[305]洗濯物たたみは正座で


タイトル:洗濯物たたみは正座で
掲載日:2024/08/26

著者:海道 遠
イラスト:鬼倉 みのり

内容:
 乗子(のりこ)と馬早司(まさし)の夫婦は結婚して十年。
 馬早司が「ホースショーで馬の正座を見た」と興奮して帰宅。
 馬早司は以前、競走馬パープルプリンスの大ファンで競馬場に通っていた。今度、乗馬クラブに異動してくることになり、入会したいので費用作りに仕事の後はラーメン店でバイトすることにした。ラーメン店の仕事で汗をかくので洗濯物が増え、乗子は不満に思いながらも、母親の教えどおり正座して洗濯物をたたんでいた。



本文

第一章 パープルプリンス

 瞳や馬体は黒曜石のように輝いている。濃いまつ毛の陰。希望に満ちた光。切りそろえられたたてがみの光沢。美しく発達した筋肉の身体からは湯気が立っている。逞しい蹄(ひづめ)の足。
「やり遂げた」という満足感が賢そうな顔つきに溢れている。
 三冠馬パープルプリンスの引退の際の表情だ。
 観客に頭を垂れ、騎手も鞍の上でできるだけ整然と座り、お辞儀している。引退レースを勝利で飾ることができたのだ。
 競馬場の観覧席から満場の拍手が湧いた。
 馬早司(まさし)も、嬉し涙に溢れて手のひらが痛くなるほど拍手した。

「馬が正座したところ、見たことあるかい?」
 帰宅するなり夫の馬早司が興奮して言った。今日は日曜なので、カジュアルな服装だ。
 乗子(のりこ)は、キッチンで夕飯の下ごしらえの手を止めた。
「馬が正座したところ? 見たことないわよ、そんなの」
「だろうな。俺も今日、ホースショーで初めて見たんだ」
「ホースショー? あなたったら馬が見られるとなったら、どこでも行くんだから」
 乗子は苦笑した。
「正座というより、前足を地面についてお辞儀をする場面なんだけどね。前足を折って頭を下げて、そりゃあ優雅なんだよ」
「じゃあ、お尻は? 座ったことにならないじゃないの」
「下半身は別さ。ちゃんとお尻を下ろして地面にペタンとする場面もあるよ」
「じゃあ、馬が座るのは上半身と下半身が別々なのね」
「乗子、実はお願いがあるんだ」
「な、何?」
 乗子はなんだかイヤな予感がした。
「俺が競馬でぞっこんになってたパープルプリンス、知ってるだろ?」
「何年か前に引退したんでしょ? さんざん長い間、あなた、競馬に通ってたわね。『馬早司』って名前に相応しいくらい」
「俺の名前は、競馬好きだった親父がつけたんだよ。で―――、そのパープルプリンスがね、北海道の牧場で種馬の任務を終えたのでファンの要望に応えて、今度、乗馬クラブに所属することになったんだ」
「……」
「その乗馬クラブに入会したいんだけど」
 乗子の不安が的中した
「乗馬クラブですって? そんなお金がどこにあるのよ! あんなの超セレブにしかできない趣味よ!」
「〜〜〜やっぱりダメ?」
 馬早司は両耳を塞いだ。
「もちろん、仕事以外にバイトを増やすよ。乗馬クラブの費用は自分で稼ぐ」
「乗馬クラブ費がいくらかかると思ってるのよ?」
「入会金が二十万……乗馬服、帽子など十万や乗馬靴三万~五万、鞭が二万とか、他にもいろいろ十五万くらい、いやもう少し必要かな?」
「な、なんですって?」
 目玉が飛び出しそうな乗子の顔に、馬早司は小さくなった。
「私達のような一般庶民とは違う世界の人がやる趣味なのよ」
「でも、このままパープルプリンスと会えなくなるのがイヤだから、ラーメン店の皿洗いのバイトも決めてきたんだけど」
「そんなので賄える(まかなえる)の?」
「シャカリキで働くからさ」
「そこまで言うんだったら、自分で入会金二十万円分働いて作ってちょうだいよ」
「ま、前払いかい? ――分かったよ」

 馬早司は仕事の後や休みに皿洗いのバイトを始めた。ラーメン店の皿洗いは重労働だ。毎日しこたま汗をかき、働いた。
 洗濯物がたちまち増えた。
「あなたのバイト用のシャツの洗濯の量がすごいわ」
 乗子は文句たらたらだ。洗濯物を取りこんで、山になっている分を正座してたたみ始めた。
「おや? ちゃんと正座して洗濯物たたむんだね! 乗子」
「洗濯物は正座してたたむものでしょう」
「決まってるの?」
「決まりごとじゃないけど、母が昔からそうしてたから、なんとなく」
「じゃ、僕も洗濯物を正座してたたむよ。だから乗馬クラブを許して下さい」
「あなたが洗濯物をたたむ? 結婚して十年、紙くずもゴミ箱に捨てないあなたが?」
 乗子は大げさに肩をすくめた。
「うん。自分の洗濯物だからたたむ。正座してたたむから、正座の正しいやり方教えてくれる?」
 馬早司は大真面目だ。乗子は独身の頃、正座の所作を習っていたのだ。
「そこまで言うなら教えてあげてもいいけど……」

第二章 正座教わる

 ふたりは座敷に移動した。
 乗子も落ち着いて座布団の上に座った。
「じゃ、あなた。まず背すじを真っ直ぐにして立ってくださいな。そうそう。そして畳の上に膝をついて、女性の場合はお尻の下にスカートを敷いて、かかとの上に静かに座ります。両手は膝の上に軽くそろえて」
「こ、これでいいかな?」
「きれいに座れたわよ」
 馬早司は乗子に褒められてドヤ顔になった。
「で、ここに積まれる洗濯物をたためばいいんだな」
「洗濯物のたたみ方も順番にお教えするわね」
「わかった」
 馬早司はやる気いっぱいの顔で、胸をどんと叩いた。
「ところで、バイト先に、君の仲良しの栗林さんとこのご主人が働いているよ」
「え、栗林さんもお皿洗いなの?」
「いや、栗林さんは調理場でラーメン作ってるよ。でも暑い職場だから、一日に何回も着替えして洗濯物がたくさんだそうで、奥さんが困ってるそうだ。あそこはお子さんも多いからねえ。君、奥さんとは友達だから知ってるだろう?」
「ええ。栗林さんのご主人と同じラーメン店なのね。そういえば、奥さんが以前から洗濯物がたっぷりって言ってたわ」
「奥さんも洗濯物をたたむ時は、正座してるんだろうか」
「さあ、大して気にとめてなかったから聞いたことないけど。正座すると、たたみやすくてはかどるわ」
「たたみ方、教えてくれよ」
「パープルプリンスのためなら、ずいぶん頑張るのね」
 乗子は苦笑した。馬早司は競馬が好きというより、馬が好きなのだ。特にパープルプリンスが。

 馬早司は洗濯物のたたみ方も、乗子から真面目に習った。
「洋服や下着って、モノによってこんなにたたみ方が違うのか。知らなかったよ」
「正座するとたたみやすいでしょう?」
「てか、自然に正座になっちゃうよ。正座でなけりゃ、うまくたためない」
「まあ、すっかり板についたようね」
 まったく家事をしなかった馬早司が、洗濯物を正座してたたむとは、びっくりだ。
(これも、パープルプリンスっていう馬に会いたいためなのね)

 馬早司は、ラーメン店で同じく働く栗林さんに、自宅で洗濯物たたみの家でのバイトをやっていることを話した。
「やってみると楽しいんだよ」
「へえ。びっくりだね! 君が洗濯物たたみのバイトをしてるなんて。しかも奥さんから賃金をもらうなんて」
「乗馬クラブに入会するためだよ」
「君の馬好きもすごいね」
 栗林さんはしばらく考えて、
「僕は洗濯物たたみの正座に興味を持ったよ。君の奥さんが正式な正座をご存知なら、うちの奥さんと娘ふたりにも教えてもらえないだろうか?」
 その話は、とんとん拍子に進んだ。
 栗林さんの奥さんも「正式な正座の所作」に興味を持ち、高校生と中学生の娘ふたりとお稽古にやってきたのだ。

「いらっしゃい、栗林さんとお嬢さんたち」
 乗子は張り切って彼女たちを迎えた。
「ありがとうございます。前から、奥さんが正座の所作をよくご存じなことを、お聞きしていたのよ」
「乗子おばさん、ありがとうございます。ルミカです」
「こんにちは。妹のエミカです」
 娘たちもにっこりして挨拶する。
「大したことはお教えできないけど、楽しんでね」
 彼女らは座敷に移った。
「背すじを真っ直ぐ伸ばして立って、床に膝をつき、スカートはお尻の下に敷いて、かかとの上に座ってください」
 栗林さんの奥さんとふたりの娘さんは、ゆっくり言われるとおりやってみた。
「できたでしょうか」
「はい。栗林さんもお嬢さん方もお上手ですよ。座る時にお尻の下に着物やスカートの裾を敷くことを忘れないでね。そうしないと、裾が乱れてしまうから」
「分かりました。ちょっとしたことだけど、忘れないでおくと美しく座れるのね」
 栗林さんは、娘ふたりと顔を見合わせて頷いた。

「お宅のご主人、偉いわねえ。ご趣味のために正座して洗濯物をたたまれてるとか……」
「ええ。好きなことには見境ないタイプなので」
 乗子はやや、照れ臭い。
「乗馬クラブに入会されるためなんでしょう?」
「まあ、栗林さん、よくご存じなのね」
「だって、夫同士の職場が同じなんですもの」
 栗林さんの奥さんも苦笑している。
「うちも、実は、洗濯物たたみのバイトを始めたんですのよ。助かりますけどね。一回五百円。これと言った目的もないのに」
「まあ、栗林さんのご主人もですか」
「ねえ、乗子さん」
 栗林夫人が膝を進めた。
「ここで、少人数でいいから、さっきみたいに正座教室なさったらいかが? 習いたい人だっていらっしゃるでしょうし、男性が習われたら、うちやお宅のようにご主人が洗濯物を正座してたたむ人が増えるかもしれないでしょう?」
「え、ここで正座教室?」
 乗子は面食らった。
「教室って大げさな感じじゃなく、正座タイムってことにして、おやつをいただきながら。どう?」
「え、え、ちょっと考えてみます」
「馬も、ホースショーとかでは正座するそうじゃないの」
「えっ」
(そこまで栗林夫人は知ってるのか。そうか、馬早司は馬のこととなると誰にでも聞いてもらいたいタイプだ。栗林さんに話したのだろう)
 乗子の手がおでこにあてられた。

第三章 馬の曲芸

 いいお天気の日曜日、乗子が庭木の手入れをしていると、馬早司が、奥から声をかけた。
「乗子、馬の曲芸を見物に行ってみないか?」
「え? 私、今日は庭木の剪定(せんてい)をしないと」
「こんないいお天気だし、行こうよ。君にも馬の素晴らしさが分かるよ。さ、新しい洋服に着替えて」
「新しい洋服?」
「モスグリーンのセットスーツ、買っただろ。あれ、似合うよな」
(い、いつの間に……)
 乗子は、へそくりから買った洋服を見透かされていて、断れなくなった。
 仕方なく着替えて、馬早司の運転する車で競馬場に向かった。

 競馬場では珍しい馬の曲芸があるということで、子どもを連れたファミリーがたくさん押し寄せていた。
 直径数十メートルくらいの広場で行われる。
 短い鞭を持ち、シルクハットを着た乗馬服の女性が登場した。次に、一点のシミもない白馬が登場する。たてがみを何本もの三つ編みに編みこんであり、カラフルなリボンをつけてもらっておしゃれしている。
 女性がひらりと白馬の鞍に上がり、ギャロップしたり、斜めのステップを踏ませたり、観客を喜ばせる。
「馬っておりこうなのね」
 乗子は見物しているうちに、だんだん夢中になった。
 途中でドスンと馬が尻もちをつく。
「あら」
「大丈夫、あれも芸だから」
 ひととおり演技が終わり、女性は馬を下りて鞭で地面を叩いた。
 すると白馬は片脚ずつ前足を折り、頭を下げるではないか。
 たたみにくい足を折って、頑張って頭を垂れている様子がなんとも健気だ。
 乗子の瞳が輝いた。
「ちゃんとお辞儀してるわ。下半身は座れてないけれど、あれが馬の精一杯の正座でのお辞儀なのね」
「そうだろうね」
 すっかり馬に魅せられた乗子だった。

第四章 初競馬

 競馬場のアナウンスが響く。
『第六レース、まもなく始まります』
「レースが始まる! 行こう!」
 馬早司は乗子の手をつかんで、走り出した。
「レースまで観るの? 私、競馬には興味ないわよ」
「馬が全力疾走する姿は、すごい迫力だぜ」
 押しつぶされそうになりそうな人混みの中を、手を引かれた乗子は観覧席の中央にやってきた。
 今までテレビでチラリとしか観たことのない競馬だ。本物は観たことがない。周りの観客たちが、レース場を観て目を輝かせている。
「もっと早く、君を連れてくるんだったな。パープルプリンスが現役のうちに」
 参加する競走馬十一頭が出発するゲートに入った。
 と、思う間もなくゲートが開き、競走馬たちが走り出す。なんという速さだろう。猛烈なスピードの世界だ。騎手たちも、馬の背に座ってやしない。中腰で立ったままで疾走している。
 競走馬の集団が目の前を通り過ぎる時の迫力は、乗子をもっと驚かせた。
 やがて馬たちが最後の直線コースに入り、ゴールに接近しはじめる。馬の尻に鞭があてられる。観客たちの興奮は絶頂に達する。どうやら「鼻の差」という写真判定で一位が決まったようだ。
「やった~~~!」
 馬早司が叫んだ。
「ゴールドグラスが勝った! 俺が馬券を買っておいた馬だ!」
「え、あなた勝ったの? すごいじゃないの」
 優勝したゴールドグラスが大きな息を吐きながら、徐々にスピード落とし、ユーターンしてきた。
 馬早司と乗子は、もっとコースに近い場所に移動した。
 ゴールドグラスは一番人気の馬だったので歓声がおさまらない。
 手綱を持つ調教師が、観客の前に騎手を乗せたままのゴールドグラスを連れてきた。
 乗子の目の前で、ゴールドグラスは頭を下げ、馬上の騎手もきちんと座り、頭を下げた。
(これが競走馬の正座でお辞儀する姿なんだわ!)
 乗子の胸が熱くなった。次の瞬間、乗子は人の目もかまわずに観客用の芝生の上に正座した。
(おめでとうございます。よく頑張ったわねえ)
 ゴールドグラスに向かって深くお辞儀した。
「乗子! 何をやってるんだ!」
「だって感激したんだもん……。馬の走る姿は美しかったわ」
 馬早司に手を引かれて立ち上がった。
 ゴールドグラスの調教師が、乗子に向かって深々とお辞儀をした。

「それでね、私、感激してゴールドグラスと調教師さんの前で泣いてしまったのよ」
 乗子は、栗林さんの奥さんに、競馬がどんなに素晴らしいかを話した。

第五章 乗馬クラブに入会

 洗濯物たたみは、栗林さんが友達に話したおかげで、乗子の自宅で数人集まり「正座タイム」が開かれるようになった。
「真っ直ぐ立ってくださいね。それから、床に膝を着き、スカートはお尻の下に敷いてかかとの上に座ってください」
「なるほど~~。正式な所作だときれいに正座できますね」
「そして、洗濯物をたたみます」
「正座すると、心が鎮まって一枚ずつの洗濯物を丁寧に扱えますね」
 教えてもらう方々の感想は、上々だった。
 全部たたみ終えると、ジュースやクッキーで休憩した。
 皆、楽しく正座を覚えて帰り、栗林さんもラーメン店の同僚やお客さんに話したせいで、乗子の「正座タイム」は、ますます人数が増えてきた。
 馬早司は真面目にラーメン店で皿洗いのバイトを続け、洗濯物たたみの家でのバイトも続けた。

 一年かかって、馬早司は乗馬クラブ入会金が貯まり、乗馬服や用具も買いそろえるお金ができた。ようやくパープルプリンスのいる乗馬クラブに入会した。
「ありがとう、乗子。君の協力のおかげだよ。君の洗濯物たたみのおかげで正座の良さも分かったもの」
「あなたがラーメン店と正座と洗濯物たたみを頑張ったせいよ。おめでとう」
 ふたりでシャンパンで乾杯した。

 乗子の洗濯物たたみは評判を呼び、沢山の知り合いの知り合いが正座の所作を習いに来る。正座すると洗濯物たたみが丁寧にしかも楽にできると好評だ。
 栗林さんの奥さんが、
「こうなったら、教室にしてお手頃なお月謝をいただいたら?」
 と言い出す。
「いえ、そんな、おこがましいことはできないわ。大したことをお教えするわけじゃないから」
「じゃ、動画配信始めたら?」
「動画なんてどうやったらいいか、さっぱり分からないわ」
「撮影は主人が受け持つわよ。乗子さんは、正座の所作を説明しながら実演して、洗濯物をたためばいいだけ」
 栗林さんのご夫婦が軽く請け負い、話が進んでしまった。

 撮影の日、自宅に撮影機材が持ちこまれ、乗子は緊張した。
 栗林さんの奥さんが、乗子がいつも説明している言葉をもとに、簡単な脚本を書いてくれた。
 正座の所作をしゃべりながら座り、洗濯物を丁寧に素早くたたんでいく。
 少しずつ洗濯物の種類を違えて、毎日撮影した。それを栗林さんのご主人がネットにアップする。
 動画のフォロワー数は、だんだん伸び始め「洗濯物たたみは正座で」というタイトルは標語のように広まる。

 順調に乗馬クラブに通いだした馬早司は、担当になった初心者向けの栗毛のサラブレッド、マキバくんに乗って練習している。
 パープルプリンスは時折、見かけるが、手の届かない高嶺の花だ。
「パープルプリンスに乗りたいなんて、なんと浅はかな夢だったんだろう。乗れるわけないよな。乗馬初心者の俺なんかが」
 すっかり馬のファンになった乗子は、馬早司を励ます。
「あなたもいつか絶対、パープルプリンスに乗って練習できるようになるわよ! だからがんばって」

第六章 神園千歩(かみぞのちほ)

「一度、あなたの乗馬練習風景を見に行ってもいい?」
 乗子は馬早司に言ってみた。
「えっ?」
 馬早司は、食事中に言われ、情けなさそうなぐちゃぐちゃな表情になった。
「見に来るのか?」
「いいでしょ。私は一応、スポンサーなんだし、それにマキバくんにも挨拶したいから」
「まあいいけど。まだぼろぼろだぜ。『馬の気持ちを分かってあげなさい』とか、『落ち着いて』とか、指導のトレーナーにお説教されてる段階だよ。なんたって馬の背中は高くて怖いんだよ」
「あらあら。もう三か月にもなるのにそんななの?」
「だって、乗馬練習は週に一回だぜ」
「だから見に行くのよ。やる気出るでしょう」
 乗子は、さっそく次の練習日に乗馬クラブに出かけた。馬早司は馬場に出ているはずである。
 姿を見つけ、手を上げて叫びそうになったが、口をつぐんだ。
(いけない、いけない。馬の近くで大きな声は禁物だったわ。馬ってデリケートなんだっけ)
 馬早司が気づいて、マキバくんに乗ったまま近づいてきた。
「乗子、本当に来ちゃったんだ」
「あら、ちゃんと乗れてるじゃないの」
 そのとたん、マキバくんがぶるるん、と鼻を鳴らせて首を振った。
「きゃっ、すごい鼻息!」

「あっちにパープルプリンスがいるよ」
 馬早司の指さす方を見ると、抜きんでて美しい青毛(黒馬のこと)の馬が並足(なみあし)で練習していた。
「ここでは、『むらさきくん』って呼ばれてるんだ」
 パープルプリンスの専属になったセレブな女性は、「チホ」ブランドのファッションデザイナー、神園千歩だった。
 ベテランで華麗な口調と所作で、人あたりも優しい女性だ。テレビのワイドショーにも時々、出演しているから顔は知っている。今日は長めのカールした黒髪を軽くまとめて乗馬帽の中におさめている。
 パープルプリンスこと、むらさきくんに乗ったまま、近づいてきた。
「あなた、失礼ですけど『洗濯物たたみ正座』の動画の乗子さんじゃありませんか?」
「そ、そうですが」
 乗子はドッキリした。動画に出演しているとはいえ、現実に声をかけられたのは初めてだ。
「いつも拝見しております」
 神園千歩女史は、にっこりした。
「千歩ブランドの先生が、洗濯物をご自分でたたまれるんですか!」
「もちろん、自分でやります。母が正座してやっていたように。洗濯物をたたむ時こそ、私ひとりの時間に浸れるひと時なんです」
 意外なことを言う。
「あの動画のファンですのよ。乗子さん、あなたにお会いできて、とても嬉しいわ」
 乗子はあがってしまって、ロクに口が聞けない。
「貴女の馬はどの子?」
「今日は夫の練習を見学に来ただけなんです」
 そこへ馬早司がマキバくんに乗ってやってくる。
「あら? 乗子さんのご主人でしたのね」
 神園千歩が、気がついた。
「マキバくんはとても優しい子よ。私も長い間、乗せてもらったわ」
「はい。マキバくんは新米の僕に気を配れる心優しい馬ですね」
「その点では乗馬には、むらさきくんよりマキバくんの方が向いているかもしれないわね」
 マキバくんとむらさきくんは気が合うらしく、鼻面を寄せ合ったりしている。

第七章 千歩女史の依頼

「ああ、今日はドキドキしたわ」
 自宅へ帰った乗子は、馬早司に、大きなため息をもらしてソファに身を投げ出した。
「『チホ』ブランドの神園千歩さんとお会いするだなんて」
「セレブだとは思ってたけど、乗子がそんなに興奮するとは思っていなかったよ」
 馬早司は、女性のファッションには興味がないので「チホ」ブランドを知らなかったらしい。いつも顔を合わせるらしく、そんなに興奮していない。
 ふたりでコーヒーを淹れて、ひと休みした。
 馬早司のスマホが鳴った。電話だ。
「あれ? その神園さんから電話だ」
「ええっ? あなた、神園さんと電話番号の交換なんかしていたの?」
 馬早司は気軽に通話ボタンをオンにした。

「神園さんが奥さんと変わってほしいって!」
「えっ、私と?」
 乗子は、のどのエヘン虫をはらってからスマホを受け取った。
「もしもし、お電話変わりました。乗子でございます。昼間はどうもありがとうございます」
「こちらこそ、突然電話してすみませんね」
 神園千歩の声はやたら明るい。
「実は、お願いがありまして。私を貴女の動画に出演させていただけませんでしょうか?」
「は? 今、なんと?」
「私、貴女の『洗濯物たたみの正座をする』という姿勢に惚れこんでおりまして。私も衣服に携わる仕事をしていますでしょう」
「はい」
(携わるどころか、一流の世界的デザイナーじゃないの)
「洗濯物をたたむ時の美しい所作で、改めて正座の良さを拝見しました。私が一生の仕事としている衣服を丁寧に扱う道と通じていると確信いたしました。私の口からも、女性や男性方にもお伝えしたいのです。洗濯物たたみは、ご自分の手で正座して行いましょうと」
「神園先生……」
 雷に打たれたように、乗子のスマホを握る手が震えた。
「神園先生のような一流の先生となると、テレビ出演でお伝えになられる方がよろしいかと思いますが……」
「今はネットがこれだけ普及しているのですもの。お若い方にも洗濯物をたたむ時は正座でと、お伝えしたいのです。外出着や通勤着はたたむ必要はなくても、カジュアルなTシャツやブラウス、下着はたたまなければなりません。たたみ方の講座も加えればいかがかしら?」
「まあ、そこまで」

第八章 反響

【ノリコの洗濯物たたみは正座で】動画は、「チホ」ブランドの神園千歩が出演して、ノリコと一緒に正座の所作を見せてから、洗濯物をたたむという、まさかのスペシャルゲストのせいで、かなりの再生数に昇った。
 一流デザイナーの神園千歩が、庶民主婦と一緒にシャツや下着まで正座してたたむということが好評で、三回に一度は出演してもらうことになった。
 しかも、洋服それぞれの手早いたたみ方や、お手入れ方法まで紹介し始めた。
 神園千歩は、デザイン画を描いているだけではなく、心の底から洋服を愛しているということが、人々に伝わったようだ。
 正座を、一般主婦のノリコから教わる姿も好感を持たれたらしい。
 あるトークショーに彼女が出演した時には【ノリコの洗濯物たたみは正座で】動画について、
「ノリコさんとの出会いは?」
 司会者から尋ねられた千歩は、
「ノリコさんのご主人が通う乗馬クラブが同じですので、お近づきになれましたの。私が乗らせていただいているパープルプリンスは、競走馬時代にノリコさんのご主人さまのご贔屓(ひいき)でしたの」
 と、笑顔で答えた。
「乗馬クラブのご縁ですか。神園さんは乗馬の名手ですものね。特に熱心な三冠馬パープルプリンスの熱烈なファンでいらしたんですものね」
 司会者は応えた。
「パープルプリンスが引退して数年、今度は乗馬クラブで活躍すると聞きまして、私も入会して再会しました。そこでノリコさんのご主人さまとお知り合いになりましたの」
 よけい好感度を得た神園千歩ブランドは、若者や若い主婦層にも人気が上がったので、乗子の動画と持ちつ持たれつという感じだ。

「あれよあれよという間に動画のフォロワーさんが増えたようだけど、全然、実感がないわ。神園先生とお近づきになれたなんて、夢みたい」
 ある夜、乗子が馬早司にため息と共にもらした。
「君の夢が叶ったんじゃないか」
「夢じゃないわ。あなたの乗馬クラブ入会金のために、なりゆきで始めたことよ」
 それから乗子は思い出した。
「馬早司さんの夢は、馬の正座したところを見ることじゃなかった?」
「そうだけど、マキバくんにそんな無理はさせられないな」
「いっそのこと、パープルプリンスの正座姿を見られたら感激なんじゃないの?」
 馬早司は立ち上がった。
「ああ、僕が何年か前に見たのは、ホースショーっていうのだ。調教師さんが教えるんだよ。パープルプリンスの背に乗ってお辞儀をさせるのは、神園さんのような貴婦人ならお似合いだろうな」
「とっても絵になるでしょうね!」
(パープルプリンスが、神園さんのような洗練された女性を背に乗せてひざまずく挨拶をしたら素敵だろうなあ)
 その話はすぐに神園さんに伝わった。

第九章 パープルプリンスの正座

「あなた方おふたりに見せたいことがあるの」
 乗馬クラブで神園千歩が声をかけてきた。
 パープルプリンスのむらさきくんに乗って、常歩(なみあし)で乗子たちの前にやってきて止まり、
「はい、むらさきくん、ご挨拶よ、ご挨拶」
 鞭で導いて、馬の上半身を前に傾けて、前の片脚を地面に折らせて頭を下げさせた。
「おお!」
「これは……」
(これこそ上半身だけしか下げていないけど、馬の正座と呼べるのでは?)
 頭を垂れたパープルプリンスは、まさしく正座をしてお辞儀をしていた。
「素晴らしいわ!」
 神園千歩はにっこりし、
「いかがかしら? 私に正座して洗濯物たたみを教えてくださったお礼です」
「お礼だなんて」
 馬早司が目を輝かせて、
「この模様こそ、動画で配信しよう!」
 乗子は驚いた。
 神園はパープルプリンスを立たせると、落ち着いて、
「いえ、それはよしておきましょう。私たちだけのやり取りですもの。パープルプリンスが面白半分にもてはやされるのも、あまり良いことと思えないですし……」
 穏やかな笑みを浮かべた。
 乗子と馬早司は、神園先生のおおらかさ、馬への愛情を改めて知ったような気がした。
(確かに他の人にまで見てもらうことじゃない)
「そうですね。私たちだけの瞼(まぶた)に焼きつけておきましょう」
 馬早司は、ウケ狙いしてしまった自分を恥じた。
 パープルプリンスこと、むらさきくんは、ぶるるんと鼻息を吐いて、アゴで馬早司の頭をちょんちょんと突いた。
 乗子と神園先生は笑いあった。

 ある日、乗馬クラブのラウンジで、乗子夫婦と神園先生がお茶していると、先生が唐突に言った。
「もうすぐ、おふたりのご結婚記念日でしょ?」
「先生、どうしてご存知なのですか?」
 乗子も馬早司も驚いた。
「動画ファンでお知り合いになったお友達からお聞きしたんですよ」
「そうだったんですか」
「私からのプレゼントに、ご主人様にパープルプリンスに乗っていただきたいなと思いまして」
 乗子と馬早司は、そろって馬場のパープルプリンスに視線を投げた。厩務員に連れられてポクポク歩いている。
「夢のようです! よろしいんですか、先生の専属馬じゃないですか」
「おふたりにとって特別の日でしょう。何か思い出にと。パープルプリンスは紳士馬ですから、初めての方でも大丈夫」
 薫る(くゆる)笑顔はなんと優しいのだろう。
「馬早司さん、お言葉に甘えたら?」
 乗子が言い添えた。

 昼すぎ、馬早司はパープルプリンスに乗って、颯爽と馬場に出てきた。少し緊張している。
「馬早司さん、素敵よ」
 柵の外から乗子が声をかけた。
「乗子さんも馬場に入って」
 かたわらにいた神園先生が言い、乗子はその通りにした。
 馬場に入ると、夫がパープルプリンスを近づけてきた。そして、鞭をあやつり、丁寧に前足を折ってひざまずく「正座」に導いた。驚いた乗子も芝生の上に正座した。
「ありがとう、乗子。これからもよろしく頼む」
「こ、こちらこそ!」
 馬早司の挨拶に乗子も正座で頭を下げた。


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