[312]お江戸正座13
タイトル:お江戸正座13
掲載日:2024/10/08
著者:虹海 美野
内容:
庄次は札差の次男である。
庄次は祖父の趣味である陶器店めぐりに付き合い、本人も陶器が好きであった。幼い頃、祖父と訪れた陶器店で、庄次はその店の孫娘おつわと同じ対の盃をほしがり、祖父の計らいで一対の盃をひとつづつ手元に置くことになった。
そのおつわが同じ手習いにやって来て、きちんと正座し勉強するが、誰でも臆せずに意見し、その面倒を庄次が見ていた。
月日が経ち、おつわの家族が江戸を離れると聞いた庄次は……。
本文
当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。
1
庄次は札差の次男である。
お商売はありがたいことに順調で、食べる物、着る物、学びに至るまで、困ることなく育ててもらった。父は店が潤っているのに任せて浪費しない人で、家族、奉公人の食べ物、身なりといった必要と判断することに関しては本当に気風良い金払いであったが、洒落事には全くと言ってよいほど関心がなかった。否、正確には関心はあったかも知れぬが、素質がなかった。
まあ、洒落事、及び芸事に於いてはよけておき、兎に角、そういう性格がお商売の信用につながったのかも知れぬ。
跡取りで庄次の兄である庄吉は、そんな父の考えに心酔しているようで、真面目に学び、通わせてもらっている剣術に励んだ。日頃の所作にも厳しい父の教えにも従っていた。なんというか、弟から見てもいじらしいほどに言いつけに従っていた。ちなみにこの庄吉も芸事には不向きなようで、そこも父に似たのかも知れぬ。一方の三男である庄三は、頭からそうした父の教えに鼻白み、その態度がたびたび父の目につき、わざわざ立てなくともよい波風を立て、周囲をはらはらさせた。庄三は札差仲間の交流の一環で通っていたお三味線の筋がよく、また波風を立てながらも、実は結構父にかわいがられている。自身の意見と合わぬことは頭にきても、息子が自身に不向きなことが得意であることはやはり嬉しいのか……。それを庄三本人はこれっぽっちも自覚せず、わかったのか、わからぬままなのかは定かでないが、縁あって、口入屋に婿入りした。兄弟で最初に身を固めたのが末子の三男であった。
その三男が今日、わざわざ家にやって来た。
口入屋に婿入りし、なんだか装いが変わった。
昔、それこそ子どもの頃、呉服屋が持って来た反物の中で、これがいいと言っても、兄弟との釣り合いを考え、却下されていたが、今や、口入屋の若旦那になり、さほど値の張るものは求めぬまでも、心引かれるものを自由に選んでいる様がうかがえた。
口入屋の若旦那におさまった三男の久しぶりの帰宅を店が明るく迎える。
そうして、店のお仕着せで働いていた庄次も、弟が母屋に入って暫くした後、仕事を抜け、母屋へ向かった。
緊張を帯びた席で、大事な来客を待つ一家はそわそわとしていた。
お父ちゃんは廊下を行ったり来たりするし、お母ちゃんはそんなお父ちゃんの落ち着きのなさに振り回されるというか、付き合うというか、とにかくその様子を見たり、声をかけたり、近くに寄ったりしているし、庄吉は茶を何度も飲み、時折手拭を出しては額の汗に当てては、それを仕舞う。
今日は、我が家の長男、若旦那、庄吉の見合い相手がやって来る。
なんでも一度、相手方の家に母と庄吉が赴き、そっとお琴を爪弾くお相手のいる部屋の前を通る、という会い方をしたそうなのだが、そこでは互いに顔を見ることなく見合いは難航すると思われたが、偶然にも庄吉が子どもの頃より通っている剣術の道場でそのお相手と以前より知り合っていたことから、とんとん拍子に話が進んだのだと言う。
正直、弟から見ても、堅物で面白味のない兄である。お商売に真面目に取り組む姿は尊敬に値するが、毎日を共に暮らすお相手を探すとなると難しいのではなかろうか、と余計なお世話ながら心配していた。
それが、こんなにもあっさりと決まるとは、とやや拍子抜けした。
まあ、興味半分、心配半分で、庄次と庄三は大事な席に馳せ参じたのだった。
とうとうお相手のご家族がやって来た。
恭しく出迎え、奥の座敷に向かう。
両親、長男、庄次と並び、三男も座敷に正座していた。
背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか、軽く開く程度、着物は尻の下に敷き、手は太もものつけ根と膝の間に指が向き合うように揃え、足の親指同士が離れないようにする。
父から言われ、茶や香の会でいつも無意識にしている正座での心得である。
気になる兄のお相手であったが、大層溌剌とした、利発そうな娘さんであった。
こんなに出来た娘さんが、よくもまあ、うちに来てくれることになったもんだ、と庄次は思った。
お相手の家族が兄のことを大層褒めてくださった時は、ありがたいと思う前に仰天したが、まあ、とにかく、互いに心通じている様子で、いいご縁であることがわかった。
きっと余計なお世話だと言われるだろうが、庄次も一安心である。
2
さて、これからどうしようかと庄次は思った。
想定していたよりもずっとあっさりと、庄吉の結婚が決まった。
これから兄の一緒になる人が家に来るので、この機会に自分の持ち物を少し片づけようと思いついた。
札差の家の娘さんなのだから、嫁入り道具も多かろう。
本人が言うには、お琴は苦手なので持参いたしません、お化粧道具も必要最小限、ただ竹刀を持参することはお許しください、ということだったが、まあ、衣装だってあるし、こちらの家が片付いているにこしたことはない。万が一に、兄嫁の荷物が多く、収まりきらねば、兄の荷物をどこかに移動させるにしても、どこも場所がないでは都合が悪いではないか。
弟の庄三と庄次は、祖父母からそれぞれに生前からいろいろなものをもらった。
庄三は祖母から本や歌集を譲り受け、庄次は祖父から茶器や壺を譲り受けた。他の家族は、それぞれに別のものをもらったようだが、庄次、庄三は同じものを尊ぶ同士としてそれらを譲り受けた。
祖母から譲り受けたものは、庄三が婿入りする際、行李に全て入れて持って行った。
そうして、今、庄次が祖父から譲り受けたものを庄次はひとつづつ出してみた。どれも木の箱に丁寧に仕舞われ、大切に保管してきたものばかりである。
その中で、紙の箱に入り、更に紙で包んである小さな陶器が出て来た。
対の盃のひとつであった。
なんのことはない、小さな盃であるが、中に描かれた金魚にどこか心引かれる。
これはなんだったか、と暫し盃を見つめた。
年代物や珍しいものではない。
そうして、あ、と声を上げた。
まだ庄次が幼い頃、祖父とともに、あちこちの陶器店を見て歩いた。
その中で、特に祖父が懇意にしている店があった。
特に値の張るものや、珍しいものがある店ではなく、日ごろの生活に使用するものが多かったが、そのどれもがどこか品と優しさ、温かさを感じさせるものだった。
その店で、ちょうど店主が新たに入った品の荷ほどきをしているのに出くわした。
そこで庄次はひとつの品に目がいった。
茶碗にしては小さいし、湯呑とも違う。
二つでひとつの箱に入っている。
じっと見つめ、どうしてもそれが欲しくなった。
「おじいちゃん、これほしい」と言う庄次の声は、幼い女の子の声と重なった。
陶器店の孫娘で、庄次より四つ、五つ下であったか。
子どもの中でも小柄で、線が細いが、芯の強そうな大きな目をしていた。そうして、思っていることが全てその顔に出る性分だと感じたが、それが庄次にとっては、素直だ、と思えた相手だった。
「これこれ、これはお店に出すものだから」と、庄次の祖父と同年代と思しき店主が咎め、「まだお店に出してはいないものを欲しがってはいけないよ」と庄次の祖父が庄次をたしなめる。
「ごめんなさい」と庄次は言ったが、娘は謝らぬ。
「これ、おつわ」と、店主が促すが、「ひとつづつ入っているんだから、分けてくれればいいのに」と、おつわという孫娘は言う。
「おつわ、これは対の品だ。ひとつづつにはできないのだよ」と店主が諭す。
「では、私がこの盃を買わせてもらって、ひとつをお嬢さんにお渡ししてもよろしいかな」
祖父は穏やかに言った。
「いけませんよ、そんな」と店主が言ったが、「いやいや、ここではずいぶんとよいものを、良心的な値段でいつも買わせていただいている。本来はこんな買い方は失礼だと承知だが、まだ酒が飲める年でもなし。いつか大人になって、どこかの席でこの盃が顔を合わせることもありましょう。狭い町ですから」と、とりなした。
店主が了承しやすくするための祖父の案であったろうが、庄次はこれを聞き、大人になるまで大事にとっておかなくてはいけない、と生真面目に思った。
今考えると、この変に真面目なところは父や兄と同じかも知れぬ。
とにかく、そんなわけで、対の盃は、陶器店の幼い孫娘のおつわと庄次それぞれが手に入れた。
おつわとは、その後も祖父と店を訪れるたびに顔を合わせ、そのうちにおつわが同じ手習いに入って来て、顔見知りから、友達というか、まあ、親戚、妹のような塩梅で、接するようになり、面倒を見た。
おつわの勉強の面倒を見たわけではない。
おつわはとにかく生真面目であり、やはり陶器店の娘であるからか、やたらと騒いだり、動き回ったりはせぬ。小さなおつわにはやや大きな机の前に背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度、脇は締めるか、軽く開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座し、勉学に勤しんでいる。だが、違うと思ったことは言わずにはおられぬ性格であった。だから、年上の子どもでも、いけないことはいけない、と臆せずに言う。臆せず、そこまではよい。相手が腹を立てる時のことを、全く考えていない。子ども同士なら頭に来れば手が出ることもある。おつわは臆せず注意するが、その先を考えておらぬ。だから、つい、庄次が間に入る。できれば関わりたくはないが、品と知性があり、優しいおつわの祖父母のことを思うと、同じ場に庄次がいるのに、知らぬ顔もできぬ。もし、おつわが相手の怒りをそのまま受ければ、おつわはもちろんだが、きっとおつわの祖父母もお父ちゃん、お母ちゃんも悲しむだろう。
そう思うと仕方なく、庄次が間に入る。
家にいる時、生真面目に父の言いつけを守る兄と、気に入らぬことは受け付けぬ弟は、ことあるごとにもめた。それを見るたびに、どちらもうまくやれないものか、と庄次は思った。おつわの時と違い、庄次は間には入らず、静観していた。どちらかに加勢しようとか、助けようと微塵も思わなかった。何もかもぶちまけなくとも、やっていけることの方が遙かに多い。それを承知で兄と弟は何かとやり合うのだから、放っておけばよい。
多少心に引っかかることがあったとて、黙っておればそれで平穏に物事は進むのだ。それを選ばず、自ら、毎回やり合うのだから、好きでやっているとまでは言わずとも、承知の上だろうと思う。
多くの場合、一番気を抜く、そのままの己を出す家ですら、そんなふうな庄次が、唯一世話を焼くのが、おつわであった。
時には、「もうそのへんにしておけ」と、小さなおつわを横脇に抱えることもあった。
じたばたとまだ何かを言う幼いおつわを、相手は笑うが、「本当のことを言われて腹を立てるなら、次からは気をつけろ」と庄次は静かに告げるのを忘れなかった。
兄と弟を見ているので、どちらの言い分もわかる。
だが、そのどちらにも庄次はならぬ。
否、なれぬのかも知れぬ、と最近思うことがある。
3
お店で手代になった頃より、たまに時間を見つけては、庄次は昔祖父と出かけた時のように陶器店めぐりをしていた。
そうして、おつわのいる店にも訪れた。
店は代替わりし、おつわの父が店主になった。
おつわは、庄次が年を追うのと同じで、知り合った頃は五つくらいであったが、それが手習いで六つ、七つ、と年を経て、気づけば着物の肩上げをおろし、髪を結い、あどけない町娘になって、今は十七になった。
おつわは一人娘で、家族皆に大事にされているのは、店を訪れた時のおつわの両親の話しぶりからうかがえた。時折稽古事から帰ったおつわと顔を合わせることもあった。
「ほら、おつわ。庄次さんだよ。昔からかわいがってもらって面倒みてもらった。こんなに男前になって、今じゃあ近寄りがたいかね」とかなんとか、おつわのお母ちゃんが軽口を叩くのはいつものことで、幼い頃は今日のお稽古では何をしたとかそんなことを庄次に話し続け、十二、三になると黙って頭だけ下げてさっさと奥に引っ込み、最近は「いらっしゃい」とは言うようになった、といったところだ。
「根はいい子なんですが、あの通りで。いい人が来てくれるといいんですが」とおつわの父は言う。
ここでうっかり庄次が「きれいになりましたね」なぞと言ったら、大事な娘に近寄るな、と警戒されそうで、庄次は「いくらでもいるでしょう」と返しておくことにしている。
ただまあ、これからどうしようか、ということはなんとなくではあるが、考えているところではあった。
4
兄が結婚したが、庄次は相変わらず店で働いている。
札差仲間との付き合いももちろん続いており、今日は茶の席に馳せ参じる。
弟ほどではないが、庄次も呉服屋が家までやって来てさまざまな反物を広げて見せてくれる環境で育ったから、どういうものがよいか、また、どういったものが好みかというのもおおよそわかっている。父や兄の手前、それほど奇抜なものは選ばぬが、子どもの頃よりは好みの反物を頼めるようになった。先方の呉服屋も長い付き合いだから、こちらがどういったものを好んでいるか掌握している。ここのところは若旦那がやって来ることが増え、正式に代替わりする際にはごあいさつに寄らせていただきますと丁寧に言っていた。
秋の始まりに、庄次はこげ茶の縞の単に、淡い茶色の羽織を合わせて出かけた。
いつもの仲間が集まり、近況を話しつつ、茶の席に参じる。
背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分ひらくくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間に指先が向かい合うようにして揃える。
掛け軸を拝見し、活けられた花を愛で、菓子と茶をいただく。
ここでこうすると、心の中にあるいろいろなものが、すうっと浄化される気がする。
師はそんな庄次の心中を知ってか知らずか、いつも穏やかな口調で話す。
そうして今日、「そういえば、こちらで使っている茶器のいくつかを同じ店で求めたのですが、近々そのお店を閉めるそうなんですよ。なんでも先代も他界されて、ご新造さんの郷へ戻ろうということになったとかで」とおっしゃる。
「それは残念だ。あのお店はうちもよくお世話になっているのですよ」と、ほかの札差の息子が言う。
「ああ、この話は先日伺った時、たまたま決まったばかりのことをお聞きしたのですよ。ええ、皆さん、まだご存知ないでしょう。店主が全てのお客様にお礼を言えそうもないとおっしゃるので、知っている方にお話してもよろしいかと伺いましたら、そうしていただけると助かります。ご無理のない範囲でとおっしゃってね」
「そうですか。郷がよいというのであれば、この門出を祝い、うまくいくことを願うばかりですねえ」と、ほかの札差の息子が言う。
「そういえば、あそこにはお嬢さんがいましたが、どうなさるのでしょう」と、先ほどの札差の息子が尋ねる。
「さあ、そこまでは伺いませんでしたが、おつわさんは家にいらしたから、ご両親と一緒に帰るのでしょうかねえ」
ふっと、庄次の思考が止まった。
誰にも悟られておらぬ、と思っていたが、周囲の皆が庄次を見ていたことに、気づかぬほどに、動転していた。
5
「ごめんください」と、裏戸から声がした。
ちょうど昼餉を取る時間だった。
庭に面した廊下から草履を履いて戸を開けてみれば、そこにはおつわがいた。
正面からこうして向き合うのはずいぶんと久方ぶりであった。
陶器店で会う時にもおつわは目を伏せ、すぐに奥へ引っ込んでいた。
意志の強い面差しが、初めて会った時と同じで、ああ、変わらないと庄次は思う。だが、初対面の自分であったらどうだったか。
きれいな娘さんだ、と思うかも知れぬ。
それ以上の思いが生まれるのかはわからぬ。
「おつわ」と、思わず子どもの頃と同じように呼んだ。
おつわは庄次を見上げている。
「今日は、店に用か? それなら表から……」
そう言いかけると、「違います」と、明瞭な声でおつわはそれを遮った。
「庄次さんに用があって参りました。少し、お話してもよろしいでしょうか」
「あ、はい、どうぞ」と、おつわに気押され、木戸を持ち上げ、おつわを中に促す。
庭に立った二人は向き合い、「こちらへ」と、庄次はどうしたものかと戸惑いながら、自身の部屋に案内した。
先日片づけをし、本も虫干しし終えたところだったので、部屋の空気は澄み、掃除もゆき届いていたことに安堵した。
座布団を出し、「どうぞ」と勧める。
「ありがとうございます」と言い、おつわはそこへ正座した。
正面に正座し、ふと見れば、おつわは絹の振袖であった。髪には振袖と同じ色の赤い珊瑚の玉簪を挿している。札差や大店の娘ならば、こうした装いは珍しくはないが、久方ぶりに会ったというのと同時に、何か感じていたのは、このおつわの装いだったと気づく。それを察してか、おつわは決まり悪そうに手元を見ている。おつわは背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝をつけ、脇を締めて正座をし、膝にある小さな包みを大事そうに持っていた。
「お忙しいところ、突然申し訳ありません」と、おつわは、一人前の娘のような口調で言う。
「いや」と短く庄次は答えた。
「今日はこれをお返しに上がりました。ずいぶんと長いことお返しせずに申し訳ありません」
そう言って、膝にある包をそっと庄次の前に差し出す。
「これは……」
包みを解き、小さな小箱を開け、「あ」と庄次は中の盃を見た。
つい先日、久しぶりに対面した盃の対のもうひとつであった。
「昔、祖父が店をしておりました頃、庄次さんがこの対の盃をお求めになられた折、私もこの盃が欲しく、無理を言って、ひとつを持たせていただきました。それから長らくそのままになっており、申し訳ありません。もうじきこちらの家を引き払い、母の郷に帰ることになりましたので、その前にお返しに参りました」
この時、庄次の中に様々な感情が湧いた。
それは、幼い頃よりいろいろなことを思っても口にせず、傍観していた自身の姿と、自分が正しいと疑わぬ兄、そしてそれに躊躇いなく自身の疑問を投げかける弟。いつもいつも、黙ってはいたけれど、決して何も思っていないわけではなかった。時には父の教えは正しくありがたいと思う兄と同じであり、時にはもうちょっと違う見方をしてみればよいものを、と弟と同じに思うこともあり、また、その両方の時に、そのどちらとも異なることを己の中で導き出していた。
だが、どうにも庄次は人と言い合うというのが苦手であった。
言い合うことが悪いのではない。
むしろ、その方がよいのかも知れぬ。
だが、向き、不向きとでも言うのだろうか。
もう少しうまくやれば、騒がず、互いに疲れずに済むものを、と思っていた。
そういう性分であった。
だが、今、このままおつわから「わかりました」と盃を受け取ってはいけない、ということだけはわかった。これから郷へ帰る、と決まった娘であることは承知している。けれど、それを覆してでも、おつわやその両親を困らせたとて、どうしても言わねばならぬことがある。
庄次は小さく息をついた。
そうして、おつわの目を見た。
「江戸に残って、一緒にならないか?」
おつわはじっと庄次を見た。
どれほどの時が経ったのかはわからぬ。
それほど長い時ではなかったかも知れぬ。
つと、おつわが立ち上がった。
なんだ?
帰るのか?
つまりは、駄目だということか。
まあ、仕方がない……。
おつわは一歩、二歩と庄次の前に来た。
「遅い!」
そう、一喝された。
庄次はおつわを見上げた。
どういうことだ?
わからなかった。
「あんまりにも遅いじゃあありませんか。昔から、ずっと、ずっと想っておりました。そのうちにお父ちゃんもお母ちゃんもしびれを切らして、庄次さんがお店に見えるたびに恥を忍んで探りを入れたのに、いつも涼しい顔で交わされて。もう、これは仕方がない、一緒に郷へ行こうということになったのです」
「え?」と、庄次は短く間の抜けた声を上げた。
「では、もう、郷に帰るのは変えられませんね」と、庄次はおつわを見上げ、小さく言った。いやはや、慣れぬことをすると、こういうことになる。ならば、言わねばよかった……。
「違う!」
またもや一喝された。
「え?」と、庄次はまたしても短く声を上げる。
「もっと早く言ってほしかったということです。庄次さんがそう言ってくださるなら、私は江戸に残ります。庄次さんと一緒にいます。もともと、そのつもりでございました」
首を傾げつつ、庄次は「私もゆくゆくは、とそのつもりだったが……」と返した。
「本当でございますか?」とおつわが訊く。
「ここで嘘を言うほどの余裕はありませんよ」と庄次が返す。
おつわが目の前で座り込んだ。
「よかった……、よかった……」
「私も、よかった……」
そう言って、庄次はおつわの手を取った。
昔、手習いの帰りによくつないだ、その時を思い出した。
そうして、ふと、何やら気配を感じて我に返ると、開け放した障子の端に、庄吉とその妻、店の手代やら丁稚、女中までもが見ているではないか。
「いや、何やら大きな声がしたので、心配してだな……」と庄吉が言い、それを合図のように、皆がさっと走り去る。
ずいぶんと騒がしい日だ、と庄次は思った。
6
おつわの実家の店はもう買い手がついていた。
そこで庄次は口入屋に婿入りした庄三を頼り、売り出している店舗をいくつか見繕ってもらい、その中でよさそうな場所に、おつわの実家の店を引き継ぐかたちで陶器店を開くことに決めた。
父が暖簾分けをしない次男、三男のために嫁入りの持参金ではないが、資金を出してくれることは知っていた。それを今回の店の準備に充てた。思ったことを口にせず、平静を装う庄次は、商いに於いて人と揉めることが全くといっていいほどなかったこと、祖父に養われた品を見定める力があること、そしておつわの実家から取引先、馴染み客を引き継ぎ、その付き合いの継続に努めたことなどから、店は思った以上に大きくなった。子を育て上げるまでに、店舗をいくつか増やし、雇った人間が独立する際には暖簾分けもした。そうして年とともに商いを縮小し、空いた店舗は人に貸し、四十を過ぎた頃からは最初に買った一店舗のみでの商いをするようになった。
長年おつわとともに一緒に過ごしたせいか、普段の商いに於いて干渉しないが、ここぞという時には、穏やかな口調でそっと助言をするようにもなった。少し前には、日常的な器を専門に扱う陶器店を開きたいという若夫婦に、品を卸すのを渋った庄次の取引先のお人を説得するため、ちょっとした茶の席を設けたりもした。私が訪ねるまで、何もしなかったあなたが随分と親切になったこと、とおつわは、二十年以上使い続ける対の盃に酒を注いでくれたのだった。
……そんな先のことはまだ知らぬ二十代の庄次は十七のおつわと祝言を挙げた。
その時、おつわの希望で、祝言に用いる盃は、あの時二人が同時に欲しがった盃を用いることにした。普段使いのものであったが、これだけは、とおつわは譲らないので、そうすることにした。
盃の底に見える金魚に、すぐ隣にいる妻となる人の幼い日の姿が思い出された。