[331]お江戸正座18


タイトル:お江戸正座18

掲載日:2025/01/09
著者:虹海 美野

あらすじ:
おちかは札差の一人娘である。ある日お父ちゃんの札差仲間の茶会に行くよう言われる。
そこで茶器を手にしたおちかはうっかり転びそうになり、茶会に呼ばれていた札差の次男、良次の助けで事なきを得た。
良次に心引かれたおちかは、良次から、相撲、剣術で兄を負かす妹がかわいいと聞いたことから、剣術の道場を覗きに行った。
偶然夫を見送りに来たという身重のご新造さんと会い、おちかはご新造さんと正座して向き合い、話をする。

本文

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 背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向き合うように、着物はきれいに尻の下に敷いて。
 さんざん言われて、もうわかっていたはずであった。
 おちかの父は札差の旦那である。
 たまに札差仲間でお茶だお三味線だと出かけているのは知っている。
 息子がいれば、そのうちに息子も同席させ、札差の仲間に溶け込めるように働きかけるのは知っている。
 だが、おちかは一人娘である。
 父の代替わりを見据え、そうした会に参加する理由が見つからぬ。
 まあ、とにかく行ってくれ、先生や仲間には言ってあるの一点張りである。
 おちかはいろいろなお稽古事に通っているが、とにかくお裁縫があまり得意ではなく、まずはお裁縫、とにかくお裁縫、でなかなかほかのお稽古事に集中できぬのだ。それは、おちかがお裁縫が上達しないのだから、仕方がない。
 しかし、そんなふうだから、急に茶の席に、と言われると、やや緊張する。
 茶の席に見えるのは、父と旧知の間柄の人たちだ。その点は気が楽である。ちょっとお茶をいただいて、帰ってくればいい。
 そう思っていた。
 しかし、そこにはなぜか知らぬ人がいた。
 札差の息子、良次だと言う。
 住む場所は離れているが、なんでも前からこちらに来ていた札差仲間の姻戚なのだそうだ。姻戚といっても、こうして茶の席に呼ばれるとなると、相当に常連の仲間に気に入られているのがわかる。無論、父も仲間と同意見であるのだろう。
 ほっそりと優し気で、品のあるお人だ。
 おちかに対しても、丁寧に名乗る。
 今回茶の席に招かれたほかの二人によれば、良次は花器に造詣が深く、それがご縁で茶の席にも呼ばれるようになったのだそうだ。
「それは素晴らしいですね」とおちかは述べた。
 家にはおちかの父が大切にしている花器が多くある。
 花器の詳細はわからぬが、幼い頃より母と反物を選んだり、母の娘時代の簪や櫛を眺めたり、うちに定期的に来る手代の広げる品に親しんだり、下駄の鼻緒にもこだわったりするので、美しいと思うものに関心のあるお人というのは、無条件に尊敬するところがあった。
 今日のお茶の席では、せっかくですから茶器を選びませんかと、先生がおっしゃってくださった。
 つまり、茶器を見せていただける、ということだ。
 またとない機会である。
 茶室のすぐ隣にある棚に納まった茶器を見せていただき、ああ、これは素晴らしい、あれも趣深い、それも独特の色合いで、と皆で楽しんだ後に、今日はこの茶器にいたしましょう、とようやく決まり、それを手にしていたのはおちかであった。
 では、あちらで、と茶器を持ったまま移動しよう、とした時、事は起こった。
 正座から立ち上がろうとした際、袖を踏んだ。
 うっかりしていた!
 そう思った時には手から茶器は離れていて、おちかの身体は斜めに空を飛んだ。
「危ない!」
 南無三! と心で唱えたからか、痛みも器の割れた音もせぬ。
 恐々目を開けば、良次がはっしと、左手で器を、右手でおちかの帯のあたりを支えているではないか。
 一難去ってまた一難。
 ああ、なんたる失態をしてしまったのか……。
 ここにいるのは、父の懇意にしているお茶の先生にその仲間。
 いっそのこと、誰も知らぬ通りでやらかした方がましである。
 恥ではあるが、今後のお商売に水を差すようなことを、自らやってしまうとは……。
 しかもおちかは、家のお商売を継がない。
 それでお稽古事や着物、食事と困らずにやってこられたのは、ひとえに家のお商売が順調であるからだ。お商売には信用が大事で、今、信用というか、心証を著しくおちかは損なおうとしている。否、もう損なっているかも知れぬ。
 とにかくまずい事態だ。
 詫びねば、すぐに。
 そう思っているのに、おちかは大層丁寧に抱えられ、それから座る姿勢で畳に戻された。
 そうして良次ここでようやく器を手に、「こちらも大丈夫ですね」と、言った。
 おちかが瞬きもせずに見上げていると、良次は「どこかけがをしましたか?」と訊く。
 おちかは黙って首を横に振った。
「ああ、よかった」と、良次は笑う。
 その手首から肘にかけ、赤い擦り傷が見えた。
 間違いなく、おちかを支えた時に板の間と畳の間で擦った傷だ。
 おちかは居住まいを正す。
 背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬようにし、着物を尻の下にきれいに敷き、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士向かい合うように揃え、「申し訳ございません」と頭を下げた。
「おかげで私も器も無事でしたが、お怪我をさせてしまいました。なんとお詫びしてよいのか……」
 おちかの言葉で「ああ」と良次は擦り傷を見遣った。
「そんな、大層なことではありませんよ」
 品があるのに、相手に気を遣わせぬ、けろりとした笑顔である。
「ですが……、痛いでしょう?」
 そうおちかが訊くと、「いえ」と言う。
「そんなに気遣っていただくと、却って申し訳ない。うちは、妹がそれはそれは強くて、子どもの頃には相撲で投げ飛ばされました。妹を褒めても、誰も投げ飛ばされた私を心配なんかしちゃいませんでしたよ」
 その話に、ほかの旦那と先生が笑った。
「おりつさんは、三人兄妹の中で、剣術も一番だと言っていましたよね」
「そういえば、祝言を挙げてすぐに子を授かったとか。お加減はいかがですか」
 そんな話に良次はまず、おちかに「うちには妹がいるのですが、少し前によいご縁に恵まれまして、子も授かったと報告を受けたところなんですよ」と説明し、それから、「本当に我が妹ながらたくましく育ちました。妹が嫁いで、ようやく私も花器を飾ったりする生活になりまして。まあ、妹が嫁いでから、ああ、あんなに騒がしいのでも、かわいい妹だったと今更ながらに思うようになったところですよ」とほかの皆に返す。
「そういえば、兄の良太さんもお相手が見つかったとか?」
「ありがとうございます。おかげさまで、少し前に決まりまして、祝言の日取りも……」
 この良次が三人兄妹で、良次以外は独り身ではないらしい。
 では、良次はどうなのか……。
 訊きたかったが、この大失態の後。
 おちかのために気を利かせて、身内の話で場を和ませてくれている良次に、さすがにそれは訊けなかった。


 相撲は女子(おなご)の観戦が禁じられている。
 ならば、剣術であればよかろう。
 おちかはお裁縫のお稽古の後、近くの道場を塀からやや離れ、覗いてみた。
 中からは、威勢のよい声と竹刀の激しい打ち合いの音が聞こえてくる。
 まるで心得のない娘が入門させてもらうのは、矢張り無理であろう……。
 どうしたものか。
 そこへ、中であいさつを交わす声がし、若いご新造さんと思しき女子が出て来た。
 身重のようで、おなかが少し目立つ。
 出て来る折に、手にしていた切り花を落とした。
 膝を曲げ、それを拾うのが難儀そうに見え、「私が」と、おちかはかがむ際に袖を押さえ、花を取り、「どうぞ」と手渡した。
「ご親切に」とご新造さんは会釈する。
 きりりとした、美しい人である。
 年はそうおちかと変わらぬようだが、芯あるお人柄が、どこか頼りないおちかとは違うと感じる。
「いえ」とおちかは会釈した。
「もしかして、こちらの道場に御用でしたか」と訊かれ、「違うのです。あの、突然入門は無理でも、どのようなものかと少し見たかったもので」と答えた。
「それならば、中へ入ったらよろしいのでは?」
「ですが、本当にただ見たいだけでして……」
「いいじゃあないですか。以前は私、こちらでお世話になっていたんです。今夫が道場におります。先に帰ると申しましたけど、もし、見学されるのであれば、私も夫と帰れます」
 こちらに負担を感じさせぬ気遣いのできるお人である。
 そうして、何やらとても頼りになりそうなお人でもある。
 言われるがままに、おちかはこのご新造さんについて、道場の敷地内に入った。
 とても道場の中に入る勇気はないので、庭を挟んだ母屋の縁側にお邪魔した。
 ここのお師匠の奥さんとご新造さんは仲が良いようで、奥さんは感じよく迎えてくださった。
 縁側の沓(くつぬぎ)で下駄を脱ぎ、ご厚意に甘えて、座敷に上げていただいた。
 おちかは背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士向かい合うように揃え、足の親指同士が離れないようにし、着物を尻の下に敷く。
 床の間の活け花と、その花器が心引く。
「美しいお花と器ですね」とおちかは言った。
「まあ、お花や花器に関心のあるお嬢さんなのね」と奥さんが言う。
「ああ、私は札差の娘のおちかと申します」
「あら、では、おりつさんのご家族と知り合いかも知れませんね」と奥さんが言った。
 ご新造さんは「おりつと申します。札差の娘で、七月(ななつき)ほど前に札差の元へ嫁ぎました」と言う。
「そうでしたか」
「それで、今日はまた、どうして」
 そう訊かれ、おちかはどう話したものか、暫し思案した。
「実は先日、大層よい方に出会ったのですが、妹さんが剣術が得意で相撲も強く、嫁いだ今もかわいいとおっしゃっておりまして、そのお方のお眼鏡に適うとは思いませんが、そのお方の理想とするものに少しでも近づきたいと思った次第でございます」
 そこで奥さんが笑った。
「まるで、おりつさんのような妹さんですこと」
 おりつさんは顔をしかめ、「確かに私は剣術が好きで、幼い頃は家で相撲も遊びでやりました。ですが、それをかわいいと言ってくれるような兄はおりません。いえ、兄は二人おりますが、上の兄は私の苦手なお琴やお三味線に興味があって、少し前に、かねてからお琴の音で引かれていたお方と心通いまして、一緒になる予定です。つまり、私とは正反対の方ですね。次兄も久しぶりに会った時には、私にまた相撲で投げ飛ばされるのでは、とびくびくしている始末で、今は私が家を出て、部屋に花器を飾ったりして、悠々と羽根を伸ばしているようです。相撲や剣術の好きな妹君をそんなふうに広い心で思うとは、うらやましい限りです」と言った。
「私は一人娘なので、ご兄弟のいる方のことがよくわからず。けれど、そのお茶で出会ったお方は、本当に妹さんを大切に、そして誇らしく思っているのがわかりました。きっと、ええ、おりつさんと呼んでよろしいのでしょうか。おりつさんのお兄さんも同じではないのですか」
 そう返すと、おりつは「ありませんよ」とからりと笑った。
 肝心の剣術は本当に遠目に見るくらいだったが、どう考えてもおちかがあの中でやっていけるとは思えなかった。
 地道にお裁縫を頑張るのが、今の自分に課せられた第一のことだと思い知らされた。


「おちかお嬢さんにお客さんです」と手代が部屋の方へ声をかけたのは、それから十日ほど経ってのことであった。
 なんでも駕籠でいらした方だとかで、おちかも出迎える。
 そこにいたのは、おりつであった。
 身重であるから、そうそうあちこち出歩けないだろうに、わざわざおちかの家へやって来た。
 この前会った時、店の場所まではお互いに伝えてはいなかった。
 それなのに、どうして。
 とにかく、どうぞ、どうぞ、とおちかの部屋に来てもらい、座布団を二枚重ね、飲み物は何がいいかと尋ねると、麦湯と言うので、それに初物のみかんを出した。
 ほかに、身重で必要なものは、と尋ねると、「お気遣いなく」と言う。
 そうして、「急に来てごめんなさいね」と、おちかの手を取って言う。
 おちかは慌てて向かい合ったおりつの前で正座する。
 背筋を伸ばし、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、着物は尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにする。
「いえ、またお会いできて嬉しいです。差し支えなければ私からお近くまで参りましたのに」
「いいの、いいの。そんなこと! それより」と、おりつが身を乗り出す。
「あ、はい」
「この前、お茶の席でおちかさんが会ったのって、良次という札差の次男ではなかった?」
「え、あ、はい」と、おちかは曖昧に答える。
 実は茶会から戻ると、お父ちゃん、お母ちゃんが待ち構えており、『茶会はどうだった』と訊いた。あまりの失態で、それはいずれ札差仲間の旦那から聞くことになるだろうが、おちかからは言う気にならず、「行って参りました」とだけ伝えたきりであった。
 その茶会の話をなぜここで……。
 あの茶会にいた旦那のどちらかのご新造さん?
 そう思っていると、「あれ、うちの兄だったの。良次兄ちゃん!」とおりつが続ける。
「えええ?」
 なんてこったい!
 おちかは驚いた。
 あの失態をし、その上で心引かれたお人の妹君が、おりつだったとは。
 大体、全然良次の言っていたのと、おりつが言っていた兄妹の捉え方が違うではないか。
「実はね、上の兄ちゃんが一緒になる人が見つかって、それで良次兄ちゃんの縁談をどうしようかという話になったんですって。そこで、茶会で顔を合わせて、様子を見ようってことになったらしいの。つまり、見合いの手前のような」
 ……それは、良次がおちかの縁談相手ということか。
 それで、お父ちゃんは、おちかに茶会に行けと言ったのか。
 ようやく合点がいった。
 しかし、おちかはそこでやらかし、あまりよいとは言えない様子で帰宅した。
 お父ちゃんもお母ちゃんも、これはいけなかったらしいと思ったのだろう。
「私は、そのことを知らず、実家に遊びに帰った時に、偶然知り合った札差の娘さんが、妹思いの人とお茶の席で一緒になったって話をしたの。そんな優しい方もいるのねって。そうしたら、その偶然知り合った札差の娘さんがまさかの良次兄ちゃんの見合い相手のおちかさんで、おちかさんの言っていた妹思いの人が良次兄ちゃんだったとはね。良次兄ちゃんのやつ、私には全然そんなこと言わなかったし、本当は思ってないんだろうけど、おちかさんの前だから、いい兄を演じて、印象を良くしようとしたのね」
 しかし、このおりつ、身重であるのがどこまで関係するかはわからぬが、とにかく元気でよく喋る。
 元気であるのは心から喜ばしいが、おちかは、おりつの話を聞き、その内容を理解するのに必死である。
 そうして、そこに出てくる良次の名。
「はあ、はあ」と頷くのが精いっぱいである。
「それじゃあ、そういうわけだから」と満足そうに麦湯を飲み、みかんを食べ終わると、今にも立ち上がりそうなおりつを、「あの」とおちかは止める。
「何かしら」
 不思議そうにおりつがおちかを見る。
 一体何を訊きたいのか、といったふうだが、こっちは訊きたいことだらけである。
「あの、その、先ほど、良次さんが、私に印象をよくしようとした、というのは、一体全体どういうことでしょうか。さっぱりわからないのですが」
 おりつは首を傾げ、おちかを見つめる。
「そりゃあ、こんなに可愛らしい、いかにも良次兄ちゃんが好きそうなお嬢さん、しかもお見合い相手なんだから、どうにかこうにか自分をよく見せようと思うのは当然でしょう」
 ……さっぱりわからぬ。
「私を、で、ございますか?」
「ほかに誰がいるの?」
 更に首を傾げるおちかに、おりつは「とにかく良次兄ちゃんと話してみた方が早いわ。正直、妹の私から見ても、それほどいいところはないけど、良次兄ちゃんは昔からきれいなものや美しいものを見る目だけは確か。後は月並みだけど優しいところかしら」と言い、「駕籠を待たせたままなので、また」と、すくっと立ち上がる。
 そうして、「そうだ!」と手を叩く。
 驚くおちかの手をおりつは取った。
「おちかさんとお話しなければ、良次兄ちゃんが、おちかさんに自分をよく見せようという魂胆とはいえ、私をかわいい妹だと言っていたことをずっと知ることはなかったと思う。ありがとう」
「いえ、そんな」
 事実を話したまでだが、おりつは嬉しそうにそう言うと、元気よく帰ってしまった。
 身重なので、元気でいる様子は本当にありがたいが、何やらおちかの中にはさまざまな思いやら疑問やらが山積みであった。
 おりつを乗せた駕籠を見送りながら、そういえば、茶会の席で、確か良次の妹君がおりつという名だったなあ、と大層遅くにおちかは思い出し、自身の迂闊さに、はあっとため息をついたのだった。


 ところで、おりつは肝心の良次の店の場を言わずに帰ってしまった。おりつが云々というよりは、おちかがここでも迂闊だったのであろう。
 おりつは話した方がいいと勧めてくれたが、どうしたものか。
 そもそも、店の場所を知っていたからと言って、はい、そうします、と話しに行けるくらいなら、悩みはしない。
 そうかといって、とてもいい印象とは思えなかった茶会のこともあり、お父ちゃん、お母ちゃんに訊くのも憚れる。
 お父ちゃん、お母ちゃんは茶会でのおちかの失態を聞いたようで、伝えたであろうお父ちゃんの仲間は、失態だけを伝えたのではなく、いや、でもあれですよ、お互いいい印象だったんじゃなあないですかね、とかなんとか加えてはくれたんだろうが、お父ちゃん、お母ちゃんの反応は、その後、茶会の話を出さなくなったことからも明らかだ。
 まあ、全てはおちかがやらかしたことが始まりである。
 ちゃんと茶会を済ませ、話が進めば、こんなことにはならなかった。
 仕方がない。
 今日もお裁縫のお稽古に行こう。
 昼餉の後、いつものようにお裁縫のお稽古におちかは行った。
 相変わらず縫い目は揃わず、微妙に曲がる。
 先生が「少し、楽しんでやってみるように工夫するといいかも知れませんね」と言った。
 こんなに長く通っていて、ちいとも楽しいとは思えぬ。
 今さらどうしたものか。
 おちかは顔を上げ、正座をし直した。
 背筋を伸ばし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、着物は尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにする。
 先生は、家にあった端切れや和紙を出してくださった。
「おちかさんは、きれいな置物や簪がお好きよね。下駄の鼻緒も季節に応じて挿げ替えているでしょう? だからね、お裁縫から少し離れて、こういうものを作りたいとか、そういう、少しお裁縫の楽しい部分につながるところに目を向けてみるといいと思うの」
「……はあ」とおちかは曖昧に頷いた。
 正直なところ、もう、先生でもどうしようもないのだな、と思った。
 おちかより年下で、おちかよりも後に入ったのに、どんどん上達していく生徒さんをおちかは何人も見て来た。筋がいいとか、器用とか、向いているとか、兎に角、褒められている生徒さんたち尻目に、おちかはいつもなかなか進まない、或いはやり直しである。
 情けない……。
 あんなにお父ちゃん、お母ちゃんがおちかのためにいろいろ考えてくれて、お裁縫の教室に通わせてくれているのに。
 ほかの子は、ここまで親御さんに面倒をかけず、お裁縫が上達して、着物を仕立てられるようになっている。中には、お嫁入をして、嫁ぎ先で義理のお母さんの着物を仕立てて、大層喜んでもらえました、と先生を訪ねてくる初々しいご新造さんもいる。そのたびに、先生は心底嬉しそうに微笑む。いつか、おちかもそんなふうに先生に喜んでいただきたい、と思ったものだが、その希望もついえそうだ。
 お裁縫のお稽古を終え、商店の並んだ通りを歩き、途中で両天秤にさまざまな端切れをかけて置いている商人を見つけた。
 色鮮やかな端切れや、小花の散りばめられた端切れ、渋い茶の端切れと、さまざまなものがある。確かに、それらを見るのは楽しい。
 もう一方の天秤の方へ、後から誰かがやって来て、同じように端切れを見ているようである。
 同じようにお裁縫が苦手な人か。
 いやいや、端切れを見に来るのだから、袋ものなんかの小物を自宅で作るまめで器用な人なのだろう。
 ため息をつき、その場を離れようとした時、「これは、おちかさん」と呼び止められた。
 顔を上げ、声の方を見れば、端切れを見ていたのは、なんと良次であった。
 なぜ、良次がここに……。
 そのおちかの思いが良次に伝わったのだろう。
「ああ、これは」と良次は少し困ったように笑った。
「実は私は子どもの頃より、きれいなものが好きでした。花器もそうですが、昔、妹が買ってもらったひな人形もうらやましかった。正直、節句に買ってもらったちゃんばらより、ひな人形がよかったくらいです」
「そうなんですか」
「ええ、ですから、妹が私のちゃんばらを使って、うっかり私が飾った花器を割った時には腹が立ちました。つい最近、妹が嫁ぐまで、妹をあまり好きでないとさえ思っていたのですよ」
「ああ、それで、妹のおりつさんは、良次さんがおりつさんをかわいいと思ってらっしゃることをご存知なかったのですね」
 おりつと良次の話を総合し、ようやく納得したおちかが言うと、「おりつとどこかで会ったのですか」と、良次が訊ねる。
「ええ、まあ、たまたまだったのですが、その後おりつさんがうちに来てくださいまして……」
「あいつは……。身重でまたふらふらと。突然そちらをお訪ねしたのでしょう。ご迷惑をおかけいたしました」
 良次はいろいろと考えを巡らせた顔をした後、おちかに頭を下げる。
「とんでもございません。おりつさんはわざわざ駕籠でうちまで来てくださりました。とてもありがたかったです」
「……そう言っていただけると、少しは気も楽になりますが」
「やはり、良次さんは、妹のおりつさんが大切なのですね。私は一人娘なので、そういう人がいませんから、うらやましいです」
「……私にとって、まあ、おりつは妹だから大切ではありますが、そういう事情なく、大切なのはおちかさんです。出会って日も浅いですが、茶会に行く理由を私の方は心得ておりました。茶器を嬉しそうに見る様子だけでもう、人柄が察せられ……」
「ああ、そうですよね……。今、なんと?!」
 端切れ屋の前でおちかは間の抜けた大声を出した。
 聞き流している途中で仰天した。
「ああ、驚かせてしまいましたか。否、しかし、今度は転ばずに済んでよかった」
 驚かせてしまいましたか、と言った良次も、おちかの仰天した様子に動揺している。
 おちかは自身がそそっかしいことは自覚しているし、人のことは言えぬが、それにしても良次も、そういう大事なことは、一度区切ってから、しっかりと言ってほしいものではある。
 いつものそそっかしさに加え、うっかりして聞き流してしまっていたら、どうしてくれたのだろう……。
 おちかの動揺が良次に伝わったのか、二人は互いに慌て、落ち着き、また慌てを繰り返す。
 そうして、「これは、何に使うおつもりですか」と、心を落ち着かせるように、良次が端切れについておちかに尋ねた。
「実は、私あまりお裁縫が上達しなくて、先生に、まずはきれいな端切れや紙を組み合わせて何かを作ったりして、お裁縫の前にそうしたものを好きであると思うところから始めてみてはどうかと言われたんです」
 心に思う良次に聞かせたくはない話だが、仕方がない。
「それは、よい考えですね。とても楽しそうです。こちらの端切れもきれいですし、何を作るのですか」
 良次は実に楽しそうだ。
「あの、よければ、一緒に何か作りませんか。そんな、札差の息子さんにお裁縫なんてと思うのですが、良次さんが端切れを選んで、何を作るか考えてくださったら、私、それで練習してみます。……そんなに上手にはできないかも知れませんが」
 おちかがそう提案すると、良次は実に嬉しそうに笑った。
「いいのですか? ああ、それはいい。この端切れもきれいだし、これも地味そうでいて、趣がありますね。これとこれを組み合わせて、この端切れも加えたら、ああ、美しいでしょうねえ」
 そうだ、とおちかは幼い頃を思い出す。
 お母ちゃんが見せてくれる簪や鹿の子、それに着物。
 それらは人の手によって、作られた。
 こんなものを作れるようになったら夢のようだ、と思った。
 お裁縫を習いたい、ととてもとても楽しみだった。
 それを、ここ数年すっかり忘れていた。
 人より上手くできない。
 誰かに抜かされる。
 置いていかれる。
 みじめな思いをする。
 先生を困らせている。
 そんなことが常に心にあった。
 けれど、お裁縫をお父ちゃん、お母ちゃんは今でも習わせてくれている。
 それに感謝して、苦手なら苦手なりに、上達が遅いなら遅いなりに、好きだと思う気持ちを持ったまま、続ければよいのだ。
 目の前の良次は、それを思い出させてくれた。


 突然家に良次を連れてきたおちかに、お父ちゃんもお母ちゃんも、仰天した。
「おちか、一体どうしたってんだい」
「お茶会は失敗したんだろう?」
「なんでも、良次さんにけがまでさせて」
「もうこの話はなしだと思っていたってのに」
 慌てふためくお父ちゃん、お母ちゃんを落ち着かせてくれたのは、良次だった。
 丁寧にあいさつし、今日おちかに会った経緯を説明してくれた。
 そうして、おちかさんが了承し、認めていただけるなら、今回のお話を受けさせていただきたい、と言ってくれた。
 信じられぬことである。
「了承いたします!」
 大きくしたおちかの返事が四人に十二分に届く。
 ああ、それはよかった、と良次が息をつく。
 返事をし、良次の言葉を聞いたにも関わらず、本当に? と尋ねたかったが、そこは堪えた。
「本当に嬉しい限りですが、ご存知の通り、おちかはそそっかしく、未だにお裁縫のお稽古にも通う必要がある娘です。もう、ここまできましたら、正直にお話します。それでも、よろしいのでしょうか」
 お父ちゃんがそう言い、お母ちゃんがそっと、お父ちゃんの袖を引く。
 そこまで言わなくたって、おちかは気立てのいい、素直な子です、と小声で言っているが、全て聞こえている始末である。
「おちかさんがいいのです。若輩者の私ですが、精進いたしますので、どうかおちかさんとのことを認めていただけませんでしょうか」
「……そりゃあ、そんなありがたいことはないが……」
 まるでキツネにつままれたかのようなお父ちゃんをお母ちゃんに任せ、おちかは良次と部屋へ向かう。
 そこで良次と選び、良次が全て買ってくれた端切れを広げた。
 向かい合い、二人は正座をする。
 背筋を伸ばし、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにする。
「ああ、やはり美しい」と良次が感嘆する。
「これとこれを合わせてみてはどうでしょう。おちかさんは、どれがお好きですか」
「私はこの柄を入れてみるのもいいかと……」
「ああ、それは素晴らしい……」
 まるで幼い子が遊ぶかのように、二人は端切れを広げ、いろいろな組み合わせを考えた。
「これで何を作りましょうか」
「小さなものがいいですね」
「お揃いにしたらどうかしら」
「それはいい」
 さまざまな端切れをどんなふうにつなぎ合わせるか、楽し気に話すおちかと良次の心は近づき、つながってゆく。

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