではないと思いますけど」
「成人ではありますけど、彼、学生ですよ。しかも卒業後はイギリスに住むって言うし、私にもついて来てほしいなんて言うし」
「そこは、これから相談していけばいい話じゃないですか。彼を好きになるかどうか、結婚を受けるかどうか……とは別の問題です」
「そんなことはないような……」
「それに」
 看護師さんはさらに笑みを深める。「高坂さんは、そういった観点を気にされているわけではないようですし」
 ぐぬ、と口をゆがめる。目を泳がせる。
 ―――なぜボクたちは、正座をしなければいけないんですか。
 二か月前に問われた答えを、私は未だに出せていない。それにも関わらずルイスくんは相変わらず正座指導に足しげく通ってくるものだから、さらに私は口淀んでしまう。
 看護師さんの言う通り、ルイスくんはとてもいい子だ。弱音を吐くことはあるけれど、何事も諦めない。よくも悪くもひたむきで、一生懸命で、勉強家で、子どもたちにも優しい。
 私は、彼が嫌いではない。嫌いならさっさと彼を拒んでいるし、こうして馬乗りされている彼を見に来ることもない。
 ……だけど。
 未だに彼は正座ができない。すぐに足を痺れさせ、背筋を曲げ、すぐに泣きそうな顔をする。
 なぜ、ダメなんだろう。どうして今の彼の想いを、私は受け止められないんだろう。
 あの問いを投げられた日から、ずっと考えて。考えて……。
 ふいに、ころころとゴム製のボールが足元に転がってくる。ひとりの少年がこちらに走り寄ってきた。ボールを拾うと、少年が私を見上げる。私は無意識に背筋を伸ばし、彼を見やる。少年が言う。
「ヒューゴお兄ちゃんのお嫁さんだ! こんにちは!」
「決して違います、こんにちは」
 子どもに何を吹き込んでいるんだあの男は。
 くすくすと看護師さんは笑い、「それでは失礼しますね、ごゆっくり」とお仕事へ戻っていく。少年が「ヒューゴお兄ちゃーん! お嫁さん来てるよ!」と大声で言う。ルイスさんが私を見る。周りの子どもたちも私を見る。やはり盛大に恥ずかしい。
 そんな私の気持ちなんて露知らず、ルイスさんは、とびきり嬉しそうに目を細めた。
「ユリさん、今日も美しいですね」
 何度も聞いた言葉。私の心を引き寄せる声。
 背筋を伸ばし、膝に置いた手を、私はぎゅっと握る。


 ルイスさんの最近の流行りはお茶菓子らしい。
 もともと和食好きであることは聞かされていたが、近ごろは和菓子にも手を出しているようだ。毎日茶道教室に来るたび、お土産として和菓子を買ってくる。桜餅、かしわ餅、ずんだ餅に苺大福に三食だんご、みたらしだんご……そんなに浪費して大丈夫かと尋ねたら、「夜はコンビニでアルバイトしてるので」と答えられた。大学に病院のボランティアにアルバイト、そして正座指導。ちゃんと寝てるの? と尋ねたら、「心配してくれているんですね」と満面の笑みを浮かべられてしまった。
 今日も今日とて、彼はお茶菓子を持ってきた。畳にあぐらをかき、ニ十センチ程度の羊羹を広げ、ルイスさんは目をきらきらと輝かせる。
「この羊羹を買ったお店、すごく人気らしいんですよ。見てくださいこの淀みない美しい色を! 毎日来る常連客の人もいるみたいで、どの和菓子が人気か長時間かけて教えてくれました。たしか名前は西園寺―――」
「ルイスさん」
 名前を呼ぶと、彼はすぐに顔を上げる。私を見る。まっすぐに、ひたむきに。
 畳に足を伸ばして座ることも慣れてしまった。それでも私は、背筋を伸ばして彼と向き合う。
「以前、あなたは私に聞きましたね。『なぜボクたちは、正座をしなければいけないのか』と」
「はい」
「それに対して、私は未だ答えを出せていませんでした」
「いえ、ボクもなんとなく気になって聞いただけで。もしユリさんを悩ませてしまったなら……」
「とても悩みました。今までずっと」
 私はなぜ『完璧な正座』ができる人じゃないとダメなのか。なぜ、私たちは正座をしなければいけないのか。
「結論から言ってしまうと」
 まっすぐ、彼を見据えて言う。
「―――私たちが正座をするべき理由は、どこにもありません」
「…………へ」
 きょとんと、彼が瞬く。首を傾げる。私は続ける。
「そもそも、今の『正座』というものの歴史は左程長くないと言われています」
「……そうなんですか?」
「大正時代までは、あなたが今している『あぐら』や『単に座る状態』を正座と読んでいた……という話もあります」
「では、今ボクこそが『正しく座っている』状態―――『完璧な正座』をしていることになるのでは?」
「なぜ『正しく座る』という漢字をあてがわれたかは定かではありませんが、昔であれば、あるいは」
「それなら、ぜひ今このボクと結婚を―――」
「文部省から『国民礼法要項』が発表したのは、一九四一年のことです」
「……こくみん、れいほう、ようこう?」
 舌足らずな発音。見知らぬ日本語だと、途端に言いづらくなってしまうらしい。そんな少し不器用な彼が、私は嫌いではない。
「国は日本国民が行うべき作法として、今の正座を普及させようとしたんです。その基本的な考え方は……」
 私は立ち上がる。両の足で立つ。
「え」とルイスさんが声をあげる。「ユリさん、足が」
「『身体動作には精神が表れ、従って身体動作を正すことが、精神を正すことである』」
 膝を折る。畳に座る。『国民礼法要項』に書かれていた、あるべき座り方を思い返す。
 スカートはお尻の下に敷く。両足の親指を重ね、両膝の間はなるべくつける。上体をまっすぐにして、両手は股の上に置く。頭をまっすぐにし、口を閉じ、前方を正視する。
 正しく座って、彼と向き合う。
 ルイスさんの目が丸くなる。息を飲んで私を見ている。
「……ええと、ユリさん、足の方は」
「昨日、無事完治したとお医者様に言ってもらいました」
「それは、よかったです」
「ルイスさん」
「はい」
「私たちが正座をするべき理由はありません。絶対必要なものでは決してないです。だって、正座をしなくても生きていけます。あなたの言う通り、正座ができなくともあなたの魅力は他にたくさんあると、私は感じています」
「あ」
 珍しくルイスさんが言葉に詰まる。「ありがとう、ございます」頬が赤い様子を初めてみる。かわいらしい、かもしれない。そんな言葉はひとまず飲み込む。
「だけど」
 背筋を伸ばして、はっきりと言葉にする。彼に正しく伝わるように。
「私は正座が好きなの」
 包み隠さず、まっすぐに気持ちを表す。
「『身体動作には精神が表れる』……その通りだと思う。こうして背筋を伸ばすだけで心が凛とするの。正しくあろうと、そう思える」
「……………」
 ルイスさんが、私を見つめ返す。
「私はそうして、人と向き合って話すのが好き。だから」
 姿勢を崩さずに、空色の瞳を見つめて口にする。
「ヒューゴくん。私はあなたの想いや、あなた自身とも、正座をして向き合いたい」
 彼がまばたく。数秒の沈黙。
 ヒューゴくんの足が動く。両足の親指を重ね、両膝の間を十センチほど開ける。上体をまっすぐにして、両手は股の上に置く。頭をまっすぐにし、口を閉じ、前方を、私を正視する。
「一目見た瞬間、あなたのことを『美しい』と思いました」
 彼の声が、凛と私に届く。
「それは正座など関係なく、あなた自身が生まれながらそうであるからだと思っていました」
 でも、と。
 彼はとびきり目をとろけさせ、私へ言葉を紡ぐ。
「あなたが美しいのは、今までずっと正しく座ってきたから―――そうして、美しい精神が培われてきたからなんですね」
 …………頬が。
 頬が、熱くなる。
 今まで目をそらしていた言葉が、彼の想いが。あまりにまっすぐ、私に届いてしまって。
「ユリさん」
 正座をしたまま、手を伸ばされる。彼の手が私の手に重なる。
「ボクと、結婚してください」
 ………………。
 …………………………………………。
 背筋を曲げないまま、彼の目を見返す。
「―――嫌です」
「えっ」
「私は、由緒正しく、順序に従って進むのが好きなので」
 彼の手を握り返す。
「まずは、お付き合いからで」
 きょとんと、彼がまばたく。数十秒の沈黙。その間、すごく恥ずかしいのに負けず嫌いの性分で目をそらさなかった私の根性をほめてほしい。
 彼の、空色の瞳が輝く。きらきらと晴れていく。そしてなぜか私に抱き着いてきた。
「愛しています!」
「だから! いちいち近い!」
「もうお付き合いしてるので近いのもハグもキスもオッケーですよね!」
「私は順序よくゆっくり進むのが好きだっつってんの!」
「ボクは超特急がいいです! あと言葉が少し乱暴なところも素敵です! 好きです! 愛してます!」
「知ってるってば」
 散々聞いてきたから。やっと、ようやく受け止められたから。
 べりっと彼を引きはがし、改めて正座をする。彼も私に向き合い、背筋をぴんと伸ばす。
 年の差は決して変わらない事実であり、私と彼の間にある溝はきっと大きい。それに私は茶道教室を再開させたいけど、ヒューゴくんは私にイギリスへ来てほしいと言う。すべての気持ちが一致しているわけではない。話し合うこと、向き合うべきこと、決断しなければならないこと、まだまだたくさんある。
 それでも今、私たちは正しく座っている。正しく、彼と向き合えている。
 ―――なぜ、人は正しく座るのか。
 その精神を、その心を、正しく表したいからだ。
「ふつつかもの、で、ございますが」
 舌足らずの彼の発音が、耳に響く。
「すえながく、よろしくおねがいいたします」
 嘘偽りない、太陽のような笑顔。
 私も取り繕うことなく、笑みを浮かべる。
「―――こちらこそ」
 正しく、あなたに伝わるように。
「末永く、よろしくお願いいたします」
 彼と目が合う。笑い合う。
 この温かで凛とした気持ちが、正しさが、何よりも愛しいと。
 心からそう思ったことだけは、まだもう少しだけ内緒だ。

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