[328]たすき掛けの正座乙女


タイトル:たすき掛けの正座乙女
掲載日:2024/12/23

著者:海道 遠
イラスト:鬼倉 みのり

あらすじ:
冬青(とうせい)は書道師範。
弟の秋青(しゅうせい)は奇抜な着物着付け師範。
ふたりは双子の兄弟だ。ある日、桜の公園を花見していたふたりは、振袖姿でホウキほどの特大筆で書道パフォーマンスしようとしている女の子を見かける。
彼女は正座してお辞儀してから、畳六畳分ほどの白い半紙に「己」と書き終える。
満足した出来だとドヤ顔になったのもつかの間、秋青が近づいていき、たすき掛けの結び方が間違っていると指摘する。



本文

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第一章 振袖姿の大書道

 桜が満開の時期である。
 三月まで吹き荒れていた嵐がようやく止み、開花情報が一斉に流れた。
 人々は待ち望んでいた桜の開花を喜び、観光地へ繰り出した。
 ハイキングや桜見物のカップルや家族連れで賑わっている。美しい桜の下で写真撮影したり、学生グループがイベントでダンスしていたり。
 そんな中を、冬青(とうせい)と秋青(しゅうせい)の双子の兄弟は桜を眺めながら、ゆっくり公園を歩いていた。
「お前とふたりで花見なんて初めてじゃないか、秋青」
「そうだな。兄貴と来たって、全然楽しいことないもんな」
「こっちだって、そのファッションのお前と歩きたくないよ。ぶっとい白黒の縞模様のシャツにオレンジの花柄のパンツ。それでも着付けの師匠か!」
「これが俺特有のセンスさ。着付けにも取り入れてる。それよりすでに初老の文学人みたいな黒のスーツに黒のシャツ、ネクタイはやめてほしいな、兄貴」
 秋青が、足を止めた。
「ん? あれは……」
 広場が空けられ、赤い毛氈(もうせん)の上に六畳分くらいの大きい大きい半紙が広げられている。その周りに紺の袴姿の女子がぐるりと護衛のように厳しい顔で囲んでいる。半紙の角では、乙女色(薄い桃色)の地に手の込んだ花車の刺繍の振袖に、紺の袴を着けた女の子が、深緋(ふかひ)(深い赤)のたすき掛けで白い腕を肘の上まで見せて、家ボウキのようなものをバケツに突っこんで立っている。
 長い髪を凛々しく結い上げて、前髪をピンできっちり留めている。切れ長の美しい眼には執念の色が見える。
「兄貴、知ってるのか?」
「近頃、話題になってる特大筆パフォーマンスの女の子だよ。俺は面識はないが。今日はこれを見に来たのさ」
「なあんだ、俺と花見なんて変だと思ったんだ! あの眼、只者じゃないな」
 冬青が洩らした。バケツの中には墨がたっぷり入っている。女の子は、家ボウキのような巨大な大筆にザバザバと墨を含ませた。
 桜吹雪の風がふと止まった。
 女の子は止めていた息を放ち、カッと眼を見開いた。
「でやああああああっ」
 墨の滴る大筆を持ち上げ、半紙の対角線上を走った。
 半紙の対角点まで突っ切ってきて、バシッと叩きつけるように筆を置き、次は右一直線に走った。半紙の角まで来ると、手伝いの者が持ってきたバケツにもう一度筆ボウキを墨に浸し、また対角線上に走る。
 半紙の上の陽光にキラキラと玉虫色に光る墨が美しい。
 次の角まで来ると、今度は墨のつぎ足しなく、また右へ真っ直ぐに走った。そして、力を振り絞って筆を跳ねあげた。
 半紙には、大きく「己(おのれ)」の文字が書き上がった。
 女の子は「ふう」と大きく息を吐き、巨大筆を置いて自分の作品を見下ろした。
 大きくうなずく。まあまあの出来だったようだ。

第二章 プライド木っ端みじん

 半紙の角に、背筋を伸ばしてすっくと立った女の子は意外と小柄だ。見事なことに振袖には墨の一点のシミも飛んでいない。
「すごいな~~。全然、墨で汚れていないぞ」
 秋青が感嘆した。
 彼女は赤い毛氈(もうせん)の上に膝をつき、晴れ着を膝のお尻の下に敷いてかかとの上に座り、キリッと頭を上げて、たすき掛けの美しい紐をほどき膝の上に置いてから深々と頭を下げた。
 見物していた人々からパラパラと拍手が起こり、やがて拍手喝采となった。女の子は長く長く頭を下げたままだ。
「どうだい? 兄貴。あの腕前は」
「まあまあってとこかな」
「俺は書道の出来よりも、気になることがある」
「秋青?」
 周りの皆と記念撮影している彼女のところへ、弟の秋青はつかつかと歩み寄った。
「君! 特大筆のワザ、お見事でした」
 女の子は秋青に目をやった。
(なに? 白黒の縦じまにオレンジの花柄パンツのチャラいの)
「書道の方は素晴らしいと思うが、ひとつだけ、このたすき掛けの結び方が……」
「これが何か?」
 女の子は、たすき掛けに使っていた紐を見つめた。
「もう一度たすきを結んでくれないか」
 女の子は言われる通りに紐を口にくわえ、鮮やかに結んでみた。
 誰が見ても鮮やかな所作だったが、秋青は、
「そう、この結び方だ。これがなっちゃいない」
「このたすき掛けが?」
「僕は着物着付け専門家です。結ぶことも僕の範囲でね。この結び方では、みっともない」
「……みっともない……」
 女の子は言葉を失くした。大勢の前ではっきり「みっともない」と言われたのは人生、二度目だ。
「ど、どこが……」
「たすき掛けはきれいだが、最後の蝶結びが間違ってるから、曲がってしまっている」
「!」
 蝶結びが間違っている! 曲がっている! 書道以前にそんなことを指摘されるとは思っていなかった女の子は、真っ赤になった。
「秋青!」
 冬青が弟の腕をつかみにやってきた。
「大変失礼しました。どうぞお気になさらず、お嬢さん」
 弟の手を引いてその場を離れた。

「なあに、あの方、失礼よね。美座会(みすえ)さんに向かって」
「こんな晴れの舞台で」
 周りの女の子たちがざわついたが、特大筆のパフォーマンスを終えた美座会のプライドは木っ端みじんになって、毛氈の上に沈みこんだ。

第三章 美座会のプライド

「いい加減に泣き止みなさい」
 奈里河(なりか)先生は、美座会を前に肩でため息をついた。
「だって、先生、あんなひどいこと……。今日は、私が小学校三年生からの悔しさを晴らす日だったんですよ。なのに、また彼に笑われたに違いないですわ」
 涼やかな風が通り抜ける和室だ。美座会の習うお作法の奈里河先生のお宅である。
 振袖姿のままの美座会は、涙が後から後から湧いてくる。
「じゃあ、小学生の時のラブレターの文字を笑った彼も、今日、見物人の中にいたの?」
「……はい。青木くんというぼんやり覚えていた名前をネットで見つけて、私が招きました。会っていませんのでお顔は分かりませんが」
「まあ」
「あんな公衆の面前でまたハジをかき、彼も呆れていたことでしょう。やっぱり着付けもちゃんとお免状をいただいてから、パフォーマンスするべきでした」
「美座会ちゃん、あなた、決戦を迎えるまでに支度が念入りすぎたんじゃない? 字が汚いと言われて書道をするためには、まず正座からって言って、うちのお作法教室に来たでしょう。それから書道教室へ行きはじめたわね。並行して習うのは、学業も頑張らなければならないし、大変だったでしょう。その後、やっとうちで満足のいく正座が出来て……」
「はい、やってみます!」
 美座会は急に立ち上がって、正座の仕方をおさらいする。
「背筋をまっすぐに立つ。背筋をまっすぐとは、体幹を意識することでもあります。床に膝をつき、お尻の下に手を添えて着物を敷き、かかとの上に静かに座る。両手は軽く膝の上に乗せ、アゴをひく」
「よくできています。美座会ちゃん」
「書道の先生にも褒められました。上達できたのも奈里河先生のおかげだと思っています」
 キリリとしたのもつかの間、美座会の顔は再び、涙でふにゃ~~と崩れた。
「私ったら最後の最後に手抜きしたからだわ。同じ決戦するなら、着付けもマスターするべきに決まってるじゃないですか。ねえ? 私のおバカ、おバカ!」
 奈里河先生の膝に泣き伏した。
「それなのにあの通りすがりの男ったら! 着物専門家とか言ってたけど、そうは見えないチャラさだったわ! きっとからかわれたんだわ! 今度はあの男を見返してやるわ!」
「おやおや、矛先が通りすがりの彼に向いたのね」
 奈里河先生の膝が、美座会の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった。
「ハイ、これでチンして」
 先生がティッシュを渡すと美座会はまた、さめざめと泣いた。
「ねえ、美座会ちゃん。あなたのこの10年近くは、ラブレターを笑った子を見返すためにあったのよね? あなたはもう十分にやったわ。今度は、たすき掛けを指摘した人を見返すために頑張るの?」
「はい、着付けをカンペキに習います!」
「あんまり気負いすぎて、失敗しないようにね」
(かなり負けず嫌い……反骨精神のある子ねえ)
 奈里河先生は、ため息をついた。

第四章 敵の懐に飛びこむ

 秋青は、新弟子が来ると伝えられた。
 洋風建築の家だが、兄の冬青と弟の秋青のお稽古部屋は、それぞれ和室が与えられている。
 常は奇抜な洋服で外出している秋青は、お稽古の時もかなり自由な発想の和服を着ている。
 壁に貼られている等身大の写真の着物ファッションは、世界中の国々のテイストが混ざって華やかなものばかりだ。
「失礼します。葉山美座会と申します」
 障子の外で声がした。
「新しい生徒さんですね。どうぞ」
 障子を開けて入ってきた女の子を見て、秋青はぎょっとした。
 先日、たすき掛けの結び方がおかしいとクレームをつけてしまった子だったからだ。
 彼女は平静に障子を閉め、正座してお辞儀をした。文句のつけようがない所作だ。
「葉山美座会さん……。この前、桜広場で書道パフォーマンスしてらっしゃいましたね。僕のことを覚えて……」
「覚えていますとも。伝手(つて)をたどってこちらを紹介していただきました」
「そうでしたか。あの……、あの時は失礼しました」
 秋青は素直に頭を下げた。
「いいえ。ご指摘いただいて、返ってやる気がわきました。こちらで着付けや着物について徹底的に学ばせていただきます」
 闘志に燃えた目だ。
「美座会さん、あなたは相当な負けず嫌いだね」
 眉間にシワを寄せて、ジロリと見返した。
「……」
「それは長所でもあるけど、短所にもなりますよ。着付けのお稽古をする前に正座して落ち着けばよろしいですよ」
「正座ですか? 正座ならしっかりできます」
「ま、毎回十五分ていどでいいから、しばらくの時間、落ち着いて正座すれば?」
 秋青は穏やかににっこり笑った。
「心を落ち着けてから着付けのお稽古をしよう。ね?」

(チャラいと思っていたけど、秋青の方が落ち着いているではないの)
 美座会は鳩がマメ鉄砲食ったような気分になった。
 めらめら燃えていた自分が恥ずかしくなった。
(たすき掛けの結び方が曲がっていたと指摘されたくらいで、大人げなかったなあ?)
 少し反省した。

 数日してから、
「着付けが終わったら書道のお稽古に戻るつもりです」
 やや躊躇したが、秋青にすべてを話した。
 小学生時代に好きな男の子にラブレターを書いて、字が下手だと言われたから、もともと字が上手くなりたくて書道をしていたこと。これも負けず嫌いから始まったことだ。
 もしかして、字が下手だと笑った子のことは、すっかりどうでもよくなって、言われたことで頭に来ていただけだったのかもしれない。
「それじゃ、よけい頑張って早く着付けひと通りをマスターして、次の書道へ行かなくちゃね。兄の冬青とバトンタッチするからね」
「お兄さまですか」
「兄は書道家だ。隣の部屋で教えている。桜広場で僕と一緒にいた男だよ。彼も特大筆文字のパフォーマーだ」
 美座会はまた驚いた。
(そうなんだ……。たしか、黒っぽいスーツの地味な人だった)

第五章 幼いラブレター

 奈里河先生のところに電話がかかってきた。
 秋青からだ。奈里河先生とは師匠と弟子の関係だ。彼だけでなく、兄の冬青も実は弟子なのだが、奈里河先生は美座会にはいっさい告げてはいない。
「いや~~、勝気な子ですね。僕に教えられるかな」
「何を言ってるの、秋青くん。あなたが彼女のたすき掛けを注意するからこういうことになったんじゃないの」
「……そうでした」
「美座会ちゃんのことは頼んだわよ。私の可愛い『正座の一番弟子』なんだから」
「わかりましたよ」
 仕方なくという感じの秋青の返事が返ってきた。

 電話が終わってから、奈里河先生は部屋の隅の文机に目をやった。こげ茶色の光沢の文机の上に一枚の半紙が広げられている。少し汚れて折れている箇所もあるが、そこには、

「青木くんへ
 こんど、いっしょにあそんでください。
 青木くんは、オムレツ好きですか。
 正座するの、できますか?
 みすえ、とくいですから
 いっしょに正座して食べましょう。
           みすえ   」

 と、毛筆を習いたての拙い(つたない)文字で書いてある。いつ読んでもほほえましい。母親から正座の所作と、オムレツの作り方を習ったばかりらしい。
 小学三年生の時に、美座会が書いた問題のラブレターだ。
 奈里河先生がこれを持っていることは、美座会は知らない。

 数年前になるだろうか。
 お作法や着付けの師匠が集まる催しがあった。
 古都の山荘で行われ、ちょうど紅葉が見事な時期だった。山腹にある山荘からはもみじの赤、銀杏の黄色、常緑樹の緑が彩り、錦の美しさだ。
 廊下から眺めに見入っていると、ひとりの青年がやってきた。
 チャコールグレーのスーツに黒いシャツ、ネクタイは黒い糸で細かい刺繍の施されたものだ。豪華で気品の薫り立つセンスだ。
「お作法お師匠の奈里河先生ですね」
「はい」
「書道教室を開いている、冬青と申します」
「存じ上げています。最年少で文部科学省賞をお取りになったという……。それから破竹の勢いで昇進され、日本で一、二を争う書道家になられたんですね」
「いえいえ、僕などまだまだこれからのひよっこです。廊下のテーブルに掛けましょう」
 ふたりは良い眺めの見える廊下の竹椅子に着いた。
「何か、ご用でしょうか。着付けの先生が僕に……」
 奈里河先生が、尋ねる。
「実は……お宅のお弟子様に、美座会さんとおっしゃる方がおいででは?」
「美座会さんのことをご存じなんですか?」
「これを……」
 冬青はバッグから筒を出し、中の半紙を出して広げた。
「これは?」
 奈里河先生は、半紙の文章を読んでから、不思議そうに冬青に目を戻す。
「幼い美座会さんが、僕にくれた手紙です。多分、彼女からお聞きになっているでしょう」
「え? それじゃ」
 奈里河先生の顔に光が射した。
「そうです。僕が小学生の美座会さんの文字を笑った男です」
 冬青は頭をかいた。
「まあ、これが問題のラブレターなんですね。そのお話は美座会さんから何回も何回もお聞きしましたわ」
 奈里河先生はころころ笑った。
「ね? 笑ってしまうでしょう。字が笑ってますもんね」
「あなたが美座会ちゃんの初恋のお相手だなんて!」
「奇遇ですねえ。でもこのことは美座会さんには黙っておいてください。それと、私も奈里河先生の弟子にして下さいませんか」
「冬青先生をお弟子さんにですか?」
「ぜひ、お願いします。美座会さんとは稽古日は別にさせていただきますから」
「よ、よろしいですけど」
 奈里河先生は突然の申し出に、戸惑いながら承知した。
「よろしかったら、このラブレターを預からせていただけませんか? 美座会さんの健気な文字が可愛くって」

 というわけで、美座会の問題のラブレターは、奈里河先生の元にある。
 稽古日がぶつからないように奈里河先生に配慮してもらっているので、冬青と美座会のふたりは、何年も同じ教室でお作法や正座を習っていることを知らない。

第六章 帯締め結び

 着付け教室のお稽古は順調に進み、美座会は数か月で師範の資格を得た。すんなりお稽古に入れたのは、奈里河先生に長年お作法、正座を習っていたおかげだと思った。
「師範資格取得、おめでとう! 立派な卒業試験の帯結びだったよ」
 秋青が満面の笑顔で祝った。
 他の生徒には内緒でレストランの予約を取ってくれた。
「乾杯!」
 ふたりで祝杯を上げた。
 秋青は目に沁みるような真っ青の着物に黄色、黒、白の幾何学模様のスカーフを巻いている。
 美座会は秋青の流派に従って、洋風に着くずした若草色の振袖に真珠の帯締めをだらりと結んだ創作帯デザインだ。
 同時に授業の帯締めの創作結びを秋青から習うことができた。
 帯締めの結び方は種類が多く、様々な形、色とりどりな帯締めを使って美しい作品を創れるので美座会は夢中になった。
「秋青先生、あのパフォーマンスの時に、たすき掛けの蝶結びが曲がっていたなんて黒歴史としか思えませんわ。先生に指摘されたのも無理はありません」
 秋青は苦笑いする。
「今では創作帯締めが大好きです」
 秋青の手ほどきを受けて楽しんでいた。
 着付けのお稽古の前に、正座をしばらくして心を平静にするという決まりが良かったのかもしれない。美座会はすっかり穏やかな女の子に変わっていた。
「美座会さん、それは結構だが、そろそろ書道に戻らないといけないんじゃないかい?」
「そうなんです。私の本来の目標は書道の上達ですものね」
「兄の冬青といい勝負になりそうかい?」
 美座会は首を振った。
「冬青先生の足元にも及びません。あの男らしいダイナミックな筆文字パフォーマンスにはかないません」
「そうかな? 君の桜広場でのパフォーマンスも素晴らしかったよ」
「まあ、ご冗談を」
 満開の桜の出逢いを思い出した。
「そろそろ、兄貴に弟子入りしていいと思うよ。そのう、君の小さい頃のラブレター事件の決着もあるだろうし」
「それはもう……」
 美座会はかぶりを振った。
「あれ? 彼を見返してやるんじゃなかったの?」
「ずっとそう思ってましたけど、最近、悔しかった気持ちが薄らいできました。私の字なんてお習字習って間もなくのことで、それは汚かったんですもの。笑われたって無理なかったと思います」
「こりゃまた、おとなしくなったなあ。拍子抜けするじゃないか」
 秋青は残念そうにしているが、同時にニヤニヤしている。美座会を観察しているのは楽しいらしい。
「君はあの時、大きな半紙に『己』と一文字書いたね。豪快な文字だった。あの『己』というのは?」
「文字通り『自分』のことです。私は今まで自分が一番大切で、自分のことしか考えてなかった。自分のことを一番、好きだったんです。でも、秋青先生の元で正座を毎回、させていただいているうちに……『自分』の力だけでここまで来たんじゃないってことが、やっと分かったのです。周りの方々にたくさんお世話になったってことが」
 秋青は頷く。
「ここまで来たんだ。兄貴に習えばいい。話はしておくよ」
「は……はい」
「美座会ちゃん、自分を好きって、とても素敵なことだと思うな」
 グラス越しに見える秋青がウインクした。

第七章 「正座してオムレツ、食べよう」

 冬青に弟子入りして初日を迎えた。
 美座会は緊張を抑えられない。地味目の鶸(ひわ)色が基調の小紋を着て、障子の前に座った。
「先生、失礼いたします。葉山美座会と申します」
「おはいりなさい」
 冬青の、弟とは違う低い美声が迎えた。
 障子の桟(さん)に手を掛け、静かに開ける。畳の上に進み立ち上がった時、美座会は思わず「あっ」という声を出しそうになった。
 美座会の前にあるのは、古びた半紙の小学三年生の時の作品だ。
 大きな手が両側から半紙を持っている。
 美座会にはそれが、昔のラブレターのお習字だとひと目で分かった。
「それは……」
 半紙の横から、冬青の笑顔がのぞいた。
「まあ、冬青先生」
「よく来たね。弟から話は聞いていたよ。見事に着付けの師範に合格したそうじゃないか」
「秋青先生には大変、お世話になりました。あの……あの……、どうしてそのお習字を?」 
「これは、私のものだからさ――宝物」
「宝物?」
「小学校三年生の時に、一時期、転校していた女の子からもらったんだ。ええと……みすえちゃんという子から」
「えっ!」
 美座会の両手が頬っぺたを包んだ。
「じゃあ、冬青先生が――青木くん――?」
「あの時は、教室の中で見せびらかして笑ったりして悪かったね」
「青木くん! いえ、冬青先生!」
 しばらく和室に静寂が漂った。
 美座会は驚きのあまり、口をパクパクさせていた。
「許してくれる……かな?」
「…………いえ」
 美座会の瞳は改めて目の前の男を見据えた。
「許しません。女の子にあんなハジをかかせるなんて」
「じゃあ、どうすれば許してくれる?」
「……私と特大筆でパフォーマンスしてください」
「特大筆パフォーマンスを?」
「どちらがうまく書けるか勝負しましょう」
「あの時のリベンジだね。よし、いいとも。ふたりで特大筆パフォーマンスをしよう!」
 冬青は大きな手を差し出した。美座会はがっちりその手をつかみ、熱い握手を交わし――そのまま腕を引き寄せられたと思うと、冬青の唇が、ふわりと美座会の唇に重なっていた。

 勝負の当日。
 初冬の風のない晴れ渡った日。眼に沁みる青い空の下、美座会、冬青、秋青の三人が初めて出会った桜に囲まれた広場だ。
 冬青門下の生徒10人ほどの若者が準備についてくれた。毛氈や半紙を敷く仕事、墨の準備、見物客の整理など引き受けてくれたのだ。
 動画撮影係があちこちに3人いて、ドローンまで待機している。
「えらく念の入った準備ねえ」
 見物人に混じって座っているのは、緊張して見守っている奈里河先生だ。
 兄弟の行儀作法の先生だけあって、門下の生徒たちは下へも置かぬおもてなしだ。

 朝、美座会の元へ桐の箱に入った丹後ちりめんの着物一式と綸子(りんず)の帯揚げが届けられた。冬青からだ。
「戦の衣装です。秋青のところで私が選びました。この帯揚げでたすき掛けしてください」
 手紙が入っていた。開けてみると素晴らしい丹後ちりめんの新緑の若竹や花車の吉祥紋様(きっしょうもんよう)の振袖に、帯締めは金糸銀糸で編んである。帯揚げは緋色の綸子だ。
 手に取ってみた美座会は、熱い気持ちの満ちてくるのを感じた。それは戦意ではなく―――。

 さて、桜広場に冬青が現れた。紋付袴羽織姿だったが、羽織を脱いで白い紐で、素早くたすき掛けをした。
 美座会も贈られた振袖姿に、帯揚げでたすき掛けにし、額にも白い布をキリリと巻いた。
 半紙は毛氈の上に二枚敷かれている。
「へええ、半紙は二枚、ふたり別々の作品を書くのね」
 奈里河先生の口から期待の言葉がこぼれた。

 ふたりは別々の角で念入りな正座のお辞儀をしてから、対戦相手の顔に眼をやった。
(よし、精一杯の座礼が出来たわ。行くわよ、冬青さん!)
(いつでもいいよ、美座会ちゃん!)
 ふたりは同時に第一の筆を置いた。
 美座会は特大筆をあざやかにさばき、一分とかからず書き終えた。冬青も、ダイナミックな筆さばきで半紙いっぱいに書いた。
 ドローン班が、タイミングを外さずふたりの筆使いを撮影した。
 見物客も、奈里河先生も半紙が見えるように乗り出した。
 美座会の半紙には「となりに正座して」
 冬青の半紙には「オムレツ、食べよう」
 と書かれてある。
 奈里河先生はプっと吹き出した。美座会が小学生時代に冬青に送ったラブレターと同じ内容だったからだ。
 ふたりはまばゆく白に輝く半紙の前に正座し、文字に向かってゆっくり頭を下げた。
 奈里河先生と秋青が立ち上がって、拍手しながらふたりのところへ歩いてきた。
「素晴らしいパフォーマンスでしたよ、ふたりとも」
「ああ、美座会ちゃんも兄貴も言う事なしの着物の着こなしだ。特大筆の書道もな」
「心通じ合った者どうしの素晴らしい正座とお辞儀だったわ」
 美座会と冬青は、改めて奈里河先生に挨拶した。
「ありがとうございます。長い遠回りをしましたが、私たちやっとわかりあえました」
 正座して、そろって頭を下げた。
「まあ、じゃあ、あなたたち」
「はい。これから一緒に生きていきます」
「それは、それはおめでとう。良かったわね」
「……え――――ッ?」
 秋青が、ふたりを交互に見た。
「アニキたち、いつの間に? オムレツ、俺の分は?」
 青空に一拍遅れて秋青の叫びがこだまして、皆の笑いを誘った。


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