[50]正座姿を恋うる


タイトル:正座姿を恋うる
分類:電子書籍
発売日:2019/04/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:44
定価:200円+税

著者:海道 遠
イラスト:keiko.

内容
 高校一年生のちとせは、ある日、元女優の母親の失踪を知る。正座姿の美しい母親、琴子は和装女優として確固とした位置にいた。直後に父親からの電話でしばらく留守にするという。途方にくれるちとせの前に現れた、兄と名乗る柊。柊に連れていかれた先は、人身売買の現場。しかし、柊はいきなりちとせを連れて逃げ出す。彼の思惑によって、ちとせはどうなるのか。
 正座の魅力がひとつの家庭の幸せを左右することもある。

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本文

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序  章 柊の回想

 幼かった俺の眼に最後に残ってる母親の姿は、正座して後ろを向いている姿だ。早春の若草色の着物姿に、目に沁みる真っ白な足袋。
 いつものようにスニーカーに砂をいっぱいくっつけて、学校から走って帰る。それからベビーベッドに寝かされている妹のちとせの顔を見に行くと、ベッドは空っぽだった。
 母親は床の間を向いたまま。ひと言言った。
「さよなら、柊。元気で生きていきなさい」
「え、さよなら? ちとせはどこ?」
 両側から乱暴に両腕をつかまれた俺は、足をじたばたさせたが、軽々と得体のしれない男たちに持ち上げられ、車に放り込まれた。
「母さん、お母さ~~ん」
 玄関に転がしたままのランドセルが遠くなっていく―――。

第 一章 ちとせ、ひとりぼっち

 庭の大木に止まった蝉がわんわんと鳴いている中で、ちとせはその声に取り巻かれるように呆然と立っていた。
 窓の外はまばゆい太陽の世界。閑静な住宅街の一戸の家の室内は何も変わっていない。
 ママのお気に入りのキッチンとママとパパとちとせで囲む可愛いダイニング。
 若草色が基調のインテリアに囲まれたちとせの大好きな場所。茶トラの船長もソファの上でお昼寝している、いつもの情景だ。
 なのに、ママがいない。残されたのはケータイの中の一通のメールだけ。
『置いていってごめんね。ママの好きなように生きさせてもらうわ。元気で、ちとせへ』
(いったい、何が起こったんだろう?)
 ちとせは高校一年。今年は受験から解放されたし、海へ行ったりショッピング行ったり、素敵な夏休みのはずだったのに今日からママがいない!
 もうママの料理が食べられない? 朝、起こしてくれる人もいないの?
「お帰り」って、笑顔で迎えてくれる人もいないの?
 ベランダの外の洗濯物だけが、ゆらゆらと不気味に揺れて広い部屋の中、猫以外、たったひとりだと、ちとせはひしひし感じる。
(ママは本当に出て行ったんだろうか?)
 そこへ、いきなり家電が鳴った。公衆電話からだ。ちとせは受話器に飛びついた。
「もしもしっ」
「ちとせか、パパだ!」

第 二章 柊との再会・その一

「どうしたの、パパ! どこにいるの? ママがいなくなっちゃったのよう」
「分かってる。ちとせ、少しの間、辛抱してくれないか」
「分かってるって? ママがいないのよ!」
「パパもしばらく帰れない」
「えええっ、パパまで」
「とにかく、待っていなさい。ひとりで大丈夫だな」
 パパの声は落ち着きながらも、どこかに焦りを感じられた。
「何があったの、ママは一緒にいるの?」
「詳しいことは、今、話せない。家で待ってなさい」
 そこまで言って、電話はガシャンと切れた。
「何なのよ、わけわかんない!」
「ずいぶん、荒れてるなあ、お嬢ちゃん」
 若い男の声にびっくりして振り向くと、派手な柄シャツの男が玄関から入ってきた。二十歳前半だろうか?
「あぶねえなあ、こんな高級住宅街で戸締りもしねえなんて」
「あんた、誰よっ」
 ビクビクしながら言い返した。
「女優、美沢琴子さんのファンだよ」
 美沢琴子というのは、ママの芸名だ。ちとせのママは和装美人として、それも正座姿の美しさから、わりと名の知れた女優なのだ。でも、とても良い母親で奥さんでもある。
 ファンの若い男やおじさん、おばさんが家の付近にたむろしていることもよくある。
「ママならいないわよ。出ていって!」
 男はドアを閉めようとするちとせの手を押しとどめて
「いいのか、ママの居所を教えてやろうってのに。お嬢ちゃん」
 ちとせの頭の中が混乱する。
(ほ、本当だろうか。この男、ママのこと知ってるんだろうか? どう見てもチャラくてまともな男じゃない)
「信じなよ。俺はあんたの正真正銘、兄貴なんだぜ、柊っていうんだ」

第 三章 柊との再会・その二

「あんたが私のおにいさんですって?」
(ドサクサに紛れて何を言い出すんだ、このチャラ男。私は一人っ子よ。兄なんていないわ)
「私のこと、バカにしてるでしょう。騙されないわよ。混乱させてお金をだまし取ろうってんでしょ」
 睨みつけた。
「カネをいただこうってのも本当だし、あんたの兄貴だってのも本当だ」
 上がり込んで、リビングのソファにどっかと座ったアロハシャツの男。
「ケーサツ、呼ぶわよっ」
「兄貴なんだから不法侵入にはならねえよ」
「あんたなんか知らないわ。ママはどこなのよ。勝手にお酒の棚、触らないで!」
 イマドキ、黒髪にメッシュのその男は整った顔立ちだが、どうも口ぶりが下品だ。
「ママならちゃんと無事だぜ、安心しな、ちとせちゃん」
 男はカーテンの側の観葉植物のハッパを一枚ちぎって、ウインクした。
「あんたにそんな呼び方、されたくないわ」
「ハネッかえりだな。さすが、美沢琴子のひとり娘だけあるな~~。とにかくママは元気でいるよ。なぜか俺のママでもあるけど」
「やめてよっ、信じないから」
「ママはあんたが思ってるようなマジメな女じゃねえぜ。男と手に手を取り、家を出たんだ。証拠写真ならあるぜ。俺が撮影して週刊誌に売ったんだ。それで、家にはいられなくなった」
「な、なんですってえ、ママがよその男と……!」

第 四章 ちとせの頭、噴火

「じゃあ、なんでそのことを息子のあんたがマスコミに売ったのよ」
「カネになるからだよ。ちとせちゃん。昔、俺を捨てた慰謝料をふんだくってやろうと思ってな」
 男の唇が歪んだ。
「あんたを捨てた?」
「ああ、人でなしの女だぜ、美沢琴子ってのは、俺がひとりでどんだけ苦労して生きてきたか、あんたみたいなお嬢様には分かりっこねえ」
「なんですってぇ」
「いや、慰謝料、払ってもらうのは、ママより先にあんただよ。たんまり持ってるんだろう、お嬢ちゃん」
 ちとせは、この「お嬢ちゃん」って呼ばれるのがいっちばん嫌いだ。バカにされてるとしか思えない。
「私があんたに何したっていうのよ、変な言いがかりつけるつもりね」
(ママとパパがいなくなってショック受けてるところへ、バズーカ撃ち込んだわね、この男!)
「許さないわよ、私の家をめちゃめちゃにして! いったい、パパとママはどこよ! あんたは何者なの?」
「い――ぜ、ちとせちゃん、その怒った顔! やっぱり美沢琴子の娘だけある。色っぽいねえ。俺は駆け出しのカメラマン。ふうう、カメラマン魂に火がつく、いい顔だ」
 男はファインダーを覗くような真似をした。
「さて、慰謝料、いくら要求しようかな? 俺だってひとりの人間、母親に捨てられて人生変えられたんだからな」
 柊と名乗った、その男は憎しみに満ちた顔を見せた。
(この人がおにいさん? 嘘だわ、そんなの)

第 五章 帰ってきたママ

 ドアが開いた。ちとせは目を見開いた。
「ママ!」
 いつもとちがう派手なお化粧をして、金の刺繍の入ったスーツ着てるけど、ママだ!
 琴子は駆け寄った娘をチラと一瞥したが、強張った表情のままだ。
「柊」
 兄だという男に声をかけた。
「この子を港のオヤジさんに売っておくれ。元手が要るのさ」
(港のオヤジ?)
 誰だろう、それは? と思いながら、ちとせの胸に大きな不安が広がる。
(私を売る、ですって? ママが。私を可愛がって育ててくれたママが)
 母親とは呼べない形相に、怯えるしかない。
 洋服は高級だが、乱れた髪、はげた化粧。今までの淡い色の着物を着て、床の間に正座していたママとは別人だ。
「女優に戻るためにこの子まで売るのか? 俺がガキの頃、香港に売られたように」
 柊と呼ばれた男は唾を飲み込んだ。
「あきれ果てた女だな。……分かったよ、望み通り、ちとせを地獄に売ってやろう。あんたの女優生活のためにな」
 柊はちとせの腕をがっしり掴んだ。

 熱砂の砂漠のような都会を、始めて会った兄という男のバイクの後ろに乗せられて走っていく。流れるネオンが夢の中にいるみたいだ。
 フレアスカートのすそがひらひらした。

第 六章 逃走

 人身売買なんて、本当にあるのだ。
 アジアでもアフリカでもない、ここは日本なのに。
 ちとせの胸がどきどきした。
 夕暮れの気配が近づいてくる、じりじりとした暑さの中、巨大な倉庫がいくつも立ち並ぶ港へ連れてこられた。刑事ドラマで警察と敵が対決するようなところだ。
「痛いわ、離してよ!」
 バイクを降りても厳重に腕を握ってる柊を振り切った。
「ここだ。入りな」
 倉庫の小さな入り口が開けられる。使われていないらしい。
 大きな荷物がたくさん積まれている中、ほの暗い奥に、人影に囲まれた年配の男がどっしりと座っていた。
「上玉だってか、柊」
「見ての通りだ」
 ちとせは、港のオヤジと呼ばれた人身売買の元締めらしき男の前に放り出された。
「まだ、子どもじゃねえか」
「磨けば光ると思いますがね」
 目の前の床に札束が三つ、叩きつけられた。
 三百万……。このお金で売られていく―――? 目の前で取引が行われているが、ちとせには信じられない。
「連れていきな」
 港のオヤジがアゴでしゃくり、手下の男がちとせを立たせようとした時だった。いきなり身体が宙に浮いた。柊がちとせの身体を抱き上げ、出口へと走ったのだ。

第 七章 夜風の中で

 バイクが沿岸の道をカーブしていく。横に見える海は波頭が白い。生ぬるい夜風が頬をなぶる。
 落ちてきた後れ毛をかき上げ、柊はようやくちとせを開放した。
「なぜ? なぜ、私を助けたの? 売ってお金にするんじゃなかったの?」
「俺のたったひとりの妹を売られてたまるか」
(妹―――)
 怒りのカタマリのような柊から、「妹」という言葉を聞こうとは。
 瞳の中に、得も言われぬ優しさが感じられる。自宅に侵入してきた時の彼とは大違いだ。耳を疑った。
「ちとせ。母さんが正座してる後ろ姿、好きか?」
「どうしたのよ、いきなり」
 いつもの、ママが庭に向いてお日様を浴びながら正座してる姿を思い出した。
「好きよ。そして振り向いてくれる笑顔が好き」
「……そうか、俺もちびの頃、そうだった」
 柊は照れ臭そうに、小鼻の脇をポリポリ掻いた。
「さっきはからかったりして悪かったな。香港に売られたとか、ママが駆け落ちした写真を売ったとか」
「あれは、ウソだったの?」
 我慢できずに、ちとせはバシン! と柊の背中を叩いた。

 翌朝、自宅へ柊のバイクで戻るとママが待ち受けていた。思いがけず、和室で床の間に向かって着物姿で正座していた。
「売らなかったんですって」
 振り返った形相は凄かった。
「あの鬼オヤジにどこかへ売られるんだろ、そんなこった俺にはできねえ。あんた、仮にも母親だろうが!」
「何をほとけ心、出してるのよ、売らないならあんたから巻きあげるまでさ」
「そんなもん、俺を捨てた慰謝料とチャラだよ」
 ママが言い返せず、ぐっと詰まる。
「来な」
 また柊がちとせの腕をつかんでバイクに乗せた。

第 八章 アパート

 柊の住まいだろうか。繁華街の路地をいくつも曲がった先。安アパートの二階の一室。
 歩くとギシギシ鳴る木造の廊下。となり近所からは赤ん坊の泣き声や生活音。
 部屋の備え付けの小さな小さな台所には、やかん一個しかない。
 畳は日に焼け、ぼろぼろ、押し入れからはみ出した布団からはカビの臭い。
 それでも、ここ二日ほどの息の止まりそうな展開から逃げられて、ホッとしたのか、ちとせはカビ臭い座布団の上で泥のような眠りに落ちた。
 カーテンの隙間からの朝日が眩しい。気がつくと、ランニング姿の柊が台所で湯を沸かしている。
「目が覚めたか」
 お茶の缶をポンと開けながら、柊が振り返る。
「あんた、まさか私に触れたりしないでしょうね」
「妹に手を出すか。それにそんなに汗臭い女に」
 着た切り雀の身体をくんくん嗅いでみた。汗臭い。
「お風呂入りたいなあ」
「ここにゃ、共同風呂しかない。もうしばらく辛抱だな」
 その時の優しい顔が、ママにそっくりだ。ちとせは初めて思った。
「どうして、ママはあなたを手放したりしたのかしら。大切な息子なのに」
「あの女にとって、俺を産んだことは人生の汚点だ。女優業を続ける上での突発的事件だったんだろうよ」
「ママはそれは私を可愛がって育ててくれたわ。どうして急に」
「あの人の病気みたいなもんだ。また芸能界へ戻りたくなったんだろう」
「母親より、女優を選んだってこと?」
 想像もつかないママの本心に、呆然とするしかなかった。

第 九章 売られる

 午後、ちとせがひとりで着替えと食料を買って柊のアパートへ戻ると、非常階段の上に二、三人の男の影が見えて、襲いかかってきった。悲鳴を上げるまもなく車に押し込められ、怪しい看板のかかった事務所に連れて行かれた。
 あの港のオヤジが待ち受けていた。
「柊を虜にして逃げ出すとは、お行儀のよくないお嬢ちゃんだね~~。今度こそ逃がさないよ。特にお前さんはねえ、味見したら琴子と同じ味がしそうだ」
 港のオヤジの眼が不気味に笑った。
 地下室へ連れていかれると、ちとせと同年代の思春期の少年、少女たちが十人ほど縄で縛られて震えていた。
 東南アジアかどこかへ売られていくのだろうか。突き飛ばされて、少年たちと一緒に座らされた。ほどなくトラックで運ばれ、港に着く。
『特にお前さんは、味見したら琴子と同じ味がしそうだ』
(あれは、どういう意味? まさかママは鬼のオヤジに……)
 いくらなんでも、そんな汚らわしいことは考えたくない! ちとせは嫌な想像を振り切るように頭をぶんぶん、横に振った。
(柊、もう一度助けて!)
 願いも虚しく、ちとせは少年たちと港から怪しい船に乗せられたのだった。

第 十章 美沢琴子

 半年後―――。
『ベテラン女優、美沢琴子、華麗なる転身!』
 そんなことが各メディアやネットで派手に報道された。
「今まで清純派の女性しか演じられず、半分以上、主婦業に重きを置いていた美沢琴子が女のサガをさらけ出した汚れ役に転身成功!」
「しかし、和服の正座姿は健在! セクシーな下着姿と正座姿にギャップ萌えするファン、多し!」
 今期の新作映画では、堂々と主役を努めて大ヒットしている。更には、演劇主演女優賞まで獲得となった。
 琴子のライバル女優たちは、
「最近、彼女、若い男を連れているわ。ツバメかしら」
「知ってる、知ってる。ソフトスーツの彼でしょ」
「デビュー前からお世話になってる、あの大御所も操りながらねえ」
「気質のご主人はどうしているのかしらねえ。子どもたちも」
 週刊誌ネタ、TVのワイドショーが大喜びしそうな会話である。

 しかし、美沢琴子の栄光は長くは続かなかった。
『ソフトスーツの青年は、琴子が昔、捨てた実の息子だった!』
 衝撃的なスキャンダルが世の中を騒がせた。

第十一章 再会

 琴子はさんざん、世論から叩かれても、平気な顔をしてインタビューに答えていたが、憔悴を隠し切れず入院したと報じられた。
 それは本当だった。世間に顔を出すのが不味くなった政治家や芸能人が入院して身を隠す、よくある手だ。
 某総合病院の、特別室のソファでは琴子が眉間にシワを寄せて座っていた。
「いったい誰があんたと親子だってことを、ばらまいたのかしら」
 部屋の隅にいた柊が近づいてきた。
「どこからだってバレるさ。そんなこと」
「でも、なんだってこんなに急に……。私はもう二度と芸能界に戻れないわ」
 両手で顔を覆った。普段のカジュアルな服装はしていたが、髪まで気にする余裕はなさそうで、まとめ髪が崩れてバラバラだ。

 廊下で人声がした。見張りの若者が威嚇している。様子を見に、部屋を出た柊が言った。
「いい、中へ入ってもらえ」
 でっぷりした初老の男と、十代の少女が部屋へ入ってきた。
 琴子は目を飛び出ささんばかりにして立ち上がった。
「あんたたち……」
 初老の男は数人の手下を連れて「ヨッ」と手を上げ、女の子は睨みつけた。
 人身売買の元締め、鬼のオヤジとちとせだった。
「久しぶりね。ママ」

第十二章 いさかい

「あんたたちね。私の過去を売って失脚させたのは」
 琴子は高ぶっていた。
「なんてこと言うの、ママ。私は元のママに戻ってほしいだけ。だから、必死で売られないように逃げてきたわ」
 そして、柊に眼を向けた。
「柊にいさん、あんたもあんたね。母親のツバメに成り下がってるなんて」
「ふ……」
 柊の口元が皮肉に歪んだ。
「ずいぶん大人になったな、ちとせ。きれいになった。んでもって見直したよ。売られずに帰ってくるなんて」
「その原動力は、あなたからもらったのよ」猛禽のような眼で兄を睨みつけた。「アロハシャツからソフトスーツに出世したのね。ママから慰謝料を分捕るって話はどうなったのよ」
「……」
 柊は苦笑したままだ。。
「売られなくて済んだのは、守ってくれる人がいたからよ」
「誰だ、それは。鬼オヤジに捉えられて無事に帰ってくる者なんていない。俺に守り切れなかったのに、いったい」
「誰かしら」
 ちとせは頭をそびやかした。
「もう、気がすんだろう、ちとせ」
 鬼オヤジがうながし、ちとせは部屋を出ていく。
「待って」
 涙声で琴子が呼び止めた。
「私が悪かったわ。柊……ちとせ……ふたりとも私の大切な子……」
 ちとせと柊は、琴子の思いがけない言葉に振り向いた。
「必死だった……。女優の夢が捨てられず、小さかった柊を捨て、ちとせも置き去りにしようとした……。すべては私のわがままのために。罰が当たったんだわ。また絶望の底に転がり落ちた」
 とんがった肩を震わせて冷えた床に崩れ落ちた。
 その時である。病院の扉が静かに開いた。立っているのは、立派ななりの中年紳士だ。
「そこまでにしておきなさい、琴子、そこに正座しなさい。柊とちとせもだ」
「パパ!」
 ちとせが叫んだ。

第十三章 父親

 鬼のオヤジがたじたじとなって引き下がる。それは正真正銘、ちとせの父、そして琴子の夫の慎也だった。琴子は涙を拭くや冷たい床に正座した。
「あなた、私が女優の夢にしがみついて騙されたために、みんなを巻き添えにしてしまって……私はなんて悪い母親なんでしょう」
「柊もちとせも取り返した。その点は安心しろ。しかし、もうここまでで女優復帰の夢は諦めてもらわなきゃならんな」
 琴子は床に額をつけた。
「あなたがいて下さったから、わがままをさせてもらってた。でも、もう本当に諦めなければね」
「俺も、元締めと手を切らせるために、ひと芝居うったさ。でもこれ以上、子どもたちを危ない目に合わせるわけにはいかない」
「分かっています」
 神妙な声が返ってきた。
 鬼のオヤジと呼ばれる港の元締めが、脂汗をかいていた。
「港のオヤジ、琴子をこれ以上、金づるに利用するのはやめてもらおう。でなければ、あんたのやってきた人身売買の重い罪をすべて世の中に明らかにするぞ」
「ひぇ~~~、それだけは!」
 港のオヤジは真っ青になって、琴子の夫の足元に這いつくばった。無様な土下座だ。
「では、これ以上、琴子に近づかないと誓ってくれ。俺の家庭をかき乱さないと」
 少しの仲間を引き連れ、オヤジは這う這うの体で去っていった。
「さて……」
 父親は振り向いた。そこには息子と娘が正座して待ち受けていた。
「パパ、ありがとう、助けにきてくれて。私を売られないよう守ってくれて」
「俺も礼を言うぜ。すんでのところで売られずに、長い間父さんの恩師の教会の神父様のところで育ててもらった。全部、母さんを守るためだったんだな」
 ちとせも柊も晴れ晴れとした顔で言った。
「ふたりとも、苦労をかけたが良かった。これで、母さんからうるさい蠅をやっと追っ払うことができた」
 父親の慎也は家族を守り切った喜びで満ちている。
 しかし、琴子は萎れた百合の花のように悲しげにうなだれている。
「琴子、いつもの君はどうした」
 慎也が声をかけた。柊が立ち上がっていって、琴子の肩に声をかけた。
「俺さ、学校から帰ってくると、なんでか床の間の花を見つめて正座している母さんの後ろ姿が好きだったよ。離れてる間もずっとそれが目に焼き付いててサ」
「あの……私もよ。庭を眺めたり床の間を眺めたりして膝をそろえて待っててくれたわよね」
 ちとせも母親に歩み寄って顔を覗き込んだ。
「柊、ちとせ」
 ふたりの手を抱きしめて母親は泣いた。そしてその場にきちりと正座し、三つ指ついて頭を垂れた。
「許して……女優の夢が捨てられず二度もあなたたちに寂しい思いをさせてしまった」
「私たちに内緒で、パパを味方にしておいてくれて良かったわ」
「柊には、いくら謝っても謝り足りないわ。女優復帰に心が揺れ動いていた時に元締めに騙されて返り咲きを夢見て、ひどいことをしてしまった。それには懲りず、もう一度ちとせにまで迷惑をかけて」
「私のことはパパが助けてくれたわ」
「ちとせ……、柊……」
 柊が改めて母親の顔を覗き込み、
「母さん、あんたの正座の後ろ姿は女優、美沢琴子の一番の売りだったんだってな。ガキの俺から見ても綺麗だった。いや今でも」
「許してちょうだい、柊。そんなことを言う資格もないわね」
「ママ……、ママの後ろ姿がきれいなのは、幸せだったからだけじゃない。港のオヤジに、操られた苦しい過去があるから見返そうと、あんなに毅然と美しい正座姿ができたんでしょう」
「ちとせ……」
「喜びと悲しみを乗り越えてママは美しくなった。正座姿まで。そうなんでしょう」
 琴子の瞳からより、いっそう涙があふれた。
「元はというと、パパがママに正しい正座を教えてくれたのよ」
「ああ、パパは空手をやっていたからね」父親の慎也は照れ臭そうに言い足した。「修行は厳しくしたが、ママが完璧に正座をマスターしたのが女優業に役立ってしまったらしい。ママに女優業を執着させてしまったのはパパかもしれないな」
「あなた」
 琴子が遠い眼をして言った。
「あなたの正座修行は、たぶん空手の修行より厳しかったのでしょうね。でも、やりがいがありました。それもこれも、ご縁でしょう。あなたが教えて下さった正座で私は女優の道が開け、やるだけやれました。そして様々な経験をしてここに戻ってこれました」

結びの章 懐かしい家へ

 母親と娘は父親の車で自宅に帰ってきた。
 半年ぶりだろうか。琴子とちとせは手を取り合って、穏やかな微笑みである。庭に面した奥座敷向き合って正座した。
 琴子はきっぱり芸能界を引退する決意をし、表明した。ちとせの前にぴしりと正座して畳に額をつけた。
「ちとせ。怖い思いをさせて本当にごめんなさい。慎也さん、あなたも。もう二度と元締めに会わないわ。脅されて芸能界に戻ったりしない」
 芸能界入りする時に、必要だった港のオヤジだが、汚れた世界に手を染めており、琴子は二度と彼に関わらないと誓ったのだった。ちとせも目じりの涙をぬぐいながら、微笑んだ。
「ママ、もう頭をあげて。いいじゃない、こうして家族みんなが帰ってこれたんだから」
 家の中へ入るや父親は上着を脱ぎ、茶トラの船長を抱っこしていたが、
「どれ、パパが自慢のコーヒーを淹れてやるか」
 木製のコーヒーミルを取り出してきた。
 妻と娘を無事に連れ帰ることができて、嬉しさを隠し切れない様子だ。茶トラの船長が嬉しそうに(な~~ご)と鳴いた。
「柊にいさんは?」
「あの子は海外へ自由に撮影に回るそうよ」
(カメラマンの卵とか言ってたわね)
 庭の山茶花が咲き乱れている。見慣れた庭が母娘の心を慰めてくれた。
 琴子のケータイにメールが来た。柊からだった。
「離れてる間、あんたの正座姿が恋しかったよ。また、見に帰る」


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