[342]お江戸正座22
タイトル:お江戸正座22
掲載日:2025/03/08
シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:22
著者:虹海 美野
あらすじ:
おつたが札差のご新造さんになって早数年が過ぎた。
ある時おつたはお義母さんに呼ばれ、おつたのお付女中であるおきぬの嫁ぎ先をそろそろ考えてはどうかという話を受け、おきぬの意向を訊くことになる。
おつたはおきぬを連れ、実家の料亭を訪れる。
そこでおつたとおきぬは膳を前に正座する。
おつたがお義母さんの話を伝えると、おきぬは当初戸惑っていたものの、想う人がいると言う。
その相手の名を聞いたおつたはたまげるが……。
本文
当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。
1
時が過ぎるのは早い。
おつたが札差のご新造さんになって、数年。
その間に男の子二人と女の子一人を授かった。
幼いお付の女の子であったおきぬは、おつたが床に臥せると、おつたの好きなつみれ汁を作り、そうして手をしっかりと握り、時には身体をさすってくれた。
実家のお母ちゃんにそうしてもらっているかの如く、おつたは安心する。
「おつたさま、大丈夫ですよ。きぬが付いております」と、言う。
考えてみれば、一代で高級な料亭といわれる店を築いた実家のつみれ汁で育ったおつたが弱っている折に口にできる味をさっと作れるこのおきぬ、相当に優れた娘である。
おつたが床に臥せている間、おきぬはいつ何時おつたが呼んでもすぐに来られるようにしていた。
きっと、とても疲れたに違いない。
結った髪が少しほつれ、目の下がうっすら黒くなったおきぬは、それでもおつたが安心できる笑顔で、大丈夫です、と言い続けた。
そうして、決して、お付という立場を忘れなかった。
背筋を伸ばし、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬように正座し、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え正座する。
「おつたさま」といつでもその表情も声も明るい。
そのおきぬのしっかりとし、明るい心根に、どれほど助けられてきたことか……。
最初の子を授かった時には、おつたと同じくらいおろおろとしていたが、二人目からは、ずいぶんと頼もしい存在になった。
子の世話もずいぶんとしてくれた。
「旦那さまとおつたさまに似た、かわいらしい赤さんですねえ」と、大層大事に、そうして手厚く面倒を見てくれている。
おきぬは、読み書きも算術もよくできるので、おつたが下の子の面倒を見ている時には、絵草紙を読んでくれたり、札差の息子だからと早くも算盤を買い与えられた折には、勘定の仕方なんかも教えてくれているようであった。正直なところ、お琴やお三味線が好きなおつたより、よほどおきぬの方が、読み書きや算術を教えるのに適しているように感じられた。
特に厳しいわけでもないが、文机に向かう子に、おきぬは、「背筋を伸ばし、脇は締めるか軽く開く程度、着物をお尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにして正座をしますと、字がきれいに書けますよ」とか、ちょっとした折にそうした作法的なことも教えてくれていた。
本来のおきぬの仕事はおつたのお付である。
おきぬは、常にそれ以上のことをしてくれる。
それに気づいているお義父さんも、お義母さんも、遠くから目を細めてそんなおきぬを見ていた。
2
ある日、おつたは、お義母さんに、おつただけ、と呼ばれた。
おつたはおきぬに子を頼み、お義母さんの部屋に行った。
話は恐らく、今度入るお女中のことだろう。
だいぶ暖かくなった気持ちのよい日で、襖も障子も開け放っていた。
お義母さんは、奥の床の間にうぐいす色の単衣を着て座っていた。
「おつたさん、今日はお菓子とお茶をいただきながら、お話がしたくて」と、お義母さんが言う。
もう茶も用意され、盆にはこの家御用達の菓子店の餅菓子が置いてあった。
「ありがとうございます」
おつたは、お義母さんの向かいに正座する。
背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
そういえば、初めておきぬと出かけた折、家族へのお土産に何がいいかと訊いたら、聡いおきぬは、すぐに菓子屋の名を挙げた。
二人して菓子屋に寄り、饅頭と茶を頼んだが、おきぬは座敷に上がろうとしない。
おつたにとっては、婚家で夫の次に頼れる、否、もしかするとそれ以上に己を包み隠さずにいられる存在であり、妹のようでもあるおきぬとちょっと娘気分で一息つこうと思ったのだが、真面目な奉公人のおきぬはそれを受け入れようとしなかった。
なんとか説き伏せて、座敷で二人、正座して茶と饅頭をいただいた。
あの時、おきぬが茶の味について述べたが、大層舌が鋭く、五感の研ぎ澄まされた娘だと思った。江戸からさほど遠くない場所に郷があるということは知っていたが、やはり田舎で育つと、感覚が研ぎ澄まされるものなのだろうかなどと思いはしたが、それは違った。時を重ねれば重ねるほどに、おきぬという娘の聡明さが理解できた。それは店の人間も同じようだった。そうして、おきぬは仕事に手を抜かぬ。だから、皆から好かれる。
おつたの子どもも、おきぬが好きだ。
第二の母のように慕っている。
「身体の方はどう?」と、お義母さんが訊く。
三人目はもうじき一つになる。
お義母さんは、おつたの産前、産後、いつも以上に気遣ってくれ、手に入りにくい時期にも水菓子(果物)を用意してくれ、時にはおつたの実家に遣いをやり、おつたの好きなものを詰めた弁当を枕元まで届けてくれた。
実家の母が恋しかったけれど、お義母さんは、とにかく優しく、尽くしてくれた。
「おかげさまで、産後の肥立ちもよく、子もすくすくと大きくなっております」
「それはおつたさんの力よ」と、お義母さんは言う。
ありがたいことだ。
いつか、私もこの義母のようになれるだろうか……。
「お義母さんのお力添えなくして、とても……」
「そんなにも褒めても、何も出ないわよ」とお義母さんは、菓子と茶を勧める。
「いただきます」と、湯呑を手に取る。
この菓子を、おきぬに食べさせたい、と、ついおつたは思う。
その思いが伝わったかのようだった。
「あのね、おきぬのことなんだけれど……」
え、とおつたは顔を上げた。
3
おきぬは、おつたの子をひとり背負い、二人の子の手を引いて、中庭で遊んでいた。
おつたの子は、すくすくと大きくなり、抱き上げると、ずしり、と重い。
線の細いおきぬには、さぞかし子を背負うのはきつかろうと思うが、おきぬはそうした態度を微塵も見せぬ。
訊けば、幼い頃から妹や弟の面倒を見るのは当たり前で、重い荷を背負って山道を歩くこともしばしばあったと言う。
辛くはなかったかと問えば、皆そうしていることだし、家族は大切だし、荷物は家で必要なものなのだから、手分けして運ぶのも当たり前だったと言う。それに、荷を背負うようになったのは、大きくなって、自ら言ってのことで、それまで親は決して子に自分たちの背負う荷物を持たせることはなかったと言う。
おきぬの目は澄んで、清らかである。
そういうふうに育てた親御さんに、おつたは感服し、また、感謝した。
おかげで今、おつたは札差のご新造さんとして、それなりに楽しく、そうしてしっかりとやれている。
藪入りの折には、いつもおつたからも、家族へと菓子と茶を持たせた。本当は、それでは足りない。もっともっと何か贈りたい。いつも、そう思う。
だが、それは思わぬかたちで今、叶えられようとしている。
先ほどのお義母さんの話で、目が覚めた。
ああ、なんとまあ、己の考えの甘いことよ……。
お義母さんは、そろそろおきぬの嫁ぎ先を考えようと言った。
おつたは、時が止まったように、お義母さんを見つめた。
そうして、「はい」と、返事をした。
お義母さんも、お義父さんも、おきぬに大層目をかけている。
あの子はかわいらしいし、頭もいい。
気立てがよくて、品もあり、忍耐強い。
どこへ出しても恥ずかしくない娘だ、とお義母さんは言う。
その通りです、とおつたは頷く。
だから、うちとしては、それなりに裕福な人の元へ嫁がせたいと思っている、と言う。お付き合いのあるお商売をされているお店の番頭さんなんかがいいのではないかしら、とお義母さんは言う。うちとお付き合いのあるお店であるなら、身元もしっかりしており、信用できる。それに番頭さんともなれば、一緒になった暁には、どこかへ働きに出る必要もないだろうし、番頭さんが暖簾分けをすれば、そこのご新造さんということになる。
ええ、とおつたも返す。
少し、こちらでも考えておくので、おきぬの意向を聞いておいてほしい、とお義母さんは言った。
はい、と返し、それから、おつたの実家の両親の話や、子どもたちの話、ひな祭りや節句の話をして、部屋を辞した。
そうして、昼餉の時間になり、子どもたちが昼寝をするのに添い寝し、気づけば、お義母さんと話して、一刻(二時間)ほどが経っていた。
急かされてはおらぬが、早く話さなければ、とは思う。
だが、話したら、もう、おきぬとは一緒にいられぬ。
わかっていることである。
おきぬはおつたの妹ではない。
そうして、おきぬがおつたと一緒にいるのは仕事である。
おつたがゆっくりしている間にも、おきぬは働いている。
おつたは、三人の子を授かったのに、おきぬには甘え通しだ。
情けない、とため息をつき、心を決めた。
4
この日、おつたはおきぬと子ども三人を連れ、実家へ向かった。
実家で両親に子どもを任せ、客間の一室に入る。
店を継いだ当初は心細そうにしていた兄二人も、今では立派な板前で店を支えている。
お父ちゃん、お母ちゃんは隠居生活に入り、毎日ゆっくり過ごしている。
おつたがおきぬと二人で昼餉を摂りたいと頼むと、兄二人は大層張り切り、とびきりの膳を用意すると言ってくれた。
ありがたい実家である。
豪勢な膳を前に、おきぬはやや戸惑っていたが、自ら運んで来た兄二人が「おきぬさんには、どれだけ豪勢な膳を出しても、足りないくらいだ」と言い、「ささ、遠慮せず」と勧めた。
おきぬは膳の前で背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬようにして正座し、先に箸を取って「いただきましょう」と促すおつたに続き、「いただきます」と箸を取った。
優しいけれど、しっかりとした風味がこの店の持ち味だ。
最近は殊にそのこだわりを感じる。
品数は多いが、するり、と入るお菜ばかりだ。
食事を終え、箸を置く。
そこでおつたは、深呼吸した。
「おきぬ、いつもありがとう」
おきぬは、おつたの急な礼に驚いた様子で、「とんでもございません。お礼を申し上げるのは、いつも私の方でございます」と言う。
「おきぬがいたから、私は今の家でご新造さんとしてやってこられたし、子も授かれた。いくら感謝してもしきれない」
「……そんな、勿体ないお言葉です」と、おきぬは目を潤ませる。
その目を見て、おつたの心は揺らぐ。
だが、時は過ぎる。
「おきぬ……。実はお義母さんから、そろそろおきぬの縁談をと話があったの」
「私の、でございますか」
「そう」と、おつたは頷いた。
「……おつたさまと一緒に過ごさせていただき、あまりに楽しく、そのようなこと、全く考えておりませんでした」
……そうだろう。
朝も夕も、もしかしたら寝ている間さえも、おきぬは仕事のことだけを考えている。
だが、それではいけない。
おつたは話を進める。
「お義母さんは、おきぬは気立ても頭もいいし、品もある、だから、うちとお付き合いのあるお店の番頭さんなんかの元へ嫁ぐのがいいのではとおっしゃっているんだけど、どうかしら」
おきぬは大層驚いた顔をしていた。
「……ただ、まだ具体的には何も決まっていなくて、まずはおきぬの意向を聞くようにとお義母さんはおっしゃっているの」
おきぬは、珍しく、目を逸らし、俯いた。
「きぬ」と、おつたは呼びかけた。
「ここでは、私と二人。本当のことを言ってほしいんだけど。正直に今思っていることを話して」
そう促すと、おきぬは迷った顔をしたまま、おつたを見た。
「おつたさま、……こんなこと、申してよいのかわからないのですが」
「うん、言って。言ってくれないのが一番困る」
おつたが頷く。
考えてみれば、おつた自身も年とともに成長した。
昔であったら、どういうこと、と急かしたかも知れぬ。
だが、三人の子を授かり、幼いながらに何かをおつたに伝えようとする様子や、何かままならぬことで愚図りだすのを辛抱強く見守るうちに、だいぶ待つ、ということを覚えた気がする。
「私には、想う方がおります」
小さく、けれどはっきりとおきぬは言った。
……これは、予想外であった。
否、おつたとて、おきぬの年の頃に今の旦那さまを想っていたのだから、さして驚くことではない。
だが、いつもいつも一緒にいたおきぬの、そうした変化に気づかなかった。
気づけなかった、というべきか。
もし気づけていたなら、お義母さんとの話の際に、おきぬの意向をうまく伝えられたはずである。
そうして、相手は誰なのか……。
もう、相手もおきぬのことを想っているのか……。
おつたの想中を察したらしいおきぬは、「私が勝手に想っているだけです」と言った。
「ですから、せっかく私の嫁ぎ先についてお内儀さまが考えようとしてくださっているのなら、ありがたくそのお話を進めていただくべきとは思っています。……ですが、すぐに決められないのです」
なるほど、そういうことか……。
もう互いの意志が決まっているのなら、そのお方と添いたいと言うのだろうが、そうではない。
おきぬもさぞ、打ち明けるのに勇気が必要だったろう。
だが、ここで、もう一絞り、勇気を出してもらわねばならぬ。
「おきぬ、そのお相手はどなたなの?」
そう訊ねながら、おつたは様々な面々を思い出していた。
店の手代に始まり、家に出入りしている呉服屋、化粧品屋、たまに寄る菓子屋……。
一体誰だろう……。
おきぬはかわいらしく、気立てもよいから、周囲の人間からの評判が高い。そうした中に、おきぬを特別に思う者がいるのかも知れぬが……。
だが、おきぬは自身が勝手に想っているだけだと言う。
ますます、わからぬ。
おきぬは小さく息をつき、言った。
「佐久造さんです」
たまげた。
まさか……。
全く浮かばなかった人物である。
おきぬのようにかわいらしく、品のある娘がなぜ、佐久造なのか。
否、佐久造はもともとこの店の板前で、料理の腕も一流である。
見た感じも、そう悪くはない。
だが、元来の気の短さ、とっつきにくさ……。
佐久造はおつたが生まれる前から、実家が小さな貸店舗時代より店に通い、下足番から一流の料理人になった人である。仕事ができ、嘘や隠し事をしない、まっさらな人でもある。
そう、佐久造はいい人であろう。
だが、何がどうして、おきぬは佐久造がよいのか……。
それこそ、美男の商人なんかも店で顔を合わせているのだし、そういう人に憧れるものだとばかり、おつたは思っていたのだ。お相手が、店に出入りしている手代であった場合、先方との相談やら、手代が番頭になるまで待つとか、そういうことは必要だろうが、まあ、なんとかなるとおつたは考えていた。おそらく、お義母さんも同じだったであろう。うちの大事なご新造付きのかわいいおきぬならば、この先、暖簾分けをしてお商売を始める人の元へ嫁いでもしっかりやっていける、そういう思いがあってこそだ。
そこまで考え、ふとおつたは冷静になる。
~屋さんがいらした、と出入りの商いをしている人を呼んでいたが、その中に佐久造という名の手代がいたのではなかろうか。
そこそこの男前で人当たりのよい人物を記憶の中で探る。
「それは、櫛や簪を持って来る……」
「おつたさま、その方は竜三さんです」
「ああ、たつぞうさん……。じゃあ、最近来るようになった呉服屋の……」
「その方は作太さんです」
「ああ、さくたさん……。それなら、菓子屋の若旦那の……」
「その方は佐吉さんです」
「ああ、さきちさん……。ええと、うちの手代の……」
「与根蔵さんです」
「よねぞうさん。うちに佐久と……」
「それはお女中のお佐久さんです」
「ああ、そうだった……」
「おつたさま」
静かに、だが、ずしりと重みのある声で止められ、おつたは黙る。
「私が申しているのは、佐久造さんです。以前ここで板前をされていて、おつたさまの祝言の折に、店の台所で祝い膳を任された、佐久造さんです」
さくぞうさん、と一音一音はっきりと言い、おきぬはおつたを見る。
「そう、佐久造……」
目を泳がせ、おつたはその名を繰り返した。
「おつたさま、正直に申してください。私では佐久造さんには釣り合いませんか。無理ですか。もう、佐久造さんには決まった方がいるのでしょうか」
あまりに真剣に訊かれ、おつたは申し訳ないながら、吹き出しそうになる。
あの佐久造におきぬが合わぬ?
おきぬが無理?
決まった人?
いや、なかろう……。
すぐに返事をしたかったが、まずは本人に確認せねばなるまい。
いろいろと思うことを堪え、おつたは「近いうちに、佐久造に訊いてみます」と返事をするに留めた。
5
さあて、いつ佐久造に尋ねよう。
藪入り時なら、おきぬも郷へ帰るから、おきぬに動向を探られずに動けるが、藪入りまでは日がある。
もう長年おきぬとは常に一緒にいるから、『ちょっと用があるから今日は一人で出かける』などと言えば、すぐに佐久造のところだとわかる。万が一にも、佐久造の方で決まった人がもういたとか、そういうことがあれば、おきぬをがっかりさせる。それはできれば避けたい。同じ確認をするのでも、おきぬがわからぬうちにそれを知り、なんとなくおきぬが察した頃に、そっと『よい縁談がある』と、お義母さんのお力添えで、佐久造でなくとも、どなたかを探し、よい人に会えたと、思えるお相手と対面させたいものだ。
そんなふうにうわの空でいると、二番目の子が匙を落とした。
「ああ、これ」と、おつたは懐から手拭を出して、子の手と畳とをきれいにする。
「ごはんをいただく時、きちんと座らなければいけないと教えたでしょう」と、おつたは、子に正座するよう言う。
「背筋を伸ばして、着物を尻の下に敷いて、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬようにして、脇は締めるか軽く開く程度に」
「はい」と子は返事をして、正座する。
それを見て、一番上の子も正座をし直す。
子どもたちの様子に目を細めるお義父さん、お義母さんは、「みんないい子」、「ちゃんと座ってごはんを食べられるようになったなあ」と、注意を受けた子たちを優しく気遣ってくれる。
夫は「おいしいか」と、食事の続きを明るく促す。
なんとよい家族に恵まれたのか……。
しかも、想い合うお人と。
できればおきぬにもうまくいってほしいものだが……。
「おつたさん」と、ふいにお義母さんが声をかける。
「はい」と、おつたは箸を置き、顔を上げる。
「私のお友達が最近、お三味線を始めてね、今日、お披露目会をするそうなの。ぜひ、ご新造さんも一緒にと誘われているんだけれど、どうかしら?」
「まあ、よろしいのですか? ぜひ……」
「よかったわ。それじゃあ、今日は二人で久しぶりに出かけましょう」
お義母さんはそう言うと、続きの間で食事中のお女中の一人に声をかけ、「留守を頼みますね。子どもたち三人の世話をするおきぬも手伝ってやってちょうだい」と伝えた。
実にさりげない、うまい誘い方だとおつたは内心舌を巻いた。おきぬが佐久造の名を挙げたこと、近々佐久造の意志を聞きに行く次第だということは、そっと文にしたため、お義母さんの部屋に置いて来た。
このお義母さんの年の頃、果たして己はこんなふうに、まだ幼い息子の将来の嫁がお付の女中なしで出かけられるよう機転を利かせられるだろうか……。
朝餉の後、早速支度をし、おつたはお義母さんとともに出かけた。
考えてみれば、音曲のお披露目がこんなに朝早くからあるものなのかと思ったが、暫く歩くと、お義母さんは、先ほど言った通り、お友達の家へ行くと言う。お三味線を披露してもらうのは本当だが、お孫さんが生まれたので、そのお祝いも兼ねているので、道々祝いの品も見繕っていくのだそうだ。では、どのあたりのお店にしましょうか、とおつたが訊けば、「おつたさんは早く佐久造さんのところへ行ってらっしゃい。お店が始まる前でないと落ち着いてお話もできないでしょう」と言う。そうして、佐久造さんとの話し合いが済んだら、こちらへいらっしゃい、とお義母さんのお友達の屋敷の場所を伝える。
「お菓子か何か私も買って行きたいのですが」と言うと、「では、もし、佐久造さんがおきぬと所帯を持つと言ってくれたら、佐久造さんのところの稲荷寿司を、話がまとまらなければお菓子をお願いしようかしら」と微笑む。お義母さんも、佐久造の答えが今から気になるのだ。「承知いたしました」と返事をしたところで、「一応訊いていいかしら」と、お義母さんが、そっとおつたに近づく。「はい」とおつたが頷く。
「あの、佐久造さん、というのは、その、本当に……」
「ええ」とおつたは頷いた。
「確認いたしました」
「そう、それならいいけど、万が一にも、ねえ……」
「ええ、私も訊きましたが、櫛や簪を売りに来る竜三さんでなければ、呉服屋の作太さんでもなし、菓子屋の佐吉さんでもなし、手代の与根蔵(よねぞう)でも、はたまた女中のお佐久でもないそうです。うちの板前だった佐久造だそうです」
「ああ、そう。そうなのね。では、頼みます」
ようやく納得したお義母さんの乗った駕籠が出発するのを見送ってから、おつたも駕籠に乗り、佐久造の店を目指した。
6
さて、佐久造は市場での買い出しを終え、下ごしらえの前に一息ついているところであった。店は佐久造一人で切り盛りしているらしい。お客とはうまくやっているのかしら、と以前兄に訊いたが、佐久造の店は職人の多い場所柄、大柄な男のお客ばかりで、多少気の荒い客もいるから、佐久造のようにすごまれても及び腰にならぬくらいの方がいいらしいとのことだった。
佐久造がこちらに暖簾分けしてから、もうずいぶんと会っていなかったが、突然の訪問でも、佐久造は快く迎え入れてくれた。
「おつたお嬢さん、今日はおひとりですか」と訊く。
「そうなの」と、おつたは頷く。
きれいに清められた座敷で、おつたは背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
そうして、ふと、おつたは佐久造の横顔を見た。
これまで、何度か実家で佐久造に会った。
無愛想ながら、微笑み、目は優しい。
その目が、今日は少し寂しそうだ。
おきぬのことは、本当にうかつであった。
だが、おつたとて、年の功というものがある。
今度は見逃さなかった。
どう話そうか、と駕籠に揺られ、散々に考えたが、それらは全て消え去った。
「佐久造」と、おつたは佐久造を見上げた。
「なんです?」
「今度は、おきぬを連れて来るわね」
そう言うと、佐久造はあからさまに慌てた。
茶を淹れようとした湯呑を倒し、それを直す。
その横顔は瞬きを繰り返し、動揺を隠せぬ。
「いつでも、どうぞ」と佐久造は言葉少なに答える。
「ねえ、佐久造」
「なんですか」
湯呑に茶を注ぎながら、佐久造が生返事をする。
「ここでおきぬとやっていく覚悟はある?」
茶が、湯呑から溢れた。
はっとして、佐久造は急須を上げる。
「もう一度訊くけど……」
「あります」
佐久造はこちらを見た。
「どんなことがあっても、苦労させません。毎日、うまいものを一緒に食って、今日も楽しかったと思える生活をさせます。必ず、守ります」
たまげた……。
予想を遥かに超えた返答であった。
「……いつから?」と、おつたは訊いた。
「おつたお嬢さんの祝言の日でしょうか。それとも、暖簾分けでここへ来ることになって、もう頻繁に会うことがないとわかった時でしょうか」
つまり、そういうことであった。
おきぬに訊いてはおらぬが、きっと似たようなことなのだろう。
この二人は、二人きりで長い時間話したり、ましてや出かけたことがない。
けれど、心は通じていた。
こんなこともあるのか……。
「佐久造、今のは、直接おきぬに伝えてちょうだい。おきぬは、お義母さんがどこかの信用あるお店の番頭さんか誰かのところに嫁がせようと考えていたけれど、おきぬは佐久造がいいと言ったの」
「そう、でしたか……」
そう言った、佐久造の目のふちは心なしか、赤かった。
「それから、佐久造の答えを実はお義母さんに早く伝えなくてはいけなくてね、その答えとして、佐久造がおきぬと一緒になるのなら、佐久造の店で稲荷寿司を詰めてもらってくるようにと言われていて……」
そうおつたが言い終わる前に、佐久造は茶をおつたの前に置き、「すぐに用意します」と板場に入った。
なんとまあ、こんな物語絵巻のようなことは、本当にあるとは。
なんとも初々しい思いに、おつたは目を細めた。
7
稲荷寿司を持って尋ねたお義母さんのお友達の家では、まだお披露目会は開かれていなかった。子ども用の玩具をお土産に買って来たらしいお義母さんは、お友達のお孫さんを抱いて楽しそうにしていた。
そこへ、稲荷寿司の包みを手に現れたおつたを見たお義母さんは、ふっと涙ぐみ、「ああ、よかった」と微笑んだ。
なんとも、幸せな瞬間であった。
「あらあら、どうなさったの」と、披露目を前にめかしこんだお義母さんのお友達が問えば、「いえね、娘の嫁ぎ先が決まって」とお義母さんが言う。
「娘さんて、末子のおりつさんは嫁いだし、こちらのおつたさんは嫁いできて娘になったのでしょう。一体誰のこと?」
お義母さんは、「勝手に娘のように思っている娘がいるのよ」と言い、おつたも「私も勝手に妹のように思っております」と付け加えた。
そうして、もう少しすると、娘のようであり、妹のようであるかわいいおきぬが家を出ることを実感した。
ああ、早くおきぬを佐久造に会わせたい。
明日にでも佐久造のところへ赤飯を用意するようにしたためた便りをおきぬに託そうか。
こういう時、一度、郷へあいさつに帰るべきであろうか。
それならば、佐久造とともに行かせるのがよいのか。
藪入りまで待つ必要もなかろう。
その後、嫁入りの準備は……。
それはお義母さんについて学ぼう。
大切な、初めてのお付のかわいいおきぬが万全の用意で嫁入りできるように。
音曲のお披露目会が始まる、と声がかかる。
お義母さんは、お友達のお孫さんをご新造さんに笑顔でお祝いと礼を伝え、引き渡す。
「おつたさん、参りましょう」とおつたに言う。
「はい」とおつたは答える。
立ち上がるお義母さんの手を自然に取り、案内された広い座敷に入る。
背筋をしゃんと伸ばすお義母さんとともに、おつたも背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、脇は締めるか軽く開く程度、足の親指同士が離れぬようにし、手は太もものつけ根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃える。
ややつたないけれど、丁寧で優しい音に目を細めた。