[327]お江戸正座17


タイトル:お江戸正座17

掲載日:2024/12/19
著者:虹海 美野

あらすじ:
おつたは料亭の娘である。
お琴やお裁縫、行儀見習いに通っている。
おつたは幼い頃より、手習いで一緒だった年上の札差の若旦那、良太を思っているが、長いこと会っていない。
だがある日、良太が義理の弟とともに店にやって来た。
更に、良太が以前より聴き入っていた琴の音がおつたの琴だとわかり、また聴きたいと言ってくれた。
思いを伝えたいおつたは、行儀見習いの師に居住まいを正し、正座して、どうしたらよいかと相談し……。

本文

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 おつたは、料亭の娘である。兄が三人おり、末の長女として生まれた。
 家はそれなりに余裕があり、兄たち三人は板場で仕込まれ、お商売についても学んでいるが、おつたは踊りやお琴、お三味線といった芸事とともに、お裁縫もしっかりと仕込まれた。嫁ぎ先は決まっていないが、お父ちゃんの代で大きくなった料亭の一人娘。どこへ嫁いでもやっていけるようにとの親心は、おつたにもわかっていた。
 今日はお武家様でご奉公を終えたご新造さんの元で行儀見習いを学んだ。当初、四人ほどで学んでいたが、三人が縁談が決まり、祝言を挙げたので、今はおつたひとりである。このままひとりで通っていいものか、とおつたは先方の都合を訊いたが、手習い後に通いたいというお嬢さんが二人、今のお稽古事を終えてひと月後から通いたいというお嬢さんが二人いるので、今のうちにしっかり個々でお稽古しましょうという返事であった。
 このご新造さん、旦那さんは戯作者なのだと言う。
 こちらに通うことになり、途中立ち寄った菓子屋のおかみさんと常連さんと思しき噂話によれば、ご新造さんはもともと裕福な家の出であったが、お友達の家に書生で住んでいた、この後に旦那さんとなるお人を想い、引く手あまたであったであろう縁談話が持ち上がる前に、さっさと戯作者の旦那さんの元へ嫁いだのだそうだ。その旦那さんも、茶葉を売る問屋の息子だったとかで、家自体はそこそこに余裕があったのだそうだ。ただまあ、戯作者としてやっていくとなると、それまでのような生活が難しかったのか、一人で暮らしていた頃は、大層古く、あまり建付けもよろしくない住まいで、二日に一度米を炊いて食べればいい方、というくらい、自由というか、自活がおぼつかぬというか、受け取り方はそれぞれであろうが、そんなふうに暮らしていたらしい。それが、ご新造さんと一緒になり、広くしっかりとした家で暮らし始め、旦那さんは戯作に精を出し、ご新造さんは行儀見習いの教室を自宅で開きつつ、夫婦仲良く暮らしているそうだ。
 なんとも夢のある話である。
 おつたは今日もこのご新造さんの元で行儀見習いを終えた。
 ここでおいとまするところだが、ご新造さんは、夫の家から新茶をいただいので、よろしかったらどうぞ、と茶を勧めてくださった。
 茶を出していただいたからといっても、師を前にしている。
 おつたは居住まいを正す。
 背筋を伸ばし、着物をきれいに尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬように気を付ける。手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
 出していただいた茶は、香りがよく、甘さと苦味が絶妙で、大層おいしかった。ゆっくりと口内から身体へと茶が入ると、思わず、ああ、と目を閉じ、うっとりするほど、柔らかだけれど、しっかりとした味わいである。
「あの、この茶葉はどこで買えるのでしょうか」と、おつたは訊ねた。
 料亭の娘であるおつたは、出汁の風味や、調味料の味に鋭かった。
「諏訪理田屋というお店をご存知ですか? なんだか、お嬢さんに宣伝をしているようで気が引けますが」
「いえ、私は店は継ぎませんが、おいしいものを家族にも教えてあげたいと幼い頃より思っております」
「それは、それは、優しいお嬢さんで、ご両親も幸せですね」
 そう言った師は、帰り際、小さな可愛らしい茶筒に、先ほどの茶葉を入れ、持たせてくれたのだった。


 まるで、幸せを分けていただいたようだ、とおつたは思った。
 誰にも言ったことはないが、おつたには想う人がいる。
 年はおつたよりも五つくらい年上だ。
 そのお相手は、札差の若旦那で良太という。
 品があり、優しいおもてをしているだけでなく、大層勤勉で、ほかの子どもと違い、落ちついていた。
 おつたが手習いに入った時には、もう良太は十二になる頃で、手習いで一緒だったのは、一年ほどだった。良太には良次という弟さんがいて、おつたよりひとつ下におりつという妹もいた。一方のおつたにも、兄がいるから、良太が年の離れた遠い存在という意識はなかった。特別親しい間柄でもなかったし、一緒に遊んだ記憶もない。だが、おつたは、良太のことを覚えていた。ついでに言うと、よく見ていた。
 良太は落ち着きのないほかの子どもが、真面目な良太をからかったり、ちょっかいを出しても、動じなかったし、やり返さなかった。その様子に、おつたは心引かれた。おつたの家の板前の中には、気の短い人もいて、見ていて大人になれば皆が皆、落ち着くものでもないのだと思った。
 その中で、まだ子どもでありながら、いつも文机に向かい、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、真剣に書を学び、算術に打ち込む良太は、皆と違う、とおつたは思った。良太のそうした性格もさることながら、おつたにとって、良太は特別であったのだ。
 おつたはいずれ、店の板前とか、番頭なんかと一緒になって、暖簾分けをしたお店のご新造さんになるかも知れぬ。または、お父ちゃんが探してきた縁談で、そこそこに余裕のある家へ嫁ぐのかも知れぬ。はっきりとはわからぬが、大概、そんな感じであろう。そういうものであると理解する一方、おつたの中には、昔のままの良太がいた。
 良太は長男であったから、今頃はもう、ご新造さんが来て、店を立派に継いでいるかも知れぬ。その幸運なご新造さんがうらやましい、とたまに思う。
 そんな矢先、ご贔屓にしてくださる、札差の若旦那の一人の兄だったかが、良太の妹のおりつと祝言を挙げたと聞いた。とにかく、良太の妹、ということは覚えている。
 まあ、と思わずおつたは声を上げた。
 久しぶりに良太の名を聞いたこと、そうしてその良太の妹が祝言を挙げたこと。
 もう、そういう年になったのか、という思いとともに、ずっと心でだけ想っていた人の名を人づてに聞き、何やら浮足立つ。
 直接良太がここへ来たわけではないが、大層縁あるお客が来ていた。
 もう、それだけで感無量であった。


 日が落ちかけていたが、おつたはお琴の練習をしていた。
 良太に関する人の話を聞き、なんだか心浮き立ち、いつも以上にお稽古に励む気力が湧く。
 店の方では、お三味線を弾きながら唄う人なんかも来ていて、大層賑わっている様子である。おつたがお三味線やお琴で筋がいいと褒められるのは、練習のほかに、こうして店の方から聞こえる音曲に幼い頃より親しんできたのもあるかも知れなかった。
 夕餉だと呼ばれ、部屋を出ると、「ご馳走さまでした。大層おいしかったです」という声とともに、「ありがとうございます」と言う手代の声が聞こえた。
 おつたのお父ちゃんの店は、最初小さな貸店舗で膳と酒を出していた。それが、菜のものの味付けとか、盛り付けとか、そういうものが丁寧だと評判になって、どこぞの問屋の旦那だとか、著名な戯作者だとかが来るようになり、今の大きな店を持ち、裕福な人たちの集まりだの、大事な顔合わせだのに使われることが増えた。そのせいかわからぬが、今のように親しみがあり、丁寧な言葉で店を出るお客というのは少なくなった気がする。
 下足番が下駄を出し、見送った後に、お母ちゃんに「今のお客さんは?」と尋ねてみた。
「ああ、ほら、覚えてないかい? 手習いの時に一緒だった札差の一家の長男の良太さんよ」
 なんとなく、そんな予感はあった。
 しかし、「ええと、誰だったかしら……」とわざとうろ覚えの振りをし、「ああ、おりつちゃんのお兄さんね」と、さもおりつが一番記憶に残っているかのように装った。
「そうそう。今いらしたの、おりつちゃんの旦那さんと、良太さんだったのよ。前からおりつちゃんの旦那さんの弟さんは来てくださっていたんだけどね、少し前におりつちゃんの旦那さんが来て、その旦那さんが良太さんを連れて来てくれてね」
 ああ、おりつちゃん!
 いい旦那さんと一緒になったのね。
「ねえ、おりつちゃんが祝言を挙げたということは、その、誰だったかしら、おりつちゃんのお兄さん二人は、もうご新造さんがいるということなのかしら」
 ついでに、気がかりだったことを訊いてみる。
「ええと、まだだったんじゃないかしら。あの札差のおうちだものね。それこそ、若旦那が誰かと一緒になったら、ここらの人が教えてくれるでしょう」
「へえ、ああ、そうなの。なんだか格式高そうなおうちだものね」と適当に返しつつ、おつたは歓喜する。
「まあ、立派なおうちだけれどね、うちだって、お父ちゃんとお母ちゃんが二人で始めた店が、一代でここまで大きくなったし、おつただって立派なお嬢さんよ」
 おつたとしては、家が立派なことはそれほど関心がないが、そこにこだわりがあるらしいお母ちゃんは、そう返す。
 良太がまだ身を固めていないのなら、それでよい。
 感動冷めやらぬ思いで、「お母ちゃん、もうそろそろ、ここのお運びの人もお仕事の終わる頃でしょう? お部屋の方の片づけをしておきます」と申し出た。
「おつたが? まあ、嬉しいけど……」
「たまには、お店のこともしないと」
 いそいそと良太の使った部屋へ行こうとするおつたの袖を、お母ちゃんが捕まえる。
「おつた、もしかして、嫁ぐのを諦めて、ここにいたいってことかい? それならそうと言いなさいね。手伝ってくれるのは嬉しいけど、うちは今は皿や掛け軸もいいものを使っているから、ここでやっていくなら、それなりに……」
 うるさいお母ちゃんに適当にはいはい、と返事をし、おつたは客室へ急ぐ。
 広い和室には、ふたつの座布団が残っていた。
 お母ちゃんが呼び止めるから、お運びの人が、もう膳を片づけた後だった。
 さすがに良太の使った箸を懐に入れるようなことはしないつもりだが、否、あくまでも懐に入れぬまでも、まあ、手に取って眺めてみようというくらいの考えが完全にないわけではないが、多少がっかりしつつも、まだ座布団が残っていたことで喜ぶことにした。
 さて、良太はどちらに座ったのか……。
 立場的には、良太はおりつちゃんの旦那さんの義理の兄になるのだから、奥に座りそうなものだが、良太は大層奥ゆかしい性格である。
 相手が義理の弟だからといって、奥に座るだろうか……。
 まあ、どっちにも座ってみればいいのだ。
 おりつはまず、奥の席の座布団に正座した。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように。
 どれくらいそうしていたのか。
 それから、今度は向かいの席の座布団でも同じことをする。
 ああ、どちらに良太が座ったのか、ちいともわからぬ。
 しまいには、畳に伏して良太の気配を探す。
 なんだか、年配の方が好む香が僅かに漂っている。
 この香は、良太さん?
 やはり奥ゆかしい……。
「おや、お嬢さん、どうかされましたか?」と、お運び係が訪ねた。
 おつたは、はっと居住まいを正し、「いえ、ちょっとお稽古で疲れて。ここ、おりつちゃんのお兄さんの、ええと、確か、良太さん、とかいう方が使った部屋だったかしら?」と、愛想笑いをした。
「ああ、その部屋でしたら、この隣です。今片づけが終わりまして、次はこちらの部屋を片付けたいのですが、お嬢さん、いかがされます? もう少しこちらで休まれますか?」
 善良なお運び係の言葉に、「もう大丈夫。これから夕餉だから。ああ、疲れが取れたわ」と誤魔化し、おつたは部屋を出た。
 ……どっちの座布団にも、良太は座っていなかった。
 一体、何をしているのやら。
「ああ、そうそう、このお部屋はどんなお客さんだったのかしら」と、ふと戻り、尋ねる。
 片づけていたお運び係が「よく来てくださっている、質屋の大旦那とそのお連れさんです」と答える。
 あの、好々爺の大旦那……。
 いい人である。
 ……膳を片づけた後でよかった、と思ってはいけぬ。
 はあ、と息をつき、おつたは自分自身に疲れ、夕餉に向かった。


 良太は、それからまた店に来た。
 たまたまおつたはお稽古が終わって帰って来たところで、店に入る姿を後ろから見られたのはよかった。
 だが、一緒にいたのが、かつて手習いでよく良太をからかったり、時に良太の筆なんぞをわざと壊しもした人物だった。もうずいぶん時が経っていたが、良太に迷惑をかけていた者はわかる。
 名前はもう忘れた。
 もしや、何かよからぬことでも起きているのではないか。
 良太が何かにつけこまれ、脅されているということはないか。
 さまざまな不安が湧きあがる。
 お運び係が、果実酒と酒の入った徳利、それに菜のものを次々に運んでいく。
 おつたは自分の部屋に向かう振りをし、そっと客室の方へ行った。
 今度はどの部屋を使うか、きちんと階段の影から見ていた。
 間違いない。
 意を決して、二人のいる部屋へ近づく。
 何かあれば、全力で良太を助けるつもりだった。
 それに良太が恩義を感じてくれ、そこからお付き合いが始まる、というのも悪い話ではない……。
 勝手におつたが良太を助ける場面を想像し、ついでにお付き合いが始まったら、どこへ行こう、ああ、着物は何にしよう、新しいものを作ってもらおう、などと考えつつ、襖に耳をつけてみた。
 初めのうちは静かだったが、次第に和気あいあいとした声になり、どんどんと楽しそうな様子になっていく。
 あれれれ?
 何がどうしてそうなったのか?
 自分の出番はなさそうである。
 ちょっとがっかりしたところへ、「これは、おつたちゃんではないかい?」と声をかけられた。
 びくり、とすれば、質屋の大旦那。
 この前畳に残っていたお香と同じ匂いがする……。
 ああ、この人のいた部屋の畳に伏せて、良太の残り香と間違えていたとは……。
「立派な娘さんになって。はて、そこで何をしておるのかね」
「……お客さまが、どのようにうちの料理を楽しまれているのか、少し気になったもので……」
 言葉少なに、おつたはその場を離れた。
 なんとも、名残惜しい。
 自分の部屋に戻り、暫し、正座をする。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
 そうしてどのくらい経ったか。
 ふと、お三味線の練習をしようと思い立った。
 店の客室には届かぬだろうが、店から通りに出た時に、聞こえるかも知れぬ。
 なんとも情けないというか、切ないというか、そんな思いでおつたはお三味線を弾いたのだった。


 思いもよらぬことが起こったのは、それから暫くのことだった。
 お琴のお稽古を終えて、お師匠様の元を出て歩いていると、橋の袂に良太がいた。
 良太は一人であった。
 声をかけたものかどうか……。
 すぐに駆け寄り、名を呼びたかった。
 だが、良太とは手習い以降、顔を合わせていない。
 もう、十年にもなろうか。
 その間に良太は札差の若旦那になり、おつたにしても料亭の一人娘にして、もう嫁いでもよい年になった。
 ああ、こんなことなら、もっと幼いうちから良太に思いを伝えればよかった。
 すぐそばにいる良太を見つけても、心は何やら落ちて、足取り重く、下駄が砂利を蹴った。
 その砂利が、あろうことか、良太に飛んだ。
 ふと、良太が振り返る。
「すみません」と、おつたは詫びた。
「もしかして、料亭のお嬢さん、おつたさんではありませんか」と、良太は訊いた。
 おつたは顔を上げ、「はい、おなつかしゅうございます。良太さん」と顔を上げた。
 ああ、思っていた通り、否、それ以上に、昔の面差しを残したまま、良太は立派な二枚目になっているではないか。
 感激もひとしおである。
「あの、もしかすると、そこの先にある教室でお琴を弾いていらしたのは、おつたさんではありませんか」
「はあ」とおつたは返した。
 確かに今しがたまで、お琴のお教室にいた。
「私ですが」
 こちらは十年越しの再会、そしてあいさつと喜んでいたところへ、なぜお琴?
 何かお知りになりたいご様子らしいが、さっぱりわからぬ。
「ああ、やはり」と、良太は目を輝かせる。
 手習いの頃から落ち着いていた良太が、こんなにも目を輝かせ、耳まで赤くなっているのを、おつたは初めて見た。
「実は、以前にそこでお琴の音が聞こえて、それが大層美しく、聞き入りまして、ですが、よそ様のお住まいの壁の横に立っているのも憚られまして、こうして琴の音が聞こえてくる橋の袂まで来て、たまに聞くようにしていたのです。初めはお師匠さんが弾いていたのかと思ったのですが、音色が何やら違う。もっと若い娘さんが弾いているのでは、と思いました。時折、時間があると、遠回りをして聞いていたのですが、聞きたいお琴と、そうでない時がありまして、ああ、今日は聞きたかったお琴だ、と思ったものですから」
「……それは、その私の琴を褒めてくださっているということでしょうか」
「ええ、ええ、そうですとも」
 良太は大きく頷く。
「けれど、私はそんなに褒めていただけるほどでは……。それに確かおりつちゃんもお琴は習っていませんでしたか?」
 ふいに、良太は眉間を寄せる。
「おりつは……。まあ、うちにも琴はございますが。お琴、音曲というものは、曲、そして弾き手によって、音色が異なります。私は、ここのところずっと、名もわからぬ方の琴の音を追って、こうして橋の袂でその音色を待っていました」
「そう、でしたか。ありがとうございます」
 あまりのことに、おつたはたどたどしく、俯く。
 つい最近、目の前のこの若旦那の座った座布団と勘違いして座ったり、畳に伏せたりしていたのに、当人を前にすると、まるで自分が出せぬ。否、おつたの場合は出せぬくらいがちょうどよいのかも知れぬが、とにかく、割とおつたは内気であった。
「ああ、すみません。ずっと昔の知り合いから突然声をかけられ、このようなことを言われては気味が悪いでしょう。忘れてください」
 良太は、すっと後方に下がり、それから丁寧に目礼した。
「それでは……」
 立ち去りかけた良太の袖を、思わずおつたは握った。
「あの、私のお琴で良ければいつでも聞いてください」
「よろしいのですか?」
 驚いた様子で良太が尋ねる。
「ええ、もちろん」 
 せっかくの機会、逃してなるものか、とおつたは大きく首を縦に振る。
「ああ、夢のようだ」と、良太が言う。
 それこそが、おつたには夢のようである。
「ああ!」と、そこで良太が額に手を当てる。
 今度はなんだってんだい? と、おつたはびくり、とする。
「ですが、私だけがそのような特別な機会をお願いしては、よからぬことを周囲が勘繰ってしまうかも知れません。それはいけません」
 よからぬこと?
 それこそが、言ってしまえば、おつたの望みであり、そもそもちいともよからぬことではない。よいことなのだ。
 困った、困った……。
 どうしたものか。
 案が浮かばぬまま、機会があれば、というふうに話し、しかもそのまま別れてしまった。
 ああ、一体何をやってるんだい、私は……。
 おつたはがっくりとして家に帰り、今日も来てくれていた質屋の大旦那に「おや、おつたちゃん、ずいぶんと疲れているようだが、どうしたかね?」と心配された際に、「いえ、世の中、うまくいくようで、ままならぬことが多く……」と呟き、「失礼します」とその場を去った。


 先日、行儀見習いの先生に茶を分けていただいたお礼にと、お母ちゃんが夕餉用に店の弁当を持たせてくれた。今の時期は行楽真っ盛りで弁当の注文がよく入る。そうした日を特別に彩るような、旬の食材を美しく詰めた品数の多い弁当二人前である。
「まあ、こんな豪勢なお弁当を……」と、先生は大層恐縮していらしたが、先日分けていただいた茶葉はかなり高価なものである。
 奥にいた戯作者の旦那さんがふらふらと出て来て、「おや、こんにちは」と微笑む。
 戯作者と知らず、また、お武家様にご奉公に出た家の出であるご新造さんの旦那さんと知らなければ、近づくこともない風体である。
「あら、生徒さんの前ですから、もう少し身なりを整えてくださいな」と、先生は立ち上がり、いそいそとだらしなく着崩している旦那さんの着物を直す。
 そうして、「この前お茶を少し差し上げたら、お礼にとお弁当をいただきました」と、伝える。
「おお、これはこれは……。大層なご馳走ではないか」
 子どものように喜ぶ旦那さんに、「夕餉にいただきましょうね」と先生は言い、すすす、と襖を閉める。
「失礼いたしました。普段は生徒さんがいらしている時には部屋に閉じこもって執筆しておりますが、どうやら書き上がったようで、気が抜けていたのでしょう」
「いえ、あの……、こんなことを生徒の私が言うのは憚られますが、とても素敵なご夫婦で、お芝居を見るより、心が温かくなりました」
「まあ、恥ずかしいですから、ほかの方には内緒にしてくださいね」
 まるで、おつたとそう変わらぬ年の娘のようにご新造さんは、はにかんだ。
「はい」と、おつたは小さく頷く。
「うちの人、以前お師匠さんのところにいた頃は、あれで結構気を遣っていたらしいんです。それで、独り立ちしてからは、自由で好きなように暮らしたいと、そればかりを優先していたようで。今、住まいは整いましたけど、本人はあの調子なんです」
 目を細めるその様子は、これまでの先生のどの表情よりも美しかった。
 先生はそこで我に返ったのか、師の顔に戻り、「ありがたく、いただきます」と、改めて弁当の礼を言い、「いえ、とんでもないです」とおつたは返す。
 師の顔に戻った目の前の、つい今まで娘のような表情をした人を、おつたは心の中で袖を掴んで留めるような心持ちで見つめ、居住まいを正し、正座する。
 背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士向き合うように揃え、着物は尻の下に敷く。
 こちらでお稽古を始めてから、以前より姿勢がよくなった。
 これは、ほかのお稽古でも褒められることだった。
「先生、私、今、いえ、ずっとずっと以前から想う方がいるのです。そのお方に先日琴を褒めていただき、今度お聞かせする機会に、お近づきになりたいと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」
 美しく微笑する先生は、隙のない正座で、「おつたさんは、どうしたいのですか」と訊き返した。
 どうしたいか?
 ……具体的な第一弾、というものが、そもそも浮かばなかった。
 ずっとずっと想っていたので、そのことで、考えが先まで届いていない。
「……すみません。わかりません」と答える。
「そうですね、ただ考えるのは難しいかも知れませんね」と先生は言う。
「どうしたいかが決まったら、伝えてみてはどうでしょう。悩むのは、その答えを聞いてからでもよいのではないですか。恐らく、悩むようなことはないと私は思うのですが」
 そう、先生は続けた。
 そうだ、とおつたは思った。
 この先生が、どのような言葉や行動で、戯作者の旦那さんと一緒になったかはわからぬ。
 だが、何かしらの行動があったのは確かである。
「わかりました。ありがとうございます」と、おつたは座礼した。
「では、今日のお稽古を始めましょうか」と先生が言った。


 今度会ったら、想いを伝えよう。
 おつたがそう心に決めた折であった。
 家に戻ると、ちょうど良太が帰ったところだと言う。
 今日は良太ひとりで、果実酒に菜のものをいくつか頼んだのだと言う。
 どうやら前回、手習いの頃の知り合いと来た時に頼んだ徳利は、良太ではなく、相手が飲んだようだ。
 札差の良太さんは、お酒はいける口ではないけれど、うちの果実酒は別だとおっしゃってくださってね、毎回果実酒の後に菜のものをいくつか頼むんですよ、とお運び係が教えてくれた。
 そんな些細なことでも、良太のことがわかるのは嬉しい。
「客室の片づけ、手伝うわね」と、いそいそとおつたは良太の使った部屋へ向かう。
 後ろから、お嬢さん、私がやりますから、という声がしたが、お運び係は、新しい膳を運ぶようにと呼ばれた。ちょうどいい。
 早速良太の使った客間へ行くと、まだ膳も座布団もそのままである。
 ふと、その座布団の隣に本があった。
 幾分か古いものである。
 つと、おつたはその場に正座した。
 行儀見習いですっかり正座の際の居住まいも心得ている。
 背筋を伸ばし、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、着物は尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬように。
 ぱらり、と本を繰る。
 見たことのある名があった。
 否、正確には茶葉の店である。
 諏訪理田、という著名。
『花と娘と猫』という話であった。
 ある一人暮らしの男の元にご馳走の入った重箱の包みが届く。
 男は、自分の寂しい生活に同情した猫がこっそりどこからか、このお重をくわえて持って来たのではないか、と思う。
 そうして洗った重箱の横に花と煮干しを置いて、家の外へ出して置く。
 暫くして外を見ると、煮干しをくわえた猫がおり、男がその先へ行くと、空になった重箱と花を持った娘がいた、というような話であった。
 行儀見習いの師の言葉が浮かぶ。
 どうしたいのか……。
 つと、おつたは立ち上がった。
 廊下へ出たところで、あっと、足を止める。
 質屋の大旦那であった。
「いらっしゃいませ」とおつたは、背筋を伸ばし、頭を下げる。
「これはこれはおつたちゃん。最近よく会いますねえ」
 そうのんびりと言った質屋の大旦那は、おつたが手にしていた本を見遣った。
「これは、戯作者の諏訪理田の最初の作が載っているものではありませんか。懐かしい。確かこの頃、諏訪理田は本を出したばかり、独り身だったそうですが、それから、おようさんというお嬢さんがお武家様の行儀見習いから戻り、一緒になったのでしたね。ここに出てくる娘は、おようさんではないのでしょうかねえ」
 ああ、矢張り。
 行儀見習いの師は、思うお人がおり、そうしてどうしたいかと考え、行動されたのだ。強引さなく、けれど、伝える。
 それが自分にできるのだろうか……。
 わからなかった。
 自信は全くない。
 だが、それを押しても、動かねばならぬ時があるのだろう。
 それが、今である気がした。
「すみません」
 店の入り口で声がした。
 誰か、すぐにわかる。
「本を先ほど忘れまして……」
 おつたは心を決める。
 質屋の大旦那に「どうぞ、ゆっくりしてらしてください」と頭を下げる。
 好々爺は慈悲深く笑う。
「ありがとう。おつたちゃん、何も心配はいりませんよ。うまくいきますとも」
 暫し、おつたは質屋の大旦那を見つめる。
「ほら、早く行かないと」
「はい」
 おつたは優しく背を押されたように、廊下を進む。
 何をどう話したらいいのか、まだわからぬ。
 けれど、伝えなければ。
 店の入り口に立つ良太が、おつたを見て、微笑んだ。

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