[323]お江戸正座15


タイトル:お江戸正座15
掲載日:2024/11/29

著者:虹海 美野

あらすじ:
良太は札差の長男である。
子どもの頃から強くものが言えず、悔しい思いもしてきた。そんな己を不甲斐なく思っている。
ある日、妹のりつの夫である庄吉と偶然会い、料亭へ入った。
話があるという庄吉を前に良太は緊張の面持ちで正座する。
また、時を同じくし、子どもの頃、手習いで苦い思い出のある大治郎が訪ねて来た。
一体今になり、何用だろうと驚きながらも良太は大治郎を奥の間に通し、そこで正座で向き合い、話を聞くと……。

本文

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 良太は札差の長男である。先日、妹のおりつが札差の元へ嫁入りした。相手は文武両道でしかも真面目、おりつを大切にしてくれるのが一目瞭然の、大層優れた人だった。おりつはほかの札差の娘さんと違い、お琴もお茶も、あまり上達しなかった。人には向き不向きがあるというのは、なんとなく知っていたが、それが顕著であった。この妹によい縁談があるのかと、余計なお世話というか、一応は家を継ぐ身であり、長男としても心配していたが、思わぬ良縁に恵まれた。
 よかった、よかった、と、妹が嫁いだ後、妙に静かで広くなったように感じる家を歩いていて、思う昨今である。
 父はしんみりと庭を眺め、いつも竹刀を振っていたおりつがいなくなったことを寂しがっている様子である。
 そうして庭を眺める良太は、ずっと昔、そう、十二の時、まだ幼いおりつに一本取られたことを思い出した。
 良太は真面目に剣術の道場に通い、師にも目をかけていただいていたが、道場の中でもどうしても一番にはなれなかった。筋はいいと師も言ってくださったが、自分には足りないものがあると、何となく思っていた。
 それを正面から、まだ幼い妹が竹刀で向かい、背の高い良太に堂々と一本を取った時、突きつけられた気がした。
 あまりの衝撃に、思わず良太は天を仰ぎ、泣いてしまった。
 そうして妹は、何か自身がとんでもないことをしてしまったのではないかと思ったようで、同じように声を上げて泣き出した。
 それを見ていた弟の良次は、良太の次に妹と手合わせをすると言っていたが、大層恐ろしいことが起こると思ったらしく、座敷の中へ走って行った。
 苦い思い出とともに、良太は廊下に正座した。
 背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇はつけるか軽く開く程度、着物をきれいに尻の下に敷き、親指同士が離れぬようにする。手は太もものつけ根と膝の間に指先同士が向かい合うように揃える。
 目を閉じ、すうっと静かに呼吸する。
 子が両親に似るのは知っているが、良太は恐らく母に似た。
 少々いかつい容貌の、しっかりとした体躯の父は性格も芯強く、はっきりとした物言いをする。その父が心引かれたのが、大事に大事に育てられたやはり札差の娘である母だった。母はお琴も踊りも歌も上手で、ほっそりとし、まるでお姫様のようだったと祖父母から聞く。母の家は、父のようにしっかりとした人の元でなら安心と母を託したそうだ。
 つまり、父と母は一緒になるのには大層相性は良いのだろうが、全く別の性質であったということだ。そうして、世間的というか、本人的にというか、その両方かはわからぬが、良太と弟の良次が父に似て、妹のおりつが母に似れば、やりやすかったろうが、そうはいかなかった。息子二人は母に似ており、妹のおりつは見かけはそれほど父に似ておらぬが、性格も剣の腕前も父そのものであった。 
 そうして、良太と良次、特に良太は母の気質を受け継いだ。
 手習いの頃から、子ども同士でもさまざまな上下が現れる。それは単に年齢であるとか、背丈というのではなく、持って生まれた気質だとか、勉学へどれほど向いているとか、書の筋がいいとか、そういうものだ。
 良太は算術も書も大層褒められた。
 手習いの先生の家にある書物もずいぶん読ませていただいたし、それでも読み足りぬものは、父や母が喜んで買い与えてくれた。
 作法や茶も幼い頃から学んでいた。
 手習いでも、背筋を伸ばし、膝をつけるか、握りこぶし一つ分開く程度、脇は締めるか、軽く開くくらい、着物は尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、机に向かった。大層行儀がよいと、褒められた。
 その一方で、子ども同士のちょっとした諍いなどは、てんで駄目であった。
 書に集中していると、ふざけ合っていた子どもがぶつかり、書が台無しになる。ここで立ち上がって文句が言える子どもではなかった。あ、と思って、台無しになった書を見つめ、しょんぼりする。それが良太であった。自分に非がなくとも、相手に言うべきことが言えぬ。
 そんな思いをどれほどしてきたか。
 もう、数え切れぬ。
 時には、そうした周囲のことで着物を汚し、筆を駄目にし、ということがあって、けれどその経緯を言わなかった。墨の汚れくらいなら、暫くはその着物でいることもあったし、ちょうど季節の変わり目なんかだと、新しいものを誂えてもらったし、筆も同様に特にその理由を訊かれるでもなく、新しいものを買ってもらっていた。
 ただ、心の中で、良太はお父ちゃんやお母ちゃんに詫びた。
 家は裕福な方で、食べるのに困るといったことはなかったが、それでも番頭さんが毎日算盤をはじいて、きっちりと帳簿をつけていて、決して無駄遣いはしてはならぬと子どもながらに知っていた。


 良太はあまり酒を飲まない。
 飲める、飲めない以前に、あまり酒を好まなかった。
 酒よりも、団子や饅頭に茶の方が好きである。
 だから、札差仲間との集まりの席でも早々に引き上げる。最初のうちこそお開きまでいたが、大抵、酒で気分がよくなった仲間の繰り返す話に相槌を打ち、時には酔った仲間を背負って家まで届けることになる。それもまた付き合いと思っていたが、そこまで酒を好まぬ大旦那が早々に引き上げる際、良太にも声をかけてくれるようになり、それからは早めに引き上げるようになった。こうした点においても、自分では言えず、また判断ができず、周囲に頼るのは、情けない限りだった。
 今日も寄合が済み、皆が飲んで行こうという中、良太は早々に暇を告げた。
 なんだよ、付き合いが悪いな、と軽口を叩きながらも、札差仲間はさすがに良太の着物を汚したり、持ち物を損じることはない。その点は大人になって楽になったと感じる。
 まだ日の完全に落ちていない町を歩いていると、琴の音が聞こえた。
 大層あでやかな音であった。
 ずっと聴いていたかったが、塀で囲まれた立派な家の横でこうして立ち続けるのも気が引け、ゆっくりと歩を進め、余韻に浸りながら、ぐるり、と遠回りをして帰ることにした。
 途中、「良太さんではありませんか」と声をかけられた。
 どっしりと構えた人影にびくり、としたが、よくよく見れば、先日妹のりつが嫁いだ札差の若旦那、りつの夫で、義理の弟にあたる庄吉であった。
「これは、これは」
「お久しぶりです。不義理をいたしておりました」と丁寧に庄吉は頭を下げる。
 立派な体躯に、自信に満ちたこの義理の弟に頭を下げられると、こちらが困る。
「どうか、そのようなことは……」と良太は慌てる。
 お商売では、毅然とし、堂々とした対応も大事だとお父ちゃんや番頭に教わってきたが、どうにも良太にはそれが苦手である。
「私は母の遣いで弟のところに届け物をした帰りですが、兄上はどうなされたのですか。もしかして、おりつに会いにうちへ来る途中でしたか?」と庄吉に訊かれ、「いえ、寄合の帰りですが、偶然聞いた琴の音が美しく、遠回りをしてゆっくりと帰ろうと思っていたところです」と良太は先ほど琴の音の聞こえた家の方を見遣った。
「ほう」と、庄吉も同じ方を見る。
 風に乗り、聞こえてくるかすかな琴の音がまた美しいと良太は知らず知らず目を細める。
「その、兄上は、芸事に通じるお方ですか」
 真面目な面差しで訊かれ、しかも『兄上』と呼ばれ、ますます驚きながら、良太は、「通じてはおりませんが、昔から好きではあります。人により、同じ琴でも趣が異なりますし、さまざまな曲がございますから」と答える。
「ううむ」と、庄吉は妙に気難しい顔をした。
「あの、何か……」と、良太は庄吉を見る。
 気に障ることでも言っただろうか……。
「兄上、少し、お時間はありますか」と庄吉が訊く。
「ええ、まあ」と良太は頷いた。


 庄吉と連れ立って入ったのは、料亭であった。
 そこそこに格式ある店である。
 寄合やらなんやらで、こうした店には慣れているが、それでも義理の弟の庄吉と二人となると何やらいつも以上に落ち着かぬ。
 一体何の話か。
 もしや、妹のおりつとうまくいっておらぬのか……。
 そうだとしたら、これからの話し合いは重大である。
 うっかりしたことを言って、増々おりつと庄吉がうまくゆかなくなれば、それは自分の責任ではあるまいか……。
 ぐるぐると考える良太の前で庄吉は案内される廊下を進み、そこで軽い菜のものをいくつか頼む。
「兄上はお酒は召し上がられますか」と訊かれ、「私は、酒はいけない口で。庄吉さんはどうぞ遠慮なくやってください」と言えば、「では、果実酒を頼みましょうか。甘さもあり、それほど強くないものがこの店には置いてあるんですよ。食前に出してもらったここの果実酒が大層口当たりがよく、気に入りましてね」と教えてくれる。
「はあ、では、それを」と言いながら、酒は酒で、飲めるかどうか、と思いながら頷く。もともと、酒はやらないからと、寄合も終わればさっさと帰る良太は、酒にあまり詳しくない。
 店の方では、果実酒にも合う料理をいくつか出してくれると言う。
 なんだか大掛かりなことになったな、と思いながら、ふと庄吉を見れば、大層きちんとした居住まいである。
 良太も背筋を伸ばす。
 膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、着物を尻の下に敷き、親指同士が離れぬようにする。
 すぐに持って来てもらった果実酒は、思いのほか、口当たりがよかった。
 果実酒は何度か飲んだことはあるが、ここの果実酒は庄吉の言うように、口当たりがよい。
 すすっと進むと、庄吉が料理も勧めてくれる。
「このように私でも飲みやすいものもあるのですね」と良太は言った。
「ええ、この店は洒落者の弟が少し前に教えてくれました。所帯持ちになったのに、あまり堅物すぎては飽きられる、とかなんとか言われまして」
「ええ? 庄吉さんが?」
 驚く良太に庄吉は、ふっと小さく息をつき、「お恥ずかしい話ですが、三人兄弟の中で、私だけが洒落事といいますか、芸事だとか、いえ、お商売以外は全くでして……」と言う。
「……何を言っているんですか。同じ札差の跡継ぎの私から見ても、庄吉さんは大層立派な方です。非の打ちどころがない。こんなに立派な方がうちのりつと添うてくださるとは、本当に感謝してもしきれませんよ」
「……そんなことを言ってくださるとは。遠慮なさらず庄吉とでも呼んでください。だけれど、兄上のような兄弟と一緒に育てたら、幾分か私の自身に対する思いも違ったことでしょう」
 しみじみと言う庄吉を良太は見つめた。
「あ、その、私のことも良太で構いません。どうにも落ち着きませんから」
 他の部屋からお三味線と歌が聞こえる。
 つい聞き入り、「風情があるが、くどくない。いい音色と歌ですね」と良太が呟くように言った。
「私も兄、いえ、良太さんのようになりたかった……」
 庄吉は小さく言う。
 庄吉が言い間違えたのか、それとも聞き間違えたのか……。
「あの、それはどういった……」
 庄吉は菜のものを良太に勧め、自身も箸を取る。
「私は父の通わせてくれた剣術を今も続け、お商売一筋でやっております」
「十分じゃあないですか」と、良太も箸を取り、応じる。
「全く足りません。足りんのですよ」と庄吉が言う。
「何がですか? さっぱりわかりませんが」
「先ほどから言っているように、私は洒落事に全く才がなく、反物の良さすらわからない。音曲もしかり。札差仲間の洒落事の付き合いは全て弟二人に割り振って凌いできました。世間的には立派な跡継ぎだ、などと言われておりますし、お父ちゃん、お母ちゃんもそういうふうに言ってはくれます。弟たちも。だけど、子どもの頃から弟は明らかに私を馬鹿にしていた。つまらん人間だと思っておるのでしょうね。今聞いているお三味線も歌も、ちいとも、私には良さがわかりません。仮にうんと初心の人が演奏して、歌っていても、私はわからぬでしょう。ええ、ええ」
 上品な味付けの菜のものを食しつつ、良太は知らず知らず目を見開き、庄吉を凝視していた。
 こんな、札差の跡取りの鑑のような人がそんなことを思うのか?
「けれど、あの、庄吉、さん、は剣術も続けられる立派なお方です。私なんぞは、子どもの頃に妹のりつに負けまして、もう心が折れました」
 これまで、敢えて掘り返さずに己の中にだけ留めていたことを、良太は口にした。
 果実酒のせいもあるかも知れぬ。
 情けない兄だと思われただろう……。
 そう思って目を上げると、庄吉はけろり、とした顔で良太を見ている。
「私も見合いの前に、何も知らずおりつさんと手合わせし、負けました。何度も手合わせを頼み、どうにか五分五分といったところでしょうか。いやあ、おりつさんはお強い」
 まるで自身が褒められているかの如く、この立派な若旦那は、我が妹を褒めている。そうして、自身が負けたことすら、誇らしげである。
 ……こんなにも強靭な心を持つお方がいたのか。
 しかも、こんなに傍に。
「おりつさんは、兄上二人をとても褒めておられた。芸事に秀でていると。そして、優しいと。優しい人というのは、剣の腕よりもずっと強いのだと思う、だから兄には敵わない、とも言っております」
「……そんなことを?」
「ええ」と庄吉は頷く。
「いずれね、もしも子を授かったとして、その子が、うちの弟たちや、おりつさんの兄上たちのようであっても楽しいのかも知れぬとも、話しております。私としてはおりつさんに似た、かわいい子を、と思いますが」
 庄吉は、大層幸せそうな目をしていた。
 今日は話ができてよかった、と互いに言い、今後ぜひお会いしましょうと約束し、別れた。
 夜風が、大層心地よく感じられた。


 身内というのは、一番近くなんでも知っているようでいて、意外とわからぬものであると良太は思った。
 気の強い、言ってしまえば、きょうだいの中で一番怒らせたくないとまで捉えていたおりつが、良太のことを褒めていたとは……。
 そう思っているなら、もっと早く、家にいる間に言わんか……。
 今回庄吉さんという良き義理の弟、おりつにとっての伴侶を得なければ、ずっと知らないままだった。
 人というのは、幾つになっても褒められるというのは、よい心持になるものなのか、良太はいつもより気分よく、お商売に励んでいた。
 そこへ「若旦那、お客様です」と手代が声をかける。
 誰かと思い、上がり框(かまち)まで行く。
 そこには、木綿の茶の縦縞の着物に髷を結った、良太と同年代と思しき町人風の男の人がいる。目を合わせるが、誰だかわからぬ。
 首を傾げつつ、歩み寄ると、「良太!」と呼ばれた。
 その声、その呼び方、そうしてその面差し。
 記憶の中で、つと、鈍い痛みが甦る。
 あ、と良太は思った。
 手習いで一緒だった大治郎である。
 乱暴というのではないが、まあ、大人からみれば子どもらしく、正直で元気、良太からみれば我がまま勝手で、距離を置きたい子どもだった。
 実際に大治郎のせいで、手習いが楽しくかった日は結構あった。
 もうずっと昔のことなのに、なんとなく、嫌な感情が湧く。
 一体全体どうして、今になって訪ねて来たのか。
 互いの家はそう遠くはないが、手習い以降、会うこともなかった。
 上がり框に立ったまま、暫し無言であった良太に、大治郎はやや戸惑った様子の後に、「今日はこれを渡しに来たんだ」と、大きな包みを差し出す。
 ますますどういうことかわからぬが、良太はひとまず大治郎を奥の間に通した。
 最初はお商売の時間を邪魔しては、と遠慮した大治郎だが、良太が「ここでは落ちつかないでしょう」と言い、家の奥の方に茶を持って来るよう店の者に言いつけると、「少しだけ」と言い、良太に続き、奥の前へ入った。
 良太はいつものように着物を尻の下に敷き、背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ開くくらい、脇は締めるか、軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手を太もものつけ根と膝の間で指先が向かい合うように揃える。
 茶を女中が持って来て、すぐに下がる。
 視線をやや落としていた良太だが、正面を見遣ると、大治郎が同じように居住まいを正し、正座している。
「急に申し訳なかった」
 大人びた口調に、良太はやや戸惑いながら、「いや」と短く答える。
「今日は、これを渡したくて来たのだが。受け取ってもらえぬか」
 そう言い、大治郎は持っていた包を解き、中の品を差し出した。
 それは濃い青の絹の反物と筆であった。
「これは?」と良太は首を傾げ、尋ねた。
 大治郎はやや俯き、息をつく。
 そうして「申し訳ないことをしたと思っている」と言った。
 思い当たることはあったが、だからといって、この品はどういうことだ、と良太はまだ解せぬ思いで目の前の大治郎を見ている。
 大治郎は良太に目を合わせた。
「昔、手習いで良太の着物を汚したり、筆を駄目にしたことがあった。良太の方から言われれば、謝るつもりだったが、良太は我慢して、何も言わなかった。俺はそれをいいことに、謝りもしなかった。本当に悪いことをした」
「……そんな子どもの頃のことを。それに、そういうことは大治郎だけではなかったし、わざとということでもなかった。気にすることはない」
 全てが本音かといえば嘘になるが、大概が正直な思いではあった。
 だが、大治郎は首を横に振った。
「いや、良太は札差の長男なのに、全く偉そうにしなかった。書も算術もよくできたのに、威張りもしない。真面目に先生の言ったことを聞いて、勉強していた。それが当時の俺にはなんだか物珍しくて、手を出したら、どんな反応をするだろうと思っていたが、良太は気持ちがとても強い子どもで、なかなか動じない。それでつい、こっちも気を引きたくて、大きな動きに出た。しがない子どもの妬みと興味のせいで、迷惑をかけた。それが、ずっと心にあった」
 ……たまげた。
 おりつの件もそうだったが、それ以上に驚いた。
 まさか、そんなふうに当時の自分を思っている者がいたとは……。
「あれから、丁稚で奉公先に世話になり、手代になった。その間、いろいろなことを教わった。我慢することも、人を敬うことも教わった。そういう中で、俺が何年もかけてようやく築いたものを、良太は子どもの頃にすでに持っていた。何か教わる時には、良太のことを思い出した」
 えええ?
 こっちは確かに着物を汚されたとか、筆を駄目にされたことは覚えていたが、全くそんなふうに思っていなかった……。
 なんという意識の差か。
「……驚いた」と良太は正直に言った。
「驚いたけれど、駄目な私をそんなふうに思ってくれる人間が幼い頃にいたことは、本当にありがたい」
 続けて言った良太に、「申し訳なかった。それで、親元を離れ、少し余裕もできて、ようやく、あの時の詫びができると思って、今日訪ねた」と大治郎は言った。
 なんとまあ、律義な人だ……。
「いや、だが、こんなに値の張るものを私は子どもの頃に使っていなかったよ。着物にしたって、こんなにいい反物を……」
 さすがに受け取れぬ、と思う良太を大治郎は遮った。
「私が、そうしたかったのです。後生です。どうか」と手をつく。
「いや、ちょっとちょっと……」と良太は慌てる。
 だが、こういう場合、受け取らぬのは返って申し訳ない。
 それで良太は「私は一度受け取ったら、後で返してくれと言っても返さないよ」と言い、大治郎の持って来た反物と筆を受け取ることにした。
 大治郎が目を上げ、ふっと肩の力を抜く。
「ところで、今日の夕餉の予定は?」と良太が尋ねる。
「いや、まあ、いつもそのへんの店で何か買って帰るが」
「それなら、今日、店仕舞いしてから、何か食べに行くのはどうだろうか。義理の弟によい店を教えてもらってね、酒があまり得意でない私でも飲める果実酒もあって、菜のものもとても美味しい。もう一度行きたいところだが、日を置かず、それも一人でというのは気が引ける。一緒に行ってくれると大義名分になるんだが」
 そう切り出すと、大治郎は暫し良太を見た後に、「それはいい」と笑った。
 よい店にかつての友を連れ、ご馳走する。
 良太にとって、初めてのことであった。
 店仕舞いの後に、この先の橋のたもとで待ち合わせをする約束をし、良太は大治郎を店先まで見送った。


「いやあ、札差の若旦那の行きつけは、さすがに格が違う」と言う大治郎に、「来たのは二度目でね。私は酒も得意でないし、あまり付き合いもないから」と返した。
「それは驚きだ。誰に対しても丁寧で優秀な良太に限って、あまり人付き合いがないとは」
 心底驚いている様子である。
 全く裏のない、この大治郎の性格。
 昔からそうであったかも知れぬ。
 その真っすぐさが、良太にはある種憧れであり、また、敵わないとも思わせた。
「大治郎は、どこでも楽しくやっていけるだろう」
 膳を前に、果実酒を口に含む。
 同じように果実酒を飲んだ大治郎は「これはうまい!」と大きく頷いた後、「まあ、いろいろな人に会うのは好きな性分だが、算術が得意なわけでもなかったし、書もあまりいける方ではなかった。仕事では随分叱られた。その分、新しく丁稚が入れば、俺は丁寧に教えてやれることだけは身につけた」と言う。
「大治郎でもか……」
「ああ、当たり前だろう。出来ぬことは仕方ないが、それでも努力でどうにか補ってやっていく。そういうもんだ」
 けろり、とした明るい目で大治郎は言う。
「……随分あっさりと、大変なことを言うんだな」と良太は言った。
「大変ではあるが、苦ではない」と、これまた明るい返事だ。
 なんとまあ、昔の友から教わることの多いことか……。
 大治郎に果実酒以外の酒も勧め、大治郎はとっくりを何本か空けた。
 果実酒を少々でも酔った良太と、ほろ酔いの大治郎は、楽しく共に店を出た。
「また会おう」と言う良太に、「ああ」と大治郎が応じる。
 帰って酔い冷ましに、廊下に座り、庭を眺めていると、隣に父が座った。
「最近、楽しそうだな」と言う。
「……先日は庄吉さんに会って、今日は手習いの時の友が訪ねて来たので」と、言い訳というか、説明をする。
「よかった」と父は言う。
「お前は私に似て、根が優しい。優しすぎて、本当のことを言えず、苦労する。それが心配だった。だけど、お母ちゃんが、『それもあの子のいいところだから見守りましょう。大丈夫ですよ』と言ったんだ。本当だった」
 お父ちゃんに似ているだって?
 僅かに間を置き、良太は父を見た。
 いつも堂々とし、威厳があり、強く頼りになる父である。
 そのお父ちゃんが?
「大人になって、周囲から学んで身につけたこともまた、己だ。たくさん、学ばせてもらって今がある。お前もきっと同じだろう」
 穏やかに、父はそう言った。
 そうして、「ああ、お前たちに詫びなければいけないことがひとつあった」と続ける。
 なんだ?
 良太は父を見た。
「おりつの見合いで、庄吉さんと母上がうちに来た時、うちに飾りの調度品がないことを説明するのに、お前たち兄弟が幼い頃に喧嘩をするのでと、つい言ってしまった」
「ああ」と良太は父から、家の中へと視線を向け、頷いた。
 幼い頃に良太と弟が遊んでいたちゃんばらをおりつが見つけ、振り回し、違い棚の小さな壺や花瓶を割って以来、室内に壊れやすいものは極力置かなくなった。
「りつは庄吉さんと幸せにやっているようだし、庄吉さんもとてもいい人だ。あの庄吉さんを育てた母上が、いい人でないわけがない。何も問題ないでしょう」と良太は言った。
 父は「そうか」と言い、「頼り甲斐のある子に育ってくれた」と続けた。
 そうして立ち上り間際、「だけど」と前置きし、良太を見る。
「もし、何かあったら、お父ちゃんもお母ちゃんもいつでも良太を助ける。そのことは覚えておきなさい」
 幼い頃、手習いであった、良太が密かに心痛めたことを、多分、お父ちゃんもお母ちゃんも知っていたのだろう……。
 それを黙って見守るのは、どれほど辛抱のいったことか。
 大人とは、強さとは……。
 まだまだ学ぶことがあるようだ。
 良太は廊下で居住まいを正し、正座する。
 部屋に戻る父の背に、良太は深く、頭を下げた。

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