[321]お江戸正座14


タイトル:お江戸正座14
掲載日:2024/11/21

著者:虹海 美野

内容:
 おかやは札差の一人娘である。
 お作法やお茶、お琴と多くのお稽古事に通う日々だが、ある日、うりざね顔の美しい男の人の落としたもみじを拾い、心引かれる。その人は藤次と言い、札差の次男であることがわかった。
 おかやはお父ちゃんに藤次と一緒になれるようお願いし、見合いすることになるが、藤次がおかやの家ならば着道楽を続けられるから見合いを受けたという話を聞く。
 藤次が来た日、おかやは部屋に正座して閉じこもり……。

本文

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 おかやは札差の一人娘である。
 いつもお付がいて、手習いのほか、お作法、お茶、香にお琴、踊りまでを習って過ごした。
 店まで髪結いを呼び、髪をきれいに結ってもらい、御用達の呉服問屋から、さまざまな反物を買い、着物を仕立ててもらった。ほかにも簪や化粧品なんかも御用達の店が頻繁にやって来ては品を広げ、毎回、あれやこれやと買ってもらった。
 大事にされ、甘やかされているという自覚はある。
 今日もお作法の教室で、武家にご奉公をした先生の稽古を賜った。
 背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか、軽く開く程度、着物は尻の下に敷き、足の親指同士は離れぬように。手は太もものつけ根と膝の間で指同士が向き合うように揃える。
 お教室の先生は、品があり、それでいて垢ぬけている。
 おかやは、着物も簪も化粧品も良質なものを買ってもらっているが、どうにもこうにも野暮ったいというか、子どもじみていると感じている。おかやは今年十八になる。お稽古仲間のお友達はそろそろ嫁ぎ先が決まり始めているが、おかやはまだである。焦ることないわ、とお友達は言ってくれるが、おかやは札差の一人娘で、誰かと一緒になるとすれば、札差を継いでくれる若旦那になる人でなくてはならぬ。世間では番頭と店の娘が一緒になることも多々あるが、おかやの店の番頭は五十前、数年前に身を固めた。それでよかったとも、残念だったともおかやは思っておらぬ。
 常にお付がいて、お稽古事には精を出しているが、自由に遊ぶこともないので、世間の男の人との交流がない。それに、どういったお方がよいか、ということもいまいちわからぬ。お父ちゃんがこの人と一緒になりなさい、と言ったら、それがおかやの旦那様で決定である。
 お作法のお稽古の後はお茶のお稽古があり、少し時間が空いたので、茶屋に寄った。これからお茶のお稽古なのだが、それとここでの一休みはまた別である。外の緋色の布の敷かれた縁台に座り、澄んだ空を眺める。すると、前を通った方から、はらり、と何かが落ちた。
「あの、何か落としました」と反射的に声をかけ、落としたものをみれば、もみじであった。
 こんなことで呼び止めてしまった、とおかやは焦ったが、「おや、なんだか粋な落とし物をこんなに美しい娘さんに拾っていただけるとは、いやいやながら、札差のお三味線仲間と紅葉狩りに行った甲斐がありました」と、通った声でその人は言い、おかやの手からもみじを受け取った。
 この季節に合わせた橙色の羽織、羽織紐の先端には美しい飾りが揺れている。そして裾部分には、ススキに雁が描かれている。手描き友禅であった。贅を尽くしたお召し物だこと、と思い、顔を上げると、そこにはうりざね顔の、大層きれいなおもてをした方がいた。
 ほんの僅かな時であったが、おかやが恋に落ちるには、十分であった。


 新しい羽織に手描き友禅を頼みたいとおかやが言うと、父はすぐに呉服屋、絵師を呼んでくれた。
 いつもは明るい色を選ぶが、濃い緑色にもみじをあしらったものを頼んだ。後は鶴や花車といった、生地ともみじに合う絵柄を絵師が考えてくれると言う。絵が仕上がったら持って来てもらい、それでよければ、羽織を作ってもらう。
 絵師が帰った後、にこにことお父ちゃんが「おかや今回はずいぶん粋な羽織にしたではないか。いつものような鞠や蝶でなくてよかったのか? まあ、おかやは何でも似合うからなあ。また作りたい羽織があったら言いなさい。お父ちゃんが買ってあげるからな」と言う。お母ちゃんも「そうねえ。これからもどんなものを仕立ててもらうか楽しみだわ」と目を細める。
「お父ちゃん、お母ちゃん、お願いがあります」とおかやは切り出した。
 居住まいを正し、正座する。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬように。膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい。脇は締めるか軽く開く程度。手は太もものつけ根と膝の間に指先が向き合うように揃える。
「どうした? 食べたいお菓子でもあるのか? 久しぶりに卵焼きでも作らせようか? 新しい紅でもほしいのか?」
 すぐに身を乗り出し、嬉しそうに聞くお父ちゃんに「私、お三味線のお稽古に通いたいの」と言った。
「おかや! 今だってお稽古三昧で忙しいというのに、まだ学びたいことがあるのかね? ああ、わが娘ながら、感心なことだ。わかった。お父ちゃんに任せなさい」
 お父ちゃんは、おかやがお三味線を始めたいという意欲に大層喜び、感心している。
「ありがとう。一所懸命お稽古に励みます」
 そうしおらしく言ったが、実のところお三味線にそれほど興味はなかった。
 お琴の練習もあるし、ほかのお稽古事で手一杯だ。
「あ、お父ちゃん。今、お稽古事がたくさんあるから、それでお三味線のお稽古に遅れてご迷惑をかけたくないので、夕餉後の時間にお稽古してくださるようお願いして」
 おかやは、はっとして続ける。
「そうか。不用心だから、手代もお付にしよう。籠に乗ってお稽古に行くか?」
「この界隈なら歩いていけるから大丈夫」
「そうか? 必要ならすぐに言いなさい」
「はい。お三味線、早く始めたいから、よろしくお願いします」
「おお。そうか、そうか。任せておきなさい」
 お父ちゃんは嬉しそうにそう言い、お母ちゃんと連れ立って部屋を出た。
 うまくいった。
 先日会ったうりざね顔のあのお人は、札差仲間でお三味線と言っていた。
 うちもこの界隈の札差だから、当然、札差仲間の通うお三味線の教室はお父ちゃんも知っている。恐らく、あのお人はお商売が終わった後にお三味線の教室に通う。だから、昼間におかやがお三味線の教室に行っても会えない。お三味線の先生も、夕刻からのお稽古は一日で済ませられるようにするだろうから、恐らく同じ日になると踏んだ。もし違ったら、毎回通う日を一日づつずらしていけば、いずれ同じ日になる。
 お教室と通う時間が同じであれば、顔を合わせられるだろう。
 そう思うと嬉しくて仕方がなかった。


 あろうことか、お三味線の教室に行くと、もうあのうりざね顔のお人の稽古は終わって帰った後だった。うりざね顔のお人の名前はわからぬが、札差の若旦那衆のお稽古が終わったところです、とお師匠様がおっしゃっていたので、間違いない。
 おかやは心底がっかりしたが、真面目にお師匠様から稽古をつけてもらい、次回までの練習もしっかりとした。
 そうして次の時には、うりざね顔のお人が稽古をつけてもらっている頃にお師匠のお宅に着き、そこで待たせてもらうことにした。隣の座敷に通してもらい、襖越しにうりざね顔のお人の稽古をつけてもらっている様子をうかがう。何人かが一緒に稽古をつけてもらっているようなのだが、その中で、「藤次さん」と言うお師匠の声の後に返す声が、あのうりざね顔のお人であることがわかった。
 襖を背に、おかやは正座し、目を閉じる。背筋を伸ばし、脇を締め、着物を尻の下に敷き、膝をつけ、手にはお三味線、足の親指同士が離れぬようにし、あのお人を思う。
 かなり長い間正座をしていたはずだが、全く足がしびれなかった。
 そうして、稽古が終わった後の雑談の後、お師匠様が「次の生徒さんがお待ちですから、今日はこのへんで」と言った。
「おや、新しい門下生ですか」
「どのような」
「一度ごあいさつを」
 そんな楽し気な会話が聞こえ、「少々お待ちください」とお師匠様が言う。
 そうして、部屋を隔てた襖ではなく、一度廊下に出たお師匠様が、こちらの部屋へやって来た。
「すみません、全てお聞きと思いますが、ほかの門下生の方がごあいさつをしたいと言っておりまして。いずれ顔を合わせることになりますので、今日無理にとは申し上げませんが、いかがいたしますか」
 小首を傾げて訊くお師匠様に、「では、今日ごあいさつさせてください」とおかやは言った。
 内心、小躍りしていたが、控えめに言ったのは、決して芝居ではなく、緊張していたためだ。まさか、もう対面できるとは……。
「そうですか。では」
 お師匠様はそう言うと、襖を開けた。
 おかやは急いで身体の向きを変え、正座し直した。
「おかやと申します。よろしくお願いします」
「これは、これは、なんとかわいらしい娘さんだ」と、どこかの若旦那だか手代だかが言い、私はどこそこの札差の長男の誰それ、私はどこそのこの札差の次男の誰それ、というふうに次々に自己紹介を始める。
 そうして、奥にいた、ひと際うるわしいうりざね顔のあのお人は「おや、この前はありがとうございました。藤次と申します。札差の次男です」と言った。
 おかやは感無量で会釈した。


 お三味線のお稽古には、熱心に通った。
 先生が一度、今来ている皆さんと一緒に稽古なさいますかと言ってくださったが、まだ始めたばかりですから、と遠慮した。さすがにそこまで乗り込む勇気はない。
 いつも早くに行き、先にお稽古をしている札差の若旦那たちの様子を襖越しに聞いている。前回いなかったらしい、庄三さんという方が、ずいぶんとお三味線が上手だというのはわかったが、実のところ藤次さん以外に全く興味のないおかやにとって、ほかの生徒さんの演奏はあまり関心がなかった。
 襖の向こうでがやがやと雑談をしながら帰って行く若旦那たちの中にいる藤次の声に耳を傾け、おかやは大層幸福な心持になるのだった。
 そうして、それからおかやのお稽古である。
 藤次さんに追いつけるようにと、おかやは背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶしひとつ分開く程度、脇は締めるか軽く開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座し、お稽古に臨む。
 帰ってくると、お父ちゃん、お母ちゃんが出迎え、温かな膳を出してくれる。
「さあ、疲れたろう。たくさんお食べ」
「今日、おかやの好きな羊羹を買ってきたの。明日いただきましょうね」
「そうそう。おかや。この前の羽織の絵が出来上がったと今日絵師が持って来たんだ。絵を預からせてもらっているから、後で見て、それでいいか決めなさい」
「もう? 今見てもいい?」
 藤次を想って頼んだ羽織の絵だ。
 お父ちゃんの後に続いて、奥の間へ行き、絵を見せてもらう。
 おかやが想像していたより、遥かに素晴らしい。
「嬉しい。すぐにこれでお願いして」
「おお、そうか。明日にでも頼んでおくよ。さあ、夕餉をいただきなさい。お父ちゃんと一緒に行こう」
「はい」と返事をし、お父ちゃんと膳の用意された部屋へ行く。
 両親に囲まれ、おかやは箸を進める。
 そうして食事を終え、茶を飲むと、「おかや、こんなにたくさんお稽古をして、お父ちゃんは感心しているんだがな、そろそろこれからを考えないか」と、おもむろに切り出した。
「はい」とおかやは返事をした。
 もうそろそろそういう話が出る頃だろうと思っていた。
 お父ちゃんがどんな人を引き合わせるかわからぬが、当分はお断りする。
 藤次さんより素敵な方でなければいやだ。
 ……藤次さんより素敵な方が、いるのだろうか。
 これまで、少なくともおかやは、藤次より心を動かされた人はおらぬ。
 ふと、心が痛む。
「おかや、どうした?」
 お父ちゃんが心配そうに訊く。
 どうしようか……。
 誰にも言うつもりはなかった。
 けれど、言わなければ、伝わらぬ。
 暫し俯いて考えた後、「お父ちゃん、私、札差の藤次さんがいいです」と言った。
 今度は、お父ちゃんが暫し黙った。
 どのくらいの間だったろうか。
「おかや、もしやお前、藤次ともう……」
「違うよ。そんなんじゃあないって。たまたまお話することがあって、いい方だと私が思っているだけなの」
「……そうか。藤次……」
 お父ちゃんはまたしても黙り込む。
 そうして、「わかった。うまくいくかどうかはわからないが、お父ちゃんが話をしてこよう」と言った。
「本当?」
「ああ、本当だ」
「お父ちゃん、ありがとう! お父ちゃんの子で本当によかった」
「いやいや、まだ喜ばないでおくれよ。もう藤次に決まった人がいるかも知れないからね。そうしたら、お父ちゃんでもどうにもできないんだから」
 お父ちゃんを見上げたおかやの目に涙が浮かぶ。
「まだわからないよ。お父ちゃんは藤次じゃあないんだから。だから、訊いてみると言っているんだ」
「……はい。わかりました」
 大概のわがままは訊いてもらえたが、こればかりはお相手の意向があることなので仕方がない。
 本当は今すぐにでも自分で藤次に訊いてみたいところだが、そこはぐっと堪えた。


 この日は、お三味線のお稽古が先生のご都合でお休みになった。
 お父ちゃんは寄合に出ていて、お母ちゃんは呉服屋さんに行っていると言う。
 お三味線のお稽古がないので夕餉の用意を頼もうと、母屋の奥の勝手口へ向かうと、廊下の角から話し声がする。
「じゃあ、お嬢さんは、藤次さんと一緒になるってこと?」
「まだわからないって話だけど」
「いや、決まりなんじゃないか?」
「どうして?」
 廊下の角で、おかやは会話の先を待つ。
 何、決まりって、嬉しいけど、なんだか意味深……。
 どういうこと、どういうこと?
「あの藤次さんは、この界隈じゃ有名な洒落者で、着物や小物の浪費がとんでもない。藤次さんは札差の次男だから、どこかに婿入りするのは以前から決まっている。そこそこの美男だが、あの浪費を黙認するお店でないと、婿入りは難しい」
「それで、どうしてうちのおかやお嬢さんとは決まりなんだい?」
「そりゃあ、旦那さんもご新造さんも大層おかやお嬢さんを大事になさっている。どんな願いでも叶えてやりたいとお思いだ。着物の出費くらいで、かわいい、大事なおかやお嬢さんが幸せになるのなら、お安い御用だろうよ。もともと、うちの旦那さんは着物や小物への出費に抵抗がない。まあ、その分、遊びに行って大枚をはたくことはない。藤次さんも、着道楽ではあるが、酒や遊びにはそれほど興味はないと聞くからねえ」
「それはつまり……」
「そうさ。着道楽を容認して、尚且つそれを続けられる婿入り先であれば、誰と一緒になるかは二の次なんじゃないかって」
 口元を押さえていた手が震える。
 おかやは足音を立てぬよう、そっとその場を離れた。


「おかや、おかやはどこだ?」
 珍しく、父がどたどたと足音を立て、廊下を進んで来た。
「はい、お父ちゃん」と、おかやは手を拭き、障子を開けた。
「花を活けていたのか」
「はい」
 おかやはお父ちゃんに向き直って正座した。
 着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬように気を付け、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は軽く締める程度、手を膝と太もものつけ根の間で指先が向かい合うように揃える。
 父はおかやの向かいに座り、満面の笑みでおかやを見る。
「札差の息子、藤次の家からうちに婿入りしてもいいという返事をもらって来た」
 本当なら飛び上がって喜びたいところだが、この前聞いた話を思うと、素直に喜べない。
 藤次さんは、私と一緒になりたいのではなくて、この先も着道楽を続け、札差の若旦那におさまる場を見つけただけだ。その都合よい婿入り先が探す前に、現れた、といったところだ。
「どうしたんだ? おかや?」
 お父ちゃんは不思議そうな顔をしている。
 その顔が次第に不安になっていく。
 おかやは慌てて、「嬉しすぎて、驚いただけ。ありがとう。お父ちゃん。これから、親孝行できるよう頑張ります」と、手をついて頭を下げた。
「おかや……。こんなに立派になって。お婿を迎えても、おかやはずっとお父ちゃん、お母ちゃんのかわいいおかやだからな」
 ほかの人が聞いたら呆れるようなこのお父ちゃんのおかやの扱いも、今のおかやには心に痛い。なんだか、お父ちゃんの良心と店のお金が利用されている気がする。
 お商売のあるお父ちゃんが部屋を出た後、おかやはしくしくと泣いた。


 嬉しいはずなのに、家に藤次さんが見える日、おかやはどうしても部屋から出られなかった。さすがのお父ちゃん、お母ちゃんもこの時には、どういうつもりなんだい、失礼が過ぎるじゃあないか、と叱ったが、それでもどうしようもなかった。
「ごめんなさい。お父ちゃん、お母ちゃん。たくさんわがまま言って、困らせて。だけど、今回だけは勘弁してください」
 障子の向こうでおかやはしくしくと泣いた。
「おかやさん。初めましてではありませんね。藤次です」
 障子の向こうに現れたすらりとした影が、廊下に正座する。
「以前、もみじを落とし物と拾ってくださったでしょう?」
 おかやは、つと、立ち上がりかける。
「今日はこれで失礼します」
 お父ちゃん、お母ちゃんが詫びる声に藤次さんの声と足音が遠ざかる。
 おかやはそっと障子を開けた。
 そこにはもう、誰もいなかった。
 代わりに、和紙に貼ったもみじが一枚、そこにあった。


 何日かして、また藤次がやって来た。
 申し訳ないと思いながら、おかやはまだ藤次と顔を合わせられなかった。
 廊下に座る藤次と障子ごしに向かい合う。
 おかやは背筋を伸ばし、膝をつけ、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、脇を締め、手を太もものつけ根と膝の間で指先が向かい合うようにそろえた。
「昨日、御父上がうちにおいでになりまして、詫びられました」
「お父ちゃんが?」
 おかやの父はいつも通りお商売の仕事をし、夕餉の時もいつもと同じ様子だった。近所で最近評判の料亭があると聞いたから、今度行くか? とか、そんな話をしていた。
「はい。御父上は、こうおっしゃいました。『娘の願いを叶えてやりたくて、婿に来てくれぬかと頼んだ。だが、娘が望んでいたのは、あなたとの結婚ではない。あなたに、想われることだった。そこを私は見誤ったんです。至らぬ父の考えで、ご迷惑をおかけしました。何でも娘の望みは叶えてやりたい。けれど、こればかりは、人の心ばかりは親といえど、どうにもできません。どうか、ご勘弁を』と」
「お父ちゃん……」
 私こそ、不甲斐ない娘で、いつまでもお父ちゃん、お母ちゃん頼りでごめんなさい……。
 揃えた指先に涙が落ちた。
「お父ちゃんは、悪くないんです。私がいつも何かをねだるように、藤次さんと一緒になりたいと言ったんです。それがどういうことか……。藤次さんの意思を自分で確かめず、意気地のないくせに、望みばかり口にしておりました。本当にすみませんでした」
 障子ごしの藤次に向かい、頭を下げる。
「おかやさん」と藤次が静かに呼ぶ。
「はい」と小さくおかやは返事をした。
「確かに私は着道楽の、周囲からの評判が必ずしもよろしくない人間です。だから、おかやさんのお店のように大きく、しっかりしたところに婿入りとなれば、よからぬ憶測もされましょう。それをわかっているのだから、私の方で、見合いの前におかやさんに会い、ただ見合いの話がきたからというのではなく、おかやさんだからと伝えるべきでした。本当に私の迂闊さのせいで、おかやさんにも、おかやさんの御父上にもご迷惑をおかけしました」
「藤次さん……」
「おかやさん、私は確かに着道楽のしがない息子です。ですが、婿入りさせていただいた暁にはお商売に精進し、おかやさんを大切にしたい。御父上、御母上が、私に大切なおかやさんを任せてもよい、と認めてもらえるくらいに」
 おかやは障子を開ける。
 そこには、うるわしい、優しい目をした藤次がいた。
「おかやさん、どうか、私と一緒になってください」
 おかやは何度も大きく頷き、「はい」と答えた。
 懐には、先日藤次が置いて行ってもみじを張った和紙が入っている。
「ああ、よかった」と藤次が笑う。
 そこへ、「ごめんください」と声がした。
 以前頼んだ打掛が仕上がったのだと言う。
 藤次も同席する場で、美しい打掛が広げられた。
「ああ、素晴らしい……」
 藤次が羽織るのを手伝ってくれた。
「とてもよくお似合いだ。私も似た羽織があるので、今度互いに羽織を着て出かけませんか。ああ、でもおかやさんに合わせて、新しく作ろうか……」
 そこまで言うと、お父ちゃんとお母ちゃんが部屋にやって来た。
「ああ、羽織なら、うちで仕立てたらいい」
 満面の笑みで言うお父ちゃんに「いえ、それはさすがに……」と藤次が慌てる。
「ほかの遊びをせず、商いを頑張ってくれれば何も困ることはないですよ」
「お父ちゃん……」
「ああ、おかや、似合うじゃあないか。また何か仕立てたいなら言いなさい」
 藤次の家へ謝りに行ったことを、お父ちゃんは言わぬつもりらしい。
 おかやはお父ちゃん、お母ちゃんの前に正座した。
「お父ちゃん、お母ちゃん、これまでたくさん、たくさん甘えさせてくれてありがとう。これからは、私がしっかりして、家のことに努めます。お父ちゃん、お母ちゃんが私に甘えられるくらい、頑張ります。藤次さんのこと、自分で伝えなければいけなかった。それなのに、甘えて、弁えないでごめんなさい」
 手をついて座礼するおかやにお父ちゃんとお母ちゃんが走り寄る。
「何を言ってるんだ。おかや。おかやはいい子だ」
「そうよ」
 そうして、お父ちゃんは藤次を見上げる。
「藤次さん、できる限り、うちで大切にいたします。藤次さんの御父上、御母上が心配することないよう、努めます。どうか、おかやをよろしく頼みます」
 藤次がさっと下がり、正座する。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい。そうして畳に手をつき、「誠心誠意お家のため、お店のため、精進いたします。よろしくお願いします」と言い、おかやもその隣で座礼した。


 藤次が婿入りするのは、年が明けてからに決まった。
 もっと早くに、と思ったが、婿入りの衣装をこれから頼むので、それでも婿入りまでに仕上がるのは頼んだ分の三分の一あればいい方で、仕上がるたびにそちらに運ばせていただきます、とのことだった。
 周囲では、札差の次男の藤次が、着道楽と贅沢を続けられる、娘に大甘の札差に婿入りすると、囁かれていた。
 それに対し、藤次は涼しい顔をしている。
「私はね、人が言うことにはいちいち関与しませんよ。お商売のことでは困りますけどね。私の関心事はおかやさん、それに着道楽も嘘じゃあない。なあに、そのうちに私がおかやさんと一緒になって、ますます幸せになっているとわかることでしょう。そのうちにわかることを、今からいちいち言ってまわる必要もありませんよ」
 うりざね顔のこのきれいなお人は、着道楽だが、欲がない、とおかやは思う。
「それにねえ、おかやさんはこの辺りでは高嶺の花ですよ。声をかけようにも、お付がいるし、何より、おかやさんを大事にしているおかやさんのお父ちゃんを敵にはしたくない。そのおかやさんとやすやすと一緒になったんだから、まあ、多少のやっかみくらいは大目に見ましょう。そういうことです」
「そうでしょうか……」
 周囲の友達が付け文をもらう中、おかやにはそうしたことすらなかった。
「おかやさん、あの日、本当に私が偶然もみじを落としたとお思いですか?」
 藤次が軽やかに笑っておかやを見る。
「ほかに何がありましょう?」
「あれは、私の中の賭けでした。小物入れだの手拭だの落としては、あやつはわざとだと言われるでしょう。だから、落とし物かどうかわからぬものを落としたのです。そうして、ふっと舞ったもみじ一枚に気づくお人かどうかも知りたかった。だから、私はあの時、わざわざ札差でお三味線の稽古に通っていることまでをお話したのです。もし、私をおかやさんが少しでも私を気にしてくださっているのなら、いずれ名乗るつもりでした」
 なんと答えたものか、とおかやは暫し思案する。
 控えめに言って、着道楽なだけの呑気なお方ではないようだ。
 多分、お商売の才もおありなのだろう。
「さあ、遅くなる前に祭りに行きましょう」
「はい」とおかやは頷く。
 季節が秋から冬へ移る頃、秋を思わせるもみじの柄の打掛はもう季節の遅れを取るが、今日は藤次とおかやは二人、一足遅れの秋の装いで、人々で賑わう通りへと連れ立って出かけたのだった。

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