[317]正座できないカスミちゃん
タイトル:正座できないカスミちゃん
掲載日:2024/11/04
著者:海道 遠
イラスト:鬼倉 みのり
あらすじ:
ある春の夕暮れ、空手道場から帰ろうとする主将のイドムたちを呼び止めたひとりの女の子、カスミ。いきなり正座を教えてくれと言う。学校で倒れて病院に運ばれ、家族が自分にすがって泣いている光景を見たという。それから正座ができないことに気づいたと。
カスミは、このままでは心地くんとのお茶会お抹茶デートで正座ができないと焦っている。イドムは幽体離脱ではないかと思い、道場へ戻って師匠に相談する。
本文
第一章 正座入門
春も深まった、ある日の夕暮れのことである。
『極座流空手』と毛筆で書かれた看板の屋敷から、白い稽古着のままの少年たちがぞろぞろ出てきた。
黒帯を結んだ最後尾の少年が出ると、師匠らしき黒ヒゲの男が見送った。
「おお――っ! ありがとうございましたッ」
弟子一同、そろって両こぶしを固めて頭を下げ、元気よく挨拶する。
「うむ。また次回な」
少年たちは道場を後に歩き出した。
先頭の体格の良い黒帯の少年が歩いていると、後ろから後輩が呼び止める。
「主将、イドム主将。この女の子が何か用事があるそうですよ」
「女の子……?」
振り返ると、今、流行の透けた布のついたグリーンのロングスカートを穿いた十七、八歳の女の子が近づいてきた。
(なんて可愛い子だろう! 俺の推しの若手女優みたいだ!)
イドムはどっきりしたが、それを表情には表わさず、
「何か用ですか?」
素っ気なく言った。
「主将もスミに置けませんねッ。そんな愛想のない言い方は無いじゃないですか」
副主将がからかう。
「俺は知らん人だぞ」
「すみません。急にお引止めして」
女の子はおずおずと言った。
「いきなり知らない町へやってきて、道場の窓から、あなた方の練習をお見かけしましたので」
長い茶色の髪があまい色で頬の色も透けるように白い。
「で、何の用ですか?」
「あの、実は……正座を教えていただきたいのです」
「正座を?」
「練習を勝手に覗いていてすみません。あなた方の正座がとてもきびきびしていて、きれいで見入ってしまいました。どうか私に正座を教えてください」
「正座なら、作法教室やお行儀教室や茶道を習いに行った方がいいんじゃないだろうか? 武道の正座はカタチが少し違うからな」
「いいんです。私、この町は初めてで右も左も分かりません。ご無理を申しますが、お教えいただけるとありがたいのです」
「どうも分からんなぁ。どうしてそんなに慌ててるんだい」
「あ、すみません。私、今朝までは正座ができていたのですが、急に学校で熱を出して救急車で病院へ運ばれまして……。あれよあれよという間に、お医者さまや看護師さんに囲まれていて。息が苦しくてハアハアしていたのまでは覚えてるんですが、気がついたら夕方になっていて、病院の隅で正座しようとしてみましたら、何故かできないのです。それでパニックになってしまい、町を歩いている間にここに行きついたのです」
「で、もう身体は大丈夫なのかい?」
「はい。なんとも」
「あんた……」
イドムは真っ青になった。
「主将、どうかしたんですか?」
「お前たちは先に帰ってくれ。俺はこの人と道場へ戻る!」
「え……え?」
空手の仲間をそのまま置いて、イドムは少女の腕を引っぱって、道場の入口へ戻った。
師匠が出てきて、イドムに押し込められるように、三人は中へ戻った。
三人は暗い道場へ入った。師匠が灯りをつける。
「君、ここに座ってみて」
イドムが道場の床を指し示した。
茶色い長い髪の毛の女の子が、音もなく道場へやってきて、しゃがみこんだ。
「座れているじゃないか」
「あのう、それが、足が床に触れている感じがしないんです……」
イドムと師匠は首をかしげた。
「君、さっき、病院へ運びこまれて、急に知らない町へ来たと言ったな」
「は、はい……。父や母が慌てて病院へやってきて、私の身体にすがって泣いているのを、上の方から見てました」
「そ、それは、もしかして――ゆ、幽体離脱したんじゃないのか」
「え?」
「もしかすると、君、し、し、死んじゃって、足が無いんじゃないのか?」
「そういえば、歩いてきたというより浮いて進んできたような」
師匠は声にもならないかすれ声を上げた。
女の子はロングスカートの裾を少し持ち上げた。普通に足がある。
「足はありますけど、存在感がないんです」
「やっぱり、足が無いから正座できないんだ!」
「ひゃあぁぁ~~~~~!」
イドムと師匠は、腰が抜けたまま後ずさった。
(この女の子、幽霊――?)
イドムはまじまじと眺めてみるが、雰囲気は明るいし、とてもそんな風には思えない。あの、テレビのドッキリや映画で代表的な長い黒髪に白いワンピース姿でもないし。
「ウホン」
師匠がアゴひげを撫でながら、どうにか平静を保った。
「わしが修行時代に寺の和尚様から聞いた話では、人は亡くなった瞬間に足を失う。それは、足だけが極楽浄土に先に行ってしまうからである。足が極楽にあるかぎり魂をどこへも飛んでいかないようにするためだ」
イドムが口をはさむ。
「どうして日本の幽霊だけがそうなるんですか? 西洋の幽霊も台湾のキョンシーも足がありますよ」
「よけいなことは言わんでよろしい」
師匠はイドムを黙らせた。
「極楽で足を繋ぎ止めている座霊(ざだま)というものがある。どんなものかは分からぬが、足を放すまいという執念が籠もっている。
カスミさんの座霊を極楽から持って帰ってどうにかすれば、正座ができるようになるかもしれない」
「極楽から持って帰る!」
イドムはぶんぶん首を横に振った。青春真っ只中の十八歳で極楽の話なんかとんでもない。しかし、とんでもないものがくっついてきた。
「座霊って?」
「元は人間の足だが。人間が極楽浄土へ行くと、人格を持った個体となる。幼い子どもの姿をしているそうだ。元の人間が生きていた時代の記憶を持っている」
「座霊っていう子どもが足の代わりに出現する感じだな」
「極楽浄土の宝樹(ほうじゅ)という煌びやか(きらびやか)な樹になっている実の中から生まれると言われている」
沈黙が流れた。
「あ、あのう、カスミさん。君、素直に極楽浄土へ行ったらいいんじゃないかな? わざわざ困難なことして正座しなくたって」
「そ、それはイヤです!」
カスミは驚く剣幕で拒否した。
「自分が死んじゃったなんて自覚もないし、それに彼氏と約束してたんです。今度のお茶会に呼ぶから、正座のお稽古しておいてねって」
「あ、彼氏と約束。あっそ」
こういう話には、まったく縁がないイドムは、素っ気なく返事するしかない。
「イドム。今日はもう遅くなるから、カスミさんにはここに泊まってもらい、お前は帰宅しなさい。わしがあれこれ調べておいてやるから」
「師匠は、カスミさんが怖くないんですか?」
「ぜ~~んぜん。こんな美人と接近するのは、何十年ぶりだろうか?」
「師匠、襲ったりしちゃダメですよっ」
第二章 極楽浄土へ
翌朝は日曜だった。
イドムが道場に行ってみると、師匠が所せましと古びた巻物を床いっぱいに広げていた。
「おはようございます」
「おお、イドム。徹夜で極楽浄土へ行く方法を調べておったんだ」
「やだなあ、師匠。朝からそんな話……」
「だから、『本当に行かずに行く方法』だよ」
「ややこしい話ですね。――カスミさんは?」
「台所で朝ごはんを作っているぞ」
カスミが廊下のはしっこから顔を覗かせた。
「あ、イドムさん、おはようございます。今、朝ご飯ができますからね、師匠」
真っ白の割烹着を着て、満面の笑顔だ。
イドムは思わず、ポウッとなった。
「なんて可愛いんだ! 幽霊なんて全然、信じられないぞ」
三人で朝ごはんをいただいた。
師匠はやもめで、奥さんを亡くしてから、まともな食事にありついたことがない。
「大根とワカメのお味噌汁! アジの干物! サラダ! ヨーグルト! 真っ白いご飯! なんと感激だろう、カミさんの作ってくれた朝ごはんとそっくりだ! 割烹着もカミさんの形見だが、遺しておいて良かった!」
感激して泣いている。
「師匠は私のお父さんと同じくらいのご年齢かと思って、いつもお母さんが作ってるのと同じにしてみました」
「味噌汁の出汁(だし)が絶品だ! 美味い! 是非、うちの嫁に……」
「師匠、冗談言ってないで、昨夜の調べものの結果を言ってくださいよ!」
「あ、ああ。そうだった」
三人は道場に行き、師匠がいちばん古びた古文書を箱から出した。
「この巻物の記述によると、座霊というものは極楽の宝樹(ほうじゅ)という樹になる果実の中から生まれてくる幼児のようだ」
「人間の足の魂が、樹の実から生まれてくる? まったく思いもよらないな」
「イドム。この世のものなど、解明されているのは氷山の一角より小さい。世の中、不思議なことだらけだぞ」
「そうですね……」
イドムは神妙な顔つきでカスミを振り返った。
「この巻物によると、三日三晩、不動明王をお祀りする寺で護摩木(ごまぎ)を焚いて『西方浄土』と唱えて護摩木を持ち、亡き者が出現した場所から、極楽浄土へ行くことができるそうだ」
「つまり、カスミさんと出会った場所から行けるってことか」
カスミの視線が熱くイドムを見つめていた。
「お願い、イドムさん。私を座霊という果実のところへ連れていって、正座ができるようにしてください」
瞳が目薬のCMくらいにうるうるしている。
「絶対、俺まで極楽浄土から帰れなくなるってことはないんだな」
と、念を押した。
「ええと、現世への帰り方は座霊が知っているから、その教えに添うように書いてあるぞ」
師匠が古文書を読み上げた。
「座霊って、ガキ、いや、幼い子なんだろ。そんなのに説明できるのか?」
「しかし、古文書にはそう書いてある。手がかりはこれしかない」
「う~~~~ん」
イドムは腕を組んで考えこんだ。もし、このまま極楽から帰れなかったら、帰れなかったら……。
(父さんや母さんは泣くだろうし、空手の後輩たちも泣いてくれるだろうし、夏の全国大会はどうなるんだ? 俺の人生は、高校三年生でおしまいってことか――?)
「イドムさん、お願い。もう一度、彼氏と正座したいの」
(う~~む。それがひっかかるんだよな。どうして俺は、人の恋のために命をかけなきゃいけないんだ?)
「イドム。お前が行かないんなら、わしが行ってもいいんだぞ」
師匠がとんでもないことを言い出した。
「師匠! 師匠にだけ、イイカッコさせられませんよ! やっぱり僕が行きます!」
「ほんとう、イドムさん、ありがとう、ありがとうございますっ」
すがりつくようにお礼を言われて、引くに引けなくなったイドムだった。
師匠が急いで、不動明王を祀る密教の寺に頼んで護摩木焚きのご祈祷を申し込んだ。三日間の護摩木焚きをほどこしてもらい、イドムは密教のご祈祷法の火渡りまでやった。
「あっちぃ~~! 足の裏が燃えるかと思ったぜ」
カスミも火渡りをやったが、足の存在感が無いので熱さも感じなかったようだ。
「ごめんなさいね。私のために」
「空手の修行のうちと思えば、こんなのはなんでもないさ。絶対に極楽行きを成功させなけりゃな」
時は満ちた。イドムがカスミと出会った場所へ行ってみる。
イドムもカスミも確かにご祈祷の終わった護摩木の札を持った。師匠が古文書を広げて目を皿のようにして睨みつける。
「日没と同時に『西方浄土、西方浄土』と唱えて、沈みゆく太陽に向かって正座し、合掌するのだ」
「だ~か~ら~、カスミさんは座れないんだってば」
「お前がおんぶして正座しろ」
「え、古文書にそう書いてあるのか?」
「とっさにわしが思いついただけだ。試しにやってみろ」
「もう、いいかげんなんだから~~」
仕方なく、イドムが道端に膝をついてかかとの上に座り、所作通り正座して、カスミに背中に乗るようにうながした。カスミは、ちょっと照れた様子でイドムの背中にもたれた。
西に傾いた太陽は、だんだん山の端に隠れていく。
イドムとカスミは合掌して、「西方浄土、西方浄土へ行かせてください」と言い続けた。
「イドムのやつ、役得だな~~」
師匠の悔しそうな声が遠のいていく。
イドムがふと意識を取り戻すと、辺りは真っ暗だった。地面が冷え切って冷たい。
「ここ、どこだっけ? あ、カスミさんは?」
かたわらに倒れていたカスミも目を覚ましたところだ。
「イドムさん。極楽浄土ってこんなに真っ暗なのかしら?」
「あっちに少し明るいところが見える。行ってみよう」
岩に覆われた壁の向こうが明るい。イドムが力を込めて岩を崩すと眩しい光がどっと入ってきた。
「うわ、なんだ、この金銀キラキラ、目も開けてられない眩しい世界は!」
第三章 座霊(ざだま)
それは彩雲の上にある都市とでも表現しようか。
空間も地上も、華池や宝楼、宝閣などの建物もまた浄土の宝樹も、皆、金銀珠玉をちりばめ、百千万の宝をもって厳飾されている。けばけばしくなく清らかな美しさだ。
軽やかに飛んでいるのは、艶やかな布をまとった天女だろうか。その辺に生えている果実を自由にもぎ取り、食べている。
「あのう、座霊が生る(なる)宝樹はどの木ですか?」
イドムがひとりの天女に尋ねると、たおやかな手つきで指さした。
丘の上に、ひと際金色と紅色に輝く樹がある。
ふたりが行きつくと、黄金に輝く実がたくさん生っている。
目の前にぶら下がっていた実から声がするので、もぎ取ってみると一才くらいの人間の子が出てきた。ヘソの緒が樹の枝とつながっている。真っ裸で金色の巻き毛をしていて西洋のエンジェルみたいだ。
カスミを指さし、「あ、俺の元のヌシ!」と叫んだので、カスミの座霊だと分かった。イドムがガバッと捕まえようとすると、
「おいらを捕まえてどうするつもりさ」
「お前がいなくなったおかげでカスミさんが正座できくなって困っている。早く戻ってあげてくれ!」
「それはできないさ。俺が戻ったら、カスミおねえちゃんは生き返ってしまう」
「生き返ればいいじゃないか」
「それはできない。人間の寿命は決まっているからね。一度、極楽浄土へ行くことが決まった者を生き返らせたとしたら、おいらが浄土の偉い仏様から叱られちまう」
「私の足を返して!」
叫ぶカスミ。
「や〜だよ! 返したら、あの男とデートするんだろ」
「どうして、そのことを?」
「おいら、カスミおねえちゃんが現世にいた時のこと、全部知ってるもん」
「ま〜、子どものくせに!」
イドムは座霊を捕まえた。
「おい、カスミさんの彼氏ってどんな奴だ?」
「ま、あんたよりはイイ男だな。こんなに汗臭くないし、鼻は高いし」
「なんだとお」
「おねえちゃん、極楽浄土って、来るのは簡単なようで難しいんだよ。方法その一、南無阿弥陀仏を一日、数万回唱える。方法その二、臨終(りんじゅう)の時、平穏な気持ちでいる。方法その三、えっと何だっけ? とにかく難しいのに来たくないなんて贅沢だよ。ここに来れば、永遠に食べ物にも衣服にも困らずに平和に暮らせるんだよ」
「来たくて来たんじゃないわ。私は心地(ここち)くんとのお抹茶デートを楽しみにしてたのに、急に幽霊になってしまったらしいの」
「心地っていうんだな、彼氏の名前は。ココアみたいな名前だな」
イドムが口をとがらせて言うと、
「ココアじゃないわ。心地くんとのお抹茶デートをバカにしないで」
カスミもむくれた。
「心地くんは、華道の家元のお坊ちゃんよ。それはそれはお上品で彼の正座といったら、どんなに清らかで静かな世界か……」
カスミのうっとりした口調が、イドムは面白くない。
第四章 座霊の好きなもの
「よおし!」
イドムは膝を叩いて立ち上がった。
ちょうど右横から滑空してきた水色の衣の天女に声をかける。
「あのう、ちょっと聞きますが、座霊の好きなものって何だかわかりますか?」
「どうしたの、イドムさん」
カスミが聞いた。
「あの口達者なチビの相手していたら、いつになったら連れて帰れるか分からない。だから、好きなものをいっぱいやるからって、カスミさんの足に戻るように好きなもので釣るんだよ」
「まあ、言うこときくかしら?」
天女は首をかしげ、
「座霊の好きなものねえ? 元は人の足ですから、速く走れることかしら? 『走れ! マキバオーの歌』とか?」
「なんてこった! 座ることと正反対じゃないか!」
イドムはオデコに手を当てた。カスミは嬉しそうに、
「私の足ならオシャレな靴、いっぱいほしいですけど」
「そうか! それじゃ」
イドムはジャージのポケットからスマホを取り出し、靴の通販サイトにアクセスしてみた。
「無事にここまで届くかしら」
「やってみなきゃ分からん。アクセスできたぞ。好きな靴、選んでくれ。離島扱いになるのかな。送料が高くつきそうだ」
「座霊はなぜか男の子よ。女物の靴が好きかしら」
ふたりで宝樹の根元でゴニュゴニョ話していると、座霊が枝から逆さにぶら下がって言った。
「おいらが男の子だって? 見くびるなよ。カスミねえちゃんの足だぜ。立派なレディに決まってるじゃんかよ」
「えええ~~~?」
イドムもカスミも目を飛び出させた。
「お前、その言葉づかいで女かよ!」
「失礼だな、女だよ!」
「……」
「……」
沈黙の後、カスミがイドムのスマホを覗きこみ、
「あ、靴だったわね。どれどれ? う~~ん、この赤いサンダルとパンプスと、キャメルのショートブーツね。ついでにバッグとソックスも買っていい? あ、このアンクレット素敵!」
「そんなにたくさん……」
「後でちゃんと代金はお支払いするわよ。で、住所はどうすればいいの?」
「極楽浄土、座霊の宝樹付近、でいいよ」
座霊がウキウキした表情で答えた。
「座霊。カスミさんの足に戻ったら、こんなカッコいい靴がいろいろ履けるんだぜ。戻るよな」
「考えてやってもいいぜ」
「お願い、戻って! 足が無いと心地くんとのお抹茶デートがふいになっちゃうの!」
「だから考えてやるって。枝とつながってるヘソの緒をどうにかしてくれたらな」
座霊は真っ赤な果物を頬ばって、でかい態度でいる。
第五章 宅配便
「極楽浄土、宝樹というのはこの辺でしょうか?」
宅配便配達のおにいさんが来た。カスミの注文した靴が届いたのだ。
「はい。ここですよ」
木陰から顔を覗かしたカスミが絶句した。
配達員が、お抹茶デートの相手の心地くんだったからだ。
「心地くん? どうして心地くんが配達員?」
「どうしてカスミちゃんが極楽に!」
心地くんの方も驚愕している。親しいカスミが極楽浄土にいるとは!
「ボ……ボクはバイトだよ。お小遣いくらい自分で稼ぎなさいって言われて」
「そうなの……。華道の家元さんて厳しいのね」
「カスミちゃんはどうして?」
「わ、私は……」
(急に極楽へ来てしまった)
とも言えなくて困る。どうやら心地くんはカスミが倒れたことも何も知らないようだ。
座霊は、心地くんが持ってきた靴が気にいらなくて駄々をこねる。
「こんなでかい靴、おいらはブカブカだよ」
「だから座霊、お前がカスミさんの足に戻ればいいじゃないか」
「イヤだよ、おいら、ここが気に入ってるんだ」
「それでも女の子なんだろ? きれいな靴を履いて町を歩きたくないのか」
あれほど七色に輝いて美しかった極楽が薄暗くなってきた。彼方には、どんよりした海が見える。
「あれ? 海なんて見えてたっけ?」
空を舞っていた天女たちの姿が見えなくなり、生暖かい風が頬に吹きつけてくる。
「あ、あれは何?」
カスミが指さした方を見ると、水平線の向こうから、おどろおどろしい形相をした赤黒い鬼の大群が、板に乗ってやってくるではないか。
「あっ、あれは……」
座霊が叫んだ。
驚いているイドムの背後から、空手の師匠が息せききってやってきた。
「師匠!」
「おお、イドム。さっき、心地くんという宅配員さんが来なかったかい?」
「来たけど」
「あの宅配員に極楽浄土への行き方を尋ねられて、通行証の護摩木札をご祈祷の済んでいないものと間違えて渡してしまったんだ!」
「それで、鬼どもが怒って水平線の向こうからやってきたのか」
座霊は生意気に納得した顔で言った。
第六章 鬼の来襲
赤黒い顔をした鬼たちは、板を漕いでやってきた。
「きゃあっ、鬼たちが海岸から上がってきたわよ!」
カスミが叫ぶ。
現世に戻ろうとしていた心地くんが、鬼に行く手をふさがれて悲鳴をあげて戻ってきた。師匠が、
「イドム! カスミさん、宅配員くんも、ばらばらになるな。座霊を真ん中にしてひとかたまりになるのだ」
眼玉をぎょろつかせて、牙をむき出しにした獰猛そうな鬼たちは、イドムたちの円陣に迫って来る。
一匹の鬼がつんのめって前に倒れた。足蹴りを食らわせたのは、空手の黒帯を締めた若者だ。
「主将、無事か!」
「おお、副主将!」
背後から空手の稽古着を着た若者たち十数名が駆けてきて、鬼たちに迫る。
「主将、加勢に来ましたぜ!」
「お前たち! よく来てくれた!」
空手道場の仲間たちだ。倍くらいも背の高い鬼たちを恐れず、空手のワザで次々にやっつけていく。
「主将、わけは師匠から聞いた。この間に早くカスミさんを現世に連れて帰ってくれ!」
「お前たち、恩に着る!」
イドムがカスミの手を引いて行こうとすると、
「あ、私の足が! 座霊は?」
座霊は、自分のヘソの緒を咬み切り、イドムとカスミと一緒に走り出した。
「鬼どもが来たんじゃ、現世に帰らないと仕方ねえや」
宝樹から離れた座霊は勢いよく走り出した。
「座霊、お前、風小僧みたいだな!」
ふと座霊の姿は消えた。
「あ、走ってる、私の足が走ってる!」
カスミが叫んだ。
「地面を踏みしめて走ってるわ! しっかり実感してる!」
イドムたちは、最初に出てきた洞窟の穴に飛びこみ、鬼どもが入ってこないように護摩木の木札をかざしながら岩を積んだ。
「皆、そろってるか?」
師匠が叫んだ。
イドム、カスミ、心地、そして空手道場の仲間たち。全員そろっている。
「胸騒ぎを感じて、護摩木の数を増やして良かった」
「はい、師匠のおかげでイドム主将たちを助けられました!」
空手の仲間たちは輝いた顔をしていた。
「よく来てくれた、みんな! 鬼に食われるところだったぞ」
「主将、間に合ってよかった!」
イドムは辺りを見回した。
生意気な子どもの姿をした座霊が見当たらないが、カスミの足に戻ったのだろう。つまり、カスミは現世に生き返ったのだ。
「心地さん、もう会えないかと思った! 私、極楽浄土へ行ってたのよ」
「ボクも驚いたよ、カスミちゃん」
「幽霊になってしまって、足が無ければ心地さんと約束したお茶会で正座ができなかったところだわ」
ふたりは手を握りしめた。
「コホン、コホン。感動の再会は地上に戻ってからにしてくれ」
イドムと師匠は同時に言った。
第七章 抹茶デート
次の週末、心地くんの家でお茶会が開かれているはずの時刻である。イドムは落ち着かなかった。
(このままだと、カスミさんと心地は、仲よく正座の抹茶デートして、もっとラブラブになるだろう)
(俺が極楽へ命がけで行って助け出さなきゃ、不可能だったろうに)
悔しさがこみあげてくる。
自宅の部屋で寝転がっていても落ち着かない。
窓の外から、
「主将~~!」
顔を覗かせてみると空手道場の仲間たちだ。
「このままでいいんですかい? カスミさんをこの世に連れ戻したのは主将ですよ。あの宅配員にかっさらわれてしまいますよ!」
「あんな可愛い人は、めったにいませんぜ」
「……」
イズムは答えずに窓を閉めた。
(だって、俺は空手の正座しか知らない荒々しい男だしさ。あの心地ってのは華道家元の跡継ぎっていうじゃないか。比べもんにならねえよ。きっとカスミさんはあいつと婚約する)
絶望して、もう一度ベッドにダイブした。
『いや、女心と秋の空……、いや春の夕暮れ、分からないもんだぜ』
甲高い声がした。
『くくくくっ』
笑う。
「その声は……」
窓の外のモクレンの木が風にざわめき、大きなつぼみから、あいつが笑っているのが見えた。
「座霊! どうしてうちの樹に?」
『ふふふ、おいらはどんな樹木にも宿れるんだ』
「また、カスミさんの足を離れたのかっ?」
「いんや、離れてないよ。ちょっと覗きに来ただけ。カスミさんは、しっかり気持ちを固めてるから、二度とふんわり身体から離れたりしないよ。安心しな」
「どういうことだ?」
「さっき、お茶席の晴れ着のまんま、慌てて空手道場へ走っていったぜ。何かお前に言いたいことがあるんじゃないかな~~?」
「なにっ?」
(空手道場へ走っていった?)
イドムの身体は階段を駆け下り、道路へ飛び出て空手道場へ向かっていた。
息をはずませて空手道場へ駆けこむと、
「いや~~~あ、ハッ!」
「とうっ!」
殺気極まる掛け声が聞こえた。
ぎりぎり真っ赤な飛び蹴りを、イドムは避けることができた。
(真っ赤な……?)
真っ赤な着地したモノを見て、イドムはぎょっとした。
「カスミさん!」
真っ赤な地にピンクの牡丹を描いた晴れ着をたすき掛けしてまとめ、着物の裾を帯に挟んでいるカスミではないか。
「どうして?」
「あ、師匠を狙ったつもりが、ごめんなさい」
カスミと対戦していた師匠が「待った」をかける。
「いや~~、カスミちゃん、なかなかスジがよいわ。ちょっと休憩だ」
カスミはたすき掛けのヒモをほどき、床に置いて美しい所作で正座した。
「『カスミちゃん』だって? どうしてカスミさんがここに?」
「イドムさん。私、極楽から帰ってから、師匠に空手のお稽古をつけてもらっていたの。普通の正座より、逞しい武道の正座が気に入ってしまって。それで今日もお茶会を抜けてきたの」
「じゃあ、心地くんとやらの抹茶デートは?」
「お抹茶デート? なんだかじれったくなって。私には空手のバリッと空気を引き裂くような正座が合ってるみたい」
「じゃ、心地くんとは結ばれないんだな」
イドムが晴れやかな顔でカスミをハグしようとした時……。
「ええ! 空手師匠の奥さんにしてもらうわ。なんたって、私を極楽浄土から連れ戻してくれた方ですもの」
「え、それは、俺……」
「三日間、護摩木祈願をして極楽への木札をもらってくださったのも、迎えに来てくださったのも師匠ですもの」
カスミは師匠をチラリと見て頬を染めた。師匠に正座し、丁寧に頭を下げた。
「お師匠、正座と朝ごはん、修行してやってください」
「……というわけなんだ。な、カスミちゃん。許せよ、イドム」
師匠の鼻の下が伸びている。
イドムのまぶたの裏に、先日、師匠の先妻さんの割烹着を着て朝ごはんを作っていたカスミの姿がよみがえった。
「そ、そんな……。クマみたいな師匠がカスミさんを妻に――!」
目の前に真っ赤な花の髪飾りが落ちた。力の抜けたイドムはがくりと膝を折った。