日本正座協会


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第15話 作法・建物、どちらがどちら?


執筆者:そうな


 幼い頃に、感じたことは無いだろうか。
感覚的に感じ取ることしかできない、見えない物への《畏怖》。
ある晴れた日、一人、鳥居を見上げてみる。
空を背負ったその鳥居は、どこか不思議な雰囲気を醸し出しているように見える。
鳥居から覗いた向こう側は、今見ている景色と同じなのだろうか。
それとも、鳥居をくぐる事は、神様の領域へ招かれた事と同じなのだろうか……。


 先日、車を出してくれるというので、母と神仏具展へ取材に行ってきた。
14回目にお寺の座布団が椅子に変わっていた事について、何か良い情報はないかと思っての事だった。
例の長いすを探して3件ほど回ってみたが、残念ながらどの店にも無かった。
どうも、お寺用という事らしく、「カタログはあるが実物は無い」との事だった。
余談だが、どの店にも正座椅子だけは常備してあった。しかも、どれもコンパクトに携帯できるタイプの型だった。
こんなに普及しているものなのか、と改めて実感。


 そんなこんなで、「どこかにお寺用の長椅子のある場所は無いのか!?」とグデグデし始めた時、母は言った。

母:「あ、お寺に行きましょうよ」

……なるほど!
お寺用という事ならば、直に行けばいい。
私は、悶絶を止め、急遽お寺に行くことにした。
いやぁ、それにしても、親の知恵にはいつも助けられる。(それだけ、人生において行動に移すというキモが座っているというべきか)

それから、お寺、お寺と口ずさみながら車を走らせて行ったところ、神社に着いた。

母:「さぁ、神社に着いたわよ」

私:「わぁい、神社だー」

さて、私たちの目的はなんだっただろう。
思い出した、そうだ、お寺だ!
お寺用の椅子を探すこと、それが最初の目的であった。
つまり、私たちはお寺と間違えて神社に来てしまったのだ。
しかし、不思議と違和感が無い。

私:「まぁ、きっと神社にも椅子はあるよ」

そんなのんびりした事を言いながら、柄杓で手を清めたりしていた。
しかし、どうしてこんなに違和感がないものなのか。
推測するに、一つには、鳥居の存在があげられると思う。
それについては、最後の方で述べようかと思う。


写真1【神社の様子】


 参拝を済ませ、ふと顔を上げると、拝殿の中に椅子が見えた。
コンパクトな印象の、一人掛け用の椅子だった。
その光景に「これは!」と思い、私たちは、予定を大幅に変更し、直接お話しを伺ってみることにした。
受付の巫女さんに、少し話しを聞かせてもらえないかと聞いてみたところ、何人かを経由した後、神主さんに辿り着いた。
いきなり神主さんとお話しができると思っていなかった私は、多少気後れしていたかもしれない。
神主さんは、柔和で気さくな方だった。
「いきなり押しかけてしまったし、もしかしたら断られるかも……」と内心は心配だったが、今回は特別ということで、取材にありつけた。
流石、この運、神様のお導きというところか!?


 その後、神主さんは親切に答えてくれた。

私:「拝殿の椅子を見かけたのですが、以前はやはり座布団だったのでしょうか」

神主:「そうですね。座礼から椅子に変わりました。やはり合理化でしょうね」

なるほど、やはり合理化。
ちなみに、この神社では、8年ほど前から椅子を取り入れているらしい。

神主:「最近では、正座が苦手な方が多くなりました。高齢者の方でも、昔より正座に強い人が少なくなってきましたしね。畳のある家が少なくなっている、という事もあるのでしょう」

参拝者の事を考えた素早い取り入れ、そして、しきたりを押し付けない、時代と共に沿う柔軟な思考。これぞ、神職の心だと、私はいたく感激していた。
そして、さぞや神職に仕える神主さんは、正座が上手いのだろうな。私が10分ともたずに足が痺れるなんて事を知ったら、やはりガッカリされるのだろうか。
話しを聞きながらも、そんな事をボーッと考えていると、

神主:「神主の私でも、20分もしていたらイタいですからね」

そう言って笑っていた。
飾らない……その言葉に、ホッとした。


 神主さんは、初心者の私にも分かりやすいように、色々と話し、説明をしてくださった。
まず、昭和48年に、初めて正座の祭式の統一がされたという。
神主さんは、親切に紙とペンを持ってきて、図で説明してくださった。
色々とあるので、その図を元に、コンパクトに模写してみた。

図1【正座の祭礼の統一の図】


神主さんは、こんな言葉を教えてくれた。
《進左退右》《起右座左》
これだけ見ると、何かの暗号か入力コマンドかと思ってしまうが、断じてそうではない。
これこそが、祭礼で決められた礼法なのである。
ここでは、図中のAのように、正中から見て、神殿が進行方向の基準とされている。
歴史の話しによく出てくるように、神社の礼法でも、左右では右側の位が高いそうだ。
神殿に近い方が上位であるが、更に左右に分けると向かって右が位の高い位置になるという。
そして、神主さんが教えてくださった言葉の意味はこうだ。

神主さん:「進む時に出す足は、左足から。反対に退くのは右の足から。正座から立ち上がる時は、右足から。座る時は、左足から」

つまり、神殿の方へ進み出る時は、下位の足を出し、退く時は、上位から退く、と。
なんとも、謙虚な姿勢を取り込んだ礼法だと思う。
正座から立ち上がる時は、右膝を少し立て、下座である左足から歩き始められるようにする。
逆に正座をする時は、下座である左足から座る。
これらも、下座から行動するという決まり事に則った礼法である。
となると、当然「向いている方向や場所が異なったらどうなるの?」という疑問も出てくる。
それも図を見ながら納得して頂きたい。
例えば、Bさんから神殿を見ると、右側は図のようになる。
Cさんから見ても、同じく図のようになる。
多少角度が違えど、正中を挟んで逆に行けど、神殿から向かって右である方が右なのだ。
言わずもがな、今私が書いていることは、全て神主さんからの受け売りである。
何だか、聞いていると段々難しく感じられてきたが……。

神主:「最終的には、神に失礼のないようにする事が大切ということですね」

なるほど。
そう思って行動すれば、あまり難しい決まり事でもないような気がしてくる。
他にも、「拝殿の出口が右にあるのは、上座ということだからですか?」と聞いてみたが、

神主:「出口が右なのは、たまたまでしょう」

なるほど、それは決まり事ではなく偶然であったようだ。

神主:「昔は、今のように回廊もありませんでしたから。神社は元々、祠です。それが、どんどん大きくなっていっただけのものですので」

なるほど。どんどん建物を増築していって、その構造上、右に出口があるパターンが多くなった、そういう事のようだった。


 ちなみに、記事を書いている時に個人的に調べていたところ、こんな事も目にした。どうも、足袋も左足から履くのだとか。
神職とはどこまでも謙虚なようだ。
まぁ、日本本来の礼法というシステム自体が、謙虚に作られているという事もあるのかもしれないが。


 また、神主さんによると座り方にも、立礼(りゅうれい)と座礼があるという。
立礼は、立つ礼と書くように、立って祝詞などをすること。
現代では、椅子なども導入されたことにより、神主が座礼でも参拝者が立礼であったりと、必ずしも同じではなく、その座り方も取り入れている場所によって様々であるそうだ。


 たっぷりと時間をかけて話しをしてくださった後、神主さんはこう言ってくださった。

神主:「椅子の写真を撮りたいとおっしゃっていましたね。今から、《夕みけ》を行いますので、宜しければその前にどうぞ。そして、どうぞ《みけ》の方もご覧になっていってください」

写真を撮らせて頂ける、その上、《夕みけ》まで拝見させて頂けるとは……なんと……ありがたい事でしょうか。
《みけ》とは、1日に2回(朝・夕)行う神様へ供物を捧げる祭事で、これから神主さんが行うことは、神楽無しの祈祷を捧げる事なのだそうだ。


《夕みけ》を行うというので、本殿にて、早速写真を撮らせて頂いた。
これが、参拝している時に見えていた、拝殿の椅子だ。


写真2【拝殿の椅子】



写真3【このようにズラリと……】



正座もして頂きました!

写真4,5,6【正座の様子――膝に注目】



その後、《みけ》を行う神主さんのご好意で、是非にと拝見させて頂く事にした。
柔和な印象を受けた神主さんだが、装束に着替え、神具に囲まれ、しなやかに神様に祈祷を捧げるその姿には、神々しさがあった。
まだ、出会って何時間も経っていない神主さんだが、話しをしてくださる時の優しい姿と祈祷を捧げる時の凛とした姿の二つの顔を知ることができた気がする。

「やはり、神様に仕える仕事とは、こう、優しさに溢れていなくてはな」

などと思ってみるが、それもきっと、修行の成果なのだろう。
いや、元々がそういう性格をしていらっしゃるからなのだろうか。
分からない。
私も、こんな優しさが振りまけたらいいな、そう思う。
いっその事、修行をするべきか。
分からない。

まぁ、日々精進に越したことはないだろうが……。
《みけ》を堪能し、お礼の挨拶をした後、私は、今日ずっとひきたかったおみくじをひいてみた。
なんと、大吉であった。
こんな事があった日なのだ、運が良いのだろうから、そうでなくては。

それから私は、神社から駐車場へ向かう帰り道、ずっと子供のようにはしゃいでいた。
神主さんが優しかった。巫女さんも優しく、お肌が綺麗だった。色々勉強をさせてもらい、おみくじが大吉だった。それも良かった。
しかし、はしゃいでいる最大の理由は、

「蚊が多い!」

虫刺されは痒いので、なるべく回避したいものである。


 最後に、鳥居の話しをしておきたい。
神社とお寺、最初に私が混同してしまったのは、この二つにとても似通ったところがあるからであった。
調べてみると、平安時代から江戸時代(他説では奈良時代)にかけて、お寺も神社も、一つの境内に同居している事があったそうだ。
それにより、双方に鳥居があったり、仏塔が建っていたりし、私たちは混同してしまうという事が起きるのだとか。
これについては、また後ほど調べてみたい。

帰りもまた、鳥居の端を歩き、くぐった。
神社を出た後は、いつもよりも清々しい気分であった。
たまには、神社に顔を出してみるのも、魂が洗われる気がして良いかもしれない。
特に、記事作成時に、《写真》を《邪心》と何度もタイピングし間違えた私には、いい機会だ。
実にそんな気がしている。