[322]バリ島、眠りの精と正座少年
タイトル:バリ島、眠りの精と正座少年
掲載日:2024/11/26
著者:海道 遠
あらすじ:
高校二年生の眠人(みんと)は、すぐに眠ってしまい、日常生活にも正座の稽古にも身が入らない。
両親は仕事で留守がちで、家事を受け持っている小学六年生の妹のヒツジは、不満で爆発しそうになっていた。
そこへ、海外出張へ旅立つ父親から、世界正座推進委員会の正座の合宿に参加してもらうと告げられる。
戸惑うふたりの元へ、委員会から座の美(ざのび)という女性が迎えにやってくる。
本文
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第一章 空港で
また一機、旅客機が離陸していった。
眠人(みんと)の隣にいた妹のヒツジが、もう一度、父親の腕を抱きしめた。
「もう、そろそろ行かなければ」
父親も娘を抱きしめた。
「早く帰ってきてね、父さん。……私はいつも、大きなお兄ちゃんを背負ってるみたいで息苦しいのよ」
「一か月の辛抱だよ、ヒツジ。学会が終わったら、すぐに帰るからな。その前に母さんも帰ってくるだろう」
眠人はうなずいて妹の頭に手を置いたが、妹はその手をはらいのけた。
父親は改めて、ふたりの顔を交互に見ながら、
「いいか、眠人とヒツジ。ここで待っていたら、世界正座推進協会から迎えが来ることになっている。お前たちは連れて行ってもらって、特に、眠人は父さんが帰ってくるまで一か月間、みっちり正座の稽古をつけてもらうこと!」
「ええっ? 何それ? 俺はそんなこと初めて聞くぞ!」
眠人とヒツジは、大きく目を見開いた。
「常々から眠人には眠気を吹き飛ばすために、正座を薦めてきたが、全然上達しないままだ。所作とカタチはできても、すぐに眠ってしまう」
「そりゃそうだけど……」
「ヒツジ、知っての通り、お兄ちゃんはすぐに眠ってしまう。お前の方がしっかりしてるから、頼むぞ」
「頼むって、おうちと違うところでお稽古するの? 私までお兄ちゃんに付き合って? ぎりぎりになってそんなことを言われても……。だいたい、お父さんが睡眠の研究してるからって、変な名前つけるから、お兄ちゃんはすぐ眠るようになっちゃったのよ!」
ヒツジはヒステリックにわめいた。
「ああ、もう本当に行かなきゃ乗り遅れてしまう。じゃあな」
父親は軽く手を振り、搭乗ゲートに行ってしまった。
離陸していく機体を見送りながら、眠人の心に不安の雲が広がってきた。
(確か、正座推進なんとかって言ってたな。どうしよう、正座をまともにできたためしがないんだよな)
所作通りに正座ができたとたんに、睡魔が襲ってくる。こっくりこっくりして、前か後ろにクニャ~ッと倒れてしまう。それに、サッカーで鍛えている太ももの筋肉のせいで、よけい正座しにくい。
考え事をしているうちに、高い靴音が響いてきた。ヒツジが肘をつかんで合図した。
迎えに来たのは女性だった。
背が高く、はっきりした目鼻立ち、肩までの髪を切りそろえたアラサー女子だ。古風に言うなら「益荒乙女(ますらおとめ)」とでも呼ぼうか。グレージュ色の落ち着いたスーツ姿だ。
「あなたが白岩博士のお子さんの眠人くんとヒツジちゃんね。正座推進委員会の万座 座の美(まんざ ざのび)教官です。宜しくね」
女性は名刺代わりにスマホの身分証明を見せた。
「よ、宜しくお願いします」
女性は、速足で空港の駐車場に停めてあった車に案内し、ふたりを後部座席に乗せた。
眠人は車が発進するや否や、すぐに眠りに落ちてしまい、車が目的地に到着した時には、上半身が前のめりになっていた。どこへ行くのか、窓の景色を用心深く見つめていたのは、ヒツジだけだ。
「さあ、合宿所に着いたわよ」
座の美教官とやらが振り向いて言った。眠人はぐったりと爆睡中だ。
「お兄ちゃんたら……」
ヒツジがやれやれという風にため息をついた。
「シートベルト、きつめにしておいて良かったわ。筋金入りの正座拒否少年ね」
座の美教官が連れてきたところは、普通の日本邸宅で学校のような建物でもない。ふたりは座敷に通された。床の間、違い棚がある普通の日本の座敷だ。
「眠人くんは高校二年生、ヒツジちゃんは小学六年生ね」
眠人はまたもや、こっくりなりそうになっていたが、慌てて目を覚ました。
「ここは委員会の正座のお稽古のための合宿所です。しばらくおふたりとも、ここで暮らして、ここから通学していただきます。今はあなた方ふたりだけで自炊したり洗濯、掃除もしてもらいます。私も寮母さんもいますから、分からないことは尋ねてください」
ふたりは固くなってうなずいた。
「さて、眠人くんに伺うわ。お父様からお聞きした話によると、君は幼児期を過ぎてもずっと、一日の睡眠時間が十五時間以上なんですって?」
「はい……」
「十七歳になっても変わりないのね?」
「はあ……」
眠人は情けなさそうに認めた。
「さすがにそれは困るわね。正座より前に、毎日の生活に支障が出るわね」
「それで父が、正座を習って『喝!』を入れてもらいなさいと、以前から正座の稽古は薦められていました」
「なるほど。あなたもそう望んでいるのですね」
「こちらで稽古させてもらうことは、さっき、空港で父を見送る時に初めて聞いたんですが、自分でも戸惑っています」
眠人は眉間にシワを寄せた。
「もっと戸惑っているのは私です、教官」
ヒツジが口を開いた。
「お兄ちゃんの眠気のせいで、ずっと迷惑をこうむった生活をしてるの。お父さんとお母さんはお仕事でほとんど留守だし、料理当番も炊事当番、掃除当番を代わろうとしても、お兄ちゃんはずっと冬眠してるんだもん」
「お兄さんの眠気を誘うものを極力、遠ざける必要があるわね。満腹感、子守唄、温かい日差し、もふもふしたものとか、ぬいぐるみとかも」
「子守唄!」
ヒツジが、ぷっと吹き出した。
「あ、座の美教官。お兄ちゃんはサッカーしてるから、足の筋肉が発達していて。それも正座しにくくなるのではないでしょうか?」
「サッカー。そうね。そうして座ってると、太ももがはち切れそうですもんね。これ以上の筋トレは一時、中止してもらいましょう」
第二章 水の精霊
「それじゃ、とりあえず第一回めの正座の所作を見せてもらいましょうか」
座の美教官が言った。
「まず、正座の所作を私がやって見せます。背すじを伸ばして立つ。そして床に膝をつき、女の子はスカートの場合、お尻に手をあてながら、かかとの上に座ること。そうすればスカートが乱れず、見た目も美しく座れるでしょう?」
ヒツジが所作をやってみて瞳を輝かせた。
「本当だわ。今までスカートぐしゃぐしゃのまま、座っていたわ」
しかし、眠人の方は予想どおり、正座してから十秒で眠気のため、グラグラして失格をもらった。
「ふたりとも、ちょっと質問させてね」
座の美は改めて筆記用具を持ち、しっかり正座し直した。
「どうして眠人くんの睡眠時間は長いのかしら?」
「はい。それは僕も不思議なんですが、眠っている時、頻繁(ひんぱん)に同じ夢を見ます。美しい泉の中の四角い石が並んでいるところで、石の上に正座しているんです。周りにはカラフルな鯉がいっぱい泳いでいて、水面から顔を出した女性と見つめ合うんです。何故か、その女性に懐かしさを感じるんですが、顔はいつも、はっきりしないんです。何度も見ているうちに、その女性に会いたくて自分から眠りを求めてるんじゃないかと思ったり……」
「お兄ちゃんたら、夢の中で女の人と会ってたの? 私に迷惑ばっかりかけといて!」
ヒツジがむくれた。
「待って。夢の中の景色って……。泉の中に四角い石が並んでいて、カラフルな鯉がたくさん泳いでいる……。もしかして、ここじゃないかしら?」
座の美教官が手元のタブレットを見せた。そこには、まさしく夢で見る光景が広がっていた。
「ここだ! ここです! 僕の夢にいつも出て来る場所です!」
「ここは正座委員会の卒業試験の場所で、東南アジアの『水の宮殿』です。この四角い石のどれかの上に三十分間、正座してもらう試験の予定です。姿勢が崩れたら水に落ちます」
「そ、そんな! 僕は泳げないんですよ!」
真っ青になるほど驚いた瞬間に、バタンと倒れて、眠人は寝息を立てていた。
「まったく情けないんだから! すぐに寝ちゃうわ、泳げないわ!」
ヒツジが頭から湯気を立てた。
翌日、帰国した母親が合宿所を訪ねてきた。
座の美教官に挨拶をすませてから、眠人は夢の話を母親に打ち明けた。
「まあ、夢の話は初めて聞くわね。それに、この『水の宮殿』は、あなたを水中出産した場所なのよ」
兄妹ふたりは、自分とかけ離れた話に言葉を詰まらせた。
「すい……ちゅう……、水中……出産って、水の中で赤ちゃんを産むってこと?」
「そうよ。言ってなかったかな。その方が母子とも楽だと聞いて、眠人もヒツジも水中出産したのよ。清潔な水に、ろ過した『水の宮殿』の一角でね」
ふたりとも、赤面した。
『出産』でさえ遠い出来事なのに、『水中出産』とは!
「それは偶然にしても偶然すぎるお話ですね。卒業試験場所と眠人くんが生まれた場所が一緒だなんて」
座の美教官も驚かずにはいられない。
「私が出産する時、現地の村の村長から聞いた話なんだけど」
母親は話し始めた。
泉に棲む水の精霊が、気にいった赤ん坊に憑りつくらしい。
「だから夢の中で会おうとして、眠りへ引きずりこむのじゃないかしら? それを聞いた時は信じなかったけど、十数年後の今、現実となったわ」
いったいどうすれば、水の精霊を引き離すことができるのか?
「眠人が力強い正座をして、水の精霊の気持ちを跳ねのけるしかないようよ」
母親は言う。
しかし、村長の話によると、水の精霊にはそうしなければどうしようもない悲しい過去があるのだ。水の精霊も泉で子どもを産んだが、子どもは産まれた時から息絶えていた。
我が子を恋しく思うほど、面影のある眠人を眠りの世界に引きずりこんでしまうのだと。
座の美は、泉の画面を見て考えこんでいた。
今の眠人の頼りない正座では、精霊の気持ちを突っぱねることができないだろう。
「水の精霊にも正座を教えることができないかしらね――」
「まあ、教官! この話はあくまで村長の言う伝説めいた話なんですよ。本当かどうか分からないですし、もし本当でも、どうやって水の精霊を正座させるんです? 水の精霊は『泡』だそうですよ」
「『泡』ですか。どうすれば『泡』に正座してもらえるか――」
「水の精霊に正座をさせて、どうなるんですか?」
「正座で説得することができるかもしれません。人間を惑わせようとしても無駄であると――。精霊に正座させ、背すじを真っ直ぐにしてでも、『泉の女神』に申し開きができるか尋問するのです。自分のやっていることは、産んだ子にそっくりな人間の子を苦しませていないと言えるかどうか?」
「『泉の女神』?」
「水の精霊たちを統べる女神のことです」
眠人が、ボソリとつぶやく。
「つまり親分に裁いてもらうわけだな」
教官は、冷静な面持ちで東南アジアの水の宮殿に駐在している委員会のメンバーに連絡した。
その日の午後には、駐在員が村長を訪ねたらしく、直接、話を聞くことができた。
「『水の泡に【核】になる身体を与えると、カタチを作れるかもしれないという』ことです」
「じゃあ、私が【核】になるわ!」
ヒツジが叫んだので、母親も眠人もぎょっとなった。
「しばらくの間、ガマンして【泡】に囲まれて正座してればいいんでしょう? 私、もうお兄ちゃんのお守はごめんなの。すぐ眠ってしまうお兄ちゃんなんて、手がかかるばっかりで、友達にも恥ずかしくって!」
「ヒツジ、そんな言い方って……。眠人だって眠りグセに困ってるのよ」
「いいんだよ、母さん、ヒツジには長い間、迷惑かけてるもん」
しゅんとなった眠人には、もう睡魔が忍び寄っているようだ。
第三章 南国の水の宮殿
座の美教官は、急遽、「水の宮殿」へ行くと言い出した。
「私も連れて行ってください!」
ヒツジが言った。母親がすぐに、
「ヒツジ、あなた海外旅行へ行ったことないでしょう?」
「大丈夫よ、お母さん。私のことまで苦しめた悪の精霊の正体を突き止めなくちゃ気がすまない!」
眠人より、やる気満々だ。
「もうすぐ夏休みだから、いいでしょ、お母さん。お兄ちゃんも一緒に」
「眠人まで?」
「お兄ちゃんも私も、正座の卒業試験受ける場所なんだから、下見しておいた方がいいわ」
母親は、ヒツジの熱意にしぶしぶ「水の宮殿」行きを認めた。
東南アジアへ向かう飛行機で、ヒツジは教官の隣の席に座った。
「ヒツジちゃん、小学生なのにしっかりしてるわね。感心してるのよ」
「これも自分の身を守るためですもん。お兄ちゃんが、こんな眠り人間のままじゃ困ります」
ギンギンに目を開いて、リキんでいる。
その健気な様子に、滅多に笑わない座の美教官がクスッとした。
「なあに? 何か変ですか?」
「いえ、実は私にも兄がいてね、眠人くんくらいの年齢までは、何をやってもダメな弱気少年だったのよ」
「え?」
ヒツジは座の美教官の顔を見た。
「でも、今では正座推進委員会の教官長やってるのよ。私の上司なの」
「ええええ」
「だから、ヒツジちゃんもそんなに気負いこんで頑張らなくても大丈夫よ。きっかけがあれば、眠人くんだってちゃんとできるようになるわ」
「お兄様が逞しくなったのは、もしかして教官のスパルタしごきのせいですか?」
座の美教官はまた、笑った。
「まだ、兄が十歳くらいの時に、正座の稽古を嫌がって所作を侮辱する言葉をわめき散らして、父親にひどく叱られたことがあったの」
「ありゃ~~」
「兄は泣いて泣いて、泣き疲れて土下座したまま眠ってしまったの。癇癪(かんしゃく)起こした小さな子が時々、やるでしょう? あれよ。私は見ていて可哀想になって、兄を許してもらうよう同じように土下座したの。それから兄は素直になって、正座の所作も上達していったように思うわ」
「教官のご家族にとって、正座はそれほど大切なことなんですね」
「それも、もちろん大きなことだけど、私は同じやるなら、兄にやり甲斐を持って取り組んでいってほしいと思っているの。正座の所作がうまくできれば自信と誇りが湧いてくるはず。ヒツジちゃんもお兄ちゃんに眠気から脱出して自信を持ってほしいでしょう?」
「う~~ん……、私は今のお兄ちゃんが、あまり好きではないだけよ……」
ヒツジは決まりが悪そうに、窓の外に顔を向けた。
バリ島の空港に着き、何時間もジャングルの中を車に揺られてやっと目的地の「水の宮殿」に到着した。
東京を発つ時には、不機嫌と緊張で固まっていたヒツジだが、飛行機の中で座の美教官におしゃべりしてもらい、ご機嫌になっていた。
その上、待ち受けていたのが空の青と水の青の中に、色とりどりの鯉が泳ぎ回っている光景に、自然と笑顔がはち切れそうになった。
「わ~~~! 綺麗なところ! 遊園地のアトラクションみたいに綺麗! 夢の中みたい!」
大きな泉には、神像が並んで立ち、水面には飛び石がたくさん置かれていて、観光客がぴょんぴょん飛び跳ねている。
「わ~~! 楽しそう! ヒツジもぴょんぴょんしよう!」
「おい、ここの泉、深そうだぞ。どのくらい深いんだろう?」
後から来た眠人が不安そうだ。
「ガイドさんによると、三、四メートルだそうよ」
座の美の答えを聞いて、眠人は真っ青になる。
「ふ、深いじゃないか! 落ちたらどうすんだよ!」
「卒業試験はまだだから安心して、眠人くん。まず、ガイドさんに案内してもらって、村長さんのところへ伺いましょう」
先日、話に出たふたりの母親の水中出産の時を知る、近隣の村の村長のお宅へ向かった。南国の木立に囲まれたこざっぱりした木造の家だ。
入口の脇に哀しい顔をした女人の石像があった。
(どこかで見たような?)
石像の女人の足元には、大蛇が巻きついていて大きな口を開けて威嚇(いかく)している。女人に威嚇しているのか、村長宅を訪れた者に威嚇しているのか分からないが。
眠人が何故か気になって見つめていると、浅黒い顔に白いあごひげを生やした村長が庭に出てきて笑顔で迎えた。
座の美教官が握手を交わす。
「卒業試験の度にお世話になっています。今回はまた、急に伺いましてよろしくお願いします」
民族柄のタペストリーが所せましと壁に飾ってある居間で、村長の奥さんがお茶を淹れてくれた。
「水中出産された女性のことじゃな。よく覚えておるとも。あんたがあの時の赤ん坊かね? 大きくなったな」
村長は眩しそうに眠人を見た。
「お、お世話になりまして……。覚えてませんが」
「私もここで生まれたそうです!」
ヒツジは自分から手を出して村長と握手した。
「おお、お嬢ちゃんの時もよく覚えておるよ。この泉で水中出産しよう、なんて人は珍しいからのう」
「この子たちのお母さまは考古学者なので、ぜひ、この遺跡の泉で、と望まれたそうです」
「で、今回、急いで来られた理由は?」
「実は、眠人くんがしょっちゅう眠ってしまうので、正座の稽古を申し込まれたのですが、困っているのです」
「しょっちゅう眠ってしまう……」
村長は眠人の顔に近づいて、まじまじと見つめてから、窓の外を眺め、あごひげをしきりに触って考えていた。
「水の精霊の悲しい言い伝えを、お母さまからお聞きしたのですが」
座の美教官が言うと、
「ふむふむ、水の精霊の悲しい言い伝えがある。水の精霊が子を産んだが、息が途絶えておった伝説――。多分、眠人くんは水の精霊に魅入られておられるのじゃろう」
「やはり――」
「水の精霊に魅入られているなんて……。お兄ちゃん、大丈夫かしら」
ヒツジは窓から泉の方向を向いて眺めた。
「ヒツジちゃん、お兄さんと一緒に正座のお稽古をしましょう。夏休みに入ったことだし、いっそ卒業試験までここに滞在する?」
「いいの? 座の美教官!」
「正座推進委員会としても卒業試験までにしなきゃいけないことが増えましたからね。バンガローを予約してあるわ。そこで毎日、正座の特訓よ。眠人くんは必要以上に眠らない特訓もね」
「う、うん、頑張る。正座の姿勢が崩れたら水に落ちるんだもんな」
眠人は顔を強張らせたが、ヒツジは元気を取り戻して張り切っている。
「ヒツジ、お前、余裕だな。水の泡に身体を貸して正座の卒業試験受けるんだぞ。大丈夫か?」
「大丈夫、カクゴはできてるわよ!」
第四章 教官長マドロム
三日後、正座推進委員会の教官長、マドロム氏が数人の部下を連れて「水の宮殿」に到着した。
気温は高いが、バリッと白いワイシャツを着て淡いブルーのネクタイを締めている。
「マドロム氏って? 座の美教官のお兄さまじゃなかったの? 日本人の名前じゃないけど……」
ヒツジが座の美教官の袖を引っぱって尋ねる。
「マドロムっていうのはニックネームみたいなもんよ。本名はちょっと恥ずかしいからって伏せてあるの」
「本名、なんていうの、教えて!」
座の美教官は、背をかがめてヒツジの耳元でナイショ声で告げた。
「ええっ、座之吉? それは、ちょっと恥ずかしいかも……」
実際、「座之吉」なんて名前は全然似合わないダンディな男性だ。三十代半ばだろうか?
(なんだか、いつも読んでる少女漫画に出てくるような素敵な大人の人だわ)
ヒツジはすっかりしゃちほこばってしまった。
「初めまして。君がヒツジちゃんだね。妹から聞いているよ。元気な女の子だって」
握手を求めたマドロム氏からは、甘い香りがして、ヒツジはすっかりおとなしい女の子になってしまった。握手に応じるのがやっとだ。
次にマドロム氏は、眠人とも握手した。
「きっと無事に卒業できることと期待しているよ」
「は、はい、頑張ります」
ここ数日の稽古では、すぐにこっくり眠くなるのもガマンして、正座の所作ができている。後は、卒業試験の日に「水の宮殿」の飛び石の上でちゃんと正座ができるかどうかだ。
「お兄ちゃんはいいわよね」
ヒツジは唇を尖らせた。
「普通に正座すればいいだけですもん。私は水の精霊に身体を貸して、泡に取り囲まれるのよ。いったいどうなるんだか」
そこへ車が到着して、ふたりの母親が降りてきた。
「お母さん!」
ふたりとも駆け寄る。
「元気そうね、ふたりとも。暑いけど食事はちゃんとできてる?」
「うん。ここのご飯、珍しいものがいっぱいで美味しいわよ」
「眠人は? よく食べて、眠れてる?」
「眠るのは心配ご無用なんだけど……」
眠人は苦笑いする。
「卒業試験が迫ってきて、食事はあまり喉を通らないな」
「お兄ちゃんてば、ホント、情けないんだから!」
「ヒツジ、そういう言い方しないの!」
世界各国の正座推進員会支部からも、生徒が到着し始めていた。
アメリカや東南アジア各国、中国や南米からなど。少年少女から、青年や中年、老人の方まで姿が見える。
卒業試験の前日、受験生の滞在するホテルで食事会が行われた。
食事会の後、眠人とヒツジがすっかり日の暮れたホテルの裏庭の一面の芝生で新鮮な空気を吸っていると、近づいてきたのは教官長のマドロム氏ではないか。
「どうした? ヒツジ」
眠人が気づくほど、ヒツジはそわそわしている。
「な、何でもないわ」
ラフなポロシャツ姿に着替えたマドロム氏が、間近にやってきた。
「眠人くん、ちょうどよかった。試験までに君の正座を見たかったんだ」
「え、僕の正座を?」
「すぐに眠ってしまうのが君の悩みだと聞いている。それはなんとしても我慢してもらって、肝心の正座の所作を見たいのだ」
「は、はい」
マドロム氏は、芝生の上に自身が正座して見物の体勢になった。
「では準備はいいかな? どうぞ」
眠人も立ち位置を変え、夜空を見上げて深呼吸した。
「背すじを真っ直ぐにして立ちます。地面に膝を着き、かかとの上に静かに座り、両手は膝の上に力を抜いて置きます。――以上です」
「ふむ」
マドロム氏はうなずいた。
「よくできました。品のある所作です」
「本当ですか」
眠人は顔を輝かせた。
「眠気に誘われて背すじが歪んだり、飛び石から落ちたりしなければ合格間違いなしだろう。明日はがんばりたまえ。水と豊穣の女神サラスヴァティーが応援してくれるだろう。ほら、妹さんも、あんなに心配しているよ」
ヒツジが離れたところから、胸の上で両手を揉みしぼるようにして見守っていた。
(あいつは、厄介な俺をどうにか合格させたいだけさ)
ヒツジはマドロム氏がホテルに戻る背中を見送って、ドギマギから一段落ついたが、別の緊張と戦っていた。
(水の女神って、サラスヴァティーっていうんだ。水の精霊たちの親分ね。明日は私が精霊を正座させてやるわよッ)
さて、どうやって水の泡たちはヒツジの身体をとりまくのだろうか、ヒツジにも予測がつかない。
第五章 卒業試験
いよいよ卒業試験の日を迎えた。
世界各国の生徒たちが、順番に泉の飛び石の上で正座の所作を始める。
泉の周囲には、マドロム氏と座の美教官はじめ、委員会関係者と村長が芝生の上に正座して居並び、様子を見守っている。
眠人たちの母親も末席で見守った。
生徒たちは次々に判定を下され、泉を去っていく。
眠人とヒツジの順番は、一番最後になっていた。そして、ついにヒツジが名前を呼ばれた。
「はい! 日本、東京支部、白岩ヒツジです!」
ヒツジは右手を元気よく上げて返事をすると、自分の飛び石の上にぴょんと飛び乗った。
あれほど晴れ渡っていた空が薄暗くなり始めた。見物している観光客から不安なざわめきがもれる。
泉のほとりから、座の美教官が所作の号令をかける。
「背すじを真っ直ぐにして立ちます。そして石の上に膝を着きます。静かに……」
次にお尻に手を当てながら、スカートの裾が乱れないよう、気をつけてかかとの上に座り、
「きゃあっ」
ヒツジは弓なりにのけぞり、後ろへ引っぱられるように泉に吸いこまれた。
派手な水音と共に、飛沫が飛び散る。
「ヒツジ!」
試験場にどよめきが満ち、眠人や教官たちは膝で立ち上がった。
ヒツジが落ちた水面に大きな水紋ができる。中心に細かい泡が湧き出し、どんどん増えていく。
いち早く、教官の指図を受けて泉に飛びこんだスタッフは、しばらくして次々に水面から顔を出した。
「だ、ダメです、救いあげられません!」
「ヒツジ!」
思わず乗り出した眠人だったが、いきなり視界が真っ暗になった。
(眠っちまったんだ――! こんな時に!)
眠りの中で、眠人は感じた。
気がつくと、いつもと同じ夢の中にいた。
色とりどりの鯉が泳ぐ泉から、髪の長い女が顔を出す。今まで顔が分からなかったが、はっきり見える。村外れにあった哀しそうな石像の女の顔だ。
脇にはしっかりヒツジを抱きかかえている。
「ヒツジ! 目を開けろ!」
しかし、ヒツジは女の肩に顔をもたせかけて、ぐっすり眠っている。
「女! ヒツジを放して俺の夢の中から出ていってくれ! 俺はお前の子じゃない! 似ているかもしれないが、俺は母さんと父さんの子だ!」
(……)
女の哀しそうな顔がよけいに歪み、水の中に涙があふれ出た。
「お前たちの崇拝する水の女神サラスヴァティーが見えるぞ」
実際、夢の中の眠人には女神の姿が見えていた。
「女神は機嫌を損じて顔を曇らせている。お前の赤ん坊の霊も、よその子を苦しめないでくれと言っている」
眠人は、飛び石の上で丁寧に正座した。
「お願いだ! どうかヒツジを放してやってください。俺たちにとって、あんたの赤ん坊と同じ大切な子なんだ!」
懸命に叫びながら両手をつき、頭を下げた。
同時に、ヒツジの全身に水の泡が取り巻きはじめ――、ヒツジは目を閉じたまま、水の中で正座の所作を始めた。
鯉たちが、ヒツジを守るように取り巻く。
ヒツジは水中に浮いたまま、膝を折り、かかとの上に座り、頭を下げた。
(水の精霊さん、お願い。お兄ちゃんを眠らせるのはやめて。私の大切なお兄ちゃんを苦しめないでください)
浮き上がる泡と共に、ヒツジの声が幾重にも水の中に響いた。
第六章 やるときゃやるのよ
ふと眠人が我に返ると、びしょ濡れになっていて、かたわらの芝生にはヒツジが目を閉じたまま横になっていた。
眠人がヒツジの身体を揺さぶろうとした時、ひとりの老人が駆け寄ってきた。村長だった。
「君! 眠人くん! よく妹さんを救けて(たすけて)やった!」
「救けた? 俺が、ヒツジを?」
「妹さんが泉に落ちると同時に、泉に飛びこんだじゃないか!」
「ええ?」
(まったく自覚がない。ヒツジがのけぞって泉に落ちたまでは見たが――)
(だが、夢の中の光景はよく覚えている。髪の長い女が、ヒツジを抱きかかえていて……、ヒツジが水の中で泡をまといながら正座した!)
母親と長官が顔色を変えて駆けつけてきた。
「ヒツジ! 眠人! 大丈夫?」
ヒツジはうっすらと目を開け、意識が戻り始めたようだ。眠人を見てにっこり笑った。
「良かった、お兄ちゃん、溺れなかったんだね。泉の中へ来てくれたのに」
「本当にびっくりしたわよ。泳げないあなたが、いきなり飛びこんだんだもの」
母親もようやく胸を撫で下ろして言った。
「俺、飛びこんでからの夢しか覚えてないんだけど……。いつも夢に出てくる女が、村長さんの家の玄関にある石像そっくりなんだよ」
村長も駆けつけてきて聞いていた。
「やはり……。実はあれから、サドゥーを呼んで探らせていたのじゃが」
「サドゥー?」
「日本で言う修行僧のような者だよ。決まったところに住まわず、各地の寺院や街角、村はずれや森の中などに庵(いおり)を結んだり、野宿したりしながら様々な修行を行って、住民の頼まれごとを聞いたりするんだ。精霊や妖魔についても詳しいはずだ」
いつの間にか側に来ていたマドロム氏が、眠人の肩にタオルをかけながら説明した。村長は続けて、
「赤ん坊を失った水の精霊が咬龍(みづち)に操られて、悪さをしておったようじゃ」
「咬龍? 何ですか、それは」
「水の神でもあるのだが、年ふりた蛇で良からぬ魂を持っている。水の精霊に憑りついて、君の眠りを乱していたらしい」
「……」
すぐには信じられず、呆然とするばかりの眠人だった。
「彼がサドゥーだよ」
村長が指し示す方向には、芝生の片隅に赤銅色の肌をして、白い布を巻きつけた修行僧の姿があった。
「もう大丈夫、水の女神サラスヴァティーの憂いも晴れたと言っている」
母親はしょんぼりしていた。
「私が興味本位で水中出産などしたからかもしれないわね……」
「お母さん、私もお兄ちゃんも無事だったんだから、もう気にしないで! お父さんにも知らせてあげて!」
タオルで髪を拭いながら、ヒツジが元気よく言う。
「そうですよ、お母さん。これからが眠人くんの卒業試験なんですから、皆さん、気を取り直して見守ってあげてください!」
眠人は今度こそ我に返った。
「これからが俺の卒業試験! そうだった!」
急に緊張が押し寄せてきた。
眠人は何度か深呼吸して、飛び石に移った。
教官のかける号令通り背すじを真っ直ぐに立ち、石の上に膝を着き、かかとの上に座った。両手は静かに膝の上に乗せる。
力強い拍手が青空の戻った泉の下に響きわたった。真っ先に拍手したのはマドロム氏だった。
「見事な正座だよ、眠人くん! 無事に卒業だ!」
氏の宣言に釣られたように、見物客からも拍手が湧いた。
泉のカラフルな鯉たちもピチピチ跳ね、眠人を祝福しているかのようだ。
「お兄ちゃん、正座、キマってたわよ! 私を救ってくれてありがとう! やっぱり私のお兄ちゃんだけあるわ! やるときゃ、やるのよね!」
ヒツジが大声で叫んだ。
座の美教官が、ヒツジに向かってウィンクした。