[207]正座の合宿


タイトル:正座の合宿
発行日:2021/010/01
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:18

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:44
販売価格:200円

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
 リョウコは、某出井高校料理部の二年だ。
 一学期の期末テスト後に男子バレーボール部が学校で合宿をするので、その間の食事を料理部が受け持つことになった。
 思ってもみない料理部の活躍の機会に料理部一同は喜ぶが、活動初日に調理室に入って来るなり部員を厳しく叱りつけたのは、いつもの顧問の先生ではなく、代理でやって来た副顧問の先生だった。
 副顧問の先生は料理部全員にまず正座を教え、その後丁寧に料理の指導を開始する。

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本文

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 男子バレーボール部のマネージャーから、料理部に学校での合宿の間の食事提供の依頼があったのは、七月の初めだった。某出井高校には更衣室にシャワーが併設され、武道場などを利用するかたちで運動部が時折合宿を行っている。
 話によると、七月の期末考査終了後より、三泊四日での学校合宿を行うに当たり、その間の食事を料理部に頼めないか、ということだった。
 昨年までは朝食はマネージャーが準備し、昼食は近所に仕出しなどを頼んで顧問の先生の車で取りに行ってもらったり、夜は保護者が当番制で炊事したり、自宅に戻ったりと、その時に応じていたらしい。だが、某出井高校では相互協力を部活で行おうという取り組みが提案され、部活の活動記録や衣装などを校内の部が提供し、浮いた分で各部の部費を上げようということになり、その一環として、今回の依頼も舞い込んだ。期末考査の後であり、学校見学会もまだ先、という時期とあって、部員の手は空いている。
 料理部二年の造利リョウコは、内心とても興奮していた。
 料理部の出番といえば、文化祭での弁当販売くらいで、その時に「あ、料理部ってあるんだ」と、校内においてはごく普通の、そしてこの日のために渾身の努力を注いで弁当販売の場にいる料理部には大層堪える言葉を発せられることが多々あった。
 しかし、こうして部からの依頼が舞い込み、これで評判がよければ、次第に依頼も増え、料理部の存在も校内で知られるのではないか、と思った。
 そして何より活動の機会が増えるのが嬉しかった。
 料理部は普段から活動しているが、ほかの部のために三食を三泊四日分で提供する、というような内容の濃い活動は初めてである。
 まずは、部員全員に受けるかどうか、そしてスケジュールの確認を行った。
 依頼を受けることは全員賛成で、用事があったり、予備校に行く予定があったりという部員ももちろんいて、そうしたスケジュールを考慮した上で、人員確保もできた。
 予算は三泊四日の食費で、できることなら一人五千円で、顧問、マネージャー含めて二十人で計十万円を預けられ、足りない分は後日清算すると言われた。大量消費すると思われる米については、以前から朝練のおにぎりのために買ってあり、今回の合宿でそれを使ってほしいという。食べられない食材のある人の有無を確認し、要望について訊くと、料理部なので栄養面などは自分たちよりずっと詳しいだろうから全てお任せします、とのことだった。
 封筒を受け取った料理部は顔を見合わせ、「ネコババしないように、早めに買い出しの計画を立てよう」と言った。
 料理部は全員女子である。
 普段の食事も朝は食べない、或いはトースト一枚、バナナのみ、などがほとんどだが、男子の運動部というと訳が違う。
 男兄弟のいる子によると、朝からパンが一斤あっても足りない日があるとか、唐揚げは一人で一キロ平らげる、というのが普通らしい。
 そうした事情を踏まえた上で、予算と栄養バランスを考え、野菜でサラダや副菜、スープを毎回出し、果物を一日に一度はつけてビタミン補給、そしてメインのタンパク質のメニューは唐揚げやチキンカツ、鶏肉と野菜の水炊きなど、アスリートに重宝され、しかも予算の抑えられる鶏肉を多く使用しようということになった。また、豚丼を昼に出す日の夜は豚肉を入れた野菜炒め、その翌朝は豚汁、といった具合に有効活用する計画を立てた。
 買い出しについては、肉類は大量にパッキングされた店を選び、野菜は学校の近所で無人販売もしている菜園に行き、今が収穫時のトマトやナスを買わせてもらうことになった。
 事前にお願いに上がったこともあり、テスト後に菜園を訪れると、新鮮な野菜を格安にしてくれた上、規格外の大きさのものなどもおまけして入れてもらえた。
 ほかの果物や野菜も、安いお店を知っている子が買いに行った。
 買い物の際には必ず領収書をもらい、封筒に入れて保管しておく。
 面倒な作業だが、こうしたことをきちんと行わないと、バレー部に請求する額が曖昧になったり、生徒会に提出する活動記録が正確につけられなくなる。
 初めての活動であり、テスト後でやや疲労気味ではあったが、これまでのように、テストが終わったからどうする? と、友達同士でショッピングモールに遊びに行っていた時とは違う、心地よい緊張感が料理部の部員の心を満たしていた。


 買い物から全員が戻ると、早速夕飯の仕込みに入った。
 本当は昼食から用意したかったが、さすがにそれは間に合わなかった。
 料理部の部員たちも買い出しの傍ら、その途中で買って来た惣菜やパンで手早く昼食を済ませ、領収書を部の予算用のノートにクリップで挟み、買い忘れがないかの確認を行った。
 合宿当日の午後には、向こう二日分の野菜、果物、肉といった材料が揃い、料理部は取り急ぎ、材料を小分けするところから始めた。
 量が多いので、これは何日目の昼食、これは夕食、というふうに分けておく。翌日の当番が同じメンバーでない日もあるので、献立とともに使用する材料が冷蔵庫の何段目に入っているとか、或いは余りの食材が出た、肉類の消費期限や野菜の購入日といった連絡事項を記入する用紙も作成し、冷蔵庫に貼りつけた。
 皆がそれぞれの作業をしながら楽しく話していると、引き戸が開いたと同時に、「その態度はなんですか!」と、ガラス窓が震えるような怒声が轟いた。
 一瞬にしてしん、と静まり返った調理室で、それぞれに包丁やボウル、菜箸を手にしていた部員は引き戸の前に仁王立ちになっている小さな初老の女性を見た。
 誰? と皆が思い、ただその迫力におののいて、顔を見合わせることもできずに立ち尽くしている。
 初老の女性はずんずんと調理台の方へやって来て、「あなたたち、包丁や調理器具を手にしている時は、料理に集中しなさい。おしゃべりやよそ見など言語道断!」と、部員を次々に指さし、早口でまくし立てた。
 おしゃべりはさておき、現在指摘したよそ見の一因となっているであろう張本人は、そのことには触れず、更に睨みをきかせた。
 呆然とする部員に向かい、「返事は!」と一喝する。
「はいッ」と、反射的に部員全員が返事をする。
「返事だけよくても駄目! 態度を改めなさい!」と、初老の女性は自ら返事を促しながら、返事をした傍から捲し立てる。
「……おばさん、誰?」と訊いたのは、一年の女子だった。
 某出井高校は自由な校風であることは有名であり、それゆえ、発想はもとより、発言も時々自由すぎる、もとい、礼儀を踏み越えてしまう生徒もいる。その生徒の一人が彼女であることには、以前よりリョウコも気づいていたが、この場で発揮しなくてもよかったのではと思いつつ、重く静まり返った調理室でくすくす笑いが漏れ始める中、つい、一緒に笑ってしまいそうになるのをなんとか我慢した。
「まさか、この中の誰かのお母さんとか? やだ、そうだったらゴメン」
 あんまり『ゴメン』と思っていなさそうな口調である。
 しかも、言いにくい雰囲気とはいえ、長い沈黙に耐え兼ねて「うちのママ」という生徒はいない。
「私はこの部の副顧問です。顧問の先生が修学旅行の下見に出られて来られないので、私が来ました。漆左と言います。ほかにオセロ部と、アニメ部の副顧問を兼任しています。学校では日本史を教えていますが、調理師免許も持っています」
 若干失礼な態度を取ってしまった料理部を前に、漆左先生はそう丁寧に説明した。
 某出井高校は部活の数が多く、副顧問の先生はいくつもの部を兼任している。
 それゆえ、普段は主に顧問の先生が部の面倒を見るが、顧問の先生が不在時に書類に印鑑が必要な場合などは、この副顧問の先生の出番となる。ほかに合宿や遠征試合のある部になれば、そうした際に副顧問の先生が同行している。これまで料理部では顧問の家庭科の先生が部の面倒を見ていて、副顧問の出番はなく、その存在も皆忘れていた。
 漆左、という名前にまたしても一年生が吹き出しかけ、隣にいた女子がそっとエプロンの裾を引っ張り、それを止める。
 それを目ざとく見つけた漆左先生は、「私はこの中の誰かのお母さんではありません。こんなしつけのできていない子どもが自分の娘だったら、とっくに叱っています」と言い、「まずは皆さん、こちらへ来てお座りなさい」と、調理室後方の空いている場所を指した。
 なんだか面倒なことになった、と部の全員が思った。
 いつもなら、顧問の先生が顔を出し、「あら、いい感じね」などと言って、様子を見た後、「また後で来るから」と笑顔で職員室に戻って行き、「はーい」と、部員はあいさつするだけだった。
 今日だって、もし顧問の先生だったら、「お疲れ様」などと言って、お茶やレモンのはちみつ漬けなどを差し入れてねぎらってくれているところだろう。
 先生、何も修学旅行の下見に行かなくても……、それこそ漆左先生に行ってもらえばよかったのに……、とリョウコは思ったし、ほかの部員も似たようなことを考えているのは雰囲気で伝わってくる。
 半ば不貞腐れた表情で、部員はざっと手を洗い、漆左先生の前に座った。
「あなたたち、目上の人の前でその態度はなんですか!」
 漆左先生が再び叱責する。
 横座りや体育座りをしていた部員は顔を見合わせた。
「あなたたちは、正座も知らないんですか!」
 調理部の面々は黙ってそれに従った。
 しかし、「ちょっと待ってよ」と、さっきの一年の女子が立ち上がった。
「先生さあ、言いたいことはわかるけど、いきなり来てさっきから怒鳴ってばっかりじゃん。そんなことされて、気分いい人なんていると思う? 先生からしたら、気に入らないことばっかりだろうけど、これまでうちらはこのやり方で楽しくやってきたし、問題なかったよ。先生ならさあ、もうちょっと、こっちのことも考えて言ってくれてもよくない?」
 悪びれる様子もなく、一年の女子はそう言って漆左先生を見た。
 料理部は固唾を呑んで見守っていたが、部長が立ち上がり、「先生、すみません」とまずは謝った。
「この子も、さっきまでの私たちの行動も、本当に悪気はなかったんです。先生のおっしゃる通り、改めるべきところがたくさんあったのに、今まで気づかなかったのは、部長の私にも責任があります。これからは気をつけますので、どうか、ご指導、お願いできないでしょうか」と頭を下げた。
 ……さすが部長、とリョウコは感心した。
 腹の据わり具合は、あの一年の女子と部長、同じくらいだろうか。世間の常識については雲泥の差ではあるが。
「ほかの人はどうなの?」と、漆左先生は部員を見渡す。
 部長が目配せし、それぞれに「すみませんでした」とか、「よろしくお願いします」と部員は口にした。
 まだ漆左先生を先生として歓迎したわけではないが、顧問の先生が不在である今、責任者はこの漆左先生で、漆左先生がいなければこれからの活動に支障がでるかもしれない。さっきの一年の女子などは、『そんなの関係ないから、無視してやろうよ』と言いそうだが、部長としてはそうも言っていられないだろう。部長は予備校の予定も入っていて、夕飯作りには参加できない。その時に何かあっても、あの一年の女子のような態度のままでは、漆左先生がどこまでフォローしてくれるのかという不安もあるのだとリョウコは思った。
 漆左先生は「まあ、いいでしょう」と、あまりよくなさそうな厳しい顔のまま頷き、「まずは正座を学びます」と手を叩いた。
「みなさん、スカートは広げずにお尻の下に敷いて。膝はつけるか、にぎりこぶし一つ分開く程度で。足の親指同士、離れないように。肘を垂直におろすようにして、手は太ももの付け根と膝の間にハの字で。脇は閉じるか、軽く開く程度に。それから、背筋は真っすぐに」
 言われた通り、全員が座り方を改め、正座をした。
「みなさん、さっきの様子と、今とでは、全く違います。たかが座り方、されどそれでこんなに印象が変わるのなら、どちらが自身のためになるか、得か、考えてみてください」
 漆左先生はそう言った後、料理をする前の基本的な心構えを話し、その後で、こうした話をするのは、何よりも生徒が安全に楽しく部活を行えることが目的であり、また、活動の存続に繫がると説明した。言われてみれば確かにそうだ、とリョウコは思った。それにもし、部活見学の中学生が来た際、この場面であれば、見られても全く恥ずかしくない。思えば、長く続いている部というのは、楽しい雰囲気で活動していても、礼儀作法についてはきちんとなされている。
 自然と静かになった調理室で漆左先生は「それでは」と、手を叩き、活動の再開を促した。
 漆左先生は丁寧に手を洗い、エプロンをつけた後、部員一人一人の動きを見て回り、さっきとは打って変わった穏やかな姿勢で細やかな指導を始めた。
 米研ぎは、漆左先生自らがまずやってくれた。
 自分たちが研ぐのとは、まるで別次元の力の入った米音が低く響き、澄んだ水がきっかりと注がれた。
 調理室なので、生徒四十人弱がおおよそ四人から五人の班に分かれて調理と食事ができるようになっていることから、それぞれのテーブルに五合炊きの炊飯器がセットされているので、ほかのテーブルに設置されている炊飯器の米を部員が研ぎ、その際にも漆左先生は手の形や水加減を見てくれた。
 おかず作りでは、スープの味付けには、コクが出るからと、鶏肉の皮で出汁を取り、鶏肉に使用する生姜はすりおろし、にんにくは薄くスライスする。
 漆左先生は細かな手間を惜しまない。
 一見時間がかかるやり方にも思えたが、味はあっさりしているようでコクがあり、調味料を色々と加える手間がなかった。
 学ぶことの多い、丁寧な指導に、自然と料理部は漆左先生の指導に集中していき、下ごしらえ後の午後三時からの調理開始で、午後五時半には全てのテーブルにおかずの盛りつけられたお皿が並び、使用した調理器具はきれいに片付け終わっていた。
 部長が、「先生、にんにくと生姜、先生が買ってこられたものですよね? 領収書ありますか?」と訊いた。
 漆左先生は「大した金額じゃないから」と言ったが、「レシートで大丈夫です」と部長が言い、翌日持って来てもらう約束をしていた。
「先生、そもそもなんでにんにくと生姜、持ってたの? 普通、持たないでしょ?」と、一年の女子が訊くと、「顧問の先生に頼まれて、調理室を見に行ったら、使用する食材と献立が貼りだされていたけれど、にんにくと生姜がなかったから持ってきたの」と答えた。
 要は漆左先生は、にんにくと生姜を届けに来てくれたらしいが、その時の料理部の態度が目に余り、あのようにお怒りになられた、ということらしかった。
 そこへ、引き戸がノックされ、バレー部のマネージャーが「今日からよろしくお願いします」とやって来た。
「何かお手伝いすることは……」と訊き、テーブルに並んだ食事を見て「すごい、ありがとうございます」とお礼を言った。
「もう、終わりましたから、どうぞ」と部長が言うと、バレー部のマネージャーが携帯で体育館の部員に知らせ、それからすぐに楽し気な声が階段から聞こえ、長身のバレー部員がやって来た。顧問の先生を筆頭に、「ありがとうございます」と、全員が調理室の黒板の前にいた料理部に礼をし、料理部は戸惑いながらもお辞儀をして返した。試合などで礼にも慣れているバレー部を前に、お辞儀を返した料理部は、僅かな指導であっても漆左先生の正座指導がこうした際のお辞儀にも役立っているのを感じていた。お辞儀自体を学んだわけではないが、心を正すことを体現する、というのはこうしたふとした時に大切なのだと思ったのだ。
「後片付けは私たちがやりますから」と、マネージャーが申し出てくれた。
「ありがとうございます。それでは、明日の申し送りをしたら、私たちは帰りますね」と副部長がお礼を言う。
「鍵は職員室に戻せばいいんですよね?」
「はい、助かります」
 そんなやり取りの後、料理部が冷蔵庫の中の確認を行っていると、「いただきます」という歯切れのよい声とともに、にぎやかな食事が始まった。
 つい気になり、食事風景を見ると、実に豪快に、そして気持ちよく、彼らは食事をしてくれていた。
 炊飯器はマネージャーにお願いして水につけておいてもらい、明日洗って使おうと思っていたが、あっという間に炊飯器は空になった。
 炊飯器の釜を回収する際、リョウコは食事をしている一人の部員に気づいた。
 同じクラスの得伊須多嘉支だった。
 いつもクラスの運動部の男子と楽しそうにしている目立つ存在で、リョウコには近寄りがたく、一学期の終わりの今日まで話したこともなかった。
 しかし、釜を回収する料理部員に各テーブルでお礼が言われている中、「造利さん」と、リョウコは多嘉支に名指しで声をかけられた。
 思わず「はい」と声が裏返る。
「この生姜焼き、最高。無限に食える」と笑った。
「あ、これは、漆左先生の力添えで……」と小声で俯いて説明しかけ、ああ、ここは『ありがとう』とだけ言えばよかったんだ、と悔やむ。けれど、さすがコミュニケーション力のある多嘉支は意に介さず、「明日も楽しみにしてるね」と言った。
「得伊須、料理部の人、大変なんだから、そんなプレッシャーかけたら駄目だよ」と、隣の男子がフォローする。一年生の子がかっこいい先輩、と騒いでいた人だ、とリョウコは思い出す。
「いえ、頑張ります。ありがとう」と、短く、やや堅苦しい返事をし、リョウコは釜を持って、調理室前の大きな流しへと向かった。


 翌日、朝六時前にリョウコは自転車で学校に向かった。
 基本的には、夕食の準備をした部員は翌朝の当番は負担が大きいので昼食づくりから、ということになってはいるが、実際のところは夕食づくりに参加できない部長は予備校に行っており、帰宅は夜十時を軽く過ぎるので、そういう人の分まで自転車で通学できる自分が出ると名乗り出た。部員は無理はしなくていいと言ってくれたので、きつかったら、その時は昼食づくりから参加すると答えた。
 体育館脇にある自転車置場に自転車を止めていると、「造利さん、おはよう」と声がし、見ると、体育館の開け放った扉から多嘉支が手を振っている。
「おはよう……」とリョウコは小さく会釈し、小走りに調理室へ急いだ。
 体育館からは、「得伊須、さぼってないで真面目にやれ」と顧問の先生の叱責と笑い声が聞こえてきた。
 普通にあいさつをしてくれているだけだ、とわかっていても、嬉しくて、その嬉しさをどう扱ったらいいのかわからなくて、リョウコはひたすらに調理室まで走った。
 調理室を開けると、とてもよい香りがした。
 コーヒーと、ラップのかかったサンドウィッチが置いてある。
 まだ調理室に部員はおらず、「おはよう」と朝から気迫満点の漆左先生の声で、先ほどの多嘉支のあいさつでリョウコの脳内に咲き乱れていたお花畑は一瞬にして消え去った。
 現実に引き戻され、「おはようございます……」とリョウコはあいさつを返した。
「早くて感心ですね。調理の前に手を洗って、それを食べてから始めなさい」
「これ、先生が用意してくださったんですか?」
「ええ、まあ、そのくらいは……」
 サンドウィッチは軽く焼いた食パンにレタスにきゅうり、トマトにチーズとハムがサンドされ、今朝来る部員の人数分、小皿に分けてラップしてある。
「ありがとうございます。いただきます」
 リョウコはお礼を言い、手を洗ってコーヒーとサンドウィッチをいただいた。
「おいしいです。とても」
「そう? よかった」と漆左先生は柔らかく笑った。
 先ほどの多嘉支のあいさつで咲き乱れたお花畑が漆左先生の存在で消え去ったことに、誠に失礼で筋違いだとわかっていつつも若干の恨みはあった中ではあるが、ああ、この先生、怖い人だと思ったけど、こっちが普段の顔なんだ、とリョウコはぼんやりと思った。
 リョウコは携帯で漆左先生の用意してくれた朝ごはんを撮り、料理部で使用しているソーシャルネットサービスに投稿した。
 続々とやって来た料理部は「先生、ありがとう」と、扉を開けるなり笑顔でお礼を言い、朝ごはんの席に着く。
 食べた人から手を洗い、エプロンをつけて調理を開始する。
 ごはんを炊き、数種類の野菜と豆腐を入れた味噌汁、ホウレンソウのオムレツを作り、サラダにはゆでて割いた鶏ささみを入れて手作りのドレッシングをかけた。果物はオレンジを櫛切りにしたものを出す。それを各テーブルで盛り付けて完成だ。
 お昼は規格外の大きさだからとたくさんおまけしてもらったトマトを使い、ミートソーススパゲッティを作る予定だ。女子がランチする時にはパスタにサラダ、ケーキ、お茶のセットが定番だが、運動部の昼食ということで、簡単に作れるキッシュを合わせることにした。キッシュにはきのこやブロッコリー、玉ねぎを使う。
 朝食の準備から続けて、トマトソースを作り、キッシュの下ごしらえをする。
 朝七時半ごろに、バレーボール部員が続々とあいさつをしながら調理室に入って来た。
 今朝もみんな、喜んで食べてくれた。
 リョウコよりもはるかに長身で明るく、同じ校内にいても、どこか別世界にいる人たちのように感じていた彼らの食事をするときの顔は、給食の時の低学年の子のように無心で、リョウコは片付けの傍ら、つい彼らを見てしまう。彼らを見ながら、食の大切さを感じていると、「いいものでしょう。作ったものをおいしそうに食べてもらえるって」と漆左先生が言い、リョウコは頷いた。
「進路もそっちを考えているの?」と訊かれ、一瞬手を止め、それから黙って頷いた。
 料理部は、もともと料理の好きな子が入部する部だが、だからといって進路となると別の話と言った見方が多かった。
 大半の料理部は料理とは関係ない学部へ進学する。
 料理部と元は同じ部だった服飾専門の部では、何割かの部員が毎年服飾系の学校に進学し、プロを目指しているが、料理部には少なくともリョウコが知る限りではそうした生徒はいなかった。
 趣味の共有、そんな意識がどこか感じられた。
 それだけに、漆左先生の言葉はリョウコの心に響いた。
 まだ知り合って二日目だが、漆左先生は、リョウコの今回の料理部の活動に懸けた思いに気づいているようだった。
 リョウコは昨日の夜と朝の食事の当番を引き受けたので、昼食はほかの部員に任せ、一度帰宅する。
 ほかの部員にあいさつして調理室を出る際、「造利さん、帰るの?」という声がし、振り返ると食事中の多嘉支がこちらを見ている。
「うん。夕飯の時にまた来る」と答えると、「すっごい美味しかった。次も楽しみにしてる。気を付けて帰ってね」と手を振った。
「ありがとう……」とリョウコは小さく言って、調理室を出た。
 自転車で学校を出て、青空の下を走り抜け、自宅に戻って携帯を見ると、料理部のソーシャルネットサービスに、朝ごはんを用意してくれた漆左先生、いつも差し入れをしてくれる顧問の先生、それから野菜をおまけしてくれる農家の方に、秋の修学旅行のある二年生が部員が出したお金を預かってお土産を買ってこようという提案が書かれていた。それを見た部員が賛成の意思表示を文字や絵文字を使って発信しており、リョウコもすぐに賛成と書いて送信した。
 洋間にベッドの自室で、リョウコは無意識のうちに正座をしていた。
 誰が見ているわけでもないが、もし、多嘉支がふと今の自分を見たら、と有り得ない可能性を浮かべ、背筋が伸びてきれいに座っている姿の自分でありたいと思った。いつもであればもっとだらしなく座っているところだが、こうした意識の変化は確実に漆左先生の指導のおかげだ。
 某出井高校では、礼儀作法などの指導はなく、生徒が自ずと学ばなければ、正座などの正しい座り方も習慣化しない。
 漆左先生はそれを承知の上で、あの時、短い時間の中で料理部の部員にきちんとした正座を学ぶ機会を与えてくれたのだろう。
 携帯を閉じ、ベッドに寝転がると眠気が訪れ、携帯のアラームをセットして眠った。
 目覚めて学校へ向かう用意をしている時、バレーボール部はこんな休みもなく、食後はまた練習しているんだな、とリョウコは思った。


 漆左先生の助けと美味しい差し入れもあり、無事料理部は三泊四日のバレーボール部の食事を出し終えた。
 三日目には、修学旅行の下見に行っていた顧問の先生も顔を出してくれた。
 顧問の先生は漆左先生に丁寧にお礼を言った後、「こんな機会でもないと、漆左先生のご指導はいただけないから、みんな運がよかったのよ」と笑った。
「え、どういう冗談?」と、一年の女子が訊く。
 顧問の先生はそれに対し真面目な顔で、「それはみんなが一番よくわかっているでしょう?」と逆に訊き返し、「漆左先生は、昔の恩師なの。漆左先生のおかげで、先生になることを決めたんだから。同じ高校で今度は教員として、学ばせてもらってます」と、料理部の部員を驚かせた。
「みんな、素直ないい生徒さんでしたよ」と、漆左先生は、顧問の先生に言い、料理部員を見渡し、「ねえ?」と、力のある目で問いかけ、部員の間には微妙な空気が漂った。それを知ってか知らずか、顧問の先生は「これ、お土産」と、お菓子を部員に配り、漆左先生にはそれとは別の紙袋を渡した。
 漆左先生は「疲れたでしょう? 明後日の朝には職員会議もあるから、今のうちに休んで」と顧問の先生を労い、「明日まで責任もって部の面倒は見ますから」と顧問の先生を帰した。
「漆左先生も、相当お疲れですよね」と、部長が切り出した。
 それはリョウコも、ほかの部員も気になっていることだった。
 漆左先生は早朝に来て部員の朝食を出してくれ、次の食事の準備が始まるまでの間は職員室でテストの採点を行い、夕食の準備までを見届けて帰宅していた。部員は交代制で食事を用意し、リョウコも一度家に戻っていたが、その間も仕事をしていた漆左先生は相当に忙しかったはずだ。それでも漆左先生はいつも丁寧に調理の様子を見てくれた。
「この年になるとね、若い人といると元気をもらえるのよ。本当に楽しかったわ」と漆左先生は笑う。
 その笑顔に強がりや気遣いは感じられず、初対面の日に面食らうほどの先生の直進的な性格が、今は信頼できる先生というふうに部員には映った。
 最終日の昼食後には、預かった十万円のおつり三千円強と残り僅かになったお米をバレー部のマネージャーに返した。
 すると、「今日の午後の練習の後、みんなでラーメン屋行くけど、一緒にどうですか?」と誘われた。
 一杯五百円の店なのだが、返したおつりとバレー部の顧問の先生のポケットマネーで御馳走してくださると言う。
 どうする? と料理部は若干迷ったが、用事のある部員以外の六名は御馳走になることにした。
「うるちゃんも行くよね」と、漆左先生を誘ったのは、漆左先生が登場した日に意見した一年の女子だった。
「顧問なんだから、ちゃんと行かないと」と、断るのを阻止し、「ほらほら」と手を引いた。
 バレーボール部行きつけのラーメン屋には、事前に連絡をしていたようで、奥の座敷を空けておいてくれた。
 席についた際、「なんで料理部の人って、こんなに姿勢がいいんですか」と、バレーボール部のマネージャーが訊いた。
「うるちゃんに正座しろって怒られて、料理部は全員正座がきれいにできるようになったんだよ」と、一年の女子がみんなの前で「うるちゃん」と言い、バレーボール部顧問の若い男の先生はブッと、水を吹き出した。それを誤魔化すように、「せっかくだから、我々もご教唆いだだけませんか」と顧問の先生は言い、「けれど、みなさん、せっかくのご苦労さん会に」と、柄にもなく口ごもる漆左先生に、「何恥ずかしがってんの? うるちゃんかわいい」と、また一年の女子がからかい、漆左先生はじろり、と一年女子を睨んだ。一年女子は涼しい顔で、全く動じていない。
「わかりました」と漆左先生が咳払いをし、正座についての教えを始めた。
「女子のみなさんはスカートをお尻の下に敷いて。背筋を伸ばす。みなさん、運動されているだけあって、姿勢がいいですね。正座をしたら、膝はつけるか、にぎりこぶし一つ分開く程度で。足の親指同士、離れないように。肘を垂直におろすようにして、手は太ももの付け根と膝の間にハの字で。脇は閉じるか、軽く開く程度に。はい、そうです」
 ふざけていた男子も言われた通りに正座をした。
 そこへ「おまちどうさま」と、大きな盆に載せたラーメンが続々と運ばれて来た。
「おや、某出井高校のみなさん、ずいぶんと今日はきちんとされていますね」と、常連のバレーボール部員のいつもと違った様子に店の人は感心した様子で言い、「どうぞごゆっくり」と熱いラーメンを慣れた動作で置き、厨房へ戻って行った。
 リョウコはどういうわけか、多嘉支の隣になってしまい、緊張していたが、正座のほどよい緊張感のおかげでそれが周囲の空気に融合していくのを感じてほっとした。
「いただきます」という元気なかけ声で、その場の全員がラーメンを堪能し、それぞれに水を飲み始めた頃、「造利さん、来週うちで練習試合があるんだけど、その時のお昼、頼めない?」と多嘉支が切り出した。
「あ、ええと、部長とか先生とかに相談して……」とリョウコが言いかけると、隣にいた男子が笑い出し、「いいじゃん。全員にまたお願いしようよ。それで、もしよかったら、試合見に来てもらえば?」と言った。
 リョウコは戸惑いながらも、「試合、見に行ってもいいなら」と、頷いた。
 その場にいた料理部の部員も、「今回は三食作るので大変だったけど、楽しかったです。お昼くらい、お安い御用ですよ。でも、私たち全員が作っていいんですか」と意味深に訊く。
「お願いします」と多嘉支が言い、拍手が起こる。
 なんだかわからないが、楽しい高二の夏が始まった、とリョウコは思った。

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