[362]琉球女官のあまい正座の思い出
タイトル:琉球女官のあまい正座の思い出
掲載日:2025/06/15
シリーズ名:うりずんシリーズ
シリーズ番号:17
著者:海道 遠
あらすじ:
うりずんの住んでいた琉球のグスク(城塞)でも結婚披露宴を開いてもらうことになった。美甘は披露宴が終わっても、グスクの巫女と侍女の正座指導のため滞在していた。
首を長くして帰りを待っていた京のうりずんの元へ、美甘ちゃんから手紙が届く。理解できない内容なので、うりずんは万古老正座師匠やマグシ姫、翠鬼(すいき)と共に琉球へ向かう。
しかし、グスクの門に姿を現した上級のナナジ巫女は「美甘さまに会わせるわけにはいきません」と厳しく拒絶する。
本文
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序章
護衛兵に突き飛ばされて、倒れた季節神うりずんの紅鬱金(べにうこん)色の髪が床に乱れ広がった。
ナナジ女官は静かに傍らにひざまずき、ひと束を握った。
冷たく重い髪が懐かしく愛おしい。女官の視線が優しく蕩ける。
「この色の髪は……しっとりとした重みは……ずっと昔……同じ色の髪を知っていた……」
第一章 うりずんの心痛
「琉球から手紙が来ましたよ!」
京の「うりずん拳法教室」に子どもたちの指導に来ていたうりずんが、万古老師匠の「はぐく女(め)(=妊婦)さん正座教室」に、縹(はなだ)色の衣をひらめかせて駆けてこんできた。
万古老師匠が微笑んで、
「新妻の美甘(みかん)ちゃんからの手紙かね?」
「はい! 美甘が滞在しているのは琉球神国のグスク(城塞)ですよ。先輩の侍女たちに混じって立ち居振る舞いを学びながら、正座の所作を侍女や巫女たちに指導しているそうです。緑の小鬼、翠鬼(すいき)が届けてくれました」
「ふぉっふぉっ……。美甘ちゃんは相変わらず元気いっぱいのようじゃの」
万古老師匠は、白髪眉の下の目を細めた。
「まったく私の奥ちゃんは『やる』と決めたら、子どもの頃の紀伊の祖父上のみかん畑の警護から始まり、マグシ姫とお知り合いになってからも、ふたりして万古老師匠の『はぐく女(め)さん正座教室』や「幼児正座教室」、奈良の春日大社の御巫(みかんこ)体験講座、兇つ奴(まがつど)との勝負などなど、いろんなことを率先してやってきました! 元気かい? 美甘」
うりずんは苦笑しながら手紙に、チューするありさまだ。
「会いたくてたまらんのではないか? うりずんさん」
「最初から同行したかったのですが……。グスクの巫女の世界は女性のみの世界。どうも顔を出しにくくて」
そうなのだ。琉球神国の巫女は女性のみの世界である。
なので、万古老師匠も美甘姫の幼なじみの薫丸(くゆりまる)も、正座の教えを手伝いに行くことをためらっている。
「八坂神社のマグシ姫さまも、琉球の城塞グスクに行ってみたいと仰っていますので、お供しがてら行って来ようと思っています」
「マグシ姫さまも、同じくお転婆な……いや、積極的なお方。夫のスサノオの尊さまの気苦労が察せられるのう。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
万古老師匠がまた高笑いした。
第二章 琉球のグスクへ
琉球は元々、うりずんの樹上の家があるところだ。
うりずんは数日後、マグシ姫を八坂神社まで迎えに参じてから、薫丸と共に出立した。
西日本を西へ長旅をして九州を経て舟に乗り、琉球の地に上陸した。
「いつも、海が翡翠色で理想郷みたいに美しいところねぇ」
美しい大海原を見つめて、マグシ姫が洩らした。
丘の上に石を緻密に積み上げた巨大な城壁がある。グスクだ。
「あそこに按司(アジ)という支配者が住んでいる。1、2度、侍女と巫女の正座指導でうかがったことがあるが――」
うりずんが呟いた。
薫丸がボソッと、
「正座の師匠なんだから、巫女修行なんてやらなくても中くらいの地位でいいのに」
「いや、目立たない方が安心だ」
うりずんが小さな声で言った。
「よそ者が上の地位の巫女に抜擢されたりしたら、嫉妬されてひどい目にあうかもしれない」
「うりずんさん、どうしたの、元気ないわね」
「ひたすら美甘の身が心配なのだ……」
勇気を出して、グスクを訪ねた。
大きな木製の城門がついていて、門番の兵が独特のカタチの鎧と兜を着けて並んでいる。大陸の唐の国とも親密なだけあって、鎧のカタチも似ている。
数時間待たされて、ようやく白い着物を着て頭に白い布と緑の大きな葉っぱを巻いた巫女らしき女性が数人、現れた。
ところが、最も偉いらしい見事なカラジ結い(琉球の女性の髪型)をした年配のナナジ女官は、
「まだ美甘さまには会わせられませぬ」
と拒み、一同は門前ばらいされてしまった。
「なんだか披露宴の時とずいぶん態度が違うんじゃないか? あの巫女のオバサン」
薫丸もナナジ女官の後ろ姿を睨んだ。
「いつまで待てばよいのだ!」
仕方なく引き返した一行の耳に、村人たちのウワサ話が入る。
「可哀想に……グスクに軟禁されたら、そう簡単には出てこれまい」
「何せ、巫女長のナナジ様が、地獄の鬼のように厳しいお人だからな。うちの娘や姪も巫女に志願してグスクに入ったが、何十年も出てこない」
「出てこれないのさ。ナナジ様がお許しにならないから」
「按司(アジ)様より権威を持っていなさるからねえ」
うりずんたちは顔色を失くした。
(巫女が支配者の按司より権威を持っている……?)
(地獄の鬼のように厳しいお人……?)
不満の爆発したうりずんは、夜を待ってグスクに潜入したが、兵に見つかり拉致されてしまった。
手足を縛られてナナジ女官の前へ引き出された。
「私は正座指導係の美甘の夫だ。この縄を解け! 妻に会わせてもらいたい」
しかし、女官の厳格な態度は変わらない。
「美甘さまには正座指導係の任に就いていただいている。その際に、毎朝、炎の禊(みそぎ)の儀式をやってもらわねばならぬ」
「炎の儀式だと? 美甘を火で炙る(あぶる)つもりではあるまいな」
「大切な美甘さまを、まさか!」
ナナジ女官は鼻で笑った。
「絶やすことのできない神聖なかまどの炎に、祈りを捧げていただくのじゃ」
「私は琉球の季節神だ。それでも会わせぬと申すのか?」
「季節神? どうせ手下も何も持たず、春の風を呼ぶだけのなよなよした妖精もどきであろう。美甘さまに怪し気で頼りない輩を会わせるわけにはいかぬ!」
「怪し気で頼りない輩だと〜〜?」
うりずんはますます頭に来て、イモムシのように全身をうねらせて暴れた。
「何ゆえ炎の見守りをしなければならない? 美甘はあんたたちに請われて正座の指導のために滞在することになったのだぞ! あんたらの国の男衆がだらしないからだ! 披露宴の後の酔いつぶれたザマは何だ! 指導者の按司が、いちばん所作のできない頼りない男ではないのか!」
うりずんの紅鬱金色の髪は床に乱れ広がった。
「按司さまにその口の聞きようは、重罪に値(あたい)するぞ」
ナナジ女官は低い声でうりずんをたしなめてから、静かに傍らにひざまずき、髪のひと束を握った。視線が優しく蕩ける。
(この色の髪は……)
第三章 薫丸と翠鬼
お忍びで、うりずんに同行してきていたマグシ姫も、堪忍袋の緒が切れた。
「うりずんさんまで戻ってこない! ガマンできないわ! 今度はわらわがグスクに乗り込むわ!」
万古老と薫丸は驚いた。
「あんたまで城塞に閉じ込められたら、スサノオの尊になんと言い訳すればよいか―――。もう少し、ご辛抱なさってくださいませ」
「マグシ姫さま、おいらからもお願いするよ! あんたが拉致されたら、美甘ちゃんに更に身の危険が及ぶかもしれなくなる!」
「う〜〜ん、歯がゆいわねえ」
マグシ姫は仕方なく諦めて待つことにした。
一方、薫丸は、どうしても美甘ちゃんの安否が気になり、グスクを探ることにした。
「薫丸さま、おいらもついて行きますぜ!」
全身が翡翠色の小鬼、翠鬼(すいき)がぴょんぴょんと跳ねてついてきた。
「おお、助かるよ」
「どうもグスクの中の様子が疑わしいですな。按司殿下、妃殿下、政府役人たちはお元気なのでしょうか」
「お前もそう思うかい? 翠鬼」
「沖に怪しい船が停泊して、頻繁にグスクの裏側を小舟で行き来していますぜ」
「お前、眼がよく見えるんだな」
「眼も耳もデカいから利きますぜ」
ふたりはグスクの裏側の海岸へ行ってみた。なるほど漁船でも貨物船でもない黒っぽい木造船が停泊している。
「本当だ。どこの船だろう?」
薫丸には心あたりが無い。ずっと都に住んでいるのだから無理もないが。だが―――。
小舟から下ろされた木箱に「兇」という焼き印がつけられていることに気がついた。
「あの小舟の荷に着けられた焼印は……」
「『兇』という文字ですかい?」
「以前に、マグシ姫が京の岩山に閉じ込められた時も、岩牢の中に、あの文字入りの荷が積んでありましたよ」
「なんだって?」
薫丸は翠鬼に目を向けた。
「あの時、マグシ姫さまを岩牢に閉じ込めた『兇つ奴(まがつど)党』の男は、検非違使の役人に捕まってから脱走したんだったな」
「はいです。『兇つ奴党』というのは逃げ足の素早い奴らです!」
「あの船も『兇つ奴党』と関係あるのだろうか?」
「……怪しいですね」
翠鬼の瞳がギラリと光った。
第四章 「心にもオモリ」
薫丸は、懐から紙を取り出した。
「うりずんさんの元に届いた美甘ちゃんからの手紙だ。何か手がかりが書いてないか、じっくり読んでみようと思って持ってきた―――。あんたが届けたんだよな? 翠鬼さん」
「はい。ナナジ女史が美甘さんから預かったと言って、うりずんさんの元にありました」
薫丸は急いで手紙を広げた。
「『愛しい そよぎへ
会いたい。早くあなたの元へ帰りたいわ。
でも、グスクの人々は正座もお行儀もひどい状態なの。万古老師匠の跡を継ぐと言ったあなたの妻としては、巫女長のたってのお願いですもん、ちゃんとお教えしないとね――――。でも、何か変なの』」
薫丸は目を止めた。
「何か変? 『―――少しでも、あなたに会いたいと思うと、手や足にオモリを着けられたみたいに重くて重くて、がんじがらめになってしまうの』」
「はあ?」
「『まるで両手両足に子泣き爺さんがぶら下がってるみたいに――身動き取れないの。身体だけじゃなく……心にもずっしりとオモリがついてるような……食欲もなくなって、頭がボウッとなって、正座のお稽古にも力が入らなくなるの』」
「心にもずっしりオモリですって? 美甘姫はお苦しみになっておられるのでしょうか? 妖しい者に心を操られているという意味でしょうか?」
翠鬼は言ってみてから、少し考えた。
「ひとりだけ改心して行方をくらました『兇つ奴』は、ヤマタノオロチのうちの一頭だとスサノオの君が仰っておられましたね。薫丸さま! ヤマタノオロチは八つも頭があるんですよ!」
「翠鬼……、それは残りの七つの頭にも警戒しろってことか?」
「その通りです。あの正体不明の船の乗組員が『兇つ奴党』と関係あるとしたら?」
「……『兇つ海賊』として、グスクに入り込んだとか?」
薫丸もゾッとした。
「その恐れは十分、ありますぜ!」
「翠鬼、どうしたらいい?」
「披露宴の模様を目にすることができた絵師の赫女(かくじょ)さんをもう一度呼んで、一緒にグスクに潜入しましょう!」
「絵師の赫女さんなら、隠れている兇つ奴党の姿も見えるかもしれないな。よし翠鬼、神通力で呼んでくれ! 一旦、うりずんさんの家に戻ろう」
第五章 赫女、来る
翠鬼が神通力で赫女の居所を探し当て、連絡を取ると、しばらくして、毛皮つきのチベットの赤い民族衣装を着た赫女がやってきた。
「どうしたの? グスクから、美甘姫もうりずんさんも戻ってこないんですって?」
「そうなんですよ、赫女さん」
薫丸は説明した。
「グスクの中には、『兇つ奴党』という正座を阻止しようとする輩がうようよ潜んでいるかもしれない。按司殿下夫妻の安否も判らないのです」
「では、内部偵察するために按司殿下の肖像画を描きたいと申し出てみようか」
赫女が言った時、万古老師匠が急いで部屋に入ってきた。
「諸君、今、グスクから書状が届いた。美甘ちゃんと、うりずんの身柄をマグシ姫と交換するようにと要求をしてきたぞ」
「ええっ!」
残っていた一同は驚いた。
「美甘ちゃんは正座指導を終わったから、もう任務終了とのことで、うりずんも返すと。しかし――、マグシ姫を、敵がいっぱいいる危険なグスクに向かわせるわけにはゆくまい」
万古老は白い眉を寄せた。
マグシ姫が勇ましい声で、
「わらわ、行きますわよ。グスクの中が怪しいのなら、ちゃんと偵察してきます! わらわが行かねば、うりずんさんと美甘ちゃんは帰れないのでしょう」
「し、しかしなあ、貴女はスサノオの尊の奥方さまじゃ。神さまなのじゃぞ。敵地へ行ってもらうわけにはいきませぬ」
「敵はヤマタノオロチの残党なのでしょ。もともと、わらわの故郷、出雲地方でわらわの姉妹を人身御供にしていた憎きオロチ。わらわがどうにかいたします。それが、わらわの義務です」
「ひ、姫さま……」
万古老師匠と一同は、その勇気に気圧された。
「さ、さすがマグシ姫さまじゃ。スサノオの君と櫛のカタチになって共に戦われたお方……しかし、敵地へ突入はあまりにも危険……」
赫女が、
「私がお供しましょう。『按司殿下夫妻とマグシ姫さまとご一緒の肖像画』をお描きする、と申し出てみます。もちろん、マグシ姫さまをお守りしながら」
赫女は万古老師匠の妹弟子さんだもの。心強いわ」
マグシ姫は言った。
第六章 独房のうりずん
足音が石造りの独房の前で止まり、うりずんは板の寝台から起き上がった。
毎朝、朝餉を運んでくるノロという位の巫女が、扉のカギをガチャガチャと開けて質素な食事を運んできた。
分厚い木製の扉には、小さな覗き穴が空けられている。
朝餉配りが終わっても、次々に覗きに来る女の気配がする。うりずんの宿命とでも言おうか、いつも多数の女からの視線を感じる。グスクの独房でまでも感じる。
食事の膳を受け取りながら辺りの様子をうかがうと、たくさんの女の気配が曲がり角の向こうに隠れる。
(いいかげんにしろ~~!)
と、叫びたいのをガマンして、食事を始める。
「朝餉が終わったら、ナナジ女官がお呼びです」
愛想のない声でノロの位の女官が告げた。
(ナナジ女官が? 会うのはひと月ぶりかな)
あれから、虜囚(りょしゅう)にしては身ぎれいな衣を用意され、食事も質素ながらたっぷり与えられる。反抗する理由がないが、ひたすら大人しくしているのは美甘の身の安全のためだ。
食事後、うりずんは石造りの廊下を案内され、グスクの巫女の部屋が並んだ区画にやってきた。その間も廊下の角からたくさんの侍女や巫女の視線を感じる。
ひとつの部屋の扉を開けると美甘が待っていた。ひと月ぶりに見る愛妻だ。
「美甘! 私の可愛い奥ちゃん!」
「そよぎ! 会いたかった!」
美甘はうりずんの胸に飛び込んだ。
「手紙を読んでくれたのね!」
「ああ、あの手紙……お前、手足が重いとか……大丈夫か?」
「大丈夫よ! あれは、多分恋わずらいよ」
「恋わずらい〜〜?」
「だって、そよぎが突然、私のところへ押し入ったというか、通ってきたんだもん」
「押し入った? 人聞きの悪い……通い婚の婿はみんなそうするんだよ」
「だってそうじゃないの。恋をする間もなく琉球で披露宴をすることになって……だから、ここに来てから恋わずらいになったのよ。文面から読み取れなかった?」
「わ、わかんないよ、そんなの!」
「ああ、そよぎは重症の文学オンチだったわね。後朝(きぬぎぬ)の文さえ書けなかったんだから」
マグシ姫は思い出して吹き出した。
――ムチがピシりと鳴った。
ナナジ女官が手に持っていたムチで床をたたいたのだ。
「あなた方の任務は終わった。グスクから釈放だ」
第七章 男衆の気配
美甘がうりずんにそっと小声で告げる。
(グスクの中には、古参のナナジたち女官の上にも下にも女官がいて、按司殿下夫妻も女官に守られているわ)
(うむ。気配を感じた。巫女だらけだな)
(ところが最近、粗野な着物を着て眼光が鋭く気性が荒そうな、見慣れない男たちを見るの。彼らがナナジ女官たちに指図しているのよ)
「見慣れない男たちが指図を?」
うりずんは、独房に入ったままで巫女しか見ていない。
(そよぎ、あの人たちは多分、万古老師匠の邪魔をしようとした『兇つ奴党』とかいう人たちよ。つまり――ヤマタノオロチの残党よ。海から船でやってきたみたいなの)
(『兇つ奴党』が、琉球神国のグスクに?)
初めて聞くうりずんには、意外なことだった。
(そうなのよ。『兇つ奴党』が琉球を支配しているわ)
(なんということだ……)
ナナジ女官が続いて告げた。
「明日から、あなた方の代わりにマグシ姫がグスクのお客様です」
「マグシ姫が!」
「按司殿下夫妻に謁見してもらいます」
うりずんと美甘姫は顔を見合わせた。
(その昔、ヤマタノオロチはマグシ姫の姉妹を毎年ひとりずつ人身御供(ひとみごくう)として捧げさせていた! 『兇つ奴党』はヤマタノオロチの成れの果てだ。マグシ姫に復讐するつもりだぞ。姫が危ない!)
うりずんは下唇を噛みしめた。
(スサノオの尊を呼ぶべきか。いや、彼まで巻き込んでしまう)
第八章 ナナジの追想
うりずんが迷っている間に、赫女がナナジ女官に連れられて按司殿下夫妻に挨拶するため、グスクの奥に入っていった。
「絵師の赫女と申します。殿下ご夫妻の肖像画を描かせていただきます」
「さようか。よろしく頼むぞ、赫女とやら」
按司殿下は鷹揚に答えた。
赫女は波打つ豊かな黒髪を垂らし、按司殿下と妃殿下の前に背筋を伸ばして立った。その場に膝を着き、衣に手を添えてお尻の下に敷き、かかとの上に座った。
「待って。このままでは足が痛くなってしまうわ」
ナナジ女官が赫女を止めて、手早く布の靴を脱がせた。
「ありがとうございます。女官さま」
素足になったおかげで、赫女は美しく正座ができた。
ナナジ女官は按司両殿下の正座姿を眺めているうちに、追想の世界に入り込んだ。
――あれはまだ、私が12~3歳の頃……。本島から来たという変わった髪の色の若者がこの座り方を教えてくれた。
『よいか、背筋を真っ直ぐに伸ばすのだ。背中も膝も曲がっている!』
(何よ、偉そうに。たかが季節の神でしょうが。私たちグスクの巫女の方が地位は上なのよ!)
心の裡で、指導する若者を下に見ていた。
衣をお尻の下に敷いて、かかとの上に座ろうとした時、重心がズレてよろけてしまった。とっさにつかんだのは、若者の黄胡蝶(オオゴチョウ)のように鮮やかな色の髪だ。
「いたたっ」
若者は声を出しながらも、ナナジの身体を支えてくれた。
「大丈夫かい?」
「は、はい」
若者の顔を間近にして、ナナジは、顔がカ~~~ッと熱くなるのを自覚した。胸がトクントクンと鳴った。
変わった色の髪からは、あまいあまい香りがした。しっとりと重い髪の束だった。
(ど、どうしたのかしら、私……)
大きい温かい手のひらで支えられ、無事に正座ができた。
(あの時の若者の名前は覚えていないけれど……先日、護衛兵が捕獲した男が、あの方だと思い出した!)
(うりずん――季節風の名前の神だ。あれ以来、男性に接する機会はなく、心ときめいたことはない……。琉球の神に仕える巫女だもの、必要ないけれどね)
(と、思っていたら――)
数年後、グスクの祭りにやってきていた季節の神もやってきていて……。彼の前に正座する機会が再び訪れた――。
(そなたは、あの時の少女だな。確か……ナナジ巫女)
覚えていてくれた!
改めて所作を教えて手を貸され――、背中を支えられながら、春風が通りすぎるようにうりずんの唇が素早く接吻した!
紅鬱金色(べにうこんいろ)の長い髪がのたうって落ち、私の顔を覆った。あまい接吻が私の動きを封印した。髪のなんというまばゆさ、ほのかな甘い香り――。
心が宙に浮いているうちに、正座はうまくできた。
幼少の頃に、巫女に選ばれて誇りに思っていたが、思春期の頃には祭になっても琉球風の着飾りもできない、按司殿下と妃殿下の前で舞を奉納することもできない寂しさを味わっていた。
あれから数十年、うりずんは昔と変わらぬ姿で三度(みたび)現れた――。
第九章 赫女、絵筆をとる
「絵師で、正座師匠の免状を持つ赫女と申します。今日は按司殿下夫妻にお目にかかれて光栄でございます」
赫女は両殿下の前に正座して、深く頭を下げた。
「では、これより両殿下の肖像画を描かせていただきます」
両殿下は穏やかにうなずいた。
絵の道具を出し、床に大きな和紙を広げて、赫女は絵を描きはじめた。
いつのまにか翠鬼が現れて、赫女に耳打ちした。
「細かい部分まで見えるものは全部描いてくれって、うりずんさんからの伝言だ。描き上がった作品を持って、俺と万古老師匠はすぐに海岸へ行く。ちょうど唐の国から錦衣衛(きんいえい=警察)の船が来ているから見ていただくってさ!」
「宋の国から錦衣衛が? それは好都合だね」
赫女は大はりきりで、ものすごいスピードで肖像画を描いた。
赫女たちの予想通り、按司殿下の座る背後の屏風の横や衝立(ついたて)の向こうや、亜熱帯植物の鉢の陰に『兇つ奴』党の男たちは隠れて様子をうかがっていた。
赫女は顔の判別がつく男、すべてを正確に描いていった。
マグシ姫が覗きに来た。
「まあ、素晴らしい肖像画ね、赫女。それでいて怪しい男たちは小さく描いているから、パッと見たところ、怪しまれないわ」
「スサノオの尊さまからの情報で、唐から錦衣衛の乗った船が来ているそうです」
「さすがスサノオさまの情報力ね!」
やがて、陽が傾く頃――、
肖像画が出来上がった。按司、妃殿下に見ていただき、大急ぎで翠鬼がキャンバスを背負い、グスクから海岸に向かって走り出した。裏口で待っていた万古老師匠とも合流した。
唐の船に乗っていた錦衣衛の役人は、スサノオの尊からの連絡を受けていた。万古老と翠鬼と赫女――マグシ姫を受け入れる支度は整っている。
船の入口に、うりずんと美甘ちゃんが待っていた。
第十章 巫女の資格
万古老一同は、唐の船長と錦衣衛の長に会い、肖像画を見せた。
「絵の中で物陰に潜んでいる男たちが、グスクを占拠して琉球神国を支配しているのです!」
錦衣衛の長は船長と共に、手配書にあった人相書きの顔と赫女の肖像画のあちこちに描かれている男の顔を見比べた。
「よし、皆の者、グスクへ侵入して、この男たちを捕縛しろ!」
錦衣衛長の命が下った。
夜更けには、絵に描かれた男七人すべてが捕まった。
最後に、船に乗り込んできたナナジ女官が、唐の錦衣衛に出頭してきた。
「『兇つ奴党』と知りつつ、グスクに引き入れたのは私です。どうぞ、私の手にお縄をおかけください」
神妙にひざまずいて床に泣き崩れた。
「ナナジ女官、まさか、あなたが『兇つ奴党』を引き入れるなんて! どうしてそんなことを!」
うりずんが女官の手をとって尋ねた。
「琉球神国の掟は厳しいものです。巫女に選ばれたら、最後まで女として生きられません。しかし、巫女として生き抜く自信を失くしました」
「何を言う」
「私は巫女の資格を失くしたのです。少女の頃、正座を教えてくれた方に、巫女の心得を盗まれたのです」
「……!」
万古老師匠が進み出てきた。
「正座を教えてくれた方というのは、うりずんじゃな? 巫女の心得を盗んだのは。数十年前にグスクで正座指導したと言っておったじゃないか。新婚の妻を恋わずらいにしたり、偉い女官さまの心を乱したり、やるのう、うりずんよ」
ニヤニヤしながら言った。
第十一章 黒髪を切る
「ナナジ女官。あなたが自首したおかげで琉球神国に巣くっていた『兇つ奴党』は一掃された。これからはもっと自信を持って神国にお仕えください」
女官の両肩に手を置いて、うりずんは言い聞かせた。
「しかし……、私の罪は許されないでしょうし、琉球神国には戻りたくありません。唐の船に乗せていただき、どこか遠い国に旅立ちます」
万古老がうなずきながら、
「ナナジ女官――。それもまた良かろうて。女官は生まれた島にじっとしている女性ではなさそうじゃ」
ナナジ女官は懐に手を入れ、短刀を取り出した。手早くカラジ結いの黒髪からかんざしを抜いて髪を下ろすと、ざっくりと切り落とした。
「あっ、女官、なんてことを……!」
皆が驚いて動けないでいるところへ薫丸がやってきた。そして、女官から短刀を持ち替え、自分の長い黒髪もザックリと切り落とした。
「薫丸くん!」
美甘姫が真っ青になってやってきた。
「なんてことを! ちゃんとした儀式もせずに、旅先で! どんなに母上さまや乳母さんが悲しまれることか!」
「いいんだ、儀式なんて。ナナジ女官もおいらも手かせ足かせから離れてのびのびした気分だよ。な、女官」
「え、ええ、そうですね」
ふたりそろってグスクを出て崖っぷちへ歩いていき、自分の黒髪を風にまかせてばらまいた。黒髪は風に乗って海の上を漂い、やがて視界から消えていった。
万古老とうりずん夫妻たちは、京の都へ帰りの旅に立つ。
「おや? 薫丸くんの姿が見えんようじゃが」
万古老が立ち止まった。
「薫丸さんは気ままに旅に出ると行って、ナナジ女官と一緒に唐の船に乗られましたよ」
翠鬼があっけらかんと答えた。
―――しばらくしてから、美甘ちゃんが悲鳴を上げた。
「やっぱり! 私がそよぎと結婚したことがショックだったんだわ! どうしよう、九条家は大騒ぎになるわ」
「美甘奥ちゃん……薫丸くんはしっかりした男だ。無事に帰ってくるさ。信じてあげなさい」
うりずんが、幼い妻のオツムをテンテンとたたいた。