[403]漬物屋いとさんと茄子の化身


タイトル:漬物屋いとさんと茄子の化身
掲載日:2026/03/12

著者:海道 遠

あらすじ:
 大正時代、大坂船場の老舗漬物屋(しにせつけものや)の娘、いとさん、香子(こうこ)は、ある晩、気になっているギシギシいう音の正体を確かめるため、漬物の樽がならぶ奥へ行ってみる。
 お店の番頭も気配に気づいてやってきて、樽が老朽化してタガが外れかかっているという。漬物石の重さに耐えられなくなったらしい。急遽、漬物石の代わりに少し軽めの香子が樽の上に正座することになる。



本文

当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。

第一章 ギシギシ音と紫の衣

 夜中になるとあの音で目が覚める。
 ギシギシときしむ音だ。古い馬車の車輪が鳴るような。
 最近、大坂、船場のいとさん(お嬢さん)の香子(こうこ)は決まって目が覚める。
(いったい何の音だろう? 金属音のような、古い木のギイギイした音も混じっているような)
(もう一週間も続いている。今夜こそは……)
 香子は羽織を羽織って薄暗い急な階段を、ランプを持って降り始めた。
 黒光りする手すりの上から、
「いとさん、こんな夜中にどこへおいでだすか」
 婆やの顔が下からのランプの灯りを受けて不気味に浮かび上がったので、香子は大声を出すところだった。
「見つかってしもたか。あの音や。ずっと続いてるギシギシいう音が気になって眠れへんから、様子を見に行くのや」
「あの音? わて(私)には何にも?」
 婆やは耳が遠い。
「とにかく確かめんと落ち着かへんさかい、見に行くわ」
「わてもお供します」
 婆やがついてきた。
 大正時代の大坂船場(せんば)、老舗漬物屋(しにせつけものや)である。
 一階の奥は漬物作りの作業場になっていて、飴色の裸電球がいくつもぶら下がってる下に、人間がひと抱えしなければ回らないほど大きな漬物樽がいくつも並んでいる。床は漆喰(しっくい)で少し湿っている。
 ギシギシの音が近づいてきた。
「ほら、あの音や」
「へえ? わてには何も聞こえまへんけど」
 ついに突き当りまで来た。ギシギシの音は間近で聞こえる。ふと横を見ると「いちばん樽」と呼ばれる、お店で一番大きな樽のところへ来ていた。

 ふと、香子の視界の隅を、紫色の紗(しゃ)の布がふわりと顔の横を通った気がした。
「そなた、何用じゃ」
 若い男の声がした。若いにしては言葉づかいが古い。
 ランプに浮かび上がった顔は、得も言われぬ美しいうりざね顔の男だ。濃い紫色の直衣(のうし)に、薄むらさきの紗の衣を頭からひっかけていて、紫色の髪は女のように肩に垂らしている。
「夜な夜な変な音がするさかい、様子を見に来たんだすけど、あんさんこそ何の用事だすか? ここはお店(おたな)の者しか入れへんとこだすえ」
「私もあの音が気になっておる。おそらく『いちばん樽』が老朽化してきたのだろう」
「『いちばん樽』のことをご存じだすか。あんさんはどなたはんだす?」
「『いちばん樽』の隣の『にばん樽』に棲む茄子の司(なすのつかさ)と申す」
 茄子の司とやらは、大きな袖で口元を押さえて微笑んだ。
「もしかして、茄子の漬物はんだすか?」
 だしぬけに背後の婆やが言ったので、茄子司もドキリとしたようだ。
「漬物の化身はん?」
「そうじゃ。『いちばん樽』には、いいなずけのたくあん姫が眠っておる」
「たくあん姫? ああ、お新香(しんこ)のことやね」
 半分、ねぼけまなこで聞いてるせいか、香子はこんな話を不思議にも思わなかった。
 そのうち、香子たちの気配に気づいた手代(てだい)たちもランプを持ってやってきた。香子の父親であるお店の旦那と番頭までやってきた。
 その頃には、茄子の司という世にも麗しい貴公子の姿はどこにもなかった。

第二章 漬物石の代わり

 大樽がたくさん並んでいるお店の奥は、旦那さん、番頭、手代ふたりと丁稚たちも十人ほど起きてきて、夜中に大騒ぎになった。
「やっぱり『いちばん樽』の寿命のせいだすな。江戸時代から百年以上も使うてますさかい」
 番頭が深いため息をついた。
「やっぱりやあらへんやろう、番頭。この音に気づいていたら、早う手を打たんといけまへんな。取返しのつかんことになってしもうてからでは遅いわいな」
 旦那はお冠だ。無理もない。
 手代が太い帳面とでかいそろばんを持ってきて、
「番頭はん、この石は十二貫(四十五キロ)あります。それより少しだけ軽いものに変えんとあきまへん」
「少しだけ軽いもの? ビミョーやな、それは」
 真っ青になって見守っている番頭が叫ぶ。
「何か石に変わるものはあらへんのか!」
 お店中の者が総出で探したが、他の石は全部、他の樽に使ってあるため、動かせない。乗せられるものと言えば樽の上に収まる大きさのものでしか無理だ。
「四十五貫に少し足らへんくらいのもの、何かあらへんか」
 ふと、番頭が香子を見た。
「いとさん、失礼な話だすけど、身体の重さはいかほどでっしゃろ」
 香子は言葉に詰まり、背後の婆やを振り返った。
「婆や。うちはどんなくらいの重さやろ」
「そうだすな、この間、海水浴の時に秤(はかり)がおましたやろ。あれで測らはったのと違いましたか。え、まさか、いとさん、樽の上に乗るつもりだすか」
「ちょうど四十五貫めに少し足らんくらいやったわ」
「おおっ、願ってもない重さや」
 番頭と手代がそろって土下座して頼みこんだ。
「いとさん、どうぞ漬物石の代わりに乗ってください」
「そないな、はしたないこと、婆やは悲しおす」
 婆やは手ぬぐいを顔に押し当てて泣いて反対する。
「樽のタガが外れそうになってんのやで、お店の一大事やないの」

 樽の中の漬物、真っ黄色のたくあんが黄色い顔を出し、
「お願いや、そこなおなご。早うせんと樽がはじける! 長年の糠が床にぶちまけられてしまう! うちらの寝床が無うなってしまう!」
 樽がギシギシ音を出し始めた。
「お願いや、おなご~~! 早うせんと」
「皆、早う樽を強力な縄で縛るのんや!」
 たくあんがヒゲのついた細い腕まで出してぶんぶん振り、
「お店の衆、樽の上にある石を早うどけるのんや!」
 縄で石を吊り上げてるヒマなぞないから、お店の者はあたふたと樽にはしごをかけ、五人がかりで石を押し始めた。石はゆさゆさ動き、落ちそうになる。
 手代が、
「危ないからどきなはれ!」
 叫んだとたん、四十五貫めの石がどど――ん! と床に落ちた。間髪を入れず、もうひとりの大きい手代に肩車された香子が石のあった蓋のところへ押し上げてもらい、椅子に腰かけるように座った。
「違う、違う。いとさん、ちゃんと正座するのだす」
「正座?」
「正座せんと、樽の蔵の神様に失礼になりますのや」
 隣の樽から白菜が糠にまみれたままの顔を出して言った。香子は言われた通りに、木製の蓋の上にあたふたと正座した。

 しばらくして――。
 樽がギシギシ言う音が無くなった。
「音が止みましたか?」
「これで樽がはじける恐れが無くなった?」
 皆は耳をすませた。樽は黙りこんだようだ。
「ようやった!」
 お店の旦那さんが叫び、次にみんなから歓声が上がった。
「これで『いちばん樽』も糠も中の漬物も無事や!」
 みんなしてさっそく店先で祝杯を上げている。しかし、香子だけは薄暗い店の奥で「いちばん樽」の上で正座したまんまだ。
「うちはいつまで、こんな寝間着姿のまま、ここに正座してな、あかんのや」
「さあ?」
 婆やがのんきに首をかしげた。

第三章 たくあん姫と茄子の司

 木蓋の上に長く正座していると、足がしびれてきた。というより痛みが来た。
「いたた……、もう限界やわ。足が痛うて」
 番頭が、座布団を手代に持って来させた。
「いとさん、これを敷いてください」
 ふわふわの来客用の座布団を敷くと、いとさんの足は見違えるほど楽になった。
「ああ、生き返った。足がどうなるかと思うた」
 しかし、また樽がギシギシきしみ始めた。
「あ、座布団の分、重さが増してしもうたんや」
 番頭は座布団の重さに気がついた。
「いとさん、申しわけおへんけど、座布団を外してください」
「ええ~~? やっぱり座布団敷いたらあかんのかいな」
 仕方なく座布団を抜くと、また痛みが戻ってきた。
「すんなりした、いとさんのおみ足が、樽の蓋に付いてるつまみの型がついてデコボコになってしまいますう」
 婆やがおろおろしている。

 そこへ、長身の影が壁に映った。
 紫の長い髪、薄むらさきの紗の被り物。茄子の司だ。うつつ離れした容姿に、香子はドキリとした。
 茄子の司は香子を見るなり顔をしかめ、
「娘。なんという座り方だ。正座になっていないではないか」
「え、これでも一生懸命、正座してますのやけど」
「それで正座のつもりか」
 たくあんが香子の乗っている樽の隙間から、真っ黄色な顔を覗かせて様子を窺っている。
「茄子の司さま。どうか、その娘に正座を指導してやってください」
「おお、たくあん姫」
 茄子の司の声色が急にあまくなった。
「可哀想にのう、樽がいつはじけるか分からぬでは怖い思いをしているだろう」
「怖おす。樽が割れて糠と共に床にぶちまけられたら、わらわは乾いてしぼんでしまいます。そしたら、茄子の司さまと添い遂げる夢もなくなってしまいますう」
「えっ」
 香子は思わず小さく叫んだ。
(たくあんと茄子の司さまが、添い遂げる? たくあん姫?)
「分かっておる。そなたと夫婦(めおと)になるためにも、この娘にしっかり正座を教える」
 茄子の司は香子の座る樽の前にすっくと立った。
「よいか、正座の神から習った正式な正座の作法じゃ。この蔵の神と正座の神は知り合いなのじゃ。失礼な正座をしていると双方の間にヒビが入ってしまうゆえ、娘よ、心して正座を稽古せよ」
「ま、待ってください。そんなにきれいな茄子の司さまと、黄色でシワシワのたくあんが夫婦になるだなんて!」
「黄色でシワシワで悪かったね。これでも糠を洗い落とすと美しい色になって、茄子の司さまとお似合いになるのや!」
 怒った声と共に、樽の隙間からたくあんの長いひげが伸びてうようよと動いた。
「さ、娘、こちらを向くのだ。その樽の上にこのように立ちなさい」
「は、はい」
「背筋をまっすぐにして。アゴを引いて」
「わ、高い、怖い!」
 久しぶりに立ち上がった香子はぐらぐらした。あっと思った時は樽の上から落ちて、ふわりと受け止められていた。
 茄子の司さまの腕の中に―――。
 茄子の司さまと目が合った。瞳の色まで紫だ。額の髪の生え際まで白い色から徐々に紫になっていて、夜明けの空のような美しさだ。

第四章 胡瓜(キュウリ)の少将

「さ、早く立って」
 素早く樽の上に戻された。
「よいか、背筋はまっすぐに立つ。次に膝をつき、お尻の下に着物を敷いて、かかとの上に静かに座る。両手はゆるく膝の上に。これですべてじゃ」
 香子は言われた通りやってみた。
「少し痛みが引くような気がします」
 今まで意識しなかった正座をしていたからかどうか、安定して足の痺れもマシだ。
「うむ。良いだろう。これでいつ、蔵の神がご覧になっても万全じゃ。蔵には、神の直属の手先の見張りがたくさん配備しておるからのう」
「神様の直属の手先?」
「うむ。漬物代表格の胡瓜や野沢菜などが、蔵の神の直属の部下じゃ」
「どなたか我をお呼びかな?」
 甲高い声が聞こえて、「さんばん樽」から現れたのは、胡瓜そのものの緑色の長い顔をした武士風の男だ。顔には緑のトゲトゲがいっぱいついていて緑の束帯(そくたい)を身につけている。姑息そうな細い眼で、正座の稽古をしていた香子と茄子司をじろりと睨みつけた。
「これは胡瓜の少将。噂をすればなんとやらでしたな」
「先ほどからの騒ぎ、気がつかずにおれようか」
「面目ありませぬな」
「元はと言えば、老朽化していた樽を取り換えなかった、お店の旦那の怠慢から来たもの」
「それはそうだ」
「そこの娘の正座など、いつまで効力があるか知れたものではない。いつ蔵の神が気づいて、蔵ごと倒れて自滅するかわかりませんぞ」
 トゲでチョリチョリした細いアゴを撫でた。
(いやな感じの男やわ。あんまり好きやないわ、この人)
 香子は思った。
「蔵ごと倒れて自滅するですって?」
「そうじゃ、娘。蔵の神は気が短く厳しいお方じゃ。蔵など世の中にいくつでもある。怠慢なものが営む蔵などさっさと壊してしまうのじゃ」
 扇を口にあて、胡瓜の少将はククク、と笑った。
「なんですって、蔵の神さまはそんなことをなさるの?」
「いちばん樽」の隙間から、たくあん姫が黄色い声を出した。
「そんなことになったら、茄子の司さまとわらわの祝言はどうなるのや!」
 泣きそうな声だ。
「だから、前から言っているだろう、たくあん姫。頼りない茄子の司など見限って某(それがし)の妻になればよかろうと」
「そ、それだけは嫌です!」
 たくあん姫は糠の中に隠れてしまった。
「胡瓜の少将、姫を怖がらせるのはよしていただきたい」
 茄子の司がむっとして言った。
「ククク。無事に姫と夫婦になれるかのう?」
 黄色い胡瓜の花をくわえて苦笑いしている胡瓜の少将に、香子はやはり嫌悪を感じた。
「そ、それより、うちはいつまでこんな樽の上に正座してな、あかんのや~~!」
 香子の悲鳴が飛んだ。
 夜中に寝間着の浴衣の上に羽織を肩にかけて、蔵に来てからずっとその恰好のまま、樽の上に正座することになってしまったのだ。
 しかも、ますます事情が複雑になりそうだ。

第五章 限界寸前

 翌朝、旦那がようやく樽の修理を樽屋に依頼する。
 樽屋がやってきて様子を見るが、もう寿命が来ていてダメだという。新品の樽に変えなければならない。
 しかし、新しい樽に変える時に糠が空気に触れてしまうため、慎重にせねば糠の性質が変わってしまう。旦那は二の足を踏む。
 かれこれ六時間も樽の上で正座している香子は、足の痛みに脂汗をかいていた。
「いったい、おとっつぁんは何をしてはるのや、早う新しい樽を買うてください!」
「いとさん。難しいことのようだす」
 ひと時も離れない婆やが言った。
「もう足が痛うてたまらへんわ。こうなったら蔵の神さんに、蔵を倒してもろた方が楽になるのと違うやろか」
「いとさん、めったなことを!」
「蔵の神さんて、どんな格好をしてはるの?」
 その時、小さな声が側で聞こえた。
「ワシが蔵の神だす」
 香子が、ふと声の方を振り向くと、
「きゃあああ―――――!」
「どうしはった、いとさん!」
 手代や番頭が集まってきた。
「この肩の上のを、はらってえええ!」
「肩の上?」
 丁稚のひとりがはしごをかけて、香子の肩のところまで登った。
「何にもあらしまへんけど?」
「よう見て! いるやろ。小さな……」
「え? 小さな? ああ、この小指の先ほどのクモでっか」
「きゃああああ―――! 早くはらい落として!」
 顔を押さえて震えている香子に、
「あれ? もうおりまへんで」
「え?」
 香子も羽織の肩を見たが、小さな黒いクモはいなくなっていた。
「まだ床にいるはずやわ! 誰かの身体についたのかもしれへん。ようよう見てみて!」
 しかし、クモは見つからなかった。代わりに旦那の大きな声が聞こえてきた。
「香子を呼んどくれ! 正座は中止や! 明日、急遽、見合いになった!」
「なんだすて? お父はん」
 香子は耳を疑った。しかし、やっと足の苦痛から解放される。

第六章 お見合い支度

 お店に眩しい朝陽が射してきた。
 やっと足の苦痛から解放されて、樽の上から降りたのも束の間、香子はいきなり「お見合いだ」と言われてパニックだ。
「おとっつぁん、お見合いって? うち、何にも聞いてまへんでぇ~~」
「船場の町長はんから釣書きを持ってきてくれはったのや。船場一の小間物屋の絢爛(けんらん)屋はんの息子はんからの願ってもないお話や」
「絢爛屋さんからの縁談?」
「香子、この縁談がうまくいったら、蔵がつぶれたところですぐに立て直せるほどの金持ちになれる。きばりなはれや」
 母親のごりょんさん(女将さん)は、ほくほく顔で、
「香子、こんないいお話はめったにあらしまへん。玉の輿とはこのことや。粗相してはいけまへんで。婆や、早う、出入りの呉服屋はんを呼んで! 香子の支度は頼みましたえ」
「へ、へえ」
 婆やも急なことに責任を感じて顔をこわばらせながら、女中に行きつけの呉服屋に使いを出すなどした。
 お店では手代と丁稚、女中が総動員して大掃除である。
 香子本人は、お見合いは何回もやって慣れているのでパニックから落ち着いてきたが、漬物樽がピンチなことが気にかかる。
(また、お転婆そうやからって断られるに決まってるのに)
(え? でもうまくいったら、二度と昨夜みたいな痛い目をせんでもええかもしれへん)
 香子の心に、
(今回はちょっと頑張ってみようかな?)
 という気持ちが湧いた。

 お店はピカピカになった。ネズミもすべって走れないほどに。
 出入りの呉服屋がやってきて、色とりどりの晴れ着が十畳の座敷の衣紋(えもん)掛けにかけられた。
「香子、この着物が一番、映えますえ」
「ごりょんさん、そのお着物にはこちらの帯はどうでっしゃろ」
 ごりょんさんと婆やがはしゃいでどんどん決めてしまった。香子は急いで着物を着替え、頭には「これでもか」の大きなリボンを着けられた。

 やがて、呉服問屋の若旦那と両親がやってくる。香子の両親は殿様に仕える侍のように平伏したまんまだ。
 絢爛屋の両親はさすが大・大店(おおだな)の主人夫妻だ。堂々として召し物も超一流だ。
 背後から廊下を眩しい白足袋で進んできた若旦那を見て、香子はあんぐり口を開けた。
 茄子の司に顔立ちがそっくりなのだ。
 紫色を全部抜いて、肌色にして人の姿にしたようなのだ。人間ばなれした美しさだけはそのままに。
 七・三に分けた黒黒とした髪の毛。着物の着こなし、真摯で優しそうな光を湛えた瞳。
(なんという気品。なんという穏やかさ。麗しさ。こんな人が船場にいたなんて)
 香子は何も言えずに昨夜、さんざん繰り返した正座の手順だけは忘れずに、硬くなって頭を下げていた。

第七章 絢爛屋の若旦那

 今日はお仲人のいない超略式のお見合いなので、ひととおり紹介が済んで、茶室で香子がお茶を点てることになった。
 庭の茶室のにじりぐちからひとりずつ茶室に入り、香子は湯を沸かして待っていた。
 危なっかしい袱紗(ふくさ)さばきでお茶を点てて、まずは若旦那の方へお茶碗を置く。若旦那は膝を進めてお茶碗を手にした。
 その時、若旦那の白い首筋に黒い小さなものが動くのに気づいた。
「ひっ」
 香子は驚き、息を飲むと耳元で声がした。
【ワシは蔵の神のクモじゃ。この男の返事はワシの胸先三寸(むなさきさんずん)で決まる】
(やっぱり、あのクモ!)
【二度と樽の上で正座したくなければ、この男と夫婦になれ】
(それは、クモの女房になれってこと? まっぴらやわ、そんなん)
【いいのか? そんなことを言って】
(ええのや! うちには茄子の司さまがついていてくれはるさかい。蔵の神のクモなんか怖くありまへん)

 ふっと、若旦那の感じが変わった気がした。
「そうだ。それでいい」
 若旦那が他の人には聞こえないように、小声でささやく。
「今、私の中には蔵の神のクモと、我(われ)、茄子司が同居している」
「ふたつに憑りつかれてはるんだすか!」
「うむ。どうも蔵の神の力が大きくて、追い出すことができぬが」
「まあ」
「そのまま、蔵の神の言う通り、縁談にうなずくがいい。そのうち頃合いを見て、我が蔵の神を追い出すゆえ」
「縁談を……お受けしてよろしいんだすか」
 香子はごくんとツバを飲みこんだ。
「縁談を受ければ、この極上男子の若旦那と茄子の司さま両方と結婚できるということだすか!」
(そんな夢のようなことが……)
 次のお点前のお茶をシャカシャカと点てながら、香子は頭がくらくらした。
 順番にお薄をいただいて、その場は何ごともなく済んだ。

 一同は庭に出て、散策を楽しんだ。
 旦那は、庭造りにも凝っていて、寺の庭のようにいろんな樹が植わっており小さな山河である。
 池や、それにかかる石橋もあり、先に行く若旦那が背後の香子に手を差し出したりした。その大きな手のひらにすっと自分の手のひらを滑りこませながら、香子は頬が赤くなるのを感じる。
(こういう風に明るい場所で茄子の司さまと会いたかったんやわ)
(今、若旦那を支配しているのは、茄子の司とクモと、どっちやろう)
 庭の一角に山吹の花がこんもり咲いていて、香子はその色からたくあん姫を思い出した。
(うちが茄子の司さまと夫婦になってしもたら、たくあん姫はどうなるのや?)
(まだ人形(ひとがた)になったとこは見たことないけど、さぞ嘆き悲しんで怒らはるやろうなあ)

第八章 お結納の日

 とにかくギシギシいい続けている樽たちのために、一刻も早く香子と若旦那の祝言をあげなければいけないということで、お結納は三日後に行われた。
 お店は先日よりも、もっと念入りにピカピカに拭き掃除され、大掃除なみに障子の張替えやふすま紙の貼り替え、畳の新調までされた。
 香子が改めて座敷でお店の者全員に正式な正座の所作を教えた。
「背筋はまっすぐ。着物はお尻の下に敷いて、かかとの上に座る。そうだす。くれぐれも立派な正座をせな、うちの縁談もどうなるかわからへんし、蔵の神さんは正座の神さんの知り合いやそうや。どうか皆、頑張ってや」
「へい!」
「へい!」
 手代も丁稚も女中も心して稽古した。

 お仲人の船場の町長夫妻が到着した。
 次いで、絢爛屋の夫婦と若旦那が到着する。
 町長夫妻は、すでにお座敷で待っている香子と両親には、ほとんど口を聞かずに、お付きの者が朱い毛氈の敷かれた床の間に結納のお道具を並べていく。
 あまり口をきかないのは、お結納の儀式が無事に済むまで、しゃべらない方がいいという言い伝えである。

 高砂の人形、鶴亀、松竹梅の飾り、いずれも素晴らしい品だ。尾かしら付きの立派な鯛までや、名酒の一升瓶まで。
 香子の両親が惚れ惚れと眺めている間に、若旦那が香子に近づいた。
(今、表面に出ているのは、茄子の司さまかクモかどっちやろ?)
 香子は心配しながら、
「本日はありがとうさんだす」
「いやにおしとやかだね」
 若旦那がクスリと笑った。これは茄子の司さまだ。
「今、蔵の神のクモはおとなしくしているよ。無事にお結納が済むといいね」
「あのう、茄子の司さま。うち、たくあん姫のことが気になってしもうて」
「たくあん姫? 彼女はあれで優しいから分かってくれる」
「でも……」
 お結納は進行し、両家が向かい合って座り、挨拶の言葉を取り交わした。
 即席お仲人が、
「お結納、これにて滞りなく取り交わされました。おめでとうさんだす」
 一同、改まって正座して頭を下げた。
 女中が手に手にお祝いの膳を運んできた。尾かしらつきの鯛が乗った高級なお膳だ。
 その中の端っこにいた黄色いたくあんが、香子に何か言った。
「娘、気をつけるんだよ」
「あ、あなたはたくあん姫!」
 たくあん姫はきれいに切られて膳の端っこの皿にちょこんといるではないか。
「え? 何に気をつけるの?」
 香子がもう一度、聞き直そうとした時、お仲人の使いの者が、絢爛屋の若旦那の耳元にささやきに来た。緑色っぽい長いアゴをして、細い目は人相が悪い。
 香子は「あっ」と思った。
(胡瓜の少将やわ、あの人。確か蔵の神の手下だとかいう)
 その直後、若旦那の襟元から黒い小さなクモがサササッとはい出てきた。そして、言い放った。
「ご一同、これで本日から、この店の主(あるじ)は私だす。お店の方針はすべて私が取り決めます」
「なんだすて?」
 香子の父親が目を飛び出させて叫ぶ。
 香子が気づいた。目が若旦那の澄んだ瞳ではない!

第九章 正座の神のお告げ

 とっさに香子は、お結納の道具から松竹梅をつかみ、庭へ投げつけた。
「香子、何をするのや!」
 両親と婆やが止めようとしたが、香子は縁側にすっくと立ち、
「皆さま、よくお聞きください。若旦那さまは良くない蔵の神に憑りつかれておいでだす。このお店を絢爛のお店の自由にさせるつもりで、この縁談を仕組んだんだす」
「なに……!」
「うちが若旦那と夫婦になれば、蔵の神の思うツボだす。ここはひとつ、蔵の神と親しいという正座の神さまにお告げをいただくようお願いしようと思います」
 香子はお結納の道具を残らず庭に放り出し、
「絢爛屋の旦那さま、ごりょんさん、そしてお店の皆様にもご協力いただき、正式な正座をしてお願いしようではありませんか。そら、奥ではたくさんの樽が悲鳴をあげてます」
 蔵から、ギシギシギイギイと蔵がきしむ音が聞こえてくる。「助けてくれ~~」と言ってるようだ。片っぱしから樽がはじけるのは時間の問題だろう。
「皆さま、さあ、真っ直ぐにお立ちください。背筋を伸ばして。アゴを引いて膝をつき、着物はお尻の下にしっかり敷いて、かかとの上に静かに座る」
 一同、あたふたと香子の号令通りに正座した。
「頭を下げて一心不乱に正座の神様にお祈りしまひょ。このお店が良くない蔵の神の思い通りになりまへんように」
 合唱して頭を下げた。

 しばらくして―――。
「お告げが下った!」
「皆の者、そろうて樽の上に座り樽たちを助けよ、と」
 皆、我先にと奥の蔵へ走り出した。ギシギシ鳴っている樽の上へよじ登り、正座をする。
 旦那さんやごりょんさん、婆やもそろって樽の上に正座した。
 皆、「足のしびれが耐えられまへ~ん」と弱音を吐いたが、交代で樽の上に乗り正座を続けた。何時間も、何時間も――。
「正座の神様、この樽の中の漬物たちをお助けくださいませ」
「正座の神様、どうか、どうか」

 やがて夕暮れ―――。
 香子のひたいに、薄むらさきの紗の薄物がふわりとかかった。目を開けると茄子の司が清々しい表情で立っていた。
「いとさん。私の中からクモが出ていきました。皆の正座での祈りに根をあげたようだ」
「いちばん樽」の上で正座をしていた香子は、ほっとして若旦那から差し出された手に手を重ねた。
「ありがとうございます。これで、うちの店が新しい樽を買って漬物を入れ替えたら、たくあん姫ともご祝言があげられますね!」
「さすがは老舗漬物屋のいとさんだ。よくやってくれた。たくあん姫も喜ぶことだろう」
 茄子の司がしっかりお礼を言った。
 魂ごととろけそうな美しさだ。
(くくう~~。やっぱり、たくあん姫にゆずるのは勿体ない人だったかな?)
 香子が複雑な表情でいると、婆やがお見通しのように、クスリと笑った。


おすすめ